入社3年以内に会社を辞めてしまう人が30%もいるという時代。
職場の人間関係や仕事への不満など様々なストレスをため込んでいる人は多いと思う。
おれ自身、入社2年目だけどもう会社に行きたくないと毎朝思ってる。
そんなおれが少しだけど元気になった話をします。
会社に行きたくない…。なんのために生きているのか。
一週間のうち、一番憂鬱になる日は?
ほとんどのサラリーマンは日曜日と答えると思う。
おれも同じ。日曜日の夜はいわゆるサザエさん症候群を猛烈に発症する。
そして月曜日の朝は戦争に駆り出されるかのごとく動悸がする。
今は誰もが名前を知る大企業で働いており、2年目の営業マンである。
まだ2年目ではあるが、性格的に営業は合わないと思っている。
もともと理系大学院卒のため、何かを一人でもくもくとやる方が性格に合っているのである。
今いる職場は簡単に言うと「パワハラ」である。
おれの上長は土方出身ということもあり、見た目はほぼヤクザである。
見た目の通り言葉使いは粗暴である。
しかし、仕事に対する姿勢はかなりストイックである。
例えば書類やメールにおいては文言の一字一句細かく確認される。
当然、ミスについては徹底的に言及される。
また、時間にも厳しく、30分くらいかかる作業でも5分でやれとかざらである。
終わらなければフロア中に聞こえる声での罵声を浴びせられる。
当然急いでやるので、時間内に終わらずミスもあるわけで…。
それに加えタチが悪く、おれのミスを飲み会や喫煙所、昼食時のネタにしているのである。
さらにおれの部署では飲み会はかなり多い。
土日も含めて飲み会が多く、終電も関係なく飲みまくるのである。
ちなみにおれはお酒はかなり弱く、学生時代にパッチテストを受けたとき、
「君はお酒は飲まないほうがいい」と言われたほどである。
学生時代に飲み会をあまりやっていなかったので、焼酎の水割りの作り方は知らないし、
お酌の仕方や灰皿の変え方など、とにかく毎日説教された。
社会人なのに一気飲みも激しく、ビールや焼酎、日本酒を何度も一気させられ、毎日のように吐いた。
2次会、3次会はあたりまえで、最寄駅が一緒の先輩がいると、終電で帰ってその後に飲むこともざら。
携帯に先輩から着信が入れば、どんな用事があっても断り、土日であったり深夜であっても駆けつける日々。
キャバクラやクラブ、風俗に連れて行かれたり、来月ゴルフやるからクラブ揃えとけと言われてボーナス使ったり。
昼は仕事で怒られ、夜は飲み会で怒られる日々…。
会社に行きたくない理由は「職場の雰囲気と合わないから。」
また、自分がやっている仕事に対して「充実感を感じていない」ことも関係していると思う。
次第に疲れ果て、おれがうつ病っぽいという噂が同じフロア内に広まり始める。
自分はダメな人間なんだと思うようになり、周りの人間のすべてが敵に見えた。
人と会うのが嫌になり、休日は部屋に引きこもるようになった。
このころに見た「晴天の霹靂」という映画の中で主人公の大泉洋さんが言ってた言葉が脳裏に浮かんだ。
「オヤジ、生きるって難しいな、俺ってなんのために生きているんだよ。」
おれって何のために生きてるんだろう。
こんなに嫌なことがあって、それでも必死に1年間頑張った。
世間的にはゆとり世代の象徴と思われるかもしれないけど、もう疲れたよ。
何もやる気が起きない。
自分の存在価値ってなんだ?
