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14/7/24

普通の主婦の普通じゃなかった半生 (実話自伝)登校拒否〜身障者〜鬱病からダイバーへ 総集編

Image by Olia Gozha

写真、私が撮った海。



母へ。



写真、東映時代劇女優だった頃の母。



母の子供時代〜母の女優時代〜両親の結婚まで。




母の女優時代。


私の母は昭和30年代、そこそこ名の知れた女優でした。

京都でスカウトされて東映京都撮影所の時代劇女優になりました。

美空ひばりさんや大川橋蔵さんと共演している写真やDVDが何枚か残っています。

とはいえ、テレビが各家庭に普及する前の古い話しなので、今となっては知らない人がほとんどだと思うけど、テレビの美空ひばりさん特集を見てると、今でも母がチラッと写ったりするので美空ひばりさんの特集番組はそれを楽しみに見たりします。

その頃は今のテレビのドラマを作るような感じで映画を量産していたらしく、美空ひばりさんと共演した作品は数え切れないほどあったと聞きました。

でも、母は美空ひばりさんを良くは思ってなかったみたいです。

なぜかというと美空ひばりさんに人気がありすぎて、母はいつも二番手で主演をはれなかったから悔しかったのでしょう。

その頃の東映時代劇は派閥があって、他の派閥の映画には出演ができなかったから、母の主演作は数えるくらいしかなかったと言っていました。

それでも、美空ひばりさんと母は仲が悪かった訳ではなく母の家に遊びにいらしたこともあるそうです。

美空ひばりさんのお母さんは有名なステージママだったので、母のお母さん、つまり私の祖母が作る家庭料理を喜んで食べてくださったと聞いています。

美空ひばりさんの歌はとてもすばらしかったと言っていました。

母も歌がとてもうまかったけど、彼女にかなう人は居ないと。

美空ひばりさんが亡くなった時、自分の青春が終わっちゃったと言っていたのをはっきり覚えています。

母が親交があった芸能人で美空ひばりさんと並んで有名な方は高倉健さんです。

高倉健さんの初めての結婚相手だった江利チエミさんとの恋愛中には、母が橋渡しをしたらしいです。

芸能人が表立って男女交際することができなかった当時、メールも携帯も無い時代に、ラブレターの配達や待ち合わせの伝言係などをしていたと聞きました。

高倉健さんは木訥とした感じに見えるけど、お茶目な人だったようです。

私はそんな話しを母から聞くのが好きだったけど、母は過去の栄光に無頓着な人で自分が女優をしていたことすら、ほとんどまわりの人たちに話さなかったです。

自慢めいたことはまったく言わない人でした。

なので、女優時代のことは娘の私ですら断片的に少ししか知りません。

私が小学校の低学年くらいまではテレビで母の出演している映画を何度も観たことがありますが、残念ながらあまり記憶にありません。

芸名は「吉野登洋子」Yahoo!やGoogleで検索すると出演作がいまだに出てきます。

それは、一般人で普通の主婦である私から見るとやはり誇らしいことです。

母は子供である私から見てもとても美しい人でした。



写真 美空ひばりさんと母。



写真 美空ひばりさんと母、美空ひばりさんの後ろ中央です。



写真 江利チエミさんと母、一番右が母です。雑誌「明星」の表紙。





母の子供時代、裕福だった家庭の崩壊。




母は大阪で映画館二つと芝居小屋を経営していた祖父母の五女として育ちました。

9人も居る兄弟姉妹の下から2番目です。

戦争がはじまるまではかなり裕福な家庭だったらしく、兄弟姉妹それぞれに乳母(お手伝いさん)がついていたそうです。

大阪の一等地の町内すべてが祖父の土地での何不自由ない暮らし。

母はそんな環境でわがまま放題に育ちました。

幼い頃のそんな優雅な暮らしは私の知る母の性格の元になっていて、いつまでも抜けきることはなく、どこか浮き世離れした感じは良い意味でも悪い意味でも母にずっと残っていました。

負けん気が強く、気分屋、プライドが高くて、人に厳しい。

その分、人を頼りにしたり甘えたりはまったくしなく、人扱いも上手で自分にも厳しい人。

だけど、裕福な暮らしはその後長くは続きませんでした。

戦争がはじまって奈良の田舎に疎開しているうちに映画館も芝居小屋も国の軍事施設としてつかわれ、戦争が終わった時は焼け野原になっていて、祖父や祖母と母たちが疎開から戻った頃にはどこからどこまでが自分の土地かもわからなくなっていました。

焼け出された人たちがすでに生活していて、お坊ちゃまだった祖父には手の打ちようも無く裕福な暮らしから一変し祖父母はすべてを失いました。

ただ、裕福だった頃に祖父母は母たち兄弟姉妹に楽器や日本舞踊や歌を習わせていたので、それが、「芸」が唯一の財産として残りました。

それで祖父は「吉野舞踊団」という女性だけの劇団を立ち上げ、日本全国を巡業しそれで生計をたてることを思いつきます。

映画館と芝居小屋を経営していた祖父には劇団を立ち上げるためのつてだけは残っていたのでしょう。

吉野舞踊団は今でいう劇団とは違ってとても華やかなものだったらしいです。

宝塚みたいなものなのでしょうか?

歌あり、踊りあり、お芝居あり、劇団員もたくさん居たと聞いています。

テレビが無い時代の数少ない娯楽、吉野舞踊団の旗が上がるとその町の人はとても楽しみに舞台を待ってくださっていたみたいです。

今でもこれだけの時間が過ぎても80歳以上の年配の方は覚えていてくださる方がいらっしゃいます。

母は女優としてスカウトされる前の少女時代も「吉野美人三姉妹」として衆目を集めていました。



写真、私が一番好きな若き日の母の写真です。


写真 一番右が私を妊娠中の母、一番左が父、父の右に居るのが祖父母です。




私の誕生、そして父母の離婚。





母はそんな非凡な環境で大人になり7年間の女優時代を経て、女優時代に知り合った父と結婚をしました。

父は東京の人でしたが、京都の立命館大学時代にエキストラとして東映の撮影所でバイトしていて、そこで母と知り合ったそうです。

父は撮影所の照明さんの偉い人と面識があり、その人に母との仲介を頼んで出会い、母が当時付き合っていた彼氏と芸者さんの間に隠し子が居たことで、(その当時は珍しくないことだったようです。)

たまたま傷心中だった母の心をするっとつかんだのが付き合うきっかけと聞いています。

ちょうどその頃、娯楽は映画からテレビへと移っていく時代で、東映の社員だった母は五社協定(東映以外の映画などに無断で出演してはいけない。)で女優を続けるか迷っていたようです。

母は女優を続けることよりも平凡な結婚生活での幸せを夢見て父と結婚しました。

少女の頃から芸事をし、人前に立ち、芸能界に長く居て、芸能界に疲れていたのかもしれません。

女優で居ることへの執着はまったくない人だったから。

結婚を機に母は女優をやめ、父と東京に移り住みます。

そして私を妊娠し、出産しました。

でも、それは母の思い描いた幸せな結婚とはほど遠いものだったのです。

逆にそこから母と私の苦難がはじまりました。

父はとても人が良い男性だったようなのだけれど、ものすごく女癖が悪かったのです。

私がまだ生まれたばかりの頃です。

こともあろうに父は母の妹と不倫関係になりました。

その時の母の心中を思うと娘である私が考えても同情します。

どんなに腹が立ったか、悲しかったかと思います。

父をなじることはできても、実の妹への嫉妬心はやり場がありません。

母の高かったプライドはズタズタに引き裂かれ地に落ちたでしょう。

人前で感情をあらわにしない凜とした性格の母です。

泣くことすらできなかったんじゃないかと思います。

でも、その時はまだ生まれたばかりの私のために、もう二度と会わないのなら。。。と許すしかなかった。

それがどれだけ辛かったかは容易に想像できます。

父と母の妹は母の前で、もう二度と会わないと誓ったそうです。

なのに、懲りない父は母に隠れて母の妹との関係を続けてしまいました。

自分の父親ながら呆れます。

それがまた母にわかった時、母にはもう父と結婚生活を続ける意思はありませんでした。

母はある日、父と住んでいた家を私と少しのお金とスーツケース一つだけ持って飛び出しました。

調停も慰謝料も無しに、私の養育費さえ請求せずに家出したのです。

私がまだ一歳にもならない時でした。

たった二年の結婚生活でした。




私のかなり変わった子供時代。




そういう訳で母と私は母子家庭になりました。

だけど、母と二人きりの生活ではなく、母は祖父が続けていた吉野舞踊団に戻りました。

それしかスーツケース一つだけ持って家出した母と私が生きていく方法がなかったのです。

吉野舞踊団はかつての華やかさは無くなってはいましたが、その頃はまだ生計を立てていくことのできる劇団ではあったようです。

母の姉たちとたくさんの劇団員がいるそこで私は幼少期を過ごすことになりました。

私は吉野舞踊団の大人たちの中のただ一人の子供でした。

そこで母の姉たちや劇団員の人に面倒をみてもらいながら育ちました。

舞台メイクをした白塗りのお化粧の大人たちの顔が私が見る普通の顔でした。

幼少期、私が起きている時に見る風景は華やかな舞台と、舞台衣装と舞台メイクをした母や叔母たちや劇団員の人たちで、みんなが仕事を終えてお化粧をおとす頃には眠っていたのでしょう。

一般的な子供がするような遊びをした経験はありません。

公演をしては移動の慌ただしい毎日、それでもまわりの大人たちはたった一人の子供である私を可愛がってくれました。

昼と夜の公演の合間でしょうか?

白塗りのお化粧で浴衣をまくった姿のままの叔母が私をプールで遊んでくれている写真が残っています。

2歳の私はそのプールにあったペンギンの噴水の一つが壊れていたことを覚えています。

遊んでもらえる時間などなかった私に、そのプール遊びがきっと一番楽しい時間だったんだと思います。

だけど、母に抱いてもらったり、遊んでもらった記憶はありません。

母は「お母さん」にまったく向いてない人でした。


日本全国どさ回り、安住の地も家もありませんでした。



写真、幼稚園時代の写真が無いので多分1歳半くらいの私と叔母。

私がこの頃見る大人はみんなこんなメイクをしていました。


写真 母と私。やはり白塗りのメイク姿の母です。

幼稚園入園前くらいの時。




見知らぬ土地への定住と子供らしくなかった私の幼稚園時代。




一時はたくさんのお客さんを呼び活気にあふれていた「吉野舞踊団」は、テレビがどの家庭にも当たり前に普及されるとともに、時代の波に押されてどんどん衰退していきました。

東京オリンピックが大きなきっかけだったと聞いています。

それでも祖父母と叔母たちと母と残った劇団員の方々は吉野舞踊団を細々と継続していたのですが、私が幼稚園に入る頃には続けていくことも困難になっていったようです。

それで、叔母のファンでスポンサーが居た縁もゆかりもない岐阜市という地に住むことになりました。

小さな借家に祖父母と叔母二人と母と私、6人暮らしです。

母と叔母たちと残った劇団員の人たちは大きな舞台で公演することは出来なくなり、場末のキャバレーの舞台で芸を続けるしか生きていく手段は無くなっていました。

どんなにそれが辛くても生きていくために他に手段が無かったのです。

当時のキャバレーというところはけっこう広くてダンスホールとキャバクラを足してそこに舞台があるような感じの場所でした。

小さかった私はキャバレーの照明室でキャバレーの中をよく眺めていました。

色とりどりの綺麗なドレスを着て厚化粧をした女性たちが、酔っ払いの男性たちに愛想をふりまきながら接客をする姿をいまだにはっきり覚えています。

高い場所にある照明室から見る薄暗いキャバレーの中に溢れる女性たちはひらひらしたドレスは泳ぎ回る金魚すくいの金魚みたい。

男性たちはその金魚を一生懸命すくおうと金魚すくいを持って綺麗な金魚を追い回している人のように見えました。

そんな光景が私の幼稚園に入った毎日の普通でした。



華やかな日々をおくっていた母がキャバレーの舞台に立ち、酔っ払いのろくに舞台も見ていない男性たちの前で芸を続けることはとても屈辱的なことだったと思います。

それでも巡業を止め私を幼稚園に入れたのは子供らしい日々を過ごさせたかった母の親心だったのでしょう。

だけど、一カ所に定住したことも無く、同世代の友達が居た経験も無い大人ばかりの特殊な環境の中で育った私が、いきなり子供だらけの幼稚園に入れられて順応できる訳はありませんでした。

