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14/12/16

『ひとを応援していたらいつしか応援されていた』物流応援され団長 誕生秘話

Image by Olia Gozha

●第1話 誕生


2000年5月1日、小牧にあるの住宅の一室にファックス兼用の電話機と

パソコンとが持ち込まれた。その後通信回線の工事が始まり、わりと早く

その工事は終った。工事業者が工事の明細を置いていった。

その明細に記載された宛名は、「有限会社ヤマネット」

物流応援団の誕生である。


時は、1999年12月、M運送の会議室では役員会が行なわれたいた。

常務取締役営業本部長の山田は、その席で突如辞意を社長以下役員に伝えた。

一瞬騒然とし、その後、静まり返り、専務が社長に問う、


専務「社長、どうするんですか!?」

社長「(窓の外を見ながら)それで、ええんじゃないか」

山田「わがまま言ってすみません!有り難うございます!」


社長と山田の間に交わされた、この短い会話の中には、二人にしか分からない

16年間の様々な思いが、交錯していた。


その後、約3ヶ月間、業務引継ぎ、内外沢山の方々へのご挨拶を滞りなく

完了させ2000年3月末日、高校を卒業してから16年間のサラリーマン生活に

幕を下ろした。 


退職した翌日、気が付けば、

就職活動は勿論、次の仕事の準備を何もしていないことに気付づく。

まぁ 何とかなるさ と、1ヶ月間で、会社設立、利用運送認可等の

手続きを終えました。 

さぁ会社は出来た! 社長になった! 利用運送の許可もおりた!

自宅の一室とはいえ、小さな事務所もできた!


ヨーシ!やるぞぉ~!!

とはいえ、仕事は??? ない・・;

何するの??? 決めてない・・;

お金は??? ない・・;

無い無い尽くしで始まった、ヤマネットでした^^;


しかし!俺には元氣と明るさ、そして、沢山の友達がいる!

これがあれば大丈夫!

何とも のんきというか脳天気というか・・・


こんな、ヤマネットの創業だったんです。

この先数日間に渡り自己開示しながら、今日までを振り返って参ります。

そこから、研修で、私が熱くお伝えしていることが、実体験に基づいた

カリキュラムであることが、少しでもご理解頂ければ、幸いかと存じます。



●第2話 社長になるということ    


私はM運輸に在職中から社長になりたい と思っていた。

16年仕えてきた社長は、私の憧れであり、目標でしたから、

いつか俺も ああなる! という思いを抱いていました。


しかし、よくよく考えてみれば、社長になるのは簡単。

当時、有限会社を設立する為に必要な資本金は下限が300万円と

決められておりました。

2000年4月某日、私は会社設立準備の為に、某信用金庫に

なけなしの300万円を資本金として、預けに行った。

お金を預け、書類に記入し、待っていると、奥から支店長さんが出てきた。

そして、「社長様、奥へどうぞ」と奥の応接へ通された。


M運輸で、一所懸命働いて、15年で常務になった。

しかし、資本金を預けて書類を書いたら、5分程で社長になった・・


だから、長年思い抱いていた、「社長になる!」という思いは達成したものの

要はどんな経営をするか、どんな会社を創っていくかが重要であり、

ただ社長になる ことは、誰にでも出来る単なる手続き業務であることが

よくよくわかりました。


しかし、「社長」という言葉には魔力があり、意思の弱い者や、お調子者、

ええカッコしぃには、特に、周りから「社長」「社長」「社長」・・・・と

連発されチヤホヤされると、勘違いをする、実力以上のことをしたがる、

分不相応な振る舞いをしだす・・・


「社長様、奥へどうぞ」


何とも耳障りのいい響きではあーりませんか!

