キング牧師 (2)
「高校通学で市バスを利用したが、当時のバスは黒人はバスの後方に、白人は前方に座る規則があった。」
キング牧師も例外では無く、いつでもバスに乗るとバスの後方に行ったが、 「心はバスの前方に置いた。」と、牧師が説教すると、黒人の聴衆は大声で賛同の声を上げた。
「いつかきっと、自分の心のある場所に、身体も置くんだと心の奥で誓ったんだ。」と、牧師。
「僕が14歳の時、 ジョージア州アトランタから、南部の奥深くにある町を訪れた。 教育の一環で、生徒達の演説大会が開催され、それに参加したからだ。」
「そのコンテストで、 運良く一位になったので、良く覚えている。」と牧師。
「その帰り、会場から家まで、90マイル(約145km)の道のりを付添いの先生とバスに乗り、バスの席に座った。」
次の駅で、白人客が乗り、まともに嫌な顔をした。 初めは無視したが、白人は怒りを募らせ、「後ろに行きやがれ。」と、罵った。
「渋々、キング牧師達はバスの後ろに動いたが、空いた席が無く結果的に145km もの長い距離を立ちっぱなしで帰った。 一生忘れられない嫌な思い出だ。」
「分離分断政策がまかり通っていたために、 キング牧師は無数の不愉快な場面に遭遇した。」
例えば、「僕自身の目で、警察官が黒人に対して残忍な態度を取るのを目撃してしまった。」と、牧師は静かに話した。
「裁判所でさえ、黒人達は悲劇的としか言いようもない正義に反する判決を受けた。」
「今でも、 KKK(クー クラックス クラン)と言われている組織の存在を良く覚えている。 その組織は白人優越主義を前面に出している組織だ。」
「そのグループは暴力を振るっても、 白人と黒人の分離政策を守ろうとした。」
「黒人を低い地位のままにしておく事が目的だったのだ。」
「僕は実際、クラン会員が、黒人を叩きのめす現場に遭遇した事さえあった。」と、牧師は話した。
「残酷にも、黒人がリンチ(私刑)にあった場面に、何度か通りかかった。」と、キング牧師。
「このような事件が、成長期の私の個性に多大な影響を与えた。」と、しんみり牧師は話した。
「また、人種差別の功罪と同時に、経済格差の功罪が存在する事実にも気がついた。」と、牧師。
「10代の時 父親は同意しなかったが、 工場の工員として、アメリカの長い夏休み(二か月半ほど)に臨時雇いとして働いた。」
「その時、工員として応募したのは黒人だけではなく、貧しい白人も工員の求人に応じた。」と、キング牧師。
「その時、初めて経済的差別は黒人に対してだけでは無く、貧しい白人達もその犠牲者である事実を悟った。」と、キング牧師は説明した。
「若い頃のこのような経験を通して、米国社会に蔓延している多くの不条理な社会政策の存在を知った。」と、牧師。
「1944年、キング牧師は祖父も父親も卒業した私立の大学に入学、校内の自由な雰囲気に 勉学の意欲が倍化した。」
「その大学では、アメリカが抱えている人種差別問題なども自由に討論できた。」
ヘンリー デビット ソロー(Henry David Thoreau)( 思想家、詩人)の著作である、「市民の不服従」(Civil Disobedience) を初めて読んだ。
ニューイングランド人が勇敢にも、 「奴隷制度がメキシコにまで広がる可能性がある戦争に賛成するより、刑務所行きを選ぶ。」と、税金を払う事を拒絶した。
「この時初めて、「非暴力の抵抗」と言う理論に出会ったのだ。」と、キング牧師は続けた。
「キング牧師は、間違った制度に協力する事を拒絶するその著者の考えに深く感動、何度もその本を読み返した。」
「公民権運動などでも、ソロー思想家の考え方が反映されている。」
「大学入学後、 キング牧師は直ぐ国民全てが平等に扱われるような運動を掲げている団体に属した。」
「その組織は黒人ばかりでは無く、 人種差別撤廃を信条にしている多くの白人も参加していた。」
「子供の頃は、全ての白人を忌み嫌う傾向があったが、大学で組織に所属、白人の中には人種差別反対の人々が存在する事を知った。」
社会の不平等に6才の子供が気づき、心が傷ついてしまう。 その時以来、自分の国、社会に対する考えが歪曲されてしまい、 その考え方の修正には、しばしば長い年限を要する場合が多い。
誰でも、無垢の赤ちゃんで生まれるが、実際にはどの社会にも多くの矛盾があるため、心が傷つけられる場合が多い。誰でも、多少の差はあるにせよ、嫌な経験をするのが、人間の宿命なのかも知れない。
ただ、誰もが直面しなければならない、人生の大きな挑戦は、そのような多々ある社会的不合理に対して、次世代も視野に入れて、改革に向かってどれだけの努力をするかが、重要なのかも知れない。
参考文献
自伝、マルティン ルター キング、Jr.
編集者、Claiborne Carson(クレイボーン カーソン)