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15/4/13

やりたいことがない若者は、田舎へ行こう!

Image by Olia Gozha

~人生で大切なことはすべて、粟島で学んだ~

「もうだめだー」


 その日、僕は倒れた。。。。








 「何でこんなに生きづらいんだろう?」


 「何で、毎年3万人以上も自殺者が出続けるんだろう?」


 「何で、こんな世の中なんだろう?」


当時の僕は思い悩んでいた。


 いわゆる「名門」と呼ばれる早稲田大学を卒業し、「優良企業」と呼ばれる一部上場企業に入社し、「いい大学 ⇒ いい会社 ⇒ いい人生」という、「エスカーレーター式幸せな人生」が歩めると思っていた僕は、社会に出て、社会の厳しさ、自分の考えの甘さを思い知った。


 大学までは、部活の同期の中では、頼られる存在だと思っていた。

 入社したときも、同期からは「困ったときの西畑頼み」「一家に一台西畑が欲しい」などと言われ、「自分はできる」「頼られる存在だ」と思い込んでいた。


 ところが…。


 いざ、新入社員研修が終わり、支店に配属になると状況は一変した。


「田舎がいい」「関東からは離れたい」と思っていた僕は、希望して福岡支店に配属された。

 ちょっと行けば海、ちょっと行けば山。食も豊かで、人柄もいい。

「福岡に来れてよかった」と思っていた。

 しかし…。



 いざ、仕事となると、先輩たちに比べて、何もできない自分がいた。


 メーカーの新人営業マンとして、ルート・セールスで販売店を回るも、何をしたらいいのかがわからない。ただ、お話したり、情報と思われるものを持って行って喜ばれても、それが売上につながっているのかわからない。そもそも、製品自体は勝手に売れていくような仕組みが既に出来上がっており、「自分はいなくてもいいんじゃないか」と、だんだんと思うようになっていった。


 そして、ちょっとしたミスの連続。生まれつき、短期記憶に苦手意識があった僕は、記憶をメモで補おうとするも、仕事量の多さ、情報量の多さについていくことができず、頭の中は常にパンク状態。自分が何をやっているのか、わからないようなモヤモヤした感覚を味わっていた。


 そして、連日の飲み会。

 先輩たちと、毎晩のように10時くらいから飲み始め、解放されるのは12時、1時が当たり前。

 朝は眠い目をこすりながら出社。お昼は極度の睡魔に襲われ、昼寝を欠かすことができなくなり、寝すぎて罪悪感に襲われることもしばしばだった。


 だんだんと、何のために生きているのかさえもわからなくなり、「ここから飛び降りたら楽になれるかも」と、マンションの13階にある自室から、外を眺めることも度々あった。


 「このままじゃダメだ」


 そう思った僕は、自分の軸を探し求めるために、2年で会社を辞める決意をした。





「軸」


 かつての僕には、「箱根駅伝」という軸があった。


 大学を卒業し、その軸がなくなって、「何のために生きているのか」わからなくなった。


 毎晩のように浴びるようにお酒を飲み、楽しさを求め、翌朝は眠い目をこすりながら出社。日中も、ただ何となくお客様を訪問する日々。


 意味が見い出せなかった。


 だからこそ、「改めて自分の軸を定めよう」と思って退社したのだった。


 そして、「熱い想いを持って生きている人に会いに行こう」と思い、興味のあるNGOやNPOに足を運び、熱い方々と出会う日々が始まった。


 