お調子者、ええカッコしぃの代表選手の私の勘違いが、ここから始まる。

そして、そのお調子者、ええカッコしいぃが、後々の自分自身を、

かなり長きにわたり、苦しめることになる・・・・



●第3話 勘違い    


全国に運送会社は五万とある、トラックも100万台以上あるわけだから

自分でトラックを持つ必要はない! という考えは漠然としてあった。

ならば、まずは運送会社さんの仲間を沢山創ろう!ということで、

運送屋さんまわりを始めた。以前から知っていたところへは、


「独立しましたぁ、利用運送の免許とりましたぁ」

「空いてる車あったら教えてくださ~い、仕事見つけてきま~す」

「逆に何か仕事あったらくださ~い」 と。


いわゆる求車求貨の アナログ営業ですね。

そしたら、運送の仕事もさることながら、

「ウチの営業の手伝いをしてくれ!」「乗務員指導してくれ!」

という依頼を多く頂き、気が付けば、運送会社5社の社外幹部契約を頂き、

活動が始まっていました。


前職の給与をはるかに上回る収入が毎月安定的に入ってくる状態になるのに、

独立開業から3ヶ月とかからなかった。


「けっこう、ちょろいな・・・・」


契約した各社へ毎日通い、時に幹部会議で意見を乞われ、時に指導し、

時に顧客先へ同行し、提案営業のお手伝いをする、そして、それらほぼ

全部が、そこそこ通用するし、評価を頂ける、チヤホヤもされる。


「かなり、いけるな・・・・」


それら各社のお手伝いの傍ら、利用運送の営業活動も行なう中で、

初の大仕事の依頼が入り、とにかく全て受けた。

浜松~岐阜間の1日2往復大型10台×20日間(1車5万円)という業務。

スタートまで1週間あったので、運良く車輌手配は全てついた。

後は毎日単調な仕事の繰り返し、ウチは窓口で、荷主様から頂いた運賃から

手数料を頂き、その後協力業者各社様にお支払いをするのみ。


20日間の業務は無事終え、荷主様からのお支払いも締め後20日で頂けた。

10台×20日×5万円=1000万円・・;


会社の口座とはいえ、社員は私一人、そこへボコッと1000万円もの大金が

一度に入ってきた。これは勿論自分のお金ではない。まして、そのお金の

ほとんどは約1ヵ月後に、各協力会社さんへ支払われるものと分かっては

いるものの、現実に自分(自社)の通帳の残高が1000万円となっている事実。  


この時、私はこう思った「自分のお金と会社のお金を公私混同していくダメな

経営者が世の中にけっこういるのは、こういうことなんや、気をつけなアカン」と。


でも、どこかで、「会社経営って、思ったより大したことないなぁ・・・」と。

5分で社長になり、各社からポンポンと契約頂き、安定収入が入り、

行く先々でチヤホヤされ、時に多額が一度に入金される・・・・


そんな環境の中、経営をなめている自分に、その時は自分自身気づいていなかった。



●第4話 多角経営拡大路線    


創業時、自宅の一室を事務所に活動をしていたが、

その頃未だ子供達も小さく、部屋(事務所)に入ってきては甘える、騒ぐ、

私も子供が可愛いのでかまう・・・ といった調子で、

仕事が捗らなかったこともあり、半年後に自宅を出て、小牧市内に事務所を

借り事務員さんも雇用した。



<閑話休題>

『その時1000部作成した、営業案内パンフレットが今手元に10部程残っている、

A4三つ折の小さなパンフだが、正に私の創業の精神。

そこには、「既成概念の打破」「競争から共生」の念いが描かれている。

その時の念いが、今も脈々と流れ、経営理念へと繋がり、私自身の

生き方へと繋がっている。

この創業の精神が、10年の間に起きた様々な問題、障害を何とか乗り越える礎に

なっていたように思う』



その後、更に動きは活発になり、事業の多角化、営業所の設置、増員と勢いを

つけていく。 

●食材の宅配事業(全国の産地から生鮮産品を仕入れ地元で販売)

○中古トラック買取販売(これは現在も継続)

●ドラックストア向け配送センター開設(豊山物流センター)

●自動車回送陸送事業開始

●ドラックストア向け配送センターその2(小牧物流センター開設・)

●中古トラック簡易整備センター(東海車輌センター開設)

●中古トラック簡易整備センターその2(東北車輌センター開設・仙台)

