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高徳であることは、一種の神聖さである
神聖であるには、自らが清くあること
それは うぶ になることではなく 責任を持つことだ
個人の考え、理性、本能と神聖さ、高徳さ は
水と油のような関係である
もとは、私も水であった
いつしか、油となった
油は水と交えはしない 油であるという認識を持ちたい 重要だ
生まれながら罪を持つ という事は一旦脇に置く
生まれた瞬間は清らかな水 純白であった
それは 何も知らない からとも言える
育つ過程で
私は、様々な影響を善し悪し関係なく取り込む
それは
設置してから全く掃除などしていないエアコンのフィルターの様
ボタンを押せば、暖気、寒気を選別し、機能はするが
(私というフィルターが善悪を選別するが)
そもそもフィルターが経年の汚れを纏い
送りだす風にはホコリが混じる
そのホコリ風を受ける友人、家族、もしくはいつか生まれる純白は
健やかな体として育つのだろうか
今、外に送りだす私の考えは、周りに、フレッシュな風として吹くだろうか
私が流す水で、飲む人々が腹を下してはいけない
友人に、家族に、赤子に、皆に、コップ一杯の油を飲ませてはいけない
掃除の時が来た
掃除の時が来たのだ
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