おじいさんとの対話 10
結核の原因と原理
これまでおじいさんを訪ねて、感染症の元祖的な天然痘や、伝染病の病原菌とされる微生物(ウイルスや細菌)の役割、そして人体内で働く浄化作用の原理などを何度も繰り返し教えてもらいました。これだけ繰り返すとそろそろ濁脳も解けて洗脳に変わりそうですし、僕も病気の原理についてだいぶ詳しくなったと思います。
ここで、昔は代表的な死亡感染症と言われていた「結核」について少し掘り下げて聞きたいと思います。現代はガンが死因のトップになっていますが、昔は結核が死の病の代表みたいにされて恐れられていた時代がありました。おじいさんは、その時代のひとでしたので、肺結核を主にした多くの医学論を書いていました。
himaari:今は癌、昔は結核というように死の病の代名詞でしたね。でも現代医学の進歩によって「過去の難病」のひとつに加えられてしまいました。それで自然に消え去って行く病気のひとつかと思っていました。
おじいさん:君たちは病名によってまったく別の病気をしているかのように思い込んでいるが、根本は同じなんじゃよ。それが天然痘であろうが、肺結核であろうが、ガンであろうがね。
himaari:おじいさんの時代には今ほど癌は多くなく、結核が重度の病気の代表だったのですね。それでおじいさんの論文も結核の論が多かったわけですね。
おじいさん:いまわしがこの世に居れば、トップの座になっているガンについて多く語っていたじゃろうが、あの時代はまだ結核が上だったんじゃ。
himaari:ところが最近になって世界でまた結核が再登場してきたというのです。既に解決した病気だと思っていたら、どうやら再び増え始めてきたというのです。
おじいさん:それについては既に書いて有るじゃろうが。
himaari:その結核に関連して気になったのが、この前大騒ぎになったばかりの新型肺炎(SARSサーズ)なです。おなじ結核に関連する浄化作用のひとつに思えたからです。おじいさんの論によると、感冒(風邪)から逆療法によっては肺炎、結核に進むという経緯が説明されていましたが、新型肺炎(SARSサーズ)などもこれに類似した浄化作用であると思われますね。という訳で、ひさしぶりにおじいさんの所へ出かけることにしたわけですよ。
おじいさん:ああ、だいぶ見かけなかったが・・・あれから君もずいぶんと歳を取ったんじゃないのかね?
himaari:あちらの世界のおじいさんは相変わらずでしょうが、こちらは時間が過ぎますもので・・・。ずいぶん御無沙汰いたしましたが今回もどうぞよろしくお願い致します。
おじいさん:おや、君かね? だいぶ変化したからわからなかったよ。まあ、よく来たね。
ところであんた、けっこう自分の勝手な解釈を入れているようじゃないのかい?
わし言うことそのままを伝えてないというウワサがチラホラ聞こえているんじゃがね。まあ、根本は変わりないじゃろうが・・
himaari:それは・・・どうも。 勝手に手を加えたりしましてどうもすみません。
メモしている内についつい自分のフィルターが入ってしまいまて。なにしろ半世紀以上も前のおじいさんに会ってお話を聞くというのはむずかしいものでしてね・・・・聞き取りにくいところは私が勝手に付け加えたり、私の解釈で変えたりしまして・・
おじいさん:まあ言い訳はいいから。君の書いたものは君の責任だから任せるよ。君の自由にね。多少は違っていても、それでもわしの説を他人様に興味を持たせるきっかけになると思って、わしも協力してやるのじゃ。
himaari:ありがとうございます。後はこの対話を読んだ皆さんがそれぞれ、取捨選択して戴くということで。とりあえずは脚色の多いこの会話もお役に立つかと思います。
研究者は批判の精神が必要
おじいさん:ああ、そういう事ならよろしい。いずれはわしの研究が始まる事はあの時代に言っておいたが、どうやらそれは、殆ど行われていないらしいね。わしの研究が始まるという事は君との対話の中身の様な事じゃった。研究者とはわしとは全然関係ない第三者の人という意味じゃったがね。
himaari:そうですか、第三者に研究して貰うとすれば、研究とは「批判と取捨選択」が必要という事ですね。おじいさんとのは無関係の立場の人が冷静に公正に判断するという意味ですから。
おじいさん:そうじゃよ。わしの研究とは何かという事も絞っておかないとね。もちろん、わしの中心的柱としたのが、「医学の革命論」のことじゃった。それ以外はオマケのようなものじゃよ。それを知らないで研究など的外れというものじゃ。いかにわしがそれに集中していたかを知れば理解できるじゃろう。
himaari:おじいさんの一番の目的でしたね。それは分かります。研究者はまず最初に一番肝心な「研究材料」に対して、興味を持たないといけないわけですね。おじいさんの信奉者の様な人たちが集まって褒め合っていたところで研究など成り立たないものですから。
おじいさん:そうじゃ。わしは批判を受け入れる事を覚悟して書いていたのじゃ。わしの信者の様な者達ではそれは出来ないじゃろう。
himaari:まずは批判に耐えられること。そして取捨選択される事を恐れないこと。これが出来ないと「研究」にはなりませんしね。
おじいさん:わしはそれに自信があったからこそ、批判を全て受け入れるつもりで書いて残したんじゃ。当然、研究で批判や取捨選択などあっても、それは必要なんじゃ。それが研究する人たちの自由なんじゃ。
himaari:それではさっそくですが、今こちらの世界では新型肺炎(SARSサーズ)とかいうものが一時流行り出しまして、これでは安心して居られないというのが今の世界の情勢ですよ。それに肺炎と言えば、以前にお尋ねしたときのおじいさんのお話を思い出したという次第です。
おじいさん:そう言えば、わしが論文を残して逝った最後からもう半世紀以上も過ぎてしまったのだったね。君の時代の医療の世界では相変わらず薬や手術が主流になっているようじゃな。
himaari:はい、わが国は勿論そうです。日本は世界でも現代医学の最先進国のようです。薬と手術が主流の医療が中心になっていますね。世界でも先進国ほど、そのようです。漢方の国だと言われていた中国でさえも、今は西洋医学が主流となっているようです。
おじいさん:まあ、どちらにしても対症療法の思想では西洋でも東洋でも根本解決は無理じゃろうな。それについて昭和初期の頃から論文にして残しておいたのだが、世間に認知されているのかね?
「今の医学は早晩行き詰まることになる」とね。
おじいさん:いえ残念でしょうが、今のところはおじいさんの説はお蔵入りしているみたいですよ。でも、最近になってようやくお医者さん達からも同じような事を言う人が少数ながら出てきました。きっとその流れが始まったようですね。
おじいさん:そうか、深い真実が伝わるにはまあ100年位はかかるかも知れないな。なにしろそれだけ薬信仰が人類に染みついてしまったからじゃが。時期と時間が必要だという事じゃろう。
himaari:そうですか? 僕の時代に果たして分かるのでしょうかねえ?未だに多くの人は現代医学を最高のものだと信じていますよ。だれに聞いても「医学は進歩している」とね。僕などがおじいさんの論をお話をすると「トンデモ論」と思われて、失笑とか、中には真顔で怒る人も居るでしょうしね。これでは、もう50年もかかるんじゃないかと思う位ですよ。半分はあきらめの気持ちになりますね。
おじいさん:君なんかはまだまだ幸せの世界に居るんじゃ。わしの時代など、まだ不自由な時代であったからね。このような話をするだけで当局が飛んでくる時代だったから、ずいぶんと遠慮して書いていたものじゃ。その論文にしても戦前や戦中は出せば直ぐ発禁となってしまい、当局から呼び出しを受けることになる時代じゃった。そんなわけで、戦後の民主主義の時代になってから、ようやく遠慮無く論文として出せる様になったのじゃ。
himaari:そうなんですか。それで私が聞くおじいさんのお話は昭和20年から30年の間のものが主流なんですね。でも直ぐお亡くなりになって、その意思は中断してしまったのですね。
昭和初期から論文を書いていた
おじいさん:書き始めたのは昭和の初期からだったが、社会に思うように出せるようになったのは戦後だね。だが、いくら民主主義の世の中になっても、この医学に関してはあまり自由じゃなかったようだね。あれから半世紀も過ぎたのに未だにわしの論は広くは認められていないようだから。
himaari:はい、申し訳ありません。僕なども今(平成12年ころ)から20年も前に初めておじいさんのお話を聞いていたのですが、それがどうも・・・・皆さんに伝わらなくて・・おじいさんがあちらに往かれてからも、法律などもあり医療問題は厳しくなりましたし。肝心要のおじいさんの論文はずいぶんとお蔵入りしてしまいまして。表に出ないから殆ど知られないで来ましたね。
おじいさん:まあ、あんたのせいばかりじゃないさ。世間の人が受け入れるには時期が早かったのじゃろうよ。そのお蔵入りじゃが、聞くところによると、わしの論文の中でもっとも大切にしていた医学に関する論文は一時は奥に引っ込められたというじゃないのかいね?
