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14/8/30

学年ビリ、偏差値30台の落ちこぼれが、大学を辞め、世界の名門ロンドン大学に留学、そして商社マンになる話

Image by Olia Gozha



担任「お母さん!お子さんがテスト中にいなくなりました。」


数学の試験中にいなくなった僕を心配し、高校の担任の先生が家にまで電話をしてきた。

問題を見ても全く分からないので、考えるのを止めて教室を出た。
高校三年時の偏差値は30台。試験前には担任が赤点を取らないように電話してくるほど成績が悪く、学年でビリを争う四天王と呼ばれるほどバカだった。

授業中に勉強もせず何をしていたかと言うと、ゲームをするかマンガを読んでいた。教室にはドラゴンボール、北斗の拳、スラムダンクがあり、当時はこれこそ高校生のバイブルで、教科書になるべきだと本気で思っていた。

そして毎年二学期になると親は学校へ呼ばれ、当時の担任から「このままでは赤が残る、留年する」と忠告されていた。


小学校の時の公文式の宿題は裏と表しかせず、それが見つかって怒られると、今度は全てのページに適当な答えを書くようにした。中学校の時は30分も机に向かうことができなかったので、母親が塾の先生に相談したほどだ。とにかく勉強が嫌いだったのだ。


(高三の成績表)赤い数字が目立つ。



書籍化決定

このストーリーは宝島社から12月12日(金)に書籍化されました。

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スポーツ推薦

高校の成績は悪かったが、進路の心配はしていなかった。陸上部に所属していた僕は、県の強化指定選手にも選ばれた経験があり、大学にはスポーツ推薦で入るつもりでいた。「勉強なんかしなくても、大学には推薦でいける」、これが当時の僕の口癖であった。


そして待ちにまった最後の高校総体県予選。結果は5000mで入賞し、近畿総体出場。最後の総体で結果を出せたことは最高にうれしかった。故障もあり、練習ができない時期もあったが、目標がやっと叶ったのだ。その結果、幸いにもいくつもの大学からスポーツ推薦のオファーを頂いた。


喜んでいたのもつかの間、スポーツ推薦で入学するにも評定平均の基準があったことを知らず、頂いていた推薦の話は全部なくなった。当時の僕の評定平均は2.2、とんでもない数字だ。ここから受験するなんて当時は選択肢になかった。ここで人生で一つ目の大きな壁に打ち当たった。推薦をもらっていた大学に陸上以外の理由で入れなくなった。勉強してこなかったこと、考えが甘かったことを悔やんだ。


それでも入学を許可してくれた大学が一校あり、そこに進学を決意した。その大学は箱根駅伝の常連校ではあるものの、偏差値は30台。陸上の強豪校出身でなかった僕は、「えらいところに来てしまった」、という気持ちでいっぱいになった。


寮生活が始まって一週間、まだ世間は春休み、


僕は寮を逃げ出して実家がある関西へ向かう新幹線に乗っていた。

不思議と当時のことは覚えていない。覚えているのは寮を出た当日の朝、体調が悪いので練習を休むと言ったことだけ。


新幹線の中から両親に電話した。

「クラブ辞めたから、いま帰ってる。」

「帰ってくるな!」

そして泣く泣く引き返し、監督に退部を伝えた。オリンピック選手でもあった監督は理性的な方だったが、その時ばかりはあきれてものも言えない様子だった。


時はまだ3月。世間の高校生が憧れの大学生活を直前に過ごしている中で、僕は絶望のさなかにいた。


親の説得もあり、大学自体にはしぶしぶ残ることにした。しかし、スポーツ推薦で入学した大学に退部した人間が残るというのは非常に居づらい環境だった。「あいつは辞めた。挫折した。」というレッテルが貼られるからであった。

そしてこんなに親不孝な息子はいないだろう。自分が行きたいと言っておいて、一言も相談せずに辞めたのだから。自分自身も恥ずかしい思いをしたが、それは親も一緒だったはずだ。

