ついに生まれた!

君はなんて勇敢な魂なんだろう。
家族になれるかどうか、わからないような状況の中でやってきた。
君の命がママの運命を、そして君のパパの運命も変えた。
こんなに小さな命が、こんなにも大きな力を持っている。
それを君は教えてくれた。
君は全然、日本人っぽくない=私の孫っぽくないよね!笑
でも、私は君に、日本の歌やお話やいろんなことを伝えたい。
君が日本人の血を誇れるように・・・
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アメリカ人?日本人?
私が住むセドナという街は、アリゾナ州の田舎町。
人口は隣町を入れても1万7千人しかいない。
ロスなど日本人が多いところなら別だけれど、子どもたちに、日本語をキープさせるのは難しかった。
アイデンティティーというのは、血の濃さというより、育った土地の文化で形成されるのではないかと思います。
日本で生まれたものの、アメリカの小さな田舎町で育った娘は、日本人のエッセンスを持っているアメリカ人、という感じ。
結果、片言の日本語しかできない。
バイリンガルにしたい、という想いは当然ありましたが、どっちも中途半端になるのはかえってよくない、と聞き、まずは英語を母国語としてしっかりさせた上で、もし自分で興味が出れば、日本語を学べばいいか、と自分を言い聞かせた感じです。
「ぼくは、大きくなったら、ママみたいに日本人になるの?パパみたいにアメリカ人になるの?」
息子が幼稚園の時、そう聞かれ、はっとしました。
幼稚園児でも、すでに自分のアイデンティティーを探り始める。
当時は日本にいたのですが、(元)主人の親が亡くなった後処理もあり、相談の結果、多種多様な人種のいるアメリカなら、そういったことを気にせず、自分は自分として、アイデンティティーを模索しやすいのではないか、ということでアメリカ移住を決意したのです。
言葉の問題、そして、アイデンティティーの問題・・・
外国人のパートナーとの間に、お子さんがいらっしゃる方なら、一度は悩むところでしょう。
たとえ、パートナーが日本人であっても、外国で育った場合、やはり自分とは感覚が違うのではないかと思います。
私の娘も、純粋な日本人の私とは、やはり感覚が違う。
娘でありながら、母国語も人種も違うという感覚があり、
お互いにその違いでぶつかることもあるし、
お互いの文化の違いを丸のまま受け入れる学びもある。
今回の娘の出産を通しても、それを感じることがままありました。
自然分娩?無痛分娩?帝王切開?お産婆さん?病院?
命の迎え方のいろいろ
それにしても・・・アメリカっていう国は、すごいなあ。
日本だったら、帝王切開だと2週間くらい、病院に居られるのに
アメリカは入院たった四日間!
マジですかあ?って感じだが・・・それが当たり前になっているんですね。
アメリカ人のバアバになってみてわかった
アメリカの出産事情・・・
(アメリカには1996年から住んでいるものの、出産は経験していないので)
帝王切開の数の多さ
新生児の誘拐防止策
最新設備
豪華な病院でのママへの食事のひどさ(笑)
寝ている間の赤ちゃんの死亡を避けるための対策として
川の字で寝るのはタブー(赤ちゃんとのルームシェア⭕️ ベッドシェア❌)
うつ伏せに寝かせるのもタブー(私が産んだころは、アメリカではうつ伏せを勧めていた)
赤ちゃんにはブランケットはかけない(窒息死防止のため、胴着のようなものを着せる。)
などなど・・・
私は日本で、娘を産院の畳の上で、自然分娩で産んだ。
娘はアメリカで、息子を最新設備の病院で、帝王切開で産んだ。
いいとか悪いとかじゃなくて、母娘でも
環境によって、命の迎え方もこんなにも違うし、
そのどれでもオッケーなんだ。
命の数だけ、出産のドラマがある。
すっかりアメリカ人になってしまった孫の出生の記録を、
知らなかった出産に関わる英語も学びながらの日本人グランマとして、
残しておこうと想います。
あくまでも、私と娘の個人的な記録ですが、文化や国の違いこそあれ、これから出産を控えている女性たちの参考にもなれば・・・とも思います。
もちろん、一人一人、出産の形は違いますが、いろんなケースを知ることで、心の準備に役立つかもしれません。
そしてまた、イメージ通りに出産できなかったと、負い目を感じているお母さんがいたとしたら、その心を、少し和らげるお手伝いにもなるかもしれません。
毎日、世界では約20万人の赤ちゃんが生まれていると言われています。
そう、これは、この星で毎日起きている
20万分の1の小さな小さな命の奇跡の物語・・・
**********

