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14/9/24

「死ぬまでに会いたい奴リスト」に載ってる奴らに会ってきた話 〜ローマ編〜

Image by Olia Gozha


私には「死ぬまでに会いたい奴リスト」というのがあってだな、正確に言うと "昔会った事があり、連絡先も無く簡単に会う事ができないけど、死ぬまでにはもう一度だけでいいから会っておきたい奴" がリスト化されており、今回はそのリストに入ってるヤツに苦労して会いに行った話しを書こうと思う。



● プロローグ


その昔、私がまだ会社を作る前にローマでよくつるんでた日本人とイタリア人混合の10人グループがあったんだ。


メンバーは日本人の私、タカ、ムネ、ゴウ、カズ、ミク(仮称)、ノリコ、イタリア人のジョルジオ、ファブリッツィオ、マルコ(仮称)の9名に加え、パスクアーレやエリサやダビデやアンジェロなど不定期参加のイタリア人数名。(仮称ってなってるのは当人達の希望により名前を出したくないという事なので一応伏せた)


家賃が割と高いローマ市内でも有数の一等地であるパンテオンやナヴォーナ広場近くにあったムネの家が私達の溜まり場だった。今思い出しても、もうそいつら当時18〜23歳と若いもんだから、みんな馬鹿で悪くて本当に楽しい奴らだった。





自分含めてイタリアに居る理由は人それぞれあってな。一般的な語学留学、絵画留学とかサッカー留学とか音楽留学以外では、まあイタリアくんだりまで来てるだけあって、日本に居られなくなって非合法組織の追手から逃げてきた奴とか、本人の意思が無いのに親の命令で強制的にローマに住まされてる某芸能人の親戚とか、卒業旅行中にローマで恋に落ち帰国するも忘れられず戻ってきてそのままローマに住み始めてイタリア人の追っかけやってる娘とか、外国人部隊の傭兵上がりで殺人慣れしてるとか、信じられない様な色んな素性の奴がたくさん居たんだ。


そして単にローマ在住日本人と言っても数百人単位で居る訳で、日本人社会と言っても色んな人が居て日本人とあえて距離をおく人も居れば日本人としかつるまない人達も居たり様々だ。




● 旅行観光業界カースト制度


当時は日本人のイタリア旅行客がかなり多く、旅行業界関係は食い扶持がたくさんあった。

湾岸戦争までを第一次ヨーロッパ観光ブームとしたら、時は1993〜2003年頃までの第二次ヨーロッパ観光ブーム時代。過去にフランスに行った人は「次はやっぱりイタリアでしょ!」っていう人が増えてきてイタリア政府観光局はキャンペーンを張り、日本の旅行会社はこぞってロンパリローマ(ロンドン•パリ•ローマ3都市周遊)とイタリア周遊(ローマ・フィレンツェ・ヴェネツィア・ミラノ)を売り、女子大生は卒業旅行でプラダ本店でバックを買うのが定番行事になってたあの時代な。





この後のストーリーの理解を深めて貰う為に、ここで当時の職業別人間関係について触れておこう。

当時の旅行観光業界は独特のカースト制度が出来上がっていた。というのも、日本なら会社が終わればそんなに頻繁に仕事関係(上司部下というより取引先)の人と遊びにいく機会は滅多にないだろうが、狭い街だし行く店は限られるし、狭い人間関係しか築けない人達は、仕事関係者とつるむのが普通だった。


そして仕事の上では完全な縦割主従関係で、仕事以外での飲みとか食事は接待なのか飲みニケーションなのか遊びなのかの線引きが曖昧で結局プライベートまでその主従関係が存在してた様に思う。


勿論、旅行会社の方やガイドさんにはそんな壁を感じさせない、というより対等に扱ってくれたいい人がいっぱい居たのだが、一部にはあからさまにお前が気に食わないから、または接待されないから、または賄賂を渡さないからだから競合会社に便宜を図る…みたいなことも事実多々あった。


