15/1/2
23歳、社会人1年目の僕が“うつ”で死にそうになり、8コ上の萌え声お姉さんの「そっか、あなたは○○をしたかったんだね」というたった一言に泣き崩れ、生きる活力をもらった話。

「そっか、あなたは○○をしたかったんだね。」
この出会いがなければ、僕は死んでいたかもしれない。
はじめまして!心の事をお仕事にしながら、旅を続けるライフスタイルをしている西勝ユズルと申します。
タイトルのとおり、僕は社会人1年目の時に“うつ状態”となりました。そして、半年で完治をするという経験をしていくのですが、その時に家族や友人など、様々な方から、涙のでるような言葉を何度も頂き、僕はスピード良く社会復帰することができました。
そして、僕のように悩んでいる人たちのために、今のような活動をしています。
その感謝の気持ちを込めて、書いていきたいと思います。もし、うつや自殺を考えてしまっている方や、将来の夢がなくて諦めそうな方、ぜひ読んでみて下さい。
お姉さんとの出会いは、大学4年生の春。
「キレイなお姉さんは好きですか?」
と質問されたら、何人のメンズがYES!と答えるだろうか。恐らく内閣の支持率よりは大幅に高い。ちなみに、そんなCMを見ながら僕は「そんな愚問な…!」と思い月桂冠の月を買うような人間だ。
さて。当時、僕はどこにでもいる、大学4年生だった。おいしい事に、筆記試験で受験をパスした経験がなく、高校受験は内申点でスルー。そして大学へはエスカレーターという何ともステキなご身分である。恐らく、そんなご身分だからなのだろう。内部進学者として、大学時代からは“焦り”を持ちながら毎日を過ごしていた。
「他の部分で頑張らないと、認められないんじゃないか?」
大学1年生はサークルで飲んだくれた事に焦り、大学2年生から「意識高い系」の団体に顔を出し始める。いわゆる学生団体だったり、企業が学生向けに主催しているセミナーだ。よくスーツを着て、大学を颯爽と(自分なりには)歩いたりした。色々な事を、やっては、みる。
そしてサークルやゼミの皆からは
大学の友達「西勝はすごいな〜色んなことやっていて。羨ましいよ」
認められる事には嬉しい。でも、心の中はポッカリしてる。
「自分が本当にしたい事は、なんだろう?」「やりたいことは、何なんだろう?」どこに行っても、誰と会っても、「分からない、分からない・・」そんな繰り返し。
そして大学4年の春。リーマンショックの前年、売り手市場と言われた最後の世代の僕らは、多くの友達に内定が出た。
僕も「教育」という分野に興味を置いた事だけして、ご多分に漏れず、企業教育のコンサルティングをしている会社の内定をとり、就活を終えた。でも、焦りは止まらずに続いて行く。
「ぴょん」と言う、萌え声。
お姉さん「若いのにスゴいね〜頑張ってるね*きみ何歳なのー?」
僕「あ、こんにちは!今21歳です!よろしくお願いします!」
お姉さん「あらら〜私よりも8コも違うんだ!でも嬉しいな♫ユズルくん、なかよくしてピョン*」
僕「(ぴ、ぴょん…!?でも、なんか…イイ!)」
いや、あのお姉さんは魔性です。ぜひ、一度きみも、あって欲しいくらいだ。
さて。
とある教育関係の、勉強会で会ったお姉さん。彼女は交流会のときに、キョロキョロしてる僕に優しく話しかけてくれた。僕は色んなところに、頑張って顔を出して行くのだが、家に帰ると、「どーーーーっ」と疲れてしまうタチで、特に年上の方がいらっしゃる場所なんて、気を張りまくっていた。
けれども、不思議とそのお姉さんには、柔らかい雰囲気の安心感があった。いい人だったなー。そう思って岐路に着いた。
その後も、その勉強会にちょくちょく顔を出していた僕は、顔を合わせる程度で、あんまり深いハナシをするような関係ではなかった。