himaari:どうもそうらしかったですね。でも無理ないんじゃないですか?組織団体として存続出来なくなる様な圧力がかかったそうですし、当局や医学界から潰されてしまうでしょうからね。自由民主主義国家とは言っても医師法や薬事法が出来ましたから、怪しい治療法など取り締まりの対象になりますよ。そういうわけで規制が強くなっていったんじゃないかと思いますよ。
おじいさん:わしの説は世界の医学界に落とされる原子爆弾のようなものじゃからな。そう易々と受け入れられるとは思わなかったがね。それにしても長い間お蔵入りされたものじゃ。しかし、それはわしの時代の方がずっと規制が強かったかも知れない。
himaari:僕たちの意思が弱かったのでしょうね。潰れても良いくらいの覚悟でやれば。
受け入れ体制と時期
おじいさん:そればかりではないじゃろう。時代が受け入れる状態になっていないという意味なんじゃろう。いくらこちらで必死になってみても国民大衆がまだそれを理解出来るまでに至っていない。国民から受け入れられないのだから、それは時期が早かったのじゃろう。
おっ、そうそう、聞きたい話は何だったかな?
himaari:あ、すみません。ずいぶんと話がそれてしまいまして。
先ほどのSARSの事ですが、それから結核のことを思い出しまして、それでもう一度おさらいのつもりでお伺いに参りました。たしか、おじいさんの時代には結核が半減したのは医学のお陰だということでお祝いをしたと聞きますが・・・
おじいさん:そうだね。昭和20年代だったね、あれは。当時、結核には特効薬として抗生物質が登場したんだね。そのせいもあってか一時的に結核の死亡者は激減したというので結核半減記念祝の式典」という御祝いがされた訳だ。それに対してわしが書いておいた論を読んだのかね。
himaari:はい、そのころは私もまだ産まれていないもので、当時の詳しいことは分かりませんが、結核にとてもよく効く抗生物質が登場したということですね。
おじいさん:うそをつくんじゃないよ。あんたがまだよく分からない年ごろだったというのだろうが。
himaari:あ、どうも・・・・。すみません。僕が産まれてまだ幼少のころで何も分からない頃だったと言い直します。それで、医学で結核の死亡者が激減したのはどういうわけでしょうか?
「抗生物質登場の時、預言していた結核の特効薬は駄目になる」と・・・
おじいさん:その結核に対しての救世主と言われた抗生物質が登場した頃、私はこう話したり書いたりしておいたのだが、どうやら50年も過ぎていまだに理解できたおらんようだね。
「結核が薬で治ったと思うのは、薬で一時的に固めたまでで一時的に病気症状が減るから効くように思うが、実は小康を得るにすぎないのである。したがって、単に死ぬのが延びただけで、もちろん長くは続かないから安心は出来ないのである。」とね。
himaari:「死ぬのが延びた」というのら良いのでしょう?それがなんで長続きしないのでしょうか?僕も最近までこう思っていましたよ、「戦後数十年たった今では結核は安心できる病気となっています」とね。しかし、そうでなくなったというのには驚き、おじいさんの昔の話を思い出したのですね。もしかしたら、おじいさんの古いお話がまた復活しそうな気がしたからですが。
おじいさん:あの時期に結核は激減して日本中がお祝いしたくらいだからね。誰しもこのまま結核は無くなるだろうと思い込むのも無理はなかったのだろう。そこでどうだね、今は医学の進歩のお陰で結核は無くなったのかね。現代医学はあれから50年も進歩し続けたというのだからね。
「結核非常事態」の宣言
himaari:それがそうでなくなったんです。だからこうしておじいさん所へお話に来たのですから。次の引用記事を見てください。
「結核:長期間にわたり本邦の死因の第1位を占めた疾患
多くの人々が結核の怖さを忘却:全世界では年間3,000,000名が結核で死亡
WHO(世界保健機構):1993年に【結核非常事態】を宣言
適切な対策を講じなければ,今後10年間に30,000,000名が死亡」
さらにこの日本でもついに以下のような記事が出たんです。
「【結核緊急事態宣言】:平成11年7月26日厚生大臣発表
結核は過去の病気ではありません.年間新規発生患者数42,715名,死亡者数2,742名.
これが平成9年度の本邦の現状です.結核と気づかぬ人が多いから怖いのです」
以上の記事を読んで、おじいさんのお話を思い出したという訳なんです。
おじいさん:なるほど、そういうわけかね。それではわしも、半世紀前に書いておいたものがあるから、それを再度を出してみようかね。
「・・・では、今まで通りにしていれば今後どうなるかというと、むろん時の経つにしたがい、再び浄化が起り始め患者の数も増すので再び薬を用いるが、今度は以前ほどに効かないから毒をいっそう強めた薬が出来る事になるのはもちろんで、ちょうど麻薬中毒患者と同様である。そうしている中にいよいよ効かなくなり遂には全然効果がなくなると共に、今までの強い薬毒の浄化も加わって悪性結核激発となり急死する者数知れずという事になろうから今よりも幾層倍の結核患者が出来るであろう。以上のような訳で、その時になったら今度の記念祝典を憶い出して身が縮むであろう。」
himaari:まあ、全部ではないけどかなり当たってきましたね。たしかに結核が撲滅したどころか半減どころか生きを吹き返して来たというのは事実のようです。世界中でも多くの結核患者が発生して死亡者も増えているのですからね。
おじいさん:事実はそのまま認めることが大切だよ。もちろんわしの言うことでも間違っている所は安易に認めるべきじゃないがね。それは君たちの賢い判断力と選択眼にかかっているのじゃ。
himaari:それにしても当時から大変なことをおっしゃっていたんですね。国民が御祝いをしているときにですから。
おじいさん:「私はこの様な悲観的な事は言いたくはないが、そうなるのは今から判っている以上、警告せざるを得ないのである。」と書いておいたのは、それなりの確信があったからじゃ。わしはその先がどうなるか分かっていたからじゃが、世界中の医学者達でさえもそれは予測出来なかったわけじゃ。もっとも誰かが分かるくらいならわしの出番もないのじゃがね。
himaari:そこで、なんでおじいさんはこの結核が再び頭を持ち上げてくるということを知っておられたんですか?