 最も長期間関わったのが、NGOピースボートだ。


 ここではまさに、熱い人たちとの出会いがあり、また、同じように悩んでいる若者との出会いがあった。


 ブッ飛んだ人では、小学校時代から学校に通わなくなり、中学入学前に、おじさんを頼りにメキシコに渡った同世代のレオくんがいた。


 元暴走族、元不良なんてざらだった。


 でも、みんな、過去は関係なく、今を、熱い想いを持って生きていた。


 「すげぇ!」「かっこいい!」という想いを持つ一方で、「自分とはどこか違うな」という気持ちは拭いきれなかった。


 他にも熱い想いを持つ人たちとの出会いがあり、一方で「自分とは違う」という感覚を感じながら、「自分はどう生きたいんだろう?」ということを突き詰めて考えていた。

 あっという間に半年が経過した。


 そんな中、ピンと来たのが教育だった。


 自分自身、学校教育が嫌いだったというのも理由の一つだったのかもしれない。

 特に中学校時代には、「何でもっと自由にさせてくれないんだろう?」とばかり考えていた。


 そんな自分だからこそ、「教師になって、もっとのびのびと子どもが育っていく環境を提供できれば、死ぬときに『いい人生だった』と思えるんじゃないか」と考えたのだ。


 それで、教員免許を取得するため、通信制の大学に入り直すことにした。




 通信制の大学で学びながら、教育現場で働くことも意識的に行った。


 1年目は、小学生の放課後児童クラブ、2年目は、不登校の中学生が通う相談室で学習支援員として働き、夕方からは塾で講師として働いた。


 教育学を学びながら、実際に子どもたちと向き合い、「どうしたら子どもたちがまっすぐ育つ支援ができるか」を考えていった。


 また、熱い先生方や、熱い教師の卵にも会いに行った。

 元中学校の体育教師で、陸上の全国チャンピオンを7年連続育て上げたカリスマ体育教育。

 元暴走族のヤンキー先生。

 一般人として、初めて東京都内の公立中学校長に就任された方。

 教師は教えず、子どもたちが主体的に学ぶ『学び合い』という授業スタイルを考案され、教えない授業を全国に広められている大学教授。そして、その実践者。


 熱い先生や熱い若者と出会うことで、僕も触発され、貪欲に学んでいった。




 一方で、既存の学校現場で働くことの限界も感じつつあった。


 「もっと自由に子どもたちが育っていける環境を提供したい」という想いがある一方で、「教師の役割は、まず、学校の秩序を保つことだ」という気付き。学習指導要領という縛り。大声を出して子どもを動かす先生方・・・。


 もっと自由に伸び伸び、楽しい日々を子どもたちと過ごしたいのに、それがすぐにはできそうにない状況。


 理想と現実の狭間で、僕の心は引き裂かれていった。

 そして、通信制で学び始めて2年目の終わりに、その日は突然やってきたのだった。








 その日以来、僕の体はいうことを聞かなくなった。


 平日は、何とか仕事には行くものの、めまいと手足のしびれに襲われ、起きているのがやっと。

 夜は布団に倒れ込む。子どもにどんな指導をしたか、どんな関わりをしたかなんて、全く覚えていられない状態。


 週末は、起き上がることさえできず、ただひたすら寝ている日々。


 そんな毎日が2週間程続いたある日、当時の彼女(今の妻)から、「うつ病だと思うから、病院に行こう」と言われ、精神科に行くことになった。


 彼女の見立て通り、医師の診断も「うつ病」だった。


 処方された薬を飲む日々が始まった。


 薬を飲むと、少しは楽になったような気がするが、それは本当に緩和される程度、ほんのちょっと「よくなった気がする」だけだった。

 

 実際にはよくなってなどおらず、相変わらずのめまいと手足のしびれ。フラフラしながら学校と塾に通い、週末は寝るだけの日々が続いた。


 大好きだった本も読めなくなり、ただ、生きているのがやっとの状態が3ヶ月ほど続いた。





 そんなある日。


 「この病気は一体何なんだろう?」


 「このままの状態が続くんだろうか?」


 「そんなのは嫌だ」


 「どうしたらこの状態を抜け出せるんだろう?」


 そんな風に自問自答している自分がいた。




 その日は、奇跡的に体調がよかったのかもしれない。

 体調が悪いときは、こんな問いすらも立てることはできなかったのだから。


 その時出てきた答えが、「これは『教師にはなるな』ってメッセージなんじゃないか」というものだった。


 当時、『未来を拓く君たちへ』(田坂広志著)や『啓発録』(橋本左内著)などの本を読み、志を立てることの大切さは実感していたので、「自分が生きることで社会を少しでもよりよくしよう」とだけは考えていた。そして、そのための手段が「教師になること」だった。


