あなたには、岸の向こうに何が見えましたか?
そして、何を感じましたか?
ー教えてください
1970年 戦後、日本が高度経済を成し遂げる最中。
ちょうど大阪万博が開催された年に、私はこの地に生を享けた。
私は、お母さん、5歳上のお姉ちゃん、3歳上のお兄ちゃん、私との4人家族である。
小さい頃のお姉ちゃんは体が弱かった。
性格もおとなしく真面目で、気の弱いところもあり、医師から20歳まで生きられないと言われたと聞いた事がある。(今では、2人の子の母親として元気でいるが)
お兄ちゃんは、女の中のたった1人の男だっったせいか、気の優しいお兄ちゃんだった。
私は、末っ子で甘やかされ、小さい頃から落ち着きがなく、自由奔放な性格だったと思う。
(今でも変わらないが・・・・)
お父さんとは、一緒に暮らして居なかったが、毎年、お正月の元旦には、父方の、おじい様の家に兄弟で行くのが恒例であった。
おじい様の屋敷は、自宅からバスで20分ほどの所にある。
両扉の大きな門の横に出入口があり、そこから出入りする。
門には、松が植えてあり、庭の池には錦鯉が泳いでいた。趣きのある割と大きな屋敷であった。
屋敷の横には、おじい様の営む会社の印刷工場が隣接していて、屋敷と会社の事務所が繋がっていた。
正月の元旦は、おじい様の家に孫達が集まった。
おじい様に、一人ずつ、三つ指をついて、新年のあいさつをすると、お年玉がもらえた。
それも、かなりの金額だった。小学生の私に、5万円程あり、時には10万円も入っていた年もあった。
おじい様は〝 厳格な人だった 〟であった。
あいさつ以外に話しをした覚えもない。
話しかけづらく、向こうからも話しかけてこなかった。
ー少し怖かった。
おばあちゃんは、話し好きで、サバサバしていたが、少し冷たい感じがした。
お父さんの兄弟姉妹には、まずお兄ちゃんがいた。
その叔父さんの子供は、男の子が2人いた。
従弟にあたる健一君と浩二君だ。2人共とても背が高く、おじい様の屋敷の鴨井に、いつも頭をぶつけそうだったのを覚えている。
私が高校生の時、お正月に、叔父さんは見覚えのない着物をきた奥さんらしき人を連れてきた。
叔父さんは、小さな女の子を抱っこしていた。
叔父さんは、お父さんと違って、愛想が良くいつもニコニコしていた。
お父さんには妹が2人いた。
恵子叔母様と京子叔母様。
恵子叔母様には、女の子と男の子の、年子の2人の子供がおり、顔立ちは日本人離れをしていて、綺麗な姉弟だった。
上の女の子の清香ちゃんは、色白で、フランス人形のように可愛く、クラッシックバレエを習い、お嬢様の雰囲気があった。
下の男の子の誠君も、無邪気で可愛い男の子だった。
京子叔母様は独身だったが、とにかく美しかった。
容姿端麗という言葉通りの人で、綺麗でいて優しく文句の付け所がなく、圧倒されるような存在感のある方だった。
おじい様に新年のあいさつを終えると、長居はせず、屋敷を後にした。
なんとなく、私達兄弟には、分不相応と言うべきなのか、緊張感があり遠慮がちだった。
そして、もう一人の、お祖母ちゃんの家に新年のあいさつに出かけた。
お祖母ちゃんは、お父さんの兄の叔父さんと同居していた。
お祖母ちゃんは、優しい目で私達を迎えてくれた・・・。
お祖母ちゃんの所に行くと、必ず、台所から七輪が出てきて焼肉を焼いてくれた。
下味を付けた、その焼肉がとても美味しいのなんの、少しピリ辛だったような気もするが、私達兄弟は、ムシャムシャ食べた。
ー今でも、その味が忘れられない。
舌の記憶だけは、今でも確かに覚えている。
お祖母ちゃんと言ったら〝焼肉〟なのである。
だから、父方のお婆ちゃんが2人いた。
今考えると、お婆ちゃんが2人いる事を、不思議に思わなかったのが不思議だが、当時は不思議にすら思わなかった。
お正月は、こういう感じで、おじい様の屋敷と、もう1人のお祖母ちゃんの家に、お年玉目当てに挨拶しに行き、年に一度だけは、お父さんの親戚に顔を見せたが、お父さんの姿はいつもなかった。
毎年、兄弟3人で、顔を出していたが、私が中学生ぐらいになると、お姉ちゃんは顔を出さず、お兄ちゃんと2人だけで行っていた。
しかし、私だけは、従姉弟にあたる、恵子叔母様の子供の清香ちゃんと誠くんと、歳が近いせいだろう、毎年小学校の夏休みなどは、おばあちゃんから家に誘いの電話があった。
学校が休みになると、何故か、清香ちゃんと誠くんは、いつも、おじい様の家で暮らしていたような気がする。
誘いに応じ、2,3日おじい様の屋敷に泊まりに行く事もあった。
清香ちゃんも誠くんも、私に会うのを楽しみにしていた感じだった。
従姉弟と3人で、おじい様の会社の印刷工場を〝うろちょろ〟する事もあった。
工場の1階は、印刷機の音や、塗料の独特の匂いがした。2階は、紙を切断する機械や梱包をする所であり、2階から1階へ、段ボールに梱包された完成品が、ローラー滑り台に載ってトラックの荷台へ運ばれて行く。事務所内には、事務員さんが数人と、叔父さんやお父さんの机もあったが、外回りの仕事なのか、いつも姿は見なかった。
働く大人達を尻目に、いろんな色を生み出す工場は、私には異空間で面白く見えたが、稼働日には、邪魔してはいけないと、あまり工場内には入れてもらえなかった。
屋敷の方で従姉弟と遊んでいると、ほんのたまに、お父さんが事務所から入ってきて
「来てたのか?」と声をかけられ
「あっ、うん」と顔を合わす程度だった、
古株の従業員が
「三ちゃん、居るかー」と事務所から呼びに来たことあった。
(さんちゃん?)
お父さんは順司と言う名だが、お父さんの事なのか?と不思議に思った事があった。
従姉弟と屋敷の近所の釣り堀に行ったり、トランプをして遊んだ。
私が何をするにしても、2人は笑ってくれた。
「次はあれやろう」「次はこれやろう」「次は何したい?」と2人を引っ張ってく、
兄弟の中では末っ子だった私は、お姉ちゃん気取りで、素直なついてくる2人がとても可愛かった。
おばあちゃんは私に
「この子達は何も1人で出来ないから真理ちゃん遊んでやってね」
「友達もいないから真理ちゃん遊んでやってね」等と、よく言われた。
清香ちゃんは、恥ずかしそうに、ふれくされて
「友達ぐらいいるもん」等と反論していたが、綺麗な顔をして、少し気が弱そうな清香ちゃんが実に可愛かった。
おばあちゃんも、清香ちゃんや誠くんには、
厳しい事を口では言うものの、可愛がっているのがよくわかった。
お風呂あがりは、従姉弟の下着や寝巻きが、きちんと畳んで用意されていた。
私は、鞄から自分で出して用意する。
清香ちゃんを三面鏡の前に座らせ、おばあちゃんは、清香ちゃんの長い髪にドライヤーをあて髪を乾かすと、みるみる、髪がサラサラになって髪がなびく。
ー漫画の中のお姫様みたいだった。
見とれている私を見て、
「真理ちゃんも乾かしてあげようか?」と言われるが
「あっ・・・自分でやります」と適当に乾かす
そういう場面で必ず
「真理ちゃんは偉いねぇー」と褒められた。
1人で何でも出来たし、褒められるから、つい、お利口さんの振りをした。
夜になると、おじい様の部屋に、ふかふかのお殿様のような布団を、おばあちゃんが敷いていたが、帰りが夜遅いのか、帰って来た様子は、いつもなかったと思う。
食事も、おじい様には別格の膳が、いつでもおじい様の部屋に運ばれるように用意されていたが、おばあちゃんや従姉弟と私は台所での食事だった。
おじい様のベンツで、おばあちゃんと従姉弟2人と私で、おじい様の別荘に行く年もあった。
おじい様が運転して、助手席におばあちゃんが乗り、決まって私は、従姉弟が喧嘩しないように、後部座席の真ん中に座らされた。
おじい様の別荘は、高速道路を使って山間部の方へ走り、インターチェンジを降りて林道を少し走ると、山の中にポツリとあった。
コンクリート作りの2階建てで、別荘の門にも、門かぶりの松の木が植えられていた。
おじい様は、決まってゴルフに出かけた。その間は、おばあちゃんは、別荘の掃除をしていた。
従姉弟と私も、別荘の庭の池の掃除と称して、おたまじゃくしを捕まえて遊んだりしていた。
別荘から、歩いて直ぐの所にゴンドラリフト乗り場があり、ゴンドラリフトで川を渡ると遊園地があった。遊園地にも連れて行ってもらい従姉弟と私は、はしゃいで楽しんだ。
おじい様がゴルフから戻ると、別荘には泊まらず、別荘近くの高級ホテルに泊まった。
別荘から、おばあちゃんの実家は、それほど遠くなかったのか、おばあちゃんの実家に立ち寄った時があった。
田舎の家で、おばあちゃんの実家の前の川は、とてもキレイだった。
川で遊んだ事などなかった私は、水が冷たいにも関わらず、唇が紫色になりながらも、従姉弟と3人で泳ぎ回った。
おばあちゃんの実家の親戚に、私の事を紹介する時、
「順司の子だわ」
と冷たい感じで紹介された。
従姉弟と私とでは、おばあちゃんが孫に対する扱い方に違いがある事はわかっていたが、たまにしか、会うことがないせいだとばかりおもっていたが〝順司の子だわ〟の一言は
子供心にも、不思議な疎外感を強烈に感じてしまった。
今の時代、母子家庭も父子家庭も珍しくない世の中だが、当時は、学年に一家庭、居るか居ないかぐらいで、母親が働きに出ている家庭も少なかった。
ー私は、父親と暮らした覚えがない。
幼い頃、お父さんが、朝、突然帰って来て、家の食卓で塩辛に一味をかけ、それをおかずにしてたべていた記憶がたった一つあるだけだ。
だから、父親が居ない生活があたり前で、父親が居なくて寂しいなどと感じた事もなかったが・・。
その時代、小学校の学年が上がるたびに、学級名簿が学校から配布された。
保護者の欄の、父親の欄が空白で、母親の名前だけが載っていた。しかも、母親の名前が〝ひらがな〟だったので、父親が居ないのが、あからさまだった。
気恥ずかしさから、毎年イヤな気持ちにはなった。
父親が居ないからといって、イジメに会う事もなく、父親が居ない事を問われる事もなかったが・・
一度だけ、中学生の時に、近所のYちゃんと喧嘩をした時に、喧嘩がエスカレートしてしまい、
「ててなし子のくせにー」
と野次られた。私は腹を立てて、相手の子の顔を殴り、傷を負わせてしまった。
その夜、Yちゃんの母親はYちゃんを連れて、家に怒鳴り込んできた。
理由を問い詰められが、黙り込んでいた。お母さんは、台所に私を呼んで、理由を問いただした。
言いたくはなかったが、仕方なく『ててなし子』と言われた事をいうと。お母さんは、Yちゃんの母親に向かって毅然とした態度で、
「お宅の子に、娘が『ててなし子』と言われたそうです」と言いのけた。
その親子は、分が悪そうにそそくさと帰った。
『ててなし子』と言われたぐらいで殴ってしまい、お母さんが、父親が居ない事を私が気にしているのでは、と勘違いしたらどうしよう!
と心配したが、かばってくれた事も嬉しかった。
高校生ぐらいになると、なんとなく友達どおしで家庭の話しになった時
「私の家、母子家庭だからさぁー」と話すと
「ごめん、変な事聞いちゃって」と
周りの反応は同情的であった。
気にされる気持ち悪さから、あえて自分から話す事は面倒になり辞めた。
母子家庭というのは、当然、母親が仕事に出ているせいもあり、自分だけの自由な時間が多かった、怒られる事もなく、自由気ままだった。
ー母子家庭万歳!
との思いが、私的にはあったので、母子家庭が同情される事がかえって不思議だった。
そもそも、最初から、家に父親が居ないのだから、私には、それが普通だった。
父親とたまに会うと
「女の子は女らしく」
「髪の毛を切ってはいけない」
「スカートをはきなさい」
などと言われ窮屈に思えた。
あの人が、もし家に居たら、逆にゾットするぐらい思っていたのかも知れない。
ある程度の年齢になって、父母は離婚している事に気づいたが、
なんで離婚したのか?
いつ離婚したのか?