親を含め、自分のしたことがいろんな人に迷惑をかけたという罪悪感は日に日に強くなっていった。お世話になった人には顔も合わせられなかったし、後ろめたい気持ちでいっぱいだった。


辞めてから一歩踏み出すまで時間がかかった。前を向けなかったし、自分の失敗を受け入れられずにいた。しかし、一歩踏み出すには失敗を受け入れなければいけない。

まずはそれまでお世話になった人に謝ることから始めた。もちろん簡単じゃなかった。電話を持つ手は震えたし、なんと伝えればいいのかも分からなかった。

取り返しのつかない失敗をし、期待や信頼を裏切ってしまったが、ありがたいことにそこでも背中を押してもらった。そしてすっと肩の荷がおりた気がした。

失敗を受け入れて前に進むこと、それが再受験に向けたスタートだった。



再受験〜あきらめたらそこで試合終了ですよ〜


全く勉強せずに高校3年間を過ごしたため、何から始めていいのかも分からず、再受験を決意してから受けた模試で英語は偏差値30台。一応2ヶ月くらいは勉強した。今まで勉強してこなかったと言っても、自分なりに2ヶ月やってみたのだ。しかし結果を見て18歳にして「人生終わった」という気持ちになった。


人生オワタ \(^o^)/

とはまさにこのことである。高校の時に勉強してこなかったこと、人生をなめていたことをこれほど後悔したことはなかった。


(模試の結果)


再受験を決めてからは、受験勉強に専念するために大学の授業に出るのはやめた。一人では何から始めていいのかも分からないので、塾を探しいくつかあたってみた。経緯を詳しく説明すると、

「大学を辞めて再受験したいのですが、入塾できますか?」

「うーん、うちでは厳しいですね。。。」


という返答。あたってみた塾がたまたま悪かったのかもしれないが、学習塾に入塾を断られた。それも相当ショックだった。訳ありの生徒を教えるのは敬遠したのかもしれない。


そして当時大学で英語の授業を教えていた先生に、


「大学を辞めて再受験したいので、英語を教えてもらえませんか?」

先生「。。。いいよー」


普通ならこれから辞める生徒に何もしてやる必要はない。しかし、その先生はわざわざプライベートの時間を使いマンツーマンで授業をしてくれた。

友人や高校の担任の助けもあり、その後徐々に偏差値も上がり始め、半年後には大学を退学し、予備校に通うことになった。

この時ほど自分が苦しんでいる時に手を差し伸べてくれる人の優しさに気付いたことはなかった。そして、大学を辞め、いろんな人の期待を裏切った分、このままでは終われないという気持ちが湧いてきた。



大学生活~again~

成績は上がったものの、当時の僕には偏差値50台の私大に入るのが限界だった。よくある受験のミラクルは、僕には起こらなかったのだ。
第一志望の大学には入れなったが、与えられた環境で結果を出すことも大事だと思い、そこで精一杯やってみることにした。

高校3年の冬休みに姉について2週間だけイギリスに旅行したことがあり、その経験からイギリスに交換留学する、という目標を学生生活最大の目標とした。留学に行くにはTOEFLという試験を受ける必要がある。

このTOEFLというテストはリーディング、リスニング、スピーキング、ライティングの4セクションに分かれており、難易度で言うと


センター英語 "This is my pen" これは私のペンです

TOEFL "”#+%)#&%(%『`』*`" え、英語?


初めて受けるほとんどの人にとっては、なんの言語か分からないくらい難易度が高い。外大に入学した僕は、二回目の大学一年生の夏に初めてのTOEFL受験をするとこになる。

初回の受験結果はなんと120点満点中32点。これはなんともひどい点数で、留学に行くなんて言うと笑われるレベルだ。スピーキングセクションでは、何と話していいのかも分からず一言"そーりー"と言った覚えがある。

しかし何を思ったのか、


「協定校で一番レベルの高いロンドン大学に行く」

という途方もない目標を立ててしまった。当時のロンドン大学の留学基準はTOEFL85点以上。その挑戦の無謀さが理解できないほどバカだった。やればできるんじゃないか、という根拠のない自信が自分のどこかにあった。そもそも自分の限界を自分で決めるのが嫌だったのだ。


