周りの人達には、どうやら虹が虹色に見えるらしい。
虹が本当に7色に見えるのであれば、どれほど美しいのだろう。

僕は、2色で構成される世界で生きている。先天性の色覚異常だ。
これといった先入観がない限り、水色、青、紫といった色は「青系」として、黄、赤、緑、茶、肌色、朱色、オレンジといった色は「赤系」として識別される。
それ故の失敗談は、掃いて捨てるほどある。
幼稚園の参観会では、背面黒板に貼られた「おかあさんの にがおえ」の中に1人だけアフリカ系のおかあさんが混じっていたらしいが、当時の僕は授業中も外に飛び出していってしまうやんちゃな少年だったため、母は気にも留めなかったようだ。
今になって思えば、ゲームと名の付くもので同年代には絶対に負けないと思っていた小学校低学年の頃の自分が、唯一出来なかったのが「ぷよぷよ」だった。完全に運任せのゲームで、僕が負けるのはただ単に運が悪いからだと思っていた。
色盲という概念すら知らなかった当時の自分に早く気付けというのも酷な話だし、今となっては笑い話だ。
信号も、緑黄赤と並んでいるので全て同じ色だし、色分けの棒線グラフとか路線図はバカにしてるのかってくらい読めない。
合宿とかで「UNOやろうぜー!」という流れになる度にトイレに隠れるのも、今では慣れっこだ。
それでも、もし世界が色鮮やかだったら、それはとても綺麗なんだろうな…
そう思ったことがこれまでの人生で何万回あったことだろうか。
色盲に気付いた日
自分が色盲であることを知ったのは、小学校に入ってまもなくのことだった。
午前中に友達と話した時に彼は赤いパーカーを着ていたのだが、帰りに見てみると、いつ着替えたのか、これが茶色のパーカーに変わっているのである。
「いつ着替えたの?と聞いても、これが「着替えてないよ」というもんだから、ちょっとしたけんかになった。
そりゃもう、僕からしたら「そんなくだらない嘘付く必要ないじゃん!」だったわけで。
家に帰って母にその話をしたら、深妙な顔つきで母が本棚から出してきたのは、一冊の色盲検査本。
僕の記憶が正しければ問題は13問あって、緑色の森の中に咲くザクロの花を全て見つけるものだったり、ドット絵の中に隠れている数字を探すものだった。
当時テストで分からない問題が出るという感覚を知らなかった自分からしたら、「何年生用のテストだ、これ」という印象だったのを覚えている。
1問でも間違えたら色覚異常、13問正解して初めて正常、という説明が前書きに記されていたものの…
1問も正解出来なかったのには僕も母も揃って閉口してしまった。
ちゃんと覚えてはいないが、母さんは少し泣いていたような気がする。
僕は次の日朝一で学校に行って、友達に昨日のことを謝った。
彼には「知らねえ!絶交だ!」と言われたが、あれから10年以上経った今でも彼とはそれなりに仲良くやっている。
1週間くらいして母に「色が分からなくてごめんね」と謝られたのも、ここだけの話。
* * * * * * *
それにしても、今考えると人間の学習能力というのは素晴らしいものだと思う。
自分が色盲であることを意識し始めてから、先入観である程度の色は判別出来るようになったのだ。
例えば、コカコーラの缶。
記憶を辿れないほど遥か昔に、どこかの誰かがコカコーラの缶は赤色だと教えてくれたのだろう。
何回見ても、緑や茶色、黄色には見えないのだ。
コカコーラの缶は赤いから、赤く見えるのだ。
まあ、期間限定の「茶色い」コカコーラの缶があったとしても、僕は迷わず、これは赤い缶だと言ってしまうだろうけど。
そんなことはそうそう無いだろうという根拠の無い憶測も手伝って、やっぱりコカコーラの缶はどうみても赤なのだ。
