社会不安障害・社交不安障害(SAD)・社交不安症
この言葉を聞いたことはありますか?
恐らく多くの方は、初めて聞く言葉だと思います。
私は東京都在住の男性です。
社会不安障害(SAD)という精神疾患を小学生で発症し、20年以上苦しんでいます。
闘病しながら大学を卒業して、病状で仕事が続かないことも多く、
民間企業の正社員や非正規など、転職をしながらなんとか働いて暮らしています。
この病気は、不安障害という精神疾患のひとつで、日本国内に推定で約300万人以上の患者がいると言われており、
アメリカには1500万以上。世界中で苦しんでいる人がいます。
引きこもり、自殺、貧困、他の精神疾患(うつ病、アルコール中毒、パニック障害など)を併発する原因になる、とてもやっかいな病気です。
この病気のことを世間の方に認識してもらい、社会不安障害や不安障害で苦しんでいる方や、そのご家族の参考になれば。
また、あがり症や対人恐怖症など性格の問題だと思い、病気を発症しているにもかかわらず、治療をおこなっていない方が治療のきっかけなどになればと私の闘病記、体験談を書こうと思いました。
応募した原稿が出版社の選考通過したので、大幅な加筆、修正をして2017年の8月に著書『ぼくは社会不安障害』彩図社より発売しました。
現在も文庫本と電子書籍で販売中です。図書館に置いてあるところもあります。
社会不安障害(SAD)は、社交不安障害という病名に2008年に変更されましたので、社交不安障害、社交不安症も同じ病気のことです。
「あがり症」「対人恐怖症」この言葉は皆さんも聞いたことはあると思います。
社会不安障害という病気が認知される前の日本では、このような性格の問題だと思われていました。
それは、社会不安障害の典型的な症状が、まさに「あがり症」「対人恐怖症」に近いものが多いからです。
※この病気は体験者ならわかるのですが、まず一般の方に説明するのがあまりにも難しい病気です。
性格と病気との線引きも難しく、コミュ二ケーション障害とも似たような部分もありますが、
基本的に病状がひどい場合や社会生活に支障が出る場合は治療対象になります。
現代社会は、このような病気や性格の人は適応が難しいと思います。
特に仕事において、サービス業や営業など対人コミュニケーションを重視される職種が大半を占めるような状況では、無理をして働いていると病状の悪化などで、うつ病や適応障害の併発や引きこもりなどにつながることも多いです。
症状もインターネット等で色々と書かれていますが、人によって様々です。
病状がそこまでひどくない方もいれば、重度の方もいます。
以下は、病気の説明です。
人から注目を集める場面において、誰しも不安を感じることがあり、それをあがり症と呼んだり、特にあがりやすい人をシャイと呼んだりする。
しかし、それが原因で日常生活に支障をきたすようなことはなく、通常はそういった場面に慣れるうちにあがりにくくなるものであり、身体的な症状はあまり発現しない。
これに対して社会不安障害は、対人場面で過剰な不安や緊張が誘発されるあまり、動悸・震え・吐き気・赤面・発汗などの身体症状が強く発現し、そういった場面にはなかなか慣れないため、対人関係がうまく築けず集団の中で孤立してしまったり、たとえしなければならないことであっても、対人場面を次第に避けるようになり、日常生活に多大な影響を及ぼす点が異なる。
社会不安障害患者が強い不安を感じる場面として、最も多いのが「見知らぬ人や、少し顔見知りの人との会話」と「人前での発言・スピーチ」、次いで、「権威がある人(社会的立場が上の人)との面談・会話」、「会社で電話をとる」、「受付で手続きをする」、「人前で文字を書く」、「人前でご飯を食べる」、「会食やパーティに参加する」などである。
このような場面で社交不安障害患者には、さまざまな症状が身体に現れる。強い不安を感じる、強い緊張を感じる、頭が真っ白になり何も答えられない、声が震える、声が出ない(選択緘黙)、手足の震え、めまい、動悸、口が渇く、赤面する、汗が出る、吐き気がする、胃のむかつき等の症状がある。