おじいさん:なあに簡単じゃよ。それは浄化作用の原理と薬毒の関係を知っていれば、誰でもこんな答えは出てくるものじゃ。これは自然の法則だからじゃ。人間の方でいくら努力を尽しても自然の法則には適うはずがない、従って最後は自然に従属する以外にじゃろう。
himaari:自然の力には敵いませんよね。その自然の浄化作用というのは体内ばかりでなく地上全般で行われるのですね。
おじいさん:次も先の続きじゃが、これだけハッキリと言えるのは薬と病気の関係を知っているからじゃ。
「ここで重ねて言うが、今日のごとき死亡率半減期間は一時的であるから再び頭をもち上げ始めるのはもちろんであるから当局も一般人も大いにあわて出し、結局医学が今日の新薬恐怖時代を作った事に気が付くことになるのである。」
himaari:しかし、今ではその結核時代を超えてガンがトップになってしまいましたね。そこで、浄化作用の原理で「薬は一時抑え」という事を思い出しました。まさか半世紀以上も過ぎてからとは。
しかも結核よりも悪質な癌になって浄化が行われるとは、さすがのおじいさんもそこまでは言われなかったようですね。
新薬の効果が半病人を造る
おじいさん:私はこうも書いたおいたじゃろう。
「新薬の効果によって直ちに死なない半病人が増えるからこわれ物扱いをされなければならないような消極的健康人が氾濫し、元気よく長時間働らく事も出来ず軽作業がやっと位の人間が夥しい数に上るであろう。としたら国家全体からみても由々しき大問題である。」
himaari:「ただちに死なない半病人」か。なんだか今の日本人を見ていると体格は良くなってもひ弱な人間が増えたと思えますね。何でも「無理をするな、疲れるような仕事はさしひかえて、体をたいせつに。」というようにね。そしていつも栄養いっぱい、美味いものをたらふく食べていても、まだ足りない、「栄養、栄養、」といってビタミンだのサプリメントだの常に不健康で栄養不足であるかのように言われ続けて。
では、どうして結核になるのかという事と、なぜそれが減少したのかということを詳しく教えてください。
おじいさん:それに対して書いたのが「いかなる人間も、一人も例外なく先天性及び後天性の種々の毒素を保有している。その毒素は平常時は体内あらゆる局所に団結しているが、一度浄化発生するや、溶解し始める。もちろんその場合、発熱、咳、節々の痛み、食慾不振等の初期の結核症状が表われるのである。それによって保有毒素は排泄されて真の健康体となるのであるから、浄化発生こそ大いに喜ぶべき事で、自然の大なる恩恵である。」
を君はよく読んでいたのかね? 何度も聞いてくるという事は。
himaari:あ、はい、いいえ・・・・じつは、これは僕のためだけでなく、ほかの人に教える為ですよ。
おじいさん:君もうまいねえ。時には調子もよいこともプラスになるか。しかし、君は自分の言葉で語って説明できないのかね? あれから何年もたっているはずなのに。
himaari:はい・・まあ・・出来ますよ。それでも、結核症状も結局は体内毒素の浄化作用ということくらいは、この僕でも理解しているつもりです。
毒素排除作用を停める医学
おじいさん:そうじゃよ、基本が分かっていれば良いのじゃ。しかし、もっと細かく言えば「ところが医学はこれを反対に解釈したため、病気というものを、健康上不可なるものとして恐れ、極力鎮圧手段に出るのである。すなわち、せっかく毒素排除活動が起こったのをもと通り固めようとする。それが医学の療法であるから、今日までの医学がいかに誤っていたかを知り得るのである。」と言うことじゃ。
himaari:やっぱり僕より詳しいですねえ・・(当たり前か)
でも、現代医学と言っても数千年も続いて来たから立派な学問として出来上がったものなんでしょうね。それがいつのころから間違ったのでしょうね?
おじいさん:根本の「病気は浄化作用」が分からなくなった時からじゃろう。その為一時停止する方法として毒、即ち薬が用いられた時からじゃろうな。
himaari:「毒を薬として用いた時代」というと、相当大昔でしょ? それをひっくり返すような話ですからねえ。そして、病気の本態までひっくり返る話ですからねえ。
体内毒素の排除作用を浄化作用というんですよね。そしてそれを病気と称した。しかし、人間はそれを勘違いしてしまったというわけですね。間違いの始まりはその浄化をくい止めようとした時からなのですね。でも無理もないですよね、浄化作用と言っても痛み、苦しみが伴いますからね。
おじいさん:それは借金と同じようなものじゃ。最初の催促で返しておけば軽くて済むものを、何度も借りては支払いを延ばして来たからなのじゃ。元金に利子が付いてだんだんと返済が苦しくなるのと同じ事なのだよ。返済を延ばすほど、それだけ苦労が増す。
himaari:そうかあ・・!借金かあ・・、薬毒の借金・・・いや一時的に苦しみ逃れの借薬(しゃくやく)、借毒(しゃくどく)とでも言うんでしょうか。その体内の毒素というのは薬が主なものになるんですね。
おじいさん:今は肉体的に説明しているからね。薬以外でもいろんな毒素は溜まるものじゃが、特に君たち近代になってからは農作物や食品添加物、その他環境汚染物質などが加わっているかじゃろう。
himaari:おじいさんの時代よりもずっと種類が増えたわけですね。そのうえ、浄化しないように多種類の近代的薬物、それに予防接種なども。溜まり溜まる時代において、薬ばかりじゃなくなったんですね。
最近の調査では肉食が一種の毒素になるというらしいですよ。
おじいさん:肉には一種の毒素があるともいうことは西欧食の民族に癌などが多いというのもあるだろう。そのうえ想念であっても人間は体内に毒素を作り出す。だが今は物質面だけでの話になるから話は半分だね。
おじいさん:想念とか感情とか気持ちなどが病気の原因になるということですね。そちらは目に見えない原因から血液が濁るということですか? いまのところは物質的な面での原因を主としていますが、現代ではその想念とかも立派なエネルギーだと言われるようになりましたよ。
肺結核の原理では肺臓は液体毒素の通過駅
おじいさん:とりあえずは肉体物質面で解説しているわけじゃが、その想念エネルギーとやらの方面は君に詳しく調べてもらう事として。
さて、物質面での毒素、つまり主に薬毒だが、結核の場合の排毒の経過液としての肺臓の役割だが、こう書いておいた。
「そうして薬毒が体内の各局部に集溜固結して、その浄化作用として感冒がおこり熱によって溶解した液体毒素は痰(タン)となって肺臓を通って出ようとするのである。というわけで、肺とは喀痰排泄のための“通過駅”ともいうものであるから、痰はいったん肺臓内に滞り、咳というポンプ作用によって咽喉(のど)を通って出るので、咳と痰が出れば出る程よく浄化される訳である。」
以上が結核症状においての肺臓の役割についてだった。
himaari:なるほど、肺臓の役割は溶解毒素の通過駅というわけですか。そこに一旦集まった毒素が咳によって吸い出され、口から痰となって次々と排泄されて行くのですか。咳というのは肺から痰を吸引するポンプ作用とはね。そうなると体の仕組みとはじつにうまく出来ているのですね。結核といえども健康保持のために働く浄化作用で、出てきた苦痛症状を病気と呼んだわけか。喘息なども似ていますね。
おじいさん:そうじゃな。すべての病気というものがこの浄化作用の原則に基づいているのだと理解すればよい。いろんな形で排毒されただけ、内側はきれいになるわけじゃ。したがって病気を通して人間は真の健康体を取り戻すことになる。要は原因は人間が作って、自然(身体)が癒す(修復する)ということじゃ。
ただし、ひとによって毒素の固結場所が違ったり、薬毒その他の毒素の種類が違うことで病気症状も千差万別となるのじゃ。
himaari:同じ病名でも人によって異なるわけか。でも共通しているのは浄化して清浄化しりょうとする働きなのですね。
けれども人によっては浄化の強弱で身体が保たない人もあり得る訳か。
おじいさん:しかし病気はけっしてマイナスになるために起こるんじゃないという事だけは理解しておく事が大切なのじゃ。それはひとり一代だけの問題じゃない。それだけ長い間に溜まり続けたので誰かがそれを大量に受け継ぎ浄化するとしてもどこかで浄化しなければ人類は存続できなくなる。その過程で中には浄化作用が強くて身が持たない人も居るわけじゃ。
himaari:たいていの人は自然の浄化作用に任せて一時的に苦しくてもがまんしておれば自然に治癒するわけでしょうね。ただし寿命の範囲内でしょうけど。そして毒素が出ただけ健康を回復して死ぬ時期まで生きるわけですね。しかし例外の人も居るために、多くの人が当てはまると思って病気を怖がった。一部の人には気の毒ですが結局最後には病気とは本当にありがたい浄化作用なんですね。
おじいさん:重度化して死亡するような人が増えるというのは病気の事を悪く解釈し、余計な事をして浄化作用を止める事に多くの原因があるのじゃ。病気とは浄化作用という事を逆解した医学が、咳と痰を極力停めようとするのであるから実に驚くべき錯誤だったのじゃな。
himaari:治療と思って余計な手出しをしてしまうわけか・・・毒素が出ようとして症状が出るのを抑えつけて止めるわけか。
おじいさん:この結果、痰は肺臓内に滞留したまま日を経るにしたがい、漸次固まってしまい、しばらくすると再び浄化が起り風邪を引く。その時医師に診てもらうと、発熱と肺臓内にある痰の固結、咳や吐痰、喘音等によって結核初期と断定するのである。
himaari:そうなんですか逆に取ってしまい、その歴史が長く続いた為に人類は病で死ぬほどの毒素を保有してしまったのかな? 寿命で死ねない、病気で死ぬ身体になってしまったのか。毒素が少ない内なら安心して浄化を済ませられるものを、それを止めようとするから最初は軽い風邪の症状でも次々と病気の元を増やしてしまうのですね。そして体質が悪化して浄化も重度化してしまう。
風邪は万病を防ぐ元
おじいさん:わしがいつも「風邪こそ万病を防ぐ元」という意味が分かるであろう。軽い内に済ましてしまえば、重病など必要なくなる。したがって病気で死ぬなどと言うこともやがて無くなる様になる。
himaari:それで風邪をこじらせるという意味が分かりました。自然に任せて浄化すれば軽く済んでしまうのに、それをまた押し込めてしまうからついには肺炎や結核にまで進んでしまう。
そして究極は治らない結核にまで進んでしまう。さらに結核を止めたら今度は癌の急増でもっと重病が増えてしまった。こんな事を繰り返してきたのが人間と病気の歴史でしょうかね?