服を買う時にはちゃんと店員か友達に色を聞くけれど、買った後は紺のジャケットは紺にしか、ピンクのシャツはピンクにしか見えないし、オレンジに染めた髪は、段々と色が抜けていってただの茶髪になってもオレンジにしか見えなくて、ひとたび友人に「色抜けてきたね」と言われてからは、その髪は茶色に見えるのだ。
それだけでなく、同系統の色でも、並べてみてその色の強さを比較することで色を識別するスキルも身に付いてきた。
例えば、Denny'sの看板を見たことがあるだろうか。

↑これである。
昔は「デニーズ、レストランって文字小さ過ぎだろw」と思っていたのだが、ある日、「あれ、真ん中らへんの色の強さがちょっと違うっぽい…」と気付いたのだ。
こんな要領で、僕は少しずつ「色」というものと上手く付き合えるようになっていった。
色の序列
色盲に気付いてから10年程生きてきて、僕の世界の中だけの色の序列が構築されていった。
①茶色≧赤>緑>黄緑>オレンジ>>黄≧肌色
②紫>>青
③黒>紺>>灰色≧ピンク>>>白
僕の中での強さの序列は、こんな感じだ。
例えば、赤は、黄色よりも強いし、オレンジは、緑より弱い。
本当は②と③は2次元上に書かれたDNAのような螺旋を描いて噛み合わさっているのだが、自分の頭の中にしか存在しない概念を言葉にするほどの言語能力は僕には無かった。
自分でも完璧には掴めていないのだろう。
そしてモノクロの世界にピンクと紺(気分や天候によっては紫も)が入り込んでくるのは、自分でも全く理解出来ない。
まあ要するに、赤の隣にあって赤よりも強いものは、経験上茶色か緑に違いない、みたいなことだ。
今は授業中にこの記事を書いているのだが、前の席に座っている女性のバッグが黄緑色だと言うことが分かった。
それは彼女の持っているいろはすの葉(?みたいなロゴ)が重なっている部分の緑のロゴよりも弱く、(色盲だと、必要に駆られて様々なロゴの色を記憶しておくもので、いろはすのロゴは緑という知識があった。職業病みたいなものだろうか。)僕のペンケースのオレンジの部分よりは強いからだ。
これを打ちながら、少し自己嫌悪気味である。
黄緑と分かるまでは全く問題ない。
しかし、彼女を一瞥して「黄緑のリュックか、微妙だなあ」と思う自分に気付いてしまうと、冷静に考えると恐ろしくて仕方がないのだ。
彼女の何となく垢抜けない雰囲気も手伝って、そんな結論に至ってしまったのではあるが、それはこの際置いておくとして。
僕は黄緑がダサい色だとは思わない。緑、赤、茶色、黄色とかと変わらない。
「個人的には」そう思うのだ。
だが、ここでの「個人的には」は、一般的な色の解釈とあまりに乖離してしまっている。
のだめカンタービレという漫画で、イケてないオーボエ奏者を「green」と呼ぶシーンがあった。
緑はフランス語で暗い人を表す言葉らしい。
それ以来、潜在意識で緑という色は何となく受け付けなくなってしまった。
今思えば、緑色の服は一着も持っていない。
何が言いたいかというと、色に関して言えば、僕の審美眼は所詮、他人の審美眼の受け売りなのだ。
自分の持つ考えが何らかの外的要因によってねじ曲げられてしまうのが、僕はとにかく嫌いだ。
だから、「白とピンクは可愛い」とか「男はモノトーンが無難」だとか、僕とは全く異なる美的感覚を持った人達が決めたルールを捕虜の如く受け入れることしかできないのは、冷静に考えるとぞっとする。
ピンク色だと言われたら可愛いと思ってしまうし、グレーだと言われたらちょっとクールだと思ってしまう。
僕にとってピンクとグレーは同じ色なのに。
この情報処理が思考を介せず深層心理で行われているから、「自分」がどこにもいない。
僕は極端なB専でもなければ、靴下の匂いが大好きな訳でもない。
きっと人並みには可愛い女の子が好きだし、きっと人並みには焼肉屋の前を通ればお腹が空くと思っている。