(TOEFL初回受験)


30点台、50点台、60点台と点数は徐々にしか上がらず、ロンドン大学留学は遠い夢のように思えた。しかし、人生を変えるつもりで勉強してみようと決心し、大学2年生になる前の春休みに朝から晩までバイト以外の間はずっと英語の勉強をした。もちろんテレビやゲームもなし。友達と遊ぶ回数も大幅に減った。

まず単語を覚えた。覚えた単語数は大学受験単語プラス2000語以上にも及ぶ。寝る暇を惜しんで勉強したとは言わない。

しかし、起きている間はずっと勉強した。

その結果、春休み明けには80点台まで点数が上がり、留学が一気に近づいた。しかし、この年から新たな基準が追加され、4月の時点でゴール目前と思われた留学準備がここからが本番という状態になった。基準を上げた学校側を恨んだこともあったが、それが理由で留学にいけないことになると一生後悔すると思った。

そしてTOEFL受験は夏休みにまでもつれ込んだ。この時期になると、毎週末テストを受けた。しかし何回受けても結果は変わらず、テストを受けられるのも残すところ1回というところまで追いつめられた。手ごたえなんて分からなかった。とりあえず基準を超えてくれ、という思いでテストを受けた。


そしてそれは朝方だった。ネット上で結果を確認したところ、




94点

という数字が出ていた。


自分の目を疑った。留学にいけなくなる夢も見たくらいなので、何度も確認したが、それは現実だった。この時ほどうれしかったことはない。一番ほしいものを手に入れられる人間は一握りだからだ。それには相当の努力や運が伴わなければいけない。これが人生で初めて一番の目標を達成できた時だった。

当時の感覚は今でも覚えている。苦労して手に入れたものだから普通では味わえない達成感があった。

結果的に基準を上げてくれた大学には感謝している。試練を与えてくれたことで、自分の限界を広げることができた。結果を出せばどんなことだってプラスに捉えられる。そしていくらでも道は切り拓けるということに気付きつつあった。


この経験から得たことは、『何かを得ることは何かを失う』ということだ。


自分は優秀な人間でないということは分かっていた。だからあれもこれもしたいでは夢は叶えられない。優先順位をつけ、したいことに専念した結果、目標を達成できた。

勉強漬けの日々が続き、一回2万ほどするテストを10回も受け、留学前には96点という数字をたたき出した。TOEICも入学時の初回受験570点から学部留学前には970点まで上げた。

留学経験のない純ジャパからすると、よくできたほうである。帰国後はあまり点数は上がらなかったが、TOEIC975点、TOEFL101点を獲得した。


初めてイギリスに旅行した時は

ホストマザー「Would you like something to drink?何か飲み物ほしい?」

「。。。」

もちろん会話なんてできない。かろうじてYes or Noが言えたくらいだ。(もちろん質問の内容は理解していない。)その時からすると、よくここまでこれたと自分ながらに思った。



(TOEIC・TOEFLのスコア)


ちなみに、外大で勉強できたことは自分の財産だと思う。他にももっとレベルの高い大学はある。しかしとても貴重なレッスンを得た。

それは、『どんな環境でもやるのは自分だ』と言うこと。

勉強ばかりしていておかしいと思われたこともあった、なんでもっと遊ばないのと言われたこともあった。

もちろん後述するロンドン大学のようなレベルの高い環境に身を置き、自分を高めるのも一つである。しかし、甘えが許される状況で自分に鞭を打ち、自分を高められるか、これは将来どんな環境に身を置いても重要だと思う。環境のせいにしているうちは何も変えられない。