そして僕は、22歳社会人・彼女は30歳OLに。
2009年、春。僕は社会人になった。やりたい事は、まだ明確ではない。けれども、興味を持っていた会社に入ることが出来たんだから、頑張ろう。そう思って入社をした。一方お姉さんは、OLをしていた、そうだ。と、しか言えない。だってその位の距離感だったんだから。
3ヶ月のOJTを終えて、配属。取引先を周り、議事録を書き、先輩と打ち合わせをして、また別の取引先へ営業。そんな日々を繰り返し繰り返しやっていた。周りは優秀だし、とてもステキな人たちばかりだった。
でも僕はそんな中、仕事が出来ずに悩んでいた。
分からないことが、聞けない。
先輩「いいんだよ。まだ1年目。気張らずにやるべき事をしっかり覚えて行こう。何かあれば相談してね。」
そうやって、先輩は言うけれど。いや、仕事が出来なかったわけではない。むしろ、アウトプットの出来はそんなに悪い方じゃないし、褒められる事もあった。問題は「分からないことを、聞けないこと」だった。分からない事や出来ない事があると、急に冷や汗が出てきてしまう。
そして、出来なかった事などは、誰にも言えずに黙り込んでしまう。ずっと黙り込んでしまい、ついには話さなければならなかった連絡も、後手に回ってしまい、後になって、怒られる・・という始末。「報連相をしっかりして欲しい」と、上司には言われる。おっしゃるとおりだ。でも、分かっていても出来ない。
人が、怖い。自分は何をやっているんだろう・・・
必死にやっても、どうしてもこの状態が続く毎日が、そして自分のせいだと分かっている事が本当に辛くてたまらなかった。そして。
2010年1月、気付けば僕は山にいた。
いきなり、山?そう、山である。事の流れを見て行きたい。
僕の状態は凄まじく荒れていた。何とか社会人1年目を乗り切ろうと必死だった自分。こういった状態も、いずれ過ぎれば、解放されるだろうと信じて毎日を生きていた。
僕は、そんなに頭がよくなかったけど、他のところで誰かに認められるような居場所があった。部活動やサークルで、いじられたり、ちょっとカラオケがうまかったり…でも、今回はそれが全くといってない。
仕事もダメ、コミュニケーションもダメ、飲み会も面白くないヤツ。
そうなると、自分がいる意味がわからなくなる。信じていたものが信じられなくなる。「お前はダメなヤツなんだ」と毎日毎日、言われるようになっていく。ように思ってしまう。
それくらい「自分がいたら邪魔なんだ」と思わざるを得ない環境を、自らが作ってしまった。辛い。辛いなんて言えないくらい。誰にも話すことが出来ない。誰にも相談する事も出来ない。不安と怒りと悲しみと色んなものが溜まっていく。
何とか2009年を乗り切って、2010年がスタートした。その2週間後くらい。つまり1月中旬位だったと思う。いつも通り寝不足のまま(もう、この時は睡眠時間は3時間もない)起きてスーツに着替えて車に乗って、地元の駅まで行った。
そして、いつも通り駐車場に車を止めて、車の中で一休みしてから、シートベルトを外そうと、、するんだけど。
体が動かない。そして、前が、見えない。
恐怖で震えが止まらない体。片手にもって天井にあげた携帯電話がにじむ。違う。自分が涙が出てきてしまって、視界がぼやけているんだ。
限界。
ぷつんと、糸が切れてしまった。もう何もかも嫌になってしまった。とりあえず会社には、体調不良で休むことを伝えた。
でも、家族には言えない。悩みながらも、「自分でやりたい事だ」と伝えた道。その会社に行けないなんて事を言ったら、親もどう思うのか分からない。
そのとき、時刻は朝の10時。会社から家に戻るのは、基本終電の0時くらい。12時間もある。