「Nana・・・ Coco maybe broke the water…」
2月24日未明の2時半、リビングのソファーベッドで寝ていた私は
ジャスティンに起こされた。
「ん?」
寝ぼけていた私は一瞬、英語だったし、何が起きたのかわからなかった。
ブローク・ザ・ウォーター?
え? 破 水?
(不覚にも私はこの瞬間まで、破水という言葉を英語で知らなかった!)
「ココを見てもらえる?」
そうだ!私はココたちのアパートにいるんだ!
24日の午後に帝王切開の予定になっていたので、私は前夜から泊まっていた。
洗面所に行くと、床が濡れている。
バスタオルを腰に巻いて、ココが蓋を閉めたトイレに座っている。
「どうしたの?」
「破水したみたい…。はじめ、まさか、おしっこ?と思ったけど、その直前にトイレに行ったし、どんどん出てきて、止まらないの」
娘は震えていた。
「ジャスティン、病院に電話して!」
予定外だが、出産はどんな形で始まるか、わからない。
さあ、いよいよだ。
行くぞ!
*****
もう、娘のココのお腹はパンパン。はち切れそうだった。
ちょっとスローダウンしてちょうだい、と頼んでみたものの、
赤ちゃんはどんどん大きくなっていってしまった!

娘のココの赤ちゃんは、お腹の中で大きくなりすぎた、ということで
2015年2月24日の午後1時半から帝王切開の予定になっていた。
ココは妊娠前、40kg しかなかった。
細い体だから、よけいに出てきたお腹が目立つ、ということもあったが、それでも、これは育ちすぎちゃう?!と思えた。
23日の午後、娘の出産に付き添うために、雨の中、私はセドナからフェニックスへ向かった。
約2時間のドライブだ。
その夜、娘のココと彼氏のジャスティンに私がディナーを作り、みんなで夕食。
娘は結構食欲もあり、手術を控えているので翌日の未明3時以降は、なにも食べられないし、水も飲めないこともあり、しっかり食べてくれた。
むしろ、彼氏の方が緊張してしまって、あまり食べない。
見かけによらず、結構、繊細なんだな。
経済的な不安、父親になることへの不安、帝王切開ということへの不安…。
体から湯気が出ているかのように、彼からそんな空気が伝わって来る。
それに加えて、彼にはめっちゃ可愛がっている愛犬のチワワがいる。

とても甘やかされて育ったために、赤ちゃんが来たら、嫉妬するんではないか、という心配も。
まあ、それはともあれ、明日は手術、ということで
早く寝よう、と11時には寝たんだけど・・・
午前2時15分:
突然の破水。
2時半:
私も起こされ、病院に連絡。
慌てて出かける準備を。
3時10分:
病院へ出発。
ココはすでに陣痛が始まっていた。
3時半:
病院に到着。
手術の控え室に入るとすぐにガウンに着替え、赤ちゃんの心音を測る機械と
ココの陣痛をモニターする機械がお腹に取り付けられた。
腰の下には、どんどん出てくる羊水を吸い取るためのシートとタオルがあてがわれる。
少し出血はあるが、羊水の色はクリアだ。
大丈夫!
看護婦さんもチェックしてくれた。
病院について、ココも少し安心した様子だった。

