top of page

13/3/9

アメリカ転勤での経験と学び☆彡

Image by Olia Gozha

・・何よりも苦労したけれど、楽しい思い出もたくさんあるのが英会話。いろんな伝説!?を最後にご紹介します。

はじまりは一本の電話から

約6年間ほど癌の研究や治療に携わったある日、仕事中、内線がかかってきた。「えっと、来月から3年ほどアメリカへ・・」と社長の言葉が衝撃的。。。いきなりPhiladelphia(ペンシルバニア州)にいくことになった。人生が一変した。

1999.2.22 成田から、シカゴ経由でフィラデルフィアへ出発。平日にもかかわらず、会社を休んで親友が成田空港まできてくれていた。なんと私には内緒で・・。放送で呼び出された時、それはそれは驚いた。2人とも全くつながりのない友達。一人は山梨から、一人は茨城から。これには心から感動した・・


お葬式で悲しむ必要はないかもしれない

少したったとき、アメリカで一緒に働いているドクターの親が亡くなりお葬式に参列。はじめての教会でのお葬式。

お葬式といえば「涙」、のはずが、誰も泣いてはいない。

「泣かないで。悲しまないで。私はここにはいない。天国にいって、遠くから見ている」「しあわせな人生を送ったから、満足」という内容がかかれていた紙を受け取り、何度か読む・・。お葬式には必ず泣く私だが、その日は初めて違う感情でいられた。

お葬式と言えば、おどろおどろしいもの。すすり泣きや、悲しい呼びかけなども当たり前だが(と思っていたが)、はじめて、「お葬式=悲しい」はひとつの概念にすぎないのだ、と気付く。幸せな人生を終えたことを悲しむ必要はない。素晴らしい人生を無事に終えることができて「よかったね。お疲れ様」ではないのか?悲しむ事は、むしろ失礼な事とも思えた。

事実は一つ。でも、解釈は一つではない。

当たり前と思っていたことが、当たり前ではないなんて。日本で生活していたら、一生気づけなかったかもしれない。


道は開ける で道が開けた

アメリカでは、孤独との戦い、言葉の壁、仕事のプレッシャー・・いつも心がおしつぶされそうだった。。。家ではテレビが映らなかったので(コードをつなげれば映る?契約が必要?・・どうやったら映るのだろうと考えもしなければ、誰かに聞く事もしなかった)、日本から友達が送ってくれたビデオ『オーバータイム』と『やまとなでしこ』を毎日毎日繰り返し見続けていた。毎日6時間見るので、2日で一連のストーリーがいったん終る・・・。繰り返し繰り返し、飽きることなく見続けた。

これを見始める時は幸せの始まり。見終わる頃は明日への絶望・・。

家(寮)では、実験のまとめと翌日の準備。辛くて辛くて毎日泣いていたが、泣いても泣いても涙は枯れない…。いくら泣いても涙は目から溢れ、流れ続けた。物理的には孤独ではなかったのに、何よりも、心が孤独だった。「咳をしても一人」という小学校の教科書に載っていた強烈な俳句を、繰り返し思いだしては、さらに孤独を感じる、そんな毎日を過ごした。

ダメダメ人間の私を救ってくれたのは、友達の手紙やコトバと、そして、上司の貸してくれた、デール・カーネギーの「道は開ける」という本。この本が「解釈をかえること」「考え方をかえること」の大切さを、改めて教えてくれた。解釈を変えれば、気持ちが楽になる。「楽しい」とまでは思えなくても、「楽」で十分だった。この過酷なアメリカ生活が、その後の私の人生に大事な習慣を与えてくれた・・・。後から理解し納得し、感謝した。

※咳をしても一人:自由律俳句で有名な、尾崎 放哉(おざき ほうさい)の俳句。咳き込む放哉に声を掛けてくれる人は誰もいない。 死を前にした放哉の孤独が伝わる歌


適当なところ、嫌いじゃない

しばらく寮で生活していたが、ある時、大学から呼び出され「新しい研究者を向かえ入れるから、住むところを探してほしい」と伝えられた。2000年7月、初めて一人暮らしをする事となる。25階建のビルの20階の明るくて、眺めが最高にすばらしい部屋に引っ越しすることになった。

最初に、部屋のドアの鍵2個(防犯強化)と、ポストの鍵を2個預かるが、面倒くさがりの私は防犯などは後回し・・部屋の鍵は一つだけでいいや、そう決めて生活を始めた。ある時、エアコンを付けてもらう為に、私の留守中に管理人同伴の元、業者さんに部屋に入ってもらった。家に帰ったらドアの鍵が2つしまっていたので、預かっていたもう一つの鍵を初めて使う事に。なんと・・・

違うカギだった!!!

