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15/5/19

愛されない

Image by Olia Gozha

私は愛されない。誰にも愛される人間ではない。


40年もの間ずっとそう思っていた。

幼い頃から、もしかすると物心つく前から。

人として誕生する前から。



それはあまりにも哀しいことだったから、私はすっかりそのことを忘れていたけれど。

思い出さないようにしていたけれど。

それでもその目に映る全てのものの中に、

「私は愛されない」ということを証明する言動を無意識に探していた。

そして見つけては、「ほら、やっぱり」と心で肩を落としていた。



でもそれは私の思い込みだった。

勝手に私がそう思っていただけ。

私が「私は愛されない」ということを信じているから、

私の目に映る世界が私を愛さなかっただけ。



愛されないという思いがあるから愛されたいと強く願った。

願ったけれど叶えられることとは思えなかった。



愛されなくてもいい。


その言葉を初めは言えなかった。

でも少しずつ涙ながらに何度も口にし続けるうちに、

私がこれまでもずっと愛されていたことに気付くことができた。


私は愛されている。



何十年間も信じ続けてきた「愛されない」という思いが消えてなくなったわけじゃない。

「愛されない」という思いは時々顔を出す。



そんな時は目の前の人を信じることにした。

私がどう思おうとこの人は私を愛してくれている。

自分から、世界を信じてみることにした。



すると、愛はすぐそばにあった。

ここにあった。

目に入ってなかっただけだった。

幼い頃から、物心つく前から、私は愛されていた。



今、私は愛したい。

私の愛する人たちを、私の愛する命あるものを、私は愛したい。






◆ 私の記憶



1968年9月25日。

八戸市の病院に入院中の母の胎内に私はいた。

温かく安心できるところから、決死の覚悟で出てきた。


暗い、狭い、息ができない。

あの光の方に出れば、受けとめてくれる、抱きしめてくれる。

あの光の方に行きたい!


午前11時15分。

息も絶え絶え出てきた私は、一気に肺に入る空気に一瞬ウグッとなりながらも、

次の瞬間声を上げて泣いた。あの温かさを求めて泣いた。

あの温かさに早く包まれたい・・・

私を愛してくれるはずの、あの温もりに・・・


しかしそれは叶えられなかった。

予定日より38日早く出てきた私は2000gに満たない大きさ。

求めていた温もりを得られぬまま、保育器へ移された。


温かな胸はない。愛しむ瞳はない。

抱きしめてくれる手はない。。。



  ほらね、愛されてない---。



産まれ出て1ヶ月ほど経った頃、私はやっと母の腕に抱かれて退院した。

もうこれで安心。ずっとこの温もりの中にいられる。。

そう思ったのもつかの間、私は常磐(ときわ)さんというお宅に3年間預けられた。

親戚というわけでもない。両親の友人というわけでもない。

ただ常磐さんのご好意で私を預かってくれることになったと、後で聞いた。

両親共働きだったからだと。


常磐のおばあちゃんは、私を一番かわいがってくれた。

私も一番おばあちゃんに懐いた。

両親は毎週顔を出してくれていたが、私を引き取らずに帰っていく。

そんな日は常磐のおばあちゃんがずっと抱いてくれた。


心にぽっかり穴が空く。


  ほらね、やっぱり愛されてない---。




私は3歳になった。

その日はよく晴れて空は青く、ひつじのような雲があちこちに浮かんでいる。

頬に柔らかく風が触れていく。


私は"常磐のお兄ちゃん”と家から少し離れたところにある鉄棒で遊んでいた。

一番低い鉄棒に両手を伸ばしてやっと手が届く。


"常磐のお兄ちゃん”は私に鉄棒を教えてくれていた。

フンッと地面を蹴って腕に力を入れると、身体は空中に上がりお腹を支点に

鉄棒に上がることが出来た。クルッと前に上半身を倒して前回りが出来た。

青空が一回転した。白い雲も一回転した。


うわっ!

嬉しかった。

身体が風を切るのが気持ちよかった。


その様子を微笑んで見ていた"常磐のお兄ちゃん”は、

「よし、逆上がりも教えてやるか」

と言った。


「足を上に振り上げる感じで、前に投げ出してみろ」

見よう見まねで足を振り上げるも、全然身体は鉄棒に上がらない。

何度目か振り上げた時、"常磐のお兄ちゃん”は私の足を持ち、上にぐいーっと上げた。


うっ・・・こわいっ・・・!!


鉄棒を必死に掴み続けている間に、身体はクルッと逆回転して元の位置に戻った。

「ほら、出来ただろう」

「もう一回やってみるか」


もう一回、やってみようと鉄棒に手をかけ、鉄棒の上に身体を預けた時だった。


「けいちゃーん。お父さんとお母さんが向かえに来たよー。

 早く来ないと置いていくってよー」



やだっ・・・・  いやだーーー!!

「降りる!おりるー!」



早く行きたいのに、私は鉄棒の上。宙に浮いたまま。

どうやって降りたらいいのかも分からなくなって、気ばかりが焦る。

半べそをかいた私を、"常磐のお兄ちゃん”は下ろしてくれた。

「ありがとう」も言わずに、泣きじゃくりながら走り両親のところへ向かった。



早く行かないと置いて行かれる。

  だって、愛されてないだもん---





◆ 父の記憶(結婚前)



昭和3年。父は4人兄妹の第一子として生まれた。下3人は全員女の子。

一家の跡継ぎとしての誕生だった。


父の家は武士の出で、代々賢い人が出ていた家系らしい。

祖父は長男ではないし、残念ながらその賢さも受け継いでいなかった。

いや、受け継いでいたのかもしれないけれど、その人生でそれは活かされることはなかった。

いつからか働かずに酒とタバコに明け暮れる日々を送っていた。

祖母はそんな祖父と父とその妹達を支え、働きに働いていた。


父は勉強もあまり得意ではなく、身体も丈夫ではなかった。

そのために徴兵を免れたほどだった。

祖父は父に対して「一家の恥」のような扱いをした。

祖父は父が成績が良くなかったり病気になるたびに、父を罵った。大きな声で。


祖父にしてみれば、自分の不甲斐なさを息子の中に見て、それで父に厳しかったのかもしれない。

でもこの行為は、生来明るい資質を持っていたはずの父を、どんどん無口にしていった。


口の達者な妹達にも、父は強く出ることをしなかった。

父はどんどん自信を失っていった。

自分を価値の無いものと思うようになっていった。



成長した父は国鉄で列車に石炭をくべる仕事に就いた。

真面目な父は一生懸命働いた。

真面目すぎたのか、ストレスが大きかったのか、父は肺結核に罹ってしまう。

療養のため、自宅の八戸市を一人離れ、宮城県船岡市の国鉄の療養所に入った。


同時期に、祖母も病気を患い入院する。

過労だろうか。

父の一番上の妹は小学校の教員となっていた。

その妹が一家の生活を支える形となった。


本来、自分が担うべき役割を一番上の妹にしてもらっている。

そのことは、ますます父の妹達に意見する気持ちを失わせていった。

父は祖母の見舞いにも行けない自分を不甲斐なく思い、自分の存在価値すら見失っていった。





◆ 母の記憶(結婚前)



