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15/1/13

「死」が突然目の前にやってきた 〜出会いから看取るまでの2年半の記録

Image by Olia Gozha



2010年3月。
突然現れた、「死」の問題。
人は「死」の問題が目の前に来た時にどのように対処するのだろう。


同棲中のパートナーが、末期ガンの宣告を受けた。
すーっと身体を冷たいものが駆け抜けていった。


嘘だと思いたかった。
なぜ私がこの問題の前に立っているのか。
本当に私がパートナーと共に、ガンなどというものと闘うのだろうか。
この私が、パートナーと共に、「死」と闘うのだろうか。



実質闘病期間半年間。
1日1日が長く長く感じた半年間。
ずっとわけがわからなかった。
何が正解なのかわからなかった。
ただただ必死だった。






それは突然の


2007年12月27日。

仙台でメーカー勤務だった私はいつものように残業をし、帰宅した。
時間は、22時過ぎ。
真っ暗な部屋が一定のリズムで赤い光に照らされている。
電気を付けてバッグを置き、その光の元を押す。


「もしもし~ 菅原です。菅原譲斗です。」


ええぇーーーーーー!!!



私の愛読小説の作家本人からの留守電だった。



彼の新作が出ればすぐに購入するほどのファン。
しばらく多忙で机に山積みになっていた本を1年ぶりに読んだ。
すっかり楽しんだあと、あとがきを読んでいると、
彼が自らのファンサイトを作ったこと、そこに会員登録すれば描きおろし小説を
直接ファンに送るというサービスを始めたことが書かれていた。
申し込み方法は手紙。


驚き焦った私は、必要な手続きを記入し急いで郵送していたのだ。
ファンを大切に思っていた彼は、申込者にお礼の電話をしていた。



思いもよらない人からの留守電をドキドキしながら聞く。
「何時になってもいいので電話ください。」
それで留守電は終わった。


うわーーーーーーーーーー(汗汗汗汗)



受話器を持つ手を震わせながら正座して、
「何時になっても」というのだからと電話をした。



彼は挨拶をすると、本名を教えてくれた。
思いの外弾む会話。
東京出張の予定があることを伝えると、会おうということになった。



自分の身に起こったことが不思議でならなかった。
嬉しさ半分、怖さ半分。
こんなに緊張感のある出張があっただろうか。




2008年2月16日夜。
新宿で待ち合わせ、食事に行った。
彼は彼自身が書く小説の主人公そのもののように思えた。
いや、そうありたいと思っているのかもしれない。
どの小説の主人公にも恋をして読んでいた私。
翌日になる頃には、お付き合いをすることになっていた。





仙台 同棲の始まり

付き合うと言っても、私は仙台。遠距離だ。
私は30代。彼は私の16歳上。
遠距離と言ってもお互い大人。
毎日、メールや電話はするし、
最低でも月に1度は出張や旅行で東京に行き会っていた。


付き合い始めて1週間ほど経った頃、彼からのある告白を聞く。
彼は20年ほど前作家デビューした。
その作品は大ヒットし、映画化もされた。
その後数年ヒットは続いたものの、バブル崩壊と同時に少しずつ売れなくなっていった。
私と出会った時は、経済的に厳しい状況にはなっていた。


冗談のように言っていたけれど、
「いよいよとなったらお前のとこに行ってもいいか?」
というのは半ば本気だったろうと思う。


しかしその3ヶ月後、「やっぱり巻き込めない。別れたほうがいい」と言われる。
悩んだ末、私は別れる決断をした。



とはいえ会いに行くことは無くなったけれど、
彼の仕事を一部手伝っていたこともあり、連絡はずっと取っていた。
結局なんとなく付き合い続けるような形になり、
程なく経済的に本当にせっぱつまった彼を、
「仙台に来る?」と仙台に呼んだ。



一人の男性を、いわば養うということが自分に出来るかどうかわからなかった。
自分の仕事の給料を考えても、余裕はないだろうと思う。
それでも、私は彼には書きたいものを書きたいだけ書ける、そんな環境を提供したいと思ったのだ。



私は覚悟を決めた。
やるしかない!
ずっと一緒にいられる・・・という喜びもあった。



彼が引っ越して来る前に、住む場所を決め引っ越しておかなければならない。
住まいの環境や飲食に強い拘りのある彼が、納得するような場所を探さなければ
ならないが、時間もない。


小説家にとって環境が大事なのではないかと思っていたので、
見晴らしがよく、部屋数のある物件をと、会社帰りや休日探し歩いた。
やっと見つけたその物件は、不動産会社の社長のお知り合いの物件で、公開していない物件。
T病院のすぐ近く。中心街まで徒歩圏内。会社まで自転車で15分という好条件だった。