という事は、誰にも聞くこともなかったし、考えた事もなかった。
ただ、高校生ぐらいの頃だと思うが、記憶がふと蘇った事があった。
小学校に上がる少し前の幼稚園の頃。
久しぶりに、父、母、兄弟で、母方の親戚の家に行った。
親戚の家には、姉や兄と、歳の近い従姉弟も居たので、私は喜んだ。
しかし、久しぶりに出かけたというのに、
「ママとパパは、お話しがあるから、みんなで遊んでいてね」
と父と母は、母の実家へ出かけてしまった。
はしゃいで従姉弟どうしで遊んでいたが、夜遅く迎えに来てくれた時の、お母さんの寂しそうな顔を思い出した。
そういえば、あの時、離婚について、二人で話しあったのか、
もしくは、母の実家に報告したのではないか、
と確信した瞬間があった。
とりわけ、母子家庭だからといって苦労した覚えがないのは、お母さんの一方ならぬ愛情が伝わっていた事が大前提にある。
幼い頃、お父さんに、遊園地や海水浴に連れて行ってもらった思い出はある。
私は、その日ばかりは、お父さんに甘えた。
最後に行った遊園地は、たしか、私が幼稚園の年中組さんの頃だった。
私は、遊園地の乗り物が怖かった。
お父さんの大きな手が、私の小さな手を〝ずっーと〟握っていてくれた感触は、今だに覚えている。
帰りの車の中で、私は、お父さんの運転する車の助手席に座り、後部座席には、お母さん、お姉ちゃん、お兄ちゃんが座って居た。
私は寝たふりをした。
「真理、疲れて寝ちゃったね。楽しかったんだね」
と優しいお母さんの声が聞こえた。
私は、日常では味わうことが出来ない、普通の家族というものに浸っていた。
幼稚園の年長組の頃、近所の同級生のKちゃんのご家族に、お母さんと私だけ、海水浴に一緒に連れて行ってもらった時があった。一人っ子のKちゃんは、お父さんに、わがままを言ったり、遊んでもらったり、肩車をしてもらっているのを見て、ものすごくうらやましくなった。
うらやましさから、私は終始ふてくされていた。
せっかく、連れて行ってもらっているのにと、お母さんが困惑していた事を覚えている。
その年の、家族で行った海水浴では、お父さんに、肩車をせがみ肩車をしてもらった時の
ー嬉しかったこと嬉しかったこと。
肩車をしてもらって写真まで撮ってもらった。
お父さんは、泳ぎも上手だった。
ブイのあるロープの所まで泳いで行った時は〝すごーい〟と目を丸くした。
海水浴場にあった飛び込み台も〝ザブーン〟と飛び込み
ーかっこよかった。
最後に行った海水浴は、私が小学校一年生の時だった。
民宿で一泊の旅行だった。
行きは、お父さんの車で行ったが、
「仕事があるから帰りは電車で帰りなさい」
とお父さんは泊まらず帰ると言い出した。
「年に一度ぐらい、子供と一緒に居てあげれないの?」
と、お父さんとお母さんは、言い争いになりそうになり、私は慌てて
「電車で帰りたい、電車に乗ってみたい」と言った。
お母さんは、お父さんに対して腹立たしい思いもあっただろうが、私は必死に、明るくふるまった。
めったにない、家族の時間を大切にしたかった。
末っ子のせいか、親の顔色をよく見て、我ながら、そういう時は 天才子役 だった。
お父さんの出で立ちは、いつ見ても、シワ一つ無い、三つ揃えのスーツ姿で、靴もピカピカだった。
ー真夏でもだ。
俳優の石原裕次郎に似ていた。
小学校に上がった頃から、数か月に一度ぐらい、家に突然やって来た。
家でダラダラくつろいでいる時に、突然、スーツ姿のお父さんがやって来ると、恥ずかしいような、緊張した覚えがある。
構図としては、ダラダラしている、ちびまるこちゃんの家に、突然、石原裕次郎が訪ねてくるようなものだから、ちびまるこちゃんとしても、あたふたしてしまう始末みたいなものだった。
来た時は〝チラッ〟と顔を玄関先まで見に行ったが、会話もなく、お父さんも家に上がる事もなく、すぐさま帰って行くのである。
何度かの内、お父さんの帰り際、黙って手の平を出し、こずかいをせびった時もあったが、パシンと手を叩かれ一円すら貰えなかった。
たまにしか会えないのに、自分の事を可愛いと思ってくれているのであれば、少しのこずかいぐらいくれてもいいのにと計った。
大人になってから気づいたのだが、
今の時代とは違い、毎月の養育費は振込という訳にはいかず、毎月、お金を持って来ていたのであろう。
だから、私が居る時とは限らなかったが、数か月に一度、顔を見ることがあったのだと思う。
私が中学生ぐらいまでは、度々、家に突然来た覚えがある。
姉の中学卒業時や、兄の中学卒業時には、
近くのステーキハウスに、父・母・兄弟3人で、お祝いに食事に連れて行ってもらった事を覚えているが、会話も弾むことはなかったと思う。食事をして「仕事があるから・・・・」と店を出た所で別れた。
高校に上がると、自分の学費やこずかいを、バイトをして稼いだ。
バイトと遊びで忙しかったせいなのか?お父さんとの思い出も無ければ、会った記憶さえ無い・・・。
そんな頃、あの綺麗で美しかった京子叔母様亡くなったと、後から聞かされた。
病名は白血病だったようである。
正しく〝美人薄命〟だと思った。
おじい様一家の哀しみの深さは計り知れないだろうと察した。
特に、娘を喪った、おばあちゃんの哀しみを考えると・・・・。
その頃から、お正月でも、おじい様の家や、もう1人のお祖母ちゃんの家にも顔を出さなくなった。
私が高校卒業後、社会人になると、お父さんの方から、年に一度くらい電話で連絡があり、食事に誘われるようになった。
その頃から、大人として、扱ってくれた。
有名ホテルのロビーや繁華街で待ち合わせをした。
お父さんは、必ず待ち合わせの時刻に行くと、片手をポケットに入れて佇んでいた。
「お父さんは、人を待たせた事がない。必ず30分前には待ち合わせ場所に行く」
といつも言っていた。
普段から、待ち合わせには、ドタバタしながら急いで向かう私にとって、少々うざったいが、崩れや乱れがなく、整然としているお父さんらしい言動であった。
お父さんと食事に行くと、いつも旨いものを食べさせて貰えた。
お寿司、漁場、ステーキ、鴨など。普段食べた事ない高級なものばかりで、食いしん坊の私には
〝タダで旨いものが食べられる〟贅沢な楽しみだった。
特に、私は、魚には目がない。
帰る際、おこずかいを数万円もらえる事もあった。
帰りはタクシーを呼んで、私を乗せてくれた。車内の窓からお父さんを見て手を振り〝さよなら〟をすると侘しさが残る・・・。
後味の、侘しさを認めたくなく、揉み消すように
〝食べ物やこずかいに吊られて逢うだけなのだ〟
といつも、自分に言い聞かせた。
お父さんと行く店は、お父さんの行きつけの店であったのだろう。
お店の人は、どの店も、お父さんの苗字を呼んでいた。お店の人は、同伴する私を珍しそうに見るので、お父さんは、
「娘だ!」と、紹介する。
一緒に暮らしている、娘には見えないのではないか?
お店の人に、変に悟られるのではないか?
と気を使いながらも〝娘だ!〟と言ってくれる瞬間が、離れて暮らしていても、子供と認めてくれているようで、満足感に浸れた。
何気ない、その時々の近状を話したり、姉や兄の事を話したりして、食事とお酒を楽しんだ。
場の雰囲気を感じとり、少し冗談を交えながら、たまにしかない時間を、和やかに楽しくしようと私なりに努めた。
ある日、食事をした後に、お父さんがたまに行く店なのであろうか、落ち着きのあるスナックに連れて行ってもらった事があった。
お店のママさんが、カラオケを勧めてきた。お父さんは、歌を歌うような人ではなかったし、下手くそなイメージだった。
案の定、お父さんは首を横に振り、私に勧めてきたが、お父さんの前で歌うのに、気恥ずかしさもあり断っていたら、お店のママさんが、
「奥さんは上手じゃない」と言った。
慌ててお父さんは、口に人差し指を持っていき〝シィー〟のポーズをした。
(奥さん?)
私は、一瞬にして理解したものの、気が付かないふりをして、直ぐに、父の年代でもわかるようにと、演歌調の歌を歌ってみせた。
歌い終えると、お父さんは
「上手いけれど、もっと明るい曲を歌いなさい」とこういう感じだ!
私は、反論する気にもなれず、ゆっくりとお酒を口に流し続けた。
少しの沈黙のあと
「お父さんは一緒に暮している女の人がいる。でも、お母さんと別れたのは、そのせいじゃない」
と白状しだした。
「へぇー、そんなんだー」
平然に答えたが、初めて聞く言葉に、気持ちは複雑だった。
「お父さんは、お前達の事を一日も考えなかった日はない。お母さんの事も心配している」
と臭いセリフを言い出した。
お父さんの目を見て、笑顔で冗談まじりに
「お父さん、私達の誕生日しってる?知らないでしょー」
お父さんの目が一瞬止まったのを、見逃さなかった。
お父さんは、私達の誕生日を知らない、
知らないとわかっていながらワザと聞いてやった。
ささやかに、反発するしかなかったが、思いのほか、このパンチは強烈だったと、お父さんの目を見てわかった。
お互い、酒を煽った。
酒に乱れるような人ではなかったが、少しお父さんの呂律も怪しくなってきた。
「お父さんは、子供の頃は貧乏で、近所の子供が、お祭りに行くのに、行かしてさえもらえなかった」
「お祭り行きたかったの?」
「行きたいさー 子供だぞー 行きたいに決まっとるー」
お父さんの声が張りあがった。
年寄りのよくある苦労話しが始まったかと思ったが、ムキになった声が、お父さんの子供の頃を想像させ可愛く見えた。
「お父さんの人生は、小説もかけるぐらいだぞー」
今さら、父親に甘える歳でもなく、一人の男の人生として考えるならば、この人も波乱に富んだ人生だったかも?と想像した。
「お父さんが死んでも、お前達は何も考えなくてもいい、お母さんの事だけ考えてくれればいい」
「・・・・・」
ー直感的に
(お父さんの葬式にすら、呼んでもらえないのではないか?)
お互い酔いすぎたのか、いつになく話しがしんみりしてしまい、店を出た。
繁華街のネオンが歪んで見えた。
並んで歩きながら、お父さんは街路樹に目を向けて
「そこいらの木でも何十年と、生きている。真理の歳より長く生きている。人間なんか、たかだか百年生きられない。振り返れば一瞬だ」
お父さんの話しに黙って頷くものの、私は、お父さんの話しを悟り知るには若すぎた。
いつものように、タクシーに乗せてもらい、笑顔でサヨナラするが、
直ぐには、家に帰る気にはならず、タクシーの運転手に家とは違う行先を告げ、一人飲み屋に入り、思いにふけり、気持ちが落ち着くまで酒を煽った・・・。
24歳を迎える頃
「おじい様が亡くなった」
と叔父さんから家に電話があり、私達家族は知らされた。
それも、数か月前に亡くなっていると言う。
ー結局、おじい様の葬式には呼ばれなかった。
悲しみもなかったが、言ってくれれば、葬式ぐらい出たのにという思いはあった。
叔父さんに、おじい様の屋敷に来るようにと孫達全員が呼ばれた。
おじい様の遺産として、孫達均等に、百万円用意されていた。
たぶん、おじい様と暮らしていた、おばあちゃんが孫達にと残してくれていたのだと思う。
叔父さんは
「棚から牡丹餅のように使わないように・・」
と一言忠告したが、
私はというと、そのお金で、ハワイにしばらく滞在する予定で、仕事も辞め、飛んで行ってしまった。
ハワイに滞在中、自分のお腹に子供が宿っていることに気づき、帰国を余儀なくした。
帰国後、お腹の子の父親と結婚する事に決心した。
おばあちゃんに電話をして、お父さんに連絡してもらうように頼んだ。
お父さんから連絡があり、結婚の報告をし「彼を紹介したい」と話して、お父さんと以前食事をした事があった漁場の店で、会う約束をし電話を切った。
約束の日、彼と店に行くと、お父さんは、いつもように、先に店の前で待っていた。
店に入り、彼を紹介した。
お父さんは、反対もしなかったし、
「二人で力を合わせてやっていくように」とだけ話し、
彼がどんな人なのか、何をやっているのかなど、あまり詮索する事なかった。
すぐに、お父さんは「結婚式には出ない」と言い出した。
私としても、呼ぶつもりもなかった。
今更、お母さんと同席するわけにもいかないだろうし、母方の親戚に会う事もできないであろう、そんな事は心得ていた。
しかしながら、先に言われると癇に障った。
「お祝いは出す」
と言ってくれたが、金をせびりに彼に合わせた訳でもなかったが、ここは素直に
「ありがとう」
と感謝し、祝金を後日受け取り、結婚式を挙げる事が出来た。
おじい様が亡くなってから一年後ぐらいに・。
今度は、叔父さんと暮らしていた、焼肉の美味しかった、お祖母ちゃんが亡くなったと、後から聞いたが、当然、葬式には呼ばれなかった。
無くなる前に入院していた病院は、実家から直ぐ近くの総合病院だと聞いが、
先に言ってくれれば、お見舞いぐらい行けたのに・・・と、その時思った。
結婚して、娘を産んで一ヶ月後、山に囲まれた自然豊かな町へ引越しをした。
日々の生活や子育てに追われ、お父さんと連絡を取る事はなかった。
娘が、4歳になり、保育園に通っていた。
保育園に娘を送り届け、慌ただしい、
ーいつもの朝。
家の電話が鳴った。
お父さんからの電話だった。
「今日、そっちに行ってもいいか?」
あまりにも、突然だったが、快く了解した。
(めずらしい・・・)
車で来ると言うので住所を告げた。
急ではあったが、嬉しかった。
3時間ほどすると、本当に来た。
お父さんの車は、ボルボのセダンだった。車のカーナビのおかげで、迷わず来れたようだった。
家に上がってもらった。
上がってもらったと言っても、その頃、我が家は、1階の居間が四畳半しかない、2階建ての長屋に住んで居た。
お父さんは居間に座り、辺りを見渡しながら、
「よく綺麗に片付いているなぁー」
と褒めてくれた。
片づけていないと、人も座れないほどの狭さだ。それに、狭いから片づけるのも、楽なものである。
「この辺りの土地はいくらぐらいするのか?」
「田舎だから、そんなに高くはないと思うけど、わからないなぁー」
「お父さんが出してあげるから、家を買ったらどうだ」
狭い家を見て、気の毒に思ったのか、マイホームの購入など、考えた事もなかった私は、適当に交わしておいた。
ちょうど昼時になり、昼食をどこか近くに食べに行こうという事になり、迷わず
「お寿司が食べたい」
と甘えた。
家を出て、お父さんの車の助手席に遠慮がちに乗り込んだ。
「外車じゃん!」
と大袈裟に驚いてみせた。
外車など、乗るような人ではなかったので、少し意外だった。
「お父さんも歳だから、安全面を考えて。最期の車かも知れないし」
と弁解した。
お父さんの言う通り、車内はエアバッグが所々にあり、安全性が高く感じられた。
埃ひとつ無い内装の綺麗さに、自分の座った席には、いつもは違う人が乗っているのだろうかと気を遣った。
家の近くのお寿司屋に入った。
久しぶりの、落ち着いた外食と、お父さんが、わざわざ来てくれた事だけで、気持ちは満たされていた。
三つ揃えのスーツ姿のお父さんしか記憶にないが、この日のお父さんの恰好は、上品なポロシャツにスラックスと、初めて見る少しラフな格好だった。
「仕事辞めたの?」
と聞いてみたところ
「お父さんは、退職して、今は、叔父さんと叔父さんの子供が会社の後を継いでやっている」
と聞かされた。
今は、度々、雀荘に行っている。健康の為に、雀荘までの行き帰りを1時間ほど歩いていると言う。
話しの中で
「お父さんは麻雀で負けた事がない」
と自慢のように言い切った。
気迫を持ち合わせている存在感から何となく嘘ではないように思え、
(突然来たのは、麻雀で儲かったのかな?)
とふと思ってみた。
寿司屋の大将に
「この辺りに、良い温泉旅館はないか?」
とお父さんが尋ねた。
「一泊、泊まって行くから、お前達も泊まりなさい」
と言い出した。
こんな機会もないと思い、了解した。
寿司屋の大将に、旅館の二室を手配してもらった。
私の旦那は仕事中で、娘は保育園に居たため、保育園に連絡をして早退する事を伝えた。
お父さんと二人で保育園に迎えに行き、家から30分ほどの温泉旅館に、お父さんと娘で、先に行ってもらう事にした。
普段から人見知りをしない娘だったので、何も動じず、初めて逢った、おじいちゃんの車に乗り二人は先に行った。
夕方になり、旦那が帰宅し、事情を説明して二人で旅館に向かった。
部屋に懐石料理が運ばれてきた。
ゆったりと食事を楽しみ、娘は部屋を歩き回りはしゃいでいる。
お父さんは、孫と手を繋いで来たと言う。二人で一緒に温泉にも入ったらしい。
全く動じない孫に驚いていた。
お父さんの、おじいちゃんらしい姿を見るのは想像もしていなかった。
声を出して笑ったところは、今までに一度として見た事がないが・・・。
何とも言えない、とにかく嬉しそうな顔で孫を見ていた。
初めて見る、微笑んだ優しいおじいちゃんの顔に、私も笑みがこぼれた。
料理も食べ終え、穏やかな時間だった。ほんのり、お父さんの顔が赤らんできた。
「マッサージを呼んでくれ」
とフロントに頼み、お父さんは、別室へ行き、私達夫婦と娘も寝床に入った。
翌朝に、私だけお父さんの泊まった部屋に呼び出された。
「子供に何か買ってあげなさい」
と、十万円渡されたが、
「お金はいらないから、また、会いにきてやって・・・」と断った。
「いいから取っておきなさい」と渡してくれた。
おじい様が、孫の私達にお金をくれた時には、お父さんは
「子供に、そんなにお金をやるもんじゃない」と
ものすごく怒っていた事を思い出し、お父さんも孫には甘いんだなぁーと何となく可笑しかった。
お父さんが、突然訪ねて来てから1年後には、私も二子の長男を授かり、四畳半の長屋も手狭くなり、近くの戸建ての借家に引越しをした。
築70年以上の古いボロボロの家であったが、昔ならではの、土間のある大きな家で、裏の畑で野菜を育てたりと楽しんだ。
保育園は真横で、小学校もすぐ近くにあり、なかなか気に入ってはいたが、玄関先が車の行き交う道路で、子供の危険性は心配していた。
その数年後、町内で気に入った建売を見つけた。
当てにしていた訳ではないが、お父さんの言葉を覚えていた。
何とか頭金を借りれないだろうか?