あんまり多くを書いてしまうと困る人が居るだろうからこの辺にしておくが、当時の旅行観光業界カースト制度をざっくりこんな感じにまとめてみた。



① 現地旅行会社のオフィスワーカー

>

② 通訳ガイド

>

③ 指定免税店関係者

>

④ 日本食レストラン関連

>

⑤ 小判鮫的モグリのお店

>

⑥ ①〜⑤でバイトする学生やニート



※ ①は②の雇い主

※ ②は③の売上左右する

※ ③は①と②に頭上がらん

※ ③にとって①の支店長クラスは神

※ ④は①〜⑥全部がお客、でも中立的で本来この序列に入らない

※ ⑤は③に邪険にされる

※ ⑥は利害関係なし


①〜④までは仕事もプライベートでも交流あり=A群

⑤・⑥個人間での交流は結構あり=B群

でもA群とB群間は一部のクラスタを除き殆んどプライベートな交流がなかった。


で、話しがだいぶ逸れてしまいローマの仲間達の話しに戻るけど、そんな中、私は何処に属してたかというと仕事上は③の免税店グループに守られた⑤という特殊な立ち位置で、プライベートは自動的にA群だった。


A群って年齢は20〜65歳で中心は30代。私なんか若手中の若手で、もはや奴隷……扱いされる事はなくこの新参者を快く受け入れて頂き、ローマに来たばかりで右も左も分からない私に色々親切にして頂き感謝していたものの、なんか日本人同士ばかりでつるんでて遊び方も「それって日本でもできるやん!」って事しかしてなかった様に見えた。(実際は違ったのかもしれないけどね)


そんな人達を見ていて、俺の居場所はココじゃねーなと結構早めから薄々感じていた。


● カズとタカに会う


仕事初め、前日の20時にローマに到着したばかりで早速翌日は朝から仕事だった。愛想が悪い同居人の原チャリの後ろに乗せてもらい仕事場へ行った。職場であるお店に着くと、上司となる一人の男を紹介された。

その上司はスタンと名乗り、カナダ生まれのユーゴスラビア人だかユーゴスラビア生まれのカナダ人だか忘れたが、とにかくイタリア人じゃなかった。そいつに連れられ英語で仕事のノウハウを教えられながら、初日だけで顔と名前が一致しない30人ぐらいのイタリア人を紹介された。


もう、訳わからんよね。


で、その後スタンに連れられ原チャリ2ケツでバチカン博物館やらサンピエトロ寺院やら真実の口とかコロッセオとかローマの観光名所を周り、トレビの泉に行った。


これだけ読むと一日目観光かよ。。。って思える内容なんだが、観光業だけにお客様となる日本人が行く観光ルートが営業場所になるので、それだけ周ったが決して遊んでた訳じゃないんだ。


トレビの泉に行ってスタン行きつけのバール(カフェ)で2人で休憩がてらにエスプレッソを飲んでる時に、そのバールの中でカズという日本人に会った。彼は半年ほど前からローマで働いてるらしく、その他に何を話したかも今は覚えていないが、サクッと「宜しくお願いします」的な挨拶だけして別れた。


それからスタンと2人でスペイン広場に行き、また4人のイタリア人店員を紹介され今日の仕事はここでおしまい…となった。

せっかくスペイン広場で解放されたのだから少し周りを散策しようと噴水周辺を歩いていた。目の前には、あの映画"ローマの休日"でアン女王に扮するオードリーヘップバーンがジェラートを食べながら降りてきたスペイン階段があり、その上にはトリニタ・デイ・モンティ教会が広場を見下ろしている。


実はこの3年後に私はこの世界的に有名な観光地であるスペイン広場、しかも窓を開けると真正面にスペイン階段を望めるという超一等地のマンション住む事になるんだけどこの時は知る由もなかった。




話しは戻るけど、まあ時差ぼけMAXで且つ仕事初日で覚える事もたくさんあったせいで相当疲れていた。そして階段に腰をおろしてスペイン広場を見下ろした。

「あー、俺これからローマに住むんだー」

現実味が無いような、なんだか夢の中に居るようなフワフワした高揚感を感じながら、ぼーっと階段の一画に佇んでいると、ふらーっと一人の日本人が近づき話しかけてきた。ついさっきスタンに噴水前でさらっと紹介された競合店?のちょっとチャラくてガラの悪そうな悪人ヅラの兄ちゃんだった。