昭和3年。12兄妹の末っ子として母は誕生した。

上の兄たちは戦争に出兵。みんな命を落とした。


家で飼っていた猫がある日ふといなくなった。

数日後、家から離れた場所で亡くなっていたのを見つける。

『猫は自分の死期を察し、自分の死を見られないよう離れていく』

そんなことを聞き、悲しみにくれた母は、その後動物を飼うことを嫌うようになった。


母は絵が好きだった。描くのも好きだが観るのも好きだった。

展覧会をやっていると聞けば、電車に乗ってでも観に行きたいと願った。

しかし女なのだからと母は父親に許しをもらえず諦めるしかなかった。

末っ子の母を愛おしいと思えばこそ、一人で出かけるなど認められなかったのかもしれない。


好きなものを観、好きなことを学べる人が羨ましかった。

自分にお金があれば、それらが叶うのに。

母はそう思っていた。



母は姉妹の中で勉強ができたほうだった。

ある日、教育勅語をスラスラと口にしたのが町の有力者の目に留まり、

母は請われて養子に出ることになった。

教員になるための師範学校へ入学するためだ。


当時、師範学校は紹介がなければ入学は難しかったという。

教育勅語を暗証できるほどの女学生を何とか教師にするため、

名士の養子にして受験させようということだった。

かくして母は弘前にある師範学校に入学する。親元を離れ入寮した。



師範学校で学んでいる最中、戦争勃発。

母は空襲の中、逃げ惑うという経験をした。

そして終戦。

師範学校で教えられる内容は一変する。


信じて疑わなかった教えに墨を塗らされたり、間違った教えだと言われ、

中には精神的に崩れてしまう人もいたという。


そんな中母は、養子にし何くれとなく面倒を見てくれた恩ある人々のため勉強に励んだ。

他の道など考えることもなく頑張り続けた。

晴れて母は教師となり八戸に戻った。



初めの1年間中学校で教えた母は、自ら志願して2年目からは小学校の教師となった。

教師として頑張り続ける中、母は病気で入院する。

病室は2人部屋。自分の母親と同じくらいの年の人だった。

少し会話をしたりすることもあった。


後に母は、この人物が父の母親だったことを知ることになる。





◆ 父と母の記憶(結婚、子の誕生)