自分と同じ年齢の子供たちとどう接していいのかわからない。

子供って無邪気なようで残虐です。

大阪人の家族のもと、大阪弁で育った私の言葉からして岐阜市の他の子には異質でからかわれました。

幼稚園に行っても徹底的に仲間はずれにされる毎日、他の子が楽しそうに遊んでいても「仲間に入れて。」と、その一言さえ言えなかった私は完全に孤立していました。

みんなが遊んでいる姿を遠くから膝を抱えて見ているだけの日々。

そんな日々は私にとって苦痛以外の何ものでも無かったです。

幼稚園に行かなきゃいけない朝が来るのが恐かった。

なんで行かなきゃいけないのかわからなかった。

朝になるたびに毎日毎日、登園拒否をしていました。

私を可愛がってくれていた母のすぐ上の叔母は、幼稚園バスに断固として乗るのを拒否っていた私を自転車に乗せて幼稚園まで連れて行ってくれましたが、私は門の前でいつも泣いていました。

叔母の困った顔を覚えています。

小さな私にも叔母が好意でしてくれていることがわかっていました。

叔母に悪いことをしている、どうしよう、、、

そう思えば思うほど、悲しくなって泣いていました。

せっかく入れてもらった幼稚園に私はほとんど行きませんでした。

行けませんでした。

私はずっと自分も子供なのに他の子とどう接していいのか?わからない子供のままでした。



小学校入学、本格的な登校拒否。



そんな子供のまま私は小学校入学を迎えました。

私が小学生になった頃、とうとうやっていけなくなった吉野舞踊団は解散に追い込まれました。

歌のうまかった母は小さなクラブで歌手としての働き口を見つけ、そこで働き始めました。

ホステスだけは嫌だった母の最後のプライドだったと思います。

劇団長をしていた年長の叔母はファンでスポンサーだった方の支援のもと、お弟子さんを集めてもらい日本舞踊の指導をはじめ、母のすぐ上の叔母は観光ホテルのフロントの事務職の仕事につきました。

叔母たちはそれぞれ一緒に住んでいた借家を出て、私は母と祖父母と私の4人暮らしになりました。


私の面倒をみてくれていたのは祖父母でした。

とくに祖母は私の母親代わり、いや?実質母親でした。

私にとってかけがえのなかった存在、それは間違いなく祖母でした。

母は他の子供たちと違う私をどう扱っていいのかわからなかったように思います。

私を持て余していたように思います。

「なんで、あっちゃんは子供らしくできないの?」

そう母からよく言われました。

そんな母に私は懐いていませんでした。

母が「ママ」なのはわかってる。でも私にとってのお母さんはおばあちゃん。

私は祖母が大好きでした。

祖母は根っからの関西人で、冗談ばかり言い笑顔を絶やさない底抜けに明るい人でした。

どんな時も祖母は私の前で哀しい顔も困った顔も見せませんでした。

祖母の前では子供らしくなかった私も無邪気でいられたし、いつも私を全力で笑わせてくれました。

母は9人兄弟の下から2番目だったので、その頃すでに祖母は70歳を超えていて、私の面倒をみることはかなり大変だったと思うのですが、炊事、洗濯、掃除すべてを当たり前のようにしてくれてました。

しんどかっただろうけど、キツそうな顔も一度も見せたことはありませんでした。

何より無償の愛情でいつも私を包んでくれたのが祖母でした。


私は小学生になっても相変わらず学校に行けずにいました。

登校拒否という言葉もなかった時代の登校拒否です。

祖母は学校に行かない私に一切何も強要はしませんでした。

大好きだった祖母に心配をかけるのは嫌だったけど、私は子供たちの中に入っていくのが相変わらず恐かったのです。

まったく学校に行かない私を母は腹を立てて殴ったことがあります。

その時はタオルが真っ赤になるくらいの鼻血が出るほど何度も何度も殴られました。

母もどうしていいのかわからなかったのでしょう。

だけど、その時の私には母はただ恐いだけの存在でした。

祖母は私の前に毅然と立ち、盾になって私を守ってくれました。

そして、殴るなら自分を殴りなさいとまで言ってくれました。

私はいつもそんな祖母の後ろに隠れていた子供でした。


母とは当時、というかそれからずっと長いこと大人になるまで、親子らしい会話をした記憶さえほとんどありません。

子供時代は母の顔を見ることすら希なことでした。

母がクラブで歌手として生計をたてることになってから、私が起きて家に居る時間に母は眠っているか家に居なかったからです。

その頃から借家やアパートを何度も引っ越して転々とする生活がはじまります。

同じ家に2年と居なかったと思います。

理由はわかりません。

母のなんらかの事情でしょう。

仕事の都合というには、あまりに近距離な引っ越しを繰り返していたので借金があったのか男性関係なのか、そんなところだろうと思います。

その度に転校していた私は友達など一人もいませんでした。

こんな田舎でただでさえ目立つ転校生、引っ込み思案だった私は自分から人の中に入っていくことはできませんでした。

小学校に行ったのは6年間で半分もなかったと思います。

家に引きこもり本ばかり読んでいる子供。

今でこそ珍しくないと思いますが、当時はそんな子は居ませんでした。

小学校6年生の時に担任の先生が家に来て言いました。

「この子は自閉症だから、このままでは義務教育を精神病院に閉じ込めて受けさせなくてはいけません。」

神経症ではなく精神病だと思われていたのです。

精神病院の鉄格子の中で隔離されて義務教育を終えろと。

本当の話しです。

その頃はそういう認識だったのでしょう。

その話しを聞いた私は無理にでも学校に馴染まないと閉じ込められるという恐怖感でいっぱいになりました。

それで、精神病院に入れられるのが嫌で次の日から勇気を出して登校しはじめました。

不登校=精神病院、今、考えるとひどい担任ですが、そのおかげで学校に行けた訳です。


学校に行くのは苦痛でした。

でも、行かなければ精神病院に入れられ祖母と離れなくてはいけない。

そんなところには行きたくない一心で頑張って登校しました。

幸いお母さんがわりだった祖母の底抜けの明るさで育ててもらった私は、一度馴染むことさえできれば、慣れることさえできれば、明るい性格の子になっていました。

学校に何とか通うことさえできれば、最初の段階の仲間はずれさえ克服すれば、嫌われる性格ではなかったのです。

小学校6年生、私ははじめてまともに学校に行きました。

引っ込み思案な性格も少しだけ治っていきました。

孤立することも少なくなり、同級生と普通に接することができるようになりました。

普通に接してもらうこともできるようになりました。


写真、祖父母


登校拒否をなんとか克服できた私は、中学生になりました。

学校に行けるようになったとはいえ、相変わらず学校は嫌いでしたが。

それでも休みがちだったけれども引きこもることは無くなっていました。

勉強は中の中、お利口さんではなかったし、スポーツも苦手で出来の良い生徒ではなかったけれど。


だけど、学校に行くことに馴染んだ矢先、中1の夏に祖父が亡くなり、後を追うようにして私の誕生日に、大好きな祖母があっけなく亡くなりました。

風邪をこじらせての肺炎、入院してたったの3日で、、、逝ってしまいました。

祖母は81歳になっていました。

後になって思うに高齢で、決して早い死ではなかったのだけれど、亡くなる寸前まで明るくて、年寄り扱いされるのが嫌いで、身綺麗にしていて、ちゃきちゃき家事をこなしてくれていた祖母。

疲れた様子やしんどそうな様子は一度も見せたことが無かった祖母。

中学生になったとはいえ、13歳の子供だった私は祖母はそのままずっとそばに居てくれるものだと思っていました。

突然の別れ。

学校の教室で祖母の死の知らせを受けた時、私はただただあっけにとられていました。


嘘だ! 


信じられませんでした。

まだまだ子供だった私には受け入れることのできないことでした。

でも、それは変えることのできない事実でした。

祖母の亡骸に会った時、祖母の死を現実として突きつけられた時、

悲しいというより私は「無」の無限の中に放り込まれたような心細さを感じました。

私の唯一無二の味方、いつも冗談ばかり言って笑わせてくれた、自分のことなどおかまいなしに私を守り通してくれた祖母。


おばあちゃん、おばあちゃん。

もう、笑ってくれないの?

もう、話してくれないの?

もう、一緒に居てくれないの?

もう、もう、もう、、、


悔しくて仕方なかった。

おばあちゃんを連れて行ってしまった死というものを憎みました。


ありがとうの言葉も一度も言えないまま、孝行の一つもできないまま、祖母は逝ってしまいました。

祖母を亡くした痛みは何十年過ぎた今も胸にのこっています。

大事な大事な人を亡くしたやり場の無い痛みです。


それでも私はその時一度も人前では泣きませんでした。

なぜだか泣けない子供になっていたのです。

母の前ですら泣けませんでした。

私の中で母は家族であって、家族でない存在になっていました。

私は一人部屋にこもって声を殺して泣き続けるような、そんな子供でした。


私を守ってくれる人は誰も居なくなりました。

そこからまた、引きこもりと登校拒否がはじまりました。



引きこもりとひとりぼっちの生活のはじまり。



祖母を亡くしてからはひとりぼっちの生活がはじまりました。

どんなに寂しくても、頼れる人は誰もいません。

母は夜はクラブの歌手を続けていましたが、夜から昼間の仕事に変わりたかったのでしょう。

昼は知り合いのブティックに勤め始め仕事に忙しく、そしてまだ若かった母には恋人が居たので、私と一緒の時間を無理にでも作ろうとはしなかったからです。

経済的に自分と私の生活を守っていくのが母にとって精一杯で。

母も必死だったのだと思います。

帰って来ない夜もありました。


祖母が亡くなってからの私はまったく学校に行かなくなりました。

誰とも口も聞かず、閉じこもる日々でした。

その頃から読書にのめり込んでいきました。

私には本だけが信頼できる友達でした。

本の中の世界の偶像を自分の中に投影して現実から逃避していました。

非現実の世界の中で生きていないと、現実の世界は子供が生きるには辛すぎるものでした。

それでも母が帰ってこない夜には、このままずっとずっと一人きりなのかな?

