生後9か月の私にできたことは…「目の前にいる女性を 母親だと思って過ごすこと」だけでした。
「目の前にいる母親」と妹が 私と全く、似ていないことに気が付いたのは
いつだったでしょうか?
私は いつも 「自分が ここにいてはいけないような疎外感」を感じながら…「母」の 私への「無言の拒否」の表情を見ながら…日々を過ごしていました。
私が小学校1年生の時に二人目の妹が産まれました。その妹も「4歳年下の妹」も 「母」に似ていました。
小学生の時…私、一人だけが血液型が違うことを知った時…「私は ママの子どもじゃないのかな?」と泣いたこともありました。
小学生でも そんなことを疑問に思うぐらいに…私は 「自分と 母や二人の妹達との違い」に心を痛めながら深く傷付きながら 誰にもそのことは言わずに 「母や二人の妹や父の前では笑っていました」…そして、一人になった時に泣いていました。
私には「ある時期の記憶」がありません。「母の私への虐待」が始まった時から終わった時までの記憶が失われてしまいました。
その頃の私の写真は…どの写真も無表情で 友達と笑うことがあっても どこか 冷めているようで…心が死んでしまっていました。何をしても本気で心から笑ったことがなく、「将来の夢を考えたこともなく、夢が持てない子ども」でした。自分のことを冷めた目で見ながら…心のどこかで否定しながら…自分の家なのに…自分は ここにいてはいけない子どものように思いながら…毎日を過ごしていました。
その当時のことを 4歳年下の異母妹と初めて話し合ったのは…。
私は、26歳の時に結婚した夫と二人で29歳の時に兵庫県から北海道へと移住していたのですが…その翌年、祖母が亡くなり…祖母の葬儀で大阪の実家に戻った時でした。
異母妹と、子どもの頃のことを話をしていた時で…異母妹から「お姉ちゃん、子どもの時に ママから怒られた時、かなり酷い扱いで…虐待としか思えない状態だったよね?」と言われましたが…私は その時まで何も思い出せなかったのです
その妹から 「私が 母からの虐待行為を 小学校5年生まで受けていたこと」を
「自分が受けていた虐待の事実」を 初めて 聞いたのです。
そのことを聞いた瞬間に 涙が流れて来て、「全然、覚えていないこと」を妹に伝えると、
私が何も覚えていないことに、異母妹は驚きながら…「お姉ちゃんが、小学校4年生ぐらいの時だったんだけど、ママは、泣き叫んでいるお姉ちゃんを、無理矢理、引きずって、水浸しの犬小屋に入れてたよ。お姉ちゃん、その時、裸足だったよ」と…。
私が4歳の時…父は、勤めていた不動産会社の東京支社の支社長に、と誘われたのですが…父は、独立する道を選ぶことを決断して…。
私が、幼稚園に入園する頃(2年保育だったので4歳の時)…不動産会社の社長として独立したのです。(中古住宅を購入し、引っ越しました。)
父と継母の不仲は ずっと続いていて…父は継母に 時々、暴力を振るうようになっていきました。
私が小学校入学と同時に引っ越した場所は…今から約40年前の大阪の阪急沿線で、人口10万人程度の都市の…100坪の土地に新築した一戸建ての家で…今、思い返せば、自分でも驚くぐらいの裕福な生活でした。常に、2匹のシェパードが庭を走り回っていて…犬小屋は、大型犬が2匹、歩き回れるぐらいの広さがありました。
父は リンカーン・コンチネンタルという外車(アメリカ車)に乗るようになり…。
リンカーンとキャデラックの2台の車が家にあったこともありました。
1階は 12畳ぐらいの応接室と和室8畳の隣にキッチン12畳(?)玄関の前には8畳程度のホールスペースがあって…(ホールスペースの右隣が応接間…左隣がキッチンと和室。)
そのホールスペースの奥の壁には、鹿の剥製が壁に飾られていて…大きなシャンデリアが客用の応接間の天井にあって…。
台所には…今でも、憧れのキッチンと思われるような、カウンターテーブルとイスが…。
小学生の時から、私の家にありました。
父は 家具を 海外から取り寄せたりして購入していたようです。
私は…「裕福になることが 幸せになることとは 限らない」ということを 肌身で感じながらの幼少期を過ごしていました。継母や私に暴力を振るう父や継母のことを怖がりながらも 私は 自分の目の前の現実を「冷めた目で見ていた子ども」でした…。あまり、笑わない子どもになっていきました。
継母は…いつの頃からか…私が学校から帰宅しても 2階から降りて来なくなって…。
幼稚園の時に患っていて症状が治まっていた「喘息の発作」が 再び、起こるようになって…。
父と継母から…愛情を感じない日常生活の中で…寂しさを抱えながら 日々を過ごしていました。
犬小屋に 私が裸足で入れられたことを 異母妹から聞いても、その当時のことを 全く、思い出せませんでした。
私は…「自分の虐待の事実」を聞いて 北海道に戻りましたが…。
ニュースで 「小さな子どもが虐待されて 北海道の真冬の時期に…雪が重く降り積もっているような寒空に外に出されて…雪が降ってきていたのに…親から放置されて…雪に埋もれて…凍死してしまった事件」を聞いた瞬間に…。
…私は…涙が止まらなくなり…自分が継母から「殺意」を感じていたことを思い出したのです。
その直後から…私の地獄のような日々が始まりました。
当時の子どもの頃の記憶が夢となって 私に襲い掛かって来るようになり…。
そして…思い返せば…父も…二人の妹達には 一度も手を挙げたことがなかったことも…。
私だけが…父から怒られる時に平手で殴られていたことも…。
夢の中でも その当時の映像は 朧げで…子どもの頃の私の上に馬乗りになっている母の姿と
泣き叫んでいる私の姿と…。