それにしても、最近の設備はすごいなあ・・・
陣痛をモニターする機械があるのは知らなかった。
私は二人の子どもをお産婆さんにあげていただいたので、
病院での出産は初体験だし、もう二十年以上前の話だし・・・(汗)
赤ちゃんの心音のドクンドクンという音と平均140〜150くらいの数値。
時々、心音が小さくなるが、どうも赤ちゃんが少し動くためらしい。
その横にココの陣痛の様子を示す数値が示されている。
(上の写真では、心拍147 陣痛9)
陣痛が始まると、数値が5くらいから35くらいに上がっていく。
「ココ、深呼吸して。フー、フー、フー」
私も一緒に深呼吸。
モニターを見ていると数値が下がってくる。
陣痛の波が収まったのだ。
3時50分:
手術の準備のための点滴が始まる。
また、数値が上がってくる。陣痛だ。
私は携帯で再び陣痛が始まった時間を見る。
5分おきだ。
喉が乾いた、というが、口からは水は飲めない。
点滴で水分を補給している。
そのため、トイレにも頻繁に行くが、その度に、モニターのコードと血圧計をはずし、点滴を下げているキャスター付きの引っ掛け棒?をトイレに引っ張りこまなくてはならない。
結構面倒だけれど、仕方ない。
その度に、いったん赤ちゃんのドクンドクンという心音が消え、部屋が静かになる。
看護婦さんが時々様子を見にきてくれる。
未明だというのに、明るい声のハツラツとした看護婦さんだ。
ココは彼女に、後産について尋ねた。
私も帝王切開の場合、後産、つまり胎盤の排出はどうなるのか、気になっていた。
「大丈夫よ。ちゃんと摘出するから。」
そうだろうとは思っていたが、ちゃんと確認できて安心した。
それから、私は、縦にお腹を切るのだと思っていたら、下腹のところを15cmほど横に切るだけで、手術用の接着剤で傷口を塞ぐのだという。
だから、傷口もそんなに目立たなくなるそうだ。
しかし、娘のお腹ははち切れんばかりで、妊娠線はもちろんだが、妊娠性の発疹で紫色になっていて、とても痛かゆいらしい。
それも私が経験しなかったことだ。
自分が経験していないことは、心配になる。
かわいそうだが、どうしようもない。
出産後はよくなるだろうからと、娘はそんなに心配してはいなかったが、一応、看護婦さんに診てもらう。
しかし、看護婦さんとしても、クリームを塗るくらいしか、提案はなかった。
その後だった。
明るい看護婦さんの表情が心なしか硬くなった気がした。
「ちょと、確認したいことがあるんだけど。あなたの帝王切開の予定は午後だったので、担当医の先生ができないかもしれないの。それでも大丈夫よね?書類にサインしてもらわなければならないから。」
…まあ、だいぶずれ込んだからなあ。
娘の顔に少し不安の表情が浮かんだ。
担当医の先生は、ドクター・ゴウリキ という日系アメリカ人の女医さんだった。
娘も絶対的な信頼をおいていたので、できればドクター・ゴウリキにお願いしたい。
(剛力?強力??漢字はわからないが、名前の音からして、盲目的に信頼してしまいそうだ)
「初産だし、ココの陣痛はまだ5分おきだから、まだ数時間、大丈夫だと思います。なんとか、ドクター・ゴウリキに頼めないでしょうか?」
思わず、私は看護婦さんにすがりつくように頼んでしまった。
「ずっと診てもらってきた先生ですからね。私もドクターに連絡をとって、なるべくドクター・ゴウリキが執刀してくれるよう、尽力を尽くしますから。万が一だめでも、他のドクターもとても信頼できますから、大丈夫ですよ。」
とにかく、この子は意志が強い子だ。
ココがジャスティンと別れたばかりの時にお腹に宿って、
再び、二人を結びつけ、超細いココのお腹の中で超デカく育って、
帝王切開の日、私の到着も待ってくれた上で、
「自分でこの日を選んだんだよ」
と示すためにママを破水させた!
としか思えない。
実は、1ヶ月以上前、私はこの子に聞いてみたのだ。
「私の勝手なんだけど、予定を立てたいから、いつ生まれてくるのか、教えてくれる?」
予定日は3月3日だったから、2月と3月のカレンダーを広げて、
数字を見ながら聞いてみた。
そうしたら、2月23日か24日と言った(気がした:笑)。
それで娘に「多分22日から25日の間に生まれると思うから、準備しておいたほうがいいよ」と携帯のテキストメッセージを送っていたのだ。
(私の直感も捨てたものではない!笑)
「そんな早くに生まれて来てほしくないよ。ちゃんと40週で生まれてきてほしい」
その時は、ココにそう言われたが・・・
しかし、その後の成長が著しく、ココの体型では普通分娩は難しい、という判断から、帝王切開が24日に決まったとき、やっぱりなあ、と思ったものの、これは赤ちゃんの都合じゃないし、という想いもあった。
だから、この子は、帝王切開だったとしても、自分の意志で生まれてくることを示すために、予定より早く破水で意志を示したに違いない。
ココも心のどこかで、自分たちの都合で決めた日で産むのは、本当にいいのだろうか、という想いがあったという。
これで赤ちゃんが準備ができたと示してくれたから、気持ちが楽になった、と言った。