●遊戯機器アッセンブリー工場開設


上記事業を4年の間に立ち上げる。

こうなると、もう何屋さんか分からない。

イケイケドンドンもう誰にも止められない状態。


東北(仙台)での営業所を含め5拠点で、自社雇用のスタッフは

パートアルバイトさん含め15名、アッセンブリー工場では、

人材派遣会社からピーク時は、40名程のスタッフが稼働していたので、

50名以上の規模に拡大(膨張?)していた。


私の業務は多忙を極めた。

急成長(膨張?)しているベンチャー企業の青年実業家。

その勢いに自分自身が酔いしれていた。

この後に次々と起こる出来事のことなど知る由もなく・・・



●第5話 バブル崩壊  


愛知県に本部を置く M運輸、県外初の事業所がオープンした。

1994年、静岡県浜松営業所、初代所長・私(山田)が就任。

そこから退職までの6年間、部長~静岡支店長~営業本部長~常務取締役と、

トラック2台から始まった浜松事業所も、

浜松第2、焼津、吉田、富士、沼津と静岡県全域に広がる。


スタッフ170名、売上10億。


飛ぶ鳥を落す勢いで、押しも押されぬ出世頭・・・・

今思えば、この頃から、私の勘違いは始まっており、

ヤマネット創業後の思考、行動パターン、出来事のシナリオは、

このころに既にほぼ完成されていたのでしょう。


「俺は出来る」「負けない」という強い気持ちは大事でしょう。

しかし、私の場合は、それに加え「どんなもんだい!」という驕り、

そして、最大は、周りの人達に支えられているという謙虚さ、

感謝の気持ちが欠けていたのでしょう。


『運営と経営は違う』


そのことを思い知らされる出来事が創業から4年、ついに起き始める。

急成長しているベンチャー企業の青年実業家。

誰からも順風満帆であるかにみえた。

しかし、私の胸中はそうではなかった。

何かがおかしい・・・ それが何だか分からない・・・

得体の知れない不安、恐れ、空虚感、何かが足りない・・・

それらの思いが形となって現れ始めることになる。


2004年11月、小牧物流センター突然の業務停止勧告、

東北車輌センターにて在庫車輌盗難事件、その二つの出来事から端を発し、

怒涛の如く問題が噴出する。


トラブルが止まない、お客様との交渉がうまくいかない、

志気が下がる、社風が乱れる・・・・

止まらない、止めれない、正にバブルの崩壊の如く、

坂道を転げ落ちるような勢いで、

業績が悪化していく、資金が底をつきはじめる、

もうダメか・・・ これで終わりか・・・

持ち合わせている手段が通用しない、得意技が効かない、

分からない、どうしていいのか分からない・・・・


これまで経験体験したことのない壮絶な3年間が幕を開ける。



●第6話 屈辱、そして決心  

2004年11月に連続して発生した事件(業務停止勧告、盗難事件)

から3ヵ月後、東北車輌センターの撤退を決め、その準備に取り掛かった。

社員さんの雇用はなんとか守りたいと思い、現地で懇意になった同業他社さんへ、

業務全部と社員さんをそのまま引き継いで頂くよう話しを進め、

お客様、同業他社さんのと合意に至った。

さぁいよいよ社員さん達への通達とお願いである。

8名の方々との個人面談で、事情を話し、お願いし、頭を下げ詫びた。

7名の方々は、快諾して頂き、逆に

「そんな謝らないで下さい。大変お世話になりました」と温かいお言葉を頂いた。

が、1名(所長役として頑張って頂いていた方)の方からは、

長時間にわたり罵声を浴びせられた。


悔しさが込み上げ、体がピクピク震えたが、ただただ頭を下げ続けた。

屈辱だった、しかし、自分が蒔いた種。

結局、その1名の方以外は、とりあえず全員次の会社さんへの転籍雇用は成立した。

仙台空港からフライトした後、眼下に拡がる仙台の町を見ながら、

悔しいやら、申し訳ないやら、これからの不安やらで、涙が止まらなかった。


しかし、これは序章に過ぎない、これから、混乱した現場、悪化した

業績を建て直す為には、並大抵のことではないことは、大方予想がついた。

しかし、どうやって建て直していくかの具体策は未だなかった。

悶々、混沌とした日がつづいていた。


そんなある日、一つの転機がおとずれた。

久しぶりにばったり会った先輩に、創業から今日までの話しをしたら、

「ヤマちゃんは独特の個性と我流で仕事をしてきて、これまでたまたま

上手くやれてきたけど、やっぱりちゃんと勉強しなあかんと思うよ。

そうしたら、ヤマネットは立ち直ると思うよ。一緒に経営の勉強をしようよ」

という誘いを受けた。


藁をも縋る思いの私にとって「ヤマネットが立ち直る」の言葉は、

私を即、動かした。


翌月から、研修や経営者の学校に通い始め、勿論実務を行ないながら、

猛勉強が始まった。

心理学、リーダーシップ、自社分析、経営計画書作成、財務・・・・

これまでの自分の経営は本来のやり方の真逆のやり方をしていた!

そのことに気付くまでにそうは時間を要しなかった。


経営資源の少ない中小零細は特に、全てに及び“集中化”が必要である。

要は「ターゲットの絞込み」である。自分自社の強みに集中し、勝負する。


決心した。


事業所も業務も集中させよう!

