僕の大学生活を一言で表すとしたら、
麻雀廃人である。
僕が麻雀を始めたきっかけは単純明快、
友達ができなかったからである。
大学進学をきっかけに四国の
片田舎から大阪に来ていた僕は、
同じ進学先に一人も友達がいなかった。
最初は友達ぐらい何とかなるだろうと、
軽く考えていたが、
そんなことは決してなかった。
大学生活が始まって一週間がたって、
2000人程同期がいるはずの大学生活において
僕の周りには友達が2人しかいない
という悲しい現実が待っていたからだ。
僕は人とのコミュニケーションが
めちゃめちゃ下手だった。
初対面の人と話すときは、
二言喋るとだんまりしてしまう。
次に何を喋ったらいいか分からず、
あとはひたすら時が経つのを願うばかりの、
要はコミュニケーション障害
という難病を患った悲しいヤツだ。
女性と話すときなんてもうヤバい。
笑顔を作ることすら全然できなくて、
表情は常にひきつっていた。
『川田の笑い顔ってキモイよね。』
っていうひそひそ話を耳に
してしまったことは、
今でも記憶に残っている。
関西人のコミュ力には、
圧倒されるばかりである。
僕が話に介入できる余地なんてちっともなく、
ただただ孤独を感じる日々が続き、
気づけば一週間が経過していた。
乗り遅れた感が常に半端じゃない。
そんなある日、
アウトドアサークルの新入生歓迎会
があるというチラシをたまたま目にした。
藁にもすがる思いで勇気を振り絞って
行ってみることにした。
そこで、
初対面の2年生の先輩に
たまたま声をかけられる機会があった。
2年の先輩「お前、麻雀とかできる??」
僕「はい!できます!!」
2年の先輩「まじで!アツい!!じゃー今日人足らんっぽいから、徹マン(徹夜での麻雀)やろーぜ!!」
僕「はい!!どこでもお供します!!」
即答だった。
と、いいつつも麻雀なんて初めてである。
もちろんルールなんてぜんっぜん知らない。
麻雀牌も人生で初めて触れたのだった。
右も左も分からないままボロボロに負け、
僕はその日2万円ほど失った。
しかしなんだか嬉しかった。
全く友達ができなかった僕に、
その日一気に4人も、
先輩という存在を手に入れてしまったからだ。
僕はその麻雀という
コミュニケーションツールの力を知り、
味を占め、力を借り、
先輩や友達を作っていこうと心に決めた。
気づけばどっぷりとハマっていく自分がいた。
・・・・・・・・
欲望のままに毎日授業をさぼって
ずーーーーーーーっと麻雀をしていたこと。
朝、
出席がある講義だけ10分間受講して抜け出し、
その日の昼から次の日の朝まで麻雀。
また次の日の朝出席カードを提出後、
仮眠をとってまた徹夜で麻雀。
麻雀をやりすぎて中指の第一関節辺りに
でっかい麻雀ダコができたこと。
麻雀しかやってなかった成果、
一年生の後期は英語の2単位以外
すべて落としたこと。
つぎ込めるだけ麻雀に
時間をつぎ込んだものの、
どうしても先輩や友人に全く勝てなかった。
どうしても麻雀で勝ちたいと思って、
ひたすら麻雀の勉強をし続けるが、勝てない。
それでもどうしても勝ちたいと思い、
ある禁じ手を使った。
インターネットやマンガからイカサマを学び、
一人で夜な夜なひたすら家で
イカサマの練習をするようになった。
熟練してきたところで先輩や友人に使う。
努力の甲斐あって、結果は大成功だった。
成功はしたものの全く嬉しい気持ちになれず、
麻雀を終えて一人家に帰ったあと、
とんでもなくむなしい気持ちに襲われた。
高校生の時に朝から晩まで
勉強や部活を頑張っていた頃の自分と、
朝から晩まで麻雀に浸る
今の堕落しきった自分を比較したら、
心底情けない。
いっそ過去の自分なんて忘れたい。
何かを頑張るなんて泥臭い。
もうこりごりである。
現実逃避するがのごとく、
さらに麻雀に入り浸った。
そんな自分が恥ずかしくって、
どこか別のところにこっそり自分を隠して、
自分自身と向き合わないようにしていた、
そんな学生生活だった。
そんな生活を1年半ほど続けた。
そんな僕にも変化するときが訪れる。
麻雀仲間からの怪しいお誘い
2012年10月。
麻雀をきっかけに仲良くなった、
大学の友人から突然、
「一緒に起業しないか?」
という誘いを受けた。
なんでも、
2年生の夏休み中にありえない人脈と
つながることに成功したとのこと。
学校にいきながら起業して、
就職しないで、
豊かな暮らしをしていくとのこと。
一緒に起業して、
自由に自分のやりたいことをできる、
豊かな人生にしていかんか?
