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14/12/25

生きづらいと感じているすべての人に宛てるインドからの手紙

Image by Olia Gozha

私には大切な友達がいます。

みなさんにもいるでしょう、すべてをなげうってでも、助けなければならない人が。

その大切な友達が生きあぐんでいるときに、綴った手紙です。




I


インドにバラナシという町がある。

ガンガー(ガンジス河)のほとりにある、ヒンドゥー教(シヴァ派)最大の聖地で、毎年100万ともいう巡礼が、この町を目指してインド中、世界中からやってくる。

ガンガー沿いには80を越える、ガートと呼ばれる階段状の沐浴場があって、巡礼者は朝な夕なにガンガーに身を浸し、罪を清め、巡礼の喜びに打ち震える。



ダーシャシュワメート・ガートという最も賑わうガートのすぐ近くに、マニカルニカー・ガートと呼ばれる火葬場がある。


そう、ここは死者が集まる町でもあるのだ。

ここで焼かれるためにインド中、世界中から遺体が集まり、24時間365日火葬台から火が消えることはない。

死者だけでなく、不治の病に冒された死を待つだけの病人や、死期を感じた乞食が、最後の力を振り絞って、あらゆる手段を使ってこの町を目指してやってくる。

ここで焼かれ灰になって、母なるガンガーに抱かれてヒマラヤに帰るのがヒンドゥー教徒の夢なのだ。

シヴァ神の住まうという、チベットの聖山カイラスへ。



かつて日本政府が、まったくの善意からだと思うが、衛生状態を懸念してか、最新鋭の火葬台の設営を申し出たことがあるという。

呆れて言葉も出ない。

火葬場の側では、死を待つ乞食たちが、自分が死んだ時に焼いてもらうための薪代を集めるために、物乞いをし、祈りながら最期のときを待っている。

そして、彼らに施すことで、ひとつ罪滅ぼしができた、と心が軽くなる巡礼者がいる。

ここに祈りの本質がある。

薪代を集めることは、来たるべき最期の旅への支度であり、ひとつの儀式なのだ。

小銭のずっしりとした感触に、彼らは安堵し、平穏に最期のときを迎える心の準備がととのっていく。

物乞いと施しという人間臭いやりとりが、死を介することで、崇高な儀式へと昇華される。

インドの神々は、一介の乞食の今わの際さえ、あだや疎かにはなさらなかった。

たしかに薪では生焼けかもしれないが、薪で焼かれることに意味がある、否、薪でなければならないのだ。

そのプロセスに計り知れない叡智がある。

最新鋭の火葬台?死を生活から切り離し、囲い込み、追い詰めた愚かな日本人の考えそうなことである。

インド政府はおそらく、死を軽んずる傲岸で蒙昧な民族を半ば嘲笑し、半ば憤りつつ、丁重に断ったことだろう。

日本人はいつから死を、穢らわしいものとして、見て見ぬふりをするようになったのだろう。




灰を流す横では、人々は洗濯をし、子供たちが泳いでいる。

日常と非日常が隣り合っている。

否、ここでは死は生活の一部なのだ。

焼くことのできない幼児、妊婦、聖職者の遺体はそのまま流される。

何世紀も前から無数の死者を抱いて滔々と流れ続ける深い河。

ガンガーの聖なる流れの前では、人はみな平等、カーストさえも無力。

ここは神々が統べる聖なる大地インド、生と死が交わる町、バラナシ。




II


遺体を焼いた後、男性の場合、胸の骨だけ焼け残る。

なぜだと思う?