悪人ヅラ「さっきはどうも。夜、暇なら飯行きませんか?」


そして特に予定もなかったし、そもそも家へ帰る手段も方角もこの辺りの地理も全く分からなかったのでとりあえず一緒に飯に行く事になった。


彼は東京の西側出身で、俺も多摩地区に住んでた事もあり年齢も近いから親近感が湧いたのを今でも記憶している。彼はローマに住んで5ヶ月程で、スペイン広場にあるカフェの呼び込みをやっているという。


"人生面白ければ何でもOK"という持論を展開して、今迄も無茶をやってきたし、このローマでも常に面白そうな奴と楽しい遊びを毎日探しているという。


飯を食いながら、ローマの観光業界のしきたり、仕事上のキーマン、ノウハウ、ローマの暮らしに関する基礎情報などを教えて貰った。これがタカとの出会いだった。



● ゴウに会う



その後、仕事をしながら色んな人に出会い、ローマに来て最初の3週間が過ぎる頃には面白い奴を探しているというタカの元には、ローマ生まれで見た目は日本人だがイタリア人のマルコ、不良イタリア人学生のジョルジオ、ファブリッツィオ、留学生のノリコ、ミク、ムネが集まる様になっていた。


ここであのカースト制度を思い出して欲しい。


ローマ観光業界カースト制度でいう俺はA群に属してたからタカを中心としたこのB群とは本来交流が無かったはずなんだ。


ただ私の一日の仕事を終える場所が、スペイン広場という奴らの溜まり場の近くだった為に必然的に毎日夕方に奴らと出くわし、そしていつしか夜はそいつらと行動を共にする様になっていた。


そんなある日、タカが「カネ(私)、また1人面白い奴見つけたよ!」(ムネやマルコの時も同じ様に言ってたっけ) と駆け寄ってきた。



スペイン広場でタカに紹介されたその日本人はゴウと名乗った。ゴウは韓国人観光客専門の免税店の営業という、このローマでは過去前列のない仕事についていたのだが、何が凄いってこの男、イタリア語、英語、韓国語が全く出来ない。つまり全く仕事にならない。だからなのか全く仕事してなかったね。

とにかく昼ぐらいに眠そうな顔してスペイン広場にやってきてはタカと話すか、栗売りのバングラデシュ人のモニール君の周りをうろちょろしてるか、階段に腰かけてボーっとしているか。そして夜になりタカや俺の仕事が終わると一緒にムネの家に行って…で一日が終わる。こんな毎日を繰り返していたのに給料は貰っててクビにならない。本当に不思議なヤツだった。


これは後から聞いた話しだけど、結局のところとうとうオーナーの堪忍袋の緒が切れて4ヶ月後にクビになるのだった。そりゃそうだ。



● ローマの遊び方 1


グループ最後のメンバーであるゴウが加わった頃は陽が少しずつ短くなり涼しくなり始める10月中旬だった。


私たちは基本夜中に踊りに行くのが皆好きで、系統でいうと、いわゆるロッテルダムとかロンドンからやってきた文化でガバトランス系のレイブが好きだった。こういうイベントはイタリア国内でも有数の悪いヤツらの集まる場所だった。





当時のローマだとピラミデ(市内南の方にあるピラミッド)の近くにあった老舗クラブ"Radio Londra"とかもよく足を運んだが、基本的に日本のいわゆるクラブの様なそういう合法のまともな店では楽しめない人達だった。


俺らが夜な夜な遊びに行った中でも特に思い出深いのは3つあるかな。



第三位 文化祭後夜祭の学校




その年が初めての試みだったらしいのだが、とある学校で先生含む学校関係者の大人全員と真面目な学生を立入禁止にして、私たち含む部外者の人間を呼んで文化祭の日に深夜の学校を解放。


