top of page

15/5/21

自分の人生を生き切るために

Image by Olia Gozha

私は人口より牛の方が多い北海道の片田舎で

5人兄弟の長男として育ちました。



大工の父と歌の上手い母に育てられ、

お金持ちではありませんでしたが、

何不自由することなく育ちました。





小中学生のころは、

よく歌番組のオーディションやタレント事務所に応募して

アイドルになるのが夢でした^^


数回、TVにも出た事があるんですよ。




しかし、17歳の時に両親が離婚し、生活が一変しました。


離婚後、母は5人の子供を引き取り女手ひとつで

私たちを育ててくれました。


その後、父には一度も合っていません。

生死も不明です。



女手ひとつで5人の子供を育てる事は

容易ではなかったはずです。



母は昼も夜も休みなく働きましたが、生活は大変でした。



私は何度も学費を忘れたと嘘を言って

待ってもらったこともあります。


「お金がない」と言えなかったのです。




私は、そんな苦労した母親の姿を見ていたにもかかわらず貧乏暮しはとても嫌でした。


そんな田舎に住んでいる事も、とても嫌でした。




高校卒業後、私はアルバイトでためた

お金を握りしめ友達を頼り上京しました。




私は、その頃プロのミュージシャンになるのが夢で

横浜でバンド活動を開始しました。




当然、バンドだけでは食べていけませんので

トラックの運転手をやっていました。




丁度、日本が”バブル”に突入した時期で

「給料が前月の倍になる」という今では考えられない体験もしました。




23歳だった私の給料は、手取りで40万円以上。


さらに年に3回のボーナス。



それまで貧乏暮しだった20代前半の若者の金銭感覚は、どんどん狂い始めました。



車を買い、家賃15万円のマンションに住み、

週末のクラブ(お姉さんのいるお店)通い。




10万円程度の買い物は即決でした。




今思えばそんな経験は、しない方が良かったと思っています。


すっかり贅沢が身についてしまったのです。




そんな時、あっけなくバブルが弾けました。


30歳でした。




40万円だった給料が、ある月突然、半額になりました。


家賃が15万円ですから、水道光熱費を払えば、


手元にはほとんど残りません。



貯金もほとんどありませんので引越す事もできないという状況。





私は、食べるために家にあった色々なものを売りました。


100万円以上もかけて揃えた音楽活動に必要な楽器も全部売りました。






そんな時でした、健康食品のネットワークビジネスに誘われたのです。



絶対、怪しいと思いながらも

参加したイベントですっかりハマってしまいました。



こんな世界があるのかとあまりのカルチャーショックに

その後1週間、一睡もできなかったのを覚えています。




すっかりネットワークビジネスにハマった私は、

トラックの運転手を辞めディストリビューターとしての活動に精を出しました。




まずは知り合いや友達、親せきに声をかけまくりました。


そんな事をしているうちにどんどん電話に出てくれる友人も減り

いつしか「あいつはヤバイ宗教にハマった!」と

避けられるようになりました。




その内、家賃も払えなくなった私は、全ての家財道具を売り払い

友人の家で居候を始めました。




ネットワークビジネスでは、大した収入を得る事が出来なかったので

どこかで働かなくてはならなくなりました。



コンビニでアルバイト雑誌を買ってきては、

片っ端から電話をかけまくりました。


しかしなかなか働き口は見つかりません。


その頃、30歳を過ぎた男を雇ってくれるところがなかったのです。





やっと雇ってくれたのが、

横浜の関内にあるパブスナックでした。



水商売なんてやった事はありませんでしたが、

背に腹はかえられません。




そのスナックの客層は、韓国バーのホステスや

オカマバーやおなべバーの店員、ホストクラブの店員などと

玄人が集まるお店でそりゃもうひと癖もふた癖もある連中ばかり。



水商売も初めてで、元々人見知りだった私は、お客さんと話す事がすごく苦手でした。


「この人つまんな~い」


「お前頭悪いのか?」


「誰かと変われ!」


と、お客に毎晩ののしられ、

閉店後、酔ったママから毎日2時間の説教。


生活のためとは言え、話が苦手な私がスナックなんかで働くのは所詮無理だったのです。



その内、毎日店に行くのが苦痛で苦痛で、

精神的にも参ってしまい2ヶ月で退店しました。



すっかり精神的に追い込まれた私は、

都会で生きていくことをあきらめて

付きあっていた彼女とも別れ田舎に帰る事にしました。



32歳の春でした。




久々の田舎は、時間が止まっているような

のんびりさで一時期は心もリフレッシュされましたが、

そんな悠長な事は言ってられません。


返さなければならないお金があったからです。




その後、とにかく色々な仕事をしました。


農協でのじゃがいも掘りや大根洗い

