第一章~幼稚園から高校まで~
目次
・幼稚園で味わった「最後の靴」
・朝食を食べなかったから、ぶっ倒れた。
・卓球部、あれ?カラダガ、ウゴカナイ
・地獄地獄地獄の高校生活
・父親の死
・心療内科から、精神科へ。~心療内科と精神科の違いについて~
・27時間テレビがテレビが見たくて、精神病棟を退院した。
・休学、転入、アルバイト。~高校は卒業しておこうと思った~
・演劇ボランティア部より愛を込めて
・高校卒業、漢字検定二級取得
・幼稚園で味わった「最後の靴」
自分は、心療内科、精神科を点々としていた。中でも直近の心療内科である先生から受けた治療は、
「くわばらさんのトラウマの源流を探しましょう」
というものだった。
最初は、何を言っているのかわからなかったが、中学生、小学生、幼稚園と、「自分が嫌だった時の事」をほじくりだす作業をするものであった。
そして、最終的に自分が認識する「トラウマの源流」が、「最後の靴」であった。
自分の両親は、当時共働きで、幼稚園に迎えに来るのが、いつも遅かった。次々と帰っていくクラスメート。そして、いつも残る、自分の靴。何よりつらかったのは、それを見ている保育士さんが、「くわばらくんは、かわいそうだ」という視線だった。
「統合失調症患者は、いい人がなっちゃう病気である」
と、言ったのは、自分のケアワーカーをしてもらっている鈴木一由(すずき・かずよし)さんである。幼稚園の時から、「あ、保育士さんに気を遣わせてしまっているな」と思ういい人っぷりを露わにしている。
しかし、こと自分に置き換えると、「都合のいい人」で26年間生きてきたような気がする。もちろん、「どうしてもっと早く来てくれないんだろう」と、心の中で思っていても、それを口に出せない性格だったのかもしれない。
言いたい事も言えないこんな世の中では、本当にポイズンを味わってしまうのである。もし、三歳ぐらいのお子さんがいる家庭の方々に聞いてもらいたいのだが、子どもは、三歳までに負った心の傷を、一生背負うものなのだ。
・朝食を食べなかったから、ぶっ倒れた。
朝食は絶対に食べさせた方がいい。自分は、小学生の時、朝食を食べなかったせいで、ぶっ倒れた経験があるからだ。
忘れもしないその日、自分は、朝食を食べるのが面倒くさくなり、そのまま学校へ足を運んだ。それが地獄の第一歩だった。
学校の校歌を歌うとき、目がちかちかしだしたのである。統合失調症というのは、「もっともっと頑張らんばいかん」と、思ってしまう悪い癖がある。
自分も、もれなくその癖を持っていて、より大きな声を出そうとしたら、突然、目の前が真っ白になり、その場に倒れこんでしまった。
幸い、先生が身体を支えてくださったので、無事に済んだ。その後、保健室に運ばれ、白湯を飲んだ。おいしかった。栄養を取るという作業をおろそかにしてはいけない。強くそう思った。
今では毎日欠かさずとは、行かないが、出来る限り、朝食を食べる生活をしている。
・卓球部、あれ?カラダガ、ウゴカナイ
中学校、団体で何かをすることが苦手だった自分は、卓球部に入部した。しかし、そこは女子卓球団体が、全国で6位入賞する強豪校で、相当なスパルタだった。今、巷でにぎわせている「運動系の部活では、昔、水を飲むことを許されなかった」部類に入る卓球部だった。
小さな大会で、自分が6位入賞した時に、顧問に言われた、
「お前の入賞は、運だからな。」
という言葉を自分は一生忘れない。その言葉から、「どうして、自分は卓球を続けているんだろう?」と疑問に思いながら部活に行っていた。
そんな曖昧な純情な感情を抱きながら、部活をやっているのだから、頭と心と身体のバランスが取れなくなっていった。見る見るうちに視界が狭くなる。呼吸が荒くなる。立っていられなくなる。
自分の身体は、SOSを出している。それなのにも関わらず、頭の中では、
「ぶっ倒れたら、また先生に怒られるぞ!」
と叱責している。
ね?異常でしょう?
