死の選択…
「死にたい…」
立ち上がることも出来ず、一日中横になって、
何をすることも出来ない僕は、そう思った。
現実の世界を生きていくという選択は、
この時の僕には考えられないことだった。
そんな僕に残された選択肢は、
「死」
だった。
僕は、自殺をする方法を探した…。
「死にたい…」
と言う人を多くの人は信じられないと思うだろう。
どうせ構って欲しいだけだ。
甘えているだけだ。
と思うだろう。
しかし、うつ病になり、本気で死にたいと思った人は、
すでに誰かに構ってもらっていることが、
心から申し訳なく思い、
周りの支えなしでは生きていけない自分を恨んでいる。
最終的には自分が楽になるためなのだが、
周りの人をこれ以上巻き込まないために、死を選ぶ人もいる。
決して軽々しく発しているのではなく、
長い時間悩み、苦しみ、考え抜いた末に、絞り出した唯一の答えなのだ。
うつ病とは本当に恐ろしい病気だ。
問題の解決方法が、自らの存在を消滅させることしかないと思わせる。
悪魔に呪いをかけられたようだ。
音楽をやっていた頃の僕は、
歌詞を書くためによく自分の気持ちを書き留めていた。
しばらくの間、全く書いていなかったが、
うつ病になり、色々と考える時間が増え、
僕はまた、自分の気持ちを詩にして書き溜めていた。
唯一の気持ちの吐きどころが詩だった。
その書き溜めた詩を読み返し、
リアルな状況を思い出しながら書いてるのが、このストーリーだ。
この時期に書いた詩にこういうものがある。
うつ病は心の風邪なんかじゃない。
心の癌だ。
苦しんで、苦しんで、
最期は死ぬんだ。
冒頭で不快な思いをさせたしまった方には申し訳ないが、
この時の僕は、何とも恐ろしい精神状態だったということをご理解いただきたい。
「自殺 やり方」
「首吊り 苦しい」
「睡眠薬 致死量」
僕は、ケータイでこんなキーワードを検索した。
やはり、首吊りが一番楽そうだ。
上手くやれば、15秒程で意識が無くなるらしい。
その後の姿は悲惨なようだが…。
少しずつ貯めた睡眠薬を全て飲んでから首を吊れば、
もしもすぐに意識が無くならなくても、抵抗も出来ず楽に死ねるだろう。
しかし、問題点があった。
家の中に紐を掛けられる場所がほとんど無かった。
あっても、全体重をかければ壊れてしまう。
確実に失敗する。
最悪の場合、脳に酸素が送られる時間が長いと、
脳の機能が停止し、一生寝たきりの状態で生き続ける。
今の僕の状況とあまり変わらないが、
自ら命を絶つことも出来ず、
肉体の死が訪れるまでこの状況が
永遠に続くと思うと、
失敗のリスクは実に大きかった。
誰か僕を殺してくれないだろうか…
外を歩く時も、
通り魔が現れないだろうか?
駅のホームにいても、
誰か背中を押してくれないだろうか?
こんなことをどこにいても一日中考えていた。
死にたいと思っているのに、
なるべく楽に死ねる方法を探している。
実にバカげた話だ。
その気になれば、すぐそこにある包丁で頚動脈をかっ切って、ほんの数秒であの世に行けるのに。
それが出来なかったのは、正直言って迷いがあったからだろう。
本当は死にたいなんて思っていなかったからだろう。
僕にはそう思わせてくれる要因が幾つかあった。
死が教えてくれたこと…
死を意識した時、必ず頭に浮かぶ顔があった。
それは、中学の頃の友人だった。
バスケ部で3年間、一緒にプレーをしたやつ。
20歳を過ぎてから仲良くなって、
地元でよく呑みに行ったやつ。
この2人は、もうすでにこの世にはいない。
バスケ部の友人は、とても明るく、元気で、とても良いやつだった。
試合でシュートを決めると、対戦相手が嫌がるほど大きく喜ぶようなやつだった。
バスケが大好きなやつだった。
そいつはバスケの強い高校に入り、バスケ部に入ったが、
間もなくして脳腫瘍が見付かり、入院。
手術もして、一度はまた一緒にバスケをするほど回復したが、まもなく亡くなった。
家に彼の死を知らせる電話の音が鳴った途端、
「あいつが死んだ…」
と電話に出た母親から伝えられる前に分かったのは、不思議な体験だった。
葬式で、彼の母親に言われたことを今でも覚えている。
棺の中を覗き込み、バスケ部のみんなで彼に最期のお別れをしていた。
「あなたがひーくん?(僕のあだ名)」