そして、あてもなく車を走らせて、僕はとある埼玉奥地の、山に着いてしまった。
僕「あぁ、ここ、おじいちゃんの実家だ。」
そう、ここは、僕の母方のじいちゃんの田舎。その近くの山だった。山と言えど神社であり、小さい頃はよく頂上までのぼり、二礼二拍手一礼のお参りをした。
僕「とりあえず、のぼろ。」
周りは、小柄なおじいちゃんとおばあちゃんがポツリといるくらい。そりゃあそうだ。正月も過ぎてこんなところに熱心に来る人なんて、早々いない。
そして僕はスーツ姿で泥まみれの階段をのぼる。ひんやりした冷気に、頭も心なしか楽になった気がした。いわゆる森林浴なのだろうか。
頂上に着く。何をお願いすればいいんだろう。生きたくも死にたくもない23歳。我ながら笑えた。
僕「神様の前でも、報連相が出来ないんだな。。」
こりゃあバチが当たるなと思った。でもお陰さまで、少し動く気力はもらえた。そして自分の現状を改めて自分で、受け取った。次の日も体調不良で会社を休み、メンタルクリニックに行った。そして、うつ症状という診断書をもらい、休職になった。
両親への伝達、そして号泣
うつになってから5日くらい、自分は親に言えなかった。親に会わせる顔がない。親としてみれば、大切な息子が会社でうつになって、会社に行けないような状態になっているなんて、知るだけでも本当に悲しいと思ったし、「3年間は働く」という約束は守れずにこんな状態になっている。
うつの診断をもらっても、とにかく前に進むしかないんだって、心だけは相変わらず焦っていた。苦しいことにも気付かず、相変わらず車を走らせてまた山に来ていた。やっぱり、スーツで。
けれども、体が限界だった。だから早めに帰ってきた。確か18時くらいだった。
その日は病院に行って、改めて診断書をもらった帰りだった。今日は、さすがに両親に言おうと思った。
それで、母さんにメールを打った。自分がうつになったこと。会社には5日前から行っていないこと。そして、ここしばらくはふらふらしていたことをメールで伝えた。
あの時は怖かった。何を言われるのか分からなかった。すると。
母さん「早く帰ってきなさい。今日は夕飯たくさん作ったよ。」
そう返ってきた。ありがたかったのと、罪悪感が同時にわいてくる。こんな息子で本当にごめんなさい、と。
そして、夕飯を食べてまた部屋に戻り、21時くらいに親父が帰ってきたから、リビングに戻った。僕はここまでの話を淡々と話そうとした、けれども悔しくて辛くて、こみ上げた想いがどんどん溢れてくる。
自分のふがいなさや、それでも突破できない心、何もかも破壊されてしまって、どうしていいかも分からないこの自分の状態に、最後は言葉にならず、わめいてしまった。わんわんと、ガキみたいに。
そして、親父が一言、優しく共感してくれながら、言ってくれた。
親父「そうかそうか。お前、辛かったんだな。」
もう、悔しさと暖かさが同時に出てきて、ますます激しく泣いた。自分の選んだ道への迷い、両親にこんなにも迷惑をかけてしまっていること。そんなのが、たくさん溢れて止まらなかった。
自分はこのとき、先輩や上司からはたくさんアドバイスをもらっていたけど、もうそれが自分への否定にしか聞こえなくなっていて、意識も朦朧としていて、すべてのことが信じられないし、他人も社会も、家族も絶対に自分のことを否定するんだと信じていた。
まさに全てが信じられない、不信の状態だった。
そこで、泣きわめいているところに親父が一言、真っ直ぐに、でも微笑みながら、伝えた。
親父「いいんだ!若いうちの1年や2年、浪人したり留年したと思えばいいじゃねーか。」