間もなく、自分は卓球部を去った。あんなに大好きだった卓球を続けられなくなるのは、病気のせいではない。周りの、そして自分自身の病気の理解が遅かったせいである。誰のせいでもないのだ。
・地獄地獄地獄の高校生活
自分は、第一志望校だった高校入試に失敗した。第二志望校の高校は、風紀があまり良くなく、授業中に、他のクラスの女子がやってきて、
「○○ちゃん、遊び行こーぜー!」
と、乱入し、その○○ちゃんも一緒に、教室の外に出て行ってしまう高校だった。そして、それを注意するために、先生までで行ってしまい、その時間の授業、45分間は、先生不在で過ぎていった。
堪忍袋の緒が切れた。
こっちは、親が汗水流して働いて出してくれた学費で、真面目に授業を受けたいだけなのに、なぜ、その権利を奪われなければいけないのか。
自分は、授業の終わりのベルを聴いて、乱入した女子生徒と、注意をしている先生の間に割って入った。
「○○先生、きつく言っといてください。」
これには、乱入少女の堪忍袋の緒が切れた。
「はぁ~~?!なんで、私に直接言わずに、先生に言うわけ?」
自分は、言い返せないでいると、
「殴りたければ、殴れば?どうせ、その勇気もないくせに。」
自分は、本気で女子に手をあげそうになったが、思いとどまった。
翌日、自分は、急性の胃潰瘍になった。
「不良グループに喧嘩を売ってしまった」=「殺される」と、本気で思っていたからだ。
なんとか、胃薬を飲みながら高校に通うものの、一度イジメのターゲットにされれば、あとは地獄へ真っ逆さま。
背丈が同じで、同じメガネをかけている親友と並んで歩いているだけで、
「おい、三つ子!おい!!三つ子!!」
と、からかわれていたりした。自分は、その怒りを直接ぶつけることが出来ず、教室に戻り、ポケットに入ってあった、目薬を地面に叩きつけることしかできなかった。強烈な薬品のにおいと、強烈な白い目で見られている感覚もあったが、怒りでどうしようもない状況だった。
でも、本当の地獄は、ここからだった。
・父親の死
2004年1月31日。父・桑原只司(くわばら・ただじ)が、心筋梗塞で急逝した。
自分が急性の胃潰瘍になる前の事だ。
自分には五つ年の離れた兄がいる。
その兄に、自分は前歯を殴られた。中学校二年生の時である。
真っ白だった布団のシーツが、歯からこぼれる鮮血で赤く染まり、痛さのあまり、言葉にならなかった。そんな父が、車で病院まで自分を運びながら、
「かずや、ごめんな。かずや。ごめんなぁ。」
と、繰り返し言っていた事を思い出す。
歯の方は、幸い、根元まで折れておらず、神経がすべて死んでいるだけで済んだ。一年間、日赤の歯科医にかかり、一本一本、一時間かけて、歯の神経を抜いていった。
おかげで、アイスを食べるとき、前歯が冷たくならないので、便利になった。
父親には、何度も助けてもらっていた。兄が二階から奇声をあげて、自分を殺しにかかったとき、自分は家から飛び降りた。自分の家の一階は、高さが五メートルほどある。しかし、飛び下りなければ、兄に殺される。
判断に迷いはなかった。
幸い、雪が積もっていたため、それがクッションとなり、肩まで雪が埋まった形になった。しかし、叫び続ける兄から逃げようと思い、必死に雪をかき分け、一〇〇メートルほど、雪の間をかき分けて歩いた。
その時も、父親が自分をいち早く発見してくれ、抱きしめてくれた。
あとは、兄が包丁を持って自分を殺そうとしたときも、母親が包丁を持った兄を制止し、父は自分を守ってくれた。
そんな父の仕事終わりの後姿を見る事があった。
「お父さん!」
と、叫んでいれば。
ある日、父親が「ただいま!」と言ってくれたのに対し、
「おかえり!」
と、言ってあげていれば。
父の「ただいま!」を最後に聴いたのは、2004年1月30日である。
そう。自分が「ただいま!」を無視した翌日、父は心筋梗塞で亡くなった。
断末魔のように泣き叫んだ。
会う人会う人に、自分は「かわいそうな人間だ」と、言いふらしまくっていた。そうしないと、精神の安定が保てなかった。自分が16歳の誕生日を迎える約2か月前の出来事だった。
そして、この父の死が、統合失調症の引き金を引いた。
・心療内科から、精神科へ。~心療内科と精神科の違いについて~
父の納骨が終わり、家に骨壷が置かれるようになった。
それを見て、自分は、
「お骨が呼んでいる!!お骨が呼んでいる!!!」
と、妄言を吐くようになった。徐々に家で叫んだり、大暴れする回数が多くなっていった。とてもじゃないが、学校に行ける状態ではなかった。