同大学からロンドン大学への交換留学が決まったのは実に4年ぶりで、周囲からの扱いも変わった。授業で講演を頼まれたり、自分の授業も持った。

チヤホヤされ完全に天狗になっていた僕は、渡英の日を迎えた。



留学Part 1

初めての海外留学。自信満々で迎えた留学生活、そのスタートは屈辱的なものであった。

ディスカッションについていけない。ディスカッションの時間中何も発言せずに座っていることしかできなかった。それは語学力の問題だけでなく、専門知識も全く足りなかったのだ。周りの学生はまだ10代とは思えないほどクリティカルな思考力を持ち、自分の意見を述べる力がある。


「日本よ、これが世界だ!」

というような衝撃であった。


また、勉強量もハンパない。図書館で席が見つからないのは当たり前。試験前は24時間開いており、それこそ現地の学生は「人生をかけて勉強」する。僕は留学前には自分なりに努力したつもりであったが、その光景には正直驚かされた。

カメより勤勉なウサギ

がそこにはいた。ロンドン大学には日本の一流と呼ばれる大学からたくさん交換留学生が来ていたが、その人たちが口を揃えて「一年で日本の大学の四年分以上勉強した」と言うのだから、どれだけ大変か想像がつく。


悔しい経験をできたのも、留学に行ってよかったと思えた理由だ。それから授業についていくために必死で勉強した。夜中まで課題のリーディングをし、エッセイを書く時は寝る暇を惜しんで書いた。ネイティブと同じレベルでディスカッションに参加するのは不可能であったが、ポイントを抑えて発言できるようになってきた。アイデアさえあれば、みんな耳を傾けてくれる。要はこいつが話せば聞いてやろう、と思わせることである。

それには授業外での関係作りも重要である。関係を深め、認めてもらえるようになると、大幅に発言しやすくなる。そうして徐々に留学生活にも慣れ、ロンドンでの生活が楽しくなってきた。

また、ネイティブの学生よりも高いエッセイの成績を取ることも当たり前になってきた。数年前まではYesとNoしか言えなかった自分が、ロンドン大学でイギリス人より良い成績を取る、何だか信じられなかった。同時に、自分がやってきたことは間違いではなかったと再確認できた。


留学は僕にとって非常に価値のある経験であったことは言うまでもない。異なるバックグラウンドを持った学生が世界中から集まる、最高にエキサイティングな環境であった。また、同時に日本人が抱える問題にも気がついた。英語ができる、できないに関わらず、日本人かアジア人としか付き合えない日本人留学生がほとんどだった。よくて日本語を勉強している外国人。日本人の消極性が問題なのかもしれない。


また、イギリスの教育システム、少なくとも大学レベルでは「どれだけ批判的に考えたか」が評価される。しかし日本ではどうだろう。「どれだけ暗記したか」が成績を決める。また、大学ではバイト、サークル活動に忙しく、本業の勉強に必死になっている学生はどれだけいるだろうか。ロンドンでは非常に優秀なアジア人の学生にたくさん会った。彼らは頭も良く、そしてハングリーだ。日本人留学生と比べると、日本が追い越されるのも時間の問題だと危機感を覚えるようになった。



就活Part 1

留学から半年が経った頃、日本では就活が始める時期になっていた。交換留学が終わるのが6月の予定だったが、情報収集したところ、4月の採用に参加した方が可能性が高いことが分かった。そこでロンドンからエントリーし、大企業と呼ばれる7社のエントリーを通過し、面接まで進むことになった。まずは親に相談だと思い、一時帰国して面接を受けたいことをSkypeで伝えた。


「一時帰国して就活したいんやけど」

「帰ってくるな!」


今回も反対された。親だけでなく、一時帰国して就活することに反対する人はたくさんいた。そんなに簡単に決まるもんじゃない、一ヶ月だけいても期間的に間に合わない、というのがその人たちの意見であった。大学の就職支援課も、

「過去に前例がないので一時帰国中の就活は難しい」という反応だった。


しかし、偏差値30台から再受験し、TOEFLの点数を3倍に上げた僕は、不可能なことはないと思っていた。そもそも、「無理だという人たちはそれをしたことがない人たち」そんな人たちに自分の人生決められてたまるか、という思いがあった。