そんな不安でとても心細かったです。

そんな時には絵を描きました。

海の絵です。

幼い頃、一度だけ連れて行ってもらった海が深く心に残っていて、私は海に憧れていました。

海に思いをはせていると寂しさから逃れられたのです。

青の世界を夢見て、青い絵の具で海の絵をたくさん描きました。


そんな海への憧れが、ダイバーになりたいという夢の原点だったと思います。


写真 15歳の私。



深刻な登校拒否とネグレクト



また学校に行けなくなってしまった。

今から思うとこれが最初の鬱病だったのでしょう。

祖母を失った心の穴は大きく暗く深いものでした。

そこに入り込んでしまったらもう出てこれないブラックホールのような。

行き着く先に光の見えない黒くて真っ暗な闇です。


中学2年、私はトータルして1ヶ月くらいしか登校していませんでした。

あとの11ヶ月は自分の部屋にこもり、誰とも、必要なこと以外は母とも口をきかない日々でした。

だけど、小学生の時のように完全に家に引きこもることはできませんでした。

祖母が亡くなって家事をしてくれる人が居なくなったからです。

もう私を甘えさせてくれる人は誰もいません。

最低限スーパーや図書館には出かけないと、食料も本もありません。


炊事、洗濯、掃除、そのどれもが私の仕事になりました。

特に炊事、食事は切実な問題でした。

母はまったく家事のできない人だったので料理を作ってもらったことは数えるくらいしかありませんでした。

1日に1食、店屋物をとってもらえればいい方、それで食事がとれる、そんな生活でした。

母からまとまった生活費をもらっていた訳ではない私は食べ物を買うお金をあまり持っていませんでした。

その頃の母はそれくらい私に関心がありませんでした。

母も自分の母親である祖母を亡くした悲しみと、生活に追われる日々で神経がおかしくなっていたのかもしれません。

娘である私に食事をさせる、そんな当たり前のことすらその当時の母にはできていませんでした。

母がテーブルに置いてくれる1000円それが私が生活するすべてのお金でした。

食事以外の生活必需品や銭湯代も含めてです。

毎日じゃないその1000円で次にお金を置いてくれるまでの自分の生活をしていかなければいけなかった訳です。

コンビニやお弁当屋さんなど無かったその頃、スーパーに行き安い食材を買い祖母の作ってくれていた料理を見よう見まねで自炊し食いつなぐしかありませんでした。

今思えば母は育児放棄、ネグレクトでした。

私は銭湯代をうかすためにシンクの水で身体と髪を洗っていました。

それでも、母は無関心だったし、私は私で母に抗議するどころか会話をしようともしませんでした。

母は私にとってそれほど遠い存在だったのです。

特に反抗期に入っていた少女だった私にとって、奥さんが居る恋人を持つ母を見るのも嫌でした。

母の恋人は私にほんの少しの愛情も持っていなかったし、私はその人が大嫌いでした。

今、思っても何故、美しくて男性にモテた母があんな人を何年も恋人にしていたか不思議です。

生活の援助をしてくれる訳でもない普通のサラリーマンで、見た目もぱっとしなくて、面白い訳でも優しい訳でもない。

母は母で逃げ場が欲しかっただけなのかもしれません。


中学校に行けるようになったきっかけは皮肉なことに、中2の終わり頃の近所への引っ越しでした。

昼夜問わず働いて貯めたお金で母がブティックを経営することになったのです。

クラブ歌手の仕事も辞めた母は、それで生活を立て直すつもりだったのでしょう。

そして、母も心機一転してそれまでの薄暗くて狭くてお風呂もなかった環境から脱出したかったのだと思います。

引っ越した先は真新しい南向きの一軒家ではじめてお風呂のついた借家でした。

それまでは北向きの薄暗い部屋に閉じこもり、シンクで身体を洗っていた私にとって毎日入れるお風呂のある明るい部屋は新鮮でした。



幾度となく繰り返された転校。



けど、また転校。。。母は私が転校した先でうまくやれるか?など考えもしなかったと思います。

幼稚園から通算して5回目の転校でした。

娘が何を考え何がしたいか?そういうことに母はまったく興味がありませんでした。

転校に転校を重ねさせることにも、それが娘である私にとって大変なことだとは一切思ってもなかったと思います。

でも、その時の転校は結果的に私にとって環境を変える良いきっかけになったのです。

心の闇に引きずり込まれそうになっていた私にとって、新しい環境はその先につながる光へと導いてくれるものでした。


うんざりしながら行った新しい学校で私はとても面倒見の良い同級生に巡り会いました。

その子は学校に行かない私をとても心配してくれました。

私にとってはじめて自分を心配してくれる子でした。

学校に行けばいつも私のそばに居てあれこれ世話を焼いてくれました。

とても人なつこく優しい性格のその子は私が他の子となじめるように一生懸命になってくれました。

なかなか心を開けなかった私だったのに、その子は友達として私を認め好きになってくれたのです。

そんな彼女に私は少しづつ心を開いていきました。

彼女がしてくれることに答えていかなきゃ!と思うようになりました。

そして彼女は私の初めての親友と呼べる存在になりました。

彼女に心配をかけたくなくて、私はまた徐々に登校するようになっていきました。

彼女は今でも私の大事な友達の一人です。


彼女のおかげで学校に行けるようになったそれは間違いないのですが、もう一つ、恥ずかしい話しですが学校に行けば給食が食べれることも大きかったです。

新しい家に引っ越したからといって、母が食事を作ってくれるようになった訳ではなかったから。

食べることに困っていた私にとってそれも学校に行くきっかけになったことでした。

誰かにご飯を作ってもらえること、たとえそれが給食であっても、それは私にはとてもありがたいことだったのです。

残った給食をもらって持ち帰り食べるものを安く作り、洗濯をし、掃除をする。

そんな中学2年生でした。

本物の主婦である今よりも頑張っていたかもしれません。

その頃はもう寂しがっている暇はありませんでした。

グレる余裕もありませんでした。

14歳の私はただただ生活するのに必死でした。

その頃の私の憧れは清潔な家に、暖かい食事が用意されていて、ふかふかの洗濯物が綺麗にたたんである生活、それをしてもらえること。

主婦になった今もそれは強迫観念のように私の中にあって、手作りの暖かい食事を毎日用意することと、常にふかふかの清潔な洗濯したてのバスタオルや衣類が綺麗にたたんであることがを幸せの象徴みたいに思っています。

当然のようで私には当然でなかったことだったから。



初めての彼氏



写真 15歳、初めての彼氏ができた頃。


笑えなかった私が笑えるようになっていました。



そんな毎日をおくっていた私にも悪いことばかりだった訳ではありませんでした。

私が転校した先の中学校は12クラスもあり、1学年に500人近くも居るマンモス校でした。

私が中3になった時、中2から中3にかけてクラス替えがあり、転校生だった私だけじゃなく、クラスのみんなが知らない子とミックスされたのです。

それで、私だけ浮いた存在では無くなりました。

そして、何より驚いたのは私は異性にそこそこ人気があったのです。

これは謙遜でもなんでもなく、異性を意識する心の余裕なんてそれまで私にはなかったから。

中3になってすぐ、修学旅行がありました。

その修学旅行の東京に向かう新幹線の中で男の子から「付き合ってくれる?」と告られたのです。

その男の子はクラスの中で私もいいなと思っていた子でした。

それで、その場でOKしてカップルになりました。

片思いも経験せず、いきなり彼氏ができたのです。

幸運でした。

実は中学生になってからそれまでも2〜3回、知らない男の子から告白されたことはあったのですが、生活でいっぱいいっぱいだった私はそれどころではなかったし、付き合うといってもそもそも学校に行ってなかったのでお断りしてました。

でも、中3のその時は私にもちょっと遅い恋心が芽生えはじめた矢先だったのです。

げんきんなものです。

はじめてあんなに嫌だった学校に行くことが楽しくなりました。

学校に行けば彼と会えます。

彼はとても明るい人柄で、勉強もスポーツもできて長身のモテ男で、クラスの中心人物でした。

その彼が私を選んでくれたことは驚きだったけど、私の自信になりました。

自分に自信を持ったことなんてなかったのに。

だけど、彼氏ができたからとはいえ、それまで友達付き合いもろくにしてこなかった私には彼とどう付き合っていいのか?あまりわかりませんでした。

とりあえずはじめた交換日記と、たまに夜中にこっそり話す電話(彼の親御さんが厳しかったから)それから、一緒に帰ることや、自転車の二人乗りで彼の腰に手を回すこと、それくらいがいっぱいいっぱいで。

淡い可愛い恋でした。

でも、その彼のおかげで私は学校を休まず彼に会いたいがために毎日登校するようになりました。

これはここに初めて書くことで、その彼も知らないことです。

不登校が完全に治ったのは彼のおかげでした。

学校に行けるようになった私はどんどん元のおばあちゃん譲りの明るさを取り戻していきました。

祖母がブラックホールの向こう側に引っ張り出してくれたみたいに短期間で私は変わっていきました。

友達も男女問わずたくさんできていきました。

はじめて同級生たちと接することが楽しいことだと思えるようになったのです。

その頃の友達が今も大事に数人残っています。

彼とは中3の4月から高1の夏休みまで1年4ヶ月も続きました。

たった1回のKISSだけの恋でしたが、私には大切な優しい想い出です。

初恋でした。



写真、16歳の私。

少々すさんでいた頃です。




物心ついてからはじめての父との対面。



話しは少し戻ります。

中1だったか中2になっていたか、はっきり覚えていませんが、赤ちゃんの時に両親が別れてから一回も会ったことも話したこともなかった父と初めて会いました。

母は父に慰謝料も養育費もいっさい貰わずに親権だけとって離婚したのですが、連絡はたまに取り合っていたのでしょうか?たまたま連絡を取ったのでしょうか?それすらわかりませんが、ある日突然、母が「パパの弟に会いに横浜に行こう。」と言い出したのです。

母は私に父は交通事故で亡くなったと嘘を言っていました。

だけど、私を育ててくれた祖母は私に一切嘘をつかない人で、幼稚園の頃から「あっちゃんのパパは浮気してママと離婚して東京に住んでいるんやよ。」と教えてもらっていたので、私は母にずっと騙されたフリをしていたのです。

子供って意外とバカじゃなくて、本当のことはよく理解はできなくてもわかるものです。

浮気とか離婚とかわからなくても、祖母が本当のことを言ってることと、なんだか事情があって父が居ないんだってことと、それは秘密にしておかなくてはいけないことなんだって理解してました。

なので、「パパの弟に会いに行く」=「パパに会いに行く」んだな、ということはすぐにわかりました。

母と二人で旅をするのはその時がはじめてだったのですが、私も父がどんな人なのか?とても興味がありました。

会ってみたいと思いました。

それで「パパの弟に会いに」母と横浜に行きました。

父とは横浜グランドホテルで会いました。

正直なその時の感想を書きます。

あー、この人が私のパパなんだ。

へぇ、太ってるな。趣味の悪いスーツ着てる。

何、話していいのかわかんないな。

知らないおじさんだ。

そっか、パパの弟ってことになってるんだった。

なんで今までほっといて急に会ってみようと思ったのかな?

それだけ、です。

そんなもんです。

だって、何一つ想い出が無いんだから。

テレビのご対面番組で生き別れた親と抱き合って号泣してる親子を見たことがあったけど、血縁とはいえ、どんな事情があったとしても、なんで見知らぬ人といきなり会って号泣できるのか?

正直、いまだに不思議です。

実際は私の場合は何の感情もありませんでした。

憎しみも愛情も嬉しさも悲しさも感動も複雑な感情も何もなかったです。

私が変わっているのかな?

心の中で、この人が私のパパなんだ、そっか。

そう思っただけで、特別笑いも泣きもしなかったです。

でも、会わせてくれてよかったとは思いました。

だって、小学校の頃、学校でお父さんの絵を描きましょうと言われても描けなかったし、お父さんのことを作文にしましょうと言われても書けなかったから。

父について何も知らなかった私が自分で父と実際に会って、ああこんな感じの人なんだ、そうわかっただけでも大きな前進でした。

父も笑いも泣きもしませんでした。

父がその時どう感じたか?は不明です。



短かった高校生活と母の自己破産。



中学3年生、はじめてまともに登校し充実した学校生活をおくっていた私でしたが、高校受験を迎えた時、それまで不登校で学校に行ってなかった私の成績は当然良くはありませんでした。

中の中の中、そんなところです。

それでも中だっただけ自分を褒めてあげたい感じですが。

担任の先生の私への評価は激悪でした。

そうでしょうね。

ずっと不登校でその頃は少なかった母子家庭でしかも不純異性交遊です。

その頃付き合っていた初彼との交際は前に書いたように純真なものでしたが、先生の目にはそうは写っていなくて不良の私が出来の良い彼を悪い道に誘っている不純異性交遊、そんなふうに見えていたみたいです。