父は肺結核を完治して八戸に戻った。

国鉄の休職期間を過ぎていたため国鉄を退職し、一般の会社に勤めた。

母も退院し、再び教師として働いていた。


父は病気のため、母は仕事ため、お互い結婚適齢期という年齢を越えていた。

母には別のお見合いの話もあったそうだが、なぜか父と会うことを選んだのだという。

2人はお見合いをした。


父は自分に自信がないので、用意された話をただただ受ける気持ちだった。

母は自分ではあまり分からないけれど、結婚してもいいかなと思ったらしい。


お見合いは父の家で行われた。

母は父の家に行った時に仏壇の上の遺影に、入院していた時同室だった人の写真があるのを見た。

「あー、この人の母親だったのか・・・」

その人の息子の嫁になるのだということが、少し不思議な感じがした。

そう、祖母は父の退院を待たずに亡くなっていたのだ。


妹達がいるのには驚いた。

なぜなら妹達が同室だった女性のお見舞いに来たという記憶がなかったからだ。



母は父の一家には歓迎されていなかった。

父が祖父に軽んじられていたため、妹達も父には言いたい放題だった。

生まれた順番が一番目で性別が男だったというだけで父が実家を継ぐ。

その父のお嫁さんである母に実家を取られる、という思いも妹達にはあったのだろうか。

それとも元々の気質だったろうか。

母には祖父や妹達が、自分に対して攻撃的なことがものすごくショックだった。


実家から母親が娘の様子を見つつ挨拶しようと父の家に来た時には、

母は、祖父にこう言われたという。

「うちはあんたを嫁に貰ったけれど、あんたの母親は貰ってない。うちの敷居は跨がせない。」

母はショックとともに怒りを覚えた。


妹達も母に、容姿のことなどいろいろ言った。

祖父や妹たちに"ひどい対応をされた”と感じていた母は、父に愚痴ったり相談したりするものの、

自信のない父には祖父や妹たちに意見をすることが出来なかった。

おそらくとにかく争い事に巻き込まれるのが嫌だったのかもしれない。

父の心も傷つき過ぎるほど傷つき、もはや意見をしようとも思わず、

受け入れるか聞き流すだけにするのが自分を守る術になっていたのだ。


そんな環境の中で、たった一人で笑うこともなくこの家で暮らしていかなければならない・・・

母は次第に心を閉ざしていった。

自分の気持ちを理解しようと聞いてくれる人が誰もいないこの家で。



妹達はだんだんに結婚して実家を離れていったが、

祖父の母に対する冷たい態度はいつまで経っても変わること無く、辛く当たり続けた。



母は、父に失望した。

母には父の事情はわからなかったので、父が味方をしてくれないことに失望したのだ。

時間が経つごとに、自分より収入の低い父を見下し、自分が一番正しいという思考が固まっていく。


父もまた母に失望していた。

結婚して初めての朝、「おはよう」と声をかけた父。

母は、「なんで夫婦であいさつするんだ」と言ったという。


照れもあったのかもしれない。

でも挨拶することが家族の中では一番大事だと思っていた父には、ものすごくショックだった。

家族の中に自分を理解してくれる人はいなかった。

妻だけは・・と期待したが、妻もまた本当の自分をわかってはくれない。

誰も自分を分かってくれない。。




結婚1年後、兄が生まれた。

その2年後、姉が生まれた。

そしてさらに2年後、私が生まれた。


私は姉に会ったことがない。

なぜなら姉は生後8ヶ月で亡くなったから。

突然死だった。


母はただただ呆然とした。

その時母は姉の近くにはいなかったらしい。

人に頼んで見ていてもらったらしいけれど、目を離していた短い時間の出来事だったようだ。

静か過ぎるのを不思議に思い見てみたら、すでに息をしていなかったとのことだった。


葬儀の間も、母は何も考えられなかった。

準備もしなければならない、やらなければならないことはたくさんある。

身内が亡くなるというのはものすごいショックで、

生きている中で一番ストレスがかかることだと言われるけれど、

子を亡くすというのはどれほどのことだろうか。

この身が切り裂かれれば良かったのに。

代わりに私が死ねば良かったのに。


それでも直後には、そんなことすら考えられなほど呆然とするものだ。

いつものように朝になり、いつものように日が暮れる。

何事も無かったかのように世間は動いているのが不思議に思われる。

自分だけが時間の狭間に置き忘れられたような気がする。


四面楚歌の環境の中、母はしなければならないことのためにただ身体を動かしていた。

何も感じない。感じられない。悲しみも怒りも感じられない。

まるで機械人間になったかのようだった。


そんな母の耳に、

「涙一つ流さないなんて」

と母を非難する声が聞こえた。


チクリと何かが左胸に刺さった。

でも今は何をどう考えていいのかわからなかった。

ただ刺さった何かがおそろしく哀しかった。



我が子を亡くしたのだ。

母親が我が子を亡くしたのだ。

子を亡くして哀しまない親があるだろうか。


悲しみが大きいければ大きいほど、それが突然であればあるほど、涙は出ない。

時間が経ち、心が癒やされた時、堰を切ったように流れだす。

心を寄せられる人の温かい一言が、その癒やしになるかもしれない。

けれど心を許せない人たちの中で本心など見せられるはずもない。

母はこのことを父に言うこともなく、誰にも言わず、ただ心を閉ざした。



父は父なりに母を心配し、心を掛けていたに違いない。

しかし母には見えず、伝わらなかった。


母に伝わらない父の想い。

父に伝わらない母の想い。

父と母の溝は波に侵食されるがごとく、少しずつ少しずつ広がっていった。





◆ 祖父と私の記憶



私が両親と兄と暮らすようになったのは実家だったか、実家近くの空き家だったか。

実家を建て直すことになりすぐ近くの空き家に家族で引っ越していた。

狭い台所と居間、その他に寝室くらいあっただろうか。

あまり家族団欒の記憶が無い。


おそらく私を引き取ったのは、いよいよ新居に移ることと、

私の保育園の入園も間近だったためで、空き家に暮らした期間は短かったのかもしれない。


その空き家に祖父がいた記憶は無い。

兄はすでに小学生になっていた。



保育園には毎日父が送り迎えをしてくれた。

母は学校への出勤があるので早く家を出る必要があったからだ。

父との通園は楽しかった。

父はいつも私に向かって微笑んでいた。


保育園は特に楽しいわけでもつまらないわけでもなかった。

保育園に行きたい!と思っていた記憶もない。

友達との思い出もあまり記憶に無い。


記憶にある意識は、とにかくいい子で過ごさなければということ。

みんなにいい子だと思われなくちゃ。

自分がどう思われているか、どう見られているかが全てだった。


トイレに行きたい時も、なんて言っていいのか、そんなことを言っていいのかわからず、

人知れず大きい方をパンツの中に漏らし、一人でトイレに行って処理したこともある。

そんな日は、早く家に帰りたかった。



新しい家には祖父の部屋もあり、祖父も一緒に住んだ。

祖父は普段から、母だけじゃなく私たちにも笑顔を見せることはなかった。


そんな祖父もイトコには笑顔を見せていた。

今日は機嫌がいいのかな?だったら私たちにも・・・と期待したけれど、

私たちの方にその顔が戻ってきた時には、いつもの難しい顔になっていた。



  ああ、やっぱり嫌われているんだ 私は愛されないんだ---



私の記憶にはないけれど、母が言うには祖父は私たち子供に対する態度がひどかったという。

並んで廊下の拭き掃除をしていた兄と私の指先をストッパーにしてスリッパを履いたという。


これが本当なら、きっと他にもいろいろなことがあったんだろう。

兄は私の4歳上なので、私より鮮明に多くのことを記憶しているかもしれない。



祖父は相撲が大好きだった。夕方はたいてい居間で相撲を見ていた。

私たちは夕方の5時から30分間放送されるアニメ番組を楽しみにしていた。

相撲は5時から5分間ニュースに切り替わる。

その5分間、アニメを見たくて、チャンネルを変えたかった。


祖父に「チャンネル変えてもいい?」と恐る恐る聞くと、

「ニュース終わったら相撲に戻せよ」

と無愛想に言われた。

それでも嬉しくて、チャンネルを変えてアニメを見ていた。


5分間。

その時間で見れるのはオープニング曲とアニメの序盤。

もう5分経ったかな・・・。でもあとちょっと、あとちょっと見たい・・・。

夢中で見ていた私に祖父は、

「早く相撲に戻せ!」と怒鳴った。

ビクッと緊張が身体を走り、サッとチャンネルを変え部屋の隅に移動した。


怖かった・・・

  怒ったかな・・・また私のこと嫌いになったかな・・・



しかし私の中にある祖父との記憶は良くないものばかりではない。


ある日学校から帰ると、みんな出かけていた。兄はまだ帰っていない。

祖父が台所にいる気配がした。

鞄を置いて台所に行くと、やはり祖父がコンロのところで何かをしている。

近寄っていってそーっと覗いてみると、魚のようなものを料理しようとしていた。


「これなに?」

と聞くと、

「ヘビダ(エイヒレ)だ」

と答えてくれた。

「ふ~ん」


ジーっとそれを料理する様子を見ていたら、ふと祖父が言った。

「食うか?」

パーッと景色が輝いた気がした。

「うん!」


祖父は私にも少しエイヒレを味噌で煮たものを分けてくれた。

食べてみるとすごく美味しい!

