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13/3/1

大学院を卒業する時に就職活動しなかった人の話。

Image by Olia Gozha

一攫千金カンパニー

「卒業したらデビューだな!」

友人Sはそう言った。何と一緒に起業すると言うのだ。なんだかとてもワクワクした。当時M1だったから23だったはずなので、もう13年前だ。2000年頃の話、と書くとずいぶん昔の話に思えてくる。

大学院に入学する当時「卒業したら会社には入らずに、何かしらソフトウェアで食べてゆきたい」と、漠然と思っていた。高校時代の友人Sにその相談をして、自分が作成していたアプリケーション(今だとガジェットなんて言われてしまいそうなとても簡単なものだったが)を見せた時に彼から「一緒に起業しないか」と提案されたのだ。

彼は某英会話学校の正社員だったが、周囲から見ても、恐らく彼自身もその仕事には納得していなかったのだろう。これを良いきっかけと捉えたようだった。

僕はと言えば、当時フリーウェアやシェアウェアという名目でWindows用のソフトウェアを作るのが流行っており、それで食べている人までいると聞いて、自分もそういうやり方が出来ないかと思っていた。会社というものはお金と引き換えに能力を搾取する存在で、そんなところに自分の持つ時間や能力を捧げるのが嫌だと思っていたし、自分がやりたい事をやる為に上司を口説き、上司の上司を口説き、上司の上司の…というピラミッドを越えなければならないのも無駄な事に思えていた。

※今は違う考え方をしている。そうでなければ現在起業していない。

そういう二人がこの方向へ向かうのは至極自然な事に思えた。このチームを一攫千金カンパニー(通称ISC)と名付けた。なぜここまでチープな名前にしたのか少し恥ずかしいが、当時はそれが良かった。デザインに先輩を巻き込み、どんな味付けをしたら世間に受け入れられるのか、熱く語りながら作る時間が始まった。

頓挫

そんな僕たちの計画だったが、一年後に頓挫する事になる。

些細なことが原因だった。ソフトウェアを公開すれば当然質問や不具合に対応しなければならない。僕はそれをある程度Sと分担したりするつもりだった。だが彼は言った。

「俺はソフトの事はわからないから、お前がやってくれ。」

確かにSはソフトウェアを作る事はできない。だが、アイデアを出すだけで何も作らず、対人サポートもしないとなってはこのチームのバランスはとてもおかしく思えた。

「何もしないのならせめて取り分を考えないか?」

僕はそう提案した。

「…考えさせてくれ。」

彼はそう言い、いつまでも返事の無いまま時が過ぎる。

当時の僕は良くも悪くも頑固で、融通の利かない所があった。ISCではSが常に調整役として振る舞い、頑固な僕にうまく合わせていたと思う。ただ、この件は違った。

「…やめよう。」

Sはそう言った。あとになって彼に聞いた時

「もしこのまま一緒に続けて、例えば営業を自分がして、仕事を取ってきた時に、マサシが『気に入らないからやらない』と言い出したら、それを説き伏せられるような気がしなかった。」

と言われた。彼は取り分云々以前に頑固な僕に愛想をつかしたのかもしれない。

Sは今でも付き合いがあり(最近めでたく結婚もして、式にも行った)、学生から社会人前半までで最も長い時間を過ごした友人だ。当時の僕を的確に見抜いていたような気がする。

孤独の再出発

そんな事をしている間にも時間は過ぎる。M2になっていた僕はこの先を考えなければならなかった。Sは

「二人で作った成果はお前が活用したら良い」

と言ってくれたが、当然頑固な僕が従うはずも無く、全てを0からやり直す決意をした。無論、今更就職活動する気は毛頭なかった。元々一人でやると決めていた事だ。一人でもやる。そういうところが自分にはあった。やると決めたのなら誰がやるかは関係なくて、自分がやる。

今でも当時の僕の担当教授と話す事があるが「あの後最初から『就職しない』と宣言した人はいましたか?」とたまに聞いてみる。どうやら最初で最後の頑固者のポジションは不動な様子だ。

時代は動いていて、確かテレホーダイの利用者が減ってISDN、ADSLなんかも世に出てきていた頃だった。僕は「今から新しく作るならインターネットを使った何かではないか?」と思った。

あまりお金をかけずにインターネットに公開するサービスを作るには、自宅からdipを利用して、ノートパソコン(バッテリーが無停電電源の代わり)を使ってやるのが良さそうに思った。セキュリティが不安だったので、簡単なセキュリティの本を買って読んだ。簡単だったが、内容は素晴らしかったと今振り返って思っている。公開ネットと非公開ネットを分けて、ようはファイアーウォールを自前で構築した。バックアップはrsyncを利用して非公開のデスクトップにコピーするスクリプトをcronで毎日4時に走らせた。

軽いサービスを公開するにはかなりのオーバーワークをしたのだと思う。ただ、この経験が僕のその後をずっと支え続けている。わからない事は沢山あって、当時のMLは質問すると「過去ログ見ろ」しか言われないので怖いからROM専。わからな過ぎて一週間放置はザラだった。諦めはしなかったけど。

それまで使っていたC++ではなく、Perlを使ってCGIを作る事を決めた。決めたは良いが、そんなにすぐモノができるわけもなく、成果を持たぬまま卒業する事になった。貯金は溜めていたバイト代があったから、実家にいればある程度はやってゆける算段だった。

サービスを作る間に、今で言うリファクタリングに熱中した。ソースコードを美しくする事が快感になっていた時期があった。C++やPerlだと面倒なので程々ではあったが。

いろいろあったが、僕が作りたかった「リマインダーメール」は完成する。指定した日時に指定した内容を送るものだった。ほぼ丸一年かかってここまで辿り着いた。正直後半はかなりしんどかった。多分少しストレスでおかしかったようにも思う。家族がいてくれて本当に良かった。

誤算

「さぁ、モノは出来たんだ。これをお金に…」

…お金に

…お金に?

…どうしたら良いのかわからなかった。当時でも広告やら何やらはあったので、そういう手段を取れば良いのかもしれないが、そのために必要な事がよくわからなかった。何よりプログラミングしていた時にあれ程あったヤル気がこのフェーズでは全く湧いてこない。

出来上がるまで、出来上がった先の事を考えていなかった…いや、見て見ぬ振りをしていたんだと思う。

正直言って辛かった。一年もの時間をかけて、100万近かった貯金も全てはたいて作り上げたものは、僕に何ももたらさなかったと思った。

そうして一度ドップリ落ち込んだ後

「何でも良いから何かしてお金を稼ごう。」

「どうせならプログラミングで稼ごう。」

「やりたい事ができたらすぐ辞められるのが良い。派遣社員なんかいいな。」

そう思った。そして卒業してから一年後の社会人デビューをすることになる。

長いのでまた次の機会に続ける。

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