自分は、近所の心療内科へ親に連れられて行った。しかし、そこに連れて行かれた記憶が、まるで無いのだ。
障害基礎年金をもらうため、初診した証明書をもらう時に、その病院に通っていた事を思い知ったぐらいだ。
そこまで、自分の病状は悪化の一途をたどっていた。
紹介されたのが、自分も今もなお通っている、「柏崎厚生病院」である。そこで、一発で「急性期科」と呼ばれる、自宅にいるのが困難な患者を収容する施設に入院する事になった。
そこでの生活は、あまり覚えていない。
しかし、「うつ病の人は、性欲が無くなる」と聞いた事があったため、「射精すれば、退院できるかも」と、バカな考えを持って、生活をしていた。
布団で事を済まし、ゴミ箱にそのティッシュを捨てる。そのティッシュを見た看護士さんの女性の怪訝そうな顔は、今も忘れない。
そんなこともあってか、1週間ほどで、急性期科、精神病棟を退院する事が出来た。
平成16年7月中旬の事である。
追記・心療内科は、心をほぐす、マッサージのようなところ、精神科は、心にメスを入れて、本格的に治療をするところ。と、判別して頂けたら、幸いです。
・27時間テレビがテレビが見たくて、精神病棟を退院した。
自分が、どうしても退院したかった理由に、「27時間テレビ番組を見る」と言うのがあった。
2004年のその番組の司会は、SMAPの中居正広と、ナインティナインの合計3人だった。
自分は、それを27時間ちゃんと見たくて、退院を希望した。
柏崎厚生病院は、患者の健康状態、家庭環境、そして、本人の社会復帰への意欲が問われる。その3つが兼ね備えてないと、退院は厳しい。
自分は、あくまで推測だが、健康状態と家庭環境は、良かったのだと思う。その時には、父の納骨も終わっていて、家にお骨が無い状態だったので、あとは、本人の社会復帰への意欲だけだった、これは、「テレビを見たい」という、一見すると社会復帰と関係のない、相反する関係に見られると思われるが、本人は社会とつながり合いたいと望んでいるとも捉えられる。いいように流れが変わり、無事に退院となり、思う存分、テレビを堪能する事が出来た。
・休学、転入、アルバイト。~高校は卒業しておこうと思った~
しかし、テレビを見たところで、復学することなんてできなかったし、親もさせようと思わなかった。7月から11月あたりまで、家でひきこもる生活をしていた。
自分で使えるお金が無くなったころ、近所に住んでいる人に、コンビニのアルバイト先を勧められた。ちょうど、うつの気も無くなってきたので、働くことを決意した。
しかし、そこでのオーナーは、強面で、バックヤードで店員に怒鳴っている声が、レジまで聞こえてくるほど、おっかない人だった。
「ぼけーっと突っ立ってんじゃねえ!!」
「ちゃんと、髭をそれって言っただろ!」
刃向ったら最後。怒号を浴びせられる。中でも、一番つらかったのは、とある元旦に、自分の次に交代するシフトのアルバイトが風邪で休んでしまった。
そして、その分のシフトを自分に押しつけられた。それだけだったら、まだしも、「どうして風邪なんて引くんだよ!!」とまくし立てるオーナー。そのとばっちりを受け、イライラと罵声を浴びせられる自分。
あまりの事に、トイレに入り、スンスンと泣いていた。そして、バイト終わり、オーナーが、
「ごめんな…。これ、お年玉」
と、お金をくれた。オーナーが座る位置と、トイレの位置が壁一枚隔てたぐらいの設計だったので、自分の涙が聞こえていたのだ。自分は、受け取るのが恐ろしかったが、拒否をすると、さらに何か言われそうで、御好意をおっかなびっくり受け取った。
そのオーナーは、歌舞伎町のコンビニに移転したそうだ。お似合いだなと思った。
次にやってきたオーナーと店長は、本店から来た人だ。
「いい?くわばらくん。このコンビニに就職しちゃだめだよ。」
と、言われた。
前任のオーナーと180度違う、優しいオーナーだった。唯一怒られたのが、カップラーメンを元の位置に戻さずに、シフトを上がった事が、何度も続いた時だ。血の気の多かった自分は、キレて帰ってしまったが、次の出勤の時に、
「自分の言い方も悪かった。くわばらくんごめんね。」
と、言われた。これには、自分が悪い事をしたんだ。と、大人になれた気がした。「ごめんなさい」を言ったもん勝ちなんだな、人生。と悟った瞬間だった。
しかし、穏やかな日は長くは続かなかった。