「おいしい♪おいしい♪」

と言って食べる私を横目に見て、祖父は自分の部屋にお皿を持って行ってしまった。

私は嬉しかった。

おじいちゃんが分けてくれたのが嬉しかった。


その後何度か、エイヒレを料理している祖父を見つける度に、

近くに行って見ていると祖父は少し分けてくれた。



私は祖父をそんなに嫌いじゃなかった。

母の手前、あまり近づかないけれど話しかけることはできた。

笑顔にはなってくれないけど、少しだけ祖父の声色に優しさも感じたこともあった。


でも母が祖父について話すことは悪口しか聞いたことがない。

お酒ばかり飲む。タバコを吸う。

冬、外に飲みに出かけ泥酔し、道路に寝ていたところを車に引かれ入院したこともあったという。


タバコの臭いは嫌い。お酒の臭いのも苦手。

それでも、おじいちゃんは嫌いじゃないけどな・・・。



その祖父が病気で入院した。

父はちょこちょこお見舞いに行っていたが、母が行くことはなかったように思う。

だから私たちも行かなかった。


祖父の病気が悪くなり、家族が病室に呼ばれた。

私たちも病室に呼ばれた。父と母と私たちと、叔母たちとイトコがいたように思う。

みんな神妙な顔をしていた。

詳しい状況がよく分からなかったが「おじいちゃんがいなくなるかもしれない」と感じた。

子供たちは一人ひとり枕元に行って、声をかけるよう促される。

祖父の枕元へ行って、私も何か言葉をかけたと思う。


その様子を、叔母たちが冷たく見つめていたのを私は見た。

祖父のお葬式の時泣いていた私を見つめる叔母たちの冷ややかな目も、

わけのわからない恐怖とともに記憶している。

私が小学4年生の時だった。



  なぜ監視されてるみたいなんだろう。。信頼されてないのかな。。



祖父が亡くなると、母は家でよく祖父に対する不満を私に話した。

兄にも話していたかもしれないが、それはわからない。


母が辛い思いをしていたことを知って、なぜか私はこう思うようになった。

私のせいで母は嫌な思いをしたんだ ---


私たち子供のしつけなどについて祖父が言及したことがあったらしい。

母のためにもいい子にならなければと、無意識ながらますます思い込んでいった。


家の中で自分の味方は兄と私しかいないと、そう母は思っていた。

というか子供たちだけは自分の味方に、と思っていた。


子供たちが幸せになるよう育てなければ。

幸せになるために必要なことは自分が考えてることを整えることだと母は思っていた。


それで私たちを母が一番いいと思う道に歩ませようとし、

私たちのために貯金をし、家を建て、塾に通わせ進学させていった。





◆ 病気がちの子供時代



私は物心ついた時から、人前で怒られるのが異常に嫌いだった。

特に母は人前だろうとなんだろうとよく叱った。

親戚のおばちゃんたちの前で叱られた時、親戚のおばちゃんに対して私は必死で取り繕った。

「そんなことをしたのにはね、理由があるの」

とばかりに。


自分でも変だと思う。なんで私こんなに必死に言い訳してるんだろう・・・

そう思いながらも、必死で言い訳していた。


母が言うのは、

「ちゃんとしなさい」

「勉強しなさい」

「片付けなさい」

というようなことばかり。

私は無意識にも"ちゃんとしなければ”と思っていた。

私は、"いい子”でいなければならないと思っていた。



  私はちゃんとしてなければ愛されないんだーーー



5歳の2月頃、保育園に行くために、仕事に行く父の準備を待っている時、

ふいにお腹が痛くなった。

普通の痛さと違う、ものすごい痛みで、声も出せないほどだった。

か細い声で、

「おとうさん・・・おなか・・いたい・・・」

と言うのが精一杯だった。


病院に行きそのまま入院することになった。

病名は、膵臓炎。

5歳の子供が罹る病気ではない。

私は輸血を受け、1ヶ月あまり入院した。


入院した病院は家から近く、両親は毎日顔を出してくれた。

油を使った料理やお菓子を一切食べることができなかった私を元気付けるため、

母はひなあられを買ってくれ、ベッドの上に置いて

「治ったら食べようね」

と言ってくれた。


とても嬉しかった。

母は私を愛してくれてるのかもしれない・・・

そう思えたから。



5歳の子が膵臓炎になる。

それほど私はストレスを溜めていたのだろうか。

幼い自分にはまったく分からないことだけど。

ストレスがなんなのかすら知らないころだった。


こんなことがあった。

小学生になる前のある日、家族で買い物に出ていた。

ふと楽器店を見るとピアノが置いてあり誰でも弾いていいと書いてあった。

「弾いてみたら?」と母に言われ、ピアノを触った。

音が出るのが面白く何度か音を出した。

すると母はこう言った。

「ピアノと英語の塾に行くなら、ピアノを買ってあげる」


正直そこまで欲しいわけでもなかった。

音が出るのが面白いだけで、弾けるようになりたいとまでは思ってない。

でも母の提案にのれば、母に「いい子」だと思ってもらえると思い、「やる!」と言ってしまった。

それで小学1年生から毎週英語とピアノの塾に通うことになった。


通ってみれば、新しいことを学べるので楽しくないわけではない。

ただピアノの先生はミスタッチをすると手を叩く先生で、私はそれがすごく嫌だった。

でもそれを母には言えなかった。

間違う私が悪いのだから、練習しなさいと言われるだけだから。


本当はやりたくない、行きたくないのに我慢して行っていた。

弾けるようになっていっても、楽しいと思うことはなかったように思う。


こういう些細なことが小さな身体にストレスとなって溜まっていったのかもしれない。



同居していた祖父が病気で亡くなり、母はますます家に他人が入り込むのを嫌うようになった。

叔母たちが出入りするのは元々嫌っていたが、

祖父の仏壇へ手を合わせに来るのを止めるわけにもいかない。


そんな母の気持ちを知らず、叔母たちは家に来てもてなされるのは当然という体だったし、

父もそのことには疑問を持たなかった。

普通に考えれば、叔母たちの行動は別に変でもないあたりまえのものだったと思う。

ただ母にとっては、それまでずっと我慢して耐えてきた不満や怒りがあり、耐え難かったのだ。

誰かそんな母の気持ちに共感して聞いてくれる人がいたら、状況は違っていたかもしれない。


母は父が自分の気持ちを理解してくれないことに、ますます失望し、

自分より稼ぎの少ない父を見下す発言を私たち子供にもし続けた。

さらには叔母たちへの愚痴も私にし続けた。



私自身はと言えば、近所の子供達とも仲良くできず、

いつも兄の後ろに隠れていたり、兄に助けてもらったり。

小学校でもあまり同級生と仲良くできず、何人かの一緒に遊ぶ友人がいただけだった。


小学生になっても身体が弱いのは相変わらずで、

急に息が吸えなくなったり、皮膚病も頻繁に患っていた。捻挫も頻繁。


風邪から5つの病気を併発したのは小学4年生の時だった。

しばらく寝込み、塾も休んでいた。

心配し体力を付けさせようと考えてくれた父は、PTA役員をしていた事もあって学校に掛け合い、

私は5年生から水泳部に入れてもらうことになった。


それまでカナヅチだった私。

先生は一から教えてくれた。

まずは水に浮かぶこと。

「力を抜いてごらん。大丈夫だ。浮かぶから。」


怖かったけれど、先生の言うことを信じてみようと思った。

そして恐る恐る力を抜いた時、ぷかっと身体が水に浮いた。


うわっ

うかんだ・・・・・


感動だった。

そして私は背泳を専門にやることになり、どんどん水泳が楽しくなっていった。

水泳部の練習時間とピアノの塾の時間が重なっていたこともあり、ピアノは辞めた。


英語の塾には通い続けた。

塾で友達が出来たわけではなく、行き帰りは一人で歩いていたのだが、