こうした強い不安を避けるため、また人に知られたくないと考えるあまり、社会不安障害患者は周囲の人々との接触や、人前での活動を避けるようになり、日常生活に支障を及ぼす事になる。また、症状が慢性化すると、うつ病やパニック障害なども併発する危険性があるので、早期の治療を要する。
「自殺を考えたことがある」人の割合はうつ病の人よりも多く、実際周囲の人が思っている以上に患者達は悩んでいるといわれる。
生涯有病率は3 - 13%と言われており決して稀な病気ではない。5歳以下など世代を問わず発症するが、特に15歳頃の思春期に多く、不安障害の中で最も発病年齢の低い病気と言われている。その一方、30 - 40代あたりに管理職につき、人前で話す機会が多くなり発症するといったケースもめずらしくない。
なお、症状はパニック障害と似ているが、パニック障害が「死」や「精神的におかしくなってしまうこと」に対する強い不安であり発作的に症状が発現するのに対し、社会不安障害では「人」や「社交場面」に対する強い不安であるところなどが異なっている。
読むだけでは、症状はわかりずらいと思います。
この病気の症状には個人差が大きく、周りの環境も大きく影響します。
そして、病気であるにもかかわらず、世間での認知度があまりにも低いため、性格の問題やその他の原因だと思い、病気だともわからずに精神科や心療内科等を受診しない。
また、そのようなメンタルの病気に偏見などもあるので、医療機関に行くのに抵抗のある人もいるケースが多々あり、また精神科医や開業医によっては知識不足により適切な診断、治療ができないということ。
世間はこの病気の存在さえ知らず、甘えだと誤解されたり、社会生活に適応できなくなったり、
患者が社会生活に支障をきたすことなどが大きな問題点になっています。
ここからは、私の現在までの体験、闘病記を書いていきます。
私は、ごく平凡なサラリーマンの父と専業主婦の母、2歳下の妹の4人家族で育ちました。
小学生になり友達に誘われ、1年生の時に地元のサッカーチームに入りました。
そこから私の苦しみが始まりました。
小学校3年生の時です。
サッカーチームの練習を行っているグランドに行くと突然、吐き気に襲われたのです。
吐き気と言っても胃が気持ち悪いのではなく、表現が難しいのですが、
鼻の奥の喉のあたりが気持ち悪いのです。
例えるなら鼻水が喉にまわってくるような不快感による吐き気です。
私はパニックになりコーチに泣きながら気持ちが悪いと言い、母親に迎えにきてもらいました。
その帰り道です。吐き気がすっかりおさまったのです。
80年代や、90年代前半に部活やスポーツの経験のある方ならわかると思うのですが、暑くても水は飲むな、そして指導者が理不尽に毎回怒鳴り散らす様な根性論のチームでした。
今はサッカーといえば、日本代表がワールドカップに出るのも当たり前で、海外サッカーの情報や戦術、テクニックなども私も詳しいですが、当時の日本のサッカーはJリーグが始まる頃で、指導方法も根性論だけという、今考えると本当に理不尽なチームだったなと思います。
そんなチームだったので東京都の区大会では優勝を何度かしました。
今になってはわかることですが、小学校低学年の自分にとってかなりのストレスになっていました。
そんなチームだったので辞めていく子や練習に参加しなくなる子もいました。
それ以降、練習や試合の際に度々、吐き気をもよおすようになってしまいました。
しかし、小学生の自分には原因がわからず、鼻炎をわずらっていたので、鼻の奥が気持ち悪いのは、鼻炎のせいだろうと思い耳鼻科に通っていました。
チーム内ではレギュラーであり技術もあったので、吐き気がありながらも我慢して練習はなんとかこなしている状況でした。
練習は毎週土日だったのですが、憂鬱で雨が降ると練習が中止になるので、てるてる坊主を作って、さかさまにしてつるして雨が降ることを祈っていました。
■初めての嘔吐 嘔吐恐怖症
そんな状況で練習に参加していたのですが、4年生の時です。
