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14/8/8

中学生時代・・・初恋のはじまり

Image by Olia Gozha

僕の通った中学校は、1年まで男子は全員坊主でした。しかし、
僕はもともとずっと坊主頭だったので無関係でしたが・・・。


でも、小学校の友達が坊主頭にすることに抵抗を感じていたので
そこで一つの価値観を学びました。「坊主にしたくない人もいるのか」と。


中学入学当初は、教科書を全部持って帰るのでカバンが重い重い。
重いカバンを持ちながら、40分歩いて通っていました。


中学校に入学してすぐの頃、通学路の脇にある工場から出る煙が
めっちゃくさかったのと、桜がふわふわと風に運ばれている光景が
今でも鮮明に記憶として体に残っています。


部活は、陸上部がなかったので当然の流れで野球部に入りました。
2つ上に兄がいたので3年生からやさしくしてもらいましたが、
それでもみんな背が高くてゴツかったので、はじめはビビりまくってました。


そんな感じで中学生活をスタートさせ、最初の夏休みがやってきます。
僕のいた野球部には昭和の名残が強く残っていました。

1年生は、部活中に水を飲めない決まりになっていたんです。
僕は、こういうのは特に何も気にしない人間だったので
それに対しては、まあそうなんですね位に考えてました。


他の同級生が「ちょ、トイレに行ってきます!」といって
トイレの水道で水を飲んでいることも知らずに・・・。
当時の僕には、そんな器用な考え方は全くありませんでした(笑)


ただ、ひたすらに我慢してツバを飲み込んでやり過ごしていたんですが
夏休みになって10日位した時に、脱水症で倒れてしまいました。

野球部の先輩方も「トイレに行って水を飲む作戦」は容認していて
1年はそういう時期を過ごすんだ的な流れだったようなのですが、
僕があまりにもバカ正直に水を飲まなかったので脱水症になってしまいました(笑)


ですが、

僕が脱水症で倒れたことによって、
その後1年生も普通に水を飲めるようになりました。


カッコ良くいえば、
不器用ながらもまっすぐに自分の道を切り開いていったパイオニアといったところでしょう。


しかし、
単なるアホとも言い換えることができますが・・・。


良くも悪くも知恵のない中学生でしたね。
中学生時代もチョイチョイ馬鹿なことをして先生によく怒られていました。


技術という科目は技術室に移動して授業を受けていました。
キリやノコギリなどを使う授業ですね。


その授業の休み時間に、何を思ったのか
僕は技術室の机にキリで穴を一生懸命あけていました。


よくわからないんですが、おそらくウケを狙っていたんだと思います。
そして穴をあけていたら、急にみんな「シーン」ってなったんですね。


僕が「どうしたんかな?」と思った次の瞬間でした。
技術の先生(柔道部顧問@怖くて有名)が僕の真横に立っているではないですか。

そのまま僕はキリを首に突きつけられ

「お前も、こーやって穴あけられたら痛いんじゃないんか、あ~ん?」


的なことを言われ、首にキリを強く突きつけられたままお説教をして頂きながら
この時に、僕は身を持って穴の大切さを学びました。


この先生、ほんとに刺すんじゃないのか?という恐怖と闘いながら
友達が笑いで吹き出すのを必死にこらえているので、僕も笑いそうになったりして
ヘラヘラしやがって!とさらに怒られるという、ほんと地獄の時間でした。


しかし、

そんなことをしても何も学ばない生徒であった僕は、後日
掃除の時間に、ホウキとピンポン球で野球をしているのが見つかって
またもや怒られてました。


次に怒られた先生は、教育指導担当の「鬼の〇〇先生」でした。
身長こそ小さい方でしたが、顔としゃべり方はもはやモノホンのヤ◯ザでした。


掃除の時間に野球をしていたのは僕を入れて5人いたんですね。
生徒指導室に呼ばれ、みんなで怒られて・・・やれやれ~で終わるはずでしたが


なぜか僕だけ「お前は、残れ!」と言われてしまいます。
部屋を出て行く友達に「心配してはいるがこの展開・・・プププ」
的な顔で見つめられていたのが印象に残っています。