というオファーだった。
もちろん丁重に断った。
僕は、
学校にすらまともに通えない不束者である。
そんなこと、自分にはできるわけがない。
そう信じていたからである。
しかし家に帰って一人になった時に、
心なしか気になってしまう自分もいた。
この情けない堕落した生活から、
なんとか抜け出したい!
という気持ちでいっぱいだった。
その言葉を聞いた日、
人生で初めて夜も寝られないほどに
自分の人生について考えたのだった。
自分自身と向き合うきっかけとなった。
そもそも、
僕がその大学に通っている理由
を考えたこともなかった。
しかしよくよく考えてみると、
僕は高校の時に
数学と理科がたまたま少しできて、
その偏差値を基準に入れる大学、
学部を選んだだけだった。
真の決め手は、就職率だった。
工学部だけは軒並み100%だった。
離職率などは知らぬままに・・・
僕が本当にやりたいことは、
この学部学科での勉強の先にあるのだろうか。
量子力学をマスターしたら?
統計力学をマスターしたら?
解析学、線形代数、流体力学、材料力学。
すべて理解した僕は、
どうなれるんでしょうか???
教授?研究者?
は?そんなんその分野が
大好きでたまらないヤツがやることじゃね?
自分は全然好きになれない。
むしろ大嫌いである。
そもそも東京大学京都大学のヤツらと
競い合ったときに、勝てるような気がしない。
努力でなんとかなるヤツらじゃないと、
受験時代、嫌というほど思い知らされた。
でもだったら自分って、
世の中に必要とされてないんじゃね?
しかしながら入ったら最後、
学部の変更なんて効かない。
学校が決めたカリキュラムに
抗うことは不可能だった。
わがまま?
という心の声が、うるさい。
自分と向き合っているときぐらい
好きに考えさせてくれ。
自分がこの世に生まれた意味を、
初めて深く考えた。
何か自分にできること、
本当にやりたいことってないのか。
色々考えた結果、
現状を変えたいと強く思った。
次の日には、その友人に逆にお願いしていた。
「俺もなんかやりたいけど、
どうしたらいいのか分からん、
俺どうしたらいい???」
そうしたら、
その友人から一人の会社経営者を
紹介させてもらえることになった。
その一つの出会いで、
人生が一変することになる・・・
人生で初めて、会社経営者と対面。
黒のテカテカのスーツに身を包み、
セブンスターのタバコをふかし、
その長髪はジェルでテカテカで
バリバリに固まっていて、
低く落ち着いた声色が妙に心地いい。
社長「なあ晃也、高層ビルを思い出してみ?」
僕「は、はい・・」
社長「一番上にいる人と一階にいる人、景色違うと思わんか?」
僕「た、確かに・・」
社長「今晃也がさ、まだ下の方の階にいるなって感じるんやったら、上にあがっていくような努力してけばいいねん。」
僕「は、はあ・・」
社長「そしたらほら、視野が広がると思わんか??」
僕「た、確かに・・」
社長「そうやって、自分のやりたいことってのは見つかっていくもんやねんで!」
僕「な・・なるほど!!」
社長「大学にいたらそりゃやりたいことなんて見つからんよ。俺もそうやったし。」
僕「そ、そうですよねっ!!」
社長「だからさ、これから自分がどんな努力していくかちゃう?」
全身に電撃が走るような感覚に襲われた。
すぐに、
この人は今までに出逢ってきた人と全く違う。
何をしている人なのかよく分からないけれど、
なんとか弟子にしてもらいたいと思った。
しかし、
その方の元に弟子入りをするには、
100万円必要ということだった。
バイトもろくにせず麻雀ばかりしていたので、
貯金なんて全然していなかった。
それになにより不安で、
紹介してくれた友人に
本当に大丈夫なのか何度も問い詰めた。
が、なんだかんだ自分の中で
最初から答えは決まっていた。
ただどうしても資金的に工面に困って、
レイク、アコム、プロミス、アイフル
駆けずり回りなんとかお金を借りられた。
自動審査機の、
ちょっと待って!詐欺に注意!