自分の部屋なのに、中に入れないという、驚愕な事件勃発・・・。夜なのに、どうする??当時は、ネット社会でもなく、スマホ社会でもない。その場で解決策を調べることはできなかった。周りに助けを求め、結局、鍵やさんを呼んで開けてもらい、なんとか事なきを得た。

その後、鍵を間違えた管理会社に、「あなたが私に渡した鍵、違っていたの」「鍵やさんに来てもらったので、そのお金出してもらえます?(出してもらえます、よね?)」と伝えにいったら

「私は悪くないわ、鍵の置き場に置いてあった鍵を渡しただけだから」

女性スタッフが子供のように言い張る。その場では言い逃れされて終わってしまい、最終的に、数名のオトナの署名とともに、「支払要求書」のようなものを管理会社のスーパーバイザー宛に郵送する、なんてことにもなったりした。

いちいち面倒な事になってしまったが、そもそも、最初にもらったときに鍵を確認しなかった自分の落ち度は、大いに反省。

4つもらった鍵のうち2個が違う鍵なんて・・・日本ではまず起こらないであろう珍事。さらには「私悪くない」という責任逃れにも驚く。が、アメリカでは、こんな風に、雑で適当な事をよく経験した気がする。

・・でも、私、この適当さ、嫌いじゃなかった。

人を責めるだけでなく、自分の非を認める目線。「むかついた出来事」でなく「面白い出来事」と思う視点。解釈を変える訓練は、いろいろなところに転がっていた。


意外な展開へ

約2年間の生活の中で、本場の「研究」の厳しさに触れる。英語でマニュアルを作ったり、価値ある経験をたくさんさせていただいた。精一杯やったからこそ、得られた事は本当にたくさんあった。そして、一番の収穫は・・・

「研究職を辞める事」を決断したこと。

帰国後1か月もたたないうちに辞表を出したため、事務長、理事長、そして社員皆をざわつかせた。

過酷なアメリカ生活を経て、こだわっていたものを捨てる選択が、あっさりできるようになった。

     ・・・つづきはまた。

★おまけ★ 英会話の面白話

◆アメリカでいえば外国人の私に、皆の会話が早すぎる。。「英語が苦手です」と言い訳をしてから会話をしていた私。

何度も言っていたら素晴らしい発音になっていたようで、ある日、ビデオやさんのバイト少年にげらげら笑われる。

「おいおい、ちょっと皆来てよ。この子、英語話せないって、流暢にしゃべってるんだけど!」

赤面で、ダッシュで家に帰りました。

◆エレベーターで、dogとかcatとかいきなりいわれたけど、何何??

→土砂降りで、すごいわね、という会話でした(笑)

(It's raining cats and dogs)

◆チキンウイングを頼んだら。「ほったまい」と言われる。よくわからず、いつもの「Yes!」で乗り切ろうとした私。定員さんは「No!!!!ほったまい」こんな会話の繰り返し。

→チキンの味つけはどうする?って(Hot or Mild?と聞いていたのでした)

◆サンドイッチ屋さんで、チキンサンドイッチを頼んだのに通じない。

→確かにサンドイッチという発音は難しい。けれど、サンドイッチ屋さんなんだから、迷わず「OK!」でしょ。

◆フリーダイヤルで、リスニング練習。

電話の会話は特に難しい。。。ということで、フリーダイヤルにかけては、リスニングの練習をしていました。

◆ある日ドクターが研究室にやって来る。

日本語でも難しい「装置の操作法と原理」を、私が、そのドクターに説明する担当に。勿論、英語で。

・・単語がわからない。どう説明したらいいのかわからない。が、究極困った時は意外とできるもの。しっかり理解してお礼いわれた。自分でもびっくり。

←前の物語
つづきの物語→

PODCAST

​あなたも物語を
話してみませんか?

Image by Jukka Aalho

急に旦那が死ぬことになった!その時の私の心情と行動のまとめ1(発生事実・前編)

暗い話ですいません。最初に謝っておきます。暗い話です。嫌な話です。ですが死は誰にでも訪れ、それはどのタイミングでやってくるのかわかりません。...

忘れられない授業の話(1)

概要小4の時に起こった授業の一場面の話です。自分が正しいと思ったとき、その自信を保つことの難しさと、重要さ、そして「正しい」事以外に人間はど...

~リストラの舞台裏~ 「私はこれで、部下を辞めさせました」 1

2008年秋。当時わたしは、部門のマネージャーという重責を担っていた。部門に在籍しているのは、正社員・契約社員を含めて約200名。全社員で1...

強烈なオヤジが高校も塾も通わせずに3人の息子を京都大学に放り込んだ話

学校よりもクリエイティブな1日にできるなら無理に行かなくても良い。その後、本当に学校に行かなくなり大検制度を使って京大に放り込まれた3兄弟は...

テック系ギークはデザイン女子と結婚すべき論

「40代の既婚率は20%以下です。これは問題だ。」というのが新卒で就職した大手SI屋さんの人事部長の言葉です。初めての事業報告会で、4000...

受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1

僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で...

bottom of page