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14/9/18

〜出逢い前夜〜僕がひとりの女性と出逢い、それまでのドン底から、経営者になって代官山に住むまでの話。

Image by Olia Gozha

今、振り返っても・・一番辛くて、一番カネもなく、一番人生に投げやりだった頃に、彼女と出逢った


人生、

こんなはずじゃなかった・・・


大学だって六大学に入れたし、就職は氷河期と言われる時代に第一希望の超優良企業である一部上場企業に入って、あれほど迷惑をかけてしまった両親に最高の親孝行をしたつもりでいた。


おかしいぞ。

「勉強して、良い会社に入社できたら、人生に勝てる」と教わったはずなのに・・・



親や社会が引いたレールを

なんの疑問も持たずに、歩いて来たはずなのに・・・



世間のゴール=良い企業に勤める


しかし、この世間のゴールを果たした僕は、

この世間一般的な、“超優良企業”に入ったことから少しずつ、何かが壊れ始め、歯車が狂い始めた。


その会社の給料は、

上場企業においてフジテレビの次と言われるくらいで平均年収は1,000万円以上な会社だけに、入社した1年目から、一緒に就活をがんばった周りの友達に中では圧倒的に給料が良かった。

幼き頃、お金で苦労した分、もう僕は有頂天だった。


「やった!これで、人生はバラ色だ!」


あまりに浮かれていて、当時の僕は、少しずつ自分の人生の崩れていく音に気づかなかった。


大学時代の友達「いいな〜、お前の会社、給料高いんだろ。」

「すげーぞ、4月の初任給、なんと、、、67万円だったわ!引っ越し御祝い金だってよ。」

大学時代の友達「マジかよ。おごれよ。」

「ダメだわ。スーツ5着買ったら、無くなっちゃった。。。」


とにかく、僕は、お金にだらしがなかった。

高校時代、バイトも禁止だったのに、隠れて僕だけがバイトをしないと周りの友達と遊べなかった。昼休み、みんなが菓子パンとか買っている中、親が作ってくれた弁当を食べるのが恥ずかしくて、いつもこっそりと食べていた。


大学時代、周りの友達の中で一番、仕送りが少なかった。今考えたらそれでも私立の大学に入れてくれて東京でのひとり暮らしをさせてくれた親のスゴさって、親になって気づけたけど、当時は、とにかく、少なすぎる仕送りに毎月がっかりしながら、バイトの日々で、サークルで遊んでいた友達を呪ってばかりいた。


そんな僕が、社会に出た瞬間、一発逆転。とにかく、優越感が半端なかった。


すぐにBMWの真っ赤なオープンカーを買った。信号待ちになるたびに、意味もなく屋根を開け閉めして、優越感に浸っていた。笑


あれ?俺、ヤバくね?


なんとかなく、社内の風当たりの強さに気づいたのは、3ヶ月の研修が終えて、営業所に配属された頃から。

まだ、誰も成績を出してないのに、なぜか、上司が僕だけに冷たい気がした。


そりゃ、そうだ。

まったく、やる気が僕にはないのだ。


成績を出すというレベルの前に、仕事に対して、やる気がないのが周りに伝わるほど、僕の仕事っぷりは横柄だった。

実は、大学時代、同じような理由で、何回もバイトをクビになって、最後には、日雇いのバイトをなんとか1日やって、翌日は、また違う仕事で日雇いに出るという働き方だったのだ。


要するに・・・飽きっぽいのだ。


入社半年にして、すでに、平日は地獄となっていた。

そして、そのストレスを金曜日の夜から発散させようと、給料が良いことを理由にとにかく、豪遊しまくって、月曜日の朝ギリギリまで遊んで、そのまま月曜日に出社をするために、さらに、月曜日からのテンションが低くなっていくという負のスパイラル。


辞めたい。辞めたい。辞めたい。辞めたい・・・


もう、逃げ出すことしか考えなくなった。

逃げることだけを考える平日に、そのストレスから逃れるために遊びまくる休日。

このストレスのアップダウンが、毎週のようにジェットコースター的にやってくる。


転職する?