英語の勉強は少し楽しかったのかもしれない。

小学校6年生の時に英検3級の試験に合格したのは、嬉しかった。



母にとってはピアノを辞めたことは面白くなかった。

水泳を勧めた父をチクチクと責めた。

母は自分の考えの方が、父の考えより正しいと思っていた。

いや、父の考えなどちゃんと聞いたことなどなかったかもしれない。

父は自分に自信が持てないために、意見を聞かれてもあまり答えることをしないから。


私のせいで言い争いをしているのは、聞いていたくなかった。

でも私はピアノを辞めたことにまったく後悔もなく、水泳が楽しく水泳ができることが嬉しかった。

気持ちは父寄りだったけれど、それをあからさまに態度には出せないと思っていた。


禁止ばかりする母よりも、好きなことを言う私の話をウンウンといつでも笑って聞いてくれ、

どんなことでも「おおすごいな。やってみろ」と言ってくれる、そんな父が大好きだった。

仕事でも市に表彰されたことがある父。

家の中に飾られたその額縁は、私を誇らしい気持ちにさせてくれていた。



母がピアノを強く子供にやらせたいと思ったのには理由がある。

母が教師を志すにあたり、ピアノだけは思うようにならなかった。

ピアノは子供のうちからやり始めなければ指が動かないと知り、

自分が出来なくて困ったことを、子供に同じ思いをさせないよう習わせたかったのだ。

教師が一番いい職業だと信じている母の計画は、子供を将来教師にさせることだった。


母は運動は得意ではなかったらしく、

だから自分の子供も運動が得意なはずはないと言い切っていた。

私が水泳を始めたのは、父が私の健康を思っての事だったが、

母には父の愛情よりも、自分の計画を阻害されたという思いの方が強かったのだろう。


そんな母の気持ちは感じていたけれど、それよりも私は水泳が楽しくてしかたなかった。

ずっと泳いでいたいほどだった。

肌をすり抜ける水の感覚が本当に気持ちよかった。

先生の的確な指導でみるみる泳げるようになり、市の大会で3位になった。


しかし、それもそこまでだった。

私は中耳炎になってしまった。

一度なると繰り返すという中耳炎。その通り私は中耳炎を繰り返すようになってしまい、

小学校を卒業すると同時に水泳は続けられなくなってしまった。



いつも忙しそうだった母。

自営業だった父。

その2人が言い争うのは聞きたくなかった。

私が勉強が出来たら喧嘩しないんじゃないか。

私がいい成績を取ったらお母さんはお父さんを責めなくなるんじゃないか。

周りの人が「お嬢さんはいい子ですね」

と言うようだったら、母は笑っててくれるんじゃないか。

そう思っていた。


ただ私が病気になった時だけは、成績とか行いとかではなく私自身を母は見てくれるような気がした。

心から心配してくれるような気がした。


病気は苦しかったけれど、私自身を心配してくれるのは嬉しく感じた。

私は病気になっていたかったのかもしれない。





◆ 子供の決意



母は子供に小さい頃から学校の先生になることを望んでいた。

自分自身が教師になってより安定した給料が貰えること、

福祉の面が充実してたことなどがその理由らしい。

教師じゃないとしても公務員にはなるようにと、小さい頃から言われていた。


私が小学1年生になると母は小学1年生の担任になった。

それから私が5年生になるまで、母も1年ずつ担任を上がっていった。


母は家に仕事を持ち帰ることがたびたびあった。

休日も持ち帰った仕事をしていることがあった。

私はテストの丸付けを手伝ったことがある。

答えと同じものには丸を付け、違うものには斜めに線を引く、というお手伝い。

そういうお手伝いは楽しかった。

赤ペンでまるっと書く。いつも母がやっている仕事のお手伝いをすることは、

なんだか大人になったような気分だった。


それでも教師になるかと言われれば、なんとなく嫌だった。

年を追う毎に「なんとなく嫌」は、「絶対嫌だ」に変化していった。

その理由は、母がいつも大変そうにしていたから。


家に帰ってくれば、「疲れた、大変だ、あれもやらなきゃこれもやらなきゃ」。

教師をすることが楽しいようにはまったく思えなかった。

その様子を見て教師になりたいとはどうしても思えなかったのだ。


たぶん私には教師という職業に対する興味が無かったからだと思う。

もちろん教師は大切な職業だし、教師に使命を持っている方にとっては素晴らしい職業。

でも私にとっては違ったんだと思う。

教師になれ!と言われる度に、ただ反発するかのように、

「絶対にやらない!」と気持ちが固まっていった。


それまで母の言うことを100%信じ、母を困らせないようにしようとしてきた私が、

初めて母の言動に対して疑問を持ち、自分で意志を持ったことだった。




母の言動に疑問の持ったことはもう一つある。

それは物を壊した時のこと。

父や兄、そして私が食器を壊したりすると、母は烈火のごとく怒った。

そこまで言わなくても・・・と子供心に思うほど、母は言葉をぶつけた。


ある日、母がうっかり食器を落として割ってしまった。

母は自分を私たちを責めるように、自分自身をも責めるのではないかと思った私は、

母を慰めようと台所へ駆けつけた。


しかし、母は笑っていた。えへへ、と笑っていた。

「あら~、割っちゃったな」

そう言って薄く笑った。


頭に疑問符がいっぱい浮かんだ。

なぜ?

なぜ私たちの時はあんなに怒るのに、自分がやると怒らないの?

何が違うの?


こういうことはいろいろな場面であった。

何かおかしい。何か変だと思ったが、何が変なのか、幼い私には分からなかった。



小学高学年になった頃、友人たちはお互いの家にお泊りなどして遊んでた。

いいな~と思っていた。


すると私にもそんなチャンスが巡ってきた。

数少ない友達が「泊まりに来ない?」と誘ってくれたのだ。

嬉しくて走って家に帰って親に告げると、母は断固として反対した。


「ダメ。泊めるのも泊まりに行くのもダメ。」


わからなかった。その理由がわからなかった。

兄は泊まりに行っているのに、どうして私はダメなの?女だから?

女だとどうしてダメなの?


  私だから?

  私を愛してないから?信じてもらえないんだろうか。。



兄が冗談で

「お前は家の裏山の樹の根元に捨てられてたんだぞ」 なんて言う度に、何も言わない父母を見て不安に思っていた。

なんて言う度に、何も言わない父母を見て不安に思っていた。

そして怒られる度に、本当に捨て子だったのかもしれない・・・と

家の外の小屋に入り、一人落ち込んだりしていた。


思い返せば「してはいけない」ということをたくさん言われていた。

幼いころは、そうなんだ・・・と素直に聞いていたけれど、

成長するに従って、疑問が消えなくなっていく。


母に笑って欲しい。

いい子になったら笑ってくれるんじゃないか。

言うことを聞いていたら愛してくれるんじゃないか。

そう思えばこそ、自分の心を押し殺してもいい子になろうとした。



小学5年生の時、校長先生が変わった。

なんと母がいる学校から変わってきた校長先生だった。

母は私に言った。

「校長先生の前で、ちゃんとしなきゃだめだよ」


それを守って私は校長先生の前で礼儀正しく挨拶し、いい子を演じた。

それ以来、校長先生は私を見かけると近寄って話しかけてくださるようになったが、

私にはそれがとても嫌だった。

それで校長先生を次第に避けるようになっていった。



苦しい。なんだか生きにくい。

おかしい。大人ってなんだかおかしい。

でも母が願うように出来ない私がダメなのかもしれない。


わかってもらえないのが悔しい。

言い分を聞いてもらえないのが悔しい。

お母さんにだって子供時代があったんだから、同じ気持になったことあるでしょ?