練習中に嘔吐してしまいました。
それから症状は急激に悪化、練習に参加しても度々嘔吐するようになりました。
こんな状況なら皆さんは、チームを辞めればいいだろうと思うでしょう。
私もそう思います。
もし中学生くらいの精神年齢であればそうしたでしょう。
しかし、小学4年生当時の私は、チームを辞めるということをコーチに言うことすら恐怖に感じていたのです。副キャプテンをやっていたりもしたので小学生ながら責任感も感じていました。
また、嘔吐の原因も精神的なことからきているなど、小学生には判断できません。
親も精神が鍛えられるから良いという考え方だったので、深刻に考えてはいませんでした。
また、当時はJリーグが始まりサッカーブームです。
学校の放課後は、友人と毎日のようにJリーガーになることを夢みて校庭でサッカーをしていました。
学校でサッカーをするときには、全く症状がでないのです。
小学生の自分には、なぜサッカーチームでだけ具合が悪くなるんだと原因がわからない理由の一つでした。
区大会で優勝するチームのレギュラーだった私は、学校では怒鳴られることもなく伸び伸びとサッカーができていました。
学校で友達とサッカーをするのは楽しくて仕方なかったのです。
しかし精神状態は限界でした、小学5年生になるとさすがに練習に参加しなくなりました。チームのコーチは辞めないで在籍だけはしてほしいということだったので。在籍だけはしていましたが練習に参加することはありませんでした。
■症状の悪化 地獄の中学時代 体育恐怖症 不登校 引きこもり 自殺未遂
サッカーチームは練習参加しなくなったのでほっとしていたのですが、
症状は悪化しました。
学校の体育の授業で吐き気がでるようになってしまったのです。
運動神経がよく体育の授業が楽しみだった私がです。
ただ小学校の体育の授業は、サッカーチームに比べれば楽なものです。
吐き気があってもこなしていました。
そして小学生の自分は吐き気が出るのはなぜなんだろうとただ思うだけで、
した。
小学生だったので、精神科や精神疾患などという言葉すら知りませんでした。
そんな形で小学校は卒業しました。
私の小学生時代は、サッカーチーム以外では活発で、友人も多く学校生活では何の問題もなく過ごしていました。学校に行くのが楽しいそんな小学生でした。
ただ、クラスメートの前で発表するなどの際は緊張を伴うことも多かったです。この時点では社会不安障害の要素はあったのかもしれませんが、サッカーチームのストレスによる身体症状が強く現れていたのではと思います。
体育の授業で吐き気が出るようになってしまったのも、サッカーチームでの経験、トラウマから小学生でメンタルを病んでしまい、サッカーではなくてもスポーツに対する恐怖心が心理的に発生する状況になってしまったのだと今振り返って思います。
そして地元の公立中学校に入学しました。
ここからがさらなる悪夢の始まりです。
やはり体育の授業で吐き気がでるのです。
中学校の体育教師は厳しく、見学の場合は理由をしつこく聞いてきます。
吐き気が出ると言っても理解してもらえず、サボりたいのだろと思われました。
そんなこともあり体育のある日は、学校に登校しようとするだけで、家の玄関で吐き気をもよおすようになり、体育のある日は学校を休むようになりました。
そして中学1年の最初の中間テストがありました。
自分で言うのもおこがましいのですが、勉強はできたので、約200名中トップ5の点数をとりました。
そして、勉強ができるというだけで学級委員に推薦され、多数決で決定してしまったのです。
学級委員の仕事は、ホームルームでクラス全員の前で司会をしなくてはなりません。
社会不安障害の私にとっては地獄です。
激しい緊張、震え、吐き気。
それからは、学校へ登校しようとするだけで吐き気がでるようになり、通学が困難になり、中学1年生の途中から不登校で引きこもりになりました。
さすがに親も慌てます。
そして次に連れていかれたのは都立の精神病院に連れていかれました。
主に小児精神科診療を行う精神病院です。