体育館に巨大なスピーカーを持ち込んでレイブを開催。私立だけあって体育館は巨大。体育館の中央では踊ってる学生、体育館の周りの壁にへばり付いてる学生達はずーっと引っ切り無しに回ってくる葉っぱを吸ってるという異様なパーティだった。結局あまりの騒音に午前3時頃に近所の人が通報して警官隊が突入して逮捕者を多数出しその日は解散。翌日学校関係者更迭など結構な問題に発展して翌年以降開催される事はなかった。



第二位 廃教会のトランスレイブ



ローマでは有名な、屠殺場があったテスタッチォというエリアには美味いローマ料理を出すレストランが多いのだが、そのエリアのテベレ川沿いに、とある廃教会がある。


住宅街から少し離れた場所にあるこの廃教会の敷地はかなり広く、教会に似つかわしくない高い外壁に囲まれている。もしかしたら屠殺場跡地なのか、イメージでいうと刑務所とか精神病院とかあったかの様な佇まいだ。


夜22時頃に集合して現場に到着。教会の入口で寄付金という名目の入場料を支払って中に入ると、大掛かりな舞台が設営されててDJが数名、会場前方には音楽に酔いしれ踊ってるグループがあり、後方には踊らずに1グループあたり5〜15名ぐらいのイタリア人男女が輪になって座談会をやってるのが7〜8グループあったかな。


私たちも踊らずに曲を楽しみながら後ろで輪になって色んな話しをしてた。舞台から離れたところにできた複数の輪は、色んなヤツが入れ替わり、いつの間にか日本人は私一人になってた。


まあこんなイベントに来る様なぶっとんだ日本人にみんな興味があったんだろうな。色んなヤツと一所懸命慣れない言語で話してその日一日で相当鍛えられた気がする。最後に一緒の輪になってたヤツらは、今日初めてあったばかりなのに変な団結力と昔からの知り合いだった様な奇妙な友情みたいなのを感じていた。



第一位 トンネルレイブ




何回かローマ郊外で開催されるレイブには参加したんだけど、合法なのか非合法なのか今でもこのシステムがイマイチ分かってない。


まず、毎回開催場所が判明するのが当日の夕方。


「今夜の場所の情報入った?」

ジョルジオ「いや、まだ情報来ねーよ。。。」



こんな感じ。聞いたところによると警察対策で主催者が戒厳令を敷き、直前に一部の人間にしかリークしないと…って事はやはり非合法なんやろな。


で、やっと開催場所の情報を手に入れたのは21時を過ぎていて早速2台に分かれて8人で現地に向かう。途中タカが運転する車とはぐれたり色々あって現場に到着して驚いたね。


田舎道とはいえ行政管理の県道を完全封鎖して、トンネルの両端を特殊な板で塞いで箱にしてたのよ。これがトンネルにスピーカー持ち込むとまあ音響効果がハンパない。この日が最も記憶に残った最高のレイブだった。実は細かく書こうと思えばこの日も色々あったんだけどそれは割愛しよう。


結局その後ロンドンやアムステルダムや東欧や北京など世界中のクラブにも足を運んだけど、この会場以上の箱には出会う事はなかった。まあこういう事ばかりやってたもんだから普通のクラブじゃ物足りない身体になっていた。



● ローマの遊び方 2



今思い起こせば、このメンバーとはレイブ以外にも色々あったね。


真夜中のサンタンジェロ城でかくれんぼをしたり、ムネの家にあるビデオを漁ってたら「ミナミの帝王」が出てきて、それを見たいというイタリア人にみんなで滅茶苦茶拙い同時通訳してあげたり。





「萬田はん、何いうてまんねん?」


「Signor Manda, ma che cazzo dici?」


まあ、今振り返ると幼稚園児レベルのイタリア語だったわ。


あとこれはローマならではの文化なんだろうけど、徹夜明けの早朝午前4時頃にみんなで有名な焼きたてコルネット(クロワッサン)を食いに行ったりもした。

ミラノだったら深夜に運河沿いでブリオッシュにジェラート挟んで食う文化があるし、東京なら深夜に環七ラーメン並ぶみたいなもんやな。


またある時は、雑談の中でパスタの話しになり「俺の作るカルボナーラが世界一美味い」っていうヤツが4人も現れ、そのまま4人でマルコの家の厨房を借りて料理対決をした事もあったね。因みにカルボナーラは代表的なローマ料理な。