 しかし、どうやら教師は自分には向いていないらしいことに気が付いた。


 であるならば、やるべきことはただ一つ。


 別の手段を選択すること。


 そう気付けた。




 「教師になることをやめればいいんだ」


 そう思えたら心がふっと軽くなった気がした。



 そして、その日まで、3ヶ月間飲み続けた薬を、「やめてみよう」と思えた。


 翌日から、早速薬をやめてみた。


 怖かった。「勝手に薬をやめていいんだろうか?」と不安にもなった。


 しかし、体は前日までに比べて、めまいも、手足のしびれもひどくない。視界も、それまでは膜がかかったようにぼやっとしていたのだが、それに比べたらよっぽどクリアになっていた。


 その週末は、それまで毎週のように寝たきりの2日間を過ごしていたのに、久しぶりに、布団から出て、普通に生活することができた。

 普通の生活のありがたさ、起き上がれることの喜びを実感した。


 そして今度は、「これまでは、社会をよりよくするために、教師になろうと思っていた。でも、どうやら教師は肌に合わないらしい。じゃあどうしようか?」という問いを自分自身に投げかけてみた。


 そうしたら、出てきた答えが、「食の自給率・地球環境問題を解決するために、田舎に行く」だった。


 田舎に行って、ローカルなエリアで自給自足で生活できる仕組みを作ることができれば、食の自給率の問題も、地球環境問題も解決されると、単純な僕は心底そう思ったのだ。


 早速、インターネットを使って、移住先を探し始めた。




 「田舎に行くことで、地球が抱える問題を解決したい」という想いから始まった移住先探し。

 「どこかに行きたい」という想いは全くなかったので、「田舎 移住」「田舎 住人募集」などのキーワードで移住先を調べてみた。「人を求めている土地に行きたい」と思ったのだ。


 今では「地域おこし協力隊」などもできてきて、「まちおこしのためにこんな人に来て欲しい」と自治体自らが発信するような仕組みが整ってきている。

 しかし、当時はまだそんな事例は多くなく、出てくるのは、家の情報、暮らしの情報ばかり。


 そんな中、たまたま見つけたのが、「地域おこし協力隊」のモデルとなった、「緑のふるさと協力隊」という事業だった。


 「緑のふるさと協力隊」は、「青年海外協力隊」の国内版、とでも言うべきもので、NPO法人地球緑化センター(以下、緑化センター)が、平成6年から実施している、「田舎に行きたい」若者を、「若者に来て欲しい」自治体に派遣する事業だ。若者は、月5万円の生活費と住居を提供してもらい、地域での様々な活動のお手伝いをする。(水道光熱費は役場持ち、活動に必要な備品も役場に用意してもらえる)お手伝いをしたお礼に、食材や食事などを提供してもらうという、いわば、物々交換をしながらボランティアをする仕組みだ。


 たまたま、この事業を見つけた僕は、はじめのうちは、「こんなものもあるんだなぁ」「でも自分には関係ない」と思っていた。

 しかし、だんだんと移住先が見つからないことがわかってきて、「1年目はボランティアで地域に根付いて、2年目以降、その地域の方とのご縁で、その地域、あるいは縁ある地域に住めた方が、その後につながるからいいんじゃないか」と思うようになっていった。


 そして、ついに10月、参加を決意し、申し込みをすることにした。


 書類選考、面接を経て、12月末には無事、4月から派遣されることが決まった。

 当時はまだ、自分がどこに派遣されるのか、まったくわかっていなかった。ただひたすら、ワクワク感に浸っていた。




 年が明けて1月。


 緑化センターから送られてきた「派遣先候補地一覧」に、「新潟県・粟島浦村」の文字を見つけた。

 僕は、「不思議な名前だなぁ」「人口350人の村なんてあるの!?」と驚いた。


 早速、インターネットで調べると、新潟県の北端・村上市の沖合20km程のところに浮かぶ島・粟島浦村は日本で4番目に人口の少ない村で、漁業と観光の島だが、農業も家庭用とはいえちゃんとやっていることがわかった。