2009年2月28日。
彼は仙台にやってきた。
ホッとするまもなく、その日からさらに修行のような日々が始まった。





発病 生きた証を作るんだ


日中は会社へ行き、帰宅してから彼の仕事を手伝うという日々。
食事も掃除も洗濯も買い物も、もちろんする。


それまでずっと一人暮らしで、家のことは適当だった私の生活は一変した。
家は休まる場所ではなくなった。


それでも彼の服を選んだり、好きそうな食材を選んだりすることがとても嬉しい。
一人ではなくなったということが幸せに感じていた。
怒られたり、罵られもしていたが、その幸せを手放したくなかった。
ずっとこの人と生きていこうと思っていた。




2009年6月。
彼は不調を口にするようになる。
飲み込むと胸の真ん中に引っかかりを感じるという。
姿勢が悪いのかとか、環境が悪いのかとか言いながら、
いろいろ対策をするも、一向に改善しない。


病院に行くことを勧めてみたが、彼は首を縦には振らない。
その様子は、まるで自分の寿命を知っていて、自分の生きた証を最期に作り上げたい
と言っているようにみえた。



「生きた証」というのは、彼が大事にしている作品を見直し編集し、それを電子書籍として
紹介、販売するというサイトを作り上げることだった。
サイトを作るのは私。
完成には、私がもっと彼の思いを受け取り、彼のイメージ通りに作成を進めなければならない。


会社でも家でも仕事の状態に、疲れて休みたい

わからない、できない・・・

なかなか作業は進まなかった。


私の疲労は蓄積し、彼の病状はゆっくりゆっくり悪化していった。




2009年12月30日。
本人が生きた証だと言ったものが、やっと完成した。
怒鳴られ、呆れられ、涙しながらもやっと完成した。


「ありがとう」
彼は涙を流して喜んだ。
作家になるはじめのきっかけをくれた亡き父親も喜んでくれていると言って。


久しぶりに抱きしめたその身体は、ドキッとするほど痩せていた。

不調を訴えてから半年。
その時、すでに液状にしなけば、彼は食事が出来なくなっていた。





「死」が突然目の前にやってきた


いよいよ病院を勧めたものの、うんと言わない。
「ショックな宣告を受けて寒い中帰るのは嫌だ」


普段から「明日はないと思って生きるんだ」と言って、
ダラダラしようとする私を叱咤していたのに。


しかし仙台の冬は東京に比べたらそれは寒い。
もともと九州出身だからなおさら寒く感じるだろう。
慣れない土地で、友達もほとんどいない。
そこで命の宣告を言われるのは、そりゃ嫌なものだろう。


一刻も早く病院に行って欲しかった。
日に日に痩せていく彼を目にするのは恐ろしかった。



2010年3月1日。

病院へ行く。



2010年3月4日。
検査。
16時12分。職場にいる私にメール着信。


「胃カメラ終了しました。食道ガンです。かなりでかいのが出来ていました。笑うしかないです。」



覚悟はしていた。
どう考えても軽い病気であるわけがない。
症状からして食道ガンじゃないだろうか。
そう思っていた。



手術が必要。放射線治療も、抗癌剤治療も。。お金が必要。。



パソコンで食道ガンを検索する。
ステージ3だろうか。ステージ4であってほしくない。。



とにかく私が治療費を用意しなければ。
私しかいないのだから。。。
腹をくくるしかない。



本人が一番ショックなのだ。気持ちの整理をしているはず。
私は笑って帰ろう。明るく「ただいま」と言おう。
「辛い時こそ笑ってろ」
それが彼の口癖なのだ。





入院


2010年3月12日。
T病院で検査結果を受ける。
診断は、手術が困難なステージ4。
放射線と抗癌剤治療を行っていく。
胃の上部に転移がある。



信じたくない、受け入れたくない思いがあった。
奇跡的に・・・なんてことにならないだろうか。。。
藁にもすがる思いとは、こんな感じなんだろうか。



スーパーに言っても涙が流れる。
スーパーで彼の好みを考えずに買い物をしたことがない。
散歩道を見ても涙が流れる。
「この道を介護されて歩くなんて嫌だぜ」
なんて笑って話していたことが現実になってしまうかもしれになんて。。
いや、介護して歩けるならまだいい。。。
もし・・・・・
ひと目も憚らずに涙が溢れるなんてことが、あるんだ・・・。




入院予定日まで2週間あまりあった。
2週間。持つだろうか。
怖かった。


入院予定日の2日前の朝、吐血。
血を拭き、着替えを渡し身支度を整え、
T病院出身の知り合いに電話し、T病院の救急に連れて行ってもらえるようお願いした。
手が震えた。笑えない。笑顔を作れない。
きっと泣きそうな顔をしている。