おじいさん:病気という浄化作用も初期のうちなら本来ならば安心して治り、再び健康になれるのだが、人間の間違った解釈により逆に浄化停止方法を続けると、いつか治りがたい病気が増えてどうにもこうにもならなくなるわけじゃ。
himaari:持続可能な医学では無かったのですね。近代医学になってからそれが急速に進んだのでしょうね。そして、治りがたい病気が文明人に蔓延して来たと。出さないから体質が悪化して来たわけかな?
おじいさん:しかもそれは子供などにも受け継がれて行く体質なのだから、一代限りでは終わらなくなるのじゃ。
おじいさん:そうですか。生まれながら弱い子供など、同じ親の子でも異なりますよね。それが体質を受け継いだ差というものでしょうか。 親の体質改善が子供を通して行われるというのでしょうか。
おじいさん:一人の体質悪化では済まなくなるわけじゃ。子どもの体質まで影響するからね。
さて続きじゃ。
「なお、また前の時には軽微な肋膜炎もあったのでその固まりが溶けて肺から出ようとする。 これを肺浸潤といい、首や肩の凝りが溶解し、肺の上部から侵入するのを肺門リンパ腺、又は肺尖カタルというのである。」
himaari:なんだか難しい言葉はさっぱり分かりませんが、簡単に言えば「自然は出そうとする」のに、「医学の方では出さないようにする。」ーーーーこの違いでしょうか?
医学の進歩とは毒素固め方法の進歩
おじいさん:そうじゃ。体内の汚物毒素を出すか出さないかの違いじゃな。医学は学問的に詳しく分析して症状を重視するからいろんな病名や症状命を付けるだけじゃ。
根本は体内清浄化作用の経過を言ったまでのことじゃよ。
これを一言で言うと「病気とは自然浄化によって体内の汚物が出ようとする。それを医療は出さない様にする。」
もちろん服薬も注射も安静も何もかもことごとく「固め手段」であるから、『医学の進歩とは毒素の固め方法の進歩』でしかない事は余りにも明らかであろう。
himaari:「医学の進歩とは毒素固め方法の進歩」とは驚きですね。
病気を治すのでは無く、病気を温存するというのか。そういえば、昔「毒をもって毒を制する」と杉田玄白先生もおっしゃっていますが、“毒を制する”というのは“固める”という意味だったんでしょうね。
ところで、その「医学の固め方法」として予防接種はどうなんでしょうね?
僕たちが子供のころから受けて来た予防注射は、いまの時代でもやっていますが。
BCGと予防注射
おじいさん:それについて「近来結核の早期発見を奨励しており、その唯一の手段として用いるのに、ツベルクリンの注射がある。そうして反応のないものを陰性といい、紅く腫れるるのを陽性といい、陽性に対しては先ず半ケ年間は結核発病の危険あるとして、その問一ケ月に一度の試験注射を行うを可としている。半ケ年を経て異常のないものは一先ず注射を解くが、それでも当分三ケ月に一回の注射を励めるのである。最初半ケ年の要注意期間中はなるべく過激な運動を避けるように注意を与える。というのはそれを守らないと、発病の危険があるからというのである。」
以上じゃ。
半世紀も前だったが参考になるかね。BCGを国を挙げてやっている頃からわしは否定してたのじゃが、今でもやっているのかな。
himaari:ツベルクリン注射ですか・・・・なつかしいなあ。あのころを思いだしますよ。子ども頃は、学校で強制的にされましたね。ところで、今のやり方は詳しくは分かりませんが、基本は同じなんでしょうね。
おじいさん:結核の判定に使われていたツベルクリン反応自体が大いに考慮する必要があるのじゃ。
「最初ツベルクリンの注射によって陰性であるという事は体力劣弱にして浄化発生の力がないからで、それに引きかえ紅く腫れるのは浄化力旺盛であるからである。すなわち紅く腫脹する理由は、体内に注射液という異物が侵入するためその異物を体内深く侵入せしめざるよう、いわば防衛手段が発生するのである。その防衛手段とは血液が異物侵入局部に集中し、異物との闘争を開始するためである。その結果異物の毒分を弱めて侵入の害から免れようとするのである。」
himaari:へえ~、毒物が入ってくるとその毒物を弱めようとする力が働くんですか?