そこの医師に泣きながら今までの経緯を話しました。
「治したい。学校へ行きたい。つらい。」
精神テストのようなものをうけさせられました。
絵を見てこれが何に見えるか。どう感じるか。また、絵を描かされたりしました。
そのようなテストを受け
医師の診断は「不安症」でした。
そして精神安定剤を処方されました。
これでやっと治る。学校へも復帰できる。そう思いました。
しかし薬を飲んでも治らないのです。
当時の日本の精神医療では社会不安障害などという病気も認知されていませんでしたし、
薬も現在処方されているような、効果が期待できるものは認可されていませんでした。その当時では、医師の治療も一般的なものが行われていたのだと思います。
現在では、治療には薬物治療の場合は、セロトニン等の調整の為に選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)や不安を抑えるために抗不安薬が処方されるケースが多いです。精神療法ではカウンセリングや認知行動療法などが日本では行われています。しかし、発症の要因も不明で脳の問題や心理的な要素も強いので確実に治るという治療方法は現代医学では不明です。
簡単に言うと薬を飲むだけでは、治らない場合も多いのです。
軽度の社会不安障害の場合は、それだけで回復する場合もあります。
ただし、SSRIも副作用や精神への影響があるのではということで、現在でも研究されています。問題点もあるSSRIなのですが、現在の薬物治療では処方されている場合が大半です。私も服用しています。
抗うつ薬なのでうつ病でも処方されるケースも多いです。
副作用も当然あります。
病院で、投薬とカウンセリングを受けるが症状は改善されず、自分は治療方法に疑問を感じていたので通わなくなり、母親だけが毎月通うようになりました。私も時々通院するという状況でした。
父親は病気の理解がなく、無理やり学校へ行かせようとして制服に着替えさせ、
「学校へ行け」と首元を引っ張る状況でした。
そして、中学校2年終了時まで自宅に引きこもり状態になりました。
引きこもってる間は、このまま病気が治らないなら人生終わりだと思い、
自分の部屋で手首を切ろうとしたり、首を吊ろうとしたり、自殺をしたいと考えるようになりました。
でも、死ぬ勇気もなく死にきれませんでした。
その頃は今と違ってインターネットの情報もなく、途方に暮れていました。
テレビを見たりすると、大学卒の生涯賃金と高校卒の生涯賃金の違いや、学歴社会の話、
名門大学を卒業すれば、大手企業に入れて安定した生活を送れるなど、マスコミも報道していたので、通信制高校か大検をとろうかとも思いましたが、
名門大学に入るにはそこそこの普通科の高校に行かないと難しいなと考えていました。
今になって思えば、日本社会の価値観に縛られていたと思いますが、普通に学校教育を受けていて、テレビなどの報道を見ていれば中学生ぐらいだとそういう考えになっていました。
なんとか復帰して大学進学を目指そうと決意しました。
勉強に関しては、教科書だけはもらっていたので、国語、英語、数学、社会、理科の5教科を独学で勉強していました。
両親は学校に呼ばれ校長から
「うちは公立だからって簡単に進級できると思わないで下さい、転校したらどうですか」
「学校がいやで登校しないんじゃないですか」と言われたそうです。
病気の診断書を提出しているにも関わらずそのような対応です。
今、学校がそのような対応をとれば問題になるでしょうが、1990年代です。本当に精神疾患については世間の理解がないんだな中学生ながらつくづく感じました。
■中学復帰
中学3年生になり、普通科の高校に進学するためには、内申書が必要だったので、病状は全く改善していなかったのですが、無理やり登校しました。
約1年半ぶりに登校するのは非常に勇気がいりました。緊張、吐き気もひどかったです。
復帰登校の日のことは今でも鮮明に覚えています。
同級生がいる中に登校していく勇気はなかったので、まだ登校してこないような早い時間に自分のクラスの教室に行きました。