「この子からよく話を聞いていたの。」
「会えて嬉しいわ。」
「◯◯、ひーくん来てくれたよ!」
どんな話を聞かされていたのか分からないが、僕はいい印象だったようだ。
そして最後にこう言った。
「この子の分まで、精一杯生きてね。」
一人息子を亡くした親の辛さは計り知れない。
息子が眠る棺のすぐそばで、息子と同じ同級生の子供達は元気で生きている。
そんな中、彼の母親は僕に、
「生きて欲しい」
と言った。
もう一人、卒業してずいぶん経ってから仲良くなった中学の友達。
こいつも飛び抜けて明るいやつだった。
中学の頃は、お調子者の彼のことを、僕は少し苦手だった。
しかし、数年が経ち、彼のことが好きになった。
相変わらずお調子者だったが、いつも周りの空気を読み、場を盛り上げてくれた。
失礼なことも平気で笑いに変え、
どんな奴にも同じ対応をするやつだった。
そんな彼に最後に会ったのは、彼が死ぬ5日ほど前のこと。
僕らは、いつものように地元の居酒屋で呑んでいた。
彼は二浪して大学に入学し、四年生になる少し前で、
今年に入ってから就活を始めたところだった。
大学で就活を放棄した僕にとって、
1年以上も前から、一生懸命社会に出る準備をしている彼を尊敬した。
「この間、胃けいれんになっちゃってさ!笑」
「まじで死ぬかと思ったよ!笑」
彼は笑ってそう言ったが、
この時彼は、ものすごいストレスを抱えていたのだと思う。
将来の不安。
周囲からのプレッシャー。
そして、
二浪をしたことで、周囲の友達とついてしまった時間の差を、
必死で埋めようとしていたのだろう。
彼は、次の日も就活があるからと、途中で帰った。
これが彼と過ごした最後の時間だ。
今僕は、このストーリーを書きながら、彼のことを思い出すため、
この時一緒にいた地元の女友達に電話をかけた。
彼女は、彼が店を出るときの最期の言葉を覚えていた。
「いい夢見ろよ!」
チョリーッス!みたいな手を添えて、笑顔でそう言ったらしい。
僕はその姿を簡単に想像することが出来た。
そしてその数日後、
彼の訃報が届いた。
悪い冗談だと思った。
また笑わせようとしているのだと思った。
そう思いたかった。
ほんの数日前、僕は笑顔の彼と一緒に酒を呑んだのだから。
死因は、急性心不全。
あっという間の出来事だったらしい。
数日前、笑いながら
「まじで死ぬかと思った!笑」
なんて言ってたやつが、
本当に死んでしまった…。
「いい夢見ろよ!」
と言ったやつが、
夢の中に逝ってしまった…。
そんな彼らが僕の頭に浮かんだ。
僕は、彼らの気持ちを考えてみた…。
あいつは、もっとバスケがしたかったんだろうな。
あいつは、みんなを見返してやりたかったんだろうな。
もっともっと、生きたかったんだろうな。
そう思った。
僕は、彼らに、彼らの両親に、彼らの周りの人に申し訳なくなった。
「おい…僕はどうしたらいいんだよ…?」
どんなに問いかけても、彼らは返事をしてくれなかった。
死を阻むもの…
そしてもう一つ、僕の死を阻むものがあった。
それは、姉の存在だった。
僕には、5個上と2個上の姉がいる。
僕の死を阻むのは、中でも5個上の姉の存在だった。
姉は、生死に関わる病気を乗り越えた人だ。
薬の副作用で手足が不自由な身体になり、
立ち上がることも、物を掴むことも出来なくなったが、
地道にリハビリを続け、杖をついて歩けるようになった。
現在は、就職をして、働いたお金で家を買い、
家族の手は借りるが、自分の力で生活をしている。
姉が病気になったのは、僕が小学校3年生の時、姉が中学2年生の時だった。
「お姉ちゃん入院することになったから…。」
少し前から体調が悪く、何度も病院に行っていたが、
「風邪です。」
と言われていた。
一向に良くならない状況に、
両親が大学病院に連れて行った。
大学病院に行ったっきり、姉は家にも戻れず、即入院だった。
両親は、まだ幼い残された姉弟に、
詳しい病状は話さなかった。
しかし、すでにこの時、姉の病状は生命の危機に関わる深刻な状態だった。
その日から、僕の家では、姉の病気との闘いが始まる…。
長くなるので、ここでは割愛するが、
機会があったら、またお話ししたいと思う。
姉は、それからずっと病気と闘い続けた。
薬の副作用で髪の毛は抜け落ち、もの凄い吐き気に襲われ、