彼はエレベーターに乗る前、玄関先に戻ってきて
「大丈夫だ。よろしく頼む。」とハグをして出て行った。


「そのまま入院になると思いますから、準備しておいてください。迎えに来ます。」
感情は乱れに乱れ、涙は溢れ、何を準備したらいいのか考えられない。
入院の準備なんて、生まれて初めてでもないのに。。。
ただ部屋をウロウロするだけで、何も手につかない。



はやく・・・はやく準備しなくちゃ・・・



以前私は病院の医師や看護師が使うシステムを構築する仕事をしていた。
小さいころの遊び場も病院、私自身身体が弱く病院通いもしていた。
小学生のころ母が入院し、毎朝学校に行く前に病院に寄っていた。


冷静になれば何が必要かわかるはず。。


冷静になれ。冷静になれ。
心を乱している時間はないよ。
落ち着いて。何が必要?後でいいものは後でいいから。
今持っていかなければならないものはなに?


バッグに次々と詰めていく。
食べられないのにスプーンまで入れて・・・
後で病室で苦笑されたけど。。



忘れ物がないかとか、そんなことはまったくわからなかった。
知り合いが迎えに戻ってきてくれると、すぐさま外に出た。
「もう大丈夫なんですか?よく準備できましたね。」
あれ。。
わかんないけど、、あれ。。


知り合いは私を病院に下ろすと、また来ますと言って帰っていった。


歩いて15分くらいのT病院。
まるでここに入院するために、今のマンションに住んでいるみたいだ。
不思議。。。



病室をノックし入って行くと、彼はベッドに横になっていた。
おう、と片手を上げて笑っていた。





闘病


病院ではいろんなことがあった。
T病院は数年前に病室を新しくしたようだったが、問題がいろいろ出てきた。


最初の問題はベッドのマットレス。
何にでも拘りがあり、好みがうるさい人ではあったが、
今は病気ですっかり痩せ細り、おしりの骨も分かるほど。


予定日より早い入院ということで、入院予定の部屋はまだ空いてなく、
予備のような部屋に入っていた。
そこのベッドのマットレスはとても固く、痛くて夜眠れなかったという。


マットレスが大丈夫か、痛いところはないか、
家族はそこまで気を使ったほうがいいものなのかもしれない。




次に部屋。
とても乾燥していた。
新しい部屋だというのになぜ?


ナースステーションに呼ばれ言って話を聞いていると、病室よりも乾燥を感じる。
あとで看護師に聞いてみると、やはり困っているという。
それで患者ごとに加湿器を持ち込むことを許可しているとのことだった。


乾燥して喉が乾いて眠れないというので、早速家の加湿器を持って行った。




入院から数日後、右足が痛風のような痛みが出て赤く腫れ上がっている。
彼は以前痛風を患ったことがあるという。
でも今は食事ができるわけでもなく、点滴しか身体に入っているものはない。
原因は点滴の成分しか考えられない。
医師に伝えたが的を射ない。
痛み止めを出すと言われる。




放射線と抗癌剤治療が始まる。
肝臓付近が痛いという。
肝臓にまで転移したのだろうか・・・。背筋が寒くなる思いがする。
医師に伝えると、
「シップ出しましょうか」とシップを置いていった。
?????


転移ではないならそう示してほしい。
気休めならやめてくれ。
せめて患者のその痛みの部分に触れて、診断をしてくれ。
強くそう思った。


素人だけど、素人だからこそ不安なのだ。




臀部に床ずれが出来た。
治療で具合が悪く寝ていることが多い。
調子が良くて起きている時も座っているからだ。


辛そう。
皮膚科外来に行ったらしく、皮膚科医の的確な診断で軟膏を出してもらったという。
塗り続けるごとにどんどん良くなる。
いい医師もいるんだなと感じた。




治療の影響で白血球値が下がり、元に戻らない。
そのため治療計画は中断となる。
医師から、このまま治療が出来ない状態だと最悪こうなる可能性がありますと、説明を受けた。


翌日、白血球値は復活。治療再開が決まる。
放射線治療の再開が良いことなのかどうなのか。
わからない。
私は私で、他の治療方法がないか調べ続けていた。




2010年4月24日。
仙台国際センターで健康大学校の講演があった。
「末期ガンでもあきらめるな!」というもの。
聴講は無料、場合によっては相談もできるという。
フリーペーパーにあった広告で知ったことだった。
常に何かないかと考えていたので、目に飛び込んできたのだろう。


その講演で「フコイダン」というものを知る。
「フコイダン」とは海藻で、ガン細胞を死滅させていく効果が実験により発見されており、
西日本の病院ではフコイダン治療を積極的に取り入れている病院も増えているという。


試飲してみるとトロッとしている。海藻独特の香りも少し。
今の彼には口から飲み込むことはできない。
講師の先生に相談すると、
「そういう状態の患者治療体験のあるドクターを紹介しますよ」と言っていただいた。