誰もいない教室で待っていると、1年生の時のクラスメートの男子が登校してきました。
彼はとても驚いた様子で担任を呼びに行きました。
すると担任がやってきて、よくきたなと握手をしてきました。
そして自分の席を教えてもらい座っていました。
クラスメートが続々と登校してきましたが、みな驚いた様子で誰も話しかけてきませんでした。
小学校からの同級生で仲の良かった友人もです。
そして休み時間になりました。
廊下を見ると他のクラスの同級生が私のことを見に来て、コソコソと喋っているのです。
みんな冷たいなと感じました。
それと同時に私が驚いたのは、同級生の変わりようです。
中学生の頃は成長期なので、男子は声変わりをしているのです。
また身長が伸びていたり、女子も中学1年生の頃の子どもっぽさがなくなっているのです。
タイムスリップしたかのような感覚でした。
そして1日でわかったことがありました、自分が不登校の間にも同級生は学校生活を送っているので、人間関係やグループができてしまっていること。
私はどこのグループにも入れずに孤立するということ。
スクールカーストでいえば最底辺になるということが。
しかし、そこは割り切ってやっていくしかないと思いました。
とにかく内申書をもらうために卒業をする。
名門大学に入って、一流企業に就職して同級生を見返してやるんだと。
ただ勉強に関しては不安もありました。中学1年生の後半から独学で勉強していたので、
授業についていけるかということです。
その心配は、1週間でなくなりました、独学でやっていたことで授業には十分対応できることがわかったからです。
体育に関しては学校が配慮してくれ、体育の授業中は図書室や教室で自習をさせてくれました。
そんな形で復帰した中学校でしたが、引きこもっていた間、人との接点がほぼない状態だったので、対人的なことに不安をもつようになり、コミュニケーション力が格段に落ちてしまいました。
クラスでは一人で孤立して浮いた状況でした。
いじめでクラスメートから無視をされてつらいという話を良く聞きますが、
私はその気持ちがとても理解できます。
昼休みは友人もいないので図書室で本をひたすら読んでいました。
文化祭、修学旅行、合唱祭、遠足などの行事にも参加しましたが、今思い出しても辛いので詳しいことは、書ききれません。
吐き気が出たり、不安感がひどいなど体調の悪いときは欠席をしたこともありましたが、とにかくひたすら勉強を頑張って、テストでは学年トップクラスの成績をとっていました。
そして進路を決める時期になりました。
不登校で精神疾患の私は推薦入試はまず無理でした。
復帰はしたものの休みがちだった為、欠席日数でアウトです。
外部の模擬試験を受験しました。
結果は、都立高校に関しては、自分の学区のトップの高校の合格A判定、私立校に関しては難関私立高校もAやB判定、名門大学付属高校もA判定という結果でした。
母親と担任と私の三者面談が行われました。
私は模擬試験の結果も良かったのですが、家庭の経済事情も考え、私立ではなく都立の学区トップの高校に進学したいと思っていました。
志望校を担任に伝えると担任は、学区の中堅高校を進めてきました。
自分もその理由はわかりました。
現在は入試制度が変わっているのかもしれないので、
その点に関しては詳しくないのですが、
当時は、都立高校の場合、試験の点数だけでなく、内申点が重要になるからです。
合否の判断は当日の試験の点数と内申点の合計で決まります。
国語、英語、数学、社会、理科の5教科の成績は、4と5のみ。
問題は音楽、美術、体育、技術家庭の専科です。
体育は出てないので1。音楽は人前で歌うことが厳しかったので低い成績、美術、技術家庭も特別得意なわけではないのと、孤立していたためグループで作品を製作する際や作業をする際の評価は低くなります。
また、症状が出た時は休みがちだったため2か3程度だったと記憶しています。
内申点は点数化した場合に専科の方が重視されます。
つまりいくら当日の試験の点数がよくても、内申点が足りなくて落ちるということが想定されるわけです。