この時には過去にだれかがそれをしたか、すなわちロールモデルがいるか、ということは全く気にならないようになっていた。自分の正解は自分で決める、という信念が自分の中で出来上がっていた。



内定と進学

親を説得し、一時帰国して面接を受けることになった。過去の挫折を乗り越え成長した経験が評価され、一部上場のメーカー企業から内定を頂くことになった。無事に結果を出してロンドンに戻り、最後の試験を終えあっという間に本帰国となった。その時にはイギリスに残りたいもっと勉強したい、という気持ちが強くなっていた。


帰国し、親に進学したいという思いを伝えた。

「内定断って、進学したい。」

「あほか。絶対行かさん。」


「いままでたくさんわがままさせてきたし、お金もかかった」とのことで反対された。その上将来が保証されている企業から内定をもらっているとのことで、父親は進学には大反対であった。僕は当時の内定は今までやってきたことが評価された、妥当な結果だと思っていた。しかし両親にとっては、どうしようもない落ちこぼれだった僕が一部上場のメーカー企業から内定を得たということで、それを断り進学した際に就職先があるかということが心配だったようだ。


進学したいという気持ちが収まらず、ダメだったらあきらめがつくとの思いで出願することにした。出願したのは3校のみ。ケンブリッジ大学、University College London、そしてLondon School of Economics(どちらもロンドン大学)の大学院である。この3校は世界でも名門中の名門で、受かる可能性は低かった。

これでだめならあきらめられる、そんなつもりで出願したが、なんとUniversity College Londonから合格の通知が届いたのであった。UCLとも呼ばれるこの大学は2014年に世界で4位にランクされた程の超名門校である。日本とも深い繋がりがあり、伊藤博文、井上馨をはじめとする長州五傑が留学した大学としても知られる。また、夏目漱石や小泉純一郎など、数多くの著名人がUCLで学んだ。その他の卒業生としては、フレミングの法則で有名なジョン・フレミング、電話を発明したグラハム・ベル、ガンジー、そしてダーウィンが「種の起原」を発表したのもUCLからだ。


(QS World University Rankings 2013: UCLは第4位にランク)


数年前には偏差値30台で日本の底辺の大学にいた自分が、世界でトップレベルの大学院に行ける。これは天と地がひっくり返るくらいインパクトのある出来事であった。親も喜んでくれるに違いない、と思い急いで電話した。

「世界で4位の大学に受かったよ!」

「絶対に行かさん。」


「行かさん」の一点張りであった。おそらく日本を出たことがない人からすると、ロンドン大学で学ぶことのバリューやその可能性というものは理解しにくいかもしれない。それに進学して就職がなかった時のことを考えると心配なのも親心なのであろう。


散々反対されたが、このままではらちが明かないと思い、親の了解を得ないまま内定をお断りした。内定式も終わっていたため会社には大変ご迷惑をおかけしたが、気持ちは伝わり留学を応援してくれた。父親はと言うと、もう家には帰ってくるなとのことで、勘当されたような形になった。


父親は反対していたので、授業料の200万をなんとか工面する必要があった。こんな時に心強いのが、母親の愛である。「あんたがしたいことなら、借金してでも行かせたる」と言ってくれていたが、その通り、200万もする授業料は母親が借金をして払ってくれた。ちょうどその頃いろんな理由で母親が失業し、大変な時期に高額な授業料を払ってくれたことは本当に感謝してもしきれない。

どんな時でも応援してきてくれたのが母親だった。進路の悩みも、どこの会社で働くかより、本人が何をしたいか、ということを一番に考えてくれ、いつでも僕がしたいことを応援してくれた。「子どもがしたいことできるのが、親の幸せやから」と、いつでも僕のわがままを聞いてくれた。

中学、高校と勉強してこなかったことで本当に迷惑をかけたし、学校にまで呼ばれていたのはいま考えても申し訳なく思う。それでもあきらめずに僕を信じ応援し続けてくれたことを考えると、母親のサポートがなければ今の自分は絶対になかった。これから一生かけて何倍にもして返そうと決めた。