その直後、ホウキ(学校によくあるT字のやつ)で顔を横から思いっきり
叩かれました。耳が「キーーーン」ってなっていて僕は「WHY?」で頭がいっぱいでした。


先生に怒られながら、僕だけ追加で怒られる理由を教えて頂きました。
説教されている時の、僕の表情が ”なんだよ” 感全開だったからでした。


おいおい、怒られる時に嬉しそうな顔するやついねえだろ!?
と思いながら怒られてイライラしていた記憶があります。


これは、今になって思うに僕の態度が異常に悪かったんでしょうね(笑)
精一杯強がっていたのかもしれません。やはり、基本的にアホでしたね。


そんな感じでチャラチャラしてはいましたが、授業中はまじめに勉強していたので
成績は学年で10番以内には入っていました。


なので周りからは、真面目なのか不真面目なのかよくわからん奴
みたいに言われてましたね。


中学までは、純粋に勉強がおもしろかったので
家でも自主的に予習復習をしていました。
親に勉強しなさいと言われたことは一度も無かったですね。


そんな僕も、人並みに恋もしました


僕の人生の中で、中学生の時が1番のモテ期でした。
時々女子から告白されていたんですが、全てお断りしていました。


その理由は...........................



部活やってて、休みの日も試合があるし
部活以外の時間は友達と遊びたいし・・・


っていう、小学生の時から考え方が何も変わっていなかったからです。


中学2年くらいまでは、女性には興味があるものの
男女で付き合うって何?って思ってました。


別に、学校で楽しく話しとったらそれでええやん
って考えしか持ってなかったですね、今思うと。


ですが、

そんな僕も3年生になって変わります。


ひとつ年下のテニス部の女の子に恋をするんです。


野球部のすぐとなりがテニス部女子の練習場でした。
僕は、中学ではセンターを守っていたのでテニス部から
めっちゃ近かったです。


さらには、


野球部の後輩にわざと変なとこに投げさせて、テニス部に
ボールを取りに行っていました。今考えると、セコいことしてますね僕(笑)


半年くらい、そんな感じでず~と見てて秋ごろに遂に告白します。


何度か放課後に告白しようと思って、でも勇気がなくて・・・
といった感じでフニャフニャしてました。

そんな僕を見かねた友達が「行って来いや、バーン!」と


背中を叩いてくれました。
それは、霧雨けむる静かな放課後でした。(若干引用:ミスチル)


テニス部の女の子が友達と二人で校門を出たところを走って追いかけました。
その時のことは頭が真っ白だったので記憶は確かではないんですが、


「「◯◯さんのことが好きなんっちゃ、オレと付き合ってくれん?」」

的な事を言っていたと思います(笑)。心臓がバクバクしてて

告白の瞬間のことは全く覚えていません。


告白したテニス部の女の子が

「「返事・・・今じゃないといけませんか?」」


というので僕は

「い、いつでもええよ!!」


といってしまい、その女の子も

「「いつでもええって言われても・・・」」


的な空気になったので

「「じゃ、じゃあ、明日の放課後に砂場のトコで待っちょるけえ」」

と、もはや捨て台詞ともとれる言葉を放ちその場を去りました。
その後の記憶もほぼありません。


その女の子からしたら、

返事はいつでもええよ!と言っておきながら
じゃあ、明日で!と意味不明な事を言っている僕のことを



「この人、ちょっと変な人なのかな?」

おそらく、そんな感じで思っていたことでしょう。


ですが、僕は

背中を押してくれた友達に抱きついて「フォーーーー!!」と
意味不明の奇声をあげていたことは記憶に残っています。


まだOKをもらったワケじゃないのに、どうしてしまったんでしょうね僕(笑)


そして翌日の砂場で・・・

「「私なんかでよかったら、よろしくお願いします。」」

と、パーフェクトな回答をいただき無事に交際がスタートしました。


月並みな言い方で、ありふれた表現ではありますが


目に映る全ての光景が、輝いて見えました。


それまで女の子と付き合ったことがなかった僕にとっては
全てが新しい経験で、いろいろパニックになりながら交際していました。


普段は「しゃべるな」と言われてもしゃべり続けるような人間でしたが
彼女の横にいると、ドキドキして何を話していいのかわからない。

だから、話すことをメモ帳に書いていおいて会話に困ったら
メモ帳をみて話すという、変な事をしてました。


ドキドキしすぎて自分でもよくわからない自分になっていましたね。
僕は3年で部活も終わっていたので、学校が休みの日は
公園でブランコしたり、神社に行って話したりして時間を過ごしていました。