それで、「薬を長期間使用すると薬の効果が少なくなってくる」という話があるようですね。
おじいさん:その原理としてだが、
「右の理は、最初陰性であったものが、再三注射するや陰性が陰性に転化する。これを医学では陽転というが、このわけは注射液が少量のばあい弱体者は浄化発生の必要が余りないが、多量になる場合はそれを防止するだけの浄化力の発生が必要となるのは当然で、自然は人体擁護の手段を遺憾なく具えているのである。」
himaari:そういう原理ですか・・・・。それではツベルクリン反応はいい加減だというのですか?正確に判定出来るほどのものでは無いとおっしゃるんですね。ツベルクリン反応の結果で結核を断定することの危険性は、最近では一部の医学関係者でも言うようです。
おじいさん:結核について、いずれはわしの説も受け入れられる時期が来るだろうとは思っていたが、どうやら浄化の主流が癌に移ってしまったようじゃな。結核の解剖ではわしの説も興味をもたれないだろうが、人体浄化作用の原理的な解明の基礎となるじゃろう。
himaari:はい、いまや結核はほとんど忘れ去られてしまい、癌が死因の一位となっていますね。それにしても、浄化力が弱い人の方が陰性とはね。異物の侵入に対して抵抗力のある人が陽性になるんですね。
咳は痰を吸引するポンプ作用
おじいさん:次に
「元来肺臓という機能は前に述べたごとく、体内各局部の固結毒素が発熱によって溶解液体化したのをいったん肺臓が吸収する。その毒素は間もなく喀痰となって、次々体外へ排泄されるのである。その際の咳嗽は喀痰を吸引するポンプ作用であるから、咳嗽(せき)の後は必ず喀痰(たん)が出るにみて明らかである。」
himaari:なるほどよく出来ているんですね。吸い出すためにポンプ作用として咳が出る。そして肺臓内の痰を外に出そうとするわけか。肺臓とは呼吸ばかりでなくゴミ収集所みたいな機能もあるのでね。ゴミとは毒素でしょうが。
各家庭(体の中)から集めたゴミ(毒素)を集積所(肺臓)にいったんまとめて(固結)おいて、ある程度溜まったら、次はゴミ収集車(白血球など)が運んで行く。それには発熱(毒素固結箇所)で液状化して運び(移動)し易い形にする。実にうまく出来ている。
おじいさん:医学では肺臓が病気の源だと思い込んでいるが、それは中間ゴミ処理場のような役割じゃ。集めてから排毒する中間的働きをする。病とは全体的な働きなのじゃよ。人体内の浄化作用という総合的機能のひとつが肺の働きじゃ。
himaari:肺臓もそうですが、私たちの身体の働き機能というのは実に素晴らしいものですね。毒を弱めたり、また身体中の毒素を局部に集めたり、今度は外に出してやったりする。中には全体のために一部の細胞が毒素を引き受けて処理したり。人間とは総合機能体として健康を維持しているんですね。その働きの一環として病気がある。病気とは健康維持のために働く浄化作用だとはね。
おじいさん:人体の神秘的な働きは、人間が研究して確認するまでもないが、そこまで確信する為に今の医学は研究を続けているようなものじゃ。だが最初の視点が逆方向だったために研究が壁に突き当たるわけじゃ。
だが、いずれはこの人体機能の素晴らしさに気づくときが来る。人間は既に与えられていたこの素晴らしい能力に逆らわない事が一番の健康法である事に最終的に納得するだけじゃがね。もっとも人間が納得するも何も、人間が造られた時点から機能しているわけじゃ。
himaari:そうか。最初からあるのにそれに気づかなかっただけで、そもそも研究など必要なくなるって事ですか。
おじいさん:人間の方で原因を造って、それを自然が調整して癒す。しかし、その過程で苦痛を味わうから、造った張本人を棚において、他に原因を求める。その研究を真剣にやっているわけじゃが、いずれ気がつくときが来るじゃろう。
「かくして体内の不純物は清掃され、その結果健康は増進されるのであるから、実に自然は人体の健康保持に対しよく出来ているのである。」
himaari:でも今のところ、その様な理解まで行かないので、むしろ人間の方が自然治癒の邪魔をしている方が多いというわけか。けっきょく最後には人間の方が降参する、いや賞賛するのでしょうが、今のところ逆にとっている医学研究というわけか。だから余計な研究と。
体内毒素の一時的停留所
おじいさん:そのよい例が結核でよく分かるじゃろう。
「右の理を知れば肺患などはあり得るはずはないのである。なぜならば、右のごとく体内毒素が排泄の際の一時的停留所ともいうべき機能であるからである。その理を知らない医学は、一時的滞溜の喀痰を肺自体から作られたものと解釈するのである。」
himaari:なるほど、なるほど、何度聞いても、なるほど・・・。よく僕もゴミ出しをさせられるのですが、収集車が来るまえにゴミ置き場に一時的に置くんです。そこを汚いからと言って一時預かりの場所を無くしてもゴミはなくなりませんよね。ゴミは家から出すんですから。
医学は一時預かりの場所(肺臓)をゴミの発生場所だと思っているのですね。だから治療法が検討違いとなってしまう。肺臓だけを対象にしても元から治るわけじゃないのですね。一時的集溜場所を閉鎖してみても、ゴミはどこかで溜まるわけですからね。結局は袋に入れて収集車で運び出さない限り家の中はゴミの山か。
おじいさん:その通り、部屋の掃除嫌いの君も少しは理解できたかな。
そのゴミ、つまり毒素を一時的に圧縮して身体の一部に納めるのが第一浄化作用であり、「毒素集溜固結作用」という事になる。しかし何時までもゴミがあるとすれば家の中はとても活動しにくいじゃろうが。しかも汚物は腐敗するものだから血液は汚れ、細胞も害を受けるじゃろう。結局不要なゴミは外に出さなければならない。そこで第二段階としての排毒の為の浄化作用が起こるわけじゃ。
himaari:身体の局所に集まって固結していた毒素が溶かされて、いったん肺臓に集まる。そしてその毒素が排泄に向かう段階が結核ですね。咳や痰として、時には血液も混じって。
おじいさん:一般的には苦痛などを伴う浄化症状が表に出るから「病気」と名付けるんじゃ。それが何の苦痛も伴わないとすれば、誰も病気とは言わないだろう。ところが排毒作用には当然毒素がある移動と供に苦痛も相当ある。発熱で食も減退したり体も衰弱するわけじゃ。時には体力が保たないため死に至る者もいる。
himaari:浄化作用の苦痛と死に対する恐れや不安ですね。だから浄化作用を停めようとするのが医学(現代西洋医学)か。だけどその治療の柱となっているのが薬という毒だから毒を用いて浄化作用を停めるのは逆療法となるのか。しも停める事に成功したとしても、汚物ゴミ(毒素)が別のはけ口を求めていろんな悪性な病気として出て来るんでしょうね。 それで肺結核が減ってきたら癌が増えたのでしょうか。
おじいさん:そのガンをさらに叩いているのが君たちの時代のようじゃな。そしてガンを叩くとは人間を叩くようなもので、最後には人間そのもの方が参ってしまうからね。「ガンは縮小したが人間も寿命が縮小した(亡くなった)」とね。
himaari:「病気は治ったが人間は死んだ」というブラックジョークですが、その理屈からいうと結核の激減も安心出来ないというのもようやく分かりました。要は体内の毒素汚物があるうちはどんな病気であっても、叩けば叩くほど別の穴から出てくるモグラのようなものなんですね。それでは、もう少し結核ついて続けてください。
おじいさん:癌は君たちの時代だから、ワシの時代の主流だった結核の症状についての続きになる。
「医学の診断の結果ラッセルを認めることになる。ところがラッセルは呼吸による喀痰の響きであり、それを病気と誤り、医学は滞溜喀痰を固める手段をとる。その手段とは安静、薬剤使用、湿布、水冷等」じゃな。だがこれは、「せっかく清掃のために汚物が肺臓という中途の機関まで来たのを食い止めて排泄されないよう極力固めようとする」ことになる。それが「濃度化した喀痰がレントゲン写真に雲影となって写るや、医学では結核と断定する。」これが結核の真相というわけじゃ。
himaari:結核の真相か。せっかく体内各所から集めたゴミと言うのは、つまり毒素ですね。これを肺臓内に止めようとするのが医学なんですか。それじゃ、いつまでもゴミ溜めは汚いまま、毒素が集まったままですね。
おじいさん:そういうことじゃ。医学は極力症状を止めようとする考え方が主となっているから「症状は悪だ」という考えじゃ。そのため結核にしても症状が出ないように押さえ込むわけじゃ。そのやり方が浄化停止によく効く「薬剤」という名前を付けた「毒物」というものじゃ。
himaari:真実としたら、ことは重大ですね。意識的でないとしても、結果的に「医学が結核を作り出している。」しかも「結核を治さないようにしている」という事になりますからね。
信じがたい、いや、信じたくない話ですが。
先に言いました現代にまた「結核非常事態宣言」などというものが出てしまったという事から考えるとかなり真実性があるのかも知れない。
おじいさん:真実かどうかは君の判断に任せるよ。わしは論も大切だが結果を重視して欲しいと思っている。
himaari:実際にこの宣言によって、医学は結核を克服どころか解決できていなかった訳です。そうなると、おじいさんお話による「結核撲滅どころか医学が結核を増や事になる」という話もまんざら嘘ばかりでもないのかな。
おじいさん:増えるのは結核ばかりではない、他の悪性の病気にも転化してしまうからじゃ。体内のゴミ(毒素)が消えない限り病気は増え続けるわけじゃ。
himaari:原理としては毒の関係が病気の解明になりますが、医学ではそうは言いません。結核菌が悪さをする、つまり結核菌の毒が肺病を造り出すというような。
そこで結核というのは結核菌の伝染によるものでしょう?
