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14/11/2

神戸市東灘区で体験した阪神淡路大震災の記憶

Image by Olia Gozha

1、その時

 明け方近く、トイレに行きたくなって、ウツラウツラしていた。突然、六甲山側の窓が曇りガラスと障子越しに、強烈に真っ白に光った。それと同時に地面の下を遠くから列車が、大轟音で驀進してきた。その時、もう身体は上下左右に跳ね上げられ、振り落とされていた。わ~っと言う無意識の叫びが自分の体から発せられていた。

その間これはとてつもない地震だ、家が潰れて自分はこのまま死ぬと思っていた。気がつくと、タンスの下敷きになってもがいていた。無意識に隣に寝ていた妻の上に覆い被さっていたらしいが、それは後で聞いた。

家の中の立っている全ての家具、電気製品が倒れていく音を聞いたと思うが、記憶にないのは何故だか分からない。シーンと何も聞こえない時間が長かった。引続き同じような大きさの揺れと思える余震が次々と来た。

この日以降、余震の揺れが来るたびに身体が硬直し、心臓が痛くなる状態は直らなかった。

2、その後の行動

 真っ暗だった。突然妻が叫んだ、「子供たちを見てきてー」。長女の部屋に向かいながら、名前を呼ぶが声が返ってこない。部屋へ行く途中にある台所は、タナゴを入れていた水槽が床に落ち、割れて水浸しになり、食器戸棚が倒れ、ガラスが散乱し斜めになった戸棚が邪魔して、娘の所に行けない。  

 もう一度大きく声を張り上げて呼ぶと、「大丈夫、怪我はしていない、何が起きたの」という声が小さく聞こえた。その声をきいてすぐ、一階の母と次女の方へ階段を降りた。幸いにも母は本棚がベッドで斜めに止まり、次女はキャスター付のベッドのお陰で横揺れと同じサイクルで揺れ、ほとんど落下物の下敷きにならず、ピアノも倒れたがベッドの場所を外れ、怪我はなく無事だった。

 懐中電灯が次女の部屋で見つかり、家の中の状態がその光の範囲で見えた。

長女は、部屋のドアにタンスが倒れ込んでなかなか開かず気をもんだが、自分一人這い出る隙間をなんとか作り、犬のタローと一緒に這い出してきた。

 出てくるとすぐ長女がこう話した。

「タローが少し前からうーつという唸り声を出していて、このあいだからネズミが沢山家に入り込んで来ていたから、またネズミが騒いでいるので、唸っているのかと思った。それで静かにしなさいって、寝ぼけながら怒ったら一回静かになった。そのまま寝込んだら、暫くして今度はもっと大きな唸り声を出したから、コラッうるさいって怒りながらベッドから起き上がったら、腕の中にタローが飛び込んできた。

その瞬間、ベッドの上で身体が揺れて、何がなんだか解らなくなった。気がついたらさっきまで寝ていた枕の所に、上の棚にあったテレビが落ちていた。タローが騒いでくれなかったら顔の上にテレビが落ちていた」

犬が老犬になったので、寒中は夜だけどちらかの娘の部屋に入れる事を黙認していたが、たまたまその夜は長女の部屋に居て、そのお陰で長女が命拾いするとは思いもよらぬことだった。

3、状況の理解

 朝日が昇ってきて、家の中が見えてきた。暫くのあいだ靴を履いたままでいましょうと妻が皆に言った。ガラスの破片がどの部屋にも飛び散っていた。トランジスターラジオがすぐ見付かりスイッチを入れたが、最初のうちは大阪でかなり大きな地震がありましたという報道で、神戸の事は何も触れなかった。

 窓から見る限り、近所も倒れている家はなく、瓦がずれている家があるくらいで道路にも誰も出ていなかった。電気が来ないのでトランジスターラジオをつけっぱなしにしながら、来てくれた近所に住む弟と甥に手伝ってもらい家具を起こす作業をした。停電で暖房が取れないので皆パジャマの上に服を着込んだが、結局一週間そのままだった。その日は外に一歩も出なかった。出る気にならなかった。

 まだ神戸全体が、淡路、阪神間全体が被害を受けている事を知らず、会社へ後片付けのため一日休むと連絡しようとしたが電話はもうつながらなかった。

その前に電話も床に落ちていたために、壊れたと思い込んでいたが、10時頃突然電話のベルがなり、取ると東京の弟から安否を問う電話だった。この時電話が生きていると家族みんなで喜んだ。

深夜会社の親しくしている人から電話が入った。昼間沢山の人が会社から手分けして家へ電話してもつながらないので、自宅に帰ってから電話してみたとのことだった。ようやくつながったと無事を喜んでくれた。時計を見たら午前零時近かった。

 夕方突然部屋に電気が灯った。居間の大型テレビは台から落ちて倒れていたので壊れたと思い込み、長い間別のテレビを持ってきてそれを使った。もうラジオで神戸市内全域に大きな被害が出ているのはわかっていたが、ベランダからJR六甲道、その向こうの三ノ宮方面に黒煙が上がって広がって見えると、ようやくテレビでも次々映し出される画面は何とも言えなかった。

自分が良く知っている場所、建物が次々映るが、壊れるか、斜めに傾くか燃えていた。

しかしそれはそれだった。自分と家族の生活をどうするかしか頭に浮かばなかった。

4、水、食料

 転勤で神戸に戻る前は茨城県の取手市に近い藤代町に住んでいたが、その町は利根川の支流の小貝川が流れており、よく増水した。そのため町役場の指導で乾パンや缶詰などの食糧を備蓄する習慣を妻が残していた。また、前年の夏が水不足でミネラルウオーターのペットボトルを沢山買ってそれがまだかなり残っていた。また、風呂の水は当時の習慣で落とさず置いてあった。