クリスマスには電車で40分かけてイルミネーションを見に行くという
自分でもビックリの「ロマンティスト」な一面の発見などもありました。


帰りの電車の中で、となりに座ってる彼女がうたた寝してた時に


僕は生まれて初めて


今この瞬間に、時が止まればいいのに・・・


そんなことを真剣に考えました。人間ってこんなにも幸せと感じることが
あるもんなんだな~って、隣で寝てる彼女を見ながら幸せすぎて
一人で泣きそうになってました。


今思い出しても幸せな気持ちになれる、ステキなクリスマスの夜でした。


ですが、そんな二人にも別れの時が訪れます。


学年が違うので、僕が先に高校に行ってしまうわけです。
高校でも部活をやるし、勉強もしないといけないので
僕が付き合うことは難しいだろうなって思うようになったからです


それと、


入試の勉強もあるし、別々の高校で友達とも離れるので
友達との時間も大事にしたいし。そんなことを色々と考えていたら
当時の自分のキャパを完全にオーバーしてしまいました。


もともと、女の子との付き合い方すら全然わかってなかったので
そんな僕にとっては問題が大きすぎたんですね。


彼女と付き合っていく余裕が全くなくなってしまったんです。
結局、手もつなげずに終わってしまいましたが、
貴重な時間を過ごすことができて幸せでした。


それからは、受験勉強に励み志望していた進学校に・・・



受験に失敗www

高校は進学校に入学して、陸上部に入る予定でした。

ですが、

受験に失敗してしまいますww

僕が受験した年から出題問題の傾向が全く変わり
勉強してきたことがほぼ無駄になってしまったからです。


残念な結果になった上に、同じタイミングでずっと好きだった
安室奈美恵さんが電撃結婚するというダブルパンチを喰らいました。

僕のほうが「Don’t wanna cry」でしたよ、マジで。


結局、二次募集で工業高校に野球部に入るという条件付きで進学しました。
工業高校なので学校の9割以上が男子です。僕のいた学科も男子だけです。


登校初日、男子だけの教室のむさ苦しい感じの空気には正直参りました。


ですが、1ヶ月も経たない内におもしろい友達も増えて
最高の環境だなと感じるまでになりました。

基本的に、下ネタやくっだらないことで大爆笑してましたね。
あと、みんな部活だけをしに学校に来ている感じだったので


授業も最初にはしゃいで後は爆睡・・・ってゆう流れで
毎日を過ごしていました。


部活は、野球部に入部して色々な経験をしました。
入部して初めての練習試合で広島商業に連れて行ってもらいました。


途中から試合に出させてもらったんですが、相手のピッチャーのスライダーが
マンガみたいにカクーンって曲がって「こりゃ打てんわ」と笑ったのを覚えています。


夏休みには遠征で、関西で智弁和歌山・四国で明徳義塾・九州で熊本工業、九州学院など
それまで狭い世界でしか生きてこなかった僕にとってすばらしい経験をさせてもらいました。


単純に、日本って広いな!と体感して学びました。


そんな感じで充実した1年生を過ごして、2年にあがって春を少し過ぎたあたりに
僕の人生をターニングさせる出来事が起こります。


クラスメイトが中型バイクの免許をとったので、僕の地元に遊びに来てくれました。
広い駐車場で、バイクを運転させてもらったんですね。


それが、僕の心をググっと掴んでしまったのです。なんじゃこりゃ~状態でした。
こんなおもしろいものが世の中にあるのかと?そんな感じでした。


うまくいえないんですが、僕はコレだ!!と直感で感じたんです。


ちょうどその頃、自分の人生って何なんかな~とぼんやり悩み始めていた時期でもあったので
余計に「コレだ!!」と感じたのかもしれません。


2年生にあがって、野球部の監督から「イノウエ、お前キャプテンやれな!」
と言われていました。

正直予想はしていたけど、野球部のヤンチャなメンバーをまとめるのは
ちょっとしんどいし、キツイなとも思ってました。


さらには、

同じ中学から進学した野球部の友達がやめたってゆうのもあったりして
高校生なりに色々と悩んでいた時期だったんですね。


そんな時に、ハーレーみたいなカッコイイ音を鳴らして
目の前に現れた友だちを見て、自由へのあこがれのような気持ちを抱きました。


コレだ!と思ってからは行動の早さはピカイチで、すぐに親を説得して
野球部を辞めました。高校はちゃんと卒業するという条件付きで。


正直にいうと、多少イザコザがありました。
両親は大反対でしたし、普段は温厚な兄も

「お前何考えとんか?バカじゃないん!?」

と声を荒らげて、僕に言いました。


やり場のない気持ちになった僕は、家出をしようと玄関に行くのですが
家出しても何も変わらんよ!?と母の言葉が胸に刺さり
玄関で、ただ呆然と座っていた記憶があります。