その話を聞いて私立に行くことも考えましたが、家庭の経済事情、もし社会不安障害の症状が悪化した場合に中退となってしまうリスクを考慮し、都立高校に行くしかないと決断しました。
私は学区の境目に住んでいたのですが、家から一番近い高校は自転車で10分程の隣の学区にある高校でした。
そこの偏差値を調べると、中堅程度だったので隣接学区枠で受験をすることにしました。
私立高校に関しては体育恐怖症があったので、滑り止めで都心にあり校庭が狭く体育の授業が厳しくなさそうな学校を選びました。
そして受験を迎えました。
滑り止めの私立高校は内申点は全く関係なく、当日の試験の点数と面接だけなので、試験は余裕で合格。面接の際は社会不安障害の症状も出ましたが何とか乗り切りました。
そしていよいよ都立高校の受験です。
過去問題集などをやっていて点数が、とれることはもうわかっていました。
しかし一番の不安は試験中に嘔吐などの症状が出て途中でテストを受けられなくなることでした。
本番をむかえるとなんとか症状は出ず、無事に試験を終えることができました。
自己採点をしてみると、予想以上の高得点。内申点が低くても学区トップの高校に入れる点数だったのです。
とてもやりきれない思いになりました。
内申点を気にして偏差値の低い中堅高校を選んだことを後悔しました。
受験した都立高校の合格発表の日になりました。
もう自己採点で高得点をとっていたので合格していることは、わかっていました。
ただ、合格者の受験者番号が貼りだされるので、念の為見に行きました。
当然、私は合格していました。
報告のために中学校へ行きました。
担任はおめでとうと言いましたが、私は喜べませんでした。
本来なら学区トップの高校に入れたわけですから。
そんなわけで私の高校受験は終わり、あっという間に卒業式となりました。
皆さんは、中学校の卒業式にどんな思い出がありますか?
私はみじめな思い出しかありません。
それは式が終了した後です。
クラスメートは友人と写真を撮ったり、卒業アルバムの寄せ書きコーナーにメッセージを書きあったり、思い出話をしたりしていました。
孤立していた私は誰からも声をかけられることもなく、その中をただ一人で自宅へ帰りました。
やっと孤独で闘病しながらの中学校生活も終了だという安堵の気持ちだけでした。
これが私のみじめな中学時代です。
そして、この時点では、私は自分が精神疾患があるということはわかっていたのですが、
病院で診断された不安症という病気であると思っていただけで、
社会不安障害であるということをわかっていなかったのです。
自分が社会不安障害であると判明するのは、これからだいぶ先のこととなるのです。
そして、根本的な問題は解決しないまま、自分の病名もわからず、高校に進学しました。
高校時代、大学時代、企業勤務時代、治療などについては著書『ぼくは社会不安障害』に記載しています。
ここには書いていない症状や、学生時代、企業勤務でどのような困難に対応することになるか、治療や病院の選び方など私のケースを記載しています。人それぞれ症状が違うので一概には言えませんが、
社会不安障害の患者は社会生活が大変になるケースが多々あります。
私がこのストーリーを書こうと思った、重要なことがあります。
社会不安障害(SAD)を発症する年齢は様々です。私のように学生時代に発症する方が多いのですが、
社会に出て企業で働いていて30代、40代の管理職やある程度の立場になって発症する方や専業主婦などでも発症する方もいます。
この病気は、日本国内に推定で約300万人以上の患者がいると言われており、
世間には認識されていませんが、決して珍しい病気ではありません。
また、世界中に苦しんでいる方が大勢います。
自分には全く関係ないと思っていても、誰にでも発症する可能性がある病気です。
そして、引きこもり、自殺、貧困、犯罪、他の精神疾患(うつ病、アルコール中毒、パニック障害など)を併発する原因になる、とてもやっかいな病気です。