「子供の頃、私と同じような気持ちじゃなかった?」

返ってきた答えは、「忘れた」だった。



「今のこの子供の心を絶対に忘れない。大人になっても絶対に絶対に忘れない!!」

子供心に強く強く、何度も何度も、脳に刷り込むように思い、決意した。

2つ目の決意だった。





◆ 母と話せない



私がたぶん小学3年生の頃だったか。

母は手術と長期の入院が必要な病気に罹り、入院した。

入院した市立病院は自宅から徒歩1分のところだった。


術後、母の血液を少しでも増やすためと、

私は毎日学校に行く前に母の病室へ行き、鶏レバーの焼き鳥を持っていくのが日課になった。

それが有効な行為だったのかどうかわからない。

でも、母が元気になるためにと病院に通うのは私にとって苦痛ではなく、

むしろ大きな病院に入っていけるのが嬉しかった。

持って行くと、満面の笑みを見せる母を見るのが嬉しかった。



それが成長するにつれ、母と話すことが面倒になっていった。

中学生になり、英語の塾も辞めた。

部活は友人の誘いで陸上部に入った。

楽器や合唱など、音楽に関することをやって欲しかった母にとってはますます面白くない。

母は口を開けば、勉強しなさい、手伝いなさいとしか言わなくなっていった。


母にしてみれば、自分の計画が狂ったのがおもしろくないのだ。

それも一番身近な父親が狂わせた原因を作ったと思ったのがおもしろくない。

さらには私も父の味方。父が好き。母の味方ではない。

そんな風に母は感じていたかもしれない。


自分の方が稼ぎ、自分が家も建て直し、自分の方が父より子供たちの幸せになる道をわかっている。

そう信じている母にとっては、本当におもしろくないことだった。



私は徐々に母から距離を置くようになっていった。

自分でも無理かもと思ってる大きな夢話しをする私の話を、

「おーすごいな」と肯定して聞く父と、

「そんなしょーもないこと言ってないで、やることやんなさい」と否定する母。


私が中学3年生になる春には、兄が大学に行くために家を離れた。

家の中には両親と私の3人。

父がいる時、父にはいろんな話をした。

しかし母も聞いていると思う環境の時は何も話さず、自分の部屋に行くようになった。

そうして母とあまり雑談をしなくなっていった。



母にとっては辛いことだったろう。

兄もあまり母と話さない感じだったから、母は雑談をすることがあったんだろうか。

自分の味方、よすがは子供たちしかいないと思っていたであろう母。

その子供が自分と話をしない。自分を避けているように感じる。

それはきっと母自身にもどうしたらいいかわからない、辛いことだったろうと思う。



高校受験。

県立高校(共学)は受ける学校をすでに決めていた。

ほぼ大丈夫だろうと学校の先生からも言ってもらっていた。

ただ一応滑り止めも受けることになった。


理由はきっとみんな滑り止めを受けるから。

受けるものなんだなーくらいな感じ。特段受けたい私立高校も無かった。


進学校に一番近いという私立高校を受けようかと思っていたら、

母が女子校を勧めてきた。

いわゆるお嬢様学校のような学校だった。


女子校がどのような学校なのか、無知すぎて興味もなくて全く分からなかったが、

自分が行くのは県立高校だという思いもあって、

そのくらい母の希望通りにしようと女子校を受けることにした。


女子校受験当日。

初めていった女子校。家からとても遠く、隣は男子校。

どこを見ても女生徒ばかり。

休憩時間も女子、女子、女子。


女子校なんだから当たり前なんだけれど、その時の私にとっては驚きだった。

「こんな高校を受験しに来たの??」

同年代とうまく付き合えなかった私には、女子校に通うことは一種の罰のように思えた。


とてもこの高校には通えない・・・。


絶対に県立高校を落ちるわけにはいかない。

内心すごく焦り、県立高校の受験勉強をそこから真面目にやった。

無事県立高校に合格。すごくホッとした。



中学生頃から母と私の好みはますます違ってきた。

服も好みが違う。

買ってきてくれる服に魅力を感じない。

いい生地でいい仕立てのものなんだと思うけれど、かわいくない。

自分でお小遣いで買って着ていた。


明らかに母が買ってくれたものはあまり着ないのを見て、

母も次第に「あんたの好みはわからない」と言うようになっていた。


申し訳ないな。

そう感じはするものの、やはり着ようとは思わない。

なんとか他の服と合わせて着ようともしてみたけれど、合わない。

合わせられなかった。


例えば母と一緒に買い物に出かけても、

私が好きだと思う服を持って、「これがいい」と言っても、

母の基準で、素材が悪いだの色がどうのとダメ出しをされるので、私が妥協してしまうのだ。

妥協して買った服は、やはりあまり着ない。


高校生になるとそれはますます顕著になり、

母の好むものはまったく私の趣味に合わなくなっていく。

母とは趣味が違うのだと割り切るようになった。



大学に行った兄は、年に2回ほど帰省した。

帰ってくる度に考え方などがしっかりしてきたと母には感じられたようで、

私に対して「お兄ちゃんはしっかりしてきた。あんたもしっかりしないとだめだよ」

なんてことを言う。

おかげでますます母を鬱陶しく思うようになっていった。



 どうせ私はいい子じゃない。

 どうせ私のことは愛してない--

 分かってもらえない---



母の良いと言うものを良いとは思えない。

それなら完全に自分が良いと思うものを選ぶ生き方をすればいいのに、

やっぱりいい子を演じ続けてしまう。

親の前でも友達の前でも。



相変わらず病気がちだった私。

高校時代は1年間くらい皮膚病に悩まされた。

頭から足の先まで皮膚病に侵され、大学受験の日も顔や頭皮までブツブツの状態だった。

大学生になった後、いつのまにか治った。


大学時代は親の目の無い環境に大いに羽を伸ばした。

選んだ大学は国立大学。

自分で決めたというより、親や親戚、友達、高校の先生などのアドバイスで決めた。

本当は看護の仕事に興味があり、そちらも国立大学だったけれど、

方や4年制で岩手県。方や3年制で宮城県。

親元近くに置きたい親の想いと、3年制より4年制という、

今思えば訳の分からない理由で進路を決めてしまった。

大学でもうまく人間関係を築けなかった私は、

大学2年目の冬、突然大量出血するという病気に見舞われ、3年目の春に大学を中退。

この時から低血圧症になった。


大学を中退した後、私は一人で自分の進路を考えたいと言ったけれど、

結局親が段取った地元の専門学校に通うことになり実家に戻った。





◆ 人が怖い、人といられない



大学に入り一人暮らしになった時、親の有り難みを初めて感じ、

母と少し話すようにしようと思った。


その思いも結局また実家に帰ったことで無くなってしまった。

いや一度一人暮らしの自由を味わっただけ、もっと話さず距離を置くようになっていた。

いろいろ干渉されることが、とても窮屈で嫌だった。


再び私から母と話そうと思うようになったのは、私が就職してからだった。

就職して自分で働いたお金で、家賃も光熱費も食費も賄うようになると、

母の大変さがますます分かるような気がしたのだ。

働きながら家族のために毎日食事を作り、掃除をし、ボタン付けまでしてくれていた母。

外食など数えるほどしか記憶に無いほど、毎食母は作ってくれていた。

休日の昼食くらいは父か私が作っていたけれど、夕食はやはり母が作ってくれた。


私は1日平均16時間労働だった時、家に帰って自分のために料理を作ろうなどとても思えなかった。

というより夕食をデスクで摂りながら仕事してることが多かった。

休みの日すら料理をしようとは思えなかった。


今でも、自分一人のためにおいしく食事をするために作ろうとは、正直ほぼ思えない。

一緒に食べる人がいるから作ろうと思える。

そういうものかもしれないけれど。


母は一生懸命家族のために時間を使ってくれたのだ。

どんなに私が鬱陶しく思うことがあったとしても、母は私に良かれと思って育ててくれたのだ。


そう思えばこそ、母に話しかけようという気持ちになった。

頑張っているのに子供に無視されるなんて、悲しすぎる。



話しかけるようにしたとはいえ、帰省して3日目にもなると母の言動にイラッとし、

また母と距離を取りたくなる。

長期の休みでも帰省期間は移動日を含めて最長3日間としていた。

それでも帰るとき、見送りで手を振る両親の姿には、後ろ髪を引かれる思いだった。



何歳になっても、父や母にいい子だと思って欲しい。

私自身を認めて愛して欲しい。

肩書とかお金とかキャリアとかそんなものじゃなく、このままの私を認めて欲しい。


そんな本心を見ないように蓋をして、

私は一人でどこにでも行けるし、一人で生きていけると強がっていた。


自分の本心と向き合わず、本心を偽って生きていたその結果は、とても痛いものだった。


心からの友人は得られず、人に協力してもらうやり方を知らず、

「ありがとう」の心も薄く、自分を褒めてくれ、認めてくれという態度は表に出まくり、

人に疎ましく思われる人間になっていた。


それにも気付けず、ますます私は自分の正しさを主張するだけの頑なな人間になっていき、

周りから人が去っていった。

しかし私は「一人でいたほうが気を使わなくていいから」と

現実に起きていることを直視しようとはしなかった。



  生きることが何か苦しい。

  なんか私だけ上手くいかない。

  こんなに頑張ってるのに、誰も分かってくれない。



それでも何日も人と関わらないのは、ものすごく寂しくて不安になってくるので、

良い人だと思われるように、笑顔を作り、動作に気をつけ(気をつけられる範囲で)、

人と接していた。


そんなだから人と接するとものすごく疲れた。

家に帰るとぐったりする。

頑張って数時間も人と接すると、翌日丸一日はぐったりして誰にも会いたくなくなる。

仕事もあるからそんなことを言っていられない。


頑張って、頑張って、頑張って、頑張って。

自分をいじめていじめていじめていじめ倒して。

そうして私は自分で自分を精神的に追い詰めていた。


その代償は、半年に1度の大きな病気や怪我だった。

当時はまさか自分が自分を追い込んでいるなんて思いもしなかったけれど。

最終的には精神的にも追い込まれ、休職を必要とする状態にまでなった。


誰かと数時間一緒にいるなど考えられない。

気持ちが安らがない。

人の評価が怖い。

人の目が怖い。


全部まっさらにして、私を誰も知らないところに行きたい。

でもずっと一人は寂しい。

やり直したい。


  誰も私を好きじゃない---

  誰も私を愛さない---

  私も私が大っ嫌い!!!