生まれて初めて仮病を使った。
全身に悪寒が走り、ベッドから起き上がることすらできなかった。
今日一日「仕事」から開放される。
世の中の社会人が働いている時間に街を歩いた。
好きな時間に起きて好きな時間に出かけるのは気持ちがいい。
学生時代はあんなに時間があったのに、その大切さに全然気がつかなかった。
そんなことを考えているうちに時間はあっというまに過ぎていく。
明日はちゃんと会社に行かないと。
自分に言い聞かせて眠りについた。
しかし、朝になると再び全身に悪寒が走る。
この日も会社を休んでしまった。
その後、何度か決まって月曜日に仮病を使って休んでいたが、周りもおれの異変に気づき始めていたので、もう限界だと感じ、産業医と面談してすべてを終わらせようと思った。
面談結果はうつ病の初期段階。
出勤停止まではいかなかったが、残業および飲酒禁止命令が出された。
本当は出勤停止にしてもらい、しばらく休みたかったので、ショックであった。
これからも会社にいくのか。
5~10年後どころか1年後の自分すら描けない。
この先どうやって生きていこう。
答えは検討もつかないが、翌週から9連休の夏季休暇なので、とりあえずこの一週間をしのぐことだけを考えて頑張った。
今までの経験上、休みはあっというまに終わるもの。
「会社」という普段のしがらみから解放されたかったので、一人でどこかに行ってみようと思った。
野球にすべてをささげた高校時代
「自分が一番輝いていた時代は」と聞かれるとおれは決まって同じことを言う。
「高校時代」
大学時代もバイトやサークル、研究室とかで色んな経験をしたけど、
高校時代ほど何かに夢中に打ち込んだことはない。
社会のこともよくわかってなかったし、お金を稼ぐということもまだよくわかってなかった。
将来のことを考えるわけでもなく、ただ無心に毎日を生きることを許された時代。
このころは野球に明け暮れていた。
今思ってもあのころには思い入れがあるし、毎年夏になるとグランドで泥まみれになってたことを思い出す。
野球は小学生のときから8年間やった。
小学校、中学校、高校とそれぞれの時代でドラマはあったが、高校時代は今の自分を形作ってると言っていいほど大きく成長させてくれた。
はっきり言って、おれは高校入学時は下手だと思われてたと思う。
部員が70人もいて、みんな中学時代に実績を持ってたやつらばっかだったから。
体力には自信があったので、キツイ練習にもついていけたが、ボールを使った技術練習については全然ダメだった。
試合には当然出られず、遠征に行っても応援だけして帰ることが多かった。
先輩が引退して自分たちの世代になっても試合には満足に出られなかった。
さすがに自分が試合に出れないのに同世代が試合に出てるのを心から応援できるはずがなかった。
悔しさと惨めさが残り、試合のたびに嫌な気持ちになった。
月曜から金曜まで練習。土日は試合。試合がない日は練習。決まった休みはなく、たまに監督が指示した日が休みとなった。
高校生活のすべてを野球部に費やしてきた。
それでもまともに試合には出られない。
ピッチャー交代時の代走とか、最終回の守備とか、とりあえず出しとけみたいなところでしか使われなかった。
なんのためにおれは練習してるんだ?
こんなに毎日朝から晩まで練習してバカじゃねーの。
クラスの友達はカラオケ行ったり、ゲーセンで遊んだり、洋服買ったり、女の子とデートしたり。
おれの一回しかない大事な高校生活はなんだったんだ。
高校時代を振り返るとなんのために目の前のことに取り組むのかわからなかった時期があった。
うつ病となった今と重なる部分があったが、高校時代にそれでもがんばれたのは「充実感」があったからだと思う。
試合には出れなくてふて腐れてたけど、毎日同じような生活をする野球部の友達と恋愛やテストとか野球について語り合うときは楽しかったし、ダイビングキャッチしたり、ホームラン級の当たりを打ったり、体力測定でも明らかに結果が上がってたりして成長を実感することができた。
練習が終わるとヘトヘトだったけど、次の日学校行きたくねーって思ったことはなかった。
また、「目標」がたくさんあったことも今とは違うと思う。
ベンチプレス80kg上げてやる。遠投90m投げる。100mを11秒台で走る。英語のテストで100点取る。合唱祭で優勝する。好きなクラスの女の子と付き合う。
生きていく上で軸となる目標がいくつもあったし、実現させたときの充実感は何よりも自分の頑張ろうっていうエネルギーになった。
このころを思い出しても、自分がやることに充実感がないと続かないし、やる気も出ないと思う。
やっぱり充実してる方が人生楽しいよ。
ある日の練習試合でたまたま同じポジションのやつらがいなかったので、たまたまおれが出場して結果を残した。
次の練習試合も結果を残し、その次もまたその次も結果を残していった。
このころになると、レギュラー定着を狙うようになり、どうすればよいか考えるようになった。
おれの場合、足が速かったので、とにかく出塁率を上げた。
内野安打、セーフティバント、四球。
もともと右利きだけど、スイングが左右であんまり変わらないという理由から高校2年生のときに左バッターに転向していたこともあり、いつも狙っていたのは三遊間にゴロを転がすこと。
バッティングや守備の上手さではみんなにかなわないので、かっこつけずに結果だけを追い求めた。