この言葉が、自分を不信から取り上げるきっかけになったんだと思う。「あ、生きててもいいんだ」なんとかそうやって思えた。そう思ったら色んなことがどっときて、もう眠るしかなかった。ようやく、眠る事が出来た。そして、1ヶ月の寝たきりの生活が始まる。
2010年6月、僕は2度目の休職をする。
1ヶ月だと復帰は難しく、2ヶ月休職というカタチになった。そしてその休職期間も終わりが近づいてきた。僕は1ヶ月経ってからは少しずつ出歩けるようになり、足を遠くに伸ばすなどをしながら、だんだんと復職の準備を始めていた。
「社会不適合」
僕は、この言葉が怖かった。だから無理をしたんだと思う。主治医の先生からは、「こんなに回復するのが早いなんてスゴいですね!」なんて言ってくれていたけど、自分は人に合わせるのが大の得意。
無意識的に、先生にもイイ顔をして、診察の場を乗り切って、早く社会復帰しなければ…と焦ったのだと思う。
だけど僕は、またやってしまった。今度は4ヶ月しかもたなかった。「社会不適合」の仲間入りだ。そして、また布団と自分の部屋を行ったり来たりする生活の始まりだった。
お姉さん「あの時は、私も必死だったんだよ。」
当時を振り返って、お姉さんはそう話してくれた時がある。2010年6月、僕が二度目の"うつ"を発症した1ヶ月、お姉さんとのやり取りをたくさんした。
あの春から。
お姉さんとは、その勉強会で会うくらいの関係ではあったんだけど、僕がこんな状態である事を、僕がどうしても打ち明けたかったのだ。友達には中々言えない話。
でも、この人なら何も否定せず、肯定もせずにありのまま受け止めてくれるんじゃないかと、思ったからだった。
だからもう本当にボロボロになり、どうしようかワケが分からなくなった時、お姉さんに電話しようと決めていた。僕がまた会社に戻れなくなった日、昼時の渋谷駅で電話をした。
僕「ぷるるる(電話の音)」
お姉さん「はい、もしもし、ユズルくん、どうしたの?」
お姉さんは「間」で察する人だ。こんな時にピョンなんて言わない。繊細に間を察しながら、次の僕の言葉を待ってくれた。
僕「あの・・僕、またダメでした。。」
お姉さん「今、どこにいるの?」
間髪入れずに聞いてきた。こんなのは初めてだった。
僕「あ、し、しぶやです。」
お姉さん「分かった。私も仕事終わったらすぐに行くから、夜まで待てる?大丈夫?何かあったらいつでも連絡して。」
僕「・・・ごめんなさい、ありがとうございます。」
そして夜、延々と僕が泣きながら会社の事や、自分の不甲斐なさを語った。お姉さんは、何も言わずに真剣に、「うんうん」と頷いてくれた。僕は不思議に思って聞いた。
僕「どうして、こんなに懸命に聞いて下さるんですか?面倒だったりしませんか?」
お姉さん「こんな状態の人をね、見過ごすわけには、いかないのよ。あなたの事は絶対に助ける。大丈夫だよ。」
お姉さんにも、こういった心の問題で身の回りの人を亡くした経験があったという。それも相まってか、自分に対しては、何倍ものチカラが出たんだと、後日談だが語ってくれた。
生きる活力が欲しい。そして言われた一言。
社会人1年目に休職となってしまった僕は、どうやら休職期間が3ヶ月しかないらしく、来月に出社するか退職するか、どちらの選択になるという事を人事の方から通達された。親としてはもう別のところでいいんじゃないか?と言ってくれていた。
先輩たちも上司も、正直この3ヶ月は接しにくそうだった。そりゃあそうだ。うつになった人なんてあまり見る事はないだろうし、みんな隠すものだけれども、僕は大々的に休んでしまったから、バレバレなんだ。
「この子はうつだから・・」そんな風に見られる目線が、僕は一番痛かった。また休職してしまった原因も、そんな風に“かわいそう”な目線で見られたのが辛かったところもある。
でも、この先どうすればいいんだろう?