でも、僕は、1ミリも転職を考えなかった。いや、考えて、転職エージェントに打診したら、、、

エージェント「1500%、今の給料より低い条件の会社しかないですが良いですか?」

「無理。」

とにかく、仕事は辞めたいくせに、この会社の給与体系だけはしがみついて起きたいというジレンマ。

結局、お金への執着が勝ち、転職は、辞めた。


起業は?


でも、僕は、1ミリも起業は考えられなかった。1ミリも。

就活においても、今の時代なら、就職か起業の選択から入る人も多いと思うけど、僕は、1ミリも疑うことなく、サラリーマンになることを選択した。

それには、理由があって、僕の両親の祖父たちの存在だ。

僕の父親、母親の両方のおじいちゃんは、両方ともに、会社経営者だった。

母方のおじいちゃんは、戦争のあと、鉄に目をつけて鉄工所を興し、財を成した。地元では1番のお金持ちだったらしい。

父方のおじいちゃんは、当時、相場の値動きが激しいコンニャク工場を経営していて、値下がったら貯蓄し、値上がったら市場に出すを繰り返して、財産を増やしていった。

そんな資産家の両家がお見合いで結婚したのが、僕の両親だった。


しかし、僕が小学校の時、両方の会社が倒産した。これがきっかけなのか、半身不随の病に倒れ、おばあちゃんがずっと苦労していたのを僕は、幼心に記憶に残っている。


だから、只石家の家訓がある。

父親「うちの家訓は、「起業だけはしてはならぬ!」」

母親「仕事ってそもそもつまらないもの。我慢さえしていたら、自動で25日には給料が振り込まれるサラリーマンで一生いなさい。」

実は、父親も二度も勤めた会社を倒産によって、追い出された経験があった。

だから、とにかく、僕は、厳格というか、厳しすぎる環境で、育てられた。


転職は、できない。給料が減るから・・・

起業は、こわい。おじいちゃんみたいになりたくない・・・


そんな我欲と、不安があるなら、頑張ればいいのに、頑張ることすらできない。

この時点で、僕は、完全に自分を失っていたかもしれない。


僕は思う。

“当時の僕と同じような人って、案外多いんじゃないだろうか?”


  辛いと口にしながら、明日もあさっても何もしない人・・・

  起業するぞ!と言いながらも、具体的に何もしない人・・・

  不安や不満ばかりなのに、その環境も、状況すらも変えようとしない人・・・


でも、

当時、本当に苦しみながらも、何も打開するような行動を一切取らずに、毎日、我慢するという最悪の選択しかできない日々を過ごした僕だからこそ、わかる気がする。


結局、人って、、、、不安は行動のきっかけにならない。


起業するまでの僕は、常に不安が支配していた。しかし、その不安はどんなに膨らんでも、打開するようなエネルギーに満ちた行動は生まれてこなかった。

すべての行動は、他人からの外圧や、指示、命令、無言のプレッシャーだった。



もう、ダメだ・・・



入社してから3年が過ぎた。今思い返したら、よく3年も頑張ったと思う。

ある意味、努力のエネルギー量という意味では、人生で一番、エネルギー量は多かったかもしれない。ただ、、、すべてのエネルギーは“我慢し続ける”という、一切、生産性のない努力に注がれて、何も産み出せなかったけど。


