【1】裏口入学
■私は裕福な銀行サラリーマンの家に生まれた。ずっとあとで知ったが、子供時代はまさに日本の高度成長期。以前、映画「三丁目の夕日」を観たが、まさにあの貧乏だが明るい昭和の時代だった。福岡市中央区薬院の銀行アパートにいた幼稚園時代、最も親しい友達にアッチャンがいた。彼は目の前の川に浮かぶ船で暮らし、アパートの庭でコマ遊びを皆でよくやった。
が、ある時、「あんな子と一緒に遊ぶんじゃない」と親から言われ、「なんで?」と疑問に想った記憶がある。生まれて初めて、親とか大人に抱いた反感かも知れない。後から考えると、親のその手の発言は普通だろう。アッチャンの顔や服はいつも薄汚れていた。ましてや船上生活。
10数年後、ブルース・リーの映画「燃えよドラゴン」で香港の貧しい水上生活者が出てきたが、アッチャンのことを思い出した。
その後、平尾小学校へ入学し、ほどなく西新小学校へ転校。その頃、「アッチャンが死んだ。肺炎で」と風のウワサで聞いた。少し悲しかったが、去る者日々に疎し。私は目の前の楽しい日々に夢中だった。
生まれて社会に出るまで、生活に不自由したことはない。逆に、贅沢をした覚えもないが、私は充分、ボッチャン育ちだった。生まれつきの天然パーマで可愛かったようだ。小学校時代は女の子とよく遊んでいた。親を「パパ、ママ」と呼ぶ、いつも笑顔のニコちゃん。
そんな私が、親への憎悪を抱いたのは、いつのことだろうか。
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◆「金属バット殺人事件」
あなたはこの事件を知っているだろうか?
あれは私が大学生の時に起きた。
当時20歳の予備校生「一柳展也」が、就寝中の両親の頭を、金属バットで殴って殺した。父親の頭蓋骨はパックリ割れて血しぶきが天井にまで達し、母親も脳漿があたり一面に飛び散っていたという。
展也の父親は当時46歳。学歴は東京大学卒で、一部上場の旭硝子(株)東京支店長。母親は山口県の名門酒造家の娘で、兄も早稲田大学を卒業して大手電機メーカーに就職という、絵に描いたようなエリート一家だった。展也以外は。
展也も父や兄と同じく、一流大学を目指すが、早稲田、上智、中央、明治学院、成城と全部に不合格。浪人したが、またも早稲田、立教、明治、法政、日大に落ちる。
「一体おまえは何を目標に勉強をやっているんだ!
どうしようもないヤツ。こんな調子じゃダメだ。
もういい。
大学行くだけが人生じゃない。就職しろ!」
と父から云われたが、
兄と母が必死に説得して二浪を許される。
予備校を変えたが、早稲田専科コースでの成績は、英語が111人中80番、国語は最下位だった。展也は予備校をサボるようになり、父親のカードから金を盗んでは映画や喫茶店やパチンコで遊んだ。
母親に「オレは自衛隊に入る」とか「相撲取りになる」とも云ったが、また予備校通いをするようになった11月、早稲田模擬試験の結果は偏差値43。絶望的な結果だった。
11月29日の犯行前日、帰宅した父親は、展也が自分のキャッシュカードを盗んだことを知り、きつく叱った。さらに、受験浪人している展也に小言を云おうと、2階の部屋に入ると、展也はウイスキーをラッパ飲みしていた。
「バカが!
一人前に大学にも入れないくせに、このざまは何だ!
おまえはクズだ!