目の前が真っ白になる。息が荒くなる、過呼吸。とても、バイトと学業を両立する事が出来る状態ではなかった。ある年の12月、「自律神経失調症」という診断書をもらい、バイトを去った。ちょうど、1年間バイトをした計算になる。その分、学業に身が入った。
・演劇ボランティア部より愛を込めて
高校時代、唯一入っていた部活がある。それが、「演劇ボランティア部」である。
通常の演劇部と違い、高校演劇のコンクールに出場する事が無い、特殊な演劇部だ
学園祭で、劇を行い、「あしなが育英会」への募金を募った。
自分は、「交番へ行こう」という舞台の、手塚巡査長と言う役を仰せつかった。そして、舞台終演後、「あしなが育英会」への募金を募る、スピーチを行った。
「どうして、一人だけ覚えることが多いんだろう?」
と、正直に思っていたが、最後にピンスポットがあたり、教室内の視線が、一心に自分に向けられているのが、快感に思えた。
その活動が認められ、高校生新聞社賞を受賞した。
「くわばらさ~、本気で役者とか目指したら?」
顧問兼演出の先生に言われた言葉だ。
「いやいや、自分なんて…。」
そう思っていた自分の肩書きが、「パフォーマー」であるから、人生は小説より奇なりである。
大変なこともあった。
自分のやる手塚巡査長をやりたい女の子がいた。しかし、手塚巡査長自体は、男性で、日下部巡査という新米警官をなだめるという役どころだった。
どっちが演技がうまいとか、そう言う事ではない。どっちが、役にぴったり合うか。
それだけのことだ。
しかし、その手塚役希望の女の子は、去年の段階から、主役の座を奪われている。
今年がラストチャンスなのに、急に四年生になって入ってきた野郎に、役を受け渡すなんて。
と、口には出さなかったが、表情、態度でそう思わせていた。
ある日、顧問の先生に呼び出された。
「いやぁ~、あいつが言う事聞かないから、くわばらの口から言ってやってよ~。」
あいつとは、あの女の子である。
先生ですら手を焼いていたんだな。と思うのと同時に、「………俺っ!!?」と、思った。
しかし、言われると断れない性格の自分は、言う事にした。
衝立から、手を出して、自分扮する、手塚巡査長が「おばけだおばけだ!!」と騒ぐシーンで、その女の子が、手を出せばいいだけなのだが、身体を出そうとする。そうすると、舞台が破たんしてしまう(彼女は他の端役をやっているため)。
「○○さぁ~、手だけ出した方が怖いよ。全体が見えるより、一部分しか見えない方が怖いし…。」
と、言うや否や、衝立が
「バーーーーーーーーーーン!!!」
と、雄叫びを上げた。
蹴りあげられた衝立。滞る部室の空気。
「今日は練習やめにしよう。」
自分は肩を落とし、パンフレットを、先生方に送るという作業をした。
「よし!気分を入れ替えよう!」
と思い、「失礼しまーす!」と元気よく入った、コンピュータ室の準備室で、驚くべき光景が広がっていた。
いつも明るくふるまっていた、数学の先生が、泣いていたのだ。それに付きそう保健室の先生。自分は反射的に、「見てはいけないものを見てしまった」と思った。
しかし、「あ、入ってきて!!」と、泣いていた先生が笑顔になっていた。自分が、
「警官の役をやるんです。」
と言うと、より一層笑顔になって、
「私の父も、警察官だったの!絶対見に行くね!」
と、喜んでくれた。
また、こう言う事もあった。パンフレットを配り終えた翌日、担任の先生が、自分のところにやってきて、
「お前、演劇ボランティア部だろ?あんなのと一緒にやってるのか?」
と、驚いた顔で言われた。
一瞬で、「あんなの」が思い浮かんだので、話を聞いてみると、
「『失礼します』も言わずに、ガーって扉開いて、ぶっきらぼうにパンフレットだけ渡して、帰ろうとしているから、注意しているんだけど、話し聴かねえの。お前、あんなのと一緒にやってんのか。大変だなぁ~。」
演劇とは、舞台上よりも、舞台の裏側で起こっている事が、一番面白い。
最後に、「あんなの」の話を一つだけ。
彼女と部長の女の子と、自分と、後輩の主役、日下部巡査長の四人で、自主練習をしているとき、壁に掛かってあった、世界地図を直した。そうすると、血液型の話になり、
「くわばらさんって、A型っぽいよね~」と言う話になった。
ここまでは、たわいもない普通の話だが、彼女が発した「私、B型なんだ~」の発言に対し、「そうっぽいよね~」と返したのである。
この日以来、自分は血液型占いが嫌いになった。
いままで穏やかだった空気が一変。不穏な空気が流れた。
部長の女の子に呼び出された。