実際、私だけ職員室に呼び出されて、「あの子(彼)はあなたとは違う良い家の勉強もできる子なんだから、邪魔をしてはいけません。別れなさい!」そう言って怒られました。

私の不登校は引きこもりとは思われていなくて、ズルして学校を休みまくって遊び回っている不良の子。

そう思われていたのです。

高校受験を迎えた時、当然、担任の先生が私に親身になってくれる訳はなかったです。

中の中の中の滑り止めの私立の普通科を受験することを勧められました。

母は私の受験に何の興味も無く、どんな学校があるのかさえ調べようともしなかったです。

ただ、高校だけは行かせなきゃとは思ってくれていたようでした。

私が行きたかったのは偏差値の高い高校の美術科でした。

引きこもっていた時によく絵を描いていた私は美術の成績だけは良かったのです。

美術の先生にも気に入られていました。

美術の先生は合格できる、頑張れ!と言って後押ししてくれましたが、結果は惨敗でした。

私は中の中の中の滑り止めの私立の普通科に進学しました。


私が高校に入ったのと同時くらいに母が経営していたブティックがあっけなくつぶれました。

母が張り切っていたのは私から見てもわかっていたけど、相変わらず世間知らずだった浮き世離れした母がいきなり経営などできる訳がなかったのです。

どれくらいの借金ができたのかわからないけど支払えない借金だけが残りました。

そして母は自己破産するしか手段がなくなりました。

会話の無かった親子の母からの一歩的な会話は「お金が無い、お金が無い。」それだけになりました。

「あっちゃんの高校の学費が高い。」そう言われた時、私は高校をやめて自立する決意をしました。

もともと親子らしい親子ではなかった母と私です。

行きたかった訳じゃなかった高校です。

私は家を出て、自分で働いて生きていこうと思ったのです。

高1の冬、私は高校を自主退学して美容師になる決意をしました。

特別、美容師になりたかった訳ではありません。

ただその頃、自分で自分を養っていけて働きながら学校に行ける職業が美容師だったからです。

その時の私はとにかく母と離れて暮らしたかった。

私は高校を中退して美容院の寮に入り仕事を始め美容学校に通い始めました。

16歳でした。


写真 高校からの彼氏と私。


高校時代の恋愛と自立。



行きたくはなかった中の中の中の私立の普通科の高校時代の話しを少し書きます。

高校に通ったのは高1の春から冬まで9ヶ月か10ヶ月だけでした。

行きたくなかった高校生活は案の定、面白くないものでした。

でも、その短期間で私は運命的な出会いをしました。

入学したすぐにあった部活の見学会で、私は放送部を見に行きました。

唯一真面目に学校に行った中3の時、私は放送部でお昼の放送を担当していてそれが楽しかったからです。

そこでものすごくかっこいい男の子を見かけました。

彼は一個上の先輩でぱっと見ただけでとても目を引く男前でした。

長身のスラッとした身体に甘い顔立ち。

今で言うと速水もこみちさんによく似ていました。

私は父親も男兄弟も居ない環境でずっと育ったせいか(祖父はいましたが)男男した人が苦手で細くて優しい感じで中性的な甘い顔立ちの男の子が理想でした。

その男の子はドンピシャ私の理想のタイプだったのです。

ひと目見た時から彼は私の憧れの存在になりました。

彼を遠くから見るのが楽しみでした。

彼を見たくて放送部に即決で入りました。

でも、ただ見るだけ。

何か話しができれば心臓はバクバクそんな感じでした。

だって生意気にも私には中学生からの彼氏が居たから。

私の彼氏は頭が良かったので岐阜市で一番いい高校に行って離ればなれになって、家も遠かったのでめったに会うことはなくなっていたけど、私はまだ彼氏のことが好きでした。

そっちはリアルな恋愛。

放送部の先輩はテレビの中のアイドルに憧れるみたいな遠い感情でした。

リアルな恋愛といっても高校生になったとはいえ、まだ幼かった私と彼氏は中学生の時と同じようなお付き合いをしていました。

せいぜい一緒に喫茶店に行って二人きりでお茶を飲んで話す。それが大冒険で。

映画も観に行ったけど二人は恥ずかしいので友達とみんなで、そんな感じでした。

手をつなぐことすらなかなかできないことだったです。

そんな幼い初恋が終わったのは高1の夏休みでした。

フラれちゃったのです。

彼氏の家の近所まで呼び出されて、気持ちが変わった訳じゃないけど別れよう、そう言われて。

バス停まで送ってもらってバスに乗った瞬間、我慢してた涙があふれて止まらなかったのを覚えています。

私は高校が離れて会えなくなっちゃったからかな?そう思っていたけど、後になって聞いた話しでは違う男の子と私が付き合っていると噂になってたからみたいです。

二股をかけられてるって彼氏は思ってしまって、彼は私に確かめることもできず、私は私で何でフラれたのか?も聞く勇気がなくて、それでおしまいになりました。

幼すぎる心のすれ違いですね。

それでもその時はとても辛かったです。


それで高1の夏休みは傷心のまま終わりました。

でも、他のすべてのこと何もかも、生活も散々だった私に神様?は恋愛と友達関係に関してだけは味方してくれました。

失恋して1ヶ月くらい経った秋に文化祭がありました。

私は放送部の3階の部室で校庭で行われていた行事のたしか音楽を流す係をしてました。

その時に偶然、憧れの先輩と一瞬二人きりになりました。

そこで校庭を眺めながら憧れの先輩に言われたのです。

はっきり覚えています。

「俺と付き合ってみる?」と。。。

はっ???

は〜〜〜っ???

ぇ?

ぇぇぇっ???

ドキドキどころかバクバクどころか心臓が飛び出そうでした。

聞き間違い???

いや???言われたな。。。

「はい。」と小さな声で答えるのがやっとでした。

だって彼は私のアイドルだったのに、リアルになったんです。

その小さな「はい。」で私の彼氏になっちゃったんです。

ビックリどころじゃなかったです。

それまでの私の人生で良い意味での一番の大事件でした。

二番目の恋も努力することなく、向こうからやってきました。

恋に関しては本当にものすごく運のいい子でした。

思春期にそんな良い思いをしたことは、他のことがすべてダメでも女の子としてとても幸運なことだったと思います。

恋もダメだったら、私は違う意味でものすごく屈折した子になっていたと思うから。


その彼とは高1の秋から22歳まで7年間も続きました。

私の青春のすべて。

私の初めての経験のほとんどすべて。

何をするにもどこに行くにも一緒だった。

思春期から大人になるまでの、どの想い出にも彼が居ます。

彼は私にとってかけがえのない存在でした。

彼はとてもモテた人だったけれど、どんなことがあっても一途に私だけを大事にしてくれるそんな人でした。



16歳での自立 働きながらの美容学校。



話しはまた前後しますが、高2になる歳に母の自己破産で私は自立を決め、美容院で働きながら美容学校に行き始めました。

その頃の美容院は今と違ってまだ丁稚奉公的な要素が残っていて、技術を教えてもらうかわりにご奉公するみたいな制度でした。

なので、新人は美容室の仕事以外に従業員みんなの食事を作ったり、寮の自分の部屋以外の掃除をしたり、お手伝いさん的な仕事もしなくてはいけませんでした。

朝6時から前の日にお店で使って洗濯したたくさんのタオルの片付けと掃除からはじまり、それから美容学校に登校、学校が終わったらすぐにお店に戻って仕事をし、夕飯の支度や寮の掃除を合間をぬってして、夜はまたお店の掃除とタオルの洗濯をして自分の練習が終わるころには深夜12時。

そんな毎日でした。

美容学校が休みの日曜日は一日中仕事。

美容院が休みの月曜日は美容学校があります。

休めるのは月曜日の美容学校が終わった後の半日だけでした。

大変だったけど、それでも私は充実していました。

自分の力だけで生きていることが嬉しかったのです。

美容学校も楽しかったです。

中卒で私と同じように働きながら通っている子が半数くらい居て、その子たちはみんな私と同じように家庭にいろんな問題を抱えていて自立しなくてはいけない境遇で、たくさん言葉を重ねなくてもわかり合うことができたから。

みんなが助け合いながら生きていました。

私はお給料から学費と寮費と食費を支払っていたので、国?県?からの援助制度をつかっても、月に残るお金はたったの7000円しかなくて、それで洋服や生活や学校に必要なものを買っていたので、いつも慢性的にお金がありませんでした。

学校にあった自販機で飲み物を買うことも贅沢なことでなかなかできなかったです。

でも、毎日、その自販機でコーラを買っては「もう飲めないからあげる。」そう言って半分必ずくれてた友達が居ました。

最初のうちは気づかなかったけど、毎日毎日だったので私にもわかりました。

毎日、私の分まで買ってくれれば私に負い目ができる。

だからその友達は自分が要らなくても買って半分くれてたのです。

私に気をつかわせずに優しくしてくれる。

そんな友達に恵まれて、私は本当に幸運でした。

遊ぶ時間はほとんど無かったけど、短い時間だったからこそ余計かな?

遊べる時間は変な表現かもしれないけど、精一杯遊んでいました。

私を精神的に支えてくれていた彼とのデートも。

お金が無い私に彼氏は手作りのお弁当を作ってきてくれてました。

そんなとても優しい人でした。

会える時間はほんの少しで限られていたけど、私たちは心で繋がっていました。

会いたい時に会えなかったから余計にかもしれません。



いきなり身障者になってしまった私。



美容師になって忙しく貧乏ながらも自立でき、友達や彼氏ともうまくいっていた矢先、また私に災難が訪れます。

美容院で帰られるお客さんを送り出しに外へ出た時のことでした。

ただ立っていただけなのに、いきなり左膝に力がまったく入らなくなりグラっとしてその場で転びました。

一緒に外に出ていたお店の人は「何してるの?」って笑いました。

私も最初は笑おうとしたんですが、転けた途端左膝に激痛が、それも半端じゃない激痛が走り、痛くて痛くてどうやっても立つことすらできません。

足にまったく力も入りません。

お店の人に抱えてもらってとりあえず店内に入り、座って休もうとしましたが曲げることも伸ばすこともできない痛みで、しばらくしても歩くどころか手を添えて痛みをこらえて曲げないと座ることすらできないし、なんとか座っても激痛が治まりません。

それでオーナーにお願いして近くの整形外科に連れて行ってもらいました。

初見でのお医者さんの話しでは膝のお皿のところがすごく腫れている。つかいすぎで水が溜まっているようだから抜きましょう。そう言われて太い注射器をお皿の下まで入れて溜まっていた水を抜こうとしたら、溜まっていたのは水じゃなくて血液でした。

何回も何回も抜いたのですが、出血が止まらなくてキリがないほどで、お医者さんが溜まっていた血を注射器から出していたお皿みたいなモノは私の血液でいっぱいになりました。

どうしてそんなことになっているのかお医者さんにもわからなくて、とりあえずレントゲンを撮りましたが異常なし。

それで、その日は湿布をもらって帰って冷やしました。

でも、次の日になってもまったく膝の痛みは治まらず、自分の意思では曲げることも伸ばすこともできないままの激痛でした。

痛みは自分以外の人はわかりません。

大したことだとは誰も思っていなかったのでしょう。

そんな膝が痛いくらいで、とお店の人には言われましたが、はじめて私はお店を休みました。

オーナーも仕事で忙しく、二日も続けて病院に連れてって欲しいとは頼めず、私はひどく傷む左膝をかばいながら自転車を片足でこいで、一人で病院に行きました。

診療は前の日とまったく同じで溜まっている血をただ抜くだけ。

その日もたくさんの出血がありました。

そして次の日になってもその次の日になってもまた同じ。

ただごとではないと思われた病院の先生は未成年だった私に、保護者の人にお話しがあるから一緒に病院に来て貰ってくださいと言われました。

オーナーに頼んで一緒に病院に行ってもらいました。

そこで病院の先生は私の左膝から出た大量の血液をオーナーに見せて言われました。

「レントゲンに異常は無いのに、こんなに長いこと大量に出血して止まらないのは血液の病気かもしれません。詳しくしらべてみないとわからないけれど、白血病の疑いがあります。大きな病院で検査してください。」と。

驚きました。

白血病といえば死の病です。

膝が痛いのに白血病?

それで、私はまた一人で今度は総合病院に行きました。

そこでも結果は同じ、レントゲンに異常なし、ただ血液が溜まっている。

原因不明。

でも白血病ではないのはわかりました。よかった。。。

何週間か寮の自分の部屋でじっとして回復を待ちました。

曲げ伸ばしが手を添えて激痛に耐えて無理にしないとできないままの状態。

トイレに行くのも松葉杖をついてでも大変で。

お店に出ていない私は食べ物も自分で調達しないといけません。

昼間は彼氏も友達も学校や仕事があります。

手伝ってくれる人は誰もいませんでした。

ただただ治るのを待って痛みに耐えましたが、何週間も過ぎても状態は改善されません。

一月が過ぎた頃、私は美容室を辞めなければいけなくなりました。

いつ治るかわからない原因不明の足の病気で仕事ができない私を寮においておくことはできない。

それで私は美容室を辞めました。

私が自立してから一度しか会っていなかった母のもとに戻るのは嫌でしたが、他に帰る場所はありません。

私は母のもとに戻らざるを得なくなりました。

その頃の母は化粧品のセールスをしていました。

膝が痛いといって戻ってきた娘を仕事が辛いから甘えていると思ったのでしょう。

相変わらず世話はしてくれませんでした。

でも、一月以上かかっても治らない膝の激痛。

私は彼氏に頼んで大学病院に連れていってもらい詳しい検査をしてもらうことにしました。

それまでのお医者さんとは違い、大学病院の先生は親身になってどこがどう悪いか?調べてくださいました。

検査には何週間もかかりました。

その頃はCTもMRIもありません。

単純撮影のレントゲンだけでは異常が見つからないので、膝がぱんぱんにふくれるまで注射器で造影剤を入れて、いろんな角度からレントゲンを撮りました。

レントゲンを撮った後は、また注射器で入れた造影剤を抜きました。

それから、膝を支える筋肉がどこまであるのか?を調べるために膝の周りに針を刺して電極をつけ電流を流し、正常かどうかを調べました。

ただでさえ痛む足にその検査は痛くて辛いものでしたが、それで私の足がどう悪いか?がわかりました。

難しい説明はお医者さんじゃないとうまくできないのですが、膝には太い骨が2本あります。

その内側の骨が私の場合曲げた時に外側の骨より突起していて、その上についている膝のお皿がかなり外向きになっている生まれつきの障害でした。

激痛の原因はお皿を支える靱帯も外側と内側では長さが違ってゆるくて、それで簡単にお皿が外側に外れてしまい、お皿が外れた時に膝の筋が切れてしまったり、軟骨が欠けてしまったりすることによる出血と痛みでした。

そして、膝の上太もも部分の筋肉も普通の半分の長さしかないということでした。

何万人に一人居るかいないか?というかなり珍しい障害で私の検査結果は学会で発表されました。

「治るんですか?」そう聞いた私にお医者さんはこう言いました。

「今の医学では膝のお皿の周りにグルっとメスを入れて靱帯を切断し、お皿を一度取り外してから突起している方の骨を削ってお皿をはめ直し靱帯をつなぎなおすしか手はありません。でも、その手術をした場合、リハビリに1年くらいはかかりますし、たとえリハビリをしたとしても歩けるようになる保証はありません。それと若いお嬢さんには酷ですが膝にケロイド状の傷跡が残ります。」そう言われました。

頭の中が真っ暗になりました。

でも、その後にお医者さんはこう続けて言われました。

「今は転んでお皿が外れた時に傷ついた筋と欠けた軟骨で痛みが激しいでしょうが、半年もすればそれは自然治癒します。そうすればまた歩けるようになります。ただまたお皿が外れれば同じことの繰り返しになりますが、医学は日々進歩しています。それにかけて様子をみますか?」と。