しかしどこかに移動する体力は無い。
遠方からドクターを呼ぶのは高額だろう。
せめて今の治療で少しでも口から液体を飲めるようになったら、
「フコイダン」を試してみたいと考えた。




ゴールデンウィーク。
T病院は治療はすべてお休み。
知らなかった。
驚いた。
せっかく数値が正常になって治療を受けられる状態なのに、
1週間以上治療を開けるなんて。。。
日に日に悪化する様子を目の当たりにしていた私にとって、たかが1週間が怖かったのだ。
ガン細胞のほうが元気を取り戻すんじゃないか。。。



治療再開も、予定の30回の放射線照射を終えて治療の効果はあまり見られないとの診断。
2回めの抗癌剤を勧められるが血液の値が微妙。




この頃には本人も私もすっかり病院の治療に信頼をおけなくなっていた。
飲めるかどうかわからないけれど「スーパーフコイダン」を1本購入した。



2010年5月16日。
病室へ「スーパーフコイダン」を持っていく。
口から水も飲めなくなってからは、何かを飲もうとするとゲフッと言って吐き出す。
吐き出すかどうかわからないが、飲んで見るという。


少し口に含んむ。飲み込む。
また少し口に含む。飲み込む。
そして40mlほど飲んでみた。
30分ほど様子を見たところ、ゲフッと来る様子はない。
期待を胸に、その日はそのまま帰宅。
心臓が痛いという。




翌日朝、メールが来る。
トイレに行ったらフコイダンの香りがしたという。



やったーーーーーーーーーーーーーーーーーー!



少しは食道を通ったのではないか。。。


1日に100mlを4回飲めるといいと聞いた。
そのペースで飲めるようになり、ガン細胞が死滅してくれたら・・・。




しかしそう簡単には行かなかった。
副作用で吐き気もあり、フコイダンの強い香りが辛いらしい。
飲めるとはいえ、少しずつで時間がかかるため、何度も飲むのは難しい。




2010年5月19日。
水分(フコイダンではなく)を口から摂れたことを医師団に伝えると、「おお~」の声。
CT検査をしたところ食道が通っているのを確認できたという。



食道が通っているかを検査するのにバリウムを飲む提案をされていたが、
私は断固拒否していた。
私が知らないことでもあるかもしれないが、バリウムといえば体内で固まる
ものというイメージがある。便秘になったら下剤を・・・という話を聞くじゃないか。
納得いかない説明に、そんなものを試す気には到底なれなかったのだ。



一筋の光を護りたい。その一心だった。




病院といえば、患者一人ひとりの状態を全部把握し、
初めに治療計画や看護計画は立てるものの、
状況に応じてその都度最適な治療をするものと思っていたが、
いろいろ信じられない出来事は起こった。


どうせ命が長くないと思っているから、丁寧な説明もいらないとでも思っているのかと
勘ぐりたくなるほどだった。
それだけ患者とその家族は「死」を感じながら、感じないようにして、
すべてを訝りたくなるほど不安の渦の中にいるのである。



病気毎に基本の治療スケジュールはあるものだけれど、
その治療の理由や他の可能性について、あまり納得できないという時や、
話を聞いてもわからないという時には、
医師の説明を盲信せず、セカンドオピニオンを受けたりしてみるのも大事なことだと思う。





死との対峙


2010年5月26日。
本人の強い希望により、自主退院。


1日2000mlの水分と2000kcalの栄養を摂るよう言われた。
一般の家庭でとても出来るものではない。
それでも家に帰ってくるとホッとした顔を見せる。


これは私にとっては本当に「死」と対峙する日々の始まりとなった。




ほんの少しだけ開いた食道は、ガン細胞が成長すればまたすぐに閉じてしまう。
開いている間にスーパーフコイダンをできるだけ飲んで欲しい。
それ以外に水分もカロリーもなるべく摂れるように。


点滴もなしで十分に摂取できるはずもなく、彼はどんどん衰弱していく。




T病院に戻りたくないという彼を、入院させてくれる病院、
それが無理なら栄養分を点滴してくれる病院を探した。


行く病院行く病院で、T病院で治療していたのなら・・・と戻ることを勧められる。
それもそうだろう。
でも戻りたくないという彼が首を縦には降らない。
しかもずっと個室で入院費も嵩み、支払えずにいた。


他の病院を探すしか無い・・・。




2010年6月4日。
足首から足先までむくみが出る。
身体を横にした時に下になる足のほうがよりむくむようだ。
少しだけ勉強したマッサージをする。
「気持いいな」
できる事をまた一つ見つけた気がした。
毎日マッサージしよう。



むくみは数日経っても良くならない。
ネットで調べると、エネルギー不足による低タンパク血症から来るようだ。
やっぱり点滴してくれる病院を探して点滴するだけではだめだ。