学生時代に発症した場合、症状の度合いにもよりますが、適切な治療を受けずに重症化してしまうと、教育の機会を奪われてしまいます。
それは、学校の授業を受けられない。そういったことだけではありません。
学校の授業レベルなら独学でも勉強することはできます。
社会へ出てから必要となる、コミュニケーション能力や人間関係の形成ができなくなります。
学校に通えなくなる人や中退する方もいますが、大学や専門学校まではなんとか卒業できるという人は意外にいます。
私も病状で苦労しましたが、大学は卒業できました。
また、大学生などであれば健康なら色々なことにチャレンジできます。
アルバイト、サークルなどで社会経験をつんだり、人間関係を作っていく。
ボランティアやNPO、インターンシップ等で社会を見てみる。色々な活動を行って人脈を作ったり経験を積む。学生起業をしてみる。専門的な研究に取り組んでみる等、色々なことを体験できる重要な期間です。
学生時代に社会不安障害(SAD)を患ってしまうと、社会に出てから生きていく上で必要になる、非常に大切な経験ができなくなってしまうということが大きな問題なのです。
また、仕事を探すにも症状によってできる職種が限られてしまいます。
面接などは社会不安障害の患者が一番症状の出る場面です。
そんな状況で面接に臨んでも上手く対応もできないこともあります。
就職活動の段階になって困る学生も多いです。
なんとか採用されても、症状により企業に適応できない患者も多数います。
社会に出て発症してしまう場合は、せっかく本人に才能や能力があっても、それを生かす機会も奪われてしまいます。
高いクオリティの仕事をできる方でも、病気の為にしかたなく休職や退職に追い込まれてしまう。
研究者として優秀で、例えばノーベル賞を受賞してもおかしくないほどの方でも、社会不安障害を発症してしまえば、研究にも支障が出る、またその研究の成果を発表することさえもできなくなってしまいます。
芸能人やスポーツ選手などが発症してしまえば、その才能を生かすこともできません。海外では社会不安障害であるとカミングアウトされたハリウッド女優、ミュージシャン。有名人やスポーツ選手も少数ですがいます。
病気を発症してしまうのは、様々な要因があるので防ぎようがないかもしれません。
ただ、重症化する前に精神科、心療内科等で適切な治療さえ受けることができれば、短期間で復帰もできる場合もありますし、病気でもなんとか仕事をしている人もいます。
しかし、本人があがり症や対人恐怖症など性格の問題だと思い、病気を発症しているにもかかわらず、治療をおこなっていないケースが多々あり、
精神科、心療内科、メンタルクリニック等へ行っても、適切な診断、治療ができない医師が非常に多いのです。問診だけで病名と治療方法が決まってしまうので、医師のレベルとモラルが問われます。
3分診療でただ薬を処方するだけの医師もかなり多いです。
日本の精神科医療は欧米に比べ大きく遅れていると言われています。
精神科病床数の数は多いのですが、医療制度、治療方法、治療に対する考え方が欧米とは大きく違う現実があります。
行政の支援も本当に患者の助けになるようなものではありません。
日本国内に推定で約300万人以上の患者がいると言われているにも関わらず、
世間での認知度の低さや、病気の情報の少なさ、また精神疾患への偏見。患者の悲惨な生活。
私は、そんな状況を変えようと思い、ストーリーを掲載しました。
私のストーリーを読んでいただきありがとうございます。社会不安障害という病気は世間にはほとんど知られていません。
共感いただけたり、参考になったと思われた方、著書『ぼくは社会不安障害』も読んでいただければ幸いです。
◆「出版関連、メディア関連、ご連絡やメッセージを下さる方へ」
私のストーリーを読んでいただいてありがとうございます。
社会不安障害を含む不安障害に関しては、インターネットや書籍で精神科医などが病状を説明したものはあるのですが、実際の患者の体験談や苦しみに関する情報や書籍は少ないです。
患者は症状などにより社会に発信することが難しく、孤独に悩んでいるケースが多いです。