3年と2ヶ月と25日目に、ボーナスがあった。

当時の会社は、なんと、年に3回もボーナスがあり、長期休暇の前には、10万円のお小遣いまで出てくる企業だった。

しかし、疲れ果てた僕は、ボーナスを支払い用紙を手にした瞬間・・・


すべての糸が切れた。


辞めよう。

決断した瞬間、1秒でも早く、会社を抜け出したかった。

成績も悪かった僕は、営業の引き継ぎをするクライアントも皆無だったので、あっという間に、次の営業に担当地区を引き継ぎ、逃げるようにして、会社を辞めた。


ホッとした。心からホッとした。こんなにも開放感があるなら、もっと早く辞めておけばよかったと思えるくらいホッとした。


僕は、次の会社を決めてないまま辞表を出していた。


しかし、

僕なりの考え方があった。


 ・ とにかく、辞表を叩きつけた、超優良企業の同僚たちにはお金では負けたくない

 ・ もう、地味な仕事だけはしない


そこまで、負けたくないなら、会社にいたときから、闘争心を持ってがんばればいいのに、なぜか、辞めてから急に、以前の会社の同僚たちの目が気になってしまった。

そして、朝から晩まで電話したり、客にペコペコ頭を下げる仕事を3年もやって、とにかく、毎日が地味過ぎるサラリーマンに戻りたくなかった。


だから、

僕には、とっておきの戦略があったのだ。


上場企業を辞めて、翌日から、ホストの世界へ


辞めた日の夜、面接に向かった。目指すは、ホスト。しかし、ホストクラブと言えば、“歌舞伎町”なのに、僕は、浅草に向かった。浅草?実は、浅草には4店舗だけだけど、ホストクラブが存在する。


歌舞伎町じゃ、、、勝てない。


これが、浅草という場所を第二の仕事の場所に選んだ理由。

要するに、、、最初から、負け犬根性だった。


そして、浅草のホストという夜の世界にデビューした。

25歳。9.11が勃発する数ヶ月前だった。


全く、売れない。全く、客もいない。給料ゼロ。


完全にホストをなめていた。ある意味、サラリーマン時代よりもキツかった。

完全、歩合制

完全、成績順

完全、売れたヤツが勝ちで、売れないヤツはゴミ以下な世界


僕は、最初からゴミだった。

あきらかに、20歳にもなってないような、見た目クソガキなホスト君から、


 「おい、タバコ買ってこいや。」

 「てめー、やる気あんのか?」

 「売れねーのに、ノロノロ動いてんじゃねーぞ。コラ」


くそ!!!

マジで、ムカついた。心からムカついた。


しかし、僕の心の奥から沸き上がるのは、負けん気エネルギーじゃなく、、、


 俺は、テメーらと違って、大学も出てるし、一流企業にだっていたんだよ。

 バーカ。

 しかも、歌舞伎町じゃなく、浅草の田舎ホストのくせに!


完全に、、、、僕は、終わっていた。

完全に、僕の思考は、腐りきってた。


自分から逃げ出した企業を、こういう時だけ利用し、

歌舞伎町が怖くて、自分から浅草を選択したのに・・・


当時の僕は、そんな腐りきったヤツだった。


サラリーマン時代も、

自分より成績がいいヤツには、

「あいつは、仕事しかねーのかよ、人生、終わってんな。」


自分よりも成績が悪いヤツはごくわずかしか居なかったけど、まるで鬼の首を取ったように、

「あいつ、バカじゃね?恥ずかしくねーのかよ。」


人生、終わっているのは、僕だった。

恥ずかしすぎる人生を送っているのは、紛れも無く僕だった。


しかし、まだ、この時点では、僕は何も気づけてなかった。

そして、、、、


「俺が売れないのは、浅草という二流な場所のせいだ。よし、真剣勝負を歌舞伎町でやろう!」


半年もかからず、全く浅草のホストクラブに成績を残さず、ある日、突然辞めた。


そして、ついに、ホストの聖地、歌舞伎町デビュー!


最初から、歌舞伎町にしておけばよかった。

そうだよ、俺ほどの器の人間は、浅草という地方ホストじゃ

価値に気づけてもらえなかったんだ。

うん、やっと、勝負が出来る!さあ・・・


チーン。。。


歌舞伎町のホストクラブに入って、1日目から、後悔をした。

死ぬほど、後悔をした。この後悔の深さは、海より深く、サラリーマン時代なんて比べられないくらい後悔が深すぎた。


 売れないヤツは、酒を飲んで、飲んで、飲み干して、客に高い酒を入れさせる。


この絶対的なルールにのっとり、

僕は、初日から、浴びるように酒を飲まされた。実は、僕は、ホストクラブに入るまで、ビール1本で酔いつぶれてしまうほど、酒は強くなかった。


しかし、言い訳を言う前に、口を酒が並々入ったグラスによって塞がれた。

グラスの酒がなくなると、すぐにグラスが口元に運ばれてくる。


毎日、店が終わる前には、完全に酔いつぶれ、気づいたら誰も介抱してくれた形跡もなく、裏の汚い床の上に、汚物と一緒に寝ていた。

そんな日々が、毎日だ。毎日。

僕は、それでも歌舞伎町のホストクラブで働き続けた。

ナンバーワンになるためか?