でも僕が平安時代にワープしたらきっとB専扱いされるし、家族で高級な靴下屋さんに行って靴下の匂いを嗅ぐ、という文化がもし仮に日本に根付いていたのであれば皆それが好きになるだろう。
それらは全て誰かから教わったことだ。
女の子が真っ黒なレザーパンツと革ジャンに身を包んで「ふわふわで可愛い」と言われたり、男の子がフリルの付いたピンクのドレスを着て「バッチリ決まっててかっこいい」と言われたって、周りがそういうのであれば全く不自然ではない。
極論を言えば、明日から空が真っ赤になって、太陽が青くなって、人間の肌の色が紫になったって、人々が混乱しているのをよそ目に、僕は明日からも変わらぬ毎日を送るだろう。
色盲だけど、色調編集にハマる
人間をやめたくなるくらい辛いこともあった。
僕が写真を始めた18歳の頃、パソコンに転送した画像の色調を弄るのが心の底から大好きだった。
愛していたと言っても過言ではないくらいだ。
コントラストという設定を少し上げると、画像がより鮮やかになる。
もう少し上げると、もっと鮮やかになる。
鮮やかな画像を見ている時は、本当に心地よかった。
僕はついに、色盲から解放されたと思ったのだ。
これは僕の脳内で起こった革命だった。
「ああ、周りの皆はこんなに色鮮やかな風景を見ているのかなあ」と、皆が日常的に見る世界に思いを馳せてみたりした。
こんな地味な作業を、よくもまあ何百時間とやったものだ。
朝5時頃に寮の屋上に上って朝焼けを何十枚と撮り、部屋に籠って夜まで飲まず食わずでひたすら色彩を弄ったりもした。
撮った写真一枚一枚を念入りに編集して、コントラストを上げてみたり、赤色を強調してみたり、ありとあらゆる設定をフル活用して1枚の写真を仕上げる。
そうした後に編集前のオリジナルの画像を見ると、まるで本来の写真はモノクロのようなのだ。
満足するまで編集した画像は、二色であることには変わりはないけれど、色のある世界。
ようやく辿り着いたカラフルな世界からしたら、今まで見ていた世界はモノクロの世界。
色盲でもカラフルな世界を見ることが出来ることを発見した、僕の喜びを分かって頂けるだろうか。
* * * * * * *
その中でも僕の一番お気に入りは、公園の遊具で色とりどりの服を着た子供達が仲良く遊んでいる写真だった。
編集ソフトに付いているあらゆる色彩設定を弄りに弄り倒したその写真は、ネットで見るどんな世界の名景よりも綺麗に見えた。
僕は幸せだった。
生まれて初めて「下品」と言われて
こんなことを3ヶ月くらい続けて、僕は一大決心をした。
前述した子供達の写真を、誰かに見てもらおうと決めたのだ。
当時寮住まいだった僕は、僕の部屋に来ていた1人の友人に、恐る恐るこの写真を見せた。
本当は「良い写真だね!」と言ってもらえる自信があった。
僕にとっては、世界一綺麗な写真なのだから。
「うーん…下品な色じゃない?」
その一言で、彼は僕の自信作、更に言えば僕の審美眼を一瞬で打ち砕いた。
下品、という言葉が鋭く胸に刺さった。
自分が最高に美しいと思ったものが、下品と形容されるのは何とも言いがたい屈辱だった。
が、大衆から逸脱しているのは僕の方なので、僕は「うーん、そうだよね。俺もちょっとそう思った。ありがとう」と返した。
僕は悔しくて、彼に反論したかった。
でも彼は色盲ではなく、色盲ではない前提で世界は作られている。
彼の意見は、大衆の意見だ。
よって、私に彼を非難する権利はない。
よって、悪いのは僕だ。
でも、色盲は治らない。
僕が悪いのに、解決策が無いと言うことは、どうあがいても「根本的に」僕が悪い。
刷り込みの如く3ヶ月こんな作業を続けていたから、自分が健常者だという錯覚に陥ってしまっていたのだった。
惨めを通り越して、何だか虚しくなった。
