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15/2/1

雑誌を作っていたころ(51)

Image by Olia Gozha

お笑いの世界


 1998年から1999年にかけて、お笑いライブの制作を手伝っていたことがある。

 もちろん本業は雑誌作りだから、そちらはあくまでも余技である。チラシを作って印刷したり、チケットやハガキを作ったり、めくり(寄席で使う芸人の名前と演題を書いた紙)を作ったり。なんのことはない、印刷系の便利屋さんだ。頼まれてカメラマンもやった。


 もともとはハギワラさんが連れてきた「てらこ」こと寺崎美保子という女性パズル作家との縁である。この人は若いのに(当時25歳)、パズル作家、ライター、お笑いライブのプロデュース、競馬評論と多方面で活躍する人で、そのむき出しの情熱に打たれたというか、生来のお節介の虫が顔を出したというべきか。


 傍から見れば「本業が忙しいのに、何をやっているのだ」と思われただろうが、知らない分野の仕事はものすごく刺激になる。それにもちろん、新しい人にも会える。オタク系講談師さんこと神田陽司さんと出会ったのもこのころだった。当時はまだ二つ目だった。

 芸人さんと生で知り合うと、さらにいろいろと顔を出したくなる。神田陽司さんが二つ目女流落語家の桂小文さん(現・真打ちの桂右團治師匠)と日曜日の朝にやっていた「にちようのあさ」(お江戸広小路亭)に中学生の娘を連れて出かけたりもした。今、航空自衛隊で働くわが娘は無類のお笑い好きだが、もしかするとこのあたりの刺激が作用しているのかもしれない。


 ところで、講談と落語は似ているが随分違う。内容が違うのはもちろん、講談は女流が多いが、落語は女流が極端に少ない。右團治師匠は落語芸術協会初の女性真打ちだが、入門するときから苦労の連続だったと聞いた。講談も昔は女流が少なかったらしい。神田陽司さんの師匠の山陽さんが門戸を広げたそうだ。

 てらこのプロデュースする寄席やお笑いライブは、貧乏興業の見本のような世界だった。予算がないので広告ができず、入る客が少ないので有名な芸人さんが呼べない。まさに悪循環のないない尽くしだ。こういう世界にこそ、パトロンが必要なのだなあとつくづく感じた。


 当時、どんな芸人さんを集めていたかを残っているチラシで確認してみよう。これは1999年1月27、28日、横浜相鉄本多劇場で開催された「エンターティナーの宝箱4」のプログラムである。

〈27日〉

・お笑い アルファルファ、田上よしえ、TENJIN、青木さやか、タイガー・ポー、谷口幸一郎、殿方充、マキタスポーツ

・マジック 日向ねこ

・獅子舞と曲芸 鏡味小仙社中


〈28日〉

・お笑い おぎやはぎ、田上よしえ、北北西に進路をとれ、TENJIN、サンドウィッチマン、青木さやか、松田大輔、桧博明

・マジック マジックジャパン

・獅子舞と曲芸 鏡味小仙社中


 超貧乏なライブなのに、ご存じの名前があってびっくりしたのではないだろうか。彼ら彼女らは、ここから這い上がってきてメジャーになったのだ。ぼくはマネージャーのダメ出しを居酒屋の座敷でじっと正座して聞いていた青木さやか嬢の隣にいたし、3人組のリーダーが「カネがないので出稼ぎに行く」と抜けてしまって途方に暮れているサンドウィッチマンの残る2人を励ましたりしていた。


「カネならいくらでもあるぞ」とサラ金のカードをトランプのように広げて見せてくれたマネージャー氏。アルバイト先の居酒屋で客に絡まれ、ぐにゃぐにゃに泥酔していた若手漫才師。「芸人を甘やかしてはダメよ」とお小言をいただいた俗曲の春風亭美由紀姐さん。今となってはひたすら懐かしい思い出である。


「知らない世界に首を突っ込むと、自分に厚みができる」という経験則がわかり始めたのはこのころからかもしれない。それまでは仕事としてしか世界と触れ合ってこなかったが、「お手伝い」の立場だといろいろな経験が簡単にできる。

 そのころの経験が今どのように役立っているのかは定かでないが、少なくともイラストレーターを使ってチラシやチケットを作るのは得意になった。それが次の美術の世界で生きることになるとは、そのときはまだ予想もつかなかったが。


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