高校2年の5月に生物の教科書を捨てたのは生物の教師が嫌いだったから、と書いた。もちろん好きではなかったけど、実は捨てたのは生物の先生なら怒られても平気だと思ったからで、かなり小狡い。
最悪、本当に困ったらまた買えばいいし、とにかく教科書なしで1年乗り切れるかということが当時の僕にとってはおもしろそうな遊びに感じられた。それで、生物の教科書は学校に行く途中のなぜかエロ本が発掘される竹藪の中に放り投げてしまった。
この生物の教師は今考えれば、いいヤツだったと思う。ただし、気の弱さゆえに学生にはナメられっぱなしだった。この気の弱さ(人の好さ)が今でも鮮明に記憶に残っているあの事件を引き起こすきっかけとなった。そもそもは、この教師がサッカーの経験なんか全然なかったのに、気の毒にもサッカー部の顧問になってしまったことが発端だった。
わがクラスのスポーツ万能モテモテサッカー野郎ども(僕はヤツらに青白い嫉妬の炎を燃やしていた)は、強くなりたくて、試合に勝ちたくて、始めはこの新米顧問をあてにしていたのだけれども、彼は持ち前の優柔不断さもあって、残念ながらほぼ指導力ゼロ。経験が一切ないので無理もないことなのだけど、そんなことは血気盛んなサッカー野郎どもには関係ない。
「あいつの言うことを聞いていてもダメだ。」
ということで、サッカー野郎どもはキャプテンを中心に自分たちで練習メニューを組むようになり、真新しいle coq sportif のジャージに身を包んだ新米顧問は、いつしかそれを眺めるだけになっていたらしいことは、休み時間の無駄話を通して帰宅部の僕の耳にも入っていた。その時、僕はほぼ毎日午後4時からアルプスの少女ハイジの再放送を欠かさず、かつ楽しく視聴していたよ。
そんな中、その事件はふとしたことがきっかけで始まった。確か、生物の前の授業は英語で、その日の日直が黒板を消すのを忘れた。生物の教師は言った。
「日直は誰だー?黒板消してくれなー。」
しかし、その日の日直は運悪くサッカー野郎の一人だった。サッカー野郎は、その日、虫の居所が悪かったらしく、名乗り出ないし、黒板も消さない。生物の教師は続けて言った。
「今日は、先生自分で消すから、次は消しておいてな。先生が来る前に黒板はきれいにしておくものだぞー。」
この瞬間、生物教師の負けが確定した。
彼は決して黒板を自分で消してはいけなかった。強権を発動してでも誰かを指名して黒板を消させるべきだった。が、人の好い彼は選択を誤った。
一度なめられたら、あとは悲惨。この年頃は残酷で容赦ない。ある意味、大人よりシビアな勝負の世界に生きている。だから、絶対になめられてないけないし、負けることはまだしも、何もしないで負けてしまえば一巻の終わり。それ以降は暗い学校生活が待っている。
次の授業、これはもうサッカー野郎どもは示し合わせて黒板を消すのをやめ、この教師の反応を面白がって観察することにした。僕はこんな遊びには興味がなかった(教科書なしの一人遊びにしか興味がなかった)けど、かと言って自分が消すこともないかと思い傍観することにした。
教室に入ってきて生物教師は言った。
「誰だー、日直は黒板消してくれー。」
沈黙。
サッカー野郎どもは意地悪そうな笑いをこらえ、頬の肉をヒクヒクさせている。3分、5分と時間が過ぎ、生物教師は言った。彼の顔面は怒りと屈辱と悲しさで耳たぶまで真っ赤だ。
「よしわかった。じゃ。授業を始めるぞ。」
生物教師は意を決してチョークを握ると、英語の板書が残る黒板にそのまま生物の板書を始めた。相変わらず顔面は耳の裏まで真っ赤で、肩はぶるぶると震えている。サッカー野郎どもはこの様子を面白そうに眺めている。
「アイツ、そののまま書きやがって、ぜんぜん見えんかったぞ。」
授業のあと、サッカー野郎どもが面白おかしく騒ぎ立てた。
その次の生物の授業。もちろん、黒板は英語の板書が残ったままだ。それに加えてサッカー野郎どもは自分たちでさらに黒板を汚し準備万端で生物教師を迎え討とうとした。
授業3分前。さあ、今回はどうなるか。
が、ここで予想外のことが起こった。
突然一人のバスケ部女子が決然と立ち上がり、無言で黒板に近づく。彼女は、黒板消しをつかみ取り、無言で黒板をきれいにし始めた。必要以上にきびきびとした動きと、隅々まで完璧に黒板をきれいにする後姿からは彼女の強烈な憤りが感じられた。
サッカー野郎どもはじめ、教室の皆がバスケ部女子の作業を無言で見つめる。黒板を完璧にきれいにし終えたバスケ部女子は、サッカー野郎どもがたむろする席周辺に鋭い視線を投げかけた。その怒りに燃えた二つの瞳は明らかにこう語っていた。
「文句があるなら受けて立つから出てこい。」
この瞬間、サッカー野郎どもの負けが確定した。
サッカー野郎どもはバスケ部女子の勢いに呑まれて誰も何も言えなかった。というよりも、サッカー野郎はじめ、僕もおそらくクラス全員も今、目の前で何が起こっているかを正確には理解できず、ただただバスケ部女子の怒気に身じろぎすらできなかった。
バスケ部女子が無言で自分の席に戻り、入れ替わりで生物教師が入ってきた。彼は、明らかにホッとするように学生たちを一瞥し、授業を始めた。
僕は、前回の生物の授業が終わった後、バスケ部女子が廊下で泣きじゃくっているのを見ていた。彼女は、こんなひどいことをするサッカー野郎どもに憤り、そして、おそらくそれ以上にそれを見ているだけっだった自分自身に憤っていた。
「まあ、あいつらもガキっぽいことするなとは思うけど。」
同じ傍観者として、憤りもしなかった僕は彼女の泣き顔を前にバツが悪くなり、こんなことだけを言って立ち去った。とにかく、身長150センチにも満たないバスケ部女子の勇気ある行動は、サッカー野郎どもにも十分な打撃を与えたらしく、ヤツらも、何だいい子ぶりやがって、とか悪態つきながらも、この板書遊びも終わりを告げた。
サッカー野郎どもも、根はそれほど悪いやつらではないのだ。ただ、サッカー部顧問としての期待を裏切られたという屈折した気持ちが、彼らをそうさせたのではないかと思う。
ぼんやりしていた僕も、この一件には少なからず衝撃を受け、何だか自分も勇気ある行動をしなければと考えるようになってしまった。
この安易な思い込みが、後日とっても恥ずかしい騒ぎを起こすことになった。