夢追い人 未だ叶わぬ夢
人生は前は見えぬが後は見える。
何時までも続くのか夢は。
夢はそのまま夢で終わりを迎えるのか?
私の夢の始まりは転職をした時からです。
さて引っ越しはしたものの仕事は・・・
大阪で10年近く金融機関勤務しておりましたが
実家相続問題、因みに私は長男です。それと金融機関の
合併が囁かれ始めた頃でした。
金融機関の合併が始まれば先々の保障は無いかもしれないとの不安はありました。
今現在元勤務先は吸収合併を重ねて存続しています。
新しい仕事は帰る先の大分県の田舎は農業地域です。
工場もなく特産品はみかんが有名でした。
退職前から探していた職業、種苗販売か介護のどちらかに決めていました。
種苗販売は京都のタキイ種苗に問い合わせたらこれからのビジネスでは無い
品種改良やハイブリット化が進み厳しいビジネス環境になりますと言われた。
そこで介護用品販売をすることに決めました。
ビジネス見本もなく、専門書もない仕事にはいったのです。
まだ世の中に何もお手本のないビジネスをするには実情調査しか有りません。
先ず挨拶と聞き取り調査から始めました。
市町村の福祉係、市町村社会福祉協議会、福祉施設等を回りました。
次に病院周りを開始しました。ここが一番の需要となりました。
大きな病院には相談窓口が有り退院後の相談にも乗っていました。
その中にベットや床ずれ防止機器やリハビリ用品の斡旋もしていたのです。
退院となると病院でケースワーカー・ソーシャルワーカーから言われた商品を
自宅へ搬入して組み立て使用できるようにしました。
その後は月一回の定期訪問に切り替えます。
病院以外は市町村社会福祉協議会を訪問、特にヘルパーさんから情報をもらっていました。
特別養護老人ホーム、軽費老人ホームは既存の業者がおりましたので難しかったです。
この当時の在宅はこの様な様子でした。
お客さん宅を訪問すると掃除をしていました。
理由を聞くとその答えが・・・
この後「ヘルパーさんが来るので掃除をしている」との答えでした。
掃除なんてしなくていいのにと言うと、その返答が
ヘルパーさんの出身が地元で家の中の事を喋られると困るから
これは県内どこの地域を回っても言われました。
その後ヘルパーさんにも「守秘義務」が常識となりました。
事前清掃も少なくなりました。
嫁姑の問題
この時代は大家族の時でした。
それ故に介護も嫁が姑を見ているケースが多々有りました。
介護をされている姑は家の一番奥の納戸と呼ばれる部屋にいました。
玄関から遠い北側の部屋が多かったです。
毎月定期的に行っていると相談、悩み、愚痴を聞くようになります。
姑の一番が○○をしてくれない。
嫁の一番が感謝されない、当然と思っている。
お互いの意思の疎通がなされていないのです。
私はその時には姑に対してこう言います。
「あなたは小さい子供には、人から物を貰ったり、して貰ったらありがとうと
言いなさい」と教えたのでは有りませんか。
毎日の食事のお世話に対してもありがとうが必要では有りませんか。
姑に対してのみこんな話をしてました。
翌月訪問すると、嫁さんが笑顔で迎えてくれます。
そして姑がありがとうと言ってくれるようになりました。
との報告、嫁姑の間が穏やかになったのです。
姑で言葉が不銃なケースも有ります。
その時は片手で感謝の意を示すことを教えていました。
皆さん素直に聞き入れて戴き訪問が楽しい日々でした。
認知症
認知症はこの頃も有りました。
他人には知れないように家族内で匿っている感じでした。
定期訪問で聞かれる事は、お祖父さんが居なくなって探したら、
お寺の床下にいたのを見つけたとか、
昔良く遊んでいた祠に居たのを見つけた。
子供に戻って遊んでいた感じで発見されていました。
女性の場合は異なりました。
200km先の神社の床下や祠のなかで発見されたケースが有りました。
女性の場合は結婚して住まいが変わったので行く先は
子供の頃遊んだ地域の懐かしい場所に帰るのだと分かりました。
もし徘徊して行方不明になった方が居たら子供時代の遊んでいた場所を
探す場所の1つに加えてみてください。
認知症は子供帰り、幼い頃の記憶は鮮明になるが、直近の記憶がない。
認知症の薬は今はないが今後有効な薬は出てきます。
しかし現状は薬に頼り過ぎであると思います。
介護が大変だからと言っては、薬の量を増やし、効かないからと居つては
別の薬を増やす、薬でコントロールしている様なものです。
薬は体力を減退させる、引いては寿命を短くする。
薬と効果は投薬後の定時における表情の変化を見ておけばはっきりします。
投薬後、1時間ぐらいで効果が出ます。
笑顔いっぱいになる人、穏やかな顔になる人、怖い顔になる人。
人それぞれ違います。しかし、全ての人に対応できるのが介護員です。
しかし、今の薬に頼り過ぎは感心できません。
薬を少なくしても認知症に患者さんの介護ができるスキルを介護員全員が持って欲しい。
勿論、より添う介護,ストレスを感じさせない介護。
日々時間とともに変化する認知症患者、介護する人は気長に対応しなければならない。
大分県総合福祉計画(1990年)
介護事業開始から4年経過し、自分なりの在宅福祉を描けるようになっていました。
その頃は時間を見つけては大分県庁高齢者福祉課の課長を訪ねる機会が増えていました。
厚生省からの出向の方でとても話やすい人でした。
私は在宅福祉を機会があるごとに話していました。
12月の20日頃、今年最後の挨拶も兼ねて伺うと機嫌よくこう言いました。