結核菌は病気の原因では無い
おじいさん:ここで問題なのは結核菌そのものが病気の原因では無いということである。
それについて医学では菌のみに囚われ、菌さえ殺せば結核は解決出来るものと誤信している事である。
himaari:おじいさんの時代にはほとんどが菌だったんでしょうが、現代では主にウイルスが原因とする病気が増えてきていますね。どちらにしてもこのような微生物が侵入して毒性を発揮するから病気になるのだとしています。
おじいさん:いまは結核についてじゃから、他の病状に対しての話は別のところで。
だが、病原をヴィールスや細菌にするのはやはり見当違いじゃ。それらは「結果」じゃ。結果を「原因」だと思い込んでしまった根本的間違いなのじゃ。
himaari:え、菌が原因じゃないのですか?
それじゃ「病原菌」とか「病原ウイルス」とか言うのは、実際は「病結果菌」とか「病結果ウイルス」とでも言わなきゃならなくなるでしょ。
おじいさん:そのとおり、そこに居るから何も原因とは限らない。むしろ結果として見た方がずっと解りやすいじゃろう。目に見えないような極小な生き物をよく理解できないのも無理はないじゃろうがね。ただ発見しただけでは働きが解る事とでもないからじゃ。
そこには細菌の存在理由というものがあるはずじゃ。その理由さえ掴めば人間と病気との関係も分かるのじゃ。だから先ずバイ菌の解剖論じゃな。
himaari:バイ菌の解剖論ですか。バイ菌と言うと病気の原因となる病原性細菌の事ですよね。でもそれは病気の原因ではないとおっしゃる。
おじいさん:結果じゃよ。しかし菌といえどもまさか偶然空中に発生したものでなく、また、人間の体内に理由も無く湧いたのでもない事はもちろんじゃ。その発生原因が必ずどこかにあらねばならない筈である。それがいよいよ、わしによって発見されたので、以下詳しくのべてみよう。
himaari:結核菌も結果であって、肺結核の本当の原因じゃないと言うのですか? 医学の言うな病原では無いとすれば、その理由を詳しく知りたいものですね。
結核菌は自然発生、感染しない
おじいさん:先ず「結核菌は自然発生であって、決して感染ではない。」しかも最初のある時期までは菌はないのである。
himaari:え、感染ではない!? しかも、自然発生ですって?
おじいさん:こに辺りからわしの論が受け入れがたいものになるじゃろう。よくよく良く読み、検討する必要がある。
だからといって、すべて鵜呑みにする必要もないし、かと言って「非常識論」と言って最初から検討もしないで捨て去ってもいけないのじゃ。
himaari:前置きが長いですね。完全なる非常識論ですか。 それを受け入れるかどうかは別にして聞かせて戴きます。全然検討もしないで捨て去るってのも愚かですからね。どんな非常識な論であっても一応聞きますよ。
おじいさん:「結核は感染でない、発生」だという意味をこれから話してみるが、その前に無菌でも結核はあるという事だ。
「・・・しかしながら、無菌喀痰といえども排泄されずして長く滞留する以上固結するから益々排泄困難になるばかりか、人間の体は体温という微生物発生に好条件があるから喀痰が古くなれば結核菌が自然発生するのは当然である。」
ということじゃ。
himaari:無菌結核というものもあるのですね。そういえば他の感染症と言われるものにも菌やウイルスが発見出来ない感染症と同じ症状が有るとは聞いていますし、刺激によって感染症と同じ症状が出る実験報告もあるとか・・・
病源が居ないのに同じ病気症状が起こるということ。それが不思議でしたね。病原が細菌やウイルスだとすれば矛盾した話ですからね。
おじいさん:それは病源では無いという事だからじゃ。もしもそれらが病源とすれば必ずいつもそこに居るはずじゃ。しかも居ても発症しない場合、居なくても病気発生する場合、というように決定的な因果関係がない事になる。しかし、菌やウイルスが後から自然に湧いて出てくるとしたら意味が分かるじゃろう。
himaari:病原性細菌やウイルスは自然発生したもので結果だというわけですか。しかし、自然発生と言うと「無から有が生じる」って事になりますよね。
科学では「無」は何も無い状態だから、そこから何かが生じる事はあり得ないって事になりますよ。
おじいさん:君たちが「科学」と呼んでいるのは「唯物思想」から生じた「唯物科学」じゃからな。「見えないもの」や「計測できないもの」は無い」とされているわけじゃ。
ところが昔は無いと思っていた世界が実は有ったとなる話はよく聞くだろう。それは計測機器の進歩発達でどんどん見えない世界が見えてきたというわけじゃ。
ゆえに、その「無い」という世界は君たちの時代ではどんどん奥へと入っているじゃないのかね。
himaari:そうですね。いまでは量子物理学とかで今まで無いとされていた「非顕在な世界」の奥へと認識が深くなっているようですね。今まで無かったものが「有る」となったりで。
おじいさん:するとそれは元々「無」じゃなかったわけじゃ。「有る」のに人間の知識が狭かった為に「無い」とされていただけの事じゃ。人間が「計測できない」ので「無い」と思い込んでいただけの科学だったわけじゃ。
無の世界は有の世界
おじいさん:いずれは「無の世界」が「実の世界」であったと認識できるほどまで科学が進歩するじゃろう。わしは既に無の世界は有の世界だという前提をもって科学するのだから、まずは「無の世界を有る」と「認めること」から始めるのじゃ。
himaari:はい、唯物科学の方でも「仮説」が先となっていますからね。本来は検証されてから認められるものでしょうが、先に仮説を立ててしまわないと科学は進歩出来ないわけですね。同じ意味で、おじいさんの説もとりあえず仮説論として聞いてみます。
おじいさん:そうじゃな。最初は推測でも仮説でも想像でもどっちでもよい。
問題はそれによって現実が理解できる様になる事と、それに沿って実際に役に立つ結果が出せるかどうかなのじゃ。一番重要なことは理論や理屈などでは無い、現実に結果が良いということじゃ。人間に役に立つかどうかが問題なのだ。医学の場合は学理が高邁な理屈でいくら立派に思えても、それが実際に病気治癒と健康に役立たなければ何の意味も無いであろう。
himaari:論より証拠ですか。学理などと言うと立派な研究者のものでいかにも科学的な気分がしますけど、素人にはさっぱり意味不明な論文が多いですよね。実際に肝心の結核が解決出来ないとすれば絵に描いた餅ですものね。
おじいさん:さて、実際の結核菌の論だが、「そうして結核菌であるが、これは医学で言うように伝染するものではなく自然発生であるというのは、肺臓内に固めた痰は、時日を経るに従い腐敗する。
腐敗すれば微生物が湧くのは物質の原則であり、しかも体温という好条件がこれに拍車をかけることになる。」
himaari:とすると、肺結核とは結核菌が直接の原因ではなく、あくまで液体化した体内の固結毒素が肺臓内に入り、そこに居続ける間に腐敗菌がわくというのですね。つまり伝染と言うよりも体内自然発生するという説ですね。
おじいさん:そうじゃ、自然発生する。しかし、それは無の世界では無い。有の世界から当然のごとく発生して来るものじゃ。
結果として、医学の誤まりは浄化停止の処置を施すことにより、肺臓内に結核菌を作り培養するという訳になるから、この点パスツールの菌の自然発生否定の説はまったく誤りなのである。
himaari:おじいさんは「無の世界」というのはただ人間がそれを発見できないだけで、もともと「有る世界」だとみているのですね。パスツールの菌の自然発生否定説は間違いだとする医学者や生物学者が世界でも少数ながら居るようですが、体制はやはり「自然発生否定論」が主流ですね。
おじいさん:それは未だ科学では発見できない未熟な科学だからじゃ。自分の不明を棚にあげて、「自分の知り得ない世界はあり得ないと断定する」という一種の思い上がりでしかない。
himaari:「自然発生の否定する医学」が言うように、もし菌が自然発生したものでなければ、それは何時、どこから来たのでしょうね? すべてのウイルスや細菌類は宇宙から飛来したとでも言うんでしょうか?それともこの地球上のどこかに何十、何百万年も潜んでいて突然現れたとでも言うんでしょうかね?それを証明出来た人なんて誰も居ないんでしょうね。そうなるとたんなる憶測だとしたら、科学的医学も“非科学的”と言われてもおかしくないですよ。
自然発生を認めない医学の失敗