 小豆と大豆も自給していて、あんこや味噌を自前で作っているということ。ジャガイモはおいしいことなどが書かれており、お米こそ自給していないが、「食料自給率」の問題から「田舎へ行こう」と思った僕にとっては、悪くないところだと思えた。


 また、その時、特に目を引いたのが、「対岸の村上市と合併の話があったが、粟島浦村が村長交代により協議離脱、自立の道を歩むと表明した」という一文だった。


 当時は、平成の大合併でかなりの自治体が合併の選択をした後だったので、住民が、「合併しない」「自立の道を行く」と決めた村であれば、たとえ人口が350人であっても、熱い人たちが生活しているのではないかと思った。


「どうせ行くなら、とことん田舎へ」という思いもあったと思う。


 また、かつて、博多にいた頃には島を訪れる旅が大好きだった。

 船から降りて、島に上陸した際の、「異国」に来た感覚、異文化に触れる感覚が好きだったことを思い出していた。


 そんなこともあり、派遣先の第一希望に、僕は「粟島浦村」と記入した。




 1ヶ月後、無事に粟島に派遣されることに決まった。

 

 粟島に派遣されるまでは、「どんな匂いがするんだろう?」「どんな音がするんだろう?」とまだ見ぬ新天地を想い、ワクワクしっぱなしだった。






 4月になり、同期45名との1週間の事前研修を受けた後、粟島に向けて出発した。


 新幹線で新潟駅へ行き、特急に乗り換えて1時間で村上駅へ。

 さらに、村上駅からタクシーで20分ほどのところにある岩船港に到着。

 岩船港から35km、高速船で55分、フェリーだと1時間30分のところに、粟島は浮かぶ。


 フェリー乗り場に着き、「ここが島の玄関口か~」と思いながら、待合室の戸を開け、まだ乗船1時間前なのに、既に集まっていた10名くらいの人たちに、「こんにちは。今日からお世話になります協力隊です」と挨拶をしたら、「お~! 待っていたよ!」と、恰幅のいい男性から声をかけられた。


 アイヌ民族のような、立派な体躯と穏やかな表情をされたその男性こそ、今回、新潟で初めて、漁村で初めて、離島で初めて、協力隊の受け入れを決めた村長だった。


 村長は、挨拶を終えたら、待合室の中にいる島民の方々を一人ずつ、順番に紹介してくださった。

 一人ひとり、すごく丁寧に。


 みなさん、「よく来てくれたねー」と嬉しそうに対応してくださり、これから始まる島での暮らしを思い浮かべ、ワクワクが止まらなかった。

 「粟島に派遣されることになってよかった」と改めて思った。


 そして、16時ちょうど。

 高速船は粟島に向けて出港した。




 協力隊は、派遣期間中、一度の帰省休暇と中間研修以外は、基本的に派遣先から出ない、というルールがある。

 そのため、僕は「次に本土の大地を踏みしめるのはいつ になるのだろう?」と、ちょっとだけ不安に思った。












 16時55分、無事に船が粟島、内浦港に到着。


 人口350人、日本で4番目に小さな村のイメージと比べると、漁村で家が密集しているためか、そこまで寂しさをは感じない。


 船から降りると、役場の担当の利浩さんと準さんがお迎えに来てくださっていた。

 そのまま、徒歩2分の役場へ向かい、役場の皆様へご挨拶。


 「おー、がんばってくれや」「元気だのー!」などなど温かい言葉をかけてもらい、終始笑いの絶えない雰囲気に、いわゆる公務員のイメージはどこへやら。「とっても素敵な役場だなぁ」と思った。


 その後、1年間お世話になるアパートへ。


 元教員住宅として使っていたらしい2階建て。間取りは、3DK。ひとりで住むには十分すぎる広さと、築15年ほど経ってはいるがきれいな部屋に、ほっと一安心。荷物も、無事に届いていた。