と思い、おばあちゃんを通じて連絡を取ってもらうように頼んだ。
お父さんから連絡があり、事情を話すと
「真理が、気に入ったのであれば買いなさい」
と即答してくれ、直ぐに、頭金を用意してくれた。
私から、最初で最後のお願いのつもりで甘え,
気に入った物件を見つけてから、僅か3ヶ月後には、マイホームに入居する事が出来た。
息子が小学校1年生の頃。
突然に・・・
「僕、おじいちゃんに逢った事がない」と言い出した。
私も、日々の生活や子育てに追われ、
時々
「どうしてるかなぁー」
「元気でいるかなぁー」
と考えるものの、わざわざ連絡をする事もなく、向こうからの連絡を待つのみであった。
ー息子にも逢わせたい。
ーお父さんにも逢ってもらいたい。
私は、兄に、お父さんがよく行くという、雀荘の電話番号を聞き、その店に電話を掛け、お父さんと連絡をとる事ができた。
「今週末、実家の方に帰るけど、息子が逢って見たいって言うのだけど逢えない?」
と何気なく話しを持ち掛けた。
お父さんは、難なく了解してくれた。
週末、実家の近くのお寿司屋で待ち合わせする事になった。
姉にも誘いの声をかけ。私と娘に息子、お姉ちゃん家族(姉夫婦と息子二人)で出向いた。
お父さんは、店のカウンターに座り、いつものように先に待って居た。
息子は、初めて逢うおじいちゃんに、少し緊張気味だった。
私達は、遠慮なしにお腹いっぱいになるまで、食べて飲んで、お父さんも、孫に囲まれて、嬉しそうだった。
おじいちゃんと孫が居てと、普通の家族の、あたりまえの光景が幸せだった。
帰り際に、孫達におじいちゃんから、おこずかいをもらい、孫達も上機嫌で、寿司屋を後にした。
嬉しい時間は束の間だが・・・
ー逢わせてよかった
私が結婚をして家を出て、1年後ぐらいに、兄は東京へ転勤が決まり、お母さんは独り暮らしになってしまった。
ー女手一つで、育ててくれたお母さん。
私達兄妹の小さい時は、よく風邪をひいていたが、仕事をするようになってからは、元気にずっと働いてくれ、定年が過ぎてからもパートに行っていた。
友達もなく、趣味もなく、ただ子供の為だけにと、がむしゃらに頑張ってくれた。
お母さんが、風邪をこじらせ肺炎になり、初めて2週間ほど入院をし、仕事を辞めてしまった。
「一人だと食事がまずくてね」
「テレビが友達」
と嘆いていたが・・・。
お母さんの孤独な気持ちを知りつつ、たまに孫を連れて、実家に顔を見せに行くぐらいしか出来なかった。
兄は、東京でのサラリーマン生活にピリオドをうち、中国へ移住した。そして、中国人の女性と知り合い結婚をした。
兄弟それぞれの生活もあり、見て見ぬふりをするしかなく時が過ぎていった。
数年後・・・。
お母さんが、2回目の入院をした。
症状は、前と一緒で、風邪をこじらせ肺炎にあり、命に関わるような重いものではなかったが・・。
兄も直ぐに、中国からお嫁さんと一緒に帰国をして、お母さんの見舞いに駆けつけた。
海外といえども、直ぐに、何かあったら駆けつけて来れるという事を示し、安心させたかったのだろう。
お母さんの入院中、お姉ちゃんのマンション近くの洋風居酒屋で、私達兄妹3人と兄のお嫁さんも交えて食事する事にした。
食事をしながら、真剣に、話し合ってみた。
お母さんが孤独でいることが、何より私達は心配であった。
「お母さんを中国に連れて行き同居したい」
と兄が言い出した。お嫁さんも同意見で、それを願っていた。
「大気汚染の問題もあるが、今の中国は、日本製品も何でも揃うし、日本食にも困らない、物価も日本で暮らすようは安いので、お手伝いさんを雇う事だって出来るし、日本のテレビだって見るように出来る。不可能ではない」 と・・・。
姉と私は反対した。
お母さんの性格や生活を考えると、言葉もわからない国で暮らすことが出来るとは、到底、思えなかった。
逆に言えば、外国暮らしが出来る程の、バイタリティーのある人ならば、孤独を感じないのでは?
との見解だった。
「実家に戻ってもいい」と私は提案した。
だが、旦那とお母さんは、折り合いがあわず、私と子供だけで戻って来るつもりで言ってみた。
姉と兄は、家族が離ればなれというのは、どうしたものか?という感じだった。
そして、姉が提案した。
姉はマンション暮らしで、家族4人で住んでおり、お母さんを受け入れるスペースはないが、
「マンションの一室に、空きが出来たら購入したらどうか?」と・・・。
勿論、早々にマンションの一室が空く事もないだろうし、いつになるかわからない。
マンションを購入するとなると、今の実家を売却しないと資金がない。
実家が、直ぐに売れるものかもわからない。
実家と姉のマンションとでは、車で15分ほどの距離だが、何かあった時、姉が、毎日実家に通う事もなく、同居ではないにしろ、同じマンションでなら、何かにつけて都合もよく、兄弟の抱える、お母さんへの心配な気持ちが安心できる提案だった。
ただ、いつ?という具体的ではないが、兄も私も賛成だった。
しばらくして、姉のマンションの一室が
「もしかしたら空くかも知れない」という話しが浮上した。
お父さんに〝もしかしたら〟という話しを持ち掛けた。
お父さんは、案の定、大反対であった。
「あの家は残さなかん!」
「絶対ダメだ!」
勿論、実家が無くなる寂しさは大きいが、独り暮らしの寂しさのお母さんを見るに耐え難い私達には
(あんたに反対される権利はないはずだ!)
という思いはあった。
お父さんから見て実家の存在は
(自分が守っている)
(お父さんの家?)
との感覚でもあったのか?
疑問を問いかける事もなく、感情が入り乱れた。
お父さんは、お母さんに電話で
「子供達を信用するな! お前は、騙されているんだ!」
「子供を信用しなくて! 誰を信用するの!」
とお母さんは反論したらしいが・・・。
結局、マンションの空きの話しは、売買の取引が公にならず、話し事態、宙に浮いてしまった状態で休止した。
その後、兄は第一子の長男を儲けた。
家系でいえば、初めての内孫である。
初めて父親になった喜びを、ただ伝えたくて、お父さんに連絡を取ったらしいが、兄の言葉を聞く事なく
「お前とは話さん!」
と〝ガチャン〟と電話を切ってしまったらしい。
兄は、非常にショックを受け、この事がトラウマになり、お父さんに対しての感情を封印した。
ーなんで?
首を傾げた。
なんで、そのような事を言い出したのか?
まったく理解が出来なかった。
私達の気持ちを伝える事もなく、お父さんが、何故、反対なのか?という気持ちも問う事なく時が流れた。
連絡を取ってみたいという気持ちはあったが、兄のように、話しすら聞いてもらえないのではないか?という怖さもあった
2年程たち・・
また、姉のマンションの一室に空きが出そうな動きがあった。
今回は、かなり本格的な情報だった。
売主も売却の為、リフォームしており、近くの一戸建てを購入する話しも、間違いないらしい。
不動産の売買について、無知のまま、新聞広告や売買しそうな不動産会社を気にした。
どうすれば、物件を押えることが出来るのか?
実家が売却、出来るのか?
実家を売却しなければ、勿論マンションを購入する資金などない。
とりあえず、誰かの名義でローンを組み、売却できる期間まで待つものなのか?
心配をよそに、思いのほか早く情報が掴め、姉夫婦に任せる事になった。
不動産会社との話しで、実家の売却とマンション購入も、同時期に出来そうな気配になった。
「引越ししても、独り暮らしには変わりないし・・・」
と寂しさをお母さんはこぼしていたが・・・。
私達兄妹は、姉と同じマンションというだけかも知れないが・・・。
その選択しか考えつかなかった。
お母さんも、実家の荷物を少しずつ片づけ始め〝まんざらでもない〟という気持ちだと解釈した。
あまりにも、話しが、とんとん拍子に進む中、お姉ちゃんから電話があった。
「引越しする事が、お母さんにとって、幸せか、幸せじゃないか、と考えると、私には、わからない。本当にこれでいいのかなぁー・・・・・もしかしたら、私達の選択は間違えているのかなぁー・・・」
「私にもわからない・・・・。でも、こういう話って、ダメな時はスムーズに事が運ばないのではないのかなぁー?・・・問題が出てきたり、想いと違う風になったり、私にもわからないけど、こんなにスムーズに事が進むという事は、流れに身を任せて、いいんじゃないのかなぁー・・・・」
と私は答えた。
実際、私だってわからなかったし、不安であった。
よい方向に向かう事を願うことしかできなかった。
後に、お姉ちゃんから聞いた話だが、私のこの言葉に〝気が楽になった〟と言ってくれた。
話があってから、数か月で引越しの段取りまで話しが進んだ。
もう少しで、引越しという時になり、私は、お姉ちゃん言ってみた。
「お父さんに言った方が、いいんじゃない? 何なら私が上手に言ってみるけど・・・」
「反対されるのわかっているし、ぶち壊されたくない・・・もし、言うのであれば、引越しも終わり、落ち着いてから言った方がいい。ここまできて ぶち壊されたら、その気になってきた、お母さんを、また傷つけるには嫌だ・・」
と言うお姉ちゃんの考えだった。
私は、お兄ちゃんにも同じ質問をぶつけてみた。
「言う必要はない、お父さんには関係ない」と答えたが
「それでも、真理が言うのであれば反対しない」と付け加えた。
私自身は、反対される事をわかっていたが、先に言っておきたかった。
お父さんが〝実家を手放してはダメだ”と言う思いも聞いてみたかったし、私達が、なぜ手放そうとしているかも話しておきたかった。
一番には、後で、お父さんに黙って行動した事を、お父さんが知った時の方が怖かったが・・・。
ここまで来て、ぶち壊されるのも心配であった。
結局、姉の意見のように、引越しをして落ち着いてから、お父さんに話す機会を作ろうと思った。
引越しには、兄も数週間の休みを取り、中国から駆けつけた。
ほとんど必要な物はないが、押し入れから、兄弟3人の小さい時に書いた、絵や作文が出てきた。
住んでいた頃の思い出に浸りながら、家を流れる風、匂い、音、部屋をめぐる時の体にしみついた歩幅。
この空間が無くなる寂しさはあるが・・・。
お母さんの新たな生活で、いつまでも元気でいられますようにと・・・と気持ちは前向きであった。
引越しの当日は、引越し業者に、家の不要品回収業者が入り乱れ、マンションと実家の売買契約が同じ日に行われた。
次の日には、実家も解体され、更地になると聞いたがが、見るには抵抗があった。
実家を最後に出る時に、お姉ちゃんが壁に
『ありがとう』とマジックで書いた。
たった一言に、すべての想いが蘇り、胸にしみて痛かった。
引越しも終わり、一ヶ月程してから、私の携帯に非通知の電話がなった。
非通知は、公衆電話からなのであろうか?
お父さんの電話だと直感した。
「お父さんは、お前達と縁を切る!」
「お前達には財産をやらん!」
「なんで、お父さんの言う事が聞けん!」
私が言葉を返す間もなく、一方的に切られてしまった。
お父さんは怒っていたが、どこか寂しそうな声だった・・・。
私は、姉と兄に連絡した。
お姉ちゃんは
「想いのほか早く気がつかれたね。真理に嫌な想いさせちゃったね」
と私の気持ちを気遣ってくれた。
お兄ちゃんは
「まぁ、しょうがない。お前も財産なんて当てにするなよ」と・・・。
姉や兄に話す時は、私も強がり、あっけらかんと
「全然 気にしてないから大丈夫だよー」
と話した。
電話を切った後、涙で溢れた。
なんで、家を売ったのか理由を聞かないの?
なんで、財産なんて、考えた事もないのに、そんな事言うの?
なんで、私達の気持ちをわかってくれないの?
〝縁って何よ〟
連絡先もわからない。
何処に住んでいるのかもわからない。
縁を切るって意味がわからない。
元々、縁があるのか?無いのか? すらわからない・・・。
ーもう逢えない
私は、ただ、たまに、お父さんの声が聞きたかっただけなのに・・・。
胸から込み上げて、涙がしたたれ落ちる。
〝声には出ない〟
〝出さない〟
いつだってそう、一生懸命、唇を噛み締める。
気持ちを押し込めた胸が痛い。
胸にしまおうとするから涙がしたたれ落ちるだけ・・・。
時は、足早に経つが、日々の忙しい中でも、お父さんの事を考える時はあった。
(どうしているかなぁー)
(元気でいるかなぁー)
(きちんと、家を売った理由を話せばわかってくれるかなぁー)
(連絡してみようかなぁー)
と言っても、連絡先も知らない。
(お父さんの行きつけの雀荘に連絡して、来てないかきいてみようかなぁー)
結局、思うだけで、諦めるしかなかった。
ー考えては諦め、繰り返した。
息子が突然に・・・。
「おじいちゃんに逢った事がない」
と言った。
「お寿司屋さんで、逢ったの覚えていない? 小さかったからなぁー」
(たしか息子に逢わせたのは、4、5年前になるかなぁー?)
「覚えてる、覚えてるよー」
と息子は言い直した。
不意に言われ、なぜ急に「おじいちゃんに逢った事がない」なんて言い出したのか?
不思議に思ったが、それ以上の話しはしなかった。
(どうしているかなぁー)
いつものように考えては諦めた。
ーそれから一ヶ月半頃過ぎた。
11月11日
仕事からいつものように帰宅をし、夜、姉からメールが届いた。
〝連絡がほしい〟との事だった。
お母さんの事か?それとも、今は、進学の為に、お母さんと一緒に暮らして居る娘の事か?
心配になり電話を掛けてみた。
「お父さん、死んだんだってー」
「はぁー?・・・・・・」
「なんでわかったの?」
「お母さんの所に、昼間、叔父さんから、ものすごく怒って電話があったらしいわー
子供達には、遺留分があるから請求しない韓との内容だったらしいわー」
兄にも姉から連絡したと言う。
「葬式は?」
「もう、済んでいるらしい」
「三週間ほど前に、珍しく、おばあちゃんから、お母さんの携帯に電話があって、おばあちゃんとお母さんは話しているらしいけど、何にも言ってなかったらしいから、その後じゃあないかなぁー」
「へぇー、よく、おばあちゃん連絡先知っていたねぇー」
「叔父さんから聞いたらしいわ。叔父さんとお母さんは、一応、携帯番号の交換をしていたらしいから・・・・」
「先月の終わりくらいかなぁー」
「ふーん」
「入院していたみたい。癌だったらしいわー」
「私は、遺留分は請求するよ」
と姉に断言し、電話を切った。
私は、兄に電話を入れた。
「聞いた、聞いた」
と兄は言った。私は兄にも
「遺留分は請求したいから」と伝えたが、
驚いた事に、兄は遺留分というものがある事すら知らず、全くの無知であった。
兄自身、父とは喧嘩別れのような形でいたし
「俺は、金はいらん!」と兄は言ったが、
遺留分が、民法で定められている一定の相続人が最低限相続できる財産である事を説明して、長男である兄に託し電話を切った。
姉や兄に話す時は、動じていないように話したが、電話を切った瞬間、涙が溢れた。
ー逢いたかった。
ー哀しい。
最後に話した声が蘇る。
(お父さんは、お前達と縁を切る)
(お前達には財産をやらん)
(なんで、お父さんの言う事が聞けない)
何度も何度も、お父さんの最後の声が蘇り、涙が止まらない。
お金なんて、欲しいなんて思った事なかった。
ーなんで、そんな事言ったの?