おじいさん:今の医学がこの「菌の自然発生」を認めない限り、この世の中から感染症は無くならないじゃろう。なぜなら菌を病気の根本原因としているからじゃ。病気の真の根源でないものを対象として治療や予防対策にしているからじゃ。しかも、その菌を殺す行為自体が間違いの上塗りとなっているからじゃ。
himaari:殺菌消毒や抗菌剤などの薬剤のことですね。菌を殺してもその薬剤が有害になるということですか。
おじいさん:菌をいくら殺してもそれは病原でなないからじゃ。
またもうひとつ、精神的作用を軽視していることがある。人間は精神と肉体の両方が備わっている。
「今一つ見のがしてはならない事は、陽性の際、結核発病を注意するがこの事は逆効果となる。何となれば、その一言によって患者は地獄の門に入ったと同様、前途不安に襲われる。もちろんその為の神経作用によって意気消沈はもとより、食慾不振、不眠、神経衰弱を引き起こすのである。中には神経性結核となり生命を奪われる者さえ往々見受けるのである。また陽性後の強労働を戒めるのは、浄化力が発生するからで、医療の固める目的とは反対であるからである。」
himaari:精神が身体を司るという話はよく言いますね。心のひずみが身体に影響するとか。
感情、意識の方が病気を左右するとか。 だから、病名を告げられたり結核宣告をされただけで精神的に参ってしまい、それが肉体に影響するんでしょうね。
おじいさん:結核と宣告したら「治らない」という観念が働くように医学が創ってきたような精神観念じゃな。もっともやることなすことが反自然医学だから、徹頭徹尾心身ともに弱らせる医療を施すのも拍車をかける。そうなると、もう患者は転げ落ちるように病状が悪化して行き、ついには帰らぬ人となるわけじゃが、だれもそれに気がつかないんじゃよ。
himaari:これについては、今の時代では“癌”がその主役ですね。おっしゃるように、病名を宣告されたら最後、“死の宣告”を受けたかのように意気消沈しますよね。昔は結核の場合がそうだったんでしょうね。死の宣告を受けたと思うから意識的にマイナスになり、それが身体に影響するのですね。医学の方でいくら「癌はもう死の病ではない」と否定しても、患者の方では内心「それは治らない病気だ」と思っていますから。実際そうなのですが、医学が治らなくしているとは誰も気がつかないし。
おじいさん:それは病気は浄化作用であると理解すれば、ずいぶん異なった反応を示すはずなのだからどれだけプラスの方に作用するか分からないはずなんじゃ。「病とは天恵の浄化作用」という原理をしれば、どれだけ多くの人が心の安心を得ることか。
himaari:そうでしょうね、病気に対して全然意識が異なるわけですから。「病気は悪化作用」だから放っておくとダメになるばかりという考え方と、「病気は浄化作用」で身体が治している過程なんだという考え方では、天地の差がありますね。それがまた身体の方に影響する。
悪化作用と思う精神的作用が悪くする
おじいさん:どんな病気であっても寿命があれば治ると分かっていれば良いのだが、病気を悪いものとして悪化作用と解釈するから精神的にも益々あせってしまうのじゃろう。そして余計な逆療法を一生懸命施すから結局心身ともにマイナスの方向に向かってしまうのは当然じゃ。
himaari:そうですね。体内毒素の浄化作用なのだからありがたいなどと言う人はほとんど居ないでしょうね。僕だってそうですよ。原理がわかっていてもいざ癌で苦しみ死んでいくのというのは本能的に嫌なものです。
おじいさん:人間はこの浄化の原理を真に理解できるまでは薬というものから離れられないのじゃろう。最終的には死への不安恐怖じゃからね。だから頭の理解だけでは即実行とは行かないわけじゃ。その時点で判断して選択する与えられた自由というものじゃ。それをむりやり変えることは誰もできない。
himaari:でも僕は薬を飲んだ方が楽で長生き出来るとは決して思っていませんよ。だって毒が身体を健康にするなんて。たしかに楽になるのでしょうが、それは一時的だと思いますね。薬は苦しみ緩和してくれるというけど、常にそうなのかは疑問ですね。むしろ苦痛を増す事もあり、命を縮めてしまう事があると思います。確かに一時的苦痛緩和の効能があるとしても、一時的でかえって後が怖いかもしれません。いま話題になっている近藤医師の『患者よガンと闘うな』などもその点を指摘しているのだと思いますね。
おじいさん:自然の働きは神の働きなのだから、それに素直に従うのが一番だがね。大河の流れにそって流れて行く方がじつは一番楽で長生き出来るというのが自然の仕組みだからね。
himaari:神なんて知らないって人は自然と思えば良いんですね。自然に逆らうよりか自然の摂理にしたがっているほうが楽で健康になれる。そうでないとしたら、自然なんてのは気まぐれで当てにもならない事になりますからね。そうなったら人間を守ってくれる自然の摂理などというもの存在しないことになりますし。
おじいさん:医学にしても、あらゆる療法にしても自然の法則に逆らわないという事が原則じゃな。
himaari:そうですね、べつにおじいさんの療法に固執しなくても良いわけで、どんな健康法や療法にしても、「病気は浄化作用」という自然法則に適っているかどうかで判断すればよいと思います。
自然に逆うような方法では、一時的にどんなに効果があっても何時かその反作用が返ってくるかと思います。
医療は借金の法則
おじいさん:簡単に言えば、借金の法則じゃよ。返すべきものは返すだけのことじゃ。それを嫌がって返さないでいれば、いずれツケまで増えて借金の催促が来る。それを拒み続ければ増え続けて何時かは破綻するだけじゃ。
himaari:薬では借金は返せないというわけか。むしろ利子を増やして借金が増える。返すのはつらいから嫌だけどあるなら返さないと最後は破綻してしまう。それが病気としてみるんですね。しかもその借金は自分の代ばかりか、親の代の分まであるかも知れないとすると、ほんと嫌ですね。
おじいさん:実にそれが分からない人が多いのだね。だからもがき苦しんで逆療法を行なうのじゃろうが、それがかえって悪化させたり長引かせたりする。
himaari:結核に限らず、病気とは借金の返済だと思えばよいわけか。それもきれいさっぱり返せば立ち直る。
では、現代医学で否定されている『菌の自然発生』の原理についてもう少しくわしいご説明をしてください。
霊体と肉体
おじいさん:書いた論文より「それに就いて前もって知っておかねばならない事は、人体なるものの構成であって、科学は人体を単なる物質とみなしているが、これが大変な誤りである。
なぜならば、もしそうだとすれば、人間の生死はどう説明していいか分らない事になる。
ここで肝腎な事は、人間の精神即ち心である。これは目には見えないが、科学といえども否定は出来ないであろう。というのは人間は肉体と同様の形をしている霊という無に等しき個体が厳然と存在しているからである。」
himaari:ああ、ついに出ましたね、「霊」という文字。この霊と言う文字だけですぐ嫌悪感を抱く人も居ますし、「霊界」なんて話になると現代人にはタブーですよ。
おじいさん:無の世界を表現するにはこの「霊」という言葉が今のところ一番だとして、採り入れているのだが、君たちの時代はかなり科学も進歩しているだろうから別名でも良いんじゃ。
himaari:そうですね。「霊」とか「霊界」というと、いろんな人の思いこんだ情報が結びついてしまって、純粋に「未だ科学では発見できない非顕在の世界」としては認識できないのですね。おじいさんが語る「霊の世界」とは「非物質の世界」、「非顕在の世界」を「霊界」としているのですね。
おじいさん:物質と非物質の関係だからね。霊界という言葉が嫌なら君の好きな別の名前を使えばよいさね。物質というものがあれば、必ず裏には「非物質性の霊」というものが存在するというわけじゃ。
論文「・・というように霊と体とは密着不離の関係にあり、死とは霊が脱出し、体の活動が休止する事である。そうして心は一秒の休みもなく動いており、人間が何等かの意慾が起るや、問髪を入れず体に移りて行動となるので、体が勝手に動くのではない。
としたら人間の本体は心即ち霊にあり、霊こそ支配者であり、体は隷属者であるから、霊主体従である。この理によりて病といえども最初、霊に発し、体に移写するので、これが真理である。したがって根本は霊を健康にする事である。」
himaari:なんだかよく解らないのですが、病気と言うのは「霊体」が病んでるわけですか?それと「霊を健康にする」とか、「不健康な霊」っていうのはどういうことなんでしょうね?