 その日の晩は、利浩さんのお宅(民宿)でごちそうになることになり、その前に「ひとっ風呂浴びてきたらいい」と言われ、島にある温泉に向かった。


 実は温泉があることも、派遣先選びの重要なポイントの一つだったのだが、この温泉で、島の洗礼を受けることになる。




 塩味たっぷりのお湯に旅の疲れを癒して、温泉から上がった。


 更衣室を出て利浩さんの家に向かおうと思いながら、番台の脇でビールを飲みながら語らっていた3人の親父さんたちに「こんばんは」と声を掛けた。


 すると、「お前が今日から来るとかって言ってた協力隊か!?」と早口で言われ、「ま、座れや!」「まず飲めや!」とお誘いを受けた。


 「基本的に断らない」と決めてきた上での島生活だったので、喜んで座らせていただき、ビールを頂戴した。


 何をしに来たのか、島に着いてどうか、などなど、聞かれながら、ビールを勧められるがままに飲んでいたら、気が付くと缶ビールを3本も空けていた。

 とっても気持ちよくなっていた。


 「時間なので・・・」と言って、退席させてもらったが、お腹はパンパン。

 利浩さんのおうちでのご馳走、本当はとってもおいしいものだったはずなのに、味は全く分からなかった。


 島というと、閉鎖的なイメージがあるかもしれない。そんなイメージは、一切感じなかった、島初日だった。








 粟島での最初の一週間は飲み会続きだった。

 初日の温泉での歓迎、役場での歓迎会、さらに弁天様のお祭りと、いろんな方とあいさつをさせていただいた。


 特に印象的だったのは、俊夫さんという漁師さんとの出会いだった。

 俊夫さんとは、弁天様のお祭りの時に初めてお会いしたのだが、他の方が「がんばれよ」「期待してるぞ」という言葉をかけてくださる一方で、唯一、「自分の心の声に正直に、『やる』と思ったらやればいいし、『やらない』と決めたらやらなきゃいい。自分を大切に、1年間、がんばってくれ」という言葉をかけてくださった。


 もちろん、僕は俊夫さんと話をした時には、既にベロンベロンに近い状態まで酔っ払っていたので、正確な言葉は覚えていない。

 しかし、「この人すごい!」「さすが、自然から学んでいる漁師だ。哲学がある!」と思ったものだった。






 俊夫さんと出会い、そして、温泉で初日にお会いした金宝さん(金宝丸という漁船を持った漁師さん)からは「漁の手伝いに来たらいい」と言われたことから、島の暮らしに慣れる間もなく、朝5時くらいから、漁業用のカッパを身にまとい、港を歩き回るのが日課になっていった。


 島の漁法は、小型船では、刺し網という漁法が主で、夕方、網を沖に刺しに行き、明け方、その網を上げに行く。すると、網に掛かった魚を獲ることができ、港では、その魚を網から外す作業が必要になる。そのお手伝いをしに行くのだ。


 とはいえ、「素人の手伝いなんて、必要にされるのだろうか」、と不安に思いながらも、「金宝さんにも誘われたし」と思いながら、港を歩き、金宝さんの船が戻ってくると聞いた場所に行ってみると、既に一艘の船が港に戻ってきており、魚の網外し作業をしているところだった。


 「金宝さんの船が戻ってくるまでだけでも手伝おうか」と思って、「手伝いましょうか?」と声を掛けると、初めてお目にかかる方だったが、「うん、手伝って」と言われて、あっさりと手伝うことになった。




 僕の記念すべき漁業デビューとなったのは、今太郎さんとスマさんご夫婦の「今丸」だった。

 その日、まずまずの魚が獲れたらしく、「ちょうど人手が欲しいと思っていたところだったの」とスマさんは喜んでくれた。

 僕は、ただ手伝いたい一心で朝から港に来たわけだから、こんなにも喜んでもらえて、とっても嬉しい気持ちになった。




 記念すべきデビュー戦は、デビュー戦なので、当然、うまく魚を網から外すことなどできるわけがなく、網を手で引っ張る作業をしながら、藻を外したり、小さな魚を外す作業をした。