という注意書きが何度も気になったが、
見ないように気を付けた。
よくもわからないまま、ビジネスを開始
自分の人生をよくするための100万円なら、
大学の学費よりはるかに安い!そう思った。
そこでは起業や成長に向けて色々ビジネス
を教えてくれるということだった。
僕がいた環境は心底素晴らしいと思った。
自分よりもかなり高いステージにいる方々
とふれあう機会も沢山あったし。
足りないことだらけだった僕が成長するには
ここしかないと思うような環境だった。
なんなら海外の大統領と対談をするような人。
若くして莫大な富を築いた不動産王。
海外で事業をする上で必要な、
セキュリティ会社の社長さん。
さらには誰もが知る
超有名なアーティストが人脈にいたり。
本当に人生って簡単に変わるものだなー、と。
感じざるを得なかった。
ここで成長していった先には、
起業したりだとか、有名人になったりだとか、
忘れかけていた、
本当になりたい自分になれるんじゃないか?
と期待が高まり、
毎日が楽しくて楽しくて仕方がなかった。
そんな最高の環境を、
僕の大事な友達に伝えたくて伝えたくて
仕方がない思いでいっぱいだった。
そしてその先には、
仲のいい親友同士でなにか
でっかいことをやりたいーーー!!
とずっと未来の自分を思い描くようになった。
知らず知らずのうちに、
その環境の素晴らしさを、
同郷から大阪に出てきていた
親しい女友達に伝えた。
また同じく、
同郷から出てきていた親友の男友達に伝えた。
もともとの親友と言っても、
コミュニケーションがとれなかったので、
ありったけの僕の気落ちを思いっきり
ぶつけるということしかできなかった。
ただ、その想いは伝わらず、
結果には全く結びつかなかった。
ただ、
僕は本当に成長して漠然と
大きなことをやりたいと思っていたし。
僕を育ててくれた家族や親せきたちに
なんとか成長した姿を見せたくて、
結果を追求するべく、
言われたことは愚直にやっていった。
『気合を入れるために、お前坊主にしろ!』
といわれて坊主にし。
明日東京に来いと言われたら、
すべての約束を断って東京に行き。
来月ハワイ行くからと言われたら、
またお金をさらに借りて行った。
そうこうしているうちに、
最初100万円だった借金が、
経費もろもろで出費がかさんだ結果、
200万円まで借金が膨らんでしまった。
僕の生活はどんどん苦しくなる一方だった。
僕は本当に人生が良くなっていくと信じて、
寝ないで活動をするなんてざらだった。
未来が良くなるんなら
寝ている暇なんかねえーー!って。
しかしながら僕が信じていた未来は、
果てしなく、遠い、遠い位置にあるものだと、
自分の未来に対して疑心が
生まれるようになっていったのだった。
それもそのはず、
僕は大学に通いながら活動をしていて、
携帯の電話帳の一番上から一番下まで
しつこく電話をかけていたし。
実際に大学の友人になんとか会って、
自分の気持ちをぶつけること
をしつこくずっとやっていた。
その噂が大学の中で瞬く間に広まってしまい、
僕みたいな文言を言ってくるヤツに注意と、
学校の建物の5メートルおき、
学校の掲示板すべてに、
僕の指名手配書が貼られてしまった。
いよいよ学校に足を運ぶ
ことすら難しくなった。
夢にまでみた有名人・・・
とはあまりにもかけ離れた現実が待っていた。
2013年4月、
大学の進学の手続きに来ていた両親に、
200万円の借金がむなしくもばれてしまった。
その日、
朝から晩までずっと説教をされた。
悔しくてずっと言い返して
を繰り返しているうちに、
自由にやっていく代わりに
大学を中退させられることになった。
当時は感情的になって周りが
見えなくなってしまったけれども。
一人になって冷静になった時に、
ことの重大さを思い知ることになる。
僕は今まで大事にしてきた親友、友達。