かっこ悪いけど、不採算の事業所を全部閉めよう、皆に頭をさげよう!

そして、自分の力不足を開示し、みんなの力を貸してもらうよう、お願いしよう!

半年、1年と時間がかかるかもしれないが、とにかくそうしよう! と、


決心した。


しかし、現実はそんなに甘くはなかった。

それから事態が収束するまでに、3年の時間を要した。

勉強、実践、、勉強、実践、・・・・


3年間の猛烈な戦いが始まった。




●第7話 どん底

猛烈な戦いが始まってまもなく。

一つ目の苦しい障害が襲い掛かってきた。

元々、慢性的な腰痛持ちではあったのだが・・・

とある朝、目が覚め、起き上がろうとした時、腰に激痛が走った。

起き上がれない。


家の中を這って移動するという体になってしまう。

杖をつき嫁に抱きかかえられ行った病院で診断されたのは、椎間板ヘルニア。


2週間程の間、整体や病院へ行くもなかなかよくならず、自宅の布団の中から、

電話やパソコンで仕事の指示をする、自分で靴下を履くことも洗面所で顔を洗う

こともできず、嫁や娘に手を貸してもらう有様。

こんな時に限って何故!このままでは、本当に会社が潰れてしまう。


考えた末に手術を決意する。

1時間ほどの手術の後、麻酔が効いていたようで、気が付くと

3時間程時間が経過していた。

恐る恐るベットから起き上がろうとすると、3時間前抱きかかえられて

病院に来たのが嘘の様に、痛みがとれていた。

手術は成功したものの、ドクター曰く「無理は禁物」。

て、云われても、無理せなしゃーないやん!猛烈な戦いは始まったばかり。

約3週間のブランクを埋めなければと、翌日から出社、仕事に就いた。

決めたとおり、事業所の閉鎖を一つ一つ着手していった。


次に襲い掛かってきた障害は、お金 であります。


事業所が減る~売上が減る であります。

それと同時に人を切っていくことは簡単には出来ません。

すると、当然の如く、固定費過多になってまいります。

その時のお金のなくなり方は、まるで手裏剣の如くでありました。

口座からどんどんお金が飛ぶように出て行くという印象です。


本当に恐くなりました。


体が壊れ、お金がなくなり、もう銀行も相手にしてくれない、

社内では幹部達の様子も少しずつ冷めた感じになってきている、

誰か助けてくれぇ、ダメだ全て自分が蒔いた種だ、

これでもう本当に終りだ、万策尽きた・・・

破産して、一から(否、ゼロから、否、マイナスから)やり直そうか、

家を手放し、アパートへ移ろうと、嫁と子供にいつ話そうか、いつ話そうか


と、毎日考えるのだが、帰宅して健気で罪の無い、子供の顔を見ると

言い出せない。


営業で静岡からの帰り道、東名高速下り線。

あらゆることが頭の中を巡る、答はない、しんどい、辛い、苦しい・・・


楽になりたい。

牧の原の長い下り坂のカーブ、アクセルを踏み込む、このままあのガードレーへ、

と、一瞬頭をよぎった。 子供の顔が浮ぶ、アカン!! 

タイヤから煙を出しながら、車はドリフトし、走行車線に戻った。

ルームミラーで自分の顔を見た、青い顔をして目だけが赤く充血していた。

夜遅く、家に戻ると、何も知らずスヤスヤ眠る子供達の顔を見る、

逃げたらあかん、逃げたらアカンのや。何が何でも建て直す!

でけへん思たら、でけへん のや。


その後、驚くような最大の転機が訪れたのは、それから数日後のことだった。



●第8話 報恩


「でけへん思たら、でけへんのや!」

そう自分に言い聞かせるものの、一体どないしたらええねん?