いや、そんな夢はとっくに、僕の中にはなくなっていた。

ただ、ただ、あるのは・・・ ここを辞めたら、僕の人生は完全にジ・エンド。


結局、サラリーマン時代と一緒。

唯一の努力が、『我慢するという努力』。そこからは何も生まれない。

どんなに辛くても、その辛さを打開する努力ができないのだ。

早く、客を見つけて、売れるホストになれば、限界の一切ない、酔いつぶれるまで無理やりさせられるドンペリの一気飲みからは開放されるのに、とにかく、積極的な努力ができないのだ。


 僕は、なにひとつ、自分の“意志”で努力ができない・・・


急に、悲しくなった。止めどなく涙が流れた。しかし、翌日には、またホストクラブに働きに行く。


そんな時だった、風俗嬢と言われる職業の子に出会い、彼女の家に転がり込んだ。

それをきっかけに、あれほど辞めたくても辞められないホストクラブを辞めた。あっけなかった。

そして、僕は、完全にその子に依存した状態の生活になった。俗にいう、、ヒモ状態ってやつだ。


これがまたしんどかった。向こうは、養ってあげている。こっちは、いてやってる。

この関係に、感謝の心が芽生えることはほぼ皆無だった。

しょっちゅう、喧嘩をしていた。でも、僕は、ここすら逃げ出さすことが出来なかった。


だから、

僕は、決心した。


もう一度、就職をしよう!と。


大手転職会社に登録をして、過去の職歴を伝えた。すると、よっぽど、僕の前職の上場企業のネームバリューがあるせいか、転職エージェントの人に言われた。


転職会社の人「只石さんの前職の会社なら、間違いなく、転職は可能ですね。ただ、、、年収はかなり落ちますが、大丈夫ですか?」

「もちろんです!年収は気にしません。とにかく、就職したいのです!!」

転職会社の人「わかりました。動いてみますよう。ところで、、、前職を辞めてから2年以上、ブランクがありますが、何をやってましたか?」

「・・・・」

転職会社の人「答えられないのはどうしてですか?」

「それ、答えないとダメですか?」

転職会社の人「はい、とくに、大手企業は、退職後のブランクは、すごく悪い印象で、マイナス評価になってしまいますので、きちんと、その期間にやっていたことを伝えたほうが良いかと。」

「・・・・、えーと、、、、サービス業をしてました。」

完全に、、、ごまかした。

こんなところでごまかすくらいなら、

ホストなど、しなければいいのに、僕は、瞬時に、ごまかすことで逃げた。


しかし、僕のこの自信の無さが伝わったのか、転職エージェント君が、本気で動いてくれてないのは、いやというほど伝わってきて、僕は、この時ほど、上場企業を辞めて、ホストをやるという、自分の愚かさを、呪い殺したくなったことはなかった。


結局、、、70社に、履歴書と職務経歴書を送って、反応があったのが、、、1社のみ。


僕は、結果的に、その1社に、無理やり入社しました。

今で言えば、ブラック企業というやつだったかもしれませんが、とにかく、背に腹は変えられません。


仕事内容は、IT企業として、サーバ管理業務やWEB制作を売っていて、

完全に、飛び込みセールスで、受注するというスタイルでした。

僕は、元上場企業の営業マンとして、華々しく入社しました。ちなみに、その会社創業以来、大卒の新入社員は僕が初めてと言ってました。


初日から、100件の飛び込み営業。

僕は、半日で飽きました。

飽きたというのはまだ、良い表現で、ぶっちゃけ、怖かったのです。

それは、飛び込み営業において、受付のブロックを超えて担当者につないでもらえるのは、目標とすべきことなんですが、僕は、せっかく、数十件に1人の割合で、担当者がせっかく出てきても、、、