破水も天の計らい、赤ちゃんの計画通り?
陣痛は、ずっと5分間隔だったけれど、6時すぎくらいから、陣痛のピークの数値が50以上を示すようになる。
「フー、フー、フー、フー」
痛みを逃す娘の眉間にしわがよる。
「リラックスして」
私は、ココの眉間を親指で撫でた。
ココを産んだ時、お産婆さんが陣痛を逃す私に言ったことを思い出す。
「ナナちゃん、目を開いて!」
え? あの・・・痛いんですけど・・・苦しいし・・・無理!
一瞬、そう思った。
しかし、眉間にしわがよるほど、ぎゅっと目をつぶると、体がこわばり、もっと痛みがますのだ。
だから、無理やりにでも、目を開けると、自然に体がリラックスする。
そして、体がリラックスすることで、痛みも和らぎ、陣痛の波に楽に乗れるようになる。
そのすべてが、なんだかコメディみたいな感じがして、陣痛を逃しながら笑いそうになったのを覚えている。
私は、こうして苦しいながらも、陣痛は赤ちゃんから送られてくるメッセージだ、と思いながら、陣痛の波乗りサーフィンをした。(楽しんだ、と言ってもいい)
私が出産したころは、ラマーズ法が流行りで、
ヒーヒーフーという呼吸を意識したが、最近はただ、フーフーと
深く呼吸することでいい、ということらしい。
ヨガの呼吸法とかも役立つようだ。
看護師さんが来て、陣痛の波を乗り越えたばかりの娘に
「痛み止めを処方しましょうか?」と尋ねた。
点滴の中に入れるらしい・・・
(病院って、陣痛に痛み止め処方するの?と、私は内心驚いたが・・・)
でもココは、「大丈夫。要りません」と断った。
私は心の中で、よし!と叫んだ。
陣痛は赤ちゃんとの会話なのだから、ちゃんと感じてほしいと想ったから。
いいぞ、ココ!!
フー、フー、フー
力を抜いて頑張れ!
7時すぎ:
陣痛の波が大きくなる。
モニターの数値も、ピーク時で80を超えるようになってきて、それがなかなか、50以下にならない。
陣痛の間隔はまだ4〜5分くらいだが、陣痛自体の時間が長くなってきたのだ。
7時半:
看護婦さんがやってきた。
「今、ドクター・ゴウリキと連絡が取れて、執刀してもらえることになったわよ。よかったわね!」
彼女も嬉しそうに、笑顔でそう伝えてくれた。
「Thank you!!」
ココも安堵のため息をついた。
やった!
この子は、なんて強運の持ち主なんだろう!
手術は8時半すぎになると告げられた。
7時半と9時半にも、帝王切開の手術が予定されているので、その合間に・・・と。
アメリカの大病院だと、そんなに帝王切開があるの??
この病院では、毎日平均5人くらいの赤ちゃんの帝王切開の出産があるそうだ。
アメリカの医者は、すぐに切りたがる、と聞いていたが、ドクター・ゴウリキは、できるだけ普通分娩を勧めている。
娘が無痛分娩を希望した時も、陣痛が感じられないほどは処方しない、最小限でやりましょう、と言っていた。
しかし、それにしても、スケジュールされている帝王切開がこんなにあるなんて、改めて、良いとか悪いとかいう意味ではなくて、すごいなあ、と思った。
(それに、ここは全室個室なのだ。病室、足りるの?いったい何部屋あるんだろう??という疑問もあったが、毎日、退院する人たちもいるからなんとかなっているんだろうか?)
看護婦さんと入れ違いに、東洋系男性の麻酔医がきて、下半身だけの麻酔について説明される。
もうここまで来たら、ココと赤ちゃんの無事を祈るしかない。
ココよりも、傍にいるジャスティンの方がオロオロしているように見えた。
出産に関しては、女は、動物的に本能で肝がすわる。
でも男には、どう転んでも出産はできない体験だから、まあ、無理もないかもしれない。
7時40分:
陣痛のピーク時の数値が85を上回るようになる。
ジャスティンがココの手を握って、サポートしてくれている。
陣痛の波が収まるのを見届けてから、私は部屋からでて、数分の間、外の光が入る2階のロビーから毎日続けているご来光瞑想に・・・
万感の感謝とココと赤ちゃんの無事を祈った。
8時15分:
ドクター・ゴウリキ到着。
名前の雰囲気とは違って、肩までの髪をポニーテールでまとめた小柄の可愛い先生だ。
彼女に娘と孫を託すのだ。
「ココのお母さんですね?」
そう言って、握手を求めてきてくれた彼女の暖かな手を、祈りと感謝を込めて握った。
「予定より早く来てくださって、ありがとうございます!」
私は泣きそうになっていた。
すべてパーフェクトに動いている!
大丈夫!大丈夫!
ドクターはココに言った。
「あなたの赤ちゃんは、だいぶ大きいと予想されるけど、予想より大きいことも、小さいこともあるから、生まれてみないとこればっかりはわからないの。でも、無事に生まれるから大丈夫よ。」
そう、この子は36週ですでに3300gくらいあるのではないか、と言われ、
40週まで待てば、4400gちかくになってしまうかもしれない、
ということで39週目の2月24日になったのだった。
ドクターと入れ替わりに看護婦さんが、ジャスティンに手術室に入るためのキャップ、ガウン、ズボン、靴カバー、マスクを持ってくる。
ジャスティンは、服の上から緑色の滅菌服を着込んだ。