相変わらず具体策が見つからず、悶々とする日が続いていた。

ついには、社員さんへの次のお給料が、どうしても都合がつかないところまで、

状況は悪化していた。


そんな、ある日。

親しくしている友人が訪ねてきた。

彼には少し前に、だいたいの話は聴いてもらっていた。


友人:「その後は、どう?」

山田:「かなり、ヤバイ・・・」

友人:「ヤマちゃん、心配しなくていいよ、俺がついてるから」

山田:「・・・・・」

友人:「ヤマちゃんの銀行口座教えて」

山田:「!?」

友人:「今度は俺がヤマちゃんを助ける番だから」


翌日、私の銀行口座に、とてつもない額のお金が振り込まれていた。

友人にすぐ電話をした。


友人:「とにかく、使ってよ。返すのはいつでもいいから、こんなことしか

    できないけど、とにかく頑張って!」

山田:「・・・・・・」声にならず、私は電話を持ったまま泣き崩れた。


そのまた、数日後・・・

可愛がってもらっている先輩が訪ねてきてくれた。


「ついておいで」と、某銀行に連れて行かれた。

その先輩が経営する会社のメインバンクのようで、支店長室に通された。

先輩が支店長に話し出した、

「支店長、彼は俺の大事な友達や、もの凄い頑張り屋で、

一所懸命働きよるけど、元気良すぎてアレコレ事業に手を出しすぎて、

今、ちょっとしんどい状態になってる。俺に免じて

何も言わんと○○○○万円貸したって下さい」と、横で頭を下げだした。

私も、わけも分からないまま隣で一緒に頭を下げていた。

唐突な話に支店長も驚いた様子で、とにかく詳しく話しを聴かせて下さい

ということになり、説明し、その日は帰った。

とはいえ、初めて会った会社で、それも惨憺たる内容の会社に

融資など簡単に出来るわけが無い。


数日後、その銀行の担当の方が来社され、見せるのも恥ずかしい内容の

ウチの決算書の写しを持っていかれた。


その数日後、融資が決まったと、電話が入った・・・ あり得ない話しだった。

(おそらくあの後も先輩は引き続き動いてくれたに違いない)

涙しながら、先輩に電話したことは言うまでもない。


「お互い様やがなぁ」と、先輩は言った。


私は、この二つの出来事を思い出すと、今でも涙が出てくる。

今、こうしてパソコンのキーを叩いていても熱いものが込み上げてくる。

この人達は、私の、そして、ヤマネットの、正しく命の恩人なのです。


一人目の友人が言った「今度は俺がヤマちゃんを助ける番」

先輩が言った「お互い様」


その言葉の意味は、今もよく分からない。

私の方からは助けた覚えは本当にない。

しかし、知り合ってから今日まで、誠実に正直に一所懸命付き合って

きたことだけは自信を持っていえるし。

この友人、先輩以外にも、諸々を沢山の方々に助けに助けてもらった。

それらは全て奇跡のような出来事でした。


それからの私は奮起した、炎のように熱き思いで働いた。

そして、これまでとの決定的な違いは、熱き思いの中にある根本である。

「もう、ヤマネットは俺の会社じゃない。事実、会社を営むお金自体が、

俺のものなど、もう無い、全ては人の助けによって注入された血液(お金)が、

この会社を生かしてくれている。だから俺は、俺の為でなく、周りを喜ばせる為、

周りを元氣にさせる為に働かなアカンのや!この会社はみんなのもんや、

俺は、たまたまその代表なだけや。」


この時の念い(おもい)が、現在のヤマネットの経営理念へと繋がっている。


『我々は元氣と安心をお届けする物流応援団です』


あとは、やるのみ!


頂いた恩への報いは、事業を建て直し、立派な会社にする以外にない!

全てが好転したかに思えた。


しかし、試練は未だ終わってはいなかった。 

約2年間に及ぶ、混沌とした環境の中で、社員の多くが心を荒廃させて

しまっていたのである。



●第9話 再創業  


奇跡の生還から約1年半、遮二無二働き、勉強したのは言うまでもない。

助けて頂き、資金も投入し、予定していた事業所の閉鎖もほぼ全て完了した。

(2年間で4つの事業所を閉鎖した。開設の何倍ものエネルギーが要った)