家を出て行け!」
と、展也が座っていた椅子を足蹴にした。
それまで、展也の見方だった母親も、
「あなたはダメな子」
と言い放つ。
その3時間後、犯行は起こった。
(参考:「無限回廊」事件インデックスのサイトより)
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この事件が起きた当時、私は大学生活を謳歌していて、失恋以外の悩みはなかった。が、何かが心に引っかかった。年齢も近く、親に対する似た想いを抱いたことがあったからか、はたまた、事件の数年後に作家・藤原新也のベストセラー「東京漂流」で一柳展也のことを読んだからか、その後の人生でたまにノスタルジックに思い出すことがあった。
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■裏口入学
父が銀行とやらに勤めていることを知ったのは、小学校4年の時。生まれ育った福岡市から、山口県下関市に引っ越した時。父が福岡相互銀行の下関支店長として赴任したのだ。家は丸山町の高台にある、豪華な一戸建ての支店長社宅だった。
ある日、私は何かの理由で遅刻しそうになり、父を毎日送り迎えしていた社用車のおじさんが、文関小学校まで送ってくれた。始業ギリギリの時間で、校門や校庭には誰もいない。
が、校門で黒塗りの高級車から降ろしてもらうと、校舎の窓から大勢の友達が私の方を見ていた。恥ずかしかったが、何か誇らしくて気分がいい。以来、私は何度かわざと遅刻し、車庫で車の手入れをしているおじさんに送ってもらった。
下関は2年で、その後はまた福岡市西新の銀行アパート社宅へ戻った。そこで小学校5年と6年を過ごしたが、事ある事に父に叱られて殴られ、私はアパートの物置に泣きながら逃げ込んだ。理由は覚えていない。怖いのは地震・雷・火事・親父の時代。が、友達と比べても、あきらかにオレは怒られる頻度が多い。オレはダメな子なのかと思っていた。
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中学は校区内の百道中学へ。成績は350人中100番くらい。中1の時、アパートを出て一戸建ての社宅に引っ越した。父が銀行の取締役になったのだ。
ある時、食器棚のそばにあった父の給与明細袋を見たが、月給30数万円とあった。今の価値では150万円位か。あとで知ったが、父は39歳で銀行の最年少取締役に就任。下関時代と同じく、毎日、黒塗りの役員車が家に出迎えていた。
高校受験を控え、親の計らいで百道中学の現役教員が自宅でやっていた塾に通った。校区で一番の進学高校は修猷館。当時も今も、毎年数十人の東大進学者を出す、名門公立高校だ。
しかし、私の成績では到底無理。校区で2番目の城南高校を受験する事になったが、そこもかなり難しい。自分なりに必死で勉強しようとしたが、私はラジオから流れるアイドル歌手や洋楽のベストテン番組に夢中になり、芸能雑誌の切り抜きにも熱中した。
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当落ギリギリの成績で迎えた城南高校の受験日。午前中の試験が終わって休憩時間になった時、試験監督が2~3人、私の机に寄ってきた。
「君が栢野君か・・」
なんでオレの名前を知っているのか?
しかし、特に疑問を持つことはなく、午後の試験を受けたが、あきらかに失敗した。落ちたと思った。
ところが合格発表日、奇跡的に合格した。
百道中学からも多くの友人が受けていたが、私を含め、中の上くらいの成績のものは、ほぼ全員不合格。馬場、入江、土井、山崎・・・・皆、首をうなだれて下を向いている。
その姿を横目に見ながら、同じく合格した飯山の手を取り、「やった!やった!」と喜んだ。飯山は落ちた皆に気を使い、困ったような苦笑いをしていたが、私はお構いなしにはしゃぎまくった。
本性が出たのだ。
その時、近くにいた入江が呟いた。
「おまえが受かって、なんでオレが落ちるんだ・・・」
オレの成績は入江より少し良かったから、お前に云われる筋合いはない。それに、お前は汚い中華料理屋の息子じゃないか。住む世界が違うんだよ。
私は聞こえないふりをして、心の中で「ザマアミロ!」と喝采を上げ、落ちたヤツラを見下して冷笑した。
あれは生まれて始めて、自分の非情さに気づいた瞬間かも知れない。
また、中学時代に大好きだった中村恵子という、施設から通っていた同級生がいたが、彼女は池田という成績優秀なヤツに惚れていた。
その修猷館合格間違いなしの池田が、まさかの不合格と聞いたときも、心の底から快感が湧き上がった。


