このストーリーは、
今から10年前に51歳という若さで
ガンという病に侵され他界した
親父と私の「唯一の繋がり」をテーマに書いています。
親父が死ぬまでに交わした言葉は
数えられるくらいしかありません。
それほど無口な親父が唯一残してくれた、
”ある言葉”を胸に抱え今も少しずつ前へ前へと
毎日を輝かしいものにしようと生きています。
親子であり他人のような、
そんな私と親父でしたが
このストーリーを書くことで
親父と私の「唯一の繋がり」が
強固なものになるような気がしています。
最後まで読んでいただけると嬉しいです。
殺したいほど憎かった酒乱の親父が言っていた「〇〇になるなよ」という言葉が生きる力になっている話
「バキッ!!」
この瞬間を今でも忘れない
実の父に殺意を抱いた日だ。
そう、親父が母に暴力を振るった初めての夜だった…。
それは私が10歳の時、
いつものように親父は酒に溺れていた。
普段は無口で人当たりのよい親父も
酒に呑まれると人が変わってしまう。
その度に母と口論になり、
いつも罵声が飛び交っていた。
幼い私はいつも寝たフリをして
布団に潜り込んでいた。
嵐が過ぎ去るのを布団の中でじっと…。
しかし、その日は違った。
いつものように怒鳴り声が聞こえてくる中で
いつも以上にそれが荒々しさを感じたのだ。
「バシッ」
親父が母の頬をひっぱたいた。
私はすかさず間に入って
「もうやめて!」と止めたが
親父の力には到底およぶわけもなく、
はねのけられたその瞬間…。
「バキッ!」
親父は母の顔を勢い良く蹴りあげた。
母の口からは歯が数本折れたせいで
大量の血が流れ出ていた。
今でもこの光景は
私の中に鮮明に残っている。
私は親父の力に抵抗できず母を守れなかったことに
悔しさと自分に対する嫌悪感でいっぱいだった。
それと同時に10歳の私は、
私(10歳)「大きくなったら絶対に殺してやる…」
そう、初めて親父に対して殺意を抱いたのだ。
そして、親父は私にとって父親ではなく、
憎しみの相手へと変わっていった…。
それから私が中学に進学した頃から
親父は単身赴任でほとんど家にいることは無くなり、
親父がいないことで平穏な日々だった。
しかし、たまに帰ってきては飲んだくれて
母といつものように激しくケンカをする。
大きくなった私はそんな状況から逃げるように
夜な夜な仲間達と集まって、ろくでもない遊びを繰り返し
俗にいう非行少年へと変わっていった…。
そんなある日、
親父と二人っきりで家にいた。
いつものように親父は相変わらず
好きな野球を観ながら酒を飲み、
いつもの親父とは違い少し弱々しく私に話しかけた。
親父「こうじ…」
私「な、なに…?(なんだよ、珍しく話しかけてきて…)」
親父「勉強はちゃんとしてるか?」
私「あ〜、まぁそれなりに…(嘘だけど…)」
親父「そうか…勉強はしといた方がいいぞ」
私「・・・(あんたに言われたくねーよ)」
私と親父は普段はまったく会話をすることはなく、
目を合わせることもめったになかった。
そんな親父がポツリと一言
こう言った・・・
親父「俺みたいになるなよ・・・。」
私「・・・・・・・・」
この時の私には親父が何を言っているのかが
全く理解ができなかった。
普段会話もろくにしないのに
急に口を開いたかと思えばこんなことを
言われたものだから私は正直戸惑った。
そして私は親父の言葉とは裏腹に
親父と同じような道を
歩んでいってしまったのだ・・・。
勉強なんてしたこともなかった、
意味もなく誰かを傷つけ母を泣かせた。
正直自分が何のために生まれて
何のために生きていかなければいけないのか
それがわからなかった。
心はいつも孤独で
自分以外の誰かや自分自身との
向き合い方がわからなかった。
そんな荒みきった日々を過ごしていたが
あることをキッカケに17歳になった私は
改心していくことを決意した。
「俺みたいになるなよ」
親父のこの言葉を少しずつ
理解し始めた時だった。
それからの私は、
高校にも通わずろくに仕事もしていなかった生活から一変して
定職に就き仕事に没頭するようになった。
とはいえ、学歴も無く就ける仕事は限られていたので、
親父と同じ配管工の仕事で汗水垂らして働いていた。
それから2年程過ぎた頃から
仕事も慣れてきてはいたが
自分の将来を考えるようになった。
「このままでいいのだろうか?これでは親父と同じだ…」
そして19歳の時に私は高校進学を決意した。
夜間の高校に働きながら通って
大学進学を目指そうと志したのだ。
それから夜間高校の進学が決まり、
入学を目の前にしていた2004年の3月に
私の人生を大きく揺るがす出来事が起きた。
医者「お気の毒ですが、お父様の余命はあと3ヶ月です・・・」
私「(殺したいほど憎かった、あの親父が3ヶ月で死ぬ・・・)」
テレビドラマでよく観る光景が