インドは今でも肉体労働中心の社会。

過酷な労働で強靭に鍛え上げられた心臓を支えるために、周りの骨が頑丈になったのだという。

これはひとりの男が、命を削って、生きるため、愛する家族を養うため、働き抜いた証だ。

ひとりの男が、紛れもなく最期まで戦い抜いた証。勲章。

名もなきひとりの男の生きざまが、その死に際し結晶化したのだ。


一方で、女性の場合、骨盤だけ焼け残る。

なぜか。


インドは多産な社会。

ひとりの女が、命を紡ぎだすために、先祖から連綿と受け継がれた血を未来へ繋ぐために、命を懸けた証。

新たな命の導き手として、この世に生をもたらした印。

女たちの、果てしなき戦いの墓標。

母が愛する息子のために、妻が愛する夫のために、泥水の中から、まるで手品のように真っ白なYシャツを洗いだすのを幾度となく見たものだ。


ひとりの人間の生きざまが、死してなお明らかになる。

子や孫は、父が、母が、祖父母が火葬台の上に残していった、愛の結晶を目の当たりにする。

親は骨となって、なお無言の愛を語り、子はそれをしかと胸に刻みまた明日からの人生を生きてゆく。

火葬台は、繰り返される命の証言台であった。

死は生を賭して人を導く人生最後の授業。

何世紀、何世代にもわたって繰り返されてきた愛の儀式。




III


インドには厳然とカーストが残っている。

日本で苗字を聞けば、武士か公家か、豪農か小作か、鍛冶か漁師か、出自が分かってしまうように、名前を聞けば出身カーストが分かってしまう。

とはいえ批判されがちなカーストであるが、その実は、カーストの中で自分の分を守っている限り、生活を保障される相互扶助システムであった。




話は逸れるが、ヒンドゥー教は牛をシヴァ神の乗り物である聖なる動物であるとして、これを殺し食すことを禁忌としている。

これは人口稠密のインドにおいては極めて理にかなっている。

牛を食べずに生かしておく方が、より多くの人間を生かすことができるのだ。

というのも一頭の牛を肉として食べてしまえばそれで終わりだが、生かしておけば、乳をとることで多くの人間に長期的に栄養を供給することができ、また牛耕に利用することで生産性が飛躍的に向上するうえ、牛糞は燃料として利用することができる。

他方、イスラム教が豚を不浄として、飼育することさえ禁じているのは、豚を飼育していると人間が豚に食い殺されてしまうからだ。

豚は牧草を消化できないため、人間と穀物において競合 関係にある(もちろん搾乳・耕作には不適)。

このように宗教には優れて合理的で科学的な側面がある。




カーストはヒンドゥー教と密接に結びついた制度である。

たしかに職業選択や婚姻にかんして自由はないが、牛の話同様、人間を生かしておくのには極めて合理的なシステムであった。

靴屋の息子は靴屋にしかなれない。しかしながら、村に一軒しかない靴屋は、他との競合の心配なく、村人全員の靴をまかない続けている限り、その一族は確かに未来永劫に亘ってその生存を保障される。はずだった。

ところが近代に入り産業革命を経て、工場による大量生産の靴が登場するにいたり、村の靴屋は職を失った。

熟練職人であった靴屋は、単純労働者として都市になだれ込む。

屋根のある仕事に就ければまだいいが、人の足元を扱ってきた靴屋が就ける仕事はなく、やむなくリキシャーワーラー(自転車の人力 車)として炎天下のなか、客を乗せて自転車を漕ぐほかない。