完全に歩けなくなるかもしれないリスクを抱えた大変な手術よりも、私は医学の進歩にかけることにしました。

それまで痛いのを我慢しての松葉杖だった私は、その診断から車いす生活になりました。

身障者として認定してもらい身障者手帳も貰いました。

まだその頃バリアフリー化されていなかった町での車いす生活は予想以上に大変なものでしたが、半年も我慢すれば歩けるようになる。それを希望に頑張るしかありませんでした。

彼氏は私が身障者になっても、変わらずそばに居てくれました。

母は相変わらず無関心でそれほど心配した素振りも見せませんでした。

だけど、後になって家の仏壇の引き出しから私が見つけた紙に母はこう書いてくれていました。

「厚子の足が軽くすみますように。」

気分屋で怒りっぽく私のことなどほったらかしで喜怒哀楽の「哀」を見せたことのない母。

意地っ張りの母が私のことを心配していてくれた。。。

私はその紙をみつけた時、声を上げて泣きました。


働けなくなった私の生活費は母が工面してくれました。

彼氏もバイトして稼いだお金を私のためにつかってくれました。

そして半年が過ぎた頃、お医者さんのおっしゃった通り、私は歩けるようになりました。

ただ、またお皿が外れれば逆戻りです。

4時間以上の立ち仕事禁止、スポーツは水泳以外禁止、走るの禁止、階段の上り下りも極力禁止、制限だらけの生活でしたが、私はまた歩けるようになったことがこの上なく嬉しかったです。

いつ、また歩けなくなるか?わからなくても。


美容師は諦めるしかありませんでした。

そして足がずいぶん良くなって来た頃、私は私にもできる仕事を探しました。

私は唯一の取り柄だった絵を描くことを仕事にしました。

グラフィック・デザイナーといえば聞こえはいいですが、広告やポスターや包装紙やケーキの箱などをデザインする地味な仕事です。

それと、プラスして地方モデルのバイトをしました。

それも、モデルといえば聞こえはいいですが、写真館の店先に飾る写真やカメラマンが写真展に出す写真のモデルや地方紙のモデル、岐阜放送の岐阜だけで放送されるCMのモデルです。一度だけ全国紙のファッション雑誌に載ったことがあるくらいのマイナーなモデルでした。

モデルの仕事は楽な割にギャラが良くて助かったけど、うまい話はありません。

頻繁にある仕事ではなかったです。


写真 モデルの仕事をはじめた頃、当時有名だったファッションアドバイザーの方と。


写真 モデルの仕事をはじめた頃、 これは写真館のモデルです。



長い恋の終わり。



足の障害は治ってはいませんでしたが幸いまた歩けなくなることも無く、日々はすぎていきました。

私は22歳になっていました。

高1からの彼氏とはずっと続いていました。

彼は本当に優しい人で、私の願いをかなえられるだけ叶えてくれていました。

彼が車の免許を取って車を買ってからは、毎週のように海が好きな私を海に連れて行ってくれました。

海の無い岐阜県から海は遠くて3時間以上もかかるのに。

夏は泳ぎに、冬はただ海を眺めに。

彼との想い出の多くは海と海に行く車の中での会話や一緒に聴いた音楽です。

楽しい時も喧嘩した時もなにかといえば海に行きました。

海に行けばどんなことがあっても二人で笑顔になれたし、優しい気持ちになれました。


私たちは高1から7年間、ほとんど毎日一緒に居ました。

まわりはみんな私たちがそのまま結婚するものだと思っていました。

友人たちも母も。

私もなんとなくだけど、そうなるものだと思っていたと思います。

だけど、私はそんな優しすぎる彼を当たり前だと思っていたのです。

私は優しくしてもらえることに慣れすぎて、彼が居てくれることを当然のように思っていて傲慢になっていました。


ある日、突然、別れはやってきました。

彼が悪いのではなくて。

私のせいです。

その頃、私は大学のサークルに入っていました。

学歴のなかった私は大学生活に憧れていたのです。

大学に通っている友人たちが楽しそうで、サークル活動っていうものがしてみたかった。

その大学の学生だった訳でもないけれど、サークルに入れてもらって大学生の仲間になったような錯覚をすること、それがとても楽しかった。

彼はそれに反対でした。

毎日、何をするにも一緒だった私たちが私がサークルに入ったせいでで週一くらいしか会えなくなったから。

どんな辛い時でも一緒に居てくれてサポートしてくれてた彼よりも、私はサークルの楽しみにハマっていき、彼のことをないがしろにしていました。

怒ったことなどなかった彼を怒らせてしまいました。

「そのサークルでの遊びか、俺との毎日かどっちが大事なんだ?」って。

サークルには同年代の男の子たちもいっぱい居ました。

そこで浮かれていた私を彼は許せなかったのでしょう。

男の人が考えて口に出す言葉は真剣なものです。

今はそれがわかるけど、その当時の私にはわからなかった。

私は彼が言った言葉を無視しました。

ちょっと怒っているだけだろう。

そんな軽い受け止め方をしていました。

何日か過ぎた夜、サークルから帰ってきた私の部屋の前まで彼は車でいきなり来て、

彼は私に車の中から「さよなら。」を言いました。

走りすぎるテールランプを見ながら、そこまで言わせても、

私はいつもの喧嘩程度にしかとらえていなかったのです。

なんか怒ってるけど、私から気持ちが離れる訳がないって、あまりにも自分勝手な解釈です。

すぐに戻ってきてくれる。

その時、謝って別れたくないと言っていれば、私が反省して彼がしてくれたすべてのことがどれだけ大事なことだったかに気づいていれば、私たちは別れることはなかったでしょう。

でも、私はたかをくくっていました。

彼の怒りが冷めれば元通りになるって。

それどころか、彼が私の元から離れる訳なんてないって思い込んでいました。

どれだけ高慢で嫌な女だったのかと思います。


彼は二度と戻ってきてはくれませんでした。


あの「さよなら。」が最後の言葉だったのだと気づいた時には手遅れでした。

数ヶ月が過ぎて私がなくしたモノの大きさに気づいた頃、彼にはもう新しい彼女ができていました。

私と違って彼をとても大切に彼のことだけを想う彼女が。

彼が私と付き合っていた時から彼のことだけを想っていた彼女が。

その時にはもう、私には入り込む隙間はありませんでした。

彼の新しい恋人のお腹には命が宿っていました。


私は彼に「ずっとありがとう。」の言葉も、「ごめんね。」も「さよなら。」さえ言えずに、かけがえのなかった人を失いました。

いくら後悔しても後戻りはできませんでした。

その時の心の痛みは傲慢だった私を成長させてくれたけれども、取り返しのつかない傷となって残っています。

誰のせいでも無い。

自分のせい。


写真 二十歳くらいの時の私。


写真 この後少しして別れることになった高1からの彼氏。


夫との出会い。



彼と別れてからは何となく、サークルの先輩と付き合ったりしてました。

先輩には悪いけど、強い気持ちは無かったです。

サークルの仲間うちで親しくなってその流れでみたいな感じでした。

私はその先輩と一緒に暮らすようになりました。

でも、二人きりで暮らした期間はほとんど無くて、サークルの仲間やその友達たちがいつも集っていてたくさんの友人がいつも泊まっていました。

シェアハウスみたいな感じです。

その頃知り合った友人の中の一人が夫です。

まさか結婚することになるとは、当時はまったく思っていませんでした。


母とは相変わらず、あまり会話の無い親子のままでしたが、私が大人になった分、思春期のギクシャクした関係ではなくなっていました。

母はその頃、自己破産して困っていた母を気遣ってくれた叔母の計らいで、小さいながらも日本舞踊の流派を作り家元になって指導していた叔母の手伝いを仕事にするようになっていました。

その頃はまだ手伝いでしたが、その仕事は母が生涯貫き通した天職だったのだけれど。


その当時の私はただ、だらだらと暮らしていたように思います。

流れるにまかせ流れていただけ。

いつもたくさんの仲間が居て寂しくはなかったけれど、楽しく暮らしていたのだけれど、

心の奥はとても空虚で。

暮らしもなんとなく何とかなっていたのだけれど、何かが違う私がしたいことと違う。

そう思っていました。



すべてに漂っていた20代、2回目の車いす生活、手術と入院。



漂う。


羅針盤が狂った船のように。


それが私の22歳からの毎日だったように思います。

何となく付き合ったサークルの先輩とは当然のように何となく別れました。

心の傷もありませんでした。

お互いにだと思います。

ふらふらと生きていました。

決してそれが良いことだとは思っていなかったけれど。

東京で割の良い仕事があると聞けば東京に行き、イラストを描いたりしてました。

東京の仕事で知り合った男性と付き合ってみたり、嫌になって岐阜に戻ったり、

今になって思うと、とんでもなく適当に生きていました。

だけど、20代中盤になった頃には、シェアハウスに集っていた仲間たちもそれぞれ就職したり、結婚したりして、自分の道を見つけ始めバラバラになっていきました。

それでも、私は相変わらず適当でお金に困るとクラブのホステスのバイトをしたりして小さなアパートで暮らしていました。

新しい恋愛も何度かしました。

だけど、どの恋も今となっては幻のようです。

何年か続いた恋もあったのだけれど、その場限りの恋だったように思います。

その当時は真剣に好きだったはずなのに、どの恋も今は心に残っていません。


真面目に生きていなかった私への警告なのかな?

20代後半、私はまた歩けなくなりました。


写真 手術入院を受ける少し前の私。



足の手術と入院生活。



私はまた車いす生活に逆戻りしました。

けど、10代の頃、私の主治医だったお医者さんが言った通りになっていました。

医学の進歩。

10代の頃には考えられなかった内視鏡手術、膝のまわりの三カ所を少し切るだけで、私の生まれつきの障害の半分は治せるようになっていたのです。

骨の先天的異常は治せないけれど、外れやすい膝のお皿を外れにくくするために靱帯を切って縮める手術法があると。

完全では無いけれど、これで今までのように無理さえしなければ日常生活はできるでしょう。

そうお医者さんに言われました。

私はその手術を受けることにしました。


入院生活は手術とリハビリも入れて2ヶ月ほどでした。

でも、そこで私は精神的にずいぶん大人になれたと思います。

私がいた大学病院の整形外科は4人部屋でした。

また車いすになって正直、私は入院した頃、なんで私ばかりこんな思いをしなきゃいけないんだろう。

そう思っていました。

でも、その4人部屋の他の3人の人たちは私よりずっとずっと重い障害を持った人たちでした。

2人はまだ15歳、1人は股関節の骨がスカスカになる病気で、どう治療していたのかはわからないけど、身体を起こすこともできない状態。

寝たままの姿勢でずっといなくてはいけません。

食事も寝たまま。

寝たままの姿勢で食事をとることはすごく大変で、そして一日中天井しか見れない毎日。

トイレも寝たままです。

思春期の女の子にそれがどれだけ辛いことかと思いました。

もう1人の女の子は小さい頃階段から落ちて脊椎を強打し、足だけが成長しない病気。

画家のロートレックと同じ病気でした。

痛くもなんともない足の両骨を切断して、そこに器具を入れ、毎日1mmづつトータルで10cm伸ばしていく治療。

若い時は骨の再生能力が高いので若いうちにしておかなければいけない治療だそうでした。

骨を伸ばす器具を1mm動かすごとに悲鳴が聞こえます。

くっついてきた骨を無理に伸ばすのです。

どれだけ痛いか。。。

2人とも悪い股関節や足を除けば元気な少女です。

動けない毎日がどんなに苦痛か。。。

他の病室にもそんな子たちがいっぱい居ました。

16歳の髪の長い綺麗な女の子は片足を膝の上から切断しました。

それでも、彼女たちは私よりずっと強くて。

笑うんです。

自分の身におきた不運よりも未来に向けて一生懸命に笑っていたんです。


私は自分が恥ずかしくなりました。

私が一番軽い病気。

歩けないくらいがどうだっていうんだ?車いすが辛いって?