同時に親に申し訳ない気持ちになったのは、「食べ方が下品なのは、親の躾が悪いからだ」みたいなドラマを昔見たからだろうか。
言われ慣れない単語ゆえに「下品」という単語が「両親」という単語と長い間リンクしていて、そんな遠い昔の記憶があの時にフラッシュバックしたのかもしれない。
僕の見る世界、ひいては僕自身も「先入観」と「大衆からの刷り込み」で出来ている。
僕はなんてつまらない人間なのだろう。
下品事件のあと
その一件で懲りた僕は、自分好みに色彩を弄ることは金輪際しないと誓った。
その代わりにといっては何なのだが、何枚か少しずつ編集の度合いを変えた写真を友人達に見せて、どれが一番綺麗か聞いてみることにした。
すると、9割方の人が同じ写真を指差すのだった。
僕にとってはどれも同じ写真にしか見えないのにも関わらず、だ。
彼らが同じ写真を指差す度、お前はマイノリティだと非難されている気分だったが、「下品事件」のショックに比べれば何でもなかった。
それを繰り返して「一般的に綺麗だといわれる色合いにする編集方法」がある程度分かってきた。
色彩の変化は微量過ぎて、編集前と編集後の違いは全く以て識別出来なくて、よって編集後の写真も僕にとってはモノクロのままだった。
だが、あのトラウマから「ああ、一般論で綺麗と言ってもらえるならそれが一番だ。俺はセンスが無いから。」と半思考停止状態で編集方法を身につけていき、完全に思考停止してからは、面白いくらい画像編集が上達した(と言われただけで、無論僕には全く違いが分からなかったが)。
「このくらい明るさの夕焼けだったらコントラストをここまで弄って全体の明るさをこのくらい下げて」「晴れた日の海の写真はここまでブーストをかけてから色温度を下げて」と機械の如く色彩を弄れるようになった。
僕が綺麗だと思う下品な写真よりも、皆が綺麗だと言ってくれるモノクロの写真の方が、自尊心を守る上ではよっぽど価値のあるものだった。
あの写真との再会、そして
それから1年程経って、昔使っていたハードディスクからデータを移行している時に、不運にもあの写真を見つけてしまった。
まあ黒歴史だけど、良いだろう。
その時はそう思って、軽い気持ちでファイルを開いた。
その写真は、吐き気を催すほどに下品だった。
彼がそう思った以上に、その写真は僕の目に下品に映ったと断言出来る。
この写真を「どうかな…?」と恐る恐る友達に見せた自分を想像すると、あまりの惨めさに全力で顔を顰めることぐらいしか出来なかった。
屈託のない笑顔で笑う子供達の姿が、下品で、汚らしかった。
画面から極力目を逸らしながらその写真を左上までドラッグして、何の躊躇いもなくゴミ箱のアイコンの上で指を離した。
クシャッという虚しい音と共に、表示されていた写真は消えた。
僕が色盲であることには何ら変わりはないのに、一年前に世界一綺麗だと思っていた写真は、世界一下品で毒々しい写真に変わってしまっていた。
残ったのは、周りの人達が口を揃えて綺麗だと言ってくれるモノクロの写真だけだった。
そして、世間一般に浸透している審美眼に流されたが故に、やっと見つけた僕だけの色鮮やかな世界は、本当の意味でこの世に存在しなくなってしまった。
個性とは何なのだろうか。
僕の存在意義とは何なのだろうか。
絶望で言葉が出なかった。
あの写真が下品だと言われた後に一人流した涙が、愚かに思えた。
それからしばらくして、色々な不幸が重なって、僕は鬱になった。
当時のことは、良く覚えていない。
あの時期の記憶だけが、ぽっかり頭から抜けているのだ。
頭の使い方が分からなくなって、起き上がるのが嫌になって、常に頭の中にもやもやしたものが渦巻いているような状態だった。
食べる度に吐いた。
時々部屋に来てくれる人とも上手く話せなかったし、その人が帰ってからも何を話していたのか全く思い出せなかった。