いよいよ感が高まる。
8時48分
二人は手術室の大きなドアの中に吸い込まれていった。
手術室に入れるのは、一人だけ。
なすすべもなく、私は見送るしかなかった。
それでも私は嬉しかった。
何カ月か前までは、ココは私に付き添って欲しい、と言っていた。
でもその後、ジャスティンとココは一緒に暮らすようになり、
ココは彼に付き添ってもらいたい、と言い始めた。
まだ22歳の娘をシングルマザーにはしたくなかった。
たとえ結婚はしていなくても、彼がパートナーとして付き添ってくれることは、やはり母として、私は嬉しかった。
赤ちゃんに会えるのは、1時間後くらいだろうか?

私は案内されてリカバリールームへ向かった。
ここで術後の処置をし、少し落ち着いてから個室に移動することになっていた。
消毒液のにおいもなく、インテリアも洒落ている。
病院についた時には真っ暗だったが、
大きな窓からアリゾナの春の朝の光が差し込んできていた。
リカバリールームは、とても広くてくつろげる空間だった。
このゆったりサイズ、さすがアメリカだ。
特にここの病院は、フェニックスのスコッツデールという高級住宅地がある地域。
ここで出産を希望するセレブもいるそうだ。
娘は低所得者の保険で無料だが、もし自分で払うとすれば、合計200万円くらいはするはず。
普通分娩でも、1泊で約70万円くらい。
だから、みんな、出産後、1泊で退院してしまうのだ。
帝王切開でも保険が効くのは、3泊のみ。
日本だったら、二週間ちかく病院に居られるのに・・・
四日目には退院しなければならない。
それでもみんな、なんとかやっているということは
日本が過保護なのか?と思えてもくる。
私は、産院での自然分娩だったから、回復も早く、最初の子を産んだ時など、出産直後に、自分で歩いて部屋に行こうとして止められたくらいだった。笑
それでも、一週間は助産院にいられた。
上げ膳据え膳で、赤ちゃんと一緒に過ごせたあの一週間は天国だったなあ。
その後の子育ての大変さを思えば、そのくらい、甘やかされたっていいと思うんだけど。
それを想うと、アメリカはきびしい。
日本では、保険に入っていれば、お祝い金ももらえる。
アメリカは、なんにもない。
娘には、産休後、仕事に戻れるかどうかの保証もない。
アメリカが先進国だというのは幻想だ。
技術的には、確かに先進国だろう。
しかし、社会の在り方は、ある意味、後進国なのではないか?
60年代〜70年代のアメリカン・ドリームはすでに過ぎ去った夢物語。
今のアメリカは、民主主義ではなく、企業優先主義。
政府は、庶民より大企業を優先しているのだ。
ものすごく大金持ちか、ものすごく低所得であれば、恩恵を受けられる。
真面目に働いている中間層の一般庶民をサポートしていない。
日本も様々な問題はあるが、アメリカよりは一般庶民が暮らしやすい国なのではないだろうか。
私が日本で出産した時には、私は専業主婦で、それでも主人の給料の半分が支給され、経済的な心配のない状態で、安心して出産ができた。
それなのに・・・
娘には何の保証もない。
母親として胸が痛む。
しかし、無料で出産できたのは、それだけでも、ものすごい感謝だ。
先のことは、なんとかなるだろう!
リカバリールームで待っている私の脳裏には、娘を産んだ時の記憶が鮮明に蘇っていた。
私が二人の子どもを出産したのは、東京都杉並区にある黄助産院。
黄先生は、本当に素晴らしいお産婆さんだった。
毎回、赤ちゃんが出てくるのは、お天道様を拝むようだ、とおっしゃっていた。
そして、赤ちゃんが生まれるのは、リンゴの実が熟して落ちてくるようなものだと。
私はそれをそのまま、鵜呑みにして、赤ちゃんは楽に産めると思い込んだ。笑
そのせいだろうか。
二回とも超安産だった。
娘を産んだ時は、二回目で私にも少し気分的余裕があった。
「自分の産みたいポジションを探して、どこで産みたいか決めていいわよ」
先生にそう言われたので、部屋を歩き回り、いろんなポーズを試しながら陣痛をのがした。
いろいろ試した結果、クッションを3〜4個重ねて、膝立ちでそこにうつ伏せ陣痛を逃すのが、私には一番楽だったので、そのまま、片足を立てた姿勢で、畳の上で産むことにした。
(もちろん、ビニールのシートは敷いてもらったけれど)
3歳の息子も、一緒にお産の教室に連れて行ったり、赤ちゃんが生まれるところのビデオを観させたりしておいて、立ち合わせることにしていた。
1992年4月3日 桜の花が満開だった。