全員で4人分のカルボナーラを試食した結果、調理した4人全員が「やっぱり俺のカルボナーラが一番だったな」って言ってたが、あんなにカルボナーラを大量に食べたのはあの時が最後だわ。





● 約束の地



まあ、そんなこんなで昼間は真面目に仕事しながら、時には意見が合わずぶつかり合いながらもいい歳こいて夜は超がつく程の馬鹿な事ばかりやってたような悪仲間だった。


そんなある夜・・・・


私たちは深夜のスペイン広場が好きだった。昼間あれだけ人ゴミでごったがえしていたこの広場には私たちの様な夜更かし組が1組居るか居ないかの時がある。シーンっと静まり返る広場。



いつもの様にみんなでスペイン階段に座って雑談してた時にふと私がこんな提案をしたんだ。


「将来みんな何やるんだろうね。イタリアに留まるのか、日本に帰るのか、別の国に行くのか?」

ノリコ「将来どうなってるのかお互い知りたいよね!」

「だったらさ、丁度"10年後の今日この時刻にこの場所"で集まろうぜ。」



その約束の日に、互いにどんな職業でどんな重要な会議や商談があろうと仮に家族の葬式があろうと、絶対に、絶対にこの場所、つまりスペイン広場に来なければならない…っていう約束をした。



日本に居たらこんなクサい約束しちゃうような関係って社会人になってからできなかったと思う。慣れない異国の地だからこそ、また私たちの精神年齢が異常に低かったからこそ生まれた友情だったんじゃないかな。


しかし、そんないい感じの関係はそう長くは続かなかった。




● ミラノへの転勤、そして散り散りに




年が明けて3週間ほどが経った頃、突然俺はオーナーに呼ばれた。


オーナー「カネアキ、来週ミラノに転勤な。」

「マジっすか?!」


えーっっ!来週ってあと4日しかないやん。。。その日から早速仕事の引き継ぎと、仕事関係者に挨拶を済ませ荷物を纏めて、そしてローマ最後の日。あんまり覚えてないがみんなと飯を食いに行ったと思う。


みんな別れを偲んでくれてるなか、相変わらず空気を読まないゴウだけは


ゴウ「カネ、ミラノに左遷 wwwww」

って、喜んでた。 あの野郎。。。。。



その後グループの中心人物でもあり一番の問題児でもあるタカは賃上げ交渉が決裂して店のオーナーと揉めて仕事を辞め、元働いていた店から告発されて脱税容疑?で財務警察から追われる身となり住む場所を失い、仲間の家を転々と移り住んだ後、結局日本に帰国した。日本に持ち込んではいけないモノを身体に忍ばせて。


そしてジョルジオやファブリッツィオは受験とか就職活動が忙しくなりあまり顔を出さなくなった。


ゴウは仕事をクビになり、ゴウとマルコとミクはローマから姿を消して行方知れず、カズもタカを追う様に帰国、ノリコも「私、添乗員になってローマに戻ってくる」とか言って帰国したらしい。相変わらずコイツだけは何を考えてるかわからん。

ミラノに転勤する時は、いつでもスペイン広場に行きさえすれば絶対に誰かに会えるだろうと安易な考えだったから日本の連絡先もお互いに知らないままだった。


たまにミラノからローマ出張に行った際も、2年後に再びローマに戻ってきてからも、結局当時のメンバーで会えたのはまだローマに残っていたジョルジオとファブリッツィオとムネの3人だけで後の人達は噂でどうなったか聞けるだけになり完全音信不通となった。

そんな教訓からムネだけは連絡先を持っていたので、日本に帰った後6年程前に一度だけ会いに行った。



● そして10年後


そして時は経ち10年後、私は帰国してからずっと仕事がアホみたいに忙しく、あの時の約束はすっかり忘れ去られていた。でもある日曜の夜にテレビを見ていた時に画面にスペイン階段が映った。「イタリアかー。。。ローマいいねー。。。スペイン広場。。。。ん? あーー!!!