学期中にも関わらず、僕は実家に帰った。
実家では、両親が「ゆっくりでいいから、ゆっくり休みなね」と言ってくれて、僕もその言葉に甘えてゆっくりさせてもらうことにした。
親が出かけて1人になってから、昔大好きでいつも聴いていたチャイコフスキーの「白鳥の湖」を聴いてみた。
止まっていたものが一瞬にして動き出した。
涙が溢れてきた。
自分が幸せになれる選択を
こんな重度の色盲の代わりだったのだろう。
神様は僕に素晴らしい音楽的才能を与えてくれた。
ただ音名が分かるだけの絶対音感ではない。
僕の頭の中には、誰にも理解出来ない美しい音楽の世界がある。
知っている曲であれば、楽譜なんかなくても一発で完璧に吹くことができるが、それは僕の中でそんなに大事なことではない。
音楽を聴けば、全ての楽器の音が音名で入ってきて、それにイメージの中で別の楽器のフレーズを付け加えることだって出来る。
複数の楽器を想像して音楽を奏でることだって出来る。
目を瞑ってチューナーのAを410Hzあたりから上げていって、440Hz丁度にあわせることさえ出来る。
「好きな曲が何でも弾けるって楽しいでしょ」と頻繁に言われるが、正直全然楽しくない。
技術という制約を取っ払った、頭の中で奏でる音楽に浸っている方が、よっぽど楽しいのだ。
楽譜なんかいらなかったし、まず読み方もよく分からなかった。
音楽用語なんかスラーとスタッカート、フォルテとピアノくらいしか知らなかった。
コンクールで吹く曲も、単純に自分が聴いていて好きな曲を選んだ。
先生が楽譜を持ってきてしまったのは、正直鬱陶しかった。
楽譜通りに吹いたら、子供の演奏は大人の演奏の下位互換にしかならない。
ただただ楽譜通りに吹いて、そんなのの何が面白いんだろう。
僕の頭の中には、楽譜上では表現しきれない、今にも溢れ出しそうな感情がメロディーとして渦巻いていた。
ここがffとかここがppとか、本当に鬱陶しかった。
自分の才能を信じていたから、もちろん本番にも楽譜は持って行かず、自分の吹きたいように吹いて、静岡県のフルートソロコンクールで優勝した。
練習は週に2時間もしていなかった。
審査員の先生方から頂いた批評ペーパーには、今思えば大変光栄な美辞麗句が並んでいた。
「素晴らしい表現力」「才能を感じる」「これからの日本フルート界を牽引していって欲しい」
しかし当時の僕には、全然練習もせずに不満足な演奏で得た賞など嬉しくもなんともなかった。
正直、表現したいことの1%も伝わっていなかった。
そこまで言ってくれるなら、一度で良いから僕の頭の中に流れる世界一素晴らしい音楽を聴いて欲しかった。
そして1人「音色に難あり」というコメントを書いた審査員がいた。
本番では、自分の頭の中の音楽を伝える為に必死こいて荒々しく吹いただけだったので、シンプルに「やかましいわオヤジ」と思った。
そんなこんなで、自分の中で既に確立されている音楽性を人に伝える為だけに練習をするのはアホらしくてやってられなかったので、周囲からの期待を余所に僕はフルートをやめた。
後悔は全くしなかった。
どうせこのまま練習しなかったら必死で毎日フルートばっかり吹いてる奴にはいずれ抜かれるんだろうし、自分の頭の中で流れる音楽が美しかったから、それだけでよかった。
周りの評価なんかどうでもいいから、自分が幸せになれる道を選びたかった。
いかにも中二病的な発想だが、そんな14歳の時の自分の記憶が蘇ってきたのには、本当に救われた。
だから今回だって、周りの人達がどうそれを評価するかなんて関係ない。
周りの人からしたらモノクロの世界でも、僕にとっては、これがカラフルな世界だ。
そう思えるまでに、時間はかからなかった。
2ヶ月くらいかかったけれど、僕は元気になった。
色盲でも、世界は美しい