満開の桜が咲く公園からの帰り道、息子は口がとても遅くて、日本語も英語もまだ片言だったが、
「Baby is coming! Baby is coming!」
と言って飛び跳ねていた。
幼い子は、弟や妹が生まれる時、テレパシーのようなものでわかるというが、それは本当だと想う。
陣痛が始まったのは、その日の夜だった。
「ヒーヒーフー。ヒーヒーフー」
息子も私の背中をさすってくれた。
時々「仮面ライダー!トオッ!」
とジャンプして、陣痛の波を逃している私を笑わせてくれながら。
「はい、いきんで!」
黄先生の掛け声で、最後のいきみ。
んんん〜〜〜〜!
オンギャア、オンギャア、オンギャア
ぬるっとした生暖かい感覚と共に、赤ちゃんの泣き声がした。
出てきた赤ちゃんを下で受け止めてくださった先生が、そのまま娘を私の腕に。
私は膝立ちのまま、臍の緒でまだ私とつながっている娘をすくいあげるように、裸の胸に抱いた。
臍の緒は、まだ鼓動を打って、真珠色に輝いている。
赤ちゃんが泣き出して肺呼吸に変わると、臍の緒はその役目を終えて灰色になり、やがて鼓動が止まる。
黄先生から、それを見定めるように、と言われ、主人にハサミが渡された。
その時が臍の緒を切る時なのだ。
それも黄先生だったからこそ、教えてもらえたことだと、今でも感謝している。
あの時の臍の緒の鼓動と真珠のような色は、未だに忘れられない。
4月4日未明に生まれたばかりの娘が加わり、家族四人で畳の部屋に寝かせてもらった・・・
至福の時だった。
そんな風に生まれた娘が、今、最新設備の整ったアメリカの病院で、帝王切開を受けている。

娘は帝王切開を望んでいたわけではなかったが、無痛分娩を望んでいた。
正直なところ、私の胸中は複雑な想いがあり、娘に自然分娩の素晴らしさを語ったYouTubeビデオのリンクを送ったりしていた。
アメリカでも、もちろん、自宅でお産婆さんにあげてもらう人たちもたくさんいる。
アメリカ人の私の友人も四人の子どもを自宅で産んだ。
下の二人は水中出産だったと言っていた。
私はできれば、娘に自然分娩で産んでもらいたい、と思ったのだ。
しかし娘から、自分の決断をリスペクトしてほしい、と言われ、はっとした。
親が素晴らしいと想うことが、娘にとって素晴らしいと感じるとは限らない。
いくら私が素晴らしいと想ったことでも、それを押し付けることはできないのだ。
親というのは、こうして一生、子どもから学びをもらっていくのだろう。
リカバリールームにいた私は、なんとなく胸がざわつき、廊下へ出た。
するとちょうどその時、緑色の滅菌服を身にまとったジャスティンが手術室から現れた。
ジャスティンは、小さなガラスで囲われたベッドの縁に手をかけ、その横を歩いていた。
生まれた?!!!!
私は思わず駆け寄った。
中には、布に包まれ、帽子をかぶって、まっかな顔で、ふやけてしわくちゃの手をした赤ちゃんが!

頭は体温が一番逃げやすいから、帽子をかぶせるそうだ。
日本では聞いたことがなかったことだが・・・
ちょっと小人みたいで可愛い!
(生まれたてのETみたいなシワシワで真っ赤な顔の赤ちゃんを、可愛い!と思えるのは、身内だけじゃないか?笑)
振り向くと、ベッドに横たわり、疲れてはいるが、安堵の表情の娘が看護婦さんに付き添われている。
正直言って、まだこの子が娘のお腹の中にいたのだ、という実感がない。
なんだか、つじつまの合わない夢の中の一場面の中にいるような感覚だ。
ジャスティンも放心した顔つき。
「ブロンソン!」
私はもう決まっていた赤ちゃんの名前を呼んだ。
赤ちゃんを乗せたベッドは、看護婦さんに押されて病院の廊下を流れるように進んで行く。
私はその横を小走りに追いかけた。
ジャスティンと目が合うと、彼は何も言わず、頷いた。
彼はまだショック状態から抜けていないようだった。
彼もまた、夢の一場面を演じているかのようだった。
私たちは、交錯するお互いの夢の中の登場人物になっているのかもしれない。
そんな感じがした。
リカバリールームに入ると、少しずつ、夢からうつつの色が濃くなっていく。