顔ははち切れんばかりにパンパンに浮腫む。
そしてある日、
目を覚ますと、手足が震え、1人で立ち上がることも出来なくなった。
運動神経が良く、リレーの選手に選ばれるような足の速かった姉は、
この日を境に、身体障がい者になった。
障がい者という言葉を使うは好きではないが、
姉自身、「障がい者になった」ということに一番のショックを受けていたため、
敢えてこの言葉を使わせてもらう。
そんな経験をしてきた姉は今、
自分の力で生活をしている。
姉の辛さは勿論のこと、
姉と同じくらい、いや、それ以上に辛い思いをしていた人がいた。
それは、両親だ。
姉が入院してから、母は、毎日病院に通った。
朝、小5の姉と小3の僕を学校に行かせ、
午前中に家事を済ませ、夕ご飯の支度をし、病院へ行く。
面会時間を過ぎても、
「帰らないで」
と言う姉を残して、夜の10時頃に家に帰る。
こんな生活をしばらく続けた。
当時幼かった姉弟は、事態の深刻さが分かっておらず、
両親も、そう思わせたくなかったのだろう。
姉が病気になった14歳から、27歳で就職をするまで、両親は姉をとなりで支え続けた。
僕ら家族を支え続けた。
2個上の姉は、中学生に入ってからグレた。
毎日夜の10時過ぎまで、幼い弟の母親代わりをするのは小5の姉には酷過ぎる。
お姉ちゃんばかりの面倒を見る親に、本当はいつも甘えたかっただろう。
そして、見付けた親の目を惹く唯一の方法がグレることだった。
それはまぁ、酷い反抗期だった…。
毎朝、母親とのケンカから始まり、
留年寸前まで授業には出ず、親は学校に呼び出され、荒れまくっていた。
僕が中1の頃、親に聞いた。
僕:「姉ちゃん、いつになったら反抗期終わるの?」
母:「高校に入ったら落ち着くよ!」
だが、高校に入って、ますます酷くなった。
僕:「いつになったら反抗期終わるの?」
母:「卒業したら、落ち着くよ!」
反抗期は終わらなかった。
僕:「いつになったら反抗期終わるの?」
母:「20歳になったら落ち着くよ!」
そして、姉ちゃんの長い反抗期は終わった。
本当は20歳を過ぎてもまだ反抗期だったが、だいぶマシになった。
母は、こんな家庭を支え続けた。
母は、いつも明るかった。
いつも、どんなときも子どもと向き合い、支え続けた。
僕の部活も応援してくれ、試合は毎回見に来てたし、
練習をしたくてたまらなかった僕らのために、地区センターを借り、
練習する場所も作ってくれた。
僕が学校である事件を起こした時も、いつも味方で居てくれた。
いつも元気で、子ども達を励まし、
僕らの前では、ほとんど弱音を吐かなかった。
父は、いつも仕事が忙しかった。
子どもと接するのが下手だった。
当時は、そんな父が苦手だった。
でも父は、どんなときも働き続けた。
どんなに辛くても、働き続けた。
姉が病気と診断されたその日からタバコをやめた。
父は、子どもたちには何も言わなかったが、自分に出来ることで家族を支えていた。
人脈を使い、病気の情報を集め、治療法を探した。
子どもたちに何不自由ない生活環境を与え、
一日何万円とかかる高額な治療を続けることが出来たのは、紛れもなく父のおかげだ。
改めて両親の偉大さ、そして、ありがたみを知る。
心から感謝をしている。
少し話は逸れたが、
僕が死を意識したとき、決まってこの3人が頭に浮かんだ。
こんなにも「死」は悲しみを生み、
「生」は生きる希望を与えることを教えてもらったのに、
今僕は、死を選ぼうとしている。
そんな自分に憤りを感じた。
心から、死んでいった友人、病気に勝った姉、共に闘った家族、
僕を支えてくれている人たちに心から申し訳ないと思った。
しかし僕は、この先も生きていける自信がなかった。
僕は、生きたいのか?
それとも、死にたいのか?
僕は納得出来ないと何も出来ない人間だ。
「確かめに行こう。」
生きたいのか、死にたいのか、
白黒ハッキリさせようじゃないか。
それから僕は、自分の本当の気持ちを確かめるために旅に出る。
死んでいった彼らに、彼らの家族に、
姉に、自分の家族に、このとき僕は助けられた。
「生」そして「死」
彼らは、答えこそくれなかったが、
また僕に生きるチャンスを与えてくれた。
「答えは自分で見付けてやる!」
僕は、そう決めた。
つづく…