おじいさん:「霊の実在等というのは非科学的にて問題にされないのである。」科学者の間では、いまだ物質の究極は、真空であり無であり何も存在しないとしているからだ。
しかし一部の科学者に「真空中にはエーテル状の何かがある」としている。そうでなければ科学の理論が行き詰まってしまうからであろう。「しかしこれは物質では無いから発見されることはない。」
himaari:なんだか、論文か話を聞いているのか分からない気分ですが。「物質科学では発見されないから、霊は“無い”」とされるのですね。それに「霊」などと言おうものなら、即「オカルト」でアウトですよ。 よくテレビなどに放送される「霊」などは、浮遊霊とか動物的な霊とか、低級でおぞましいような幽霊の世界だと思われているのですから。どちらにしても「霊の世界」などと言うとすぐ迷信扱いになりますね。
霊主体従の法則=霊体の曇りが濁血に
おじいさん:しかし本当の科学とはこの霊の世界を知らなくては本物ではないのだがね。それを無視するから唯物科学は壁に突き当たるのじゃ。そのような唯物一辺倒の科学だけを正しいとされて教育された世界だから「霊の世界」を認めるのは難しいじゃろう。
そこで先ずは理論として知っておいてもらってもよい。
「霊というのは何かの原因によって純粋透明な人体の霊体に不純的不透明的な無限微粒子ともいうべき曇りが発生するのである。この霊の曇りがすべての病気の発生原因となる。
そして、霊主体従の法則により物質的存在の人体に影響するのである。それが濁血である。血液の汚れとなって移写するのだが、その排除作用が病気と呼ばれる浄化作用なのである。」
himaari:霊というから幽霊とかオドロオドロしたものを想像しましたけれど、もっと根本的なものなのですね。
おじいさん:そして、この病気という事に関して説明すると、
「体的に病気発生の前に霊の段階でも浄化作用が既に発生しているのである。霊界では先に霊の曇りとも言うべき不純な無限微粒子の払拭作用が行われ、それが物質界となる人体に写り濁血の浄血作用、清掃作用が行われる。」
himaari:肉体の浄化作用が始まる前にすでに霊の浄化作用が始まっているというのですね。霊の曇りを解消すると肉体の方では血液の汚れが解消されるという。で、そこに病原菌などはどういう関係なんでしょうか?
ウイルスは霊界から発生
おじいさん:「バイ菌、ウイルスといえども同じく霊界から発生するのである。」物質界では検知出来ないのだから“無から有が発生する”ように見えるが、実在する世界から湧くのだから、初めから“有”なのである。最初はウイルスから、成長して細菌となる。
himaari:パスツールの実験で定説になった『菌の自然発生否定』は物質だけを見ていたからで、その奥に実在するものが在るとは考えられなかったのですね。あの実験で「自然発生」は否定されました。もともと唯物観では「無い世界」ですから、無いところから突然何かが現れるはずが無いというわけですね。
おじいさん:自然界は物質から非物質界へ分離した形ではない。宇宙の無限大は物質の無限小へとつながる連続であり、裏と表、上と下、右と左、経と緯、一体の存在なのだから、微生物も霊界の不純物から発生したそれが連続線上に物質界に現れて来るだけである。
himaari:そして、今の科学で「それ」を発見出来た時点で“存在する”ものになるのですね。しかし、この結核に限らず、多くの伝染病と言われているものには間違った解釈によって、不幸な目にあった人がいるんでしょうね。
おじいさん:医学が真の病気の原因を知らず、誤った治療法を施すことに気づかなければ、これからも無数の病気を作り出すことは確実であろう。
himaari:病気の原因を人間がつくるから不幸な病気として現れる。しかしそれは浄化作用であり幸福への道なのだから本当は幸福なのだ。僕はこういう意味で捉えていたんです
「夜昼転換」で「必要悪」が「不必要悪」になる
おじいさん:それが「夜昼転換」の原理として説いてあるが、人類は進化のためには病気の体験が必要だったのじゃろうね。たとえそれが誤りであっても人類にとって必要だったのかもしれん。だが、それには限度がある。このまま進んでしまっては人類そのものが滅亡に至るであろう。
しかし、ありがたいことにいよいよ時期が来て「昼の世界」がこの地上に現れることになったのだよ。それによって「夜の世界」には「必要悪」とされていた病気、戦争、貧困などが不必要になる。時期が来たということだね。その先駆けとして「医学の誤り」からなのは、人間の健康と生命が基本となるからじゃ。
himaari:間違った医学と行っても、それは人類が共同で作り上げたものですよね。医学者だけが作ったんじゃ無い、皆がそれを支持して応援していたのでしょうね。
おじいさん:本当を言うと、今の医学者たちだけを個人的に非難してはいけないんじゃな。元々の批判の対象は「医学という学問」なのだから。
himaari:でも現実に戻って、やはり医学は誤っているのは事実なんですね。今まではそれでも良かったけれど本物じゃないって。
おじいさん:そうじゃ。今まではごくろうさん、これからはこの方が良いやり方になるよと教えるだけじゃ。それにね、言ったように医学関係者ばかりが誤っていたんじゃないよ。
人類全体としてそれを信じて進んで来たわけじゃからね。
君だって過去世は医者だったかも知れんよ。むやみやたらに薬草を飲ませたりするとか。
himaari:ははは、過去世ですか・・
医学に盲信しているのは医師だけではなく、かえって一般の人の方が信じ切っているのですね。それが今の医学を支えている。上を変えるよりも自分を変えるということだったんでしょうか。
でも、それに気づく時が来るのでしょうか?
おじいさん:どちらがより盲信しているかと言う事は断定出来ないが、『真実』に“気づく”のは簡単ではないだろう。これは力づくで変えることは出来ないからじゃ。
himaari:ごもっともです。力なんてのは最初からありませんね。ごく少数派の意見が通るにはまったく当てがありませんね。不可能に近いですよ、もう世界的に絶対多数派が現代医学ですよ。
おじいさん:しかし本当の昼の世界にはいると真実であれがすぐ分かるようになるさ。わしの時代はまだ夜から昼への黎明の時期だったからね。非常に苦労も多く、受け入れられなかったが、君の時代はうんと早くなるはずじゃ。
himaari:そう、期待したいところですが、いま現時点ではまったく当てになりませんね。もしかしたら、相当先の時代になって「おじいさんとの対話」が出てくるかも。
おじいさん:もうわしの話すことは話してあるし、それを君たちがどう活用しようと自由なんだ。
そして、君たちがより真実を求める心があるなら、もっともっと良い話が見つかるだろうね。それじゃ後は任したよ。昼の世界では君たちひとりひとりが主役の時代になれるようだからね。
himaari:そうですね。いま生きてこの世にいる人たちの選択の自由ですから。
僕も期待しないでやれることはやって逝きますので、またよろしくお願いします。
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ということで今回もおじいさんのお話はとてもスムーズにすすみ、とても有意義な時間が過ごせました。(笑い)
参考になる図書
【 危 な い ぞ 予 防 接 種 】 レオン・チャイトー著
毛利子来監修 藤井俊介訳 社団法人 農山漁村文化協会 発行
【間違いだらけの医者たち】 忰山紀一 著 徳間書店発行
異端の生物学者 千島喜久雄論はノーベル賞に値する