当時は

「「なぜ自分の気持をわかってくれないんだ?」」


そんな風に思っていましたが、家族からしたらそりゃそうですよね。

ヤンキー街道まっしぐらに、路線変更っぽいですもんね。


それからは、学校が終わると地元のほか弁でバイトに汗を流し、
とにかく可能な限りシフトを入れてもらって稼ぎました。


それで3年にあがる前の春休みで、バイクの免許を取りに行きました。
熊本で短期合宿で免許がとれると聞いたので、それに参加したんです。


ばあちゃんが熊本に住んでるということもあって、バイクの免許も取れるし
ばあちゃんに会えるしワクワクして家を出発しました。


初めて一人で遠出をしたので嬉しくて仕方がありませんでした。
新幹線なんかめったに乗らんかったし、博多駅に付いた時に

「「ああ、自分って何か・・・飛び出してきた感がええね~!」」

と大人の階段を一つ登ってる気がして、やたらと興奮していましたね。
博多駅から熊本行きのバスに乗ると、同じ合宿に参加する人達と
話が弾んで楽しかったなあ。


免許も無事とれたし、九州各地に友だちもできたし、
ばあちゃんにも会えたし。


ばあちゃん家の、あの線香臭い感じや角度が尋常じゃない
二階への階段。なつかしいなあ。数時間だけの滞在でしたが
ほんとに嬉しかったですね。


僕がばあちゃんの家から帰る時に、駅で見送りをしてもらいました。


何となくですが、電車の中から見送ってくれるばあちゃんを見ながら、
ばあちゃんと会えるのは、それが最後の気がしていました。


僕はしっかりと目に焼き付けるように、ばあちゃんの姿が見えなくなるまで見て
電車の中で、周囲に気づかれないように声を殺しながら泣いていました。


その予感は、数年後現実になってしまいます。


足が悪いのに、駅まで一緒に歩いてくれて見送ってくれたばあちゃん。
電車の中から見た、ばあちゃんのやさしい笑顔を僕は一生忘れません。


それから山口に帰って、学科の試験も無事に終えました。
日程が、3年1学期の始業式に間に合わなかったので1日サボりました。

生まれて初めて、正規の理由以外で学校を休んだので
不良になった気持ちを味わったことを覚えています。


その後は、ひたすらバイクに乗ったりイジったりして
とにかくバイクに夢中でした。授業中も読んでいるのは
教科書ではなく、バイクのカスタム雑誌と地図でした。


頭のなかで、次はあそこの部品を変えようとか
次の休みは、ここに行ってみたいなといった感じでニヤニヤですね。


初めて遠出ツーリングに選んだのは出雲大社でした。
着いたはいいけど、バイクの鍵を無くして・・・・

「やべえ、帰れない・・・・」


めっちゃ焦りながら、探しまわってたらキレイなお姉さんが拾ってくれて
僕に渡してくれました。本当にうれしかったなあ。


帰り道、あのお姉さんにご飯でもごちそうするべきだったのかな~とか

「ご飯食べてたらもしかしたらアンナコトになってたのかな~とか」

色々と妄想しながら走っていました。

やはり僕はバカな人間でして、結果・・・・
山奥で夜中にガス欠になるというアクシデントに。


幸い道の駅が近くにあったので、そこまでバイクを押して歩いて行きました。
すると、道の駅の向かいにガソリンスタンドを発見。


寝袋もあるし、
明日の朝になれば問題解決だな!と思いすぐにバイクの横で爆睡しました。


翌朝、地元のおじいちゃんに起こされて目が覚めました。
寝袋だけで寝ていたので、心配されてしまいました。


少し経緯などを話していると、どうやらそのガソリンスタンドは
日曜日は休みとのこと。


OMG~OMG~これはまいったなと話していると、
ガソリンスタンドの知り合いのおばちゃんが電話してくれて
店のおじさんが来てくれて、ガソリンスタンドをあけてくれることになりました。