自分の顔もスタイルも嫌いだった。

それは小さい頃から母が、自分の顔を「めぐさい(醜いという方言)」と言い、

スタイルを「太ってる」と言い、「あんたも同じだ」と言っていたから。


私も「めぐさく、太ってる」のだ。

自分に自信がまったく持てない。

人に醜いと言われたくないけど、やっぱり醜い。

どう見られているだろう。

バカにされてるんじゃないか。


自分の姿が人の目に触れることがどんどん怖くなった。

休日は1歩も外に出ず過ごすことも少なくなかった。

日々の睡眠不足を補うべく、1日中寝ていたりした。





◆ 本当は愛されている  解放



私はおそらく生まれた時から、

もしくはそれ以前から潜在意識に「愛されない」という思いを抱えていた。

そしてあらゆる場面で「愛されない」ことを確認して生きてきたんだ。


ほら、やっぱり愛されない---と。


だからこそ真逆の「人に好かれたい、愛されたい」という強烈な欲望を抱いた。

「愛されるはずがない」という根底にある深い哀しみ。

その哀しみから、強烈な欲望でさえ叶えられないと信じた。

だから「好かれたい、愛されたい」という願いがあることすら忘れて生きることにしたのだ。


叶えられない願いなら、いっそ忘れた方がいい・・・


こうして意識的には忘れていたけれど、

私の深いところにある願いや思い(本心)は消えるわけではない。

自分の本当の望み(本心)と自分で認識できる意識が違うといろいろな問題が出てくる。


一つには身体の不調。病気や怪我がそれ。

幼い頃からたくさんの病気や怪我をしていたのはこのためだ。


もう一つは人が離れていくということ。

無意識の行動や言葉には、本当の望み(本心)が隠れているもの。

でも頭で考えて出る言葉は、理性で制御されたものであることが多い。

つまり、私の口から出る言葉と、私の実際の行動が違う。

それは周囲の人から見れば、「言ってることとやってることが違うじゃん」ということになり、

不快な思いを与えてしまっていただろう。


愛されないと思っているからこそ愛されたいという欲求が深くなる。

無意識で愛されていることを確認するような行動をとってしまう。

何かをしてもらっても感謝もなく、むしろ当然という不遜な態度をとっていたに違いない。

これでは同世代から総スカンを受けて当然だ。

上司からの信頼も得られるものではない。


小学生の頃学校で、愛された(私のほうを見て欲し)くて嘘をついた。

お化けを見たと。

注目を浴びたのは一瞬。その後すぐに無視されるようになった。

自分の話を聞いて欲しいという気持ちに気付いていないから、

友達を嘘をついて傷つけるということをしでかしてしまった。



40年間、ずっと人とうまく付き合えないと感じていた。

自分に原因があるのに人が自分を理解できないのだと、傲慢に思っていた。




私は本当に「愛されない」存在なのか。



確かにこのままの自分では「愛されない」だろう。

というか、「愛されない」自分を自分で作っていた。


「愛されない」。ほらね、「愛されてない。」


その思いは私が産まれてからずっと自分で思い込み、自分で勝手に確認し、強めてきた意識。

でも、誰かに「あなたは誰にも愛されていない」と言われたわけじゃない。

むしろ「好き」と表現してくれた人のことをも、「そんなわけない」と勝手に拒否したりしていた。



私は本当は「愛される」存在だということはないだろうか。



周りの人とうまくいかないことをなんとかして、私も幸せになりたい。

何か方法はないんだろうか。


私はいろんな本を読んだり、カウンセリングのようなものを受けてみたり、

セミナーに参加したり、自分なりに学んでみたりした。

それでもすぐにどうにかできたわけでもなく、何か決定的な解決策が見つかるわけでもなかった。

いろんなことを試しても、まったく変わらない時期が長かった。

なんでだろう?と思い始めてからはすでに20年以上。

探し始めてから7年が経っていた。



きっかけは自分のパートナーが亡くなるという出来事を経験したことだった。

「生きる」ということを真剣に考える決定的な衝撃だった。


私はなんとなく生きていた。

生きているのが当たり前のように思っていたし、

「死」というのは年を重ねていった先に来るものだとなんとなく思っていた。


友人が亡くなったり、職場の人が亡くなったりすることも経験していたけれど、

普通におばあちゃんになったら私にも「死」というものがやってくるんだと思っていた。


でも、ある日突然、その「死」は私が人生を共にしようと決めたパートナーが亡くなるという形で、

私の目の前にやってきた。

ずっと、

「そんなわけない。いなくなるはずがない。私一人じゃどうしたらいいのかわからない。」

そんな風に思っていたけれど「死」は確実にやってきて、

私の目の前からパートナーは消えていった。


パートナーの口癖。

「お前の人生の本質はなんだ?」

「お前は自分の人生を考えてない」

「明日死ぬかも知れないんだぜ」


私はパートナーが亡くなってから、真剣に考えた。

もしこのまま自分の人生が終わったら、私は後悔しないだろうか。

私はなぜ生きているのか。

私は何をするのか。

何かできることがあるのか。


これまで人一倍人生考えて生きていると思い込んでいたけれど、

何も考えてないと言われたことと、パートナーの生き方を思った時、

私は自分の利益になるように、自分が得するようにということしか考えずに、

だらだらとただ時間を浪費して生きていたことが見えてきた。



やばい。。このままじゃダメだ。



私は今までやってきた、知ってる、わかってると思ってきたことを

すべてなかったことにすることにした。


何もできてない。やってないのと一緒。

何もちゃんと知らない。なにもわかってない。


すると、ついわかってるフリをしてしまう自分にも気付いた。

出来る人に思われたい。いい子だと評価されたい。

そんな思いがあることに気付いた。


がっかりした。見たくなかった。知りたくなかった。

自分を捨てたい思いに駆られた。

ショックだった。


「本当の自分を知るからこそ、謙虚になれる。人に感謝できる。」



そう教わった。

涙が溢れた。

ああ、本当だ。

やっと私はスタートラインに立つことが出来たということ。