「さっきの発言、本気?冗談?」
自分は、何の事か、良く分からなかったが、とりあえず、B型の女の子に謝る事にした。
「さっきは、失礼な発言をして、申し訳なかった。」
すると、女の子は、
「後ろ向いて」
と言い、自分の尻を後ろに振り向いた瞬間、思いっきり彼女のローキックが自分の尻に激突した。
自分は反撃しようかと思ったが、それをしまっては、舞台が壊れてしまうと思い、何度も耐えた。
何度も蹴り上げてくるので、自分が倒れない限り、こいつは蹴り続けると思い、わざと倒れた。
駆け寄る、部員たち。
「いやぁ~。ちょっとね~。」
と、ごまかしているときに見た、「あんなの」の表情は、忘れられない。
復讐を遂げた、やりきった憎たらしい顔だった。
でも、自分は思う。
人生なんて、選ばれない事の方が多い。その選ばれなかった時、どういう振る舞い方が出来るのか。それが一番大事。最後に愛は勝つのだから、慈悲深く、他の人と接する事にする。そう決めたのが、この時であった。
・高校卒業、漢字検定二級取得
ついに、高校を卒業する時がやってきた。バイト、学業、部活と、思い残すことが無いぐらい、充実した高校生活だった。
しかし、一つだけ思い残している事があった。
それは、中学生の時から続けている、漢字検定のことだった。
中学校二年生の時に、漢字検定五級に受かってから、味をしめ、毎回受けていた。
三級まで、ほとんど勉強せずに合格していた。転入先の高校は、単位制の学校なので、漢字検定二級を取得していると、そのまま二単位免除となる。自分は、高校三年生の時に受けたが、失敗し、二単位分、余計に授業を取らなくてはいけなくなった。
自分は悩んだ結果、「情報」系の単位を取ることにした。それは、毎週金曜日に、他の学校にタクシーで足を運び、そこで、二時間授業を受けるというものだった。
最初は、何となくやっていた授業だったが、楽しくなっていた。
そこで、迷惑メールと知らずに、サクラのメールアドレスとやり取りをしてしまい、ポイントを請求され、一万二千円を請求された。自分は怖くなって、振り込んでしまった。一七歳にとっての一万二千円は、十二万二千円に相当する。
自分はその日以来、サクラメールには、過敏になった。大学時代も釣られたこともあったが、コツをつかんで、「あ、これは、サクラだな」というのが、一発でわかるようになった。
まず、「メールじゃアレだから、ブログを読んで~」と言うメール。そのブログに、会社名や、聞いた事のないブログ運営会社が載っていたら、一発でアウト。最近では、「間違えてメールしちゃったんですけど~」と、偶然を装い、ポイントを請求する、詐欺軍団もいる。
自分は、「Re:」を何度も送りつけ、最後に、「Are You サクラ?」と書いて送ってやった。そうすると、一発でメールが来なくなった。皆さんも、迷惑メールにご用心。
閑話休題。
漢字検定二級の勉強をしようと思ったのが、部活も終わり、大学も決まり、やることが無くなったからである。
写経のように、一文字一文字丁寧に、書き順から丁寧に書き始め、ノートは三冊以上になった。
試験前日。本番同様に、ラジカセのタイマーをセットし、模試に取り掛かった。試験時間は二時間。しかし、最初の一時間で、答案を埋めてしまった。答え合わせをしていると、驚愕の事実が、明るみになった。
合格に必要な得点は、二〇〇点満点中一六〇点なのにもかかわらず、その答案では、一五六点であった。意気消沈していると、ラジカセのタイマーが流れた。
「頑張って!絶対合格できるよ!」
あの有名声優、朴璐美(ぱく・ろみ)さんの声であった。
ラジオ番組で発した発言をMDで録音し、掛けたタイマーで、朴さんの声が流れた瞬間。自分は、鼓舞された。
結果は、漢字検定二級合格。
卒業式の日に、担任の先生から読みあげられ、ガッツポーズをしながら、賞状を前面に出す集合写真を取った。六枚中五枚に、賞状が写っていた。
友達からは、
「よっぽどうれしかったんだね」
と言われた。皮肉なのか、祝福なのか、分からないぐらい、楽しい時間を過ごした。
これが、幼稚園から高校卒業までの、ちょっとした人生である。
追記・この漢字検定二級の報告を、朴さんと宮野真守さんのラジオに投稿したところ、見事採用された。
「ハンパネルラ~」
と、掛け声とともに、鼻声になった朴さんが、
「私たちの仕事にも、意味ってあるんだね。」
と、述べられていて、うれしかった。
仕事をするという事は、人に感動を与えることなんだ。そう、気づかされた瞬間でもある。


