長崎市に到着して、早朝からお巡りの世話になったその日
体調が回復したところで
長崎港から、軍艦島のお隣である高島へ渡ることにしました。
何故、高島に渡るのかと言うと
当時の数少ない情報では
高島港の漁師と交渉した、買収した、チャーターした等の事例があったからだ。
更に、高島町には「長崎市高島石炭資料館」と言う施設もあり
軍艦島のジオラマや、各種資料・写真等が展示されている。

高島に上陸するや、早速「長崎市高島石炭資料館」へ行き
展示物を観覧しながら、軍艦島上陸の方法を模索するも
これと言った、ヒントは無く
果たして、本当に軍艦島に上陸できるのか不安になってきました。
高島港を周って、漁師に交渉してみるものの
尽く断られ、突破口が全然見当たらなく
「やっぱ、上陸はムリなのかなぁ~・・・」っと思いながら
高島での情報収集を諦め、長崎市へ戻ることにした。
すっかり、当てが無くなり
もう、諦めて明日愛知へ帰ろうと思い始めていたのだが
もう一度だけ、情報をイチから洗うことにして
ネカフェへ行くことにした。

ネカフェの個室に閉じこもり
徹底的に、2ちゃんねる掲示板群を漁りちらしていると
1つの携帯番号に辿り着いたのです。
まぁ、どうせガセネタで
全く関係ないような所に繋がるんだろうなぁ、と思いながらも
ダメ元で電話してみると
おっちゃん「はい、◯◯です。」
私「あっ、あのぉ~・・・軍艦島に渡りたいのですが。」
おっちゃん「いつ?」
私「明日なんて無理ですかねぇ~?」
おっちゃん「じゃぁ、明日の朝3時半に◯◯港に来て。場所わかる?」
私「◯◯港ですね。調べて行きます。本当に軍艦島へ渡してくれるんですか?」
おっちゃん「おう。他に三人お客さんいるから、遅刻せんように来てやぁ。あと料金0000円だから。」
私「分かりました。明日よろしくお願いします。」
めっちゃ半信半疑だけど、ビンゴ!ってことなのか?!
ちゅーか、料金の安さにもビックリです。
当時、十万円取られた人もいれば、1万円位の人も居たようですが。
私が仕入れていた情報の中では、最安値でした。
半ば沈んでいた気分が、一気に沸騰し
興奮冷めぬうちに、ネカフェを出て
おっちゃんに指定された、◯◯港へと向かいました。
長崎市からは、ちょっと離れているので
途中、食料やら酒を買い込んで
港近くの路上で、一人意気揚々と前祝いです。
長年、上陸したいと思い続けていた
軍艦島を、九州本土側から眺めつつ
いよいよ明日、本当に軍艦島に上陸できるんだと思うと
胸が熱くなるばかり。

そして蒸し暑いランエボの中で、AM3時位まで仮眠です。
勿論、興奮と蒸し暑さで寝れたもんじゃなかったけど
AM3時に設定した携帯のアラームが鳴ると
飛び起きて、いざ戦闘準備です。
作戦名「軍艦島奪還作戦」、コードネーム「グッドスピード」
あれです、ショーン・コネリーとニコラス・ケイジの映画「ザ・ロック」ですw
アーバン迷彩に、タクティカルブーツ。
見た目は戦場カメラマンの如く
愛用の一眼デジα100と予備のコンデジを装備して、港へと向かった。
かなり危ない人ですね。まぁ危ないところへ行くので、装備は必要でしょ?

さて、港に到着すると
そこには既に、昨日電話に出たと思われるおっちゃんと
軍艦島で釣りをする客数人と
私と同じく、廃墟マニアと思われるガイア、オルテガ、マッシュが異彩を放っていた。
っと言うのも、真夏だってのに
黒の革ジャンに革パンに皮手袋に黒のハンチング
もう、見た目は泥棒です!