ー逢う機会を持たなかった自分だが、生きてさえいてくれれば、逢う機会を持つ事を想う事が出来る。
ー逢おうと想う事すら出来ないのが死んじゃった事なんだ・・・。
ーこの世に居ない事が、ただ、ただ寂しくて悲しくて・・・・。
ー何がなんだかわからない。
なんで、なんで、なんで、なんで、なんで・・・・・。
胸から込み上げて、涙がしたたれ落ちる。
次の日から、会社に、忌引きをもらい休んだ。
別に、葬式があるわけでもなかったが、とても、仕事に行く元気もなかった。
お父さんが、死んだ事は聞かされたが、いつ死んだのか日にちすらわからない。
葬式に呼ばれる事はないかも?と薄々は覚悟していたものの、手を合わせる所もなく、どうして、死んだのかもわからず・・・。
死の知らせの三週間程前に、母に久しぶりに電話を掛けてきてくれた、おばあちゃん。
昔の手帳を探して、電話を掛けてみた。
「お久しぶりです。真理ですが、わかりますか?」
おばあちゃんは、20年程ぶりだったが、声も全く変わらず、とてもパワフルで元気いっぱいだった。
一方的に、おばあちゃんがペラペラと話し出した。
今は、92歳だと言う。
元気なおばあちゃんにビックリすると同時に、安心した。
「お父さん亡くなったってー」と言うと、
おばあちゃんも病気で入院している事も聞かされておらず、夜中に電話があり、斎場の安置所に急いで向かったらしい。
「綺麗な顔だったよー」
記憶にあるお父さんの顔が、安らかな表情であった事が想像出来た。
「おじい様の月命日には、毎月必ず学ちゃん(叔父さん)は来るけど、順司(お父さん)は一度として来たことないわー」
おばあちゃんの話しだと、叔父さんは、ここ数年、体の具合が悪く、思うように動けない状態のようである。おじい様の月命日には、奥さんの介護で、必ず、覗くようである。
お父さんは来たことがないらしいが・・・・。
お父さんの信仰心の無さからくるものか?
それとも、自分が病気になった時、わからないようにと計算して、あえて親類との距離を置いていたのか?
わからない、わからないが・・・。どちらにしても、親父らしいとも感じた。
「あんたの、お母さんのお母さんを、お見舞いに行った時『お母さんを頼む』って泣きながら、手を握って頼まれてね。それが、今でも忘れられないわー」
私の母方の祖母は、私が2歳ぐらいの時に亡くなっているから、私自身、まるで覚えもないが、そんなこともあったんだぁーと思うと同時に、知らない事だらけの自分がいた。
「財産の請求しないかんんよー」とおばあちゃんも言った。
「多分、私達には残してないわー」
「会社のあった、前の土地も、後ろの土地も順司の物だった筈なのにー。あの女は、気のキツイ性格だったから、お父さんは尻に敷かれてたのだわー」
お父さんの奥さんについての印象を初めて聞かされ、おばあちゃんは面識があるのか?
(当然かー)とも思ったが、
キツイ性格?
尻に敷かれていた?
の言葉は、私の中の奥さんの想像とは違い、鵜呑みには出来ないでいた。
結局、はっきりとした命日はわからなかった。
また、それ以上も聞かなかった。
「近々会いに行くから、おばあちゃんも、元気でいてね」
と電話を切った。
叔父さんから母への連絡のおかげで、私達は父の死を知った。
私は、お母さんから叔父さんの携帯番号を聞き、叔父さんの携帯に電話を掛けた。
「叔父さん。真理ですが、わかりますか?」
「真理か。わかるよ」
叔父さんの声は、か細い感じがした。
「お父さん、いつ死んだの?」
「たしかぁー・・・10月1日だ・・・」
私は耳を疑って
「えっ、ホントに?・・・・11月じゃあなくって・・10月・・・・」
「おい、10月だよなー」
電話越しで、叔父さんが奥さんらしい人に確認をしている。
「夜中に電話があって、急いで着替えて駆け付けた。線香一つない。俺はアレに怒ってやったさ・・。俺もこんな身体だ。電話ではなんだから・・・・。一度、家にいらっしゃい 」
「叔父さんは、長生きしてね」と電話を切った。
声には張りがなく、聞き取りにくい、そして悔しそうだった。
叔父さんも、何も知らされず、焼くばかりの弟の姿を見て、さぞ耐え難い思いをしたのだろうか?
無常の思いの矛先が、お父さんの奥さんに向けられたのだろうか?・・・。
命日から、既に一ヶ月以上も経っている。
叔父さんが、母へ、電話で知らせてくれたのも、ひと月以上経ってからしてきた事になる。
その間、叔父さんも、心の整理が出来ずにいたのか?
その間も、悔しさが紛れなかったのか?
それとも、連絡する事を迷ったのか?
命日が間違えなのか?
鵜呑みにするのであれば、私達が知るまで、ひと月以上経っていた事に驚いた。
それに、おばあちゃんが、電話を母に掛けてきたのも、父が死んでからになる。
おばあちゃんは、母に伝えたかったが、言えなかったのか?・・・。
夜、兄から電話があった。
「木曜日に、一時帰国するわ、日曜日の朝にはこっち(中国)に戻るけど」
「私も、その日、実家に帰るつもりだけど・・・」
兄貴の、お嫁さんのお腹には二子目の子供を授かっていて、来月には臨月を迎える。
「わざわざ、帰って来なくてもいいよぉー」
と言ってみたが、私同様、居ても立っても居られない気持ちなのかとも思った。
「子供が産まれてからでは、何かと帰れない状況だろうから、今なら、数日なら帰れるから」
との後に、
「知り合いの弁護士にあって、どうすればいいか?相談してみる。
今日、コウサイに電話をして会う約束もした」
遺留分について、兄に託したものの・・・
「私は、とにかく遺言状があるのか? その配分を知りたい」
と捲し上げた。
お父さんの、最後の言葉が蘇り巡る。
本当に、遺産があるとすれば、最後の言葉通り、私達子供には、一円たりとも金を渡す気はなかったのか?
そうは言っても、分け隔てなく残して逝ったのか?
それが一番気になった。
ー金なんかどうでもよかった。
お金でしか、人品骨柄、愛情の度合い、お父さんの心を覗く事ができなかった。
兄は、
「コウサイとの話しで、遺言状もあるらしい。子供達には遺留分は渡すと話していた」
「ふ~ん、やっぱり」
結局、お父さんは、最後に話した
(お前達には財産をやらん)との言葉通りに実行したのだ!
兄と電話を切った後、姉に電話を掛けて、その事について話した。
姉も、私と想いは一緒で
「あの人のやりそうな事だね」
と静かに納得していたが、想いは複雑だった。
ー結局、私達を恨んで死んでいったのか?
ー私達への愛情はなかったのか?
姉の方にも、兄から連絡があり、姉には、お父さんの奥さんに会うと言ったと言う。
「えっー、私、聞いてないよー、本当にー・・・・」
まさかのまさかである。
私だったら、私だったら・・・・。
とても、会う気持ちにはなれない。
会って何を喋るのだ!
私には、コウサイに会うとは言っていたが、公正書士か公証人役場の人にでも会うのかと思っていた。
「確認してみる!」
姉と電話を切り、直ぐに、兄に電話を掛けた。
「さっきの話しだけど、誰と会うの?」
「だから、コウサイだってー」
少し強めの、面倒臭そうな口調で、言い放った。
「コウサイって誰?」
「オマエなぁー。アトのツマと書いて、コウサイと読むんだっ。漢字ぐらい覚えろ!」
逆ギレのような物言いで答えた。
「何しに会うのー」
「電話でも話したが、親父の死んだ経緯や状況を電話で話す事でも無いので、直接あって話しをしたいと俺の方から頼んだ。コウサイの方もかなり渋った様子だったが・・・・、最後には納得してくれて、会う事を承諾してくれた」
コウサイと会う事に疑問を持ったが
「お兄ちゃんが会いたいのであれば・・・」
と渋々電話を切った。
電話を切った後考えた。
( コウサイ??? )
普通は、ゴサイと読まないか???
ー心の整理が出来ない。
と言うか、心の整理が出来ない状況とは、こういうものなのかとも思った。
兄弟が居て良かった。
独りだったら何も出来ないであろう。
身内?という死に初めて直面する。
何となくはわかっていた。
奥さんが居る。しかも、籍が入っていた。
何となくはわかっていた。
葬式には呼ばれない事。
何となくはわかっていた。
遺言状が書かれている事。
何となくはわかっていた。
遺産は、私達には残さない事。
遺留分は、兄弟3人なので、12分の1になる。だから、仮に一千万円の預貯金があったのであれば、兄弟1人に対して、約80万円である。
(80万かぁー。無いよりましかぁー)
私の生活は、借金もある。
家のローン、車のローン、カードローン、税金滞納、共働きの毎日の生活。
共働きで頑張っても、ギリギリの生活。
仮に、三千万円あれば、約250万円。
(そのぐらいあれば、気持ちが少し楽になるかなぁー)
私にとって遺産とは、物 ではなく 者 であった。
私と父を繋ぐ者は、お金 という 者 でしかなかった。
だから、父の生前から、遺留分は、形見として受け取る気持ちでいた。
木曜日の夜。
兄も帰国した。
私も、息子を連れて実家に帰った。
とにかく、姉や母の顔を見て安心したかった。見るだけで、少しは安心できるような気がした。
次の朝、兄弟3人だけで、実家の近くの喫茶店に集まった。
兄自身、後妻に電話を掛けるにあたり、かなり迷ったと言う。
電話をブチ切られるのではないか?
金目当てに思われるのではないか?
そもそも、急にシャシャリ出てきて、電話をして良いものだろうか?
胃も痛くなり、恐る恐る電話したと言う。
恐縮しながら電話をし
「金本順司の長男の金本哲也ですが・・・」
と言うと直ぐに
「中国にいらっしゃる方ですよねぇー」
とわかっていただいたらしい。
電話をした事によって、明らかになった事実。
父の命日は10月1日。
十ヶ月程入院していた。
病気は肺がんだった。
遺言で誰にも知らせるなとの事。
葬式も挙げるなとの事。
父の死んだ時『誰にも知らせるな』との遺言だったらしいが、本当に誰にも知らせないでいいものだろうか?と思い悩み、居ても立っても居られず、叔父さんに連絡をし、駆けつけた叔父さんに激怒された事。
入院中『車を売れー』『土地を売れー』と言われ、すべて手放している事。
兄は、お金については、聞きにくい事だったので、話しをするつもりはなかったらしいが、向こう様の方から、遺言状があり、すべて後妻に渡るようにと書いてある事。
金額までは話さなかったが、遺留分の12分の1を、子である私達3人に行き渡るように、すべて奥さんが弁護士に依頼してあるとの事。
兄が、後妻に連絡を取った事は驚いたが、この行為のおかげで、死の状況が判明したのも事実だった。
他に、何か聞きたい事でもあるのか?
なぜ、後妻に会うのか?
疑問でならなかった。
本心は、会ってほしくなかった。
親父は、私達家族とお父さんの奥さんとの接点をもたないように、頑なに、最期まで押し通した生き方だったような気がしてならなかった。
だから、
家も知らない。
連絡先も知らない。
おじい様の葬式も、お祖母ちゃんの葬式も呼ばれなかったような気がする。
ましてや、自分の病気や葬式さえも・・・。
それは、奥さんただ一人を守り通したのか、私達家族の事も少しは考えての事なのかは、わからないが・・・。
私の頭の中に奥さんのイメージはある。
あの偏屈なところがある。父と添い遂げた女性である。大した女性である事は間違えないと思う。
会う事によって、その姿、身なり、仕草、声で、およその人格を見たくなかった。
イメージだけで十分だった。
もっとも、最近、歳を重ねたせいか、兄は、お父さんの風貌が、そっくりになってきた。
兄が、高校生の時の三者懇談では、先生が『すぐわかりましたよ』と笑われたぐらい、母親似だったはずなのに・・・。
子供の居ない後妻にとって、自分の夫に似た子供を見たらなんて思うかも心配だった。
「何しに会うの?」
と皮肉まじりに弱弱しい声で、兄に問い話すと
「どういう状態で亡くなったかとか、きちんと会って話したい」
と私を宥めるように静かに答えた。
私も姉も、感情を話す事なく、それ以上、止める事もしなかった。
「遺産っていっても、どのくらいあるのだろうねー」
と三人とも、上の空で話し出した。
「入院生活も長かったみたいだし、そんなにあるわけないわなぁー」
と兄も答えた。
「家の名義は、奥さんかも知れないしねぇー」
私達の売った前の実家は、
「お父さんに、もしもの事があった時、知らない女の人が現れて、家を持っていかれたら私達をどうするの?」と私がお父さんに言った。
「そんな事は、絶対ない!」と否定したが
「絶対ない!って保障がないじゃない。出来れば、お母さんに名義を変えてよー」
とお父さんに鎌をかけた。
数年後、名義をお母さんに変えてくれた。
勿論、母や姉や兄は、この経緯を知らない。
同等に、自分の家も、奥さん名義に変えている可能性だって十分ある。
「車だって外車だったとはいえ、しばらく乗っていたし、二束三文だろう」
と兄は言う。
おばあちゃんが言っていた、会社の前の土地も後ろの土地も父の所有だとしたら・・・
私は唐突に、
「ねぇ、もしも一億なんてあったら、相続税が掛かってこないかなぁー」
「そんなにあるわけないだろう!」
と〝アホか〟と言わんばかりに、兄も姉も顔を歪めた。
「だから、もしもだって・・・
もしも、あったら、相続税ってどれくらい払うのか?弁護士に聞けないの?」
「そんなもん、相続税が掛かってくるぐらい貰えるのであれば、そこから払えばいいし、そんな事、インターネットか、何かで調べれば済むことだろうー」
と完全に馬鹿にして鼻で笑われた。
「一応、最悪の事態も考えておいた方が良いと思って・・・」
との話しも却下された感じだった。
兄が、後妻に会う待ち合わせ時間が迫ってきたので店を出る事にした。
後妻に会った後、兄の知り合いの弁護士に会い、遺留分の請求の流れを相談してみるつもりらしい。
駅まで車で送る道中
「手土産ぐらい持って行ってよ」
とクドク頼んだ。姉も同調した。
仏壇なんて無いだろうけど、私と姉のプライドだった。礼儀知らずだと思われたくないと・・・。
「家に行くの?」
「行くわけないだろう! ホテルで会うんだ!」
と兄の言い放った言葉に安堵した。
夜、兄を駅まで迎えに行った。疲れた様子であった。
手には見慣れないキャリーバッグを持っていた。
「そんなの持って行った?」
「形見だって・・・」
「親父の服が入ってる。鞄は、いつも旅行に行く時に、使っていた物らしい」
兄は苦笑いで答えた。
「いらねぇー(笑)」
「俺も、ロレックスとかなら使うかも・・・(苦笑)」
親父は、身なりはきちんとして、安物を持っている感じもなかったけど、ブランド物を持つような人ではなかった。
「それに、服サイズMだし」
「M? Lじゃあないの?」
「多分、病気で痩せたんじゃないか?」
「・・・・」
「俺、これ、中国まで持って行くんか?」
「そりゃ、あんた持ってきなよー」
「後妻も、要らないのなら持って帰るって言ってくれたけど、要らんなんて言えんだろうー」
会った時の話しをかき消すように、なんとなく笑いこんだ。
しばしの沈黙の後、私は運転をしながら
「とりあえず、話した内容は、墓まで持って行ってよ」
と前を見ながらポツリと言った。
「わかった。でも、真理が聞きたいのであれば、いつでも全部教えるよ」
「真理は、あった事について納得いかないと思うが、俺は男として、親父の生い立ちを聞いておきたかったし、今度、親父に会う時があったら聞こうと思っていた」
兄の『男として・・・』という言葉に、長男らしさを否定出来なかった。どんな話しをしたのかは聞く事がなないかも知れないが、自分ではなく、会ってくれた事に安心感が芽生え、会ってくれてよかったと心が緩んだ。
夜、兄弟3人で、食事をする事にした。
お母さんには、適当に誤魔化して、コソコソと出かけた。
マンション近くの、小洒落た洋風居酒屋に行く事にした。そういえば、お母さんが2回目の入院中に、今後どうしたら良いのか、兄弟3人と兄貴のお嫁さんを交えて話し合った居酒屋である。
それぞれ頼んだ、アルコールを口にしながら
まずは兄が、弁護士に相談した、今後の流れについて話し出した。
・財産目録を見せてもらう。(土地・家屋・預金・借金などの債務も含む)
・目録に対して意義があるか?無いか?