さらに驚くことに、

「ガソリン代はいらん!「若いのに、大変な思いしたんじゃろ?ええよええよ」」

と。


田舎だからとか、そんなこと関係なくて
世の中にはこんなステキな考え方をした人もいらっしゃるんだなと思いました。


沢山の人のやさしさに触れ、自分の小ささを知りました。
同時に、自分が将来どんな人間になりたいのか明確になった
記念すべき出来事でもありました。



バイクを通して出会った、ステキな方々の話をここで書くと
5万文字以上になってしまうので、残念ですが省略せざるを得ません。


北海道から鹿児島まで、東京都と埼玉県以外は全ての県に侵入しました。
今は小さな島に住んでるので、バイクは乗ってもあまり意味が無いので持っていませんが


やっぱバイクっていいなあ。改めて、今そう思います。


おっと、話を高校時代に戻すしますね。



実は、この話は親にもしていないんですが・・・・
蒸し暑い夏の夜に、友達3人3台のバイクで走っていた時の事です。


友達のバイクのテールランプ(後ろのブレーキランプ)が切れてたんですね。
それで、後ろからパトカーがサイレンを鳴らして追っかけて来たんです。


僕は普通に止まろうと思ったんですが、友人2人が逃げたんです(笑)
ちょ、おいおい待ってくれよって感じでした。


逃げた2人は地元で、僕はアウェイだったので
マジかよ~と思いながら友達と話をしていると
次の交差点で別々に別れよう!ということになりました。


僕は心臓がバクバクしていたので、なんで別れるのかとか考える余裕すらなく
3人別々に別れました。


そしたら、


「おいおい、パトカーさん。アウェイの僕を追っかけてきましたよ・・・」


僕は、一生懸命に信号無視や一時停止無視、制限スピード無視などをしながら
逃げたんですが、団地の行き止まりで万事休す・・・。


パトカーが3台+覆面パトカーが1台来てました。もちろん田舎なので
すぐに野次馬が集まる集まる。さらに、警察官の無線が僕の耳に入りました。


「「凶暴な逃走犯を追い詰めました。留置所の手配をお願いします!」」

「え、はい?凶暴・・・ですか僕?」


行き止まりでどうしようもなかった僕は、何となく両手を上にあげて
警察官が来るのを待ちました。そしたら、次の瞬間に


えっ???・・・・僕は地面に叩きつけられました。

両手を上げている僕を警察官は足払いを決め込み、羽交い絞めにされました。
僕的には、おいおいやり過ぎだろ!?と少々カチンと来ていました。

でも暴れてもどうしようもないし、話し合うしかないだろう作戦でいきます。

それで少し落ち着いて話していると、警察官の方曰く

「「キミがナイフや凶器を持っている可能性のほうが高いだろ?」」

とのこと。

なるほど!警察官の目線からしたら、おっしゃる通りですね。

そのまま話をしていたら

「「お前、留置所イヤか?」」

「「はい!」」


と聞かれたので即答でと答えました。
警察官のご好意で交番行きになり、なんとかセーフといった感じになりました。


ですが、

逃亡中の違反を数えていたら、30点以上になってしまいました。
免許をとってから半年も経ってないのに・・・・
ほか弁で流した汗は、すべて水の泡か・・・・


そう思っていたら、

「「お前免許取りたてやないんか?どうしたもんかのお・・・」」

となり、
なんとか免許取り消しのギリギリラインの14点
長期免停(3ヶ月間)で勘弁してくれました。


学生という身分だと非常にマズイので、なんとかほか弁で働くフリーターで
話を通しました。幸運なことに、僕が働いていたほか弁は地元の警察署の真横にあったんです。


それで田舎なので、バイクは目立つし警察官は毎日ほか弁を買いに来るし
違法カスタムしてたんで、よく注意されていたんですね。


そんなこともあって、僕が捕まった交番から地元の警察署に確認の電話をしてもらって
あ~はいはい、おるねバイクに乗った少年が!と無事に確認してもらったので
ほか弁フリーターで話が通りました。


あ~マジでヒヤヒヤしました。僕が通っていた学校はバイクの免許を取ること自体
校則違反だったので、さらに逃亡劇なんて話なら一発退学もあるかもしれません。


なので、フリーター確定してからはスッキリとした気持ちで
交番で交通違反切符を12枚書くのを待ってました。


しまいには、警察官の方に

「「お前警察なれや、B級何やらやったらなれるで」」


とすすめられるという訳がわからないけど、なぜか微笑ましい結果になりました。


しかも、


交番で取り調べ等を受けるのに4時間くらいかかったんですが、
そのあいだに一緒に走っていたバイク2台の友達が心配して
何度も交番の前を走っている音が聞こえていました。


