おじいさんとの対話 7
伝染病の解明と黴菌有用論
何度も同じような話になりますが、おじいさんからこれからもすっかり洗脳して戴きます。洗脳とは「脳を洗ってきれいにする」と言う意味ですが。
himaari:今回はさらに突っ込んで黴菌の正体に迫るお話をお願いします。バイ菌というのは病源性の細菌の事を言いますね。
バイ菌有用論
おじいさん:本来は黴とか菌というのはその活動するところにはちゃんと意味があるのだが、人間の都合によってバイ菌は悪だと決めつけたような名称じゃ。
世間一般では黴バイ菌は有害とされているが、もし黴菌は有益だといったら狂人としか思うまい。
ところがわしはバイ菌つまり病原菌と呼ばれるものの役割を知ったからじゃが、人間体内の毒血を浄血にする役目なのじゃ。
himaari:バイ菌が有益とは驚きでしたね。病原性細菌が有益とはね。毒素で汚れた血液をきれいにする役割というのですか?
バイ菌のエサは毒素
おじいさん:そもそも伝染病とは浄血作用のことであって、黴菌が体内に入るやたちまち血液中の毒素を食べるのじゃ。毒素が黴菌のエサであり食物となるのじゃ。
そして、体内に毒素という食物の多い程繁殖し、食物がなくなれば餓死する。
himaari:なるほど、エサが無ければ生き物は死んでしまうわけか。それにしても毒素がエサとなるとは、これも驚きですね。
保菌者が発症しないのはエサとの関係
おじいさん:ゆえに保菌者でありながら発症しないというのは、黴菌の食物の量が「黴菌が生活するだけはある」が、「繁殖するだけのものは無い」という訳じゃな。
この理によって伝染病を根絶するには黴菌から食物をとり上げてしまえばよい。
himaari:バイ菌を取り除くのではなく、えさを取り上げるのか。超トンデモ論的な説ですね。
おじいさん:そうじゃろう。今までの医学常識で固まった頭には理解できないじゃろうな。だが、君は常識論では満足しなかったからわしの処へ訪ねてきたんじゃろうが?
自然というものは単純明快でもあり、実に驚異的な働きをしているのじゃよ。人間の浅薄な知識など吹き飛んでしまう事が多いものじゃ。
himaari:一般にはバイ菌、つまり医学では「原性微生物というものが毒素を作り出して人間に害を与える」と言うような話ですが、おじいさんはまったく正反対の説になりますね。それでは「黴菌の食べ物は毒素」とは、血液中の毒素とか細胞液中の毒素というのでしょうか。では、「バイ菌の食物を取り上げてしまう」という意味は?
血液浄化法
おじいさん:「取り上げる方法」は、わしの発見した浄化方法じゃが、ひとつの血液浄化方法とでも云うかな。
himaari:知りたいですね。その浄化法とは一体何でしょうか?
おじいさん:方法は後に説明するとして、それと、君の時代にはたくさんの方法が出てきたようだから、「これが唯一」という事は控えておこう。「わしの時代において」という前提じゃ。それにもともと体内には本来人間が持つ浄化力が備わっているからね。
himaari:あ、そうでしたね。僕が聞いているのは「半世紀以上も前のおじいさん」だというのを忘れていましたよ。あれからこの地球もずいぶん状況が変化したようですから、他にもいろいろな方法が現れても不思議はないですし。
でも、これほど簡単に黴菌と病気の関係を説明してくれた人はあまり見かけなかったので、半世紀も隔たりがある感じがしませんね。
おじいさん:たかが半世紀前じゃなくて、わしは一世紀も前から知り始めたんじゃが、これはずっと大昔からあるの自然の摂理じゃ。もっとずっと大昔の人間は当然知っていたはずじゃ。途中で忘れさられたかどうかして、その事にずっと気がつかなかっただけのことじゃ。医学の方で未だに気がつかないのじゃね。
himaari:そうだとすると、今まで医学が感染症と呼んで恐れていた病気そのものの見方が百八十度ひっくり返ってしまいますね。
人間はずっと病気の原因を探求してきたのでしょう。ようやく近代になって、目に見えなかった微生物を光学顕微鏡で発見してから、病気の原因は細菌だと思ってきました。その後は電子顕微鏡が出来たため、今ではウイルスまで発見しました。そこからは、ほとんどの病気が微生物(細菌やウイルス)病源説になりましたね。
おじいさん:わしの時代には未だウイルスをビールスと呼んでいた時代じゃった。ようやくバイ菌よりも細かいものが見えるようになったばかりの時代じゃよ。
himaari:そのウイルスや細菌を病気の原因だとしてからですね、その予防と治療に薬剤が使われて来たわけです・。でも、おじいさんのこの説が正しいとすればですが、まったく違う対処法になりますよね。
病原微生物論から病原毒素説へ転換
おじいさん:「病原を外からの微生物」とする医学に対して、わしは「病原は体内の血液に含まれる毒素」とするのだからね。病原微生物説と病原毒素説の違いじゃ。
そして感染というのは微生物がその血液の毒を食べてくれるという話じゃ。食べると言うのは分解すると事になるが。
himaari:まったく医学とは正反対ですね。病菌として見ると「有害論」ですが、毒素を食べるとすれば「有用論」になりますから。食べるとは分解するということか。
おじいさん:同じ現象に関してまったく異なった見方をすると正反対のものの様に見えるのじゃ。ドアのノブの回転を部屋の内と外でみているようにね。微生物と体内毒素の関係を医学は正反対の解釈をしていたんじゃ。微生物を敵として見るからこれを攻撃したり、防いだりする事が医療じゃ。それは最初は成功したかのように見えたが、結局は敗北の結末になるじゃろう。それは真の原因ではなく、結果を追い求めるからじゃ。
だが、この先になってわしの説を受け入れるとなるとどうなるかな?