区役所に行き、高額医療費申請をする。
ガン治療のように治療費が高額なものについては、本人の収入によって
治療費を減額してもらうことができる。
私は普通に収入があったが、彼はほぼ無収入だったため、
支払う治療費の上限が3万円となった。
これに部屋代・食事代をプラスして払うことになる。




内心、私の心は悲鳴をあげていた。
どうしたらいいんだろう。
どうしよう。何がいいんだろう。
考えて考えて考えて考えて。
怒られて、弱々しく怒られて。
それが堪えてまた考えて。



怖かった。。怖かった。。
このままじゃ私が殺してしまう。どうしよう。。
どうしたらいいんだろう。。


お金があったら最新治療というのも受けさせてあげたかった。
ネットで問い合わせると、
「残念ですが、手遅れです」
の返信。


そんな・・・・・



「死」が迫っている。
それは現実。
でも、まだ諦めない。
諦めずに抗いたいという彼と共に、まだ闘い続けたかった。





最期の闘い


2010年6月23日。
やっとの思いで見つけたTS病院。
この病院を選んだのは、ホームページに書かれてあった言葉に希望を見出したからだった。
「癌末期自宅療養やホスピスなどでの治療が困難となった方の苦痛緩和医療。
 各種悪性疾患の抗癌化学療法の外来及び短期入院診療」


まさに当てはまると思った。
この病院なら受け入れてくれるんじゃないか。
そう思った。


タクシーで病院へ行く。
しばらく待つと、外科外来前で待つように言われる。
外科?外科の先生が診てくれる???


手術不可能ということで、T病院では放射線科でしか診てもらえなかった。
だから外科で診てもらえるということが、嬉しかった。


担当となったS医師は、
「今日、入院できますか?」と。
神様にでも出会った気分だった。
有り難かった。


後でS医師は言っていた。
明日にでも死ぬんじゃないかと思ったと。
それでも受け入れてくれたのだ。その気持が嬉しかった。涙がでるほど嬉しかった。


S医師は食道ガンの専門ではなかったが、私達の話を聞き、
今までの治療内容とレントゲン写真、その他必要な情報はすべてS医師から
T病院へ問い合わせるとおっしゃった。


S医師自身も細かく調べてくれ、日に1度か2度は病室を覗いてくれ、
休日にも顔を出してくれた。



ほどなくしてむくみも収まった。
ヘモグロビンの値は正常値の半分。
死がそこまで迫っていたことを思わせられる。


それでも、私の感覚は分厚いビニールカーテンに包まれているようで、
そのカーテン越しに降りかかる針を見ているかのようで、
死という緊迫感をうまく掴むことが出来ずにいた。


頭では治すのは難しいだろうと思っていたと思うけれど、
感情は治すんだ、奇跡を起こすんだということでいっぱいだった。



2010年6月25日。
5度の吐血。出血の原因や部位は特定できないという。
頭痛がある。



2010年6月26日。
今後の治療方針の説明があった。
T病院で使った抗癌剤よりも新しく強いものを試してみたいとのこと。
最後の賭け。すべてお任せする覚悟。
副作用の説明も全て受た。


出血量が多いことから、S医師はガン細胞からの出血を疑っていた。
その場合出血量が増えれば、体外に出すことができずにそのまま気を失うこともあるという。
彼と話し合い、新薬の使用をお願いした。



2010年6月27日。
病室へ行くと、モニターが付けられ、彼はウトウトしている。
ドキッとした。
ドラマなどで見る、死に際した患者の病室が思い描かれる。


唾液に血が混じっている状態で、痛みもあり眠れなかったという。
S医師に伝えたところ、モルヒネを打ったという。


さらにドキッとした。


ここまで来てもまだ現実を受け入れられない。
モルヒネというのは、もう死に際の患者に痛みを和らげるために打つものという認識だった。


死に際だってこと?


頭が動かない。
表情も作れない。


そんな私を気遣い、看護師から説明を受けた。
モニターは大量出血だったため、ナースステーションからも様子がわかるように付けたもの。
モルヒネも今は普通に使われるもので、重大なことではないということ。
落ち着かせようと話してくれたことだと思う。
間違いなく死が近いのだ。
それでもこの気遣いに私はとても慰められた。


病室を出てトイレに入ると、急に涙が溢れ嗚咽した。




2010年6月28日。
仕事をしていると、すぐに来てくれと彼から連絡が入る。
上司に話し、すぐに病院に向かう。
突然の部屋移動で荷物がごちゃごちゃになったこと。
荷物を把握している私がその場にいないこと。
急な40度ちかい発熱。
ずっと落ち着かなかったという。