 「できなくてトーゼンだよ」「あはは。こうやんだー」と明るく教えてくれたスマさんには、今でも心から感謝している。


 単純な作業だが、意外と体も暖かくなったところで作業終了。



 獲れた魚の中から、独り身の僕には多すぎる魚を、「戦果」として分けていただいた。

 そこには、アジ、サバ、タイなどの魚が、10匹ほど入っていた。


 その魚のおいしいこと、おいしいこと。


 朝の労働後の朝ご飯だったこともあるだろう。

 また、自分で外した魚だったこともあると思う。


 一般的には、刺し網漁の魚は、傷みが激しいと言われるのだが、海なし県の埼玉出身、釣りすらもやったことがない僕にとっては、あの日に食べた刺身のあまりに美味しさには本当に感激した。


 「これぞ、田舎暮らしの醍醐味!」とまで思った。






 そんな幸せなデビュー戦を無事に終えることができたので、僕の朝の港歩きは加速することになる。毎日のように、かっぱを着て、港を歩いた。


 「手伝いましょうか~?」「何か手伝うことありますか~?」と声をかけ、「頼む」と言われれば喜んでやり、「今日はないよ~」「スカだ」と言われれば、「残念ですねー」と言いながら、笑顔でその場を去る。

 そんな日々を繰り返した。


 思い返せば、こうやって足を運び、自己紹介をし、日々挨拶をし、時には世間話をしたり、質問されたことに答えたりしていくうちに、どんどん島の方との距離が縮まって行ったように感じている。


 また、朝、出歩くことで、「あいつはがんばってる」と思ってもらえたという面もあったのかもしれない。


 もともと島の方は、人が好き、面倒見がよい方が多いが、その中に、すんなりと入っていけたように思っている。






 朝は港での漁のお手伝いから1日がスタートする毎日。


 日中は、「緑のふるさと協力隊」の隊員として、地域の様々な仕事のお手伝いをして過ごしていた。


 受け入れ初年度の隊員だったこともあり、役場の利浩さんと一緒に作っていく感じが強かったが、4月はとりあえず、ゴールデンウィークに開催される「島びらき」というイベントの準備のお手伝いに奔走した。


 まんじゅうを作ったり、コロッケを作ったり、島の名物「わっぱ煮」用の魚をさばいたり、作業をしながらいろんな方々とコミュニケーションを取り、徐々に地域に溶け込んでいく、そんな1か月間を過ごした。


 「島びらき」が終わってからは、粟島汽船のお手伝いをしたり、漁協の手伝いをしたりして過ごした。

 それからは、草刈の作業をしたり、島のばあちゃんたちの農作業のお手伝いをしたり、民宿のお手伝い、役場の事務作業のお手伝いなどなど、人手が足りてないところに足を運ぶように心がけた。

 かゆいところに手が届く存在であり続けようと思ったのだ


 その結果、地域のお助けマン的存在の「協力隊」の知名度は少しずつ高まっていき、多くの方から声をかけて頂けるようになっていった。





 当時の僕を支えてくれたものが、島のばあちゃんたちの「毎日がんばってるのー」「こんなところまで来てくれてありがとのー」という言葉だった。

 当時、自己肯定感の低かった僕は、島のばあちゃんから温かい言葉をかけてもらう度に、「自分は自分であって大丈夫」「いるだけで自分は誰かのお役に立っているんだ」と思えるようになっていった。


 この気付き、おばあちゃんたちからの「存在承認」の言葉がけは、本当に大きなものだった。


 それまでは、世の中を斜めに見て、「何でこんなに生きづらいんだろう?」とばかり考えていた僕だったが、「こんないいところもある」「こんな素敵な一面もある」と、いいところに目が行くようになり、それまで白黒だった世界が、カラーになったかのような変化を感じていた。


 島から受け取った最初の恵みかもしれない。


 人は、存在を承認されると、前に向かって歩いて行ける。その言葉の意味を実感した出来事だった。









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