就活Part 2

イギリスの修士課程は一年間のため、留学前でも採用に参加できる企業もあった。そして渡英前の7月に選考に参加したのが某総合商社である。総合商社と言うと、学生の憧れの企業である。就職系のランキングでは常に上位だ。もちろん学部時代にエントリーした時は全てエントリー落ち。各社1万人近いエントリーの中から100名ほどの内定者を出す。五大商社の平均年収は1300万超え。サラリーマンの平均年収の3倍以上だ。


この会社には因縁があった。学部留学時代にロンドンで行われた説明会に参加した際に、仕事のスケール感、歴史、日本の経済を支えるという使命感、人事の話に感銘を受け、「ここで働きたい」という気持ちがとても強くなった。しかし結果はエントリー落ちで、面接にも呼ばれなかった。まさに門前払いだ。


そしてそれから一年後、環境は変わりロンドン大学の大学院へ進学予定だった僕は、エントリーを無事通過し、面接に呼ばれた。

ロンドンで世界一優秀な学生たちに囲まれて、もがき苦しみ成長していた僕は自信もついていた。面接も順調に進み、一次、二次と無難に選考を通過したが、三次選考通過の連絡が来なかった。同じ日に面接を受けた友人は通知が来ていたので、ここまでか、という気持ちになった。


しかし翌日まさかの通知の連絡がきた。一度は落ちたと覚悟したので、これでだめなら仕方ないという思いで最終選考に挑んだ。

エレベーターで上位階まで行くと、ふかふかの絨毯無駄に重いドア。緊張させるためだけの空間と言っていいほど、そこは堅苦しい雰囲気であった。あまり感触は良くなかったが、無事に最終選考を終え、友人宅へ戻った。すると即日で電話があり、内定の通知を受ける。


進学しても就職先がない、いま内定をもらっている会社より良い会社へいける可能性はない、と言っていた人たちは驚いただろう。進学する前の段階で以前よりはるかに難易度の高い総合商社から内定をもらったのだから。


部活を辞め、途方に暮れていた当時、その後の人生がこうなると誰が予想しただろう。何回も無理だと言われ、夢を見過ぎだと言われた。しかし、あえて自分の目標を口に出してきた。今となっては、反対した人、批判した人、そして無理だといった人にも感謝したいと思う。あきらめるどころか、そういった言葉が原動力になった。



留学Part 2 & その後

大学院留学も修了し、後は結果を待つだけとなっている。今回の留学は、前回と違い、どうしても卒業しなければいけないというプレッシャーがあった。大量のリーディングと3000字のエッセイ8つという鬼畜な課題に苦労したが、どうにか終えることができた。そして諸事情により内定は半年伸びたが会社は待ってくれるとのこと。留学前に採用してくれ、そして今度は半年入社を先延ばしにしてくれる、懐の深い会社だ。


現在はIMFのアジア太平洋地域事務所(東京)でインターンをしている。トップのChristine Lagardeが来日するということもあり、素晴らしい時期にこのチャンスを得ることができた。将来は世界銀行で働きたいという目標があり、発展途上国での再生可能エネルギープロジェクトに関わりたい。大学院で学んだ環境と、来年から会社で学ぶ事業投資のノウハウを活かし、人の生活を豊かにできる仕事ができればと思う。


また、5年以内にLondon Business SchoolでMBAを取る、という目標も立てた。もちろん高校の数学なんて覚えていないどころか、勉強すらしていない。一から開始だ。現在は数1Aの白チャートも理解できないという状況で、毎日苦戦している。連立方程式の解き方も、因数分解がなんなのかもしらなかった。


