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14/10/8

コミュ障のヲタクが厨二病をこじらして、海外で農業を始める話④ 厨二病回復篇

Image by Olia Gozha

厨二病をこじらせ過ぎた私は、アニメーターになる決意をし、日々、絵を描き始めました。

高校の選択授業では、大学進学を目指す級友が受験勉強コースを選択する中、

私は美術を選択して、エヴァのオマージュを油絵で描くことに精を出しておりました。


しかし、当然、母親はアニメーターになることなど大反対です。

母親「あんた、大学どうするの?」

「代々木アニメーション学院行きます!!」

母親「そんな学校に行くお金は出さんからね!!」

「はひー!?」

当然と言えば当然。

5人も兄弟がいて、みんな大学や短大に進学しましたので、うちにはお金がさほど無かったわけです。

母親「国立だったら良いわよ。」

「国立の美大って、あるんかしら、、、東京芸大とか、かしらん。」

母親「奨学金ももらいなさい!」

「もし、奨学金もらえたら地方の大学でもええですか?」

母親「ええよ。」

というわけで、

私は、実家を出たい一心で、地方の国立大学を受験することにした。

 工学部を選択したのは、工学部であれば、その頃から盛んに導入され始めたCGアニメーションが勉強できると思ったからである。

 私は、エヴァや攻殻機動隊の劇場版などのCGで名を馳せたProductionI.Gに就職することを目標に定め、遅れ馳せながら受験戦争に参戦した訳です。

 私が受験勉強を始めたのは、もう大学受験まで半年を切った辺りだった思います。

これはアカンと思いまして、1日10時間くらい猛烈に勉強していたのを思い出します。

 ただ、やっぱりアニメや漫画への欲求は非常に強いものがありましたので、6日猛烈に勉強したら、1日は自由に漫画やアニメを見まくっても良いというルールを自分で作って、その自由に漫画やアニメを見れる日を餌に私はひたすら勉強をしました。

 この勉強方法は、功を奏したらしく、私は無事、志望校に合格しました。

 実家を出ることができて、安い学生寮があり、CGが勉強できそうならどこでも良いやという安直な発想で志望校は選んだ。

しかし、この安直に選らんだ選択は私の人生を大きく変えることになる。

私は、そこでアニメーションとは無縁の世界にドンドンと首を突っ込んでいくことになるのだ。


入学当初、私はやはり、コミュ障が災いして全く友達が出来なかった。

 授業を受けるのも一人、一人でぽつりと学食を食べ、授業の合間の暇な時間は図書館で過ごすというどうにもならない生活をしていました。

 私は、大学生活にそれなりに期待を持っていたのですが、このぼっち状況は高校時代よりもさらに悪いもので、私の憧れた淡く切ない楽しい大学生活は、儚く消えいく。

 このままでは、俺は生きて行けん!自分を変えなければ!と思って、私は一大決心をした。


それは、極真空手部に入部するというものであった。


 自分を変えるという方法がなぜ極真空手であったのか良く分かりませんが、私の中にある鬱積した感情は爆発することを求めていて、それを単純に発散する方法として選んだということと、何か自分の世界観を根底から覆す何かに出会えるのではないかという期待があったように思います。


 恐る恐る電話をして指定された道場に向かうと、ちょうど大会が間近ということで緊張感MAXのごつい先輩達がスパーリングをしておったりました。

 肉と肉と鈍くぶつかり合う音、怒号のような気合や掛け声が絶え間なく響き渡る中、私は狼の中に放り込まれた羊のように恐縮しながら、正座してその様子を見学しました。

 途中から、余りの緊張で胃がキリキリするし、足は痺れるし大変なことになりましたが、頑張って耐え続けたのですが、3時間ほど経って稽古も佳境になろうかという頃から私は強烈な睡魔に襲われ始めたのです。

 師範代から「眠いなら帰れやー」というドスの効いた声で言われて、ハッと我に返ると私は首をがっくりと垂れて涎を垂らしていました。

 すっ、すいません!とか謝って、私は見学を続けました。

「あー、大変なところに来てしまったなぁ。どうしよう。」と思いましたが、一方では、「あー、何だか全く分からない世界だが。すげー、面白そうだ。」とも思っていました。 


 最初はそんな感じで入部できるか心配でしたが、私は無事、極真空手部に入部できました。

 新入部員は私一人で、しかも、ヒョロヒョロのヲタクが入部して来たものだから、先輩達にとってはそのキャラが「お前、まじウケルぜ。馬鹿野郎!!」ということで、随分とかわいがってもらいました。