看護師にも今日はずっといてくれと頼まれた。
私がいると表情が穏やからしい。
私には文句しか言わないが、信頼してくれているらしいことを知った。




2010年7月5日。
新薬による抗癌剤治療開始。
この日から2日間の来院を控えるように言われる。



2010年7月6日。
様子を聞きにナースステーションへ行く。
とにかくダルいらしい。



2010年7月7日。
S医師からの話。
95%治るのは無理なこと。
彼の家族に知らせることを勧められる。
彼には別れた元奥さん都の間に2人の娘がいる。そして彼の兄姉は九州に。


本人に言えば首を横にふる。
本人の意志を尊重したいが、どうしたらいいのか、どうするべきなのか。
まったくわからない。



2010年7月8日。
彼の家族との関係のこと、彼の意志をS医師に伝える。
S医師からは、
「人一人が死ぬということは、あなた一人や娘さんたちで抱えられるものではないのですよ」
と言われた。
そして脳への転移の可能性。
意識がなくなる可能性。
そしてガン細胞からの大量出血の可能性について説明を受けた。



苦しい。
自分が判断をし、自分で決める。
それが一人の生死に関わり、血縁者に影響を及ぼす。
こんな大事が私の前に突き付けられている。


正解など知らない。
一般的な話など知らない。
尊厳。
死に直面している本人の意志。
私の気持ち。



新たに見つけたガン克服方法を教えている方へメールする。
「手遅れです」
と返信があった。





2010年7月18日。
抗癌剤治療の副作用がやっと軽くなってきた。
パソコンで新しい小説を書き始めたりしている。
長時間は無理。シャワーも一人では体力が持たない様子。


私自身も精神的にキツくなっているのか、ちょこちょこ頭痛に悩まされていた。




2010年7月22日。
朝方の発熱はあるものの、久しぶりに調子は良さそうにしている。
起き上がり、洗面台の前で外を眺めていた。




2010年7月23日。
朝早い時間に大量の吐血をしたという。
3日間輸血をすることになった。
シーツも枕もパジャマも下着も血で汚れたそう。


その大量の血に混じって、ある塊が口から出たという。
S医師によればガン細胞ではないかと。


抗癌剤治療は普通ガン細胞を小さくするが、
食道ガンは上皮ガン。
上皮ガンの場合は、細胞が壊れ剥がれるのだという。
剥がれたものが吐出され、剥がれた部位から出血したのだろうということだった。
「効果が出ている結果の吐血。悪い傾向じゃないです」
との説明に一筋の光が見えた気がした。




2010年7月24日。
病室に入ると血の匂いを感じた。
再び大量出血。ガン細胞の塊もまた出ていたとのこと。
気管支炎のようなゼーゼー音が喉の奥から聞こえる。
激しい咳き込み。おかしい。。。


出血がなかなか止まらない。止血剤とモルヒネを点滴しているが止まらない。


S医師が休暇日で奥様と買い物中だったのに、駆けつけてくれた。
抗癌剤がちょうど効いてくる頃。
血小板、白血球など減っているので血が止まりにくいのだろうと説明してくれた。


激しい咳き込みは、気管支への転移ではない。
あまりにも大量の出血だったため、気管支に入ったのだろう。
気管支に入った血が固まり、自然に溶ければ大丈夫ということだった。




2010年7月25日。
Tシャツもパジャマもベッドに敷いていたタオルも汚れるほど、
また吐血していた。
呼吸困難になったため酸素を一時付けていた。



2010年7月26日。
面会時間を過ぎても、彼が落ち着くまでそばにいた。



2010年7月27日。
夜、呼吸が苦しくなりパニックになったという。
怖かったと。
酸素吸入をしている。



2010年7月29日。
左側に肺炎が広がっていることを伝えられる。
祈る。祈る。祈る。
涙は止まらない。


午後、彼の長女を迎える。
彼と2人で話す時間を取る。
うちに泊める。



2010年7月30日。
午前中長女を見送り、夕方次女を迎える。
同様に彼と2人で話す時間を取る。
うちに泊める。



2010年7月31日。
午前中、再び次女と病院へ。
軽食を買って昼食を病室で摂る。
午後、次女を見送る。


呼吸が苦しそう。




その日がやってきた


2010年8月1日。
東北はこの日から1週間、各地で夏祭りが開催され、1年で一番活気がある時期。


朝7時43分。
「危険な状態です」


「はい?」


「菅原さん、危ないです!」



すぐには理解できない。
携帯への着信の表示は「TS病院」。


頭が真っ白になったまま自転車を飛ばす。
何も見えない。
病院までのルートだけがハッキリ見えた。



8時5分。
意識が薄い。話しかける。
頷く彼。


看護師が言うには、昨夜「誰かが来た。風呂に入らなきゃ」と言って
トイレの方へ歩いて行ったが具合が悪くなり病室に連れ戻ったという。


(彼のお父さんかもしれない)