勇気を振り絞って、分からない、知らないと素直に言うことにした。

そう言ってはいけないと思っていたけれど、言うことにした。

言ってみるとバカにする人もなく、親切に教えてもらえたし、楽になった。


自分の心の中にいろんな汚い思いが浮かぶこと。

すぐにネガティブな感情が出ること。

動けない自分。言い訳する自分。

そういう自分を勇気を振り絞って認めることにした。


認めた後、なんでそんな風に思うようになったんだろうと考えてみた。

小さい頃から考えてきたこと、思ってきたことを思い出してみることにした。

そして思い出した感情や、今出てくる感情などを書き出したりした。



そうしていたら、ある日気づいた。

心の奥底に、「愛されない」という思いがあることに。


びっくりした。驚いた。

え・・・・

頭が真っ白くなった。


信じられなかったけれど、それが正しいと仮定してみることにした。

「愛されない」と思っていると仮定すると・・・

いろんなことに辻褄が合う。


認めざるをえない・・・

「愛されない」と思っていたんだ・・・。


ああ、だから愛されたいと強く願っていたんだ。

愛されることを求め続けるんだ。



で、本当に私は愛されていないのか。



そのことは、こうして幼い頃からのことを書き出して、

客観的に見てみるとそれは間違った思い込みだとわかってきた。

祖父の行動も、父の言動も、母の言動も、

それぞれに彼らなりの経験の中で一番安全で幸せだろうと考える世界の中で、

一番いいものを子供に与えていた結果だった。


例えそれが、私が嫌だと感じる言葉だったとしても。

例えそれによって彼らの意とは逆に私が傷つくことになっていたとしても。

祖父は祖父なりに。

父は父なりに。

母は母なりに。

私を愛してくれていた。


祖父は私に手を上げることはなかった。エイヒレの煮物を分けてくれた。

父は私に手を上げたことはあったけれど、それは私を思っての行動だった。

父は私の言うことを頭から否定すること無く、話し遊んでくれた。

母は私が将来幸せになることを思い、自分が考えられる範囲の中で最高の環境を作ろうとしてくれた。

いつも見栄えや形のいい食べ物は私たちに、自分は残りのものを食べていた。


兄は4歳下の私と一緒に遊んでくれた。

いじめられていると見れば助けてくれた。

頼ればいつでも助けてくれた。


友は私が鬱病手前の状態になった時、

「友達の私にも何かできることがあったはずなのに・・・」と泣いてくれた。

「私が友達?」と驚く私に、「当たり前じゃん!」と叱ってくれた。


そして主人は、私と一緒にいることを選んでくれた。

そのままの私がいいと言って、手を繋いでくれた。



今まではそんな一つ一つさえも、本当は愛されてないんじゃないか・・・と

猜疑心の強い私は思ってしまったけれど。

今でも少しそういう疑う気持ちになったりするけれど。

でも今は、愛されていることを信じることができる。

理由を並べる事はできないけれど、じわ~っと感じることができる。





愛されている。

愛してくれる存在がある。

なぜこんな私を?という思いも浮かんでくるけれど、

そんなことよりも、愛してくれる存在がとにかく有難い。

とても嬉しい。。


その思いが心に満ちた時、私には人を愛したい!という思いが溢れてきた。

と同時に涙も溢れてきた。


人を愛して生きていきたい!

みんながそれぞれの幸せを感じて生きられるように、できることをして生きていきたい。

心からそう願う。




両親や世間の顔色を見ていい子であろうとすることをやめた。

仕事ができるフリもやめた。

物分りの良いフリもやめた。


最近の私は病気もなく怪我もない。

病気も怪我もなくなって3年になる。

こんなに大きな病気も怪我もないのは、生まれて初めてのこと!

人と接してもほぼ疲れない。


好きな色はきれいな色。大人はあまり着ない透明感のある色。

着たい色の服を着よう。

着たい形の服を着よう。

やりたいことをしよう。

喜んでもらえたら嬉しから、それをしよう。



今、たくさんの愛情を注いでくれる家族に感謝している。


祖父は自分の哀しみをどうにもできずに父にぶつけてしまった。

母にもぶつけてしまった。

父は自身の理想の高さから、劣等感も深く持ち、自分の意見すら封じ込めてしまった。

母はただ父に話を聞いて欲しかった。共感して欲しかった。守って欲しかった。


それぞれの哀しみが、それぞれの苦しみが、

口に出せない思いがすれ違い、良かれと思った言動が人を傷つけてしまったけれど、

みんなそのままの自分を認めて欲しかっただけなんだ。

みんな私と同じだった。

そう思えたらなんとも言えず愛おしく、

同じところで抱えている苦しみが癒やされたらと願わずにはいられない。





自分の本心からの望みを知ることは痛みを伴う。

初めは認めたくない思いにも駆られる。


私は勇気を出して、認められなくても認めてみることにした。

そういうことにしてみる。そうだと仮定して考えてみる。

そうすると辻褄が合っちゃって認めざるを得なかった。

それでも認めるのは嫌だったけど、辻褄が合っちゃってるから拒否しきれない。


本心からの望みを知れば、気付かずに自分自身を傷つけることを回避できる。

周囲の大切な人たちをも気付かずに傷つけずに済むのだ。


自分の本心を認めたら心が自由になった。

「愛されない」と思い込んでいたことを認めたら、本当は愛されていたことに気付けた。

思いが言葉になるよりも早く、涙が堰を切ったように流れた。

愛されていたことを認めたら、自分の周りにいてくれる人たちがたまらなく愛おしく思えた。


無理やり認めてもらおう、愛されようとしなくなった。

認めてくれない人、私を愛さない人もいるということを受け入れやすくなった。

病気や怪我が減ったのも、ストレスや我慢が減ったからかなと思う。



私は私らしく生きていい。

みんな自分らしく生きていい。

みんな誰かに愛されている。

その思いをみんなと分かち合いたい。


私と同じような思いを、なんだかよくわからない苦しみを感じている方に、

私と同じように楽になって、幸せを感じて欲しい。

そう願っています。




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