一つの敷地に二つの事業部という体制となり、全員で一致団結して働ける

環境は整ったはずである。

しかし、うまくいかない。

約2年間の混乱、混沌とした環境の中にいた社員の多くが心を荒廃させてしまっていた。 


愚痴、陰口、不平不満・・・・


みんなの気持ちが一つにならない。

何度も何度も話し合いの場を持つが、気持ちが離れていく。


社風がどんどん悪くなっていく。

長い間、目先の仕事や資金繰りに翻弄され、スタッフへの思いやり不足、

それと何よりも人材育成を全く怠ってきたツケである。自業自得である。


それから、約1年半、無断欠勤や打ち合わせ中社員が逆ギレなんてことは

序の口で、幹部の不正会計、陰湿ないじめ・・・・・・

悶々とした日々が続く中、社員、幹部が一人、二人と会社を去っていく。


疲れてきた、いつまでこんなことが続くのか・・・

ついには、長年連れ添ってきた番頭幹部から、

「所詮アナタはこの程度の人だったんですよね」

と、捨て台詞をはかれた。

屈辱だった。 悔しかった。 しかし、その通りだと思った。

全ては社長である自分の責任である。

その幹部の退職が決まり、彼が受けもっていた事業部も手放すことを決めた。

全員が辞めていくかもしれん、一人になるかもしれん・・・・


2008年4月1日、朝。


ヤマネットでは3人で朝礼が行なわれていた。

私の前には、二人のスタッフが立っていた。


山田:「今日を再創業の日としたい、3人になったけど、ついてきてほしい」

スタッフ:「元々は社長一人始めた会社じゃないですか^^ 3人で頑張りましょう!」


熱いものが込み上げてきた。

いける!これで いける!



●第10話(最終話) 競争から共生へ


だから私にとって、共に働いてくれる2人の女性はスタッフでありながら、

恩人なんです。

だから、お婆ちゃんになった時、「ヤマネットで働けて本当によかった」と、

心から言って頂けるよう、何が何でも立派な会社にしなければなりません。


「恩人というわりには厳しいですよねぇ」と声が聴こえてきそうだが、

それはそれ、仕事は仕事^^


2008年4月、ヤマネットは、3人で再創業した。 

気持ちが軽かった。

全てに解き放たれた気分だった。

規模は小さくなったが、全然恥ずかしくなかった。

そんなことはどっちでもよかった。

もう迷いはない。


苦しみながら、学び続けた四年の間に決めていたことがあった。

中小企業の活性化を目的としたセミナーや研修に通いながら、

考えはじめていたことがあった。


「こういう研修を物流業界で自分が主催すれば、物流業界が元氣になる!」

研修へ参加し、講師の方を見ながら、それはいつしか“講師から学ぶ”ではなく、

“講師を学ぶ”へ変わっていった。


利用運送と車輌売買の営業活動をしながら、実践勉強会(研修)の、

カリキュラム創りが始まった。


2009年4月、念願の実践勉強会(現・実践研修)が開始した。

外部研修で学んだことと、創業から今日までに実体験として学んだこと

全てがカリキュラムに生かされています。

だから、この実践研修は私そのものなんです。

私のビジョンは、物流業界の一人でも多くの人が、ヤマネットの実践研修に

参加をされ、成果の出る活発な行動が習慣化されること、そして、ご縁ある方々が

活発に交流し、来る人みんなが元氣になる“物流応援センター”を創ることです。

それは、正しく、創業の精神「競争から共生へ」が、形となる日です。


現在物流応援団4名。皆でビジョン達成の日に向け元氣に歩んで参ります。


この連載も最終回。

最後に、先日とあるコラムに掲載された文を引用させてもらう。


私(山田)の10年と重ねるのは、あまりにもおこがましい文ですが、あえて・・・


~アパルトヘイト(人種隔離政策)の中、南アフリカで初めての黒人大統領となった

ネルソン・マンデラ氏が、27年間の獄中生活の中で、自分を支えた詩の一部である。

『私は我が運命の支配者、我が魂の指揮官なのだ』~


念い(おもい)は必ず叶う。全ては自分が源なのである。


物流応援団長・山田 押忍! 


【完】


<おわりに・・・>

シリーズ物流応援団団長、全10回、ご講読頂き、大変有り難うございました。

自己開示をしながらも、ドラマチックに構成しようと、少々デフォルメしたり、

表現がカッコよすぎたり、あまりにもドロドロした箇所(放送禁止用語?)は

外したりしました。ご容赦ください。


10周年を記念し、軽い気持ちで企画した連載でしたが、

けっこう時間とエネルギーを要し、勉強になりました。

何よりも10年の節目に自分と自社を振り返ることで、

お世話になった皆様への感謝の気持ちが益々膨らんできました。

そして、これまでに皆様から頂いたご恩は、

一生かかっても、とても返せる量ではないことが、よく分かりました。

借金は決して踏み倒してはいけませんが、

頂いた御恩は、どうも一生返しきれそうにありません。

踏み倒して死んでいくことになりそうですが、残された人達が大変なので、

出来るだけ元金を減らすよう頑張ります^^

これから、もっともっと皆さんに元氣と安心をお届けできる物流応援団に

なりますよう精進し続けます。

今後共、末永く何卒よろしくお願い申し上げます。

ありがとうございました、ありがとうございました。


今日も一日良い日になります。


物流応援され団長・山田 押忍!



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