インドでは今でも簡単にカーストの存在を肌で感じることができる。

食堂に行くと無駄に従業員の数が多いが、まったく動いていないものもまた多い。

彼らに、フォークを持ってきてほしいとお願いしても、たとえそれが彼の目の前にあっても、絶対に持って来ず、待ってろ、と言って別の従業員に持って来させる。

なぜなら、彼は人が食べる前の食器に触れることができないのだ。

床を掃く者が食器を洗ってはいけないし、逆もまた然りなのである。

ひとりでできる仕事を10人で分担する。従って給料も10分の1になる。

これがカーストが批判される所以。




IV


インドでは異常にリキシャーワーラーの数が多い。

彼らのほとんどは田舎から出てきた出稼ぎである。

大都市に出てきてはみたものの仕事はなく、やむなくリキシャーワーラーとなる。

彼らの一日の稼ぎは数百円程度で、その半分を親方に持っていかれる。

というのも資本がないため自分のリキシャーを買うことができず、親方から借りているのだ。

数人で一台を交代で使っているワーラーも少なくない。

朝は1ルピーのチャイで済ませ、昼は食べず、夜は数十円のサモサとカレーを食べる。

そして残った何百円かをすべて田舎に仕送りしている。

インドのチャイが非常に甘いのは、その商売相手の低賃金労働者たちのカロリー需要と考えると分かりやすい。

そして夜はリキシャーの上で明かし、また同じような一 日が始まる。


それで彼らはこの上なく幸せなのである。

なぜなら彼らの稼いだお金で子供たちの腹はくちくなる、学校にも通える、嫁はきれいなサリーを買えるからだ。

自分が働いただけ家族を幸せにできるから。

自分が何をしているのか知っているから。

自分が、俺が、家族を幸せにしている。そのことを強く感じているから。


失業保険も生活保護もなくて、体だけが資本で、病気になったら、怪我したら、自分だけでなく家族も飢えることになる。

明日さえも分からない日々。

それでも誰もが生きる理由を知っている国。


ここでは生きることはとても単純で、生きることと食べることと働くことが直結している。

すべてがイコールで結ばれ、ひとつでも破綻すると生きることができない。

危うい方程式の上に、今日も何億の人間が、新しい日を待っている。




V


日本ではものごとが複雑になりすぎて、大事なことが見えない。

なんのために生きるのか、なんのために働くのか、誰も分からないまま生きている。

これだけ豊かでモノに溢れ、教育にも恵まれているのに、字さえ読めないインド人が分かっていることに人は気がつかない。

毎日太陽が昇る奇跡にも気がつかない。


なんのために働くのか。

今の世の中では、旅行に行くためとか、欲しいものを買うためとか、働く目的が余暇の部分にシフトしてしまっている。花金の飲み会を励みに、一週間を耐え忍んでいる。

働くことと生きることがどう結び付くのか、うまく想像できない人間があまりにも増えすぎた。

だから大事なことが見えにくくなっているのかもしれない。

働くことの本質は、食べること、そして生きることにあったはずで、それがずれていないインドでは誰もが大切なことを見失うことはない。


インドでは貧しいリキシャーワーラーもスラムの住人も、アンタッチャブルと呼ばれる社会の最底辺に置かれる被差別者たちも、誰ひとり死ぬことなど考えない。

考えたこともない。

誰もが生きようとしている。

今日を生き抜こうともがいている。

不確定な日々を懸命に、全力で生きている。

それなのに屋根もあって明日の糧にも困ってない日本人がみな死にたがる。

どうしてだろう。


リキシャーワーラーもスラムの住民もみんないい笑顔をする。

なぜなら生きていて、自分が家族を養っていて、自分が幸せだと知っているから。

一切手抜きせず丁寧に生きてきたから。

それなのに19時に地下鉄の階段を上がってくる日本人はみな下を向いて暗い顔をしている。

どうしてだろう。



VI


今やテレビや映画では、虚構の死が嫌というほど溢れている。

他方、本物であればあるほど、死は生活の領域から遠ざけられ、忌み嫌われている。

かつて生活の一部であった死は、病院の真っ白なシーツの上か、かび臭い大学の研究室に追いやられてしまった。

親族の最期を家の畳の上で看取り、家族みんなで遺体を拭いて、死装束を着せ、葬る。

親類、近所のどこかしらで死は繰り返され、死は誕生と同じくらい身近で、生活に根差したものであった。

こうして、日常のなかで死への感受性は育まれていったはずだ。

感じることですくすくと育つ人間の本性であって、学校で教わることではない。

現に、我が国の最高学府でも教えてくれなかった。

鳴り物入りで始まった死生学の分野横断講義は人間疎外的で寒かった。

人は自分や大切な人の老い衰えや忍び寄る死の影にはっとしてはじめて、縋るような思いで四国を回り始めるのだ。

死生学って一体誰のためのものなのだろう?