 それからの1-2年は、すべてが空手中心の生活に変わりました。

 極真空手部は、たった5人しか部員がいませんでしたが、部長はフランシスコ・フィリオと極真王座を掛けて戦ったかの数見肇の内弟子として、城南支部に出稽古に出ずっぱりでいるような人で、後に、関東大会やロシア大会を制した鬼のように強い人でした。

 それ以外の部員も学生ながら全日本に出場するような人ばかりで、正に少数精鋭の鬼のようにキツイ部活でした。

 先輩達は、ヒョロヒョロのヲタクをガチムチの格闘家に変身させるというチャレンジが気に入ったらしく、朝から晩まで稽古尽くめの地獄の内弟子稽古が始まりました。

そして、こんな事もありました。


先輩「おっし、市川。今日は、スタミナ稽古だ!」

「スタミナ稽古っすか!?」

先輩「おう、スタミナ太郎行くぞ。」

「はぁ、、」

先輩「よし、市川。俺が肉を持って来てやったぞ。」

「はい、ありがとうございます。随分、沢山ですね。食べ切れるんですか?」

先輩「お前が、これを全部食べるんだ!」

「はい!?」

先輩「これを食べれなかったら、お前が全員分奢れな!」

「へっ、、、、。そんな。」

 私が一番、恐怖したのはスタミナ稽古と呼ばれるもので、スタミナ太郎で吐くまで肉を食べさせられるというものだった。

 筋肉をつけるには、まず、太って体に肉をつけなくてはならない。それが筋肉をつける最短の方法である、お前はまず体重80kgになれ、というのが先輩が私に下した命令であった。


 そんなこんながあって、私は相変わらず友人は部活の先輩以外はほとんどいないものの充実した生活を送っていた。

 極真の世界では理屈が余り通らない所でありましたが、逆にそれが私には良かったように思えます。理屈や御託を抜きにただ強さを追い求めるというのは、非常にシンプルで分かりやすいものでした。

 その頃から、自分の生きる意味だの、自分の居場所だのという事を考えることはめっきりとなくなりました。


 自分自身にも自信がつくようになり、私の厨二病はほとんど回復したかのように思えた。


 しかし、極真空手は、自分を変えたい、あるいは、自分自身に自信を持ちたいという私の思いを満たしてくれたものの、私の心の奥にある虚無感や絶望感に対する答えを与えてくれるものではありませんでした。

 空手を始めて2年ほど経った頃、私は何のために辛い稽古に励むのか自問するようになります。

「私は十分に自分自身を変えることができたし、自分にも自信を持つことができた。極真空手に対して、この先に私が求めるものは、何も無いのではないか。」

そう思うようになりました。

 また、確実に強くなっていく私に味をしめた先輩達の私に対する稽古は日に日に激しくなり、私に対して余り手加減をしないようになりました。

 毎日、スパーリングで先輩の回し蹴りやら上段蹴りを食らって失神するということを繰り返す中で、私は強くなることへの渇望より、恐怖をより強く感じるようになりました。このままでは、殺されるとすら思いました。

 無断で数週間稽古を休み続けた後、師範代から催促されて、私は意を決して道場に向かいました。

 私は先輩達にそれを直接言うのが怖くて、先輩達が道場に来る前に師範代に空手を辞めたい旨を伝えました。

 そして、先輩達に会わない様にそそくさと道場を後にしました。

 今、思うと非常にけじめの悪い辞め方をしたと思います。

 辞めると言えば、先輩達は、稽古も軽くするから辞めるな引き止めるだろうし、根が熱く世話焼きな先輩達だけに、無理にでも引き止めるだろと思いました。

 無理な引き止めに抗う力が無いと思った私は、先輩達には会わずに逃げるように空手を辞めようと思ったのです。

後日、人伝に聞いた話では、

「あいつが強くなるのが面白くて、ちょっと激しくやり過ぎた。すまないことした。」と言っていたそうです。

 今は、先輩達と連絡を取る手段が全く無くなってしまい音信不通ですが、たまにふと懐かしく思い出すことがあります。


そして、

 私は極真空手を辞めた後、私はすぐに違うものに出会い没頭していきます。


それは、何と言いますか、、、社会との闘いと申しますか、社会との対決でありました。

つまるところ、俗にいう学生運動。

私は、すでに息絶えたはずの左翼過激派のシンパとしての時代遅れの活動を始めることになります。


つづく

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