
”私とは何か”という問いに答えるのは、とても難しい事だけれど、私を構成している要素は何か、と聞かれれば、それはもう少し簡単だと思う。
大切なもの、ゲーム。
私を構成しているものはいくつかあるけれど、その中で最も重要なモノの1つに、”ゲーム”がある。
私は小さい頃からゲームが大好きだった。
思えば、人生は全てゲームを中心に回ってきたと思う。
ゲームが僕に教えてくれた事。
ここから語るのは、僕とゲームとの関わり方だ。
ゲームに興味がある人は読んでくれると嬉しいけれど、要約はこちらに書きました。
ゲームとの出会い
幼稚園に入学する前は、父親が買ってきてくれたスーパーマリオワールドをひたすらプレイしていて、1-1, 1-2の最初で必ず死んでいたので、同じステージをひたすら繰り返しプレイしては泣いていた。
俺「こんなのクリア出来ないよ!!(;;)」
幼稚園に入学した頃から、マリオカートをある程度きちんとプレイできるようになって、兄弟とひたすらプレイしていた気がする。
誕生日プレゼント・クリスマスプレゼントは、いつもゲームだった。
特に印象に残っているのは、父親がインドネシアかどこかに行っていてサンタがいなかったはずなのに、母親がこっそり『マリオとワリオ』を買ってきてプレゼントしてくれた事だった。
母親「サンタさんが買ってきてくれたのよ!だってお父さんはインドネシアでしょ??」
私「サンタはいたんだ!!!」
マリオとワリオは非常に難易度の高いゲームで、結局全クリア出来なかったけれど、とても思い出に残っているゲームの1つだ。
インドネシアに4年間住んでいる間も、日本で必ずゲームを買って帰り、おばあちゃんが度々ゲームを送ってくれて熱中して楽しんだ。
当時日本で最も流行っていたポケモンが届いた時は本当に嬉しくて、通学バスの中で友達とずっと一緒にプレイしていた。
兄弟とゲーム
ほとんどのゲームは、兄弟と一緒にプレイするのが主だった。
兄が攻略本を見ながら僕に指示をして、僕は戦闘が大好きだったのでひたすら敵と戦闘して、面倒くさくなったら弟に任せる。
溝部 浩志郎「攻略本の43ページに拠ると、この先に宝箱があるからそっちに行った方が良い。あとさっき村の人と話した通り、次の道はこっち.....」
私「戦闘楽しい!!レベル上げ!!!」
私「.........」
私「洋平、あとよろしく」
溝部 洋平「ほいほい。。」
兄弟の絆はゲームを中心に結び付けられていて、今でも兄弟とたくさんの世界を救った思い出は忘れない。兄弟が集まったときはよく聖剣伝説2, 3の話をする。
この動画(当時はFLASH)は非常に共感出来る。
夏休みの宿題をフロッピーディスクで
小学5年生になって、インターネットが家で使えるようになってからは、ひたすらインターネット上からダウンロード出来るゲームで遊んだ。
色々DLして、友達を呼んで、一緒に遊ぶのが日頃の過ごし方だった。
友達と遊ぶのも、外で遊ぶかゲームで遊ぶのの2択だった。
小学6年生の頃は、ゲームが好きすぎて自分で作りたくなっていたので、夏休みの自由研究にVBでシューティングゲームを作った。
私「お父さん、ゲームってどうやって作るの?」
父親「VBというソフトがある!ちょっと待ってなさい。」
父親「.......」
父親「これだ! ところで、これ、作ったら夏休みの宿題として出したらどうだ?」
私「ゲーム作りが宿題になる訳ないじゃんw」
父親「いいから、出してみなさい。絶っ対大丈夫だから。」
私「本当にぃ・・?」
父親と、こんなやり取りをしてゲーム作りを始めた気がする。
先生に提出するとき、夏休みの宿題をフロッピーディスクで提出したので、先生がとても驚いていたのをよく覚えている。
今思えばほとんどコピペだったと思うが、県の優秀賞を頂いて、『将来のビル・ゲイツ』と母親と先生が話していたのを覚えている。(もちろんビル・ゲイツなんて、遠い遠い遠い存在だけれども。)
また、この頃は兄と一緒にTRPG(テーブルトークRPG)を口頭で楽しんだり、学童保育のボスになって、ノート上に書いたゲームを子どもたちと一緒に楽しんだりしていた。
ノートを最大活用してゲームを生み出すのは本当に面白かった。他の下の学年の子が面白がってくれるのも、本当に良かったと思う。
オンラインゲームとの出会い
中学生になってからは、ラグナロクオンラインと言うゲームに死ぬほど嵌った。第一次ネトゲ廃人だったと思う。
朝5時まで親に隠れてプレイし、学校から帰ってきたらプレイして、露天をセットして塾に行き、塾から帰ってきたらまた朝5時までプレイすると言う生活をしていた。
学校では授業中、スキルツリーとスキルポイントの配分を考え、その日の予定を計画するという徹底ぶりだった。
私「ウィザードになったらスキルポイントはユピテルサンダーに10振って.....」
高校生になり、課金が始まってからはお金がなくなったので、エミュレータサーバーの構築を始め、あるときはcygwinでサーバーを公開したりしていた。
(ちなみに、当時新しかった自作マップ等も作り、ユーザーが増えたりもしていたのだが、自分が確実に面白いと思う設定にしたらユーザーが離れていくなど、苦い思いも経験した。)
大学生になってからは、友だちの影響で弾幕シューティングゲームとドラムマニアを始めた。
ひたすら数万円をつぎ込み、ゲームセンターに通って、ゲームを楽しめる段階までプレイをし続けた。
それから。
この辺りから、東京に来ることで、恋愛や飲み会の楽しさを覚え、少しずつゲーム以外の事を楽しむようになったと思う。
それでも、やっぱり兄弟と会った時、まず話すのはゲームの事で、兄弟とはゲームの話を未だに良くする。
そんな私が任天堂を志し、ゲーム作りに携わりたいと思うようになったのは自然なことだったと思う。