・意義がある場合は、探偵や弁護士を雇って調査を依頼する。
・相方と協議する
との流れらしい。
とりあえず相談してみただけで、協議する気はサラサラなかった。
親父の事だから、身辺整理をして死んでいる期待は多分にあったが、親父の資産を、後妻にすべて名義変更している可能性だって無くはない。
兄が
「後妻は、給料明細すら見た事がないらしい」
と言ったすぐ後に
「お母さんも、見た事がないって言っていた」
と姉が言った。
なんとなく、守銭奴的なところもあった親父だったので、わかる気がしたが、姉とお母さんとの間で、そんな会話をした事がある方に、何気なく関心を持った。
「お父さんが死んで泣いた?」
と私が訊ねた。
「少し泣いた」と姉が答えた。
兄は
「今日、初めて泣いた」
後妻と会って、話しの中で感極まったのかと想像した。自分は答えるつもりはなかったが、
「そういう真理は?」と聞かれ
「泣いたよ」
と目も合わさずサラリと答えた。
涙が止まらなかったなどと、今までお父さんの事など気にした事がない素振りをしてきて、泣いた事を話した事すら恥ずかしかったのだが・・・。
兄の記憶では、幼い頃、お父さんとお母さんが喧嘩して、兄弟3人で押し入れに隠れて泣いていたと言う。
私の記憶では、1階の応接室で、お父さんとお母さんが喧嘩をして、兄弟3人で2階に逃げていき、私が階段の脇から二人の様子を覗きこんでいたら、お姉ちゃんとお兄ちゃんが『真理、そっちへ行くな!行くな!』と必至に守ってくれた記憶がある。
離婚の話し合いの時だと思うが、親戚の家に預けられて、従姉弟と遊んでいた事を覚えている事や、小さい時には、遊園地や海に連れて行ってもらった記憶が鮮明である事を話した。
「あんたスゴイねぇー」
と姉は褒めてくれた。
姉は、全く記憶がないと言う。
姉が中学校に上がる前に離婚したらしく、普通で考えれば、姉の記憶が、一番残っていてもよさそうなのに・・・。
逆に、姉がすべての記憶を封印して抹消している事が痛々しかった。
見たくない所を感じて、姉が、一番傷ついていた事の証明である。
「俺は、写真の記憶なのか?実際の記憶なのか?わからない」
「遊園地に行った時、初めてサザエを食べたのは覚えている」
と姉が記憶を辿りポツリと言い
「俺も覚えてる~。写真にはないから実際の記憶だよなぁー」
と兄も少し声をあげて相槌を打った。
私自身は、その記憶はなかったが・・・。
「だけど、毎月の養育費のおかげで、何不自由なく暮らせたよねぇー」
と言うと、兄は
「子供が居れば当たり前だろうー」
と憤慨したが
「今の時代、養育費の未払いの多さを考えると毎月というのも決して楽ではなかったと思うよ」
「私は、大学諦めたけどね」
と姉がこぼした。
「そのおかげで、義兄さんと知り合えたからいいじゃん」
姉は就職先で、今の義兄さんと知り合った。二人の子供にも教育に関しても、真面目に取り組んで、二人とも、良い大学に進学しているのも、自分が行きたくても行けなかった、表れのような気もした。
姉が思い出したかのように
「ある時期から、会社に、お父さんが養育費を持ってきて『お母さんに渡してくれ』って頼まれて、私も仕事中に呼び出されるから、慌てていて、会話もなかったけど、一回や二回じゃないよ、毎月だったよー」
「よく使いこまなったねー」
と冗談で返して笑ったが、姉と親父にそういう接点があったのも初耳だった。それに、私が高校生ぐらいから、家にお父さんが来なくなったのも納得できた。
「死んじゃった、お祖母ちゃんの焼肉美味しかったよねぇー」
「あの味は忘れられないわー」
「どこの焼肉屋行っても、あの味に巡り合った事ないなぁー」
3人共、酒がすすみ話しが弾む。少し酔いも回ってきた。
私が話しを切り出した。
「ねぇ、韓国人っていつ知った?」
「私は、離婚する時に、ちゃんと説明された」
「俺は、小学校4年生ぐらいの時に、お母さんに面と向かって正座させたれて聞かされた。その時、訳も分からない筈なのに、ものすごく泣いた覚えがある」
姉と兄は二つ違いなので、兄も、多分、離婚する時にきちんと説明されたのだろう。
「私は、中学生の時に、茶の間で『ハーフっていいよねぇー』ってお母さんに言ったら 『あんたハーフだよ』 って言われて『えーどこの?どこの?』って喜んで聞いたら『朝 鮮』って言われて、ちびまるこちゃんが顔に線が入った状態になっている横で、お姉ちゃんが、ちびまるこちゃんに出てくる野口さんのように『くっくっ・・・』って笑っていたけど、お姉ちゃん覚えてないでしょうー」
と私だけが、冗談まがいで話された事をみんなで笑った。
兄が、自分の胸だけに留めておくのが辛かったのだろう。
今日、後妻に会った時の話しを、
「これだけは話させてくれ」と言ってきた。
ー親父の最期ー
抗がん剤等で、もう意識がない状態の時
ベットから落ちて床に這いつくばり
『水だー 水だー』
と叫び、奥さんは水が飲みたいのかと慌てたらしいが・・・
『海に落ちるなー』
『北朝鮮が来るぞー』
と喚き散らしたと・・・。
日本へ渡って来る時の工作船・・・・・・。
最期に・・無意識で・・・。
兄も衝撃的だったらしいが、姉も私も言葉を失った。
ー生き様が死にざまー
親父の人間性の心髄を垣間見た気がした。
幼い頃、舟で渡り、強制収容され留置されていたという。
日本語も分からず勉強し、大学まで出た。
時は、日本の経済成長と同じくして・・・。
結婚・仕事・私達兄妹を儲け、離婚に再婚・・・。
私達の知らない親父・・・。
波乱万丈な人生だったのだろう・・・。
堅苦しい親父だった。
いつも身なりは清潔できちんとしていた。
なにか、芯の通っている所もあり。
存在感があった。
この時代になっても、携帯電話も持たない。たぶんコンビニすら行った事ないのでは?
親父の幼き記憶が、人間結成において、気概主義的な威圧的存在感を生み出した気がした。
自分の親ながら大きさを感じてはならない。
私達は、記憶の奥底にしまってある。ジグソーパズルの小片を拾い集め、話し合い、笑い、心の中で泣いた。
私達家族は、今まで、お父さんの話題は避けてきた。
お母さんに育てられたという意識が強い。
お父さんに対する感情にも、それぞれ違いがあるだろう、子供の時から、お互い感情を胸にしまうしかなかった。
それが、暗黙の了解だった。
お父さんの思い出を話しが出来てよかった。
一度、吐き出したかった。
今後はまた、お父さんの話しは、今まで通り、お互い胸にしまうしかないであろう。
店を出て帰り道に兄貴が
「しかし、疲れたなぁー」とこぼした。
「葬式だって・・・」私が慰めた。
私達なりの、いい葬式が出来たと思っていた。
次の朝、手を合わす所のない私は、おじい様の仏壇に、手を合わせる事を思い立った。
それに、父の死の知らせの前に、母に電話を掛けてくれた。おばあちゃんにも会いたくなった。
おばあちゃんは、電話で父の死を、お母さんに伝えられたなったのであろう。
お母さんと一緒に、おばあちゃんを尋ねる事にした。
こんな時でないと、おばあちゃんに会いに行く機会もなかった。
久しぶりのおじい様の屋敷・・・。
表札は、おばあちゃんの旧姓になっていた。
隣の工場があった場所は、今は、5階建て程のマンションになっていた。
玄関から出てきた、おばあちゃんは、何十年ぶりとは思えないほど変わりなかった。
少し背が低くなったかなぁ?と思ったが、自分が大きくなったからなのか?変わりない、おばあちゃんとの再会に、自然に笑顔がこぼれる。
ちょうど、お昼時間だったので、まずは、近くのレストランで食事でもしようという事になった。
レストランに入り、それぞれのパスタを注文した。
「おばあちゃん、まだ、水泳通っているの?」
「まだ、通っているよー。1キロ泳ぐよ」
何十年にもなるだろう、92歳になった今でも、水泳に通っているとは驚いた。
「週に一度は、地下鉄に乗って、サウナにも入りに行くよ」
普通、92歳のおばあちゃんがサウナになんか入ったら、死んじゃいそうなものだが、パワフルなおばあちゃんに『すごいねぇー』としか言いようがない。
「たまに喫茶店に行って、友達と珈琲も飲みに行くしね、私おしゃべりだから、すぐに話しかけて友達になって友達も多いのよー」
「清香ちゃん元気?」と尋ねた。
恵子叔母様(清香ちゃんのお母さん)も離婚をし、再婚して大阪の方で暮らして居るらしい。
孫の清香ちゃんとおばあちゃんは、長い間、一緒に暮らして居る。フランス人形みたいに可愛かった清香ちゃん。
「まったく怠けることを知らない。とにかく、仕事、仕事で、言い合いになる事もあるよ。食事も肉ばかりではいけないと思って、色々考えて作っているよ。恰好は、京子に似てきたわ」
愛くるしいぐらいに可愛かった、従妹の清香ちゃんが、キャリアウーマンで頑張っているのだと感心して
「写真ない?」と尋ねると
「あるかも?」と
財布から取り出した写真は、亡くなった京子叔母様の写真だった。
「これは、京子か」と笑っていたが、
美しかった、京子叔母様の姿と清香ちゃんの姿を重ね想像がついた。
元気で、楽しくくらしているようで、尊敬の眼差しで、おばあちゃんと語らいだ。
「一緒になって十年してから、急におじいさんに
『息子が二人来た、面倒みろ!』
『面倒みれないのなら、娘二人連れて出て行けー』
って急に言われてねぇー、家庭教師もつけて必至に育てたよー
しかし、順司は頭はよかったよ。会社でも会計の方は全部やっていたし。
おじいさんに、怒ってやった事があったわ『空から息子が降ってきて、私は、男を産まずに済んだわ。後からババアも降って来たしねぇー』って」
おじい様に連れ添い、会社を手助けして、家庭を築き、娘二人を儲けてから、日本語も分からない親父と親父の兄の叔父さんを育て、親父を大学まで出して、おばあちゃんの苦労も壮絶だったであろうに・・・。
食事も終わり、店を後にして、おじい様を参りに屋敷に戻った。
久しぶりの屋敷に足を踏み入れると、門の扉や、家の窓枠は、木ではなくサッシに変わっていたが、家具の配置や、家全体の質感さえ変わらない。
懐かしさでいっぱいになった。
変わってない事に尊敬する。おばあちゃんが、それだけ、日々、手入れをしている事が伝わる。
お母さんも懐かしそうだ。
玄関から、庭に面した廊下を通り、奥のかつて、おじい様の部屋であった居間に向かう。
居間には、仏壇があった。
おじい様の遺影の横には、若くして亡くなった京子叔母様の遺影が並んでいる。
「おじいさん、参りにきてくれたよ」
と笑いながら、おばあちゃんが報告した。
おじい様の仏壇に向かい、お線香に火を灯し心を込めて拝んだ。
拝み終えると、おばあちゃんが話し出した。
「私は、毎朝、仏壇にお経を唱えとるよー〝私は神も仏も信じとるでー〟」
「順司が、二人目の嫁さんを連れて来た時は、おじいさんが激怒してねー
『三人の子供をお前はどうするんだ!』 『お前には財産をやらん』
って物凄い剣幕だったわー」
そんな事もあっのか。私はおじい様と、話しをした覚えはないけれど、私達を心配してくれた事があったのだ。
お父さんは、おじい様に奥さんを紹介していたのだ。
初めて聞く話しに、心は複雑だったが『お前には財産をやらん』との話しは、どっかか聞いた言葉だなぁーと苦笑した。
「私は、これっぽっちのお金しかもらえなかったけど、あんた達は、きちんと、もらわなかんよ」
とおばあちゃんは助言してくれたが・・・。
「遺言で、奥さんに全部渡すって書いてあるみたい」と私が言うと
「順司は、尻に敷かれていたんだわ、キツイ性格の奥さんだったで、言いなりだったのだわー」
と良くは言わなかった。
父は、尻に敷かれるようにも、言いなりになるようにも想像できない私は、黙って聞いていたが、多分、私の中の奥さんのイメージの方が正しいかと、何故か確信があった。
「おじいさんが死んだ時は、遺産が十億あったんだよ」
(十・・・十・・・十憶・・・・・・)
私は、表情には出さなかったものの、心の中で、これにはさすがに驚きすぎた。
「それを、一年も、もたないババアに、半分いってまってー」
おばあちゃんは、投げ捨てるように続けて話し出した。
「私と恵子は、二千万円貰っただけだわ。ここの土地代も毎月払っているし」
「・・・・・・」
あっけらかんと、おばあちゃんは話したが、
(土地代って・・)
屋敷の前の土地も、後ろの土地もおじい様の土地だったと思う。別荘もあったし・・・。
それなのに、この屋敷の土地は、人の物だったなんて、なんて皮肉なんだろう・・・。
おばあちゃんはおじい様と、籍が入っていなかったのだ。
おじい様と苦楽をを共にし娘を失い、最期まで看取り・・・。
遺産として親父達から受け取った額は、
たったの二千万・・・。
私達の知らない所で、それなのに骨肉の争いもあったのだろうに・・・。
言葉を失った私は、立ち上がり廊下の方へと歩いて行き、ガラス戸を挟んで庭に目をやった。
庭木も、よく手入れされている。
庭の池には、昔は錦鯉も泳いでいた。
「昔、おじい様と、ここで写真撮ったよねぇー」
おじい様と孫達とで撮った写真が、脳裏に蘇った。
同じ場所で、おばあちゃんとお母さんとで、並んでもらい、携帯のカメラに収めた。
元気なおばあちゃんに、別れを告げ、屋敷を後にした。
(元気で何よりだった)
元気なおばあちゃんの姿を見て
―死して長者より生きて貧人ー
いくらお金があったところで、死んでは何にもならないと・・・・。
実家への帰り道、情けないぐらい一瞬にして愚行した。
十億あった財産の半分は、籍の入った配偶者のお祖母ちゃんへ、あとの半分は、親父と叔父さんに渡った事になる。
一年後ぐらいに、お祖母ちゃんが亡くなっている。
親父と叔父さんには、お祖母ちゃんの遺産が入る事になる。
相続税、贈与税、その他土地の売買等で、半分は課税されたとして・・・。
親父の推定財産は、二億五千万程ではないか?と・・・。
親父譲りか?こういう時だけ、頭の電卓は、恐ろしいぐらいに早かった。
直ぐに、兄と姉に、それを伝えた。
二人共、桁違いの額に驚いた。
兄は、明日出国する。
あちら様の弁護士と連絡が取れて、その日の内に会う事になった。
夕方、姉の家で弁護士に会った兄貴を迎えた。
兄は、弁護士から渡された書面を姉と私に見せた。