車いすにさえ乗れない子も居るのに。

私は彼女たちと仲良くなるごとに、自分の弱さが嫌になっていきました。

強くなって、この子たちを励まさなきゃいけない。

そう思いました。


それが自堕落に暮らしていた自分に甘かった私が立ち直れたすべてのきっかけでした。

彼女たちが私を導いてくれたのです。


そして、私をちょこちょこ見舞い勇気づけてくれたのが夫でした。

その頃はまだ、ただの友達だったんだけど。


写真 まだ友達だった頃の夫。



初めて持った夢。



手術入院から退院して半年間のリハビリを終え、私はまた歩けるようになりました。

手術前よりも膝のお皿は外れにくくなったとはいえ、完治した訳ではありません。

障害がわかった時と同じ制限は色々とありましたが。

その頃、私はテレビでイルカと泳いでいる女性の映像を見ました。

元々海が大好きで、動物すべてが大好きだった私はその映像に憧れました。

綺麗な海に潜ってみたい。

ダイバーになりたい。

漠然とでしたがそんな夢を持ったはじめでした。

水泳はできるんだから膝の悪い私でも重力の無い海の中では自由になれるはず。

スクーバダイビングとタンクを背負わないフリーダイビングの区別すらついていなかったけど、ダイバーになることは私の夢になりました。

でも、障害を持った私に実際可能なことなのか?もわからなかったし、お金も無かった私には、まだ遠い遠い夢でした。



母が紆余曲折の末たどり着いたついた日本舞踊の家元という仕事。



その頃の母は日本舞踊の指導に馴染み、体調を崩していた叔母の代稽古をするようになりました。

まもなく叔母は身体の不調を理由に母に「吉野流」家元の座を譲りました。

岐阜の小さな流派とはいえ、当時は100人近いお弟子さんが居ました。

母の経済的な困窮はそれで救われることになります。

母の初舞台は4歳です。

それからずっと続けてきた日本舞踊、それは母の唯一の財産でした。

母の芸、母の舞台は身びいきを除いても引き込まれるほど美しく素晴らしいものでした。

舞台に立つ母を見るときだけは母を心から尊敬できました。

日本舞踊を教えることは母の天職だったと思います。

母も自分が持つ能力以上に日本舞踊の指導という仕事に必死になっていました。

キャバレーでのショーやクラブ歌手やブティック経営、何をやってもうまくいかなかった母にとって、自分の芸にかけるしか、もう道は無いと母も思っていたんだと思います。

でも、それまで叔母についてきたお弟子さんたちが、いきなり家元を継いだ母をすんなりと認める訳はありませんでした。

叔母の指導方法と母の指導方法との違いも大きかったように思います。

ほとんどが女ばかりの世界、叔母のすぐ下で幹部をしていた人たちとの確執もありました。

母の神経はすり減っていきました。

その頃の母にはまだ「家元」という看板が重すぎたのだと思います。

母は自律神経失調症になりました。



母との世界放浪の旅のはじまり。



自律神経がおかしくなり、ふらつきで仕事に支障が出て母は困っていました。

そんな時、お医者さんから気分転換に旅行にでも行きなさい、そう勧められました。

それまでの母と私がした旅行といえば2度だけで、そのうちの一度は前に書いた父に会いに行った横浜、もう一度は一泊で鳥羽に行ったことがあるだけでした。

関係性の薄い母と子、私の手術入院の時すら病院にたまにしか顔を見せなかった母です。

母からどこか一緒に旅行に連れて行って、と頼まれた時は複雑でした。

気分屋で気難しい母と二人で旅行、じっくり話したこともないのに?

母ははじめ北海道に行ってみたいと言いましたが、旅行会社で色々調べてみたところ、北海道に行くのとハワイに行くのと変わらない料金でした。

母の時代の人の憧れの地は断然ハワイだったようです。

母は「一生に一回でいいからハワイに行ってみたい。」

そう言いました。

それくらい海外旅行をするなんて、その時の母には現実離れしたことだったのです。

私は母と旅をすることにしました。

母と行くのは不安だけど連れて行ってもらえるなら、私もハワイに行ってみたかったから。

そして、こんな母子でも、やっぱり母のことが心配だったから。


6日間のハワイ旅行はとても楽しいものでした。

見るものすべてが珍しかったです。

6日間も朝から晩まで母とずっと一緒に居たことは生まれて初めてでしたが、母はとても機嫌が良く、気難しくはあるけれど笑い上戸でもあった母はよく笑いました。

あの旅が母と私の関係修復、いや?絆を作っていくきっかけになりました。

母と私ははじめて親子らしい会話をし、はじめて親子らしく二人で食事や買い物を楽しみました。

それでも、母がいきなり「お母さん」になったというにはちょっと違います。

母と私は少しづつ心が通い合いはじめ、ここからやっと親子になっていったように思います。


写真 初めて行ったハワイで母と。


一生に一回でいいからハワイに行ってみたい。

最初で最後のはずだった海外旅行はこのハワイをきっかけに行けるだけ世界各地に行ってみたい。に変わりました。

それほど、このハワイ旅行は母にも私にも楽しいものでした。

家元になりお弟子さんをたくさん抱えるようになった母は、やっと経済的にも余裕ができてきていたのです。

そして母も娘である私と一緒に旅をすることで結びつきを強くしていきたい。

そう思い始めてくれていたように感じます。

それから、母と私の世界放浪が始まりました。

お稽古の時間をやりくりしては海外に飛びました。

ドイツ、イタリア、スペイン、フランス、ギリシャ、アメリカ西海岸、メキシコ、オーストラリア、いろんな国に母と私は出かけるようになります。

もちろん優雅な旅ではありません。

安いエアチケットと宿だけ押さえて行った先で旅行者用の電車の乗り放題チケットなどを買い、本を片手に行き当たりばったりの旅でした。

今、思うとかなり無謀なことをしていました。

ネットも無い時代にろくに英語も話せない母子が身振り手振りで本だけを頼りに世界を旅していたのだから。

母は若いうち行けるうちに遠い異国に行きたい、そう思っていたし、

私は歩けるうちに行けるうちに遠い異国に行きたい、そう思っていました。

海外で歩けなくなったら、その時はその時だ!そう開き直っていました。

そう思っているのは、実は今も変わりません。

今もいつ歩けなくなるかもしれないのだから。


どの旅も良い想い出です。

どの旅も印象深く楽しいものでした。

何より母と私の距離はどんどん近くなっていきました。

遠い異国で頼りになるのはお互いだけです。

お互いをわかりあおうとするようになりました。

口喧嘩もたくさんしました、でも、喧嘩すらしたことがなかった母と私はその度に親子らしくなっていきました。

はじめて行くいろんな国でいろんな経験をあの時期に母と共有できたことは、何よりの私の宝として残っています。



結婚。



夫と私がつきあい始めたのはいつだったのか?

いい加減な話しですが定かではありません。

夫が大学1年の18歳の頃から友達だった私たちは、あえて話さなくてもお互いのことを知っていたし、お互いの彼氏彼女とその遍歴すら知っていました。

私の部屋が友達たちのたまり場になっていた頃から夫はそこに居て、最後まで残ったのが夫だった。

まったくロマンも何もない話しですが、そんな感じでした。

出会ってから10年近い年月が流れて、ふと気づけば私の隣に居たのは夫だったのです。

付き合ってくれと言われたこともありません。

夫はその頃、まだ誰も名前を知らなかった会社に就職していました。

夫の家の家業は食堂でした。

小さな食堂を夫の両親が経営していました。

夫と夫の両親はその食堂の二階のたった二間に住んでいました。

夫も裕福とはいえない育ち、いや、はっきり書けば私たちは二人揃って貧乏育ちでした。


私が歩けるようになって母と旅をしだして母との関係を築き始め、母の仕事を手伝いだした頃でした。

私はボロアパートで一人暮らしをしていました。

正確には幼い頃から大好きだった猫、捨て猫だった黒猫たち「ピキオ」と「ビー」一人と2匹暮らしでした。

夫がいきなりこう言ったのです。

「一緒に暮らせばここよりずっと良い社宅のマンションに住めるよ!」と。

私にすればいい加減な話しですが半分成り行きでした。

それで私たちとピキオとビーは同棲生活を良いマンションではじめました。

同棲生活がはじまって半年ほど過ぎた頃でした。

今度は夫は私にこう言いました。

「年内に入籍すれば税金がたくさん戻ってくるよ!」と。

それが夫の私へのプロポーズでした。

ものすごく生活感にあふれたプロポーズでした。

それで私たちは年内の12月12日ワンツーワンツーの日に入籍しました。

ワンツーワンツーの日にしたのは、その先に明るい未来に繋がる一歩にしたかったからです。


こうして書くと私が良いマンションや戻ってくる税金に目がくらんで入籍したみたいですね。

でも、もちろんそれで夫との結婚を決めた訳ではありません。

私が夫に惹かれたのは、夫がそれまでに出会ったどの男性よりもハングリー精神が強く、仕事熱心で、何が何でも成功してみせる!そんな意欲にあふれた人だったからです。

現状に満足するのではなく、いつも上を見て上を目指して夢に向かって努力する、そんな夫に私はかけようと思ったからでした。

夫が私を選んだ理由はイマイチわかりませんが、聞くと「好きな音楽や映画や感性が似ていたから。」だと言います。

一緒に人生を楽しめると思ったからだと。

好きだったからだと言わせたいと常々思っていますが、夫の口からその言葉は残念ながら言われたことはありません。


順序は逆になりますが入籍した私たちは翌年の1月にハワイで結婚式を挙げました。

優雅に感じられるかもしれませんが、何故、ハワイだったかというと二人ともほとんど貯金が無かったからでした。

その頃、日本でウエディングドレスをレンタルするとそれだけで20万円以上かかりました。

ハワイだと買っても1万円くらいからで、挙式費用も小さな教会で挙式すれば写真付きで6万円ほどでできたのです。

私たちは新婚旅行もかねて、夫の両親と私の母とみんなでハワイに行き、セントピータース教会という小さな教会で無事夫婦の誓いをしました。

1995年1月でした。


写真 ハワイでの結婚式。



夫の両親との同居と鬱病(パニック障害)のはじまり。



結婚してから2年間、私は良いマンションで順調で幸せな日々を夫と猫2匹とで過ごしました。

夫が理解のある人だったので、母との親子旅行も続けていられて、母との関係も良好でした。

夫の会社は急成長していき、夫の仕事は忙しくて家に居ない日も多かったけど、生活も安定して私は生まれて初めてのんびりと毎日をおくっていました。


だけど、また私に波乱の波が押し寄せてくることになります。

それは夫の両親との同居でした。

夫の実家がそれまで住んでいた食堂の二階の借家暮らしから、新築で家を建てることになったのです。

土地は夫の父が買ってくれていました。

だけども上物は夫の名義でしかローンが組めません。

そうなると、夫と私は二重にローンを組むことはできないので、持ち家を持つことは不可能です。

なので二世帯住宅を建てようという話しになったのです。

それで、私たちと夫の両親は二世帯住宅を建て、そこで同居生活を始めました。


今から思うと最初からそれは無理な話しだったのです。

普通の家族というものに囲まれて育ったことのない私です。

中1から一人ぼっちだった私です。

ずっと自分のペースでしか生活してこなかった私です。

その私がいきなり夫の両親と一緒に生活をはじめてしまいました。


同居を始めてから二世帯住宅とはいえ、私のプライベートな時間が無くなったのがすべての原因でした。

夫の母は大家族の末っ子でした。

プライバシーという概念がありませんでした。

何の悪気も無いのですが、昼夜関係なく私たちの部屋に度々入ってこられました。

夫の母はむしろ私を気遣って、私とうまくやっていこうとして好意でしてくれていたことだと思います。

でも、自分でもさほどそうは思っていなかったのだけれど、私にはそれが我慢できないくらい苦痛だったのです。

同居して何年か過ぎた頃に私は夜中に猛烈な吐き気に襲われて何度も吐き続け、救急病院に運ばれました。

その時は食あたりということで吐き気止めの点滴を朝までして家に帰りました。

でも、また1週間後に同じ症状で同じ病院に運ばれたのです。

不審に思ったお医者さんが動脈採血をして、私の病気は食あたりではなく過呼吸の発作、パニック障害であること、心療内科で治療を受けなくてはいけないことを告げられました。