2015年2月24日午前9時12分
体重 8.10 ポンド(約3912g)
身長 21インチ(約53cm)
*余談だが、赤ちゃんの臍の緒の残りの部分には、小さな紫色の器械が取り付けられている。それは、万が一、誰かが赤ちゃんを産婦人科病棟から連れ出そうとした場合、サイレンが鳴り響き、病院中の扉、エレベーターがシャットダウンして閉まる仕組みになっている。そんな器械を臍の緒に取り付けるとは!さすが、犯罪大国アメリカ!誘拐防止のための措置だときいて驚いた!夢から一気に現実に引き戻された感じだ!
ココは麻酔のために痛みは感じなかったが、
ドクターに、ちょっとプッシュを感じるわよ、と言われ
その次の瞬間には、赤ちゃんの産声が聞こえた、と言っていた。
ジャスティンは、臍の緒を切るかどうか、聞かれたそうだが、
手が震えてできないと断ったそうだ。
帝王切開の現場に居合わせただけで、ものすごい緊張を強いられていたのだろう。
生まれた瞬間に、ドクターが、帝王切開で良かった、と言ったそうだ。
体重もさることながら、頭が大きかった。
なにしろ、娘が用意していた新生児用の帽子がすでに入らなかった。
「帽子も服も0〜3ヶ月用じゃ多分入らないわね。3〜6ヶ月用のもの、用意してある?」
ブロンソンを見ながら、看護婦さんが尋ねた。
毎日生まれてくる赤ちゃんと関わっている看護婦さん達が口をそろえて
BIG BABY だという。
アメリカでもこの子は大きい赤ちゃんなんだ。
仮に、娘が病院ではなく、私のようにお産婆さんで自然分娩を望んでいたら、きっとものすごく難産となり、結局、病院に担ぎ込まれたかもしれない。
そして、自然分娩できなかった悔しさと罪悪感すら感じたかもしれない。
だから、これで良かったのだ。
それは、娘の選択でもあるが、赤ちゃんが選んできたことなのだ。
このプロセスを通して、心からそう思えるようになった。
自分がイメージしていた出産とは違うことになるかもしれない。
それで負い目を感じているお母さんたちもいるかもしれないが、
みんな、赤ちゃんは、生まれ方も選んで来ているんだ、ということ。
胎内記憶のある子どもの中には、お母さんが傷を見るたびに、自分が生まれてきた時のことを思い出してもらいたいから、帝王切開で生まれることを望んだ、という子もいるそうだ。
すべては天の計らい。
だから、赤ちゃんが無事に生まれてきてくれただけで、充分。
自分と赤ちゃんを誇りに思ってくださいね。
リカバリールームの窓辺にココのベッドが運び込まれた。
まだ点滴の管がついている。
看護婦さんが体温や血圧を測る。
局部ではあるが、麻酔が効いているため、すぐには赤ちゃんを抱かせてもらえない。
そうか、これが帝王切開の出産なのか。
帝王切開の出産など、なにも珍しいことではないが、私にとっては初めてのこと。
今はつらいかもしれないが、母親というのは、それがどんな出産方法であっても、痛みを忘れる。
赤ちゃんの可愛さは、痛みの何百倍も大きいから。
だから、女はまた懲りずに出産できるんだな。
人間には、三種類ある。
男 と 女 と 母親
母親になった瞬間から、女性は、女という性の中に潜んでいる本能が支配する「母」という性が浮上してくる。
動物の母親も、孤児になった全く違う種類の動物の赤ちゃんを育てる、という話はよく知られている。
母親というのは、本能で動く生き物なのだ。
しかし、現代社会で育った私たちはその本能が鈍っている。
そしてそれを理性で補おうとするから、余計に本能が鈍ってしまう。
その上、核家族になったことで、おばあちゃんの知恵袋的な実践的アドバイス、実生活でのサポートもない。
子育てのストレスが起きるのでは、当然ではないか?
そんな感じがする。
理想の母親像を掲げて、自分をそれと比較する必要はない。
赤ちゃんが生まれた時、産んだ自分もお母さんとしては新生児。
赤ちゃんと一緒に、自分も生まれたてのお母さんとして育っていくのだから。
自分にやさしく、ストレスを感じる自分も許してあげて。
ストレスを自分一人で抱えないで、ご主人、ママ友、お母さん、
みんなに自分の感情をシェアして。
自分の中に溜め込まないように・・・
可愛さと大変さはワンセット。
ママだって、赤ちゃんと一緒に泣きたくなる時だって、いっぱいある。
自分はダメな母親なんじゃないか、なんて思わないで。
罪悪感を持つ必要もないから。
直感と本能の声に耳を傾けて。
母親は泣いている赤ちゃんの微妙な泣き方の違いをキャッチできる。
それもね、少しずつだから、心配しないで。
赤ちゃんが言葉をゆっくり覚えていくように、
ママも赤ちゃんの泣き声を覚えていくんだから。
それは、バアバになっても・・・?笑
ココのベッドの反対側に寄せられた小さなベッドの中で、生まれたてのブロンソンは、なんだかこもるような泣き声でだった。
私はちょっと気になった。
すると、ブロンソンの胸に聴診器を当てていたモデルのように美しい看護婦さんが、私の表情を読み取ったのか、説明してくれた。