激しい恐怖感と…深い悲しみと孤独感で押し潰れてしまいそうでした。
目が覚めた途端に…私の指は開くことができなくなっていき…両手が、固く握りしめたように縮こまり…恐怖感に襲われて…全身が固まってしまうような感覚になり…私は自分で起き上がることができなくなってしまいました。
お箸が使えなくなり…文字を書くことができなくなり…。
毎晩、続く悪夢に苦しみながら…恐怖感と深い悲しみと孤独感で…泣き続けていました。
それでも…私は…父の長年の不倫に悩み続けて 継母も悩み苦しんでいたことを思い出しながら…。
私が高校2年生の時に 父と離婚をして家を出て行った継母のことを…。
「今、その継母は幸せだろうか?」ということを考えるようになって…。
私は 当時の恐怖感と毎晩、毎日、闘いながら…「継母の幸せを想うように」…祈るような気持ちになっていきました。
そんなある晩のことです…私は…夢の中の小さな子どもの自分に こんなことを言っていました。
「もう、怖くないんだよ。誰も 私を叩く人は 目の前にいないんだから…もう、大丈夫なんだよ。」と…そして、私は…自分で 「泣き続けている小さな子どもの私」を 夢の中で抱きしめていました。
翌朝…私は泣きながら目が覚めて…。
その夢の翌日から…私の体は 少しずつ、動くようになり…。
激しい恐怖感と深い悲しみと孤独感で苦しみ続けていた、地獄のような悪夢の日々から 解放されたのです。
(約半年ぐらいは…動かない両手足に苦しみ続けていました。そんな悪夢のような年が過ぎて…翌年…父は…父の誕生日の日に…不治の病に倒れて…入院して…私が再び、大阪に戻った時には…自力呼吸ができなくなっていて…私と話しをすることもないままに…父の誕生日の1か月後である「私の誕生日の日」に…そのまま、永遠の眠りについてしまいました。)
継母からの虐待が止まって…記憶も失っていた私は…中学1年生の時に…私は母の日にカードを書いて継母に渡していました。
「毎日、お弁当を作ってくれてありがとう。」と…。
そして、その翌年のお正月の時の私は「1年の目標と将来の夢」を 父に書きなさいと言われて
書いた言葉は…。
「海よりも深く 空よりも広い心の人になりたい」という言葉でした。
私は記憶を失うことで「母の私への虐待の行為」を忘れて…「何もなかったかのように母と笑い合うこと」を選んでいたのです。
義母妹が、私が継母から虐待を受けていたことや、私が記憶喪失になっていたことを 父に話したそうですが…父は…私が継母から虐待を受けていたことに…全く、気づいていなかったそうです…。
父は…自分勝手に不倫を続けて…私の母を悲しませ…継母の精神を狂わせてしまっていました。
不倫を続けた父も含めて…結局、誰も…幸せにはなりませんでした。
不倫は… 自分や周囲の人々をも巻き込み、悲しませる不幸の源で…「大罪」なのです。
私は…父のような生き方はしたくない…母のような、継母のような女性にはなりたくない…と
心に固く誓いながら…ずっと、生きてきました。
父のような、母のような、継母のような…私を育てた親たちの、誰にも似たくない…同じような行動をしないように生きて行こう…と…。
そして…私は…ようやく…自分が 母親になる決断ができるようになっていきました。
結婚してから…9年間…私は 子どもが産みたいと思えなかったのです…。
自分が虐待された記憶は失われていたのに…子どもを産むのが怖かったのです。
…記憶は失っていても…「自分が 子どもに虐待を与えるような親になるかも知れない」と…「親と同じように…自分の子どもを育てるかも知れない」と…。
私は…10年前に母親になりました…二人の子供に手を挙げることは…皆無と言えるぐらいにありません。
子どもが、危険なことをしてしまった時に…幼稚園の長男の頬を思わず、叩いてしまったことがありましたが…。
それも…もう、6年ぐらい前のことです…。
(私は、子どもの頭も叩いたことがありません。)
私が 生後1か月の頃までしか 母乳を飲んでいなかったことを知って…。
私は…二人の子供を母乳で育てました。(二人の子ども達の2歳の誕生日まで卒乳できませんでしたが…。)
(親とは違う人生を…と願いながら…思いながら…親の生き方や行動の真似をしてはいけないことを思いながら…。
自分の行動を選びながら…親とは 「全く、違う自分」を 自分で築き上げようとし続けて…それを実現することができました。)
私が結婚した人は…父親とは全く、違う人柄の人…です。
仕事が終わると、真っ直ぐに家に帰ってきてくれて…。
私は…今…母とも…継母とも違う平和な日々を過ごしています。
子どもが産まれた時に…へその緒は…切り捨ててしまう物です…。
私にとって…「虐待の記憶」は 「へその緒」で…。
記憶を失うことは…へその緒を切り捨てようとした訳なのですが…。
子どもを産んでから…母になったことの喜びで 感動の涙を、感謝の涙を流しながらの日々を過ごしていく中で…私は あることに気が付いて…呆然としました。
母親と子どもは…産まれた後も「見えないへその緒」で 結ばれていて…。
決して 「母と子どもは 永遠に 切り離されない」存在であることを…。
「虐待の記憶」も 私という存在から 「永遠に切り離されることはない記憶」であり…。
「忘れてはならないこと」であることに…。
「虐待の記憶」を思い出したからこそ…
今、私の目の前にいる…大切な宝物である「二人の子ども達」を
…特別な想いで…宝物のように育てることができたのです。
今の幸せは…切り離して捨てようとした「へその緒の記憶」を思い出したことで得た幸せ…だったのです。
(つづく)
続きのストーリーの設定を取り消す
タグ
ストーリーに続きがあればクリック