そして心療内科を受診した私は鬱病の診断を受けます。

たしかにその頃の私は無表情でまったく笑えなくなっていたし、睡眠も夜中に1〜2時間おきに起きてしまって十分にとれず、いつもダルく疲れていました。

自分を自分でコントロールすることが不可能になっていました。


それが長く付き合うことになった鬱病の始まりでした。


子宮摘出。



鬱病が長く続く原因になったのは夫の母だけではありません。

もっともっと大きな原因がありました。


30代後半、私は妊娠をしました。

何故?そんな年齢まで妊娠しなかったかというと、できなかった訳では無くて、私は子供が欲しくなかったからでした。

正確には欲しくなかったというより恐かったのです。

母になって自分がやっていける自信が無かった。

ネグレクトで育った私が自分の子を同じようにしてしまうんじゃないかと、そう思っていました。

幼いとき、父にも母にも愛情をもらえなかった私が、自分の子に愛情を注げるかとても不安だったのです。

だけど、30代後半になってやっと自分に子供を育てる自信ができた時、やっと妊娠することができた時には、手遅れになっていました。

私の子宮には握り拳ほどもある大きな筋腫ができていました。

同時に子宮内膜症も見つかりました。

私たちの小さな赤ちゃんは私の筋腫に挟まれて大きくなれずに亡くなりました。

妊娠4ヶ月の時でした。


二回目の妊娠はありませんでした。

私の筋腫はとても大きく、生理の時の出血が多すぎて血液の量が普通の半分になっていました。

常にひどい貧血状態でした。

怪我をして出血すればすぐに命に関わる、そんな状態で内膜症もあった私は筋腫だけ取り除くことが不可能で、お医者さんに子宮の摘出を勧められました。

子宮を取ってしまうことは女でなくなってしまうこと。

もう子供は望めないこと。

子宮摘出手術は歩けなかった足の手術をする時よりもずっと辛い決断でした。

でも、選択肢は他になかったのです。

私は子宮摘出の手術を受けました。

手術が終わって麻酔から覚め、付き添ってくれていた夫が仕事に行ってから、私は生まれて初めて人前で看護師さんたちの前で声をあげて泣きました。

しゃくり上げるほど大泣きしました。

恥も外聞もありませんでした。


ごめんね。産んであげれなかった子供に。

ごめんね。父親にしてあげれなかった夫に。

ごめんね。孫を見せてあげられなかった母と夫の両親に。

それまで我慢していた感情がこらえきれなくなって押し寄せてきて、私はただただ悔しかったです。

辛かったです。

それはいろんなことがありすぎた私の人生の中でも一番辛かったことでした。


身体の傷は癒えても心の傷は長いこと癒えませんでした。

私は夫に八つ当たりをするようになりました。

夫が悪いわけではない、それは重々わかっていました。

だけど、心のジレンマをぶつける相手は夫しか居なかったのです。

私は子供の時と同じように現実から逃げていました。

そして度々パニック発作をおこしました。

夫はできるかぎりのことをしてくれました。

散歩が良いと聞けば、早朝でも深夜でも散歩に連れ出してくれ、

私の心が安まるように、休みを取ってリゾート地に旅行に連れ出してくれました。

ただ海を眺めのんびりする旅でした。

海を見ていれば私の心は落ち着きました。

昔の彼と同じように夫は私を海に連れて行ってくれました。

海が海だけが私を癒やしてくれると夫は知っていました。


海に潜ってみたい。

若い頃からの憧れを実現したのはそんな時でした。

私はリゾート地で体験ダイビングに一人で行くようになりました。

海の中の世界は私の想像を超えた美しさでした。

嫌なこと辛いこと、すべて忘れることができました。

何度でも潜りたくなりました。

ずっと海の中に居たかった。。。


でも、家に帰ればまた現実と直面しました。

プライベートの無い、子供が産めない自分。

その現実。

夫にまた八つ当たりしてしまう自分。

そんな自分が嫌で仕方ありませんでした。


同居して5年目、ある日突然夫が賃貸マンションの間取り図のファックスを私に見せました。

「ここを出よう!すぐに。」

夫はそれだけ言いました。

鬱病を治す一番の治療法は環境を変えること。

夫は二世帯住宅からの家出を決めてくれたのです。


私たちは1週間も経たないうちに二世帯住宅から家出し、またマンション暮らしをはじめました。

そのマンションには2年間居ました。

そして急成長した夫の会社の持ち株を売って、私たちは二世帯住宅のローンを完済し、自分たちだけの家を持ちました。

それが今、住んでいる家です。

ここが、この小さな家が、私の「家」です。

ずっと借家暮らしだった私にとって、はじめて自分の家だと思える家です。

先代の猫、ピキオとビーは15歳と18歳で逝ってしまいましたが、

今は黒猫の「福」8歳と白猫の「天」1歳3ヶ月が私たちと暮らしてくれる家族です。

福は捨て猫で生後3ヶ月まで虐待を受けていた子。

天については後に書きます。

天は家に来てくれるために生まれてきてくれた子でした。


写真 「福」

写真「天」



夢だったダイバーへ。



写真 私くらいあるでっかいアオウミガメさんと。


写真 ギンガメアジの群れと私。


私が鬱病になってから、夫と私は行けるだけ、お金を貯めては夫が長期休暇を取れるごとに海外のリゾート地に行きました。

夫はホテルのプールで読書しながらビールを飲んでまったりするのが好きでしたが、その度に私は一人で体験ダイビングに出かけるようになりました。

海の中の世界はそれほど私にとって魅力的で、海は私の心の傷や痛みを全部流してくれたからです。


夫は当初、いくら誘っても「恐いから。」と言って拒否ってました。

体験ダイビングというのはライセンスを持っていなくてもガイドさんにみてもらいながらスクーバダイビングを浅瀬で「体験」するものです。

でも、あくまでも体験で深場にも行けないし自由に自分で泳ぎ回ったりはできません。

ちょこっと潜って海の中をちょこっと見物させてもらう、そんな感じです。

だけど、体験ダイビングでスクーバダイビングが膝の悪い私でもできるという自信を得た私は、だんだん欲が出てきました。

それでバリ島で一人でライセンスを取得しに行きました。

18mまで潜れる最初の段階、オープンウォーターコース3日間のコースでした。

それは予備知識が全く無かった私が思っていたよりもとても大変なものでした。

1日目、学科。

1cm以上もある分厚いでかい教本を渡され、先生と一緒にそれを読んでいきます。

読んだだけでも難しい!なんのことやら?

潜水に関する物理、水中での生理現象(水中ではモノが実際よりも大きく見えることや音がなっていても方角が特定できない等々)トラブルがあった時の対応、一番難しかったのは減圧理論でした。

潜水すると体内に窒素が溜まっていくため、それを排出するための表計算です。

大事なところにはマーカーでラインを引きます。

一章すむごとにミニテストがあって、その間は先生は休んでおられるけども、「早く終わりたかったら休憩無しでやりましょう。」そう言われた私は無我夢中でお昼以外休みをとらずに、みっちり8時間勉強しました。

最後に本番のテスト、これに76点以上で合格しなければテストのやり直しです。

私は76点ギリギリセーフで合格しました。

2日目3日目、プール講習と海洋実習。

実技、フィン&マスク無しで60mスイムやラッコみたいな状態で浮いていること15分。

タンクに器材をセッティングする方法や、トラブルがあった時の実際の対応、口にくわえるレギュレーターが外れた時にくわえ直すレギュレーターリカバリーやマスクが外れた時にもう一度はめ直すマスクの脱着、マスクに水が入った時に水を外に出すマスククリアなど。

それまで体験ダイビングでガイドさんにすべておまかせだった私には大変だったけど、これを全部クリアしていけばライセンスが取れる!そう思うと楽しかったです。

水中では落ち着いていると褒められました。

そうだと思います。だって私は体験ダイビングを5年もやっていたのだから、体験ダイビングのベテランでした。

3日間の講習を終え、私は無事ライセンスを取得できました。

やったぁ!これで私もダイバーの仲間入りだ!!

夢への一歩はそこから始まりました。


私がオープンウォーターライセンスを取ってすぐでした。

あれだけ断固としてダイビングするのを嫌がっていた夫がいきなり自分も取ると言い出しました。

ダイビングの教本が面白かったからだと言っていますが、私が思うにヘタレの私が自分一人でそこまでしてでもやりたいダイビングというものに興味を持ったからだと私は思っています。

夫は体験ダイビングも経験せずに一人でグアムでオープンウォーターライセンスを取りました。

夫婦揃ってダイバーになった訳です。

そこから、グアムでアドバンス(30mまで潜れるライセンス)を取り、セブ島でレスキュー(ダイビングにおける緊急時の手順を取得するライセンス)を取り、セブ島でマスタースクーバダイバー(素人で一番上のライセンス略してMSD)まで夫と二人で取りました。

私は膝が悪いのでそこまでで、プロになるのは諦めましたが、夫はそこからセブ島でダイブマスターを取りトータルで一ヶ月もかけてインストラクターの資格まで取ったプロダイバーです。

仕事にはしていませんが、今もまたテックダイビングという違う資格に挑戦しています。

まるでライセンスコレクターのようにライセンスを取ったのは、世界のいろんな海で安全に潜りたかったからです。

ハマっていくほどに海の中の世界は私たちを魅了し、重力の無い浮遊感はどこまでも自由で身体も心も解放されるものでした。

ストレスなんか全部、海がもらってくれました。

風の谷のナウシカに出てくるような不思議な生き物たちやカラフルな珊瑚、海の中にはいつも初めて体験することがあります。

それは大人になった私が日常では体験できない初体験の連続です。

ダイビング中毒になる人たちはみんな同じだと思います。

青い青い美しい世界に包まれる他では経験できない幸福感と、

未知の世界への冒険と憧れです。


写真 私が撮った水中風景。

写真 私が撮ったホヤ(植物のようですが動物です。)


それからダイビングのもう一つの魅力は同じ趣味を持つ老若男女いろんな人たちと気が合えばすぐに親しくなれることです。

日常では出会いもできない人々との出会い。

たとえばボートで3本潜るとして、1本目と2本目の間には身体に溜まった窒素を抜くために約1時間のボート上での水面休憩があります。

2本目と3本目の間も同じく水面休憩をとらなくてはいけません。

その間、一緒に潜っているいろんな人たちと話しができます。

海外ダイビングや離島ダイビングではほとんどの人が何日間か続けて潜ります。

ゲストはボートに乗った朝からボートを降りる夕方までずっと一緒です。

ショップディナーがあるダイビングショップだと夕飯の飲み会まで一緒です。

つまり朝から晩までずっと一緒です。

そしてその日のダイビングについて語り合ったり、自分が行ったいろんな海の話しをしたり、撮った写真を見せ合ったりしていれば、同じ趣味を持つダイバー同士すぐに親しくなれ短期間で濃い付き合いができます。

ダイバーになって世界観が広がったと同時に友人の幅もものすごく広がりました。

今、私の大切な友達の多くはダイビングで知り合った友達です。

日本中どころか他の国にも友達ができました。

夫が忙しい時はその友達たちと現地待ち合わせでいろんな国に潜りに行ったりするようになりました。

私の行動範囲も行動力もダイビングによって大きく広がっていったのです。

今のダイバーの友人たちは私が引きこもりで引っ込み思案で笑うこともできなかった少女だったって、誰も信じてくれないでしょうね。


ダイビングを通してのすべての経験と友達は私の財産になりました。


そして何よりも陸上では見た目ではわからないけど悪い膝をかばって生活していかなければいけない私が、海の中ではどこまでもどこまでも自由に動けること。

誰に劣ることなく他のベテランダイバーさんたちと肩を並べて潜水できるようになったこと。

それは私の大きな大きな自信になりました。


夫と私は現在、お金と時間があるかぎり世界中の海に潜りに出かけています。

旅する目的のほとんどがダイビングになりました。

綺麗な海があるところは当然、田舎のことが多いです。

ダイバーになるまで聞いたこともなかった場所に旅ができることもとても楽しいです。


ダイビングと出会ってダイバーになれて本当によかった。


子供の頃から憧れていた海に。

私を一人前のダイバーに成長させてくれたすべての人に。

何より夫に心から感謝しています。


ありがとうございます。


写真 自分でとった中でお気に入りの一枚。

クマノミさんとイワシの群れ。



私の2014年7月12日現在のダイビングログ(ダイビング記録)です。


PADI OW 取得・・・・・BALI

PADI AOW取得・・・・・GUAM

Fundiving・・・・・・・GUAM →DAYDREAM

Fundiving・・・・・・・PALAU→AQUAMAGIC

Fundiving・・・・・・・GBR→DeepSeaDiversDen

Fundiving・・・・・・・Saipan→005R

Fundiving・・・・・・・Bali→Bali Vieu Dive

Fundiving・・・・・・・Okinawa Tokashiki Is

Fundiving・・・・・・・Koh Tao→BIGBLUEDIVING

Fundiving・・・・・・・Japan Minami Echzen

Fundiving・・・・・・・Cebu Mactan→BLUE CORAL

Enriched Air Specialty・GUAM→AQA academy

Fundiving・・・・・・・Cebu Moalboal→Tikitikidivers

Fundiving・・・・・・・GUAM→Pauls Diving

Fundiving・・・・・・・Okinawa Kerama→SEASIR Naha

Fundiving・・・・・・・Japan Minami Echizen

Fundiving・・・・・・・GUAM→Pauls Diving

Rescue Diver Course・Cebe Mactan→BLUE CORAL

Fundiving・・・・・・・GUAM→Pauls Diving

Fundiving・・・・・・・Palau→AQUAMAGIC

Fundiving・・・・・・・Cebu Mactan→BLUE CORAL

Fundiving・・・・・・・Cebu Mactan→BLUE CORAL

Fundiving・・・・・・・Okinawa Kerama→SEASIR Naha

Fundiving・・・・・・・GUAM→Pauls Diving

Fundiving・・・・・・・Cebe Mactan→BLUE CORAL

Fundiving・・・・・・・GUAM→Pauls Diving

Fundiving・・・・・・・Bali→Bali Vieu Dive

Fundiving・・・・・・・Cebe Mactan→BLUE CORAL

Fundiving・・・・・・・GUAM→Gently Blue

Fundiving・・・・・・・Okinawa→ SEASIR Naha

Fundiving・・・・・・・Kanmurijima→Kyoto Marine Pocet

Fundiving・・・・・・・Okinawa→ SEASIR Naha

Fundiving・・・・・・・ Kumejima→Dive Estivant

Fundiving・・・・・・・・Nagaragawa→チームエアー

Fundiving・・・・・・・・Cebu Mactan→BLUE CORAL

Fundiving・・・・・・・・Palau→AQUAMAGIC

Fundiving・・・・・・・・Okinawa→Live Fish

Fundiving・・・・・・・・Cebu Mactan→BLUE CORAL

Fundiving・・・・・・・・Okinawa kerama→SEASIR Naha

Fundiving・・・・・・・・札幌→

Fundiving・・・・・・・・GUAM→Gently Blue

Fundiving・・・・・・・・Mactan→BLUE CORAL

Fundiving・・・・・・・・アニラオ→シーサー

Fundiving・・・・・・・・プエルトガレラ→フロンティアダイバーズ

Fundiving・・・・・・・・プエルトガレラ→フロンティアダイバーズ

Fundiving・・・・・・・・西表島→ミスターサカナ


PADI Master scuba diver

2014.7/24

370DIVE



母へ。



最終章。


私の「普通の主婦の普通じゃなかった半生。」

これでもか!これでもか!と自分を試されているような波瀾万丈な人生でしたが、引きこもりだった私が普通に結婚し、家を持つことができ、心身ともに落ち着いてきて、膝も完治してないとはいえ歩けなくなることは無くなり、夫や母とも良好な親子関係を築くことができて、友達にも恵まれ、鬱病もパニック発作が出なくなり、一人前のダイバーになれ、すべてが順風満帆になっていってました。