朝7時30分までは話していたが、その10分後に覗いたら意識が無くなっていたという。




「くるしい・・・」
声を漏らし、白目をむく。
S医師の懸命の処置で意識が戻る。


S医師に呼ばれる。
「左の肺が機能していない状態です。人工呼吸器を挿管しますがいいですか。」


人工呼吸器を挿管すれば、抜くことはできない。もう話せなくなる。
それでも私は挿管をお願いした。


娘たちが到着するまでは、生きていて欲しい。



10時過ぎ、挿管。
持ち直す。


娘たち到着。
目を見開き、存在を確認する彼。笑顔を見せている。



13時前、眠りに落ちる。
「あそこまでいって、ここまで持ち直すなんてすごいですよ!
眠ればまた体力が回復しますから、そしたら本格的に肺炎の治療をしまやりましょう。」
S医師にお願いしますと頭を下げ、
娘たちを病室に残し、汚れた洗濯物を持って一時家に戻った。



14時過ぎ。
病室に戻ると、娘たちが彼から少し離れて座っていた。
彼の様子に違和感を感じ、モニターを見る。
血圧が下がり始めている。


呼びかける。呼びかける。呼びかける---。


白目が黄色いものに覆われ始める。
手足にはチアノーゼが出てきている。



ああ、、逝ってしまうんだ。。。



手を擦る。呼びかける。手を擦る。呼びかける--。



ふと中空を見上げた。彼の魂が身体から中空に出た気がした。
心臓はまだ動いている。


S医師は、私達を気遣いモニターの音を切ってくれた。



16時33分。
永眠ーーー






うそみたい
目に映る景色が、すべてぼやけている。
霞んで見える。



まだ温かい。
筋肉の痙攣によって、時折モニターの波形がピンッと跳ねる。
虚しい希望の視線を医師に送るも、首を横に振られる。



不思議なことだけれど、そこに横たわっている身体には、
もう彼はいないと感じた。



一筋、涙が流れ唇に触れる。
ふと気がつくと病室には私と彼の遺体だけ。
目の前には、闘いを終え、静かに目を閉じる彼の身体。
外された呼吸器などの器具の跡が残る、その唇に
最期のくちづけを---。




私の闘いは続く


しかし感傷に浸っていることはできなかった。
看護師に電話帳を手渡され、
「病院にはドライアイスが無いため遺体を置いておけないので、
 葬儀場に連絡して遺体を運んでください。」
と告げられた。


葬儀場がどこがいいなんてまったく知らない。
葬儀場への積立なんて、してるわけがない。
聞いたことのある名前の葬儀場に電話し、来てもらうようお願いした。


車には2人までしか同乗できない。
娘2人を同乗するよう促す。


遺体を病室の前で見送る。



・・・・・


誰もいなくなった病室。
看護師も医師もいない。遺体の運び出しの見送りに行っているのだろう。


ふわふわ浮いているような変な感覚。


葬儀場へ行かなくちゃ・・・



お葬式も位牌もいらないと言っていた彼。
生前、遺骨は散骨にしてくれと頼まれていた。
指定箇所は5ヶ所。


娘たちが連絡し、すぐに彼のお姉さんも来てくださった。
初めてお会いする。


彼の遺志を受け密葬にすることにし、火葬は8月3日となった。


お棺はどれにしますか?
お部屋は1泊いくらになります。
お経を上げる和尚さんを頼むといくらになります。
遺体をキレイにするのにいくらになります。
骨壷はいくらになります。
などなどなど。。。


回らない頭でわけもわからず、ただただ聞くしか出来ない私。
お姉さんがいらしたのが本当に有り難かった。
人が亡くなってお骨になって持ち帰るまでに50万位上。
あれもしない、これもいらないと最低限にしたけれどこの金額。


お金がないと死ぬこともできない・・・



娘たちは彼女たちの母を呼んでいいかと私に聞いた。
彼女たちの心のケアは今の私にはとても出来ない。
そう感じたため、呼ぶことを承知した。



2010年8月3日。
火葬。
正直、私だけ血の繋がりはない存在。
しかも彼と結婚していたわけでもない。
心の整理もつかないまま、私だけが心ここにあらずだった。
分骨していただいたことはお姉さんの心遣いだった。



亡くなった日、長女は遺体と一緒にいたくないと言った。
その日娘2人は私のマンションに来た。


彼女たちの荷物もあるからと、彼女たちとその母親に
マンションで着替えていくよう促した。


着替え終わると、通帳と印鑑を持ち帰るという。


何でもいい。
早く一人になりたかった。
早く、解放されたかった。



2010年8月4日。
会社は、事情を汲んでくれて1週間の忌引休暇を出してくれた。
1週間で、さまざまなことを処理し、会社に戻らねばならない。
会社は私の個人的な事情とは関係ない場所。
笑えるようにしなければ・・・。