サーバとか、

WEB制作とか、

ドメインとか、、、何もわからないまま、飛び込んでいるので、会話にならないのです。


今考えたら、もっと勉強してから動くか、動きながら、スキマ時間で勉強すべきでしたが、

また、僕の悪い癖が出てきてしまったのです。


ただ、ひたすら耐える。


毎日、100件以上に飛び込み、せっかく、引っ張りだした担当者や、ベンチャー企業の社長たちに会えても、あたふたするだけ。


日に日に、周りの社員たちの僕の見る目が変わってきたのは、言うまでもありません。


辞めたい、

辞めたい、

辞めたい、、、、


朝礼で吊るしあげられて、夕礼には帰らせてもらえず、

深夜近くに、半べそかきながら、上司に電話。すると、上司は、たった一言・・・


「今日は、満足するまで、営業できたか?」


そんなの答えられるわけないです、、、



結局、3ヶ月の試用期間で試合終了。


人生で初めて、精神がぶっ壊れそうでした。

朝、電車に乗ると、急に頭痛がしたり、吐き気がしたり。

会社のドアが重く、朝礼の時間が恐怖でしかない。

上司も、一番、イヤだと思うところをつくのです。


「◯◯ちゃん、君は、只石くんの何が悪いと思う?」


茶髪の若いバイトの女の子にあえて、みんなの前で質問をさせるのです。

すると、その子は、さも当たり前のごとく、、、、


バイトの子「ってか、そもそも、やる気無いですよね〜。 あれじゃ、ダメっしょ。」

「・・・・・・涙。」


そして、僕は、2ヶ月と25日という、その会社創業以来、最短記録で、この会社もクビになった。

ちなみに、僕の入社前に入った女の子の営業マンが、1ヶ月で売れた金額が1万円という最低記録だったけど、僕は、辞めるまでの2ヶ月と25日間、売上ゼロ円という圧倒的な記録を残して、クビになった。


今でも覚えている屈辱は、その会社は、毎月月末が締め日で、月末までの分を25日に支払うので、

会社を去る時、その会社の社長が、


「おい、経理! コイツを銀行のATMに連れて行って、月末までの5日分、取り戻してこいや」


5日分を返さなければならない悔しさよりも、

僕が、1人で銀行に行くと、逃げると思われていることに、僕は、圧倒的な絶望感すら感じた。


また、

僕は、女の子に依存する生活に戻ってしまった。


僕は・・・社会復帰できるのか?


せっかくの会社もクビ、

夜の世界もダメ、

創業したてのベンチャー企業でも通用せず・・・


何が出来るというのか?


でも、結局、僕は動こうとすらしなかった。


変わりたいと思いつつ、変わる努力どころか、行動すらしない日々。


毎日のように、その子とも喧嘩、喧嘩、喧嘩。


そして、ついに喧嘩が・・・


それは些細なことがきっかけだった。


いつものように、喧嘩。些細なことで喧嘩が始まり、

お互いに、お互いを否定し合い、

口論が熱くなり、


たまたま近くに置いてあった包丁を彼女は、無意識に僕に投げつけた。


危ない!


避けようとした僕の腕めがけて包丁が飛んできて、バックリと腕が切れた。


尋常じゃない血が飛び散った、、、、はずだった。

しかし、テレビドラマのシーンとは違って、全く血も流れなかった。あまりに鋭利に切れたので血がすぐには出てこなかったのだ。

しかし、骨が見えた。生まれた初めて、歯以外で、自分の骨を見た。驚くほど白かった。なぜか、今でもあの真っ白な骨の色だけは覚えている。

そして、僕は思った。


「落ちるところまで落ちたわ。これが俗に言う、、、人生のドン底ってやつか。」


すると、ふと身体が軽くなった感覚が僕を襲った。


ドン底・・・ならば、もうこれ以上、落ちないということか?