現代の歪んだ死生観こそが、現代への切符の代償だったのだろうか。


ゴールが見えないとペース配分が決まらないように、死が見えないから、生が決まらない。

死が抜け落ちてるから、生が宙づりになってしまっている。

死に方が決まらないのに、生き方が求まるはずがない。

どんな死に顔で死ぬか決めれば、どんな面下げて生きるか自ずと決まる。

死が隣り合わせのインドでは、生がありありと浮かび上がっているようだった。





VII


19歳でインドに流れ着いて、いろんなものを見た。

まだまだ感受性が瑞々しくて、感性も研ぎ澄まされていて、多感な時期だったこともあって、とてつもない衝撃を受けた。

旅は、シルクロード横断後、42か国目を数え、大概のことには肝が据わっていたはずだが、それを凌駕するカルチャーショックの洗礼だった。



人肉の焼ける臭いが風にのって漂ってくる夕暮れのガンガーのほとりで、あるいは真っ黒に焼けた痩せて骨ばったワーラーの、運命を背負い込んだ因果な背中を眺めながら、生きるってこういうことなのか、と漠然と掴めた気がした。


と、同時に、人生の方角を見失った。


日本であくせく働くことがばからしくなった。

19時に地下鉄の階段を上がってくるひとりになりたくなかった。

不安定な生活でも、自分が何をしているか知っていて、どうしてそれをしているのかもちゃんと知っていたかった。

思考をなくしたボロ雑巾にはなりたくなかった。

リキシャーワーラーみたいな笑顔で笑っていたかった。

日本の大多数のように大事なものを見失いたくなかった。

日本の社会で、それを見失わずに正気を保って生きていける自信もなかった。

この感覚を、日本に溶け込むために、飼いならしてしまいたくなかった。

これが日本を出た理由のひとつ。

本当は直接話すべきことでこれまで言わなかったけど、ひょっとするともう会うこともないかもしれないから。


井の中の蛙の幸せを羨むような、ナンセンスな話であることは、よく分かっている。




VIII


インドは恐ろしいほど生きることに執着した大地だと感じる。

生きることに呪われた大地。


生きるために体を売った結果養えない子供を産んでしまった母親は、その子の眼を刳り抜く。

あるいは、脚を切り落とす。

なぜなら、脚のない子供を抱いて座っていればより多く施しを受けることができるから。

その子供も眼がないことで、ひとりでも施しを受けて生きていくことができるから。

すべては生きるために。

生と光を天秤にかける。

それがインド。


路上にはこうした子供を抱いて座って物乞いしている母親が多い。

しかし、実は本当の母子でない場合も多々ある。

インドにはレンタルチャイルドという闇ビジネスがある。

こうした障害児や攫ってきた子供を、あまり施しを受けられない物乞いの女性に貸し出すのだ。

そして、彼女らの受けた施しの一部を賃料として巻き上げる。

貧困商売に他ならない。

子供がいる母親は、子供をブローカーに貸し出すことで、収入を得ることができる。

当然、障害児は相場もいい。

これが需要と供給の法則。



インドは、人はどうしたって、生きる気力さえ失わなければ生きていけることを、尊い血を流して教えてくれた。


これらはまだまだインドで見たものの一部に過ぎない。




IIX


今アルジェリアを走ってる。

今いる町は気温は45度。

今回もっとも暑い地点。

これまでになく親切な国で、ただでいいホテルが泊めてくれたり、食堂がただで食べさせてくれたり、果ては人から施しを受けたりと、お金が減らないどころか、増えているという不思議な現象が起きている。