厚生労働省や精神保健福祉センターなどに問い合わせても、病名すら知らなかったりする担当者がいたり、病名を知っていても、具体的な症状や臨床現場の実態、患者の生活状況などについては把握していない人もいます。
また症状の特徴から患者の実態が表面化しずらいということも問題です。
疫学調査や患者数調査も厚生労働省に問い合わせましたが、精神疾患全体に対する患者の調査や統計の出し方が、臨床現場や患者の実態をわかっていないようであいまいです。患者数も推定でしか出せないような状況です。
自分が病気であると認識していないで苦しんでいる人もいます。
そのような状況なので行政の支援もほとんど受けられません。
そのため、この病気の患者は自殺、引きこもり、貧困におちいってしまうことがあります。SNSやネットで情報発信している患者もいますが、皆さん症状の辛さに悩んでいて、日常生活に支障をきたしている方が非常に多いです。自殺を考えていたり、貧困になっている患者も書きこみを見るといることがわかります。辛さを吐き出す場所がないからSNSやネットなどに辛い気持ちを書きこんでいるんです。
日本国内に推定で約300万人以上の患者がいると言われているにも関わらず、
世間での認知度の低さや、病気の情報の少なさ、また精神疾患への偏見。患者の悲惨な生活。
私は、そんな状況を変えようと思い、ストーリーを掲載しました。
私は医師ではありませんが、この病気の体験者にしか理解できない、その辛さや社会生活でどんなことが起きてしまうのかは、身を持って痛感しておりますし、実体験から患者目線で研究しています。
研究をしている精神科医も理論は理解していても、病気の体験者ではありません。
また、民間企業で働いた経験もない医師が多数なので企業や学校で患者がどんな支障が出るかなどは、
この病気は患者にしか、その辛さは理解が難しいです。
厚生労働省も患者の実態や生活状況まで把握しきれていません。
精神科医ではわからない病気の症状、患者が学生期、社会人になりどんな困難に直面するか。なぜ患者が引きこもり、貧困、自殺にまでおちいってしまうのか。病気を体験している患者の声を広く届けることが必要です。
この病気は社会問題である状況です。
世間の方が知っているうつ病と同じくらい、ある意味やっかいな精神疾患です。
2次障害でうつ病を併発しやすいので、うつ病患者の中には元々、社会不安障害を患っていたという方もかなりの数でいると思われます。症状から医師によってはうつ病や適応障害などと誤診される場合もあります。
患者の立場として取材をうけることなどは可能です。
2017年8月に著書『ぼくは社会不安障害』を彩図社より出版しました。
※フェイスブックでメーセージを頂いてもシステムの問題なのかメッセージが届きません。恐れ入りますがツイッターのDMかメールにてご連絡をお願い致します。
ツイッターは病気専用アカウントでもないので一見すると色々な情報をツイートしています。
ツイッター 伊藤やす@happy111_y
メール happy11go77@yahoo.co.jp
マスコミで報道されない、精神疾患患者の命や生活に関わる重要な問題点についてご理解いただけると思います。身体の病気は身近なことに関わる問題なので一般の方も共感してマスコミも取り上げます。
精神疾患についてはこういう病気がありますという報道で終わってしまい。偏見や差別意識も社会にあり、患者への対策の議論が進まず、マスコミで深く報道されることもないので私は本の出版をすることにしました。
また、当事者の声を広く届ける必要があると思っています。
是非、著書を読んでいただき、SNSやネット等で発信などしていただければ幸いです。
社会不安障害に限らず、精神医療や様々な精神疾患患者全体について考えていく必要があると思っていますが、精神疾患への偏見や差別などは社会にあるので難しい問題です。
私の想いは下記リンクに文章で書いています。
是非、読んで頂けると幸いです。
キング牧師の名言によって見つけた自分の生きる道