少しホッとしたのと、友達が心配してくれているのが嬉しくて
僕は交番の中で、声を上げて泣いてしまいました。


警察官の方も、バイクの音には気づいていたらしく


「「お前、ええ友達持っとって幸せじゃのお~。大事にせえよ!」」

とおっしゃってくれて、さらに泣かされたことを覚えています。


交番から開放されたのが夜中の3時くらいでした。それから、当時はポケベルだったので
友達と連絡して事情を説明しました。


元はといえば僕がドン臭いのが悪いのに、友達2人は強く責任を感じていました。
僕としては、捕まらんで明日も無事に学校にいけるし

「全然問題ないけぇ、大丈夫よ~」


と伝え、30分かけてバイクで家に帰りました。



結局、違反金は12万円くらいだったんですが、その2人の友達が
色々とお金を集めてくれて、半分以上支払ってくれました。


僕がもし反対の立場だとしても、そこまでの大金は払えなかったと思います。
また、金額がどうのこうのよりも、その心意気に感謝と感動を覚えました。


失ったものは免許の点数と罰金だけでしたが、
この経験から本当に多くのことを学び感じとることができました。


もし、もう一回人生をやり直せと言われても、この経験は必須科目です。
そのくらい価値のある経験になりました。


何だかんだで、5時半くらいだったかな。生まれて初めての朝帰りの帰り道で
登ってくるお天道さまが眩しく、なんだか僕は恥ずかしいことをしてるんだろうな~
という罪悪感の中、家に帰りました。