幸いというか、彼の財産と呼べるものは元々の彼の荷物と、
直前までに仕事で入ってきた数10万円のみだった。


葬儀場から渡された死亡証明書のコピーを持って携帯キャリア会社に行き解約。
彼のファンの方々に報告と連絡をし、彼の最期の作品をお送りする。


さまざまなことをこなしている間に、時間はどんどん過ぎた。




2010年8月5日。
仙台七夕の前夜祭である花火大会の日。
去年はベランダに椅子を出して2人で見た花火。
着替えた浴衣姿を喜んでくれていた。


一人、浴衣に着替えベランダに出て、
彼の好きだったワインを開けて花火を見上げた。


もう二度と、夏祭りを楽しめない気がした。




不思議な出来事


49日過ぎると、魂が天に還る。


そんなことをなんとなく聞いていた。
ほんとなんだろうか。
なぜ49日なのか。


49日という日。
それまでも毎日のように家に帰っては泣き、時には号泣していた私。
49日が終わってしまう。
明日起きたらもういないのだ。
そう思って一層泣いた。



泣き疲れていつの間にか眠ってしまった私の目を、
50日目の朝日が照らした。
目尻には涙が溜まっている。


目を覚ますと、不思議な感覚にとらわれた。
私が横になっている隣に、寄り添うように横になっている存在がある。
その存在を感じた。


ああ~、そういうことなんだね。
彼は最後の挨拶をしている。
そして励ましている。
そう感じた。


理由はない。理屈もない。
ただ、そう感じた。


涙が流れる。
しかしそれは、昨夜と違う涙だった。
ありがとう。




2010年9月24日。
彼の望みであった散骨。
私は分骨してもらったお骨を、私の小さいころの思い出もある奥入瀬渓流へ散骨しに行った。
奥入瀬渓流は散骨指定5箇所のうちの1箇所。
兄に頼んで、兄夫婦と一緒に奥入瀬渓流に行った。


久しぶりの奥入瀬渓流は清々しい緑に覆われ、空気が澄み切っていた。
彼が気に入ったと言っていた奥入瀬渓流の場所、阿修羅の流れ。
散骨して欲しい場所はここだろう。
手で粉のように砕きながら少しずつ渓流に流す。


どうぞ心安らかに。
あなたの好きだった場所で、心地よさに眠ってください---。



散骨を負え、仙台の自宅マンションに帰り鍵を開けて中に入る。


えっ!?と驚きの声を上げてしまった。
家の中の空気が、とても清々しく澄み切っていたのだ。
まるで奥入瀬渓流にいた時のように・・・。


「ありがとう。望みを叶えてくれてありがとう。」
その声が聞こえた気がした。





新たな人生


その後も不思議な出来ごとは起きた。
スピリチュアルっぽいこともいろいろ起きた。
それらは、私がなぜ彼と出会い、関わり、彼を看取ったのか。
その経験が私に学ばせてくれたたくさんのことの意味を教えてくれる内容だった。


本当かどうかは問題じゃない。
自分の感覚が全て。



一度とても身近な人の死を経験したからといって、
同じような状況に直面している人へ、かけられる言葉をもっていない。
なんと声をかけていいか、わからない。


自分があの時、なんて声をかけて欲しかったか。。
ただ隣にいてくれるだけで嬉しかった気がする。
話したくなった時、聞いてくれるだけで嬉しかった。


だから私もただそっと心のうちに寄り添っていたいと思う。




人の「死」の瞬間、あるいは「死」ということに、これまで何度かあってきた。
肉親、友、仕事関係など・・・。
でも自分の心に近い存在の人の「死」というのは初めてだった。


本で読んだり、聞いたりしたことはあっても、
実際に自分がその場に立つというのは経験しなければわからない。




人一人の死。
S医師が言ってくれたように、それはとても大きなこと。
簡単なことではない、重大なこと。




私が救われたのは、彼自身が生きたいように生き、
生きている間に成し遂げたいと言っていたことを成し遂げたということ。


死の前日、「ありがとう」と言ってくれたこと。


彼自身が少しでも自分の人生がよかったと思っていることが、
私が哀しみから立ち直る原動力になっていた。



「今日死ぬかもしれないんだぜ」



だから、伝えるべきことは伝える。
「ありがとう」「嬉しい」「大好き」「感謝してる」etc.


だから、やろうと決めたことを思い切りやる。
だから、嬉しいと感じることをして生きる。


人は誰かの役に立ちたいと思っているもの。
潜在意識の8割は、誰かの役に立ちたいと思っているとも言われる。
役に立てたと感じることが嬉しいのだ。



嬉しいと感じることを、楽しいと感じる範囲でやり続ける。
そうして生きるならば、「死」に際した時、
一番近い人々に心からの「ありがとう」を言えるだろう。


その言葉が、遺された人が立ち直る原動力となっていくと、私は信じている。




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