去年のGW開けまでは。


私はダイバーになってからも、母とも年に1〜2回でしたが一緒の旅を続けていました。

私が40代になってからは、母も70代になっていたので遠くじゃなくて近場、香港やバンコクや中国やソウルやグアムに行くようになってました。

若い頃は母に旅行代を奢ってもらっていたので、その頃は私がお返しに奢るようになっていました。

一緒に暮らせない私のせめてもの親孝行のつもりでした。

母はとても喜んでくれていました。

特に母のお気に入りはグアムの海とソウルでのグルメ&お買い物でした。

母は日光アレルギーだったので海に入ることはありませんでしたが、グアムの遠浅なエメラルドグリーンの海を眺めるのが好きでした。

グアムでは母に街をブラブラしてもらって、午前中だけ私一人でダイビングに行ってました。

太陽がホテルの建物の陰に隠れる午前中、母は海を眺めてのんびりしていたようです。

ソウルではサムギョプサルやチヂミや石焼きビビンバやアワビのお粥や辛いラーメンやトッポギや冷麺など、好き嫌いのない母と私は何でも挑戦して食べてみるのが楽しみでした。

安い食べ物、洋服、装飾品、靴下、身につけるものすべてが並ぶ明洞の屋台で買い物したり、東大門の洋服やバックの問屋さんに行って気に入ったものを探して値切ったり、韓国コスメのいろんなものを試したりもして。

お洒落だった母は安い洋服でも上手に着こなしていたので、二人でこれ似合うんじゃない?これはどう?みたいにあれこれ言い合うお買い物もとても楽しかったです。

母と私はよく笑い合いました。

母とのそんな時間は年齢を忘れた友達同士の女子旅みたいでした。


母との確執、私が子供の頃の育児放棄や、どうして私が登校拒否になったかや、自己破産してお金が無かったから自立したことについても、一生腹にためておきたくなかった私は母に話すことができるようになっていました。

やはり、母は生きることと仕事をしていくことと自分のことで精一杯でだったと言っていましたが、お互い腹を割って話していろんな誤解を解くことができました。

母も女手一つで私を抱えてただ幸せになりたかったんだと、ただどうすればいいのかわからなかったんだとそう言っていました。

40代になっていた私は母の弱さやもろさも理解して許すことができるようになっていたのです。


ずっと聞きたくても聞けなかったこと。

どうして私を一人で放っておいたの?

私はずっと寂しかったよ。

それも伝えることができました。

母も私を理解してくれようとしてくれました。


「良いお母さんじゃなかったね。」ぽつりと言った母のことばが身にしみました。

私は責めるつもりではなかったのだけれど。


その頃の母は日本舞踊吉野流の家元として立派に仕事をしていました。

当初、叔母から家元を継いだ時には、他の大きなお流派の先生方に相手にされなかった吉野流も、母の努力により、岐阜の日本舞踊協会「七扇会(しちせんかい)」の会長を務めるまでなっていました。

母の芸は他の大きなお流派「花柳流」「若柳流」「西川流」の先生方にも一目おかれる、認められる芸だったのです。

お弟子さんたちからも尊敬されていました。

毎年開催していた身障者へのチャリティの踊りの会でも母は役員を任されていました。

私もそんな母を心から尊敬でき、誇りに思えるようになっていました。



突然の母の病。



そんなやっとやっとの落ち着いた日々に突然それは起こりました。

去年の1月頃から母は右胸の下の方の痛みを訴えるようになりました。

その前の年の人間ドックは胆石があるだけで健康。なにも異常なしでした。

総合病院に受診したところ、ちょうど胆石がある場所だったので胆石が動いたことによる軽い炎症での痛みで様子見ということでした。

なので私は大して心配していませんでした。

でも、その痛みは少しづつひどくなっていきGW前にはキリキリと痛み寝返りがうてなくなりました。

また受診しましたが、結果は前と同じ大きな胆石による痛み、抗生物質で炎症を抑えましょう。そう言われました。

GW中、母はずっと薬を飲んでいましたが、痛みは日に日にひどくなって我慢できない痛みになりました。

さすがに心配になった私はGWが開けた次の日に母について総合病院に行きました。

そこで詳しく検査をしていきなり母と私は宣告を受けました。

「末期の肺癌です。」と。


痛みを訴えだしてから3回目の大きな総合病院での受診です。

前の年までは綺麗な肺ですと言われていた母です。

そんな馬鹿な!

私は動揺してどうしていいのか?わからなかったけど、母はとても冷静に医師の話しを聞いていました。


診察が終わって入院が決まり、心細かった私は慌てて仕事中だった夫に来て貰い、食事に行って3人で話しました。

母はこう言いました。

治らない病気なら一切の延命治療はいらない、入院もしたくない、家で過ごしたい、9月のチャリティの踊りの会は自分が役員で会長だからやり遂げる、お稽古も休まないと。

母は落ち着いていたし、しっかり自分の意思を持っていました。

母は痛みがひどくなってから自分の病気が悪い病気だと気づいていたようでした。

一人暮らしでは心配だから、せめて私の家に来て。

そう言った私にもきっぱりと、お稽古があるから今まで通りで大丈夫、心配しなくていい。

そう言いました。


ただ、もう一度旅に行きたい。

時間を作ってソウルに連れてってくれる?

私は「うん、わかった。」それだけ言うのがやっとでした。


次の日から母は検査入院を2週間ほどし、自分の意思通り延命治療を一切拒否して退院して自分の家に戻りお稽古を続けました。

延命治療をすれば入院生活を続けなくてはいけなかったし、副作用で仕事ができなくなるからでした。

私は母の意思を尊重するしかなかったです。

それまで通り、私は母の仕事を手伝いに母の家に通い食べ物を運びました。

検査入院での診断結果は余命2ヶ月だったけど、それは母に言えませんでした。

結果通りなら母は7月までの命だったから。

9月のチャリティの踊りの会の舞台に立つことはできない。。。


辛かったです、とても。

心配だったです、とても。

でも、母は病気に負けていませんでした。


去年の7月の始め母のお稽古の合間に、母と夫と私は三人で大阪旅行に行きました。

痛み止めにモルヒネをつかっていた母は海外に出ることができなかったからです。

それならば、故郷の大阪がどう変わったか見てみたいと母は言いました。

大阪のいろんな場所を観光して回りました。

母は元気でよく食べよく笑いました。

それまで行ったどの旅行よりも母ははしゃいでいて楽しそうでした。


写真 母との最期の親子旅行になった大阪で。


だけど、母の病気は確実に進行していました。

去年の8月のはじめ、一緒にお昼を食べに行った時にまったく食べられなくなった母に気づきました。

その数日前までチャリティの踊りの会の打ち合わせに出ていた母です。

私は驚きました。

そんなに病気が進行しているなんて。。。

母は一人で我慢に我慢を重ねていたのです。

次の入院は最期の入院、もう病院から出ることはできない入院。

母も私もわかっていました。

でも、まったく食べ物を受け付けなくなった母に私は入院を勧めるしかなかった。

母も限界だったのでしょう。

末期治療のホスピスにその日、母は入院を決意しました。


それでも入院してからも母は仕事の資料を持ち込み、病室で仕事を続けていました。

どうしても9月の舞台に立つ、私にはやらなくてはいけないことがまだ残っている。

母はそう言いました。

私はそこまで母が自分の仕事に日本舞踊に命をかけてまで打ち込んでいることをはじめて知りました。

母は動くことや話すことができなくなるまで仕事を続けました。

ベットから自力で起き上がることができなくなっても、手だけで振り付けをしていました。

動けなくなっても母は泣き言一つ言いませんでした。


母が動けなくなってから私に頼んだことは仕事のことと、

髪を染めて欲しい、マニキュアを塗り直して欲しいそれだけでした。

身体の自由がきかなくなっても母は「あっちゃん、その服いいね。」と言いました。

元気でお洒落だった頃の母のままでした。

辛かっただろうに、母は最期の最期まで私にすら甘えませんでした。

「痛い?しんどい?」そう聞く私に、母はずっと大丈夫だと言いました。


けれど、母は急激に衰弱していきました。

入院してから2週間しか過ぎていないのに、動くことも話すこともできなくなっていきました。

母が話せなくなってから、私はただただ母に「ありがとうねママ。」そう言い続けました。

意識も朦朧としていた母はそれでも小さく頷いてくれました。


最期まで毅然とした美しい人でした。

母はずっと演じていたんだと思います。

母はずっと女優のままでした。


そして、去年の9月5日、入院たった1ヶ月で母は逝ってしまいました。

眠ったまま笑顔さえ浮かべていました。


母の葬儀は陰気くさいことが嫌いだった母をできるだけ華やかに見送りたくて、できる限り盛大にしました。

「日本舞踊葬」として母の女優時代の美空ひばりさんと共演している映像や母の代表作の日本舞踊の舞台も参列していただいた方々に観ていただきました。

祭壇の花々も母が好きだったピンク色にしました。

母が親交のあった芸者さんたちは生演奏で三味線や笛や歌を披露してくださいました。

参列してくださった方々に心のこもったいいお式でしたと言われました。

母は喜んでくれたでしょうか?


私は自分を忙しくすることで、悲しみに押しつぶされそうになるのをこらえるのに必死でした。


写真 母のために私が最期にしたことは花祭壇のデザインでした。


母が亡くなって、私は血縁上、天涯孤独になりました。

夫や友人たちは私を心配し気遣ってくれ、旅行に連れて行ってくれたり、飲みに付き合ってくれましたが、茫然自失だったのでしょうか?あまり記憶がありません。


だけど、母の四十九日が過ぎた頃、幼い頃以来ずっとどこに居るのかもわからなかった父から突然電話がかかってきました。

ずっと探していた父でした。

それがひょんなことで居場所がわかり、私が手紙を書いたのがきっかけでした。

私はすぐに父に会いに行きました。

腹違いの妹2人と弟1人も来てくれてみんなで食事しました。

私にまた血の繋がった家族ができました。

それから妹たちや弟は私に良くしてくれています。

父は私がまた会いに行くのを楽しみにしてくれています。

それは母が私が寂しくないようにとしてくれた最期のプレゼントだったように思います。


余談。

猫の天は母の病気がわかった次の日、去年の5月7日に、知り合いのカフェの天井から落ちてきた子猫でした。

真っ白でフカフカで天使みたいな子。

「天井から落ちてきた」「天使みたいな」そして母のことを「天に祈る」気持ち。

それで「天」と名付けました。

小さな天があの時期に居てくれたおかげで私は家で泣いている暇がありませんでした。

8月に入院するまでちょこちょこ家に来ていた母は天を抱いてこう言いました。

「あなたは私の分まで元気で長生きするのよ。」と。


家の子になるために生まれてきてくれた子のように思います。

天は本当に天からの授かり物だったように思います。


写真 家の子になった頃の天。


読んでくださったすべての方へ。

ありがとうございました。


この私におこった物語が、今、いろんな問題を抱えているすべての方々の励みになればと思います。


そして、私が今ここに居ることに感謝し、

この物語を母に捧げます。

「ママ、産んでくれてありがとう。」


私は今、幸せだよ。。。


母の遺骨は半分はお墓に、半分は母の好きだったグアムのタモンビーチの沖合いに散骨しました。

海は繋がっています。

どこで潜っても私は母と一緒です。


















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