急に、身体中がアツくなった。なぜか、エネルギーがどんどん湧き上がっていくる感覚に襲われた。


ドン底=もう、落ちない。あとは、上がるだけ。


気づいたら、後から血が噴き出し腕から下は血だらけになっていた。

でも、なぜか、僕は冷静だった。



僕は、

自力で病院まで治療に行き、彼女の元に戻り、彼女に土下座して伝えた。


「今まで僕が悪かった。すべて謝るし、今までのお金はすべて返します。」


すべては、僕の意志から発せられた言葉だった。

とにかく、僕は、人生でここまで感じたことがないくらいの勇気と、可能性を感じて、彼女の家を出た。


それからは、友達の家を点々として、友達が会社に行っている間、友達のパソコンを借りて、とにかく、出来る仕事がないか、探しに探した。ほぼ、毎日、時間があればネットサーフィンをしまくった。


そんな僕を見かねて、友達たちは、いろいろな人を紹介してくれた。頭を下げ続け、どんな仕事でも進んでさせてもらった。あれほど、サラリーマン時代、ホスト時代、頭を下げることに抵抗があったのに、全く、躊躇することなく、頭を下げられるようになっていた。プライドがなくなった訳じゃないと思う。ただ、ただ、できることはすべてやろう!という自分の意志で、自然と頭が下げられるようになっていた。


少しずつ、ホームページの制作も覚えてきて、簡単なWEBサイトなら、自力で制作してサーバに乗せられるまでに僕は進化した。

そして、稼いだお金は、昔の彼女に渡した。彼女も僕の変わり様を喜んでくれた。僕は、マジで泣いた。こんなにも心が綺麗だった子を、僕は、結局、見下して、色眼鏡で見ていただけだった。やっと、彼女に、心から感謝が言えた。

浅草と歌舞伎町のホストクラブにも、誤りに行った。心から頭を下げてお詫びと、感謝の言葉を素直に伝えられた。

前職の同僚たちにも、正直に、辞めた翌日からホストをやり、そこで全く売れずに、地べたを這いつくばっていた生活を送っていたことを、隠すこともなく告白できた。あれほど、こだわっていた、僕の変なプライドは、もうなくなっていた。


両親にも、誤りに行った。サラリーマンを辞めてから初めて会った。

両親は泣いていた。ホスト時代、お金があまりになくて、家賃も払えず実家も失い、カードのキャッシンに手を染めて、毎日のように返済の電話が鳴り止まない時代、仕送りを親に頼んだ時に、すでに気づいていたという。それでも、僕に黙って仕送りを送ってくれていたことを知って、僕は、泣き崩れた。


逃げても、何も生まれない。


僕が、サラリーマン時代、ホスト時代、無職時代で、一番気づいたことだ。


もう逃げない。


こう、自分自身に誓った時期に、彼女に出逢った。出逢いは、突然だった。


彼女が、僕に、ずっと言い続けてくれた言葉、それこそが、


「あなたは、絶対にできる。あなたは、絶対にできる。私は、心から信じている。」



そう、

僕は、彼女と出会う直前に、“感謝”の大切さに気づき、


そして、彼女と出逢った。


今度は、彼女からたくさんのことを教わった。

もし、

僕が、一番、彼女から教わった大事なことを1つあげるとしたら・・・




“ 自 分 を 信 じ る チ カ ラ ”を持つと、人は、信じられないエネルギーが産まれ、
そのエネルギーこそが、未来を好きなように創りあげる。


“ 自 分 を 信 じ る チ カ ラ ”

僕は、このチカラを彼女からもらって、気づいたら、経営者として10年過ごしていた。


今でも、彼女は僕の隣にいる。妻として。

そして、僕と彼女の間には、息子がいる。


これから、

彼女から教わった“ 自 分 を 信 じ る チ カ ラ ”を話させてください。


信じられないけど、すべて、僕が経験したこと。経験したからこそ、気づけたこと・・・

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