農家での牧草刈りの手伝い

スナックでの皿洗い

飛び込みの営業・・・






そんな時に大きな転機が訪れました。


友人の家に遊びに行った時の事です。


彼はパソコンを使ってホームページを作っていました。




今思えばなんてことない、誰がこれ見るの?というレベルのものでしたが、

当時の私は、すっかり魅了されてしまいました。




このパソコンが日本中、世界中とつながっている。

自分の作ったものが、たくさんの人に見られるかもしれない。





それからすぐに私は、仕事先からお金を借りてパソコンを購入しました。


自宅にISDN回線を引き、毎日、寝る間も惜しんでホームページを作りました。

※当時は、ADSLも光回線、モバイル回線などありません。





もちろん作り方なんて、全くわかりませんから友人に教えてもらったり、

本を買ってきて見よう見まねでホームページを作りました。



初めのころは、パソコンの電源の切り方さえわからず

毎回、電源を抜いていました。


嘘のような本当の話です(笑)




すっかりホームページ作成にハマった私は、

「いつかこれが仕事になればいいな」と

夢を見るようになりました。




しかし、世間ではまだホームページを持っている企業もほとんどなく

ネット通販さえまだ行われていませんでした。




友人は「こんな事が仕事になるんてあり得ない。」と

私の事を笑いましたが、2年後、現実になりました。





ある日、私が作っていたホームページを見て

東京のアニメグッズを販売する会社からメールが来ました。



ホームページ作成と保守管理の依頼です。


初めての仕事依頼に身震いしました。



その後も少しずつ、

ホームページ作成の依頼が来るようになりました。



個人のホームページ、鮮魚店、スイーツ販売、パソコンショップ、ホテル・・・



そんな時、地元のインターネットプロバイダーから声がかかり

ホームページ作成スタッフとして働く事になりました。


36歳の時です。




私はホームページに魅了された時から

15年間で約300件のホームページ作成に関わってきました。




個人から地元企業、行政、環境省関連のホームページなど

様々な案件に携わる事ができました。



2006年には、ホームページのバリアフリー(アクセシビリティ)を

競う大会でも入賞する事が出来ました。




私の作ったホームページで売り上げが上がった!

問い合わせが増えた!


などと喜んでもらう事が、本当に嬉しくて、毎日充実した日々を送っていました。





しかし、世の中の流れとともに会社の方針も少しずつ変化していきました。




その頃から少しずつ、私は、会社に対し違和感を感じるようになってきました。



もうそろそろ潮時かな?




そう感じた途端、私を独立へと駆り立てる様々な事が起きました。

この辺は、メルマガの中でもお話していこうと思います。



2015年1月いっぱいで、長くお世話になった会社を退職し、

新しい世界へと一歩、歩みだしました。



自分のこれからの人生は全て自分で決めます。

自分が正しいと思う事だけをやりたいようにやります。



私の夢は、

「俺は自分の人生を生き切った」と言ってあの世に逝く事です。


その時まで納得いく日々を送っていきます。


★さとけん公式メルマガ

http://satoken1967.info/lp/richmelma/


←前の物語
つづきの物語→

PODCAST

​あなたも物語を
話してみませんか?

Image by Jukka Aalho

フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」

情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般...

大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。

今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ...

受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1

僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で...

あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。

「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と...

あのとき、伝えられなかったけど。

受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分...

ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話

爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと...

bottom of page