himaari:伝染病に対する考え方がまるで正反対ですから、対応策も正反対になるのですか?とすると、微生物は叩くのでは無く、エサを取り上げるか、元々身体の中にエサを無くす事かな?
おじいさん:当然、感染症に限らないが、病気そのものについての考え方が百八十度転換せざるを得ないじゃろう。体内毒素が病源となれば、原因は外で無く内に在りだからね。
またその対応策で成果が上がれば、今までの常識であった「薬剤で病気を予防したり治す」という考え方は誤りという事になるじゃろう。
himaari:解釈がまったく異なると予防も治療法も正反対になるのかな。血液の毒素を無くすのが本当の予防であり、治療にもなるという方法でしょうか。すると感染症とか伝染病とかは人間にとってこれからも必要なものとなるのでしょうか?
伝染病は必要だが将来不必要となる
おじいさん:伝染病は必要なくなる。が、今は必要じゃろう。
himaari:え?将来は必要なくなるが、今は必要ですか?
おじいさん:もちろん今体内がきれいになっている者には必要が無いし、今後もその状態が保たれればずっと必要ないということじゃ。相手は自然だからね。必要かどうかは自然が決めるのじゃ。
himaari:そうか、エサがあるかどうかだけですか。生まれてから毒を入れなければよいのですね。
おじいさん:だが、ほとんどの人は保有毒素がかなりある様だから、せいぜい風邪でもひいて浄化すればよい。その意味で感染症は必要となる。必要かどうかはその人の状態で決まるが、保有毒素の浄化作用が常に行われているのなら必要ない。
また生まれながら毒を入れないという生活は出来ないじゃろうし、生まれた時でも親の遺伝毒素があるじゃろう。
だから麻疹などで幼児期に排毒するわけじゃ。
himaari:そうかすでに幼児から保有したとしたら、当然浄化活動が始まるのか。
でも、軽い風邪程度ならよいですけど、大病は嫌ですね。
おじいさん:病気そのものは大変な苦痛であり、時には死に至る時もある。その根本原因は人類の血液の汚濁の状態によるのじゃから。とすれば、その汚濁状態がひどければ当然、重い伝染病は無くならないし、むしろ必要となるじゃろう。
himaari:自然界としての仕組みが必要、不必要を決めるのですね。それも人間次第というわけで。とすると、これからも伝染病は大流行となるのかな?
現代人はかなり環境や食べ物からも入れてしまいますからね。
感染症が無くなると人類が存続できなくなる
おじいさん:そうじゃ、すべては人間次第というわけじゃ。体の中を汚しておいてそのままでは済まないからね。当然自然浄化作用が始まる。ただそれが感染症の形かどうかは分からんがね。しかし大所高所から見た場合、人類にとって必要不可欠な自然の浄化作用の仕組みじゃ。この浄化装置が働かないと人類は存続できなくなるからね。
himaari:伝染病という感染症が無くなったら人類が存続できないのですか!?