おまけに家族の信用、学歴。
ほとんどすべてのことを失ってしまった。
僕に残ったものと言えば、
200万円の借金だけだという事実に、
気づくのには遅すぎたのだった。
それからはというもの、
僕はビジネスというものを辞めてしまい、
ただただバイトだけを
こなしていく毎日が始まった。
そんな生活を半年間続けていたころ。
日々感情を押し殺して生きていた僕に、
ある人生の転機が訪れた。
リアルビジネスにおいて、
7日間で500万の売り上げ
を上げる力を身につけ、いつしか、
独立という目標も叶えるに至ることができた。
独立を果たすうえで一番のキーとなったのは、
ある一人の若手起業家との
出会いがきっかけだった。
もちろん独立に至るまでも、
一通りの苦渋を味わった。
しかし、
ずっと悔しい思いをし続けてきた僕にとって、
こんなにやりたいことができて、
伝えたいメッセージを世に届けられて、
世の中に価値を提供し、
感謝をされるなんてことは、
他にないと思っていた。
だから、これまでずっと
折れずにやってくることができた。
僕はずっとイジメられて生きてきた。
僕は小さいころから高校を卒業するまで、
ずっと先生という存在に
イジメられて生きてきた。
小学生になって初日、
身体も小さく女々しい性格ゆえ、
クラスメイトからのイジメの標的となった。
先生はずっと見て見ぬふりをしていた。
中学生の僕は、ことあるごとに
毎日のように先生に怒鳴られた。
時にはボコボコにされ、
バリカンで坊主にさせられた。
高校生になって、
全然勉強についていけなくなった。
勉強の出来なさゆえ
放課後毎日2時間説教をされ、
真剣に頑張っていた部活動は、
強制的に活動停止にされた。
大学に行かない人間は親不孝者とののしられ、
進学以外の進路は知る余地もなかった。
将来のことは、大学に丸投げである。
それは、大学でも同じだった。
就職以外の進路はありえない。
将来のことは、就職先に丸投げであった。
正直なところ、
僕は学校という機関が大嫌いです。
全部が全部他人任せで存在している。
小学校は中学校に、
中学校は高等学校や就職先に、
高等学校は大学や就職先に、
大学は就職先に。
生徒の人生を背負おう!
という信念を持った先生。
この世の中には存在するのかもしれない。
しかし、
短い人生経験ではあるが少なくとも
「学校」という機関には存在しない、
いや、存在し得ないと感じている。
なぜならば、
そんな素敵な信念を持った学校の先生も、
卒業していった生徒の人生までは、
背負いきることは不可能だからである。
僕の使命として、感じること。
一言でいうと、
今の教育というものを
変えたいと思っています。
大学という機関まで、
親や学校や社会の
いいなりとして生きてきました。
しかし、いざ自分のチカラ一つで
生きていこうとなると。
社会のいいなりとして育ってきた
僕のような人間からすると、
とてつもなく高く、
分厚い壁があるように感じます。
でもだからといって流されて
生きていくのは違うと思うんです。
このご時世、
10年存続する企業というのは
1%未満と言われています。
じゃあ、
10年以上存続してきてかつ大企業は、
一生僕らを護ってくれるのか?
と問うと、
社会情勢を見るに、疑問が残ります。
でも、大切な人は、
護らなければなりません。
誰も護ってはくれません。
何かが起こって、
「国」や「会社」の責任を叫んでも、
それで護っているとは言えません。
本当の意味で護るとは、
どういうことなのでしょうか。
皆さんと一緒に考えていきたいです。
それまでに、
まずは自分を大切にすること。
変化の激しい今の時代を、
自分のチカラ一つで、強く、長く
生き抜くことができる若者を輩出する教育を、
世に浸透させることが僕の使命です。
これを読んで頂けた貴方にも、
どうかご縁がありますように。