さらに数日前から警察のエスコートを受けながら走行していて、宿泊費、食費はすべて警察が出してくれてる。


写真はコンスタンティーヌの大峡谷とそこにかかる橋。

アルジェリアは美しい地中海のビーチリゾート、フレンチコロニアルの街並み、壮麗な古代ローマの遺跡、広漠なサハラと、数々の魅力を湛えた非常に美しい国。

そして信じられないほどのホスピタリティ。

これまで旅してきたどのイスラム諸国にも比して敬虔で、親切。

高度な車社会、ネット社会ではあるけれど、心は純真。




IX


なぜ旅をするのか、よく聞かれる。

これを分かるように説明するのは非常に難しい。


では、質問が変わって、なぜ自転車なのか。

これもまた難しい。

自転車が好きなわけでもないし、苦しいのが好きなわけでもない。

ひとつ言えるのは、恥ずかしいから。

旅ができるご身分であることが恥ずかしくて、申し訳なくて、だからせめて、自分の足で、自力で、彼らの世界の隅にこそっと入れてもらいたい。

ちょうど、山に行くときのミニマム・インパクトみたいに。

それなのに自分より貧しい人たちから施しや親切を受けたりして、穴があったら入りたいほど恥ずかしい。


だからただ楽で楽しいだけなのも申し訳なくて許せない。

どうしても何かそれに比する苦しみが伴わないと、落ち着かない。

結果、漕ぐ。

最近は、旅を点ではなくて線に広げたいといういい言い訳を思いついて、重宝している。


旅に出たきっかけは。

中学と高校の温度差。標高差。

社会の底辺のどぶねずみが上流階級に入ってしまったときのあの違和感。

生まれたときから、一寸の疑いもなく、陽の当たるところだけを歩き続けていく人々の中に入ったとき、ここだけは違う、と感じた。

知らなければよかった世界。

交わるべきでなかった人種。

知りすぎて、同じ気持ちで元の領分に戻れなくなった。

それ以来、心の居場所がないから流れ続けている。

というと聞こえが悪いが、アネモネみたいなんです、というと詩的だ。



旅が好きかと聞かれれば、答えは、嫌いではない。


他よりましだから、やってる。

他にやりたいことが分からないから、やってる。


旅のいいところは、とかく忘れがちな生きている実感をし続けていられる。

毎日違う天井を見上げて目を覚ます。

ときには星空を眺めながら眠りにつく日もある。

毎日が新しい。

とくに自転車は事故の危険が大きく、眠ろうと寝袋に身を横たえたとき、きょうも無事に生き抜いたことを実感する。

路上には動物の轢死骸が非常に多く、いつも死がよぎる。

同じようなことをこなすルーティンな毎日からは得られない感覚がここにはあった。

これを僕は、生のリアリティと呼びたい。

日本にいると自分が生きている実感、生のリアリティを感じることは少ない。

チベットを走ったのも、被災地に行ったのも、極限に片足を突っ込んで生のリアリティを取り戻すことが根底にあった。

僕の人生の原則、主題はすべてここに収斂すると言ってもいい。




X


何して生きていこうか。


生きることと食べることと働くことをイコールで結びたい。

チャリ旅と同じだけの生のリアリティを通奏低音のように感じ続けながら、惰性に流されたルーティンでない毎日を、手抜きせずに生きていきたい。


これは理想で、たぶん日本という温室育ちの僕には、できない。


ちょうど、僕があのどこまでも澄み切った心をもったムスリムにはなれないように。



幸せなことに、僕は、自分が幸せだと、胸を張って言える。

自分がしてきたことも、していることも、これからしていくことも、全部知っているから。

どうしてそれをしてきたのか、しているのか、していくのか、全部自分の言葉で説明できるから。

僕にはそれで十分。

満ち足りる、という美しい響きを忘れてしまった現代日本の尺度に照らせば、見当違いの幸せなのだろうけど。

一体みんな、あと何と何が揃えば、満ち足りるのだろう。




XI


もちろんこういう危機意識からすっかり目をそむけても幸せに生きていけるだろうし、むしろ日本で生きるにはこうした問題から積極的に目を逸らしていかないと、正気を保てないかもしれない。

だいたい、これをきれいごとだ、と唾棄してくれる人たちがいるから、僕みたいなアウトローが生きていけるのだから、感謝しなければならない。

ただ僕の人生がそっち側になかった、というだけの話なのかもしれない。



以上、僕はこういうことを考えながら、こういう原風景を抱きながら、生きています。

質問の答えにはなっていないですね。すみません。

批判や異論は多々あるでしょうが、参考になればと思い書きました。コメント一切不要です。

一か月後にはスイスに戻りはたらきます。

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