ついに迎えました、最終学年。
一番激動で、一番濃密で、一番楽しかった一年間。
ではでは、大学4年生の時の統合失調症患者(後の)を、ごらんください~♪
大学四年生
・上野俊哉との出会い
・恩師・天野先生の励みと叱責と優しさ
・救急車から救急車
・奇声から帰省。規制通り、卒論制作へ。
・大学生活で一番楽しかった四〇日間
・卒業と3・11~もれなく発症~
・上野俊哉との出会い
「メディア文化論」と言う授業を、大学四年生の時に、履修した。
先生が開始ベルの一〇分経っても、先生が来ないので、どうしたのかな?と思ったら、突然、教室の扉が開いた。
自分は、目が見開いた。
台車に、ターンテーブル、スピーカー、ウーハ(で、正しいの?)を持ってきたのだ。
「一体何が行われるんだ?」
と、どよめいていると、
「俺、九〇分喋るの面倒だから、半分、音楽流すね」
と、言いながら、四十五分間、DJを始めた。「ミュオ~ン」みたいな、良く分からない、とにかく聴いた事のない音楽で、「何なんだ?この人?!」と、思っていた。
「何なんだ、この人?!」の人こそ、自分の恩師である、上野俊哉氏である。
もともと、「和光大学総合文化学科」と言うのは、広く浅く、いろんな学問を学ぶ。という変わった学部で、先生たちがやりたい事をやりたいようにするクレイジーな学部である。
そんなクレイジーな学部を象徴する、「THE・和光大学」と言っていいのが、先の上野先生だ。
まず、授業の進め方からクレイジーだった。どんなシラバス(講義要目)を読んでも、上野氏のシラバスに、「出席を取る」という事は明記されていない。
「2800文字のレポート一本勝負」
それが一貫されていた。じゃあ、一回も授業に参加しなくても、レポートさえ書けばいいのか?答えはYESだ。しかし、「授業で取り扱ったレギュレーションを逸脱したレポートは認めない」とのことだ。
うまくできている。出席はとらないが、授業に参加しないと、認めてもらえるレポートが書けない。
中でも人気だった講義が、「現代文化批評3・4」だった。
一年の時は、「鋼の錬金術師」、二年生の時は、「スカイ・クロラ」、「精霊の守り人シリーズ」、と、アニメ、漫画、小説、という、今で言う、クールジャパンを教えてくれる授業だ。
人気がある講義だが、厳しい先生だった。
私語を話している生徒がいれば、
「俺より面白い話をしているんだろ?出てけよ!教室から出てけよ!!」
と、怒号が浴びせられる。
大体百人ぐらい最初の講義に出席して、レポートを提出できるのは、一割か二割程度だ。
中でも印象的だったのは、
「先生、ガンダムの○○って、○○じゃないんですか~?」
という質問に、烈火のごとく反論していた。
あとは、
「自分は、オタクだけど、オタクが嫌いだ。」
などなど。
毛嫌いする生徒も多数いた。レポートを提出できない生徒も多数いた。
自分は最終学年の四年になって、やり残したことはないか。そう考えたときに、
「上野俊哉に認めてもらえなければ、一生後悔する。」
そう、本気で思った。
そのころ、一人でアニソンばかり流れるクラブに行ったりしたので、「メディア文化論」のDJカルチャーから、社会を見る。知る。という講義が、一番しっくりくると感じたのだ。
その四年時を前に、上野俊哉に対峙するために、様々な訓練を積んだ。
小笠原善康の「新版 大学生のためのレぽと・論文術」や、齋藤孝の「原稿用紙を10枚分書く力」など、片っ端から、レポート作成マニュアル本を読んでいった。
そして、大学三年生の時に、「論文作成法応用」と言う授業を習い、添削の仕方や、要約のしかた、そして、引用をする手はずなどを勉強をしていった。
二年生の時に味わった、