数日の内に、同じ書面が姉と私の家にも送られてくると言う。
その文章に軽く目を通した。
命日は書いておらず、父が死去した事だけが書いてあった。
遺言書の内容で、全財産を後妻に譲るとしてあるが、後妻の意向により、私達に遺留分にあたる額をお渡ししたいとの内容で一円単位までの金額が書いてあった。
ー言葉を失ったー
姉が、静かにポツリとこぼした。
「何も知らずに、この手紙が来た可能性の方が大きいよねぇー」
私も静かに頷いた。
親父が死んだ事を、家のポストから手紙を開けて知ったと思うと・・・・。
自分の性(旧姓)と同じ、初めて見る奥さんの名前も、活字で見ると違和感があった。
遺言書の内容。
遺産金額。
たった数日の、僅かな時間で、私達は、ある程度の推測が出来てから、この書面を見た事に胸を撫で下ろした。
兄は、弁護士より遺言書や財産目録も見せてもらったと言った。
親父が住んでいたマンションも親父名義になっていたと・・・。
現金残高。通帳残高。
動産は、マンション以外は無く、すべて現金化されていたようだ。
金額には、嘘がないように思えたと・・・。
「ついこの前、宝くじでも当たらないかなぁーなんて、旦那と話していたところ、でも、億でも当たったら、、人生変わってしまうから、すこし当たらないかなぁーって」
と姉が話した。
姉の子供も大学生が二人、教育費が重なる。何気ない夫婦の会話だったのであろう。
私達は、遺留分の金額に意義がない事を確認し合った。
「しかし、真理の予想は正解だったなぁー」と兄貴が苦笑いしたが、
私も、まさかの直観力に自分でも驚いた。
「お兄ちゃん゛金はいらん〟って言ってたよねー。いらないなら、お姉ちゃんと私に、頂戴よー(冗談)」
「俺も、子供が産まれるしー、何かと・・(苦笑)・・」
実家に戻り、お母さんと向き合った。
「いっぱいあったんだねぇー」とおじい様の事を言うと
「昔、国税局の査察が入って、会社が傾きかけた事があったから、その時に、だいぶ土地や別荘も売り払ったからねぇー」
「それから、財を成し遂げるとは凄いねぇー」
懐かしむように話し出したが、私にとっては、日本の高度経済成長を感心するぐらいで、他人事のように聞いていた。
「その頃、おじい様に隠し子がいてねぇー。お姉ちゃんと同級生だったから、学校が一緒にならないか心配した覚えがあるよ」
「おじい様も、たいがいにしなかんねぇー」
「でも、お父さんに、向こうの子供が居なくてよかったわー」と正直な気持ちを話した。
もし、腹違いの兄弟でも居たらと考えるとゾッとした。
こんなにすんなりとは事が運ばないのは当然だろうに・・・。
「その心配はしなくて済んだわ、避妊手術をしていたから」
「そうなの?」
「真理が産まれて直ぐに、あんたのお婆ちゃんが(母方)『あの人は絶対女を作る』って言い出して、三人も居るから避妊手術を勧めてねー、その時はまだ、仲が悪いわけでもなかったけど、直ぐにそれに応じたよ。今考えるとお婆ちゃんの先見性の目は確かだったわー」
もう何を聞いても驚かなかった。ただ私の小さい時に亡くなってしまった、母方のお婆ちゃんにも感謝の気持ちだった。
「死んだって聞いても涙も出ないねー」と遠くを見つめたように、お母さんは漏らした。
今まで聞いた事がない事を聞いてみた。
「なんで離婚したの?」
「お姉ちゃんが中学に上がる前に、お父さんの方から 『世間に朝鮮人だと、ばれるといけない、経済的には一生面倒見る』 という約束で別れた・・・・」と
そういう時代だったのかも知れない。
性格の不一致もあったのだろうが、親父の逃げ口にも思えた。
他の女性の存在があったのではないか?と疑心した。
今更、理由なんてどうでもよかったが・・・。
何となく不思議に思っていた事がある。
父の衣類等が、かなり、私が大きくなるまでタンス等にあった。
自分だったら離婚した元旦那の服等とっとと棄ててしまうのに・・・と。
ただ単に、母がものぐさだっただけなのか?
母に聞くと
「いつか帰ってくると思った・・・」
眉を顰めて開いた口が塞がらなかった。
「女が出来たと思わなかったの?私だったら三日で気づくよ!いや、女が出来たか?とまずは疑るよー」
私は、自然に声を荒げて罵ってしまった。
「全く考えなかったなぁー」
とあっけらかんと言うお母さんに、私は呆れてしまったが、
その時代の母親ってものは、健気で奥ゆかしさを持ち合わせていたとして敬う気持ちにもさせられた。
「名前(性)変えればよかったなぁー」と
お母さんの悔やむ気持ちを添えた一言が、胸に刺さった。
お母さん自身も、初めて聞く後妻の名前には、かなりの違和感があったに違いない。
多分、私だけが、女性の存在を知っていた。
母や姉や兄は、私より曖昧だったと思う。
父が生きていた頃、一度だけ聞いた
「お父さんが死んでも何にも気にするな」と・・・。
親父は他の女性と愛し合い結婚していた。
その夫婦には、親父のせいで子供が出来ない。同じ女性として考えるならば、さぞかし父の子を授かりたかったのかも知れない。
父もまた、自分だけに子や孫がいる幸に対して罪悪感があったのではないだろうか?
がんとの闘病生活の中、すべての財を整理し、遺言を残し、後の者が困らないように手を尽くし全うしている。
私は、あの時代に生きた ゛男の美学〟 を親父なりに突き通したとしか思えてならない。
兄は黙ってスーツケースに形見の衣服をしまっていた。鞄は私が貰う事にした。
兄は出国した。
私も家路に就く。
いつもの椅子に腰かけ、喪失感の中、ふとカレンダーに目を向けた。
息子が突然に 「おじいちゃんに逢った事がない」 と言った頃と命日が重なった。
命日より数えで今日は、ちょうど仏教でいう 四十九日 であった。
何かしら、因果を感じた。
おばあちゃんが言い放った。
『私は神も仏も信じとるでー』
の言葉を思い出した。
一ヶ月程経ち、遺産協議書の自署捺印の為、弁護士と接見する事になった。
兄はすでに、郵送にて自署捺印を済ませてある。
昨日の夜、兄の第二子の長女が産まれたと報告があった。
朝のラッシュ時にぶつかるので、割と早めに家を出る事にした。カーナビで住所をセットをして姉と向かった。場所は直ぐにわかった。
思いのほか早く着きすぎたので、近くの喫茶店に入る事にした。
珈琲を飲みながら、他愛もない話しで笑いこけていたが・・・心の中は複雑な気持ちだった。
協議書に捺印してしまえば、本当に縁が切れてしまうような気持ちだった。
約束の時間が近づき店を出て、弁護士事務所のあるビルの前に着きエレベーターに乗る前に
「私が話す事に口出さないでね゛そんな事言わなくても〟とか言わないでね」
と姉に言うと
「わかったわ」
と直ぐに言ってくれたが、内心、妹が何を言い出すか不安であったと思う。
それなり緊張もあったが、事務所の扉を開け、応接室で始めて弁護士と顔を合わせた。
年配の弁護士で、お互い挨拶を軽く済ました後、
手始めに、遺言状を見せてもらった。
遺言状が、いつ書かれたかが気になった。
最後に、電話で話した直ぐ後なのか?
ー書かれた日付は今年・・・。
亡くなる五か月前の、病院において作成されたものであった。
゛全財産を妻に相続させる〟と書いてあり、
付言として、
゛死亡を誰にも知らせずに葬儀をしないよう希望する〟
と間違えなく書かれてあった。
遺産として、証拠となる預貯金通帳も見せてもらった。
「一・十・百・千・万・・・・・・・」
初めて見る数字の数に、恥ずかしながら指で一から数えてしまった。
一番、気になっていた事を弁護士に問いただした。
「実際は、父に、生前から頼まれていたのでしょうか?」
弁護士は、首を横に振った。
「お父さんの死後、奥様より役所にご相談があり弁護人として選ばれましたので、生前のお父様とは全く面識がありませんよー」
「それに、遺留分についても、普通は、相続人の子供が請求するものであって、それを奥様の方からお渡ししたいとの意向で依頼を受けています」
完璧な、身辺整理をしていた親父は、私達にも困らぬように、後妻と私達が接点を持たないように弁護士にも頼んでいたに違いないと信じていた。
遺留分の存在を、親父が知らなかった筈はない。
本気で私達には、渡したくなく、恨んで死んだのか?・・・・。
最後に残された希望を打ち消されたようで、唇を噛み締める気持ちだった。
姉と私は、自署捺印をして事を済ませた。
弁護士も、こちらの気持ちを察してなのか?
「少し、複雑なご家庭だったようですね」
と言葉を添えた。
「そうですね、知らなかった事が多すぎて気持ちの整理が出来ないのが現状です」
と姉が答えた。
「父が、生前は大変お世話になりましたと、必ず奥様にお伝えください」
との言葉に、意外にも姉も食らいついて一緒に声を揃えた。
伝わるか伝わらないかは分からないが、最初で最後の心であった。
私達を宥めるように
「まぁー、これだけ貰えれば」と弁護士は促した。
「はした金です」
と笑みを浮かべて言い切り、私達は後にした。
ーはした金ー
とは、少量のお金として捉えたであろうが・・・。
私は、金額がわかってから ゛金〟というものに悩み、考え、親父の生き様を問い、頭から離れず、考え出した答えが ゛はした金〟だった。
私が思うはした金とは
ーどっちつかずのお金ー
ーはしたないお金ー
という解釈だ。
結局、親父は私達を恨んで死んでいったのか?
法律上、遺留分という形で権利はあるものの、誰にも知らせるなと言う遺言は、私達に渡したくないという強い意志があったのだろうか?
私達は、親父に財があるなんて考えもしなかった。
親父も、また、おじい様の遺産を手にしてから、子の事すら信じられなくなったのではなかろうか?
私達が、財産でも狙っているとでも思ったのか?
ーばかやろうー
゛はした金〟という答えで納得するしか心の拠りどころがなかった。
帰りの車中、
「お金なんていらなかった。たまに孫の顔でも見てもらって、寿司でも食べさせてもらった方がよかったよねぇー」
と姉に漏らした。
「ほんとだねぇー・・・」
遺言書には、親父の生年月日も書かれていた。
私自身が、親父の歳、誕生日さえ知らなかった。
ー享年73歳だった。
ひとまず実家に戻り、叔父さんに逢いに行こうと思っていたら、母から
「叔父さんに、連絡した方がいいかなぁー」と言ってきた。
「私、今から叔父さんの所に行こうと思っていたのだけど、一緒に行く?」
と聞くと、お母さんも行きたい様子だったので二人で尋ねる事にした。
叔父さんに逢うのも何十年ぶりだろう。
家に尋ねるのは、お祖母ちゃんが生きてた頃だからずいぶん前になる。
玄関のチャイムを押すと、奥さんが出てきて
「真理ちゃん久しぶりだねぇー」と言ってくれた。
高校生の頃のお正月に、おじい様の家で出会った。着物を着ていた奥さんが出迎えてくれた。お母さんとは初対面だったが、自分を覚えていてくれた事に、親しみを感じた。
叔父さんは、病気を患い、介護の必要な状態だと聞いていたが、思っていたより、顔色も良く、昔のまま気さくに、私とお母さんを迎えてくれた。
「叔父さんありがとう、知らせてくれて」
叔父さんが、親父が死んだ事を知らせてくれて心から感謝している。
「俺は悔しいよー。『たった二人の兄弟だからー』と言っておきながら・・・」
「死んでから連絡よこしやがって、線香すら立てていない、女が悪い」
涙を流し、私と母に訴えた。
何も聞かされず、死んでからの弟の姿を見て憤りを感じている。
「弱った自分を見せたくなかったんだわ」
とお母さんが叔父さんを宥めた。
叔父さん夫婦の話しでは、親父夫婦は、親戚付き合いを避けていたようである。親父も奥さんの話しは、あまりしなかったらしいが、着物姿の奥さんに出会った時、隣りで叔父さんが抱っこしていた娘さんは、数年前に結婚をし、結婚式には親父夫婦も出席してくれたと話してくれた。
「私、ビックリしたわー。携帯も持っていなかったって聞いて」
と叔父さんの奥さんが言ったが
「私は、ビックリしないなぁー。持つような人ではなかったし、ちょっと゛変わり者〟だったからねぇー」と笑って見せた。
それでも、叔父さんが元気な時は、兄弟二人で飲みに行く事もよくあったらしい。
「飲みに行くと、いつもかも、お前達兄弟の話しや孫の話しをしていたぞー。なんとも言えない嬉しそうな顔して、あの顔忘れられんなぁー」
私も、孫を見て嬉しそうな、なんとも言えない親父の顔が忘れられない。
あの顔が、すぐに頭に浮かんで、胸から込み上げてきたものを必死に耐えた。
笑顔でおどけて
「私達の事なんて話したんだ。忘れとるかと思ったわー」
「あたりまえだろ! 可愛いに決まっとる!」
叔父さんは、声を張り上げ肩を下した。
追い打ちをかけるように、その言葉に、胸がいっぱいで堪らない。
声にだそうとすると、必死で抑えているものが、今にも零れ落ちそうだ。
叔父さんに逢いに来たのは、お礼が言いたかったのと、お祖母ちゃんの焼肉のレシピを聞きたかったからだ。生きている人で知っているのは、一緒に暮らして居た叔父さん夫婦しかいないかも?と考えたからである。
耐えているものを、揉み消すように話題を変え
「お祖母ちゃんの焼肉、すごく美味しかったー。作り方ってわかる?叔父さん覚えてる?」
「そりゃー、覚えとるわー」
「しかし、お前は順司の子だなぁー・・・」
とつぶやいた。
親父も、旨い食べ物に出会うと、よく作り方に興味を持って板前さんの作り方を見たり、聞いたりしていたようである。
叔父さん夫婦は、焼肉のレシピをお祖母ちゃんの思い出話しと一緒に教えてくれた。
あの味が、再現出来るかわからないが、楽しみが出来た。
壁に掲げてある、お祖母ちゃんの遺影が、こっちを見る笑っているように見えた。
「叔父さんは、誰と工作船に乗ってきたの?」
と問いかけた。
「工作船~?」
と吹き出すように・・・。
「工作船なんてもんじゃない、ボートだよ、ボート」
「最初に、叔母さんに連れられて俺が来て、一年後ぐらいに、お父さんとお祖母ちゃんが渡って来たけど、お父さんは強制収用所に入れられて、お祖母ちゃんは、強制送還させたれた。お父さんが十歳の時だったよ」
私は、兄弟二人で来たものばかりだと思っていた。後に、お祖母ちゃんも、また渡って来たのであろう。大阪の方にも親戚もいたという。考えもしなかったが、おじい様にも兄弟が居て当然だ!