ペットボトルの水は近所に多いお年寄り家族に配って喜んでもらい、風呂の残り湯はトイレ用に役立った。

神戸に戻ったら地震はないものと思い込んでいたから、全くの怪我の功名だったが備蓄食糧とペットボトルのお陰で当面の心配をしないですんだ。その後、新聞やテレビでも言っていたように三日分の食料と水は家に置いておいた方がいいと思った。結果的に地域に給水車が回ってきたのは四日目からだったからそのとうりだった。今回のようなケースでは行政も被害者の一員であり、神戸市がかろうじて機能しはじめたのは、三日目くらいではないだろうか。

 ついに市の広報車は半年たっても回ってこず、結局、自治会と近所の口コミだけが頼りの3ヶ月だった。

それでも神戸市の中では被害の大きかった東灘区の中では恵まれた方だった。

近所の小さなスーパーは4日目から開店したり、電気はその日のうちに来た。

全壊、半壊の家は少数という地域でもあり、自宅も内外に多数の亀裂は入ったが何とか修理で済む範囲だった。

家が全壊、半壊の目にあった方たちとのこの差はその後の生活にいいようのない違いを生んだ。理不尽としか言えない差である。もし自分が逆のことになっていたらそれを凌げたかどうか全く自信はない。

5、日常生活

 まず、そして水道が復旧する3ヶ月間一番困ったのはトイレの水だった。洗顔も当初はテイシュペーパーに水を垂らして顔を拭っていたが、トイレだけはどうしょうもなかった。しかし近くの近所のゴルフ練習所がボール洗いのために掘っていた井戸を住民に開放してくれたので、毎日水汲みに行かせてもらい助かった。

 全国から給水車が応援に来て、地域には倉敷市の水道局の車が回ってきてくれ出した時は、家族全員がほっとした。少なくとも飲料水だけは確保出来たが、給水車のスピーカーの到着の知らせに耳を澄ませ、お年寄りの多い近所の方に伝える家族は大変だった。長い列に並ぶお年寄りの中にはヤカン一つしか持っていない人もいて意識の混乱が続いていると思った。また家族総動員で大きな容器に何杯も貰う人も居て、いろんな人間模様が表れた。

6、通勤

 JRも阪急、阪神も甲子園あたりで不通になったため、始めは代替バスで一番近い駅まで行くしかなかった。通勤ルートは毎日変わった。最寄りのJR六甲道駅は地震の瞬間に崩壊して東海道線がここで長いあいだ断絶した。阪神青木まで2時間ほど歩いた事もあった。

地震後最初に電車で武庫川を越えた時、何ともいえない違和感を覚えた。電車の窓の外の雰囲気が何となく違う。

通勤途上に家やビルの瓦礫の中を通ると言う「非日常」の世界に突然放り込まれた人間にとっては、つい数日前に当たり前に毎日見ていた世界が全くなくなったのに

「ここはなんでパチンコ屋が営業して、それ以外の店も歩いている人達も前と同じなんや」とついに納得できないまま御堂筋線の地下鉄で淀屋橋の駅で降りた。

会社では皆、気を使ってくれた。だが自分の方は、朝出てきた崩れた家の続く道筋や町全体の雰囲気から抜け出せず、素直に受け止める事が出来なかった。

自分の席にかかってくる本社、支店、工場からの見舞いの電話を受けたが、今思えば普通の受け答えはしていなかったろうと思う。周囲には違和感を与えただろうと思う。当然ながら会社は変わりなく回っていた。自分は恵まれていると解ってはいるが、素直にそうは思えなかった。

 神戸に勤務先があり、そこが崩壊し会社が潰れ、自宅も全壊し家族が亡くなり、避難所暮らしの人が沢山いる。収入も止まり、失業の破目になる人も沢山いると解っていて、自分が恵まれている事はわかっていてもやはり大阪の変わらぬ世界が納得できなかった。

 水道とガスが戻り、交通機関が復旧するまで何ヶ月も、定時より少し早めに帰らせてもらい、百貨店の地下で惣菜を買って帰る日が続いた。

6、思った事あれこれ

①人間は、地球の薄皮の上にたまたま住まわせてもらっている。

②理不尽なことはどうしようもなく起こりうる。

③日ごろの近所との付き合い次第で、必要な情報量が全然違う。

④沢山の方から安否の問い合わせを頂き、有り難い事だった。

⑤日ごろ行きつけの本屋、スーパー、ソバヤなどが、明日はなくなることがある。

⑥整地されて綺麗になっても、慣れ親しんだあの生活空間は二度と戻らない。

⑦それでも人間の記憶はいい加減なもの。段々忘れて生きていくのだろう。

⑧国、県、市とはこういう事態が起きた時、個人にとって何なのだろう。

 お上は個別の事情は考慮出来ないと言う。しかし個人が自分の不注意で災害 を起こしたわけではない。いざというとき何もしてくれないのに、真面目に税金を払っている良き国民の住む国日本。

  不思議な事;

トイレの水洗タンクの陶器の蓋が便器を飛び越えて、便器の前の床に落ちていたので何の気なしにそのまま持ち上げて元の場所に戻した。後で考えるとコナゴナに割れていて当たり前なのに無傷だった。考えられるのは下から家全体が突き上げられた時、蓋が飛んだが、床に落ちる瞬間今度は家が下がってソフトに着地したとしか思えないが不思議なことだった。

  最後に;

震災の後、物忘れが激しくなった自覚があり震災の恐怖で脳の一部が壊れたのかも知れないと思い、会社の連中と飲んだ時そう言ったら、「震災の前も後も変わっていませんよ、震災前から 老化現象が起こっているという事と違いますか」・・あぁ。

                                   了 



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