おじいさん:いや、それが伝染病とは限らない。血液の浄化装置として病気は必要だから、微生物が関与しなくても浄化作用は常に行われる。それが緩慢に行われるか、急激に行われるかだ。毒素が少なければ緩慢に気がつかないうちに減る事もある。大量保有者は小出しの浄化を頻繁に繰り返すか、時には一挙に大掃除が行われる事もある。
himaari:その人によって異なるわけか。
感染症に罹る人、罹らない人の違い
おじいさん:ただし、完全に浄血者とになれば病気は起こりえない、必要なくなるだけの事じゃ。まあ、今の現代人はいつも入っているから完全浄血者など居ないじゃろうがね。
もしも人間にこの浄化装置が働かないとすれば、暫時毒素が溜まるだけになるから。そうなると大量の毒素でついには一切の機能が退化して繁殖能力まで無いように衰弱して行き、果ては人類という種族の滅亡が待っているじゃろう。
himaari:たしかに自然界でゴミを片付けなかったら地球はゴミの山になりますね。その事が人間にも言えるわけか。
ゴミ処理に活躍するバイ菌軍団
おじいさん:そうじゃ、自然界ではゴミやいろいろな有害物質はもちろん、木や葉っぱを片付けてくれる微生物が居るじゃろう。人間も体の中に同じように微生物が住んでいて掃除をしてくれるのじゃ。だが、あまりにもひどいゴミの場合は強烈な大掃除をして片付けてくれる虫が現れる。またそうでもしないと体の中は毒素というゴミの山になってしまうほど入れるからじゃ。
himaari:ゴミの山を分解して外に出してくれるのが浄化作用。その働きに手助けしてくれるのがバイ菌や病原性ウイルスと呼ばれている微生物というわけですか。そう言えば常在菌が突然変身して病原性となる場合があるそうですね。時には普段おとなしく働いている常在菌が返信して掃除夫の働きに変化するという事ですね。
常在菌が悪玉菌に変化したように見えてもやっぱり有用菌だったというわけか。
おじいさん:そういう意味では、微生物に無用も有用も無い。いや、常に有用だという事じゃ。
himaari:きれいな状態ならおとなしく発酵とかで育てる働きをしているが、身体が汚れてくると急にゴミ片付けのために病原性の菌になる。そうか、体の中にゴミがある限りは伝染病は無くならないという意味で伝染病必要説ですね。
おじいさん:伝染病有用論は単純に原理原則として言えばそうだが、最終的に伝染病ばかりか人間から病気を無くすことも可能なのじゃ。原理で言えば「病気は必要」だが、人間本来の姿としては「必要でない」。これが人間の正常の姿であり本来の姿なのじゃ。
himaari:ところが人間の方は汚すのが好きで体の中は汚れっぱなしというわけか。伝染病が流行るのは人間の状態次第というわけですね。感染症が大流行するというのは非常事態というわけかな。でも感染症は自然の摂理としては必要不可欠な働きだが、人間本来の姿になっていれば不必要であるわけか。
おじいさん:そうじゃ。感染症が大流行したりするという事の意味は、今の人類の状態では必要な状態にあるからじゃ。しかし、出来るだけ薬やその他有害物質を体に入れなければ浄化作用も軽くて済むから、人間はいつの時代かには、せいぜい風邪を引く程度になってしまうじゃろう。
ガス抜きには毒素を出しにする風邪、インフルエンザを推薦
himaari:なるほど、風邪は最終的な毒素小出しの為にこれからも必要なのかも知れませんね。現代人はその風邪さえも嫌がって予防接種をするくらいですからね。これじゃ、いつまでも体はきれいになれないですね。
おじいさん:人類が個人の集合体として浄血者になって行くなら、やがて病気の必要も無くなる時代が来るじゃろう。そして徐々に病気の形としては重いものから軽いものになって行く。それは薬とかの毒物を用いてするのではない。むしろそういう物を使えば使うほど浄血者とは縁が離れてゆくだじゃろう。
黴菌が必要だという意味も同じ事であって、人体内に黴菌のエサが無くなれば黴菌も働く必要が無くなる。したがって重い伝染病も徐々に必要なくなるというわけじゃ。
himaari:伝染病の撲滅というのは人間次第、つまり体内の血液の毒素次第というわけですね。撲滅させると言うよりも、自然にかかる必要が無くなるということか。
おじいさん:伝染病というのは細菌が働く為の環境があるからじゃ。人体という適した場があるから起る。
しかし、周りに大流行しているその中にあっても感染しない者や保菌者であっても発症しない人間が居るだろう。という事は、菌やウイルスが居ても繁殖する環境がないからじゃ。
himaari:エサが無い、つまりそのような毒素が無いという環境ですね。環境が主で細菌は従ということか。毒素が主で病原微生物は従ですね。
それで、西洋で昔わざわざ病原菌を飲んでみせて証明した医師がいたわけか。彼らもそのことを知っていたのでしょうね。環境が主で病原菌は従でしか無いと。
おじいさん:だからいくら病原菌を殺しても、後から湧いて出てくるわけじゃ。毒素のあるところ必ず分解掃除してくれる菌が発生もするし、引き寄せるからじゃ。
himaari:引き寄席の法則みたい。中には感染した後に再びそれに感染しないという感染症もありますが、その理由は?医学では抵抗力がついたと言っていますが、抗体が出来るともうその手の感染症はかからないので障害免疫とか言っています。
生涯免疫の原理
おじいさん:医学のように難しく考える必要も無いじゃろう。自然は実にシンプルじゃからね。その真の原因と理