僕は、とにかく不安だった。1回目の時よりも段々と良くなっているのは分かる。でも時々夜にやってくるどうしようもない不安感と、自分がここにいる意味が分からなくなる焦燥感。それがやはり消えなかった。
蒸発したい。帰り道の電車の中でそう思う日が続いた。そんな、また頭がぐるぐるして、泣きたくなった夜にお姉さんに電話をした。23時だった。
僕「すみません、また電話しちゃいました。」
お姉さん「んーん、いいよ、何でも話して。どうしたの?」
僕「自分、本当に・・怖くて!これからどうすればいいんだろう。」
とにかく、先が見えないことが怖かった。仕事を辞めれば、また仕事を探さないといけない。本当に自分の情けなさばかりを感じる1年だった。
何も出来ない。何もやること、なすこと、全部ダメで最低で、誰にも評価されなくて、それが自分なんだって本気で思っている。みんなだってそう思っている。それも無理は、ない。
そんな事を延々と伝えた。またぐしゃぐしゃに泣いてしまった。
全部を聞いてくれたお姉さんは、そして一言、命に水を注ぐように僕に伝えてくれた。
お姉さん「そっか。あなたは、「大きな生き方」をしたかったんだね。」
それを聞いた途端に、心の中が「そうだーー!!!」って叫んだ。
そして、また泣いた。今度は闇の中で孤独で辛くて泣くような、泣き方じゃなかった。光を見つけて天に向かって叫ぶように泣いた。
僕は本当に嬉しかった。そうだ、そうなんだ。僕はこんな生き方をしたいわけじゃない。もっと大きな生き方をしたいんだ。分からないけれども、自分が本当に向かいたい道に、まっすぐ進みたいんだ。
僕「あり、ありがとうございましたっ(ぐしゅ)」
お姉さん「うん、いつでも電話して♫大きなユズルくん*」
僕は忘れていた。
大きくするのは、親でも先輩でも上司でもない。他ならぬ自分の自覚だったんだって。自分が出来なくてダメなヤツだと思うのは、自分だ。けれども、本当はどうだろう?僕だってあなただって、無限の可能性に溢れているんだ。
お姉さんは、それを僕に、思い出させてくれた。
その後、僕はうつを完治させ、「大きな自分」に人生を懸けて、進んでいる
"うつ"というのは、どんどん自分に自信がなくなり、自分の中で考えが糸のように絡まった状態だと僕は思う。でもこの経験をきっかけに、僕はますます教育の道を極めていった。
一度つとめていた企業は退職をし、より深い人間関係を学びたくて、学校教育の道へ入った。人間関係の問題を解決して、自分の望む道に迎えるような教育コンテンツを探し、6年間、追究していった。
そして、とうとう見つけたコンテンツを手に、史上最年少で資格をとった。僕は、人の心を自由に飛び回りながら、旅を続けるライフスタイル「ハートトラベラー」という職業を得た。
そして『夢と自立を実現する3ヶ月間プログラム』として、僕のように、将来の夢が分からなかったり、人間関係に戸惑いうつになってしまった人の元へ向かい、コミュニケーションの作用を見る「セッション」をし、あなたが望む方向へ、人生の舵取りを案内するような「旅先案内人」の役割をしている。
旅を続けるのは、僕がお姉さんに会ったかのように、僕も距離に関係なく困っている人の元へ向かいたいからである。
そして、今は本当に充実している。人と会うのが楽しくてたまらない毎日だ。
絶対に僕のように迷っている人は、たくさんいる事が旅を続ける中で分かった。でも僕は、死にそうなほど、自分をいじめて小さくしてしまったからこそ、その弱さが分かり、自分の大きさを実感する強さを知っている。
だから、あの時のお姉さんのように言えるんだ。
「あなたは「大きな生き方」をしたかったんだね。」
あなたは今、「大きな生き方」をしていますか?
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました!
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