「普通は、産道を通る間にぎゅっと胸が押されて、羊水が出るんだけど、帝王切開で生まれた子は、産道を通っていないから、肺の中にたまっている羊水が出にくいからこんな声になるの。だから、ノーマルだから大丈夫よ。お母さんの胸に抱いてもらうと、もっと元気に泣くかもしれない。元気に泣いてくれる方がいいのよ。」
そうなんだ。
知らなかった。
自然の仕組みというのは本当によくできているんだなあ。
また、新しいことを学べた!笑
リクライニングのベッドで少し上体を起こしてもらったココの胸に、赤ちゃんが運ばれてきた。
Skin to Skin
つまり、裸の胸に裸の赤ちゃんを乗せてスキンシップさせる。
すると、急にブロンソンの泣き声が大きくなった。
赤ちゃんは泣くしかないから、ママに抱かれた喜びも
泣き声で表しているのかもしれない。
「GOOD JOB!!この調子で泣けば、羊水が出てくるから、元気に泣いてくれるのはいいことなのよ。」
看護婦さんがココに声をかけてくれた。
「ブロンソン…」

裸の赤ちゃんを直に胸に乗せてもらったココは、泣いていた。
ついさっきまで、お腹の中にいた子を抱く喜び。
妊娠したことをウエルカムと思えなくて、産んで一人で育てられるのか、養子に出すべきか、など様々な辛い想いを経てきたからこそ、その喜びはひとしおだった。
「本当に、この子を産んでよかった。
やっぱり、私、間違っていなかった」

私の目を見て娘が言った。
彼女の頬に、一筋の涙がつたって落ちた。
うん・・・
私も頷いて泣いた。
そう、間違って生まれてきた命なんかない!
みんな、こうして愛されて生まれてきた。
みんな、こうして至福の歓びをお母さんに与えてきた。

国が違っても、
人種が違っても、
どんな状況であっても、
どんな形であったとしても・・・
生まれてこられた、そのことが奇跡なんだ。
YOU ARE SO MUCH LOVED ♡
あなたは こんなにも愛されている・・・
こうして生きている、そのこと自体、
私たちはみんな、愛されている存在だという証拠。

BRONSON DAVID KINCAID LLOYD
これがあなたに与えられた名前。(ナガッ!)
あなたのママとパパは、結婚はしていないけど、
その分、パパとママ、二人の苗字をもらえた。
(初めから、かなり欲張り人生だ!)
あなたは、あなたのママがパパと別れたばかりの時にやってきた。
とてもつらくて、悲しくて、切ない想いだった。
それでも、あなたは生まれることを決めたんだ。
だから、ママもあなたを産む決心ができたんだ。
そんな勇敢な魂の君にぴったりの名前だね。
そのあなたの勇気が、ママを強くし、パパをやさしくしてくれた。
あなたのママとパパは、あなたがくれた愛で再び結ばれた。

あなたの命の奇跡が、家族を愛でつなげてくれた。
私も一度はあなたに
「お空に戻って、ママの準備ができるまで待って」
と頼んだこともあった。
それは、あなたのママが私の娘で、
大きくなっても、私にとっては、
あなたのママは私の宝物だから、
あなたのママが苦しんでいるのが辛かった。
そして怖かったから。
でも、きっと、
あなたのママとあなたは、お空での約束があったんだね。

「ママが寂しくなったら逢いにいくよ。ママを笑顔にしてあげるからね」
先に下の世界に降りて行ったママとあなたは、
きっとお空で、そんな約束をしていたんだね。
あなたの命が、みんなを強くした。
大きな怖れを抱えていたあなたのパパも、
あなたを腕に抱いた時、それが愛に変わった。

「ああ、なんてかわいいんだろう。愛してるよ」
あなたを胸にだいて、あなたのパパはそうつぶやいた。
嬉しかった。
本当に嬉しかった。
そして涙が出てきちゃった。
もちろん、悲しかったんじゃないよ。
嬉しかったからだよ。
あなたがママのお腹にきた時には、
怖れや不安で押しつぶされそうになっていっぱい泣いた。
その涙を君は、今、喜びの涙に変えてくれたんだ。

君の命が 奇跡をうんだ。
君の命が 愛を蘇らせた。
ありがとう・・・
本当に 本当に