私にもこんなに早く訪れるとは
夢にも思っていなかった。
全く実感が湧かず、
あの親父が死ぬなんて想像もできなかった。
殺したいと思っていたのに
赤の他人の医者から親父の死を宣告された途端、
どうしたら良いのか頭の中はグチャグチャになった。
病気とわかった途端、
親父は日に日にやせ細っていき、
見る影もないほどに老人のような
姿に変わっていってしまった。
親父が病気で死んでしまうということを
頭では理解していても感情が追いつかず、
親父が死ぬまでに色々と話したいと思っても
親父の姿を見ることさえ辛くて目も合せられなかった。
刻々と親父の死期は近づいていった。
余命を告げられてから3ヶ月を過ぎても
親父はなんとか頑張っていた。
しかし、次第に食事もできなくなり、
私も家族も親父はもう長くないと理解し始めていた…。
そんなある日、
親父がポロッと言葉を漏らした。
親父「釣ったばかりの新鮮なアジの刺身が食べたいなー」
食事が取れなくなっていた親父は
大好きな刺身を食べたいと言ったのだ。
親父の唯一の趣味だった魚釣り…
私「よしっ!俺が釣ってくるよ!」
そして私は、その日の夜に早速釣りに出掛けた。
私がまだ小さい頃に親父が教えてくれた仕掛け通りに
私は見事大きなアジを沢山釣って持って帰った。
私が深夜に帰宅すると、
ヨロヨロとしながらも親父は起きてきて、
魚の入ったクーラーボックスを見て嬉しそうに言った。
親父「いいアジが釣れたなー。明日母さんにさばいてもらって食べよう。」
そして次の日、親父は嬉しそうに
私が釣ってきたアジの刺身を
しっかりと味わいながら食べてくれた。
これが親父の最後の食事だった…。
そして、私が親父の為にできた
最初で最後の親孝行だった。
それから1週間後の
2004年10月26日に親父は死んだ。
私が20歳になったばかりで
成人式を迎える前に親父は逝ってしまった。
親父の言葉が
何度も何度も頭の中を駆け巡った。
「俺みたいになるなよ」
「俺みたいになるなよ」
「俺みたいになるなよ」
親父に対しての憎しみなど
とっくに私の中から消え去っていた。
いつも酒ばかり飲んで、酒を飲んでは暴れて、
仕事もいい加減でギャンブルばかりの
どうしようもない親父だった。
でも私には、
たった1人しかいない親父。
親父は不器用だった。
大人になった今なら理解できる。
親父も孤独を抱え、酒に逃げ、
変えたくても変えられない自分を卑下して、
負のスパイラルから抜け出せなかった。
それでも自分の子供には
自分と同じような道を歩んで欲しくなかったんだと。
不器用ながらも親父が私に伝えてくれた
精一杯の言葉が「俺みたいになるなよ」
って言葉だったんだと今なら理解できる。
そんな不器用な親父が残してくれた言葉が
今までも今もずっと私の心のなかには残っている。
親父が死んでから今日まで、
親父みたいにならないように
自分と向き合い続けて前に進み続けてきた。
親父が死んでからの10年間は
たくさん辛いこともあった。
でも、いつも親父の言葉を思い出す度に
それを私の生きる力にしてきた。
もっと早くに親父のことを理解できていたら
もっとたくさん色んなことを話せたのにって
後悔したこともたくさんあった。
でもだからこそ、
伝えたいことはすぐに伝えるし
やりたいことはすぐに行動に移してきた。
明日何が起ころうとも
親父の言葉を胸に刻んで
今日という日を精一杯生きていく。
「俺は親父みたいにはならないから!」
おわり
最後まで読んでいただきありがとうございました。
書きながら涙が止まりませんでした…。
親子であるが故なのか、
親父のその時の気持ちや
どうしてあんな親父になったのかが
痛いほど理解できるからです。
過激なタイトルではありましたが、
決して本気で親父を殺そうとなどは思いませんでした。
少しずつ成長していく中で
親父という人間を少しずつ理解していきました。
世間的に見れば親父はクズ親父だと思います。
私もそう思います。
でも、私は親父に感謝しているし
親父は私にとってたった一人の
かけがえの無い親父です。
親父の生涯を通じて
私にたくさんのことを教えてくれました。
人の弱さ、強さ、
人生の苦しみ、楽しみ、
そして命は尊いということ。
それは私も親父と同じような経験を
積んできたからこそわかることがあります。
私の人生も決して順風満帆ではありませんでした。
でも、そこから学ぶことを忘れず、
逃げずに行動を変えてきました。
それは親父が私にくれた「俺のようになるな」
って言葉があったからです。
私はここには書いていない
たくさんの経験を積んできました。
そして、2年前から地元を離れ
東京でビジネスを学び、
今は多くの仲間と共に事業をしています。
とても幸せに過ごしています。
本当に最後まで読んでいただきありがとうございます。