私の戦闘服なんて、可愛いもんだと安堵したくらいだ。
おっちゃんから、注意事項やら集合時間等の説明があり
漁船へと乗り込んだ。
注意事項としては、暗いうちは
ライトを島外の方へ向けないことや、日が昇ったら
海上から見える位置には居ないようにとのこと。
海上保安庁が朝から警らしているようなので、気をつけないといけませんね。
船に揺られること30~40分程
目が慣れてくると
暗闇の洋上に浮かぶ、戦艦土佐の艦影が浮かび上がってくる。
端島こと軍艦島
軍艦島と呼ばれるようになった理由が
外部から見ると、戦艦土佐に見えるからで
実際に米潜水艦からの魚雷攻撃を受けたという逸話があるくらいだ。

もう、すぐ目の前に軍艦島がある。
この日波が高く、接岸というか島南部の桟橋に
なかなか近づけなかったが、タイミングを見計らって
軍艦島へ飛び移り、タラップを登ると
夢にまで見た、聖地 軍艦島の「学校」が目の前にそびえ立っている。
端島小·中学校. 建物は1958年に建てられ、島で最後に建てられた建物の一 つとなった。7階建てで、1階から4階は小学校、5階から7階が中学校となっていた。7階 には講堂、体育館、その他の多目的室もあった。
桟橋からタラップで堤防へ上がり、軍艦島の敷地内へ入るのは
その堤防から、またタラップで降りなければいけない。
恐らく、アポロ11号計画における船長ニール・アームストロングも
今の私と同じ気持ちだったに違いない。
どちらの足で、軍艦島の地に着こうかと。

記念すべき2007/08/13とうとう夢が叶った。
私は、禁断の地「軍艦島」に到達したのだ!!!!!!!
この時ほど、2ちゃんねらーに感謝したことはない。
彼らのお陰で、来れたのだから。
まだ暗くて危ないだろうと判断し、ガイア・オルテガ・マッシュらと同行することにした。
学校から始まり、病院、64号棟、地獄段と王道と呼ばれるルートを通り
瓦礫の山を抜けて、島の北側へと出る。
辺りは、さながら中東の戦場の様だ
瓦礫が散らばり、崩壊している建物の山を登ったり降りたり
崩れて行き止まりだったり、迷路のようだが
通れるルートを探しながら、今の観光地化された遊歩道側に出ることができた。

建物の中は、人々が退去時に置いていった
昭和の生活の品々が随所に散らばっている。
昭和のまま、時が止まった空間を
ファインダー越しに覗きこみ
夢中で、画を切り取っていた。

島を反時計回りに周ってきて、ベルトコンベアーの橋桁辺りから
学校の校庭へと向かうと、学校の地面がごっそりと崩れて
基礎がむき出しになっているではないですか!
いつ、学校が倒壊してもおかしくないのだと
改めて、危険な場所だと痛感したのです。

校庭に戻ると、既に日が昇り
気持ちのよい青空が広がっていた。
夢中で周っていたから、日が昇った事さえ気づかなかったのだ。
ガイア・オルテガ・マッシュと記念撮影して、帰りの船が来るまで各自
自由に散らばって見ることにしました。
私は、見落とした場所がないか
再び島内を巡って、だらだらと二周目。
AM6:30
集合場所である、学校の校庭に戻ると
数分遅れて、迎えの船が到着しました。

名残惜しくも、船に乗り込み
徐々に小さく見えていく、軍艦島の艦影を
一生忘れることのない旅だったと、目に焼き付けて
2007年最高の旅が、幕を閉じたのです。
全三回、ご覧いただきありがとうございました。
今でこそ、時効を迎えましたが
不適切だと仰られるのであれば、削除しますので。
ご一報ください。
しかし、あの時
軍艦島を目指さなければ、きっと私は後悔していたことでしょう。
なんせ、もう自由に周ることが到底不可能になってしまったのですから。