妙な事を聞くと思ったのか? 叔父さんの奥さんが
「韓国の人って知らなんだの?」
と驚いた。
「知らなかった訳じゃあないけど・・・」
と言葉を濁した。お母さんが
「子供には教えなかったし、あの人も、あまりそういう事は話さなかった」と話した。
「俺も、子供の頃は゛あっちの言葉はしゃべるな〟と言われたよ。あっちの人間だとばれるといかんって言われてね」
叔父さんは、奥さんによく韓国の話しをするらしい。
幾度となく韓国にも観光に言ったようである。子供も連れて行った事や、海で泳いだ話しも、叔父さんの奥さんがしてくれた。
叔父さんが
「向こうの石碑に、たしか真理の名前まで彫ってある筈だぞー」
ー私の名前?
私は、食らい付いて話しを聞き返した。
叔父さんの話しによると、石碑に名前が刻まれているらしく、私の名前までは彫ってあると言う。
「行ってみたいなぁー」
咄嗟に出た想いであった。
「もう向こうの親戚は、みんな死んでしまって、誰もその場所はわからない」
「絶対、わからないの?」
「通訳の人なら・・・・」
「もう少し早かったら、俺が、真理を連れて行ってやったのになぁー」
と、もう飛行機に乗れない身体を悔やんだ。
「叔父さん、早く元気になって連れて行ってよー」
「元気になって、真理を連れて行くか」
「今日は、気分がいいぞー」
と両手を伸ばし嬉しそうだった。
今日は、偶然にも 叔父さんの誕生日 だった
ー来てよかったー
帰り際、おじい様の遺産を、親父と同じくして相続している筈、そのおかげで生活に支障がないのでは?と、それとなく聞いてみた。
叔父さんは、おじい様の会社を引き継ぎ、会社を辞めている。
叔父さんは、会社をたたむにあたり、すべての財をなげうったと聞かされた。
ここにも、私の知らないドラマがある事に気づかされた。
「お父さんの分まで、一日でも長生きしてね」
と両手を取り固く合わせ、叔父さんの家を後にした。
夜、進学の為、今はお母さんと一緒に暮らして居る娘と二人で食事に出かけた。
食事をしながら話しが弾む。
もしやと思い
「おじいちゃん、亡くなったの知ってる?」
「誰の?」
「あなたのおじいちゃんじゃん」
娘は驚いていた。
「だから、お兄ちゃんも帰ってきていたし、私も帰って来ていたんじゃない! 知らなかったの?」
と顔を見合わせた。知らずにいたとは・・・。お母さんも言わなかったのかぁー。
「誰か、親戚が亡くなったと思ってはいたけどー」
「お葬式行ったのにー・・・」
「・・・葬式自体はなかったのだけどねー」
「おじいちゃんと温泉行ったの覚えている?」
「覚えてるよー。 友蔵が産まれる、少し前でしょう」
「・・・そう、10か月前かな・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「親のそういうの、聞きたくない」
「私も、口がすべったわ(笑)」
おじいちゃんに初めて逢い、温泉旅館に泊まったのは、娘が、まだ4歳だった。
4歳の記憶がある。時期さえ覚えているとは、私も驚いたが、日常的な家族の記憶は、特別な印象でもない限り忘れがちだが、私の幼い頃と同様に、娘もまた、写真が残っているわけでもないのに、おじいちゃんとの一時が娘の記憶に色濃く残っている事に感銘を受けた。
ーよかったー
ほんの一時でも、娘や息子に逢わせる事が出来て本当によかった。
数日後、私の、たった三桁しかない通帳が、見たこともない桁に変わっていた。
よく宝くじが当たった人は、足が震えた等と聞くが、実際は、どのような感情になるのかとおもったが、なんて事なく、入っている事を確認しただけで、何も感情の変化はなかった。
しかし、これが、億だと思ったらゾッとした。
これが、億だった親父は ゛金〟という物で
子供が財産を狙っている等と言い出し、子供ですら信用出来なくなってしまったのかと思うと切なかった。
(親父も、あー見えて凡人だったんだなぁー)
ー有難いけど、有難くないね。お父さん。
ー逢いたいです。
情けないけど、声も立てず、毎日、涙が出てしょうがなかった。
毎日、毎日、静かに涙を流した。
自分にとって、心の支えだった事を思い知らされたようだった。
頭から離れず、また、離すことすら寂しかった。
叔父さんが行っていた、
私の名前の入った石碑・・・。
ー見てみたいー
単純に、見てみたいという気持ちだけで、心が済州島に向かった。
叔父さんは「誰も、その場所を知らない」と言っていたが、迷わず、旅行会社に問い合わせた。
自分の希望した日には、飛行機が取れず、一週間前か一週間後なら空いていると言われた。
私は、少しでも早くと、希望日の一週間前の空きのツアーを申し込んだ。
叔父さんに電話を掛け『通訳の人なら?・・・』の言葉を頼りに話しを切り出した。
叔父さんは、何も聞かずに「通訳の人に一度連絡してみる」と快く了解してくれたが、場所を探しあてるのは難しそうな口ぶりだった。
とりあえず、出発日を伝えて、ホテルが決まったら、また連絡すると話した。
ホテルは、五つ程の候補のホテルの中から、旅行会社が指定するものだった。
後日、旅行会社から連絡があり、宿泊するホテルが決まり、叔父さんに連絡を入れた。
叔父さんも、通訳の人に連絡をしてくれていたが、やはり、通訳の人も「場所は覚えていない」と言ったらしく、済州島に住んで居る「叔父さんの従兄に聞いてみる」との事らしい。
従兄は、まだ、生きていたのか?と期待したが、その従兄も、かなり高齢のようである。
望みは薄いが、ホテルが決まったと、Kホテルの名を告げると
「そのKホテルの、一階の土産物屋の雑貨店を通訳の人がやっている。今は、娘さんが店に出ているが、Kホテルなら、よく知っている」
そんな偶然があるのか?・・・と、私は、叔父さんがボケてしまったのではないかと心配した。
済州島へ着いた、次の日の朝9時に、通訳の人と待ち合わせをしましょう、と伝えてもらうようにお願いした。
通訳の人の名前は金さん、従兄の叔父さんの名前は大守さん、お父さんの向こうの名前は金宋三と教えてもらった。
(だから ゛三ちゃん〟かぁーと思い出した)
済州島の事を、少しだけ調べてみた。
日本の戦後。朝鮮半島が、北(現在の北朝鮮)と 南(現在の韓国)が分断される頃。
もともと、権力闘争に敗れた、朝鮮本土の流刑地・左遷地で、朝鮮本土から差別化され、また、貧しかった島で、
1948年~1954年
済州島4・3事件があったようだ。
政府軍・警察により粛清を行い。島民の10人に1人にあたる3万人が虐殺され、一説によれば、多数の村々が焼き尽くされたという悲しい歴史があり、それを期に、経済的理由や親族の同居等を理由に、日本に渡航した島民が数万人にも及び、戦後の日本移入の大きな要因にもなったようである。
また、日本の終戦まで朝鮮半島は、日本の統治下だった事も忘れてはならない。
丁度、親父が、渡航した年と重なる事に気づき、改めて自分の無知さ加減を思い知った。
ー自分の名前が其処に刻まれているのか?
半信半疑だった。
叔父さんの勘違いだとも思っている。
ただ単に、興味が湧いただけなのか?
何故、其処に向かうのか、わからないが。
どうしても、この島に行かなければならない気持ちに駆られた。
中部国際空港から出発し、フライト時間は、たったの1時間半程でチェジュ空港に着いた。
空港から、送迎車でKホテルに着いた。
チェックインを済ませて部屋に入り、休む間もなく、1階の雑貨店に行く事にした。
本当に、叔父さんが言っていたとおり、このKホテルの1階に、雑貨店があるのかも半信半疑だったからである。
エレベーターで1階に降り、叔父さんが言っていたように、フロントから左方向へ行くとカジノがあり、その間の廊下を真っ直ぐ行くと、一番奥の店に雑貨屋は確かにあった。
店には、済州島ならではの土産物やタバコやジュース等が置いてある店だった。
通訳の金さんの娘さんらしき人が居た。
「お母さんは、金さんと言いますか?」
と日本語で話しかけると、
「そうです、お母さんは今から来ると言っています」と日本語で答えた。
「あっ!」 と言う娘さんの言葉で振り向くと、通訳のおばさんが今まさに現れた。
絶妙なタイミングに、ビックリしたが、叔父さんから電話で話しを聞いているようで、
「私に任せて」と世話をしてくれる様子に安心した。
早速、どこへ行きたいか尋ねられた。
「サウナに行きたい」と答えると、地元の人で賑わうサウナに案内してもらった。
夕食は、焼肉店に連れて行ってもらい、一緒に食べながら、色々な話しをしてくれた。
叔父さんとは、長い付き合いのようで、金本家の事も詳しいようだ。お祖母ちゃんのお葬式にも駆けつけたようで、親父にも、何度か会った事があると言う。
「お父さんはカジノで負けた事がなかったよ。一晩で何百万勝った事もあったのよ」
と教えてくれたが、別に驚きはしなかった。
親父は博才に恵まれている風格があった。
「わざわざKホテルを選んだの?」と金さんに聞かれ
「旅行会社が決めたから、本当に偶然なの」と答えると、これには金さんの方が目を丸くして驚いていた。
翌朝、9時半に叔父さんの従兄の方が、Kホテルに迎えに来るようで、雑貨店で待ち合わせる約束をして別れた。
翌朝、目が覚めると雨が降っていた。
ホテルから出て歩き、目についた食堂に入り朝食を済ませてから、約束の時間に、雑貨店の方に顔を出すと金さんはもう来ていた。
従兄のおじさんが、既に駐車場に来ていると言うので、金さんと一緒に、ホテルの駐車場に向かうと、車から降りて来た従兄というおじさんの姿を見て、私は、凍りついて足が止まった。
「・・・そっくり・・・」
金さんの「乗って乗って」の言葉に、驚きながら後部座席に乗り込んだものの、従兄というおじさんに、私の目は釘付けだった。
―親父にそっくりだった。
叔父さんから『従兄は、かなり高齢だ』と聞いていたが、迎えに来てくれた人は、どうみても50代ぐらいにしか見えなかったが、その頃の親父の姿の生き写しであった。
親戚だという事は直ぐにわかった。
あまり、ジロジロと見るのも失礼かと思ったが、車で走っている間も、チラチラと見続けた。
親父よりは、物腰柔らかな感じだが、目や体格、髪の毛の生え方までも似ていた。
お墓に供えるお花を買いに花屋に寄り、花束が出来上がるまで車で待つが、親父そっくりの、従兄だろうと思うこの方は、日本語が全く話せないようであった。携帯電話でしきりに誰かに電話をしている。
(もしかしたら、お墓の場所を聞いているのではないか?)
花束が出来上がり、10分程車で走り、住宅街の中の3階建ての一軒家の前で、車は止まった。
少しして、車から降りるように言われた。
階段を登り、2階の玄関から家にお邪魔する事になった。
(ここが、従兄の大守さんの家なのか?)
奥様に案内され、客間を通り抜け、居間に案内された。
白髪のおじさんが、メモ帳を片手に、どこかに電話をしている。
(この人が、大守さんという従兄なのか?)
しかし、60代ぐらいの白髪のおじさんは、私が思っていた程、高齢にも見えない。
奥様がお茶を用意してくれた。電話の合間に、親父そっくりなおじさんと白髪のおじさんと奥様と金さんが韓国語で話している。
白髪のおじさんは、電話で話しては切り、また違う所に電話を掛けての繰り返しをしている。
親父そっくりなおじさんと白髪のおじさんは、あまり似ていない。親戚にあたるのか?
言葉もわからず状況も飲み込めないが、お墓の場所を探してくれているのだとは感じた。
通訳の金さんに 「お墓の場所がわからないの?」 と聞いてみたが
「今、わかる人を探してくれているから」
と答えるだけである。
電話が、ひと段落したのか、会話が飛び交う、少し興奮して口論しているようにも聞こえた。
私が、お墓なんか行ってみたいと言い出した為に・・・。
招かざる客なのか?
迷惑を掛けているのでは?
と不安になった。
「私のせいで、迷惑かけていない?大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫」と金さんは答える。
どんな状況なのか知りたかったが、白髪のおじさんから、一言二言、日本語が聞こえた気がして、もしかしたら日本語が話せるのではないかと思い言葉を慎むが、何もわからない状況に苛立ちも感じていた。
しびれを切らし「何を話しているか教えて」とやや強い口調で金さんに頼むものの
「大丈夫、大丈夫、後で話す」の一点張りだった。
「どういう関係なのですか?」
と聞いてみたところ、
お祖母ちゃんは、四人姉妹だったと教えてくれた。
お祖母ちゃんが長女で、次女の子供の長男が白髪のおじさんだと言う。お祖母ちゃんの姉妹の一番下の妹の子の末っ子が、親父そつくりなおじさんだと言う。
(あっ、そういえば・・・)
白髪のおじさんは、お祖母ちゃんに似ているように見えた。
お祖母ちゃんの方の親戚なのだと理解できた。という事は・・・親父は、お母さん似だったようだ。
初めて逢う親戚だが、血縁というものに親しいさえ湧いた。
私の事も聞かれた。親父が亡くなった事は知っているようだ。
「お父さんは、いっぱいお金があったんじゃぁないの?」
「お金は、奥さんに全部渡すと遺言書に書いてった」
「子供も居ないのに、いっぱいお金どうするの!」
「・・・・・・」
「いつ離婚したの?」
「たぶん、私が6歳の頃かな」
「お葬式には行ったの?」
「誰にも知らせるなと遺言してあって、私は・・・死んだ事も、奥さんが居た事も後から聞かされたの・・・」
「奥さんが居ないって、なんで知らなかったの? 身の回りの世話だってお父さん一人では、出来ないじゃない」
私の話しを伝える為に、通訳しながら金さんは泣いていた「泣かないで・・・」と声をかけると
「あんたって子は・・・」と優しい言葉に、私の目も潤んでしまった。
「色々な家庭があるね・・・」
言葉を選びながら話すように、金さんが切りだした。
「大守さんの家とは、仲が良くないみたい・・・」
「お祖父さんは、こっちにも、畑や土地があったけど、お祖父さんが亡くなって、ものすごい税金を払わなくてはいけないから、手放しているから・・・」
「大守さんは、お墓の場所を知っているけど教えてくれない」
韓国語で、皆が話している間に、私に金さんは日本語で話してくれた。
私はピンときた。
おじい様は、この島にも土地等を所有していた。
おじい様が亡くなって、半分はお祖母ちゃんに財産が渡った。一年後ぐらいに、お祖母ちゃんも亡くなってしまった。莫大な税金を払うには、島の土地等を売るしかなかったのだろう。
おじい様の家系の大守さんは、多分、お墓の手入れや、畑で農作物を作っていたのだろうが、土地等が売られてしまって、おじい様の家系とお祖母ちゃんの家系とは、そうこうしている内に仲違いをしてしまったのではないだろうか。
お墓は、おじい様の家系のものであろうから、お祖母ちゃんの家系の人達は、場所を知らなくて当然である。
墓参りに来たといえども、教えたくないぐらいの心情なのだろう・・・。
なるほど・・・。
お金というものは、諸刃の剣なのでしょうか?