「んぬぁあぁああああーーーー」

ってなったね。


基本的にこの手の約束事は確実に守るタイプなんだが、今回ばかりは本気ですっかり忘れていたんだ。気付いたのは良いが時既に遅しで、その後誰とも連絡してないから、実際に覚えてて約束の刻に約束の地に行った奴が居たのか未だに謎。


まあイタリア人はロケーション的に問題はないだろうが、何しろ世界有数のいいかげんな人種だしな。


私以外の全員が行ったかも知れないし、もしかしたら全員すっぽかしてたかも知れない。なんせ日本人も含めて飽きれるくらいイタリア的にいいかげんな奴らだったし。


こうして自ら提案した約束を私は自ら破ってしまった。



● そして18年後


更に時は8年が経過して先々週の話し。ふと、そんな出来事を思い出しながら、Facebookで名前を検索してみた。


これはイタリアに限らず海外在住してたら多分普通の事なんだろうけど、通常お互いの苗字を知らないのね。ビジネスでもプライベートでも苗字を名乗る事はまずなかったし。

おまけに当時は携帯電話もメールもインターネットも無い時代だったから、現代と違って実家の家電の番号を知らないとお互い繋がれない。つまり余程珍しい名前じゃない限りSNSでもGoogleでも探し当てる事が難しい。


でもね、本当偶然なんだけど、いろいろ当時の記憶をずーっと深くまで辿っていたら、ふとマルコの親父さんの苗字を思い出す事ができた。

実は当時の仕事上その親父さんの苗字をひょんな事から知る機会があり、そんなに多くない苗字だった事を急に思い出したんだ。


で、苗字を入れてマルコをフルネームで検索してみたら…発見!!!イタリア系コミュニティに参加してるしまず間違いない。


っていうか日本人と結婚して日本に住んでる!しかも関東!


本当はこのままFacebookでメッセージ送って「久し振り〜」とかやってもいいのだけど、それじゃあつまらない。勤め先でも自宅でも何かしらの手掛かりがないかと携帯アップロードの写真を丹念に見ると…手掛かり発見。


自宅で撮影したと思われる写真には位置情報がついてなかったけど、年賀状の写真があって番地はなかったけど住所の一部が掲載されてた。

で、他の写真に写ってる家の外壁の色を頼りにGoogleストリートビューを動かす事5分。あっけなく家を特定。もうやってる事が探偵かストーカーだよ。。





暫らく彼のFacebookを見ていると衝撃の事実が。


マルコの奥さんもその10人グループの中の1人、ミクだった事が判明した。まさかあの2人が結婚だと?!ってなったね。



● マルコと再会


そしてとうとうそいつの自宅に突撃をかける時が来た。21時頃目的の家に着くと玄関だけ灯りが点いてるが家は真っ暗。念の為イーターホンを押すも誰も出ない。家の前に駐車したままだと近所迷惑だろうと通りの方に車を停めて待つ事30分。一台の車が目標の家の車庫に入ったのを確認して真っ暗闇の中、車の運転席に近付く。どうやら奥さんの方だ。


相手からしたらヘッドライトに映されながらゆっくりと近づく私の姿を見て相当恐怖だったと思う。


警戒しながら窓が少し開いたところで俺から「久しぶり。」と一言。まだ全く誰だか解ってない様子。暗がりだという事もあるけど18年も経ち、当時は長髪だった私が現在坊主頭という事も考えたら昼間でも判らなかったと思う。

「ローマのカネアキだよ」

ミク「えーーーーーーーーーーーっっ !」


想像通りのリアクションありがとうございます。その場で少し話した後に近くのファミレスに移動、マルコは都心の仕事場から帰宅途中だったから急いで合流する様に連絡を取って貰った。


マルコが合流してからは色んな積もり積もった話しをして懐かしんだけど、いよいよあの事を尋ねてみた。


「昔さ、スペイン階段に座りながら約束した事覚えてる?」って2人に尋ねたら、ミクの方は「そんな事あったねー、懐かしいー、もちろん当時は日本に居て、忘れてたから行かなかったけど。」という回答だったけど、マルコの方は「そんな約束したか?全く覚えてないわ」と。。。