しかし不可能だとは思っていない。今まで無理だと言う人を見返してきた、黙らせてきた。今度も同じ。大事なのは続けること、あきらめないことだ。




最後に

好きな名言の一つに、NBAのマジック・ジョンソンの言葉がある。

『君には無理だよ』という人の言うことを、聞いてはいけない

もし、自分でなにかを成し遂げたかったら

出来なかった時に他人のせいにしないで

自分のせいにしなさい

多くの人が、僕にも君にも「無理だよ」と言った

彼らは、君に成功してほしくないんだ

なぜなら、彼らは成功出来なかったから

途中で諦めてしまったから

だから、君にもその夢を諦めてほしいんだ

不幸なひとは、不幸な人を友達にしたいんだ

決して諦めては駄目だ

自分のまわりをエネルギーであふれ

しっかりした考え方を、持っている人でかためなさい

自分のまわりを野心であふれ

プラス思考の人でかためなさい

近くに誰か憧れる人がいたら

その人に、アドバイスを求めなさい

その人に、アドバイスを求めなさい

君の人生を、考えることが出来るのは君だけだ

君の夢がなんであれ、それに向かっていくんだ

何故なら、君は幸せになる為に生まれてきたんだ

何故なら、君は幸せになる為に生まれてきたんだ・・・



僕が日頃大事にしている信念がある。人生では選択を迫られることがたくさんある。大学を辞めるかどうか、再受験するかどうか、留学にいくかどうか、就職するか進学するか、、、


『一度自分がその道を選んだら、その選択肢が正解になるよう自分で道を切り拓く』

という哲学を持って僕は生きている。自分が自分で選んだ、だから後悔はない。自分で選んだ道なら、それを正解にするためにいくらでも努力できるもんだ。今何かに迷っている人、悩んでいる人はぜひ自分の心に聞いてみてほしい。本当にしたいことはなんなのか。それができればどんなことだって、誰に反対されたって、道は切り拓けるはずだ。

そして何年後かに振り返った時、当時見えなかった点と点が線で繋がっているはずである。自分の心に従って決めた選択は、将来なにかの形でつながっていくものである。



白洲次郎は言った。

「プリンシプルを持って生きれば、人生に迷うことはない。」

自分の軸や哲学を持って生きていれば、人生に迷うことはないという意味だ。

そして自分の心に従った選択をすることは、人生を豊かにし、幸せになることにもつながる。

いくら周りがうらやむことをしていても、自分が本当にしたいことでなければそれは幸せとは言えない。

このストーリーを読んでもらえば分かるように、一つの到達点に行くためのルートは一つでない。ロンドン大学にせよ、商社にせよ、いろんな経験を持った人がそれぞれのやり方でたどり着いている。途中で失敗してもいい。そこからいくらでも挽回できるし、失敗から学ぶことの方が多い。

そして大事なのはそこに入ることではなく、入ってからどうするか、ということだ。


あれだけ勉強が嫌いであった自分がなぜここまで苦手な英語に打ち込めたのか。それは大学を辞めたという大きな挫折があったからに違いない。当時は本当に辛かった。しばらく誰とも話さない日もあった。自分がうまくいかないことを他人のせいにしたり、努力もしていないのに努力した人をうらやましく思ったこともあった。また、辞めてから数年間は、お正月にテレビで箱根駅伝を見るのが大嫌いだった。


しかしこのままではいけない、自分を変えたい、その一心で勉強を続けてきた。過去に失敗し、それをまだ引きずっている人がいたら聞いてほしい。失敗はその後の努力でいくらでも成功に変えられる。


スティーブ・ジョブズも言っていた。

「将来を見据えて点と点を繋ぎ合わせることなどできない。できるのは、後からつなぎ合わせることだけ。」


将来振り返ってみた時に、『あの経験があって良かった』、と思える日が必ずくると信じている。


偏差値30台でも、人生は変えられる。学年でビリでも、エリートになれる。そして、


無理だと言う人の言うことを、聞いてはいけない。




追記

最後まで読んで頂きありがとうございました。このストーリーを読んで少しでも元気が出た、前向きになった、と言ってもらえれば幸いです。読んで良かったと思った方はぜひ下の「読んでよかった」をクリック下さい。またFacebookやtwitterなどでもいいね、またはシェアして頂けると助かります。


書籍化決定

このストーリーは「Fラン大学生が英語を猛勉強して日本のトップ商社に入る話」として宝島社から書籍化されることになりました。発売日は12月12日です。

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