補助金を取ってくるから福祉計画を作りましょう。
年明けの大分県庁高齢者福祉課の課長を訪ねると補助金を取って来たので
策定委員会を作りましょう。ワーキング委員になって下さいと言われました。
補助金の額は780万円でした。
委員は課長、私、NTTデーター所長、国保連課長、社協専門員、保健婦でした。
知っている方ばかりでした。
3ヶ月の間に大分県総合福祉計画を作るのでした。
基本はNTTデーターのネットワークシステムに渡しの在宅システムを
乗せて肉付けするというものです。
前年にはICカードシステムを使った緊急通報システムをNTT九州より
「お達者くん」と言う名前で発売されていました。
ICカードを差し込むと自動で登録済み相手先へ通話されるシステムです。
カード内には本人、家族情報、病歴等が記録されており暗証番号で
保護されるシステムとなっていました。
在宅福祉は大きくは大都市型、中都市型、過疎地型の3区分で
考えられます。
大都市は交通機関が発達しており、移動が便利である。
駅、若しくは駅の近くに高齢者は住まいを持ち、自由に生活する事が望ましい。
住居の1階にはコンビニ、2階は診療所、歯科医があること。
中都市型、この型が一番多い。
移動には車が欠かせない、送迎が必ず必要となります。
過疎地型、
人口も減少して家の主は女性が多い。
自宅では田畑や庭の草取りをして過ごしているがお墓を守るためである。
この様な地域では役場や郵便局の職員の家の側に家を借りてお年寄りを
夜寝る場所とする事で、夕食、朝食、お風呂が提供され、栄養管理と
安否確認が出来ます。
朝は各人宅へ送り、夕方迎えに行きます。
各家の状況の把握も出来ます。
在宅福祉の基本は安否確認が第一です。
安否確認の方法は
面談で確認。
声で確認。
音で確認。
機械での確認には下記の3点があります
電気流量センサー
ガス流量センサー
水道流量センサー
24時間センサー移動がなければ報告、これは技術的には出来ますが
法律的に難しい。
電線を使った安否確認は総務省の電波法の壁で現状安否確認には使用できない。
今後在宅福祉へ転換した時には第一にクリヤーしなければならない。
大分県総合福祉計画は完成後に冊子となり都道府県の福祉課には配布されました。
この頃から遠くからの訪問客が増えました。
その中の一人が民間救急サービスの創始者江藤さんです。
生まれは大分県別府市です。
今は静岡県浜松市でタクシー会社を経営しながら民間救急サービスを目指して
長年、運輸省と車両の改造・変更で戦って青色灯までは勝ち取ったが、
赤色灯はまだ遠いとの事、これからも挑戦は続くし続ける覚悟である。
彼は今は川崎に移転した全日救患者輸送と言う会社の社長でありました。
別府で江藤さんを連れてきた友達のマンションで飲むことになりました。
酒を飲みながらこれまでの苦労話を聞いておりました
江藤さんは体調が悪いのか食が進みませんでしたので
病院に行くことを進めました。
翌日別府市健診センターに行き健康診断を受けました。
診断結果が出た時に医師から私が呼ばれました。
江藤さんが私は親戚みたいな者だから検査結果を一緒に聞く様に
手配したのです。他人ですが同じ姓の江藤、この時だけの親戚でした。
医者は結果の説明で末期がんですと言いました。
家族に伝えてくださいと言われたので江藤さんに言うと、
以前手術を受けていた事も本人から喋って来ました。
この後川崎へと帰って行きました。
そして3ヶ月後に江藤さんの死亡の知らせが届きました
江藤さんが大分に来たのは最後のお別れに来た様なものでした。
来た時、全日救患者輸送は倒産していて他人の手に渡っていたのです。
私には何も出来ない、悲しい別れでした。
もう一人は伊藤さん、年齢は私より5歳ほど上でした。
住まいは別府ですが事務所は大分市でした。
病院の食事を作る事業をご夫婦でしていました。
事業所で食事を作り、病院で盛り付ける作業をして患者さんに提供していたのです。
1990年頃には先進的な事業でした。
最初は私の店(大分市春日町)に突然やって来たのです。
偶々店に居たので話を聞くと病院給食の事業をやっているとの事でした。
後日事務所を訪問致しました。
事務所兼作業所には女性のパート数人と男性の配達員、伊藤さんと奥さんが
作業中でした。献立メニューに従っての作業は大変です。
伊藤さん曰く、1500万円が今の損益分岐点だが今の損益は若干厳しい処だと。
でも楽しいこの仕事が、もっと取引先が増えれば経営は安定するのだが・・・
そして3年程先にがんで死亡の知らせが届きました。
事業は奥さんが続けるが経営者は代わるとの事でした。
どの事業も先駆者は苦労しながら進むもの、結果は直ぐには出ない。
夢を追いながら死んでいった方々にご苦労様でしたと言いたい。
1992年には商標登録をしました。
『安心倶楽部』です。
在宅福祉のネットワークシステムを全国的に広めるために使用。
しかし絵に描いた餅に終わりました。
『安心倶楽部』は更新料を払わずに公知の事実として現在に至っています。
20年前の在宅福祉ネットワークシステムを完成するのが夢となっています。
ここに来て使えるシステムは沢山あります。
まだ総務省の電波の問題は解決しては居ませんが、代用が可能なシステムが有るので
後は実行のみになっています。
長年描いていた在宅福祉が出来る日が楽しみな今日此の頃です。
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