この夫婦曰く、恐らくジョルジオとファブリッツィオのイタリア勢含め、間違いなく誰も行ってないだろうとの事でした。

曰く、あのメンバーの中でも一番しっかりしてる私でさえ忘れてたぐらいだから、誰一人覚えてるヤツは居ねーよと。


今から思えば「10年後の今日、この時刻」って約束がまずかったと思う。誰かの誕生日とか、イタリア人ならまず忘れない12月8日とかにしてたら誰かしら来てたかもなーと。



● ジョルジオとつながる



マルコはタカやゴウの連絡先は知らなかったが、ローマに居るジョルジオとファブリッツィオの両名とはFacebookで繋がっていた。2人はまだ仲良くつるんでいる様で2年程前に観光で来日していたらしい。


その後ジョルジオとはFacebookで繋がり、メッセージでやりとりしたんだが、そこからまたまた偶然にもジョルジオのお母さんがタカの苗字を知っていた。


これはさっき知ったんだけど、私がミラノに行った後、タカは仕事を辞め家を転々としたりテルミニ駅でホームレスと一緒に寝ていた時期があり、それを知ったジョルジオのお母さんが心配してジョルジオの家に暫らく住むよう計ってくれたという。


なんという偶然!俺もマルコもミクも知らないタカの苗字を遠く離れたローマから、しかもジョルジオのお母さん経由で知る事になるとは。



● タカに再会 1


それから俺の行動は早かった。昔タカから聞いた地元話の記憶を辿り、ヤツの実家があると思われる街の候補は4駅に絞り込んだ。


そして実家は建築か建設か設計か土木かリフォーム、工務店系の会社をやっていた…はず。


早速「地名 業種 苗字」でググったらいくつか怪しいのが出てきた。


苗字が同じというだけで、もしかしたら違うかも知れないが、そのタカと同じ苗字の人が代表を務めてるそれらの会社に一軒ずつ行ってみる事にした。


※注  俺、決して暇じゃない。


木曜日に18年振りの再会を果たしたところからいろいろ繋がり、僅か3日後の日曜日、もちろんマルコの時と同じ様にアポなしで会いに行く事にした。ただマルコの時と違うのはそこにタカが居るという確証がないのだったが。


その会社はどうも事務所っぽくなく、どうやら本社住所は実家になってるらしく住宅街にあった。通りから路地に入り、その会社の代表取締役と同じ苗字の表札の前で車を停めて外に出た。

いざインターホンを鳴らそうとした時に、子供とおっさんの話し声が聞こえてきて、ふとそちらを見たら、ガラの悪そうなおっさんが子供と一緒にこちらに歩いて来て、会釈された。

「.....タカ...か?」

タカ「はい?......???」

「タカ !!!」

タカ「....... !!!!!」


劇的な再会にお互い走り寄りガシッと強く抱き絞め合ったんだけど、多分細身の人なら背骨肋骨折れてる位強く抱き合ったわ。





相手も私と同じ年齢体格のおっさんだったので、多分周りから見たらアレ、薔薇族系の撮影と勘違いされてる可能性が高い。タカと一緒に歩いてきた子供は目の前で何が起こってるのか理解できてないらしく、抱き合うおっさん2人を見ながらドン引き状態。


「なんでこの場所がわかった?」という当たり前な質問と共に立ち話もなんだから上がっていけと。

会社住所と思われた場所は、やはりタカの実家で、家にお邪魔すると日曜日の孫達との団欒をぶち壊す様な突然の来客にも、タカのご両親も奥さんも快く出迎えてくれた。


まさか今日中に本人に辿り着けるとは思ってなかったから手土産一つも持たずに申し訳なかった。

タカと話してると、マルコの時もそうだったが18年間完全に忘れてた思い出がどんどん蘇る。


● タカに再会 2


それから場所を変え喫茶店で懐かしい話しをしてたら、なんと当時のメンバーだったゴウとカズの連絡先を知ってるという。


聞けばこのゴウは俺がミラノに引越した後にタカを追う様に日本に帰国。

しかし元々「何かを成し遂げるまで帰国は許さん」と父親に飛ばされイタリアに来ていた身だからすぐにまた日本を追われたらしい。(どんな親やねん?)