そんなこんなで僕には、本当の海の蒼さも、木々を彩っているのであろう紅葉も、空を紅く染めると言われている夕焼けも、何が何だかさっぱりわからない。
それでも僕は、海も、空も、木々も、花も、星空も、本当に綺麗だと思う。
色が綺麗だとか、そういうのではないけれど…
上手く説明出来ないけれど、綺麗だと思うことは本当なのだ。
* * * * * * *
あれはある初夏の日だった。
僕が10歳の頃だったと思う。
「お母さん、虹って実際そんなに綺麗なの?それともロマンがあるから皆で崇めてるだけで、実際はそんなに綺麗じゃないの?」みたいなことを聞いた記憶がある。
母は「虹はねー、本当に綺麗だよ。」と言って、庭にある水撒き用のシャワーを「キリ」という設定に切り替えると、ノズルを太陽に向けて思い切り吹き付けた。
遠い昔の話なのに、鮮明に残っている光景、誰しもあるだろう。
それは、そんな光景の1つだ。
庭の夏みかんの木の下に、一瞬にして虹がかかった。
僕は息を飲んだ。
風に流されて顔にかかる小粒の霧状のシャワーを浴びながら、虹を見つめた。
本当に心地が良かった。
母が作ってくれたあの虹は、僕の記憶が正しければ、何となく、何となくだけど、虹色だったのだ。
もし母があの時「実際そんなに綺麗なものでもないよ」と言っていたら、僕は間違いなく景色にも興味がなかっただろうし、だからこんな風にカメラを集めたりもしなかっただろうし、だから海外旅行にも行っていないだろうし、だから今の彼女とも出会えていないだろうし、今よりもずっと味気ない人生を送ることになっていたはずだ。
そんなことを考えると、母が作ってくれたあの虹の美しさは、これからも絶対に忘れてはいけないのだろう、と思う。
* * * * * * *
だから僕はいつかそんな綺麗な景色にまた出会えることを期待して、桜の季節にはマスクで花粉対策をしてお花見に行き、目を擦りながらグレーの桜を見る。
そして、紅葉の季節には近くの公園に行って、夏と比べると心無しか元気がなさそうな枯れかけの銀杏を見上げる。
周囲に迎合しているだけなのかもしれない。
でも、誰かが「綺麗なピンクだね」とか「綺麗に色付いているね」とか言った途端、僕の世界は、鮮やかに色を変え始めるのだ。
少しだけ、そんな素直でいられる自分が好きだったりもする。
そう言えば、これを書いていて思い出したが、僕は赤が好きだ。
赤がどんな色かはよく分からないけれど、赤は情熱の色なんて言われてるから、赤い服を着ていると元気が出る。
全部人から言われたことだ。
もはや情けなくて笑ってしまうけど、どの色にも興味がないよりはどれか好きな色が一色あった方が、生きていて楽しいに決まっている。
好きなものが多ければ多いほど楽しい人生だ。
立派に健常なのに、綺麗な景色に価値を見出せない人もいっぱいいる。
その一方で、周りからしたらほとんどモノクロみたいな風情のない世界で生きている僕が、人並みに景色を楽しんでいるのは、これまでの人生を通して周りの人達が僕にいろんなことを考えさせてくれたからなんだろうな、と思うわけだ。
今年の夏は、ひまわり畑に行こう
ここ数日は日増しに熱くなってきて、夏の訪れを感じる。
夏と言えば、入道雲が広がる空と、黄色い絨毯のようなひまわり畑のコントラストを一度は生で見てみたいとずっと思っていたのだ。
ひまわりには、ちょっとした思い出がある。
昔好きだった人が一番好きな花が、ひまわりだった。
僕が見るひまわりの黄色も、空の青色も、皆が見ている風景よりも味気ないものなのだろうけど、きっと何かを感じられる気がするから、夏になったら絶対に行こうと思っている。
一緒に行ってくれる人、募集中です。
【この文章は、私が2014年6月にFacebookに投稿した文章を一部編集・転載したものです。】