客間で、白髪のおじさんと親父似のおじさんと記念撮影をして、一度ホテルに戻る事になった。
夕方、5時に、親父似のおじさんが、またホテルまで迎えに来てくれると言う。
諦めた方がいいのか?
何とか見つからないか?
という思いとで気持ちが入り乱れた。
「5時には、場所がわかるの?」と聞くと
「大丈夫、大丈夫」と金さんは、私が安心するように同じ言葉を繰り返し答えてくれるだけだった。
ホテルまで送ってもらい解散したが、夕方まで、まだ時間があるので、昼食がてら゛新チェジュ〟の方にタクシーで行く事にした。
ブラブラと地下街や市場を見て回り、食事を済ませ、ホテルの部屋に戻り、約束の時間を待った。
約束の時間が近づき、1階の雑貨店に顔を出すと、金さんが
「私達が別れてから直ぐに、ホテルに白髪のおじさん夫婦が駆けつけて来てね。わざわざ日本から来てくれたから、昼食でも一緒にどうかって。夜は用事があって、時間が空いていないからって・・・」
(あーなんて・・・)
気持ちが嬉しかった。本当に嬉しかった。
親父似のおじさんが、迎えに来てくれた。車に乗り込み走り出す。
白髪のおじさんが、待ち合わせ時間まで、お墓の場所を探してくれているようだ。
車で20分ぐらい走る。
「この辺りが、昔、おじい様の家があったのよ」と教えてくれる。
何とか ゛見つかってほしい〟という気持ちが募る。
途中、白髪のおじさんを道で拾う。
道は細い道に入って行く。
「お墓は、二ヵ所あるようだけど、もう一か所は、遠いから行けない」
と言われた。
(もう一か所の方だったら・・・・)
朝から降りしきる雨も激しさを増し、夕暮れにも差し掛かる。これ以上、わがままを通す訳にはいかない。
此処ではなかったら、諦めるしかないと自分に言い聞かせる・・・。
道を曲がり、少し開けた荒地のような所で車は止まった。
車から降りて、上の道を、白髪のおじさんが探し歩いて行った、私も白髪のおじさんが歩いて行った方へ向かった。
雨のせいで、道は泥濘、歩くたびに靴の中に水が入る。
土地の区画を表すためなのか?塀のように石垣で囲ってある。
石垣の中を覗くと、草むらは手入れされて、数か所、石碑や、土が饅頭型に盛られている。
簡素な柵を潜り、石碑に向かって歩きだした。
土饅頭型に盛られているのは、土葬なのだろうか?
他人様の領域に入っては申し訳ない思いだったが、一つ一つ慎重に石碑を確認して回る。
どれも、これも、ハングル文字で書かれている。
(違う・・・)
元の道に戻る。白髪のおじさんは、その奥の道から、首を振り戻って来た。
ありそうにもない。
仕方なく、車の方に戻ると、車より下の道の方から呼ぶ声が聞こえた。
ゆっくり歩いて行き、草むらを回り込むと、十二畳程に囲まれた、高さが膝丈ぐらいの石垣があった。
「漢字で書いてあるからわからない」
との言葉で石碑に目を向けると
「あったー あったー」
目に飛び込んできたのは、紛れもなく、お兄ちゃんとお姉ちゃんと私の名前だった。
見た瞬間、胸が熱くなり涙が零れ落ちた。
ー本当にあったー
お兄ちゃんもお姉ちゃんも・・・私も・・・・・・
泣きながら文字を手でなぞる。
気持ちが高ぶる中、石碑に書いてある文字を確かめるように見入る。
恵子叔母様も京子叔母様の名前もある。従兄の健一君も浩二君も・・・。
知らない名前も彫ってあるが、お父さんも叔父さんも・・・・お母さんの名前さえも・・・。
親父似のおじさんが、そっと雨があたらないように傘をかざしてくれている。
お墓の正面に回り、花と焼酎を手向け手を合わせる。
(-ありがとう。皆が幸せでありますよお守りください・・・)
焼酎をお墓の周りに捧げる・・・・。
「ありがとう、ありがとう、本当にありがとう」
白髪のおじさんや、親父似のおじさん、金さんに何度も何度もお礼を言った。
雨が降っているので、先に車で待ってもらい、一人お墓の前で佇んだ。
しばらく、この場に居たい気持ちだった。
(よかった、よかった、本当にあったー)
車に戻り
「ありがとう、ありがとう、ありがとう・・・・」
「よかったね、よかったね・・・・」
いきなりやって来た、私の為に、一生懸命探してくれた。
感謝の気持ちでいっぱいだった。
『家族だから・・・』
白髪のおじさんと親父似のおじさんが、言ってくれていると・・・・。
白髪のおじさんとは、乗り込んだ場所で別れを告げた。
親父似のおじさんとは、せっかくなのでと、夕食を一緒にする事になった。
携帯で、おじさんの家族の写真を見せてもらったり、家族の話しなどを聞いたり話したり、一期一会を噛み締めながら食事を楽しんだ。
親父似のおじさんの、幸せそうな家庭を感じて気持ちは満たされた。
金さんが、
「昔、島も貧しい時があってね。日本は仕事があるって聞いて、何十人かでボートに乗り込んで海を渡ってね、私は、大阪の方で縫製の仕事をしていたのよ。白髪のおじさんも、数年の間だけど、日本で働いて居た事があったから、日本語も少し話せるのよ・・・」
其々に、向こう岸に何かを求めて・・・。
生きていく為に・・・・。
ホテルまで送ってもらい、手を取り、笑顔で、親父似のおじさんとお別れをした。
ホテルの部屋で、椅子に腰かけ、今日一日を振り返り、物思いにふけた。
ーお墓が見つかってよかった。
白髪のおじさん、親父似のおじさん、そして金さんのお蔭だー。
感謝の気持ちで胸がいっぱいだった。
携帯のカメラで、一緒に撮った白髪のおじさんと親父似のおじさんを見ると、自分にも似ていた。目、顔の輪郭、思わず失笑してしまった。
何故、私は、お墓に足が向いたのか。
ただ、自分のルーツを知りたかった訳でもなく・・・。
それとは違う何かを感じていた。
自分の存在価値を確かめたかったのか?
確かに、兄弟三人の名前があった。お母さんの名前もあった。
一時でも、家族だった証が、此処には存在していた。
私は、先祖の霊(みたま)に手向ける事が出来た喜びでいっぱいだった。
何故、私は辿りつけたのだろう。
何故、私は御霊に足が向いたのだろう。
何故、私だったのだろう。
お父さんに話したら、なんて思うだろう。
おじい様に話したら、なんて思うだろう。
お祖母ちゃんに話したら、なんて思うだろう。
何気に、携帯でカレンダーを見る。
親父が死んだ事を聞かされた日から数えて、ちょうど ゛百ヶ日目〟だった。
(仏教では ゛百ヶ日〟とは「卒哭」とも言うらしく、いつまでも嘆き悲しんでないで、この日を区切りにして、強く生きて行くようにとの意味があるようです)
偶然なのか、必然なのか、わからない・・・。
それとも、親父の死を通して信仰心が芽生えたのか。
わからない。わからないが・・・。
親父の死を通して出逢った人達、また、自分にとっての親、またその親の、おじい様やお祖母ちゃん、魂の繋がり・・・。
此処へ来て、自分でも、心が穏やかな気持ちになったのが心地よかった・・・。
朝目覚め、ホテル内の大浴場へ行った。
(気持ちいい)
今日は、タクシーを一日貸切、観光へ出かける事にした。もう来る事がないかも知れないという思いもあった。
世界自然遺産、世界最長の溶岩洞窟 ゛万丈窟〟 海底噴火によって出来た巨大岩山の゛城山日出峰〟 昼食は、カレイの刺身に、アワビにサザエにチヂミに海鮮鍋にと、食べきれない程の海鮮料理のご馳走でお腹が破裂しそうだった。〝正房瀑布〟という流水が直接、海に落ちるアジア唯一の滝。2002年ワールドサッカー大会が行われた〝ワールドサッカースタジアム〟。〝トッケビ道路〟という、見た目は登り坂なのに、ペットボトルを置いたり、車を停めるとスルスルと登り坂を上がって行く神秘の道など、観光を満喫した。
島のあちらこちらに、島の守り神〝トルハルバン〟(石像)を見かける。
綺麗な海が見えた。
此処から・・・皆が、希望を求めて舟で渡ったと思うと、もの悲しさが込み上げた。
中学生の頃、茶の間で冗談みたく、自分が朝鮮人のハーフだと知った。
瞬時に、誰にも言ってはいけない事だと悟った事を覚えている。
時代は変わり、韓流ブームなどと騒ぎ立て、その頃からか、朝鮮と言う呼び名から韓国と言う呼び名に変わっていったような気がする。
韓国人に対する世間の目も、少しは薄らいだような気もしたが、時は束の間、メディアでは、連日、反日だのと騒ぎ立て煽る。
日本人の中にも、反韓意識や反中意識は強いのでは?と子供の頃から感じている。
私は、日本人として育った。
自分が、日本人だろうが、韓国人だろうが、何人であろうが・・・・。
ーそれこそ、どーでもいいのである。
私は、心の拠り所を求めてきたような気がした。
多くの人の温かさに触れ、感謝の気持ちが募った。
『 なんで! なんで! なんで! 』
との悲しみしかない自分と向き合い、
河岸から見た景色は、 命を繋ぐ ゛虹の橋〟が見えた気がします。
この地に、生まれてきてよかったと・・・。
今でも逢いたいですが・・・。
ー ありがとう おとうさん -
おわりに
私自身、学歴もなければ、これといって何が出来る訳でもなく、大したことない人間です。
人は例外なく、父親、母親がいて自分があり、また、父や母にも両親はいます。
とりわけ、平々凡々に生きてきた私ですが、親父の死によって、色々な事を考えさせられました。
死の報告を聞いてから、現実の世界から抜け出して、壊れたタイムマシンに乗り込み、過去を彷徨うような日々でした。
自分でも、これではダメだとわかっていたのですが、どうしても、現実に戻れず、只々、ぼうっとして、涙が止まりませんでした。
死んだと聞いた日から、ちょうど百日目に先祖のお墓にお参りができ、その頃から、彷徨うものの、次第に涙は止まっていきました。
私だけが、特別変わった事実があったわけでもないでしょう。
人それぞれ、何かしら想いを抱え生きているのでしょう。
私は、〝記憶力〟という点においても、物忘れもひどく、勉強も苦手でしたし、人より乏しいと思っています。
記憶の中に感情が入り混じると、記憶が残りやすいのでしょうか?
子供の頃の記憶、父親や母親、その時々の些細な事が鮮明に思い出されました。
母子家庭として育ちはしたものの、暖かい家庭があり、苦労しとも捉えずに育ちました。
実際、おじい様の家は、子供の頃の私から見ても、少し格式高く感じましたが、自分の身分を考えてなのか、あまり居心地はよくなかったような気がします。
また、裕福な家が幸せか?というと、そうでもなさそうです。
偉そうな事は言えませんが、何かを得れば何かを失い、また、その逆に、何かを失えば何かを得て、プラスとマイナス、正と負、陰と陽、で成り立っているように感じました。
゛普通〟が一番いいのかも知れませんが、この゛普通〟というものが、実に曖昧で、人それぞれ価値観の相違で゛普通〟の意味が一番難しいのかも知れませんね。
子供の頃に、自分が ゛朝鮮人〟だと知り、差別や偏見の目がある事に気づきました。
私自身、そういう、差別や偏見の目にさらされた覚えもないのも有難い事です。
そのような者の見方をしない事を、その時、瞬時に学んだような気がします。
やっと現実の世界に戻りかけた頃、
相続税の納付のために、税理士より書類が届きました。『相手もあることだから・・』と早く事を済ませて、全てを終わらせたかったのですが、兄が海外にいるというせいもあり少し時間がかかりました。
税理士からの書類は、納付書の他に、税務署に提出する。全ての書類が同封されていました。
財産、戸籍の全部事項。
何気なく目を通すだけのつもりだったのですが、途中から、見てはいけないものだと感じつつ、よそ様の家の物を盗み見るようなやましい気持ちと、暴いてやろうと探偵にでもなったように、くまなく、その書類を端から端まで目を通してしまいました。
最初の納付金額は、予想していた金額でありましたが、自分が、今まで働いて買った事がある一番高い中古車より、はるかに高かった。当然、中古車でさえローンで買っていました。それより増して、配偶者は払わないといけないと思っていましたが、意外にも配偶者には配偶者控除があり、私達より少ない金額だったのには驚きました。
世の中、そういう風に出来ているのだと、改めて実感しました。
親父の戸籍の全部事項証明がありました。
親父・妻・祖父・祖母・母・姉・兄・自分・孫
その名のとおり、親父の全部の事項が証明されたものでした。
お姉ちゃんが産まれ、お母さんが出生届けを出していました。お姉ちゃんは母の旧姓の籍に入りました。
記憶が蘇りました。周囲に大反対され、お父さんとお母さんは駆け落ちまでしたと、何となく聞いた事があった事を思い出しました。
お姉ちゃんが産まれた二年後に、お父さんは帰化し、同時に、お母さんと婚姻届けを出し、お姉ちゃんも認知され、お父さんの性に籍が入ったようです。
後に、帰化する為だけに、お母さんと婚姻したのではないかと、お母さんを慰めるつもりでしょうが、親戚に言われた事があるらしい事も思い出しましたが、本当に帰化する為だけで婚姻したのであれば、兄も私も生まれていないと信じたいところです。
その翌年に、兄が産まれ、出生届けは父が出しています。また、その二年後に、私が産まれ、出生届けは父になっていました。
どんな気持ちで提出したのか、自分も、今は親になり、その時の気持ちが蘇りました。
私が、ちょうど七歳になったばかりの頃、お母さんとお父さんは離婚していました。
ーそして、離婚から半年もたたない間に再婚しいました。
その頃の状況が、新しいタイムマシンを手に入れて見てきたように想像できました。
足先から身震がし、体が瞬時に熱くなるのを感じ、苛立ちが襲いました。
゛あれもこれも、全部嘘だったの?〟
゛お母さんも私達兄弟も、みんなを騙していたの?〟
゛お父さんが、私達を見捨てたの?〟
゛もう一度、目の前に出てきて下さい〟
幼い頃の時空に戻り、反抗期の子供のように、虚しさとやるせなさに落ちました。
でも、親父は目の前には現れません。
そして、死ぬまで隠し通しました。
ただ、親父が命が絶えるまで守り抜いた゛秘密の箱を〟を開けてしまっただけなのです。
そして、私自身、箱の中に、何が入っているのかを、感じていたのも事実です。
゛親の心子知らず〟とは、よく言ったもので、また、゛子の心も親知らず〟なのでしょう。
そして、゛子の心は親は知っている〟 そして ゛親の心も子は知っています〟
子供は、両親、二人の血から出来た結晶です。
もしかしたら、子供の方が親の事をよく知り、求め続けたのかも知れません。
ただ、互いに、気づかないふりが上手いのかも知れません。
多いか?少ないか? これもまた価値観の違いがあるのでしょうが、
突如、親から遺産というものが ゛棚から牡丹餅〟のように入ってきましたが、
私自身、財産とは〝目に見えない物の方が価値があるのだ〟とも考えさせられました。
ー親父が孫を見る、何とも言えない嬉しそうな顔が、私にとって何よりの財産です。
最後になりましたが、私の文章を呼んで頂き、心よりお礼申し上げます。
2014年6月 吉日 寺島 真理