そして某国に渡りすぐ、とある容疑で捕まり僅か数十分のあっさりした裁判の末、まさかの死刑宣告され実刑確定。

しかしヤツも相当太い運を持ち合わせてるらしく、ピーな都合でピーな力を使い釈放、国外退去で死刑を逃れたんだと。


東南アジア、特にベトナムやタイの刑務所には悪さして捕まった日本人が結構いるとは聞いていたが、まさか知り合いが死刑アリの国で捕まってるとはね。。


私も大概、経験値は半端じゃなく高い方だがヤツの方が遥かに高かった。死刑宣告って。。。



そう言えばこんな話しもされた。ここまで散々お互いに機関銃の様に懐かしい話しが繰り出されてたのだが、一旦話しが途切れた時に急にタカが「あーっ!」って小さく叫んだ。


タカ「俺、埋めたんだよ」

「ん?? 何を?」

タカ「俺、ローマを離れる時に、またローマに戻って来れますように…って願いを込めてある場所に大事なモノを埋めたんだよ」


詳しく聞いてみると、どうやら小学生がやってる様なタイムカプセル的な何かを初代ローマ皇帝のアウグストゥスのお墓の近くに埋めてきたらしい。

この人、アウグストゥスさん。



おいおい…なんという場所に埋めたんだよ?ローマはどこでも穴を掘れば遺跡が出てくるから下手したら法律に抵触するよ。更に詳しく訊いて一応遺跡として保護されてるエリアではない事が確認されたので良かったんだが。


そんなこんなで積もる話しは尽きなかったが今度タカとゴウとカズの休みの合う日に集まる約束をしてその日は別れた。



● エピローグ


今回、本来ならもう二度と会う事はないだろうと思っていた旧友と会う事ができた。インターネットを駆使してマルコとミクと再会し、そこからジョルジオとファブリッツィオとFacebookで繋がり、そしてジョルジオのお母さん経由でタカまで探しあて、タカを通じてゴウとカズまで繋がった。


インターネットって凄いね。本当に凄い。

ただあのメンバーの中で、唯一探したけど見つからなかったのがノリコだった。彼女は元々機械やネットとか弱そうで、当然本名でSNSもやってないし、タカが持っていた唯一最有力連絡手段だった実家の電話番号は現在使われておりません…で繋がらない。彼女の知り合いがこのストーリーを読んでそれをノリコが聞き、都合よく私に連絡してこないかなー、、、なんて少しだけ期待している。


ジョルジオとファブリッツィオは結婚はまだらしいが、今もローマで真面目に仕事をしているらしい。


タカは次期社長として現場見習いしながら4人の子供達に囲まれ幸せに暮らしている。


ムネは結婚してるか分からないけど、東海地方で宝石会社の役員をやっている。


マルコは日本で某東証1部上場企業で上級役職。ミクと2人の子供と暮らしている。


カズは法律関係を勉強しており将来はそっちの道にいくようだ。


ゴウは一度結婚して最近離婚。今のところ定職に就いてるけど、あの感じではまた親父さんの命令でどこかの国に飛ばされそう。


こんな感じで、みんな元気でそれぞれの道を歩んでいる。そして俺はというと…


今が2014年再来年2016年の11月で、あの約束の日から丸20年が経過する。"10年後のあの日あの時刻あの場所"での再会が果たせなかったので、"20年後のあの日あの時刻あの場所"に、行方不明のノリコや不定期参戦してたイタリア人含むあの当時のメンバー全員で集まるっていう企画を密かに企んでいるのであった。



「最後まで読んで頂きありがとうございました。この手のエピソードは20~30はあるので、また気が向いたら書こうと思います。」


続編を書きました→

続「死ぬまでに会いたい奴リスト」に載ってる奴らに会ってきた話 〜ローマ編〜






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