父親は仕事で留守、母親は爆睡してたのでコソ~っと部屋に入り
1時間程寝ました。


朝に母親に

「「あんた何時に帰ってきたんかね?」」

「「2時か3時じゃない?」」


とウソをつきました。


ですが、おそらくバレてますねこれ今考えると(笑)
その時の母親の

「「ふ~ん」」


が妙に優しかったですからね。
親は子供が思ってる以上に子供のことを理解しているものですもんね。


今まで学校の中ではわりとヤンチャな活動をしていたかもしれませんが、
世の中の法律に触れる問題を起こしたのは、それが初めてでした。


それまでは、学校さえ卒業してしまえば後は自由だ!と漠然と考えていましたが
その考えはむしろ逆なんだということを学びました。


学校のように甘えは許されない、自己責任の中での自由なんだと
高校生ながらに、まじめに考えたりしていました。



そんな感じで無事に卒業式・・・・とはいかず
11月に僕はバイクで車との衝突事故をします。


僕が優先道路を走っていて、右から白いワンボックス車が走ってくるのが
見えていました。タイミング的に当然車は止まると思っていたんですが・・・


僕のバイクに一切気が付かなかったらしく、飛び出してきました。
僕の目の前が一瞬でワンボックス車の色の白で埋もれました。

「「あ。これは死ぬかもな・・・」」

本気でそう思った瞬間でした。

僕は急ブレーキをかけて後輪がロックし、
横にこけて、そのまま脇にあった田んぼへ超ダイビング。
田んぼは稲刈りしてあるので土のごとく固かったですが、とりあえず

「「あ、オレ生きとるわ」」

と生を実感して安心していました。車を運転されていた方も事故の瞬間は

「「あ、人を殺したかもしれん・・・」」

と思ったようでした。お互い

「「生きとって良かった~」」

「「生きとって良かった~」」


と飛び跳ねて喜んでいた記憶があります。


その後、警察を呼んで

「「救急車は呼ぶ?」」

と聞かれたんですが

「全然大丈夫ですよ~」

と答え、事故用の警察車両に乗って色々と話しをしました。


しばらくしてから、僕が車の外に出ようと思ったら・・・・
足に激痛が走って、立ち上がりもできない状態になりました。


事故時に、アドレナリンを全開で放出していたらしいのです。
アドレナリン全開だと痛みを感じないけど、落ち着いてきたら痛くなる。

警察の方に、

「それ交通事故あるあるやね!」


と言われました。



結局、救急車を呼ぶと30分以上待つらしく
事故をした白のワンボックスの家族の方に病院に連れて行って頂きました。


結果は、スネやらヒザやら数カ所骨折していました。
全治4ヶ月。おいおい、卒業式は松葉杖かよ・・・。


その前に、僕は高校に電車で通っていたんですが登校どうするよって話しです。
通常だと、駅までチャリで15分。電車(正確には列車)で30分。


駅から高校まで徒歩15分。


後日、保険屋さんからの電話だと電車で通学して下さいという話でした。
事故の車の方は

「「自分が自腹で払うから、タクシーで通って下さい」」

とおっしゃってくれたのですが、それは申し訳無さすぎるので電車にしました。

松葉杖で学校に行ったら、先生方から

「「バイク事故か?バイクか?」」


と散々聞かれましたが

「「いや~チャリで田んぼに突っ込んで~」」


と、うまく?かわしていました。


骨の回復も思ったより早く、卒業式までには普通に歩けるようになっていました。
そんな感じで、なかなかおもしろい高校生活を送ることができました。


というか学生時代の思い出って、ケガばっかりですね僕(笑)


あれ、高校生時代の女の子の話がないじゃないかと?

こ、これ以上はプライベートなんで。このへんにしておきますね。




遠く離れて、ふるさとを想う


そんな感じで、高校生まで地元で過ごしたわけですが
高校生の頃は、自分のふるさとのことがあまり好きではありませんでした。


はじめてコンビニができたのが、中学3年生の時で
刺激的に楽しく遊ぶところもない街。


四方は山に囲まれた盆地で、学校のチャイムとお寺の鐘の音が
町の端まで聞こえて来るような静かな空気感。


バイクに乗ったら、車種に関係なく

「「あの子は不良になった」」



噂されてしまう小さなコミュニティ。


高校生になった頃には、正直いって息が詰まっていました。
だからこそ、バイクで遠くに行くことで気持ちが開放されていたんですね。


でも、

バイクで色んな町を見るようになってから、少し考え方が変わりました。
地元に戻ってくると、なぜか安心するんですよね。


見慣れた交差点、見慣れた踏切、
見慣れた友達の家、見慣れた山や川。


その思いは、高校を卒業してふるさとを離れてから
さらに強いものになりました。



小さな町で、豊かな自然と豊かな心を持った人たちに囲まれて育ったことが
僕の体に、記憶として染み込んでいるからなんですね。


夜になると満天の星空が広がり、うるさいくらいのカエルの大合唱がはじまり
自然にねむりに導いてくれる。


何もないと思っていたけど、全くそんなことはありませんでした。


思いやりがあって、当然のごとくやさしい気持ちを持っていて
純情に生きている人たちがすむ町。


雪が積もった朝は、たいがいどこかの田んぼに車が突っ込んでる
のどかな風景。


畑ではたらているおばちゃんに挨拶したら
最高の笑顔で、挨拶を返してもらえることの喜び。


僕の個人的な意見ですが、

人の心が大きく動かされるときは、人の心に触れた時だと思っています。



このストーリーを書きながら、色々と思い出していると
出会ってきたステキな人たちに感謝の気持ちしか湧いてきませんでした。


たまには、クッソ腹立つ人もいたりしましたが
そんなこと気にせずに生きてくることができました。


僕が出会った人たちの心に触れ、心を動かされ
良い方向に導いてもらえたからだと思っています。


急に、何やら壮大な話になりますが、


僕は、この経験を何とか一つの形にして僕と同じように、
よき人に触れ豊かな心を育んで人生を過ごしていける人が

一人でも多くなるようなシステムを作りたいなと考えています。


インターネットは、今後も加速し続けていくでしょう。
その反面、人と人との関わりも形を変えはじめています。


単純に昔は良かったというのではなく、
時代にマッチしニーズのある人と人とのつながりを何か形にしたいと考えています。



そのためにはお金が必要ですし
様々なことを学んでいかなくてはいけません。


イバラの道ではありますが、
残りの人生の時間を使って、どんなに小さくてもいいから
人が笑顔になることにつながることのお手伝いができる人生を送りたいなと思っています。




まとまりのない、長い文章ではありましたが最後までお読みいただいて
本当にありがとうございます!!


最後に、兄にもらった僕の好きな言葉を。


新しき計画の成就は、只不屈不撓の一心にあり。
さらばひたむきに、只想え、気高く、強く、


一筋に。


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