このころのおれの実力は普通くらいのレベルだったが、出塁率を買われ、レギュラーに定着した。
試合に出れるようになったのが、最後の大会まで残り3カ月くらいの時期だった。
何だかんだ文句ばっか言ってたけど、練習はまじめにやって良かったと思ってる。
高校卒業するときにもらった卒業アルバムに書いてあるメッセージで、
「最初は下手くそだったけど、最後は上手になって尊敬するぜ」と書いている野球部の友達もいた。
最後の大会で背番号「7」をつけて人生最高の大舞台で戦った。
1回戦はすごく天気のいい日で、親や親戚、学校の友達、先生が応援にくるなか、3安打3打点の大活躍。
2回戦で負けたときは、ほんとに悔しくて、あんなに泣いたことはなかった。
引退して8年がたった今でも高校3年間続けた努力とか一緒に頑張った仲間は生涯の財産になっている。
野球を辞めて8年後に偶然訪れた甲子園
夏季休暇に入り、大阪に行くことにしたのは気まぐれである。
東京から離れたいと思ってて、大阪はなんとなくいい距離にあったから選んだだけの理由である。
プランを考えるのがめんどくさかったので、現地に行って自由気ままに目的地を決めることにした。
その中でも甲子園を選んだのは偶然だったと思う。
大阪についた日に開会式をやってたみたいだし、そもそも甲子園が大阪にあることも忘れていたし。
大阪で有名なとこ・・・
・・・・・・
・・・・・・
・・・・・・あっ、甲子園。
こんな感じだった。
西東京出身だったので、神宮での試合は見たことがあったが、甲子園は行ったことがなかった。
こんな感じのノリで甲子園に行くことにした。
当日は大会2日目であり、バックネット裏、1・3塁自由席、アルプススタンド、どれも販売中止になるほどの人気だった。
追加販売中止のアナウンスが流れたので、無料の外野スタンドから入った。
すげえ。
これが甲子園。
満員の観客席。バンバン140km/hを投げるピッチャー。それをホームランにするバッター。
すべてが規格外。高校野球を経験しているからわかるすごさがあった。
スタンドの応援団も気合が入ってるなー。
こんなに暑い中、あんなに一生懸命に応援してる。
ベンチに入れなかった部員。
野球部員の親。
チアリーディング部の子たち。
吹奏楽部の子たち。
野球部のOB。
学校の友達。
それぞれいろんな想いがあると思う。
最後の大会なのにスタンドで応援する部員はほんとに悔しい想いをしたと思う。
それでも野球が好きだから、このチームが好きだから、スタンドから声を枯らして応援してるんだと思う。
野球部員の親は朝早く起きて弁当作ったり、夜遅くに帰ってくる息子の泥だらけのユニフォームを洗ったり、本当に大変だったと思う。
しかも、遠征代とか合宿代とかグローブとかかかったお金も半端じゃないと思う。
おれの母ちゃんも朝4時に起きてご飯と弁当作って5時半におれを起こして、洗い物や洗濯が終わったら、会社に行って、帰ったらご飯の用意して、おれが帰ってきたらユニフォームを洗濯してまた洗い物して…。
おれの家は貧乏だったから、お金は本当に苦労した。ユニフォームとかは人からもらったやつばっかだった。
でも、母ちゃんが頑張ってる姿を見ておれも頑張ろうと思えた。
だから、スタンドで応援する親は特別な想いで見てると思う。
一生に一度の大舞台でプレーする息子の活躍は自分のことのようにうれしいよ。
チアリーディング部の子たち、吹奏楽部の子たち、野球部のOB、学校の友達もいろんな想いで応援していると思う。
その想いが声援となり、壮大な演奏に乗って選手に届く。
実際に生で聞いていて鳥肌が立った。
やっぱり高校野球はすごい。
こんなにいろんな人が想いを持って熱くなれるスポーツはないよ。
諦めずに一塁にヘッドスライディングする姿とかは込み上げてくるものがあるし、おれも頑張らなきゃと思わせてくれる。
おれも高校時代は誰かの想いを受けていたのかもしれないし、誰かを感動させることができたのかもしれない。
そんなことを思って試合を見ていた。
今日も8年前と同じくらい晴れていた。
何でかわからないけど、少しだけ何かを頑張れるような気がした。
おわりに
甲子園に行ったことで、高校時代を思い出すことができた。
あの時代には毎日を楽しくするための「目標」があったので、「充実感」にあふれていた。
今は辛いけど、ずっと続くわけではない。
職場も新しい人が来れば、去る人もいる。
嫌な上司ともずっと同じ環境にいるわけじゃないと思うと少しは楽になる。
仕事が嫌なら転職すればいいと思うし、人生山あり谷ありで道はたくさんある。
人生一回しかないから、なるべく自分が充実することをしたいと思う。
でも、とりあえず今は辛いけどもう一頑張りしようと思う。
自分が充実することを見つけたら、次はそれで人生を埋めていけばいい。
偶然だったけど、甲子園に行ったことでひたむきに頑張ってた自分を思い出すことができた。
少しだけど、元気をもらえた気がした。
このころ「STORYS.JP」の存在を知り、うつ病の自分が元気になれた話を同じような境遇の人たちにして、少しでも元気になってもらえればと思って投稿しました。
いつかおれ自身、そしてみんなの毎日が笑顔であふれますように。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。