「『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を、二十歳になるまでに読んでないの?!信じられない!!野崎訳か、村上春樹訳か読み比べるのはいいけど…」
と、どん引く先生を見て、どん引いたり、何を言っているのか、分からない。という状況も、三年生の時に、五十単位以上取った経験から、相手の意図を読み解く術を養って行った。
上野俊哉「「ポストモダンで、変わった事があるんだけど、それは、今までは店員が水を運んでいたのに、客側が水をセルフで持っていかなくてはいけない点なの。例をあげると、マクドナルドなんて、そうだよね。他には?」」
自分は、上野の問いに対し、勇気を振り絞り手をあげた。
「す、す、スターバックスとか?」
「うん!いいじゃない!スタバもそうだよね。」
よし!!と、心の中で小躍りをした。
結局、大学四年生の時に、履修した授業は、この「メディア文化論」だけになってしまった。
授業最終日の、一週間前にレポートを提出する事が出来た。
「DJを扱う授業なので、自分なりのコンピレーションアルバムを添付してもいいかもしれない…。」
と、書いてあったので、自分なりに編集したCDをクリアファイルに入れて、提出した。
内容は省略するが、自分でもほれぼれするほど、良いレポートを書けた。なぜ、そう言い切れるのかと言うと、文字数が、「11,111文字」ちょうどになっているからだ。
成績は…、「優」だった。
自分は、上野俊哉に認められた!
そう思った。うれしくなった。もっともっと、勉強して行きたいと思った。次は、いよいよ、「卒業論文」である。
・恩師・天野先生の励みと叱責と優しさ
天野先生には、頭が上がらない。
自分が、大学四年生の時、意気揚々と卒論の中間発表をしたとき、
「くわばらくんが、この論文で何を言いたいのか、全く分からない」
と、言われた。
自分は、茫然自失となった。
今まで、ゼミでは一番に発言をしていたし、怒られると言うか、叱られた経験が無かったので、挫折を味わった。
「自分は、この論文で、何を言いたいんだろう?」
モヤモヤした気持ちを持ちながら、ゼミ合宿を迎えた。
自分は、宿泊先で一歩も動けなくなってしまった。
「うまく卒論が書けなくて、ごめんなさい。ごめんなさい。」
そう、自分で自分の首を絞めて、身動きが出来ない状況になっていった。
その異変に気が付いた天野先生が、近くの大きい病院に連れて行ってくれた。
そこでも、原因が分からず、結果、何もしないまま、合宿先から部屋に戻ってきた。
この時のことを、先生に話すと、
「あの時、実家に早く帰らせてあげていれば…。」
と、相当悔やんでいたらしい。
でも、大丈夫です。今も、生きています。
・救急車から救急車
ゼミ合宿が終わっても、症状が良くなるばかりか、逆に悪化の一途をたどった。卒論が書ける状態ではなかった。
症状が悪くなったので、部屋から病院へ向かおうと思っても、その場に蹲り(うずくまり)、一歩も歩けない状態だった。それを見かけた、通りすがりのおじさんが、近くの診療所まで車で運んで行ってくれた。
しかし、自分は、「違う病院に行きたい」と、段々と語気が強くなり、いよいよ、「ワーーーーーー!!」と叫ぶと、その運んでくれたおじさんに、首元を絞められた。それに対し、自分は、
「殺ーろされる!!!殺ーろされる!!」と、のたうち回った。
もう、救急車が呼ばれていた。
その場に、携帯電話を落とし、その携帯を再び送ってもらうために、紛失届を交番にもらいに行かなくてはいけなかった。
そんな余裕は、自分にはない。
街中で奇声をあげながら、交番へ行った。交番へ行って、誰もいなかったので、置いてある電話に、怒りの丈をブチまけて帰っていった。
もう、限界だった。
ある時は、救急車で運ばれた後に、異常なしと診断され、また体調が悪くなり、救急車で運ばれている。
お金もなくなり、やっぱりもう、限界だった。
・奇声から帰省。規制通り、卒論制作へ。
奇声をあげていないと、落ち着かない生活を抜け出すために、自分は帰省した。寄生虫のようだなと自嘲しながらも、母親は、迎えに来てくれた。
そこで、今もかかっている柏崎厚生病院の赤羽先生と対面した。
「どうされました~?」
優しい口調で問いかけてくださる赤羽先生。でも、自分は、卒業できないと、親にもっと迷惑をかけてしまう。と信じ込んでいたため、塞ぎこんでいた。
そこで、「心理検査」と言うのを受けた。「巨視的」や、「人権蹂躙」の意味を答えたり、時系列順にパズルを並び替えてください。と言う検査があった。
そこで自分は、「語彙力、ボキャブラリーは豊富だが、こまごまとした作業は、苦手」という検査結果だった。
あまりにも力を入れて検査をしたので、頭が痛くなり、病院と反対側の整体に連れて行ってもらった。
その整体で、電流を流してもらい、少しずつ、思考がスッキリとして来て、母親に、
「大学留年してもいいから、卒業論文、書きに戻っていいかな」
と、言った。
母親は、
「やりたいようにやりな。留年しても仕方ないから」
と、勇気づけてくれた。
自分は、一抹の不安を抱えつつ、東京に戻った。
201011月3日。ALI PROJECTのLIVEがあった日に戻った。
・大学生活で一番楽しかった四〇日間
やついいちろう生誕祭も終わり、いよいよ、主査である天野先生の元に報告する時が来た。
「スタバにする?研究室にする?」と言われたが、部屋から近い、先生の研究室で面談をすることにした。
くわばら「「卒論が完成できるかわかりません。だけど、卒業後、新潟の実家に戻って、就職活動をしようと考えています。」」
と、言うと、
天野先生「「くわばらくんなら、できるよ!」」
大学一年生の時に、微笑みかけてくださった先生の笑顔がそこにあった。
方向性が決まれば、後は帆を進めるだけ。歩みを止めずに、部屋が汚くなるのもお構いもせずに、書き進めた。
途中、コーヒーの飲みすぎで、立って歩けなくなり、近くの整体に通ったりもした。
「コーヒーじゃなくて、しょうが湯がいいですよ」
と、言ってくださった。
徐々に完成が近付いた時に、「モテキナイト」というイベントがあり、そこに参加し、風邪をもらってしまった。
「大丈夫か…。自分の卒論、大丈夫か…。」
このエッセイと同様、卒論と言うのは、自分との闘いである。あきらめてしまっては、完成はしない。逆に言うと、「完璧な文章」等ないのだから、「完成しました!」と、言い放てれば、後悔しなければ、文章は完成する。
2010年12月16日。自分は、卒業論文を提出した。締切日の前日に提出したので、人はガラガラだった。
同日、渋谷WWWで行われた、エレキコミックの映像ライブを観に行った。スタンディングで、自分は、このライブの為に頑張ってきたんだ、と。思えるようになった。
卒業まで、あと、三か月を切った。
・卒業と3・11~もれなく発症~
卒業まで、やることが無かったので、携帯電話の申込書のデータ入力のアルバイトをすることになった。
研修中に風邪をひいたりだとか、午前10時から午後9時までの11時間勤務という激務だとか、電話の受け答えにストレスを感じたりだとか、いろんな社会経験を行われた。
朝帰りの大学の級友に、
「お前の目、死んでるぞ」
と、言われた経験があるほど、ストレスフルな状況になっていった。
そんな危機的状況だった時に、3・11が起こった。
自分がいた階は、ビルの29階。最初は、レッドブルを買って、缶ジュースが積んである台車が、ぐるんぐるんと暴れだしていた。
「あ、ちょっと疲れているんだな~」
と、思い、休憩室に戻った瞬間に、
「ドドドドドドドドドッドドオドドドオドドオッドドドドオドーーーーーーーーーーーンン!!!!!!」
と、激しい揺れが体中を響き渡った。
自分は、急いで、ドアを開けて、避難経路を作っていた。
29階からなのか、ぐる~ん、ぐる~んと、ビル全体が回っている。
トイレで嘔吐する声を聴いて、もらい気持ち悪さを経験してしまい、もう、立ち直れなくなった。
「気分が悪い人は、こちらへ!」
と、促され、小さな個室に案内された。
仕事上でのストレス、プラス、文字通りの天変地異。顔は真っ青になっていた。そこで、一人、ハツラツな女性がいた。
「私がいた国って、大体襲撃があったから、慣れっこなんですよ~」
と言い、自分がトイレに行こうとして、ヨロヨロとしていると、自分の両肩をつかみ、
「はい、右足出して~。左足出して~。これで前に進める人は、大丈夫なんですよ~」
と、言ってくださった。
徐々に、打ちとけ合い、実家の新潟に連絡をする事にした。
しかし、出勤時間や、休憩時間の内に、携帯を使いすぎてしまい、充電がほとんどなかった。しかし、緊急事態。早く連絡を取らなければと思い、勇気を出して、
「携帯、貸してもらえませんか?」
と、言った。
快く、携帯を貸してくださり、実家の新潟に連絡をした。
祖父が出た。
「あ、じいちゃん…?」
「あ、どうした?」
「かずやだけど、東京にいるんだけど、大丈夫だよって、伝えといて」
その後が衝撃的だった。
「な~して?」
「いや、東京に、ものすごい、地震が来たんだわ」
「おう」
「で、俺、今、東京にいるんだわ」
「……おぉ~!!大丈夫か!!かずや!」
「うん、大丈夫られ!」
祖父の身の危険が無かったと思い、気持ちが楽になった。
勤務先から三十分ほど歩いたところ、親戚のおじさんの部屋があった。おじさんは、当時青森に勤務していたので、部屋が空いていた。そこで、自分は鍵だけを預かっていたので、そこに一泊する事にした。
新宿西口のガード下、思い出横丁のもつ煮を食べ、ビールを一杯飲み、部屋に戻った。
あくる日、
「くわばらさ~ん!?」
と、同じアパートの住人さんの声で飛び起きた。
「あ、親戚の子どもです」
と、自己紹介をして、ガスの元栓の開け方を教えてもらい、小田急線で、自分の部屋のある「鶴川」に戻っていった。
部屋でまた寝ていると、携帯の充電が復活し、ひろからの「くわまん、大丈夫か?」という電話があった。仲間内で連絡が取れなかったのが自分だけだったらしく、大いに心配をかけてしまった。
翌日である。
3・13。自分はシフトが入っていた。会社の緊急用のエレベーターを使うために、非常に長い行列ができていた。
そこら辺から、「ぞわぞわ」っと来ていた。
二日前に、あの惨劇があったビルで、皆が普通に仕事をしている。
「皆、なんで、普通に仕事が、デキテルノ…」
と思い、階段でぶっ倒れた。
救急車で運ばれた。
「まただ…。」
自分は、自分で、かわいそうだと思ってしまった。思ってしまったという思い込みも、あまり良くない事だが、堂々巡りしてしまう。
母親が、新潟から東京へ迎えに来てくれた。病院では、「異常なし」と診断されたので、そのまま、実家の新潟に戻った。
また、やってしまった。
深い後悔の念があった。
しかし、今は、体を治すことが先決。通っていた実家の方の整体に通いだし、身体を回復させた。精神的にも体力的にも、回復してきて、実家の新潟から、東京の部屋に戻り、荷造りをした。
単身パックという引っ越しプランを申し込んでいて、段ボール四箱だけでお願いします。という話の流れだった。しかし、自分は、大小合わせて二〇箱以上になった。
「追加料金、頂きますね~」
と、言う言葉にビビって、母親に連絡したり、部屋を出発しようとした時に、アマゾンから最後の注文したイヤホンが届いたり、管理人さんに挨拶をしたり、いろいろな思いが去来する部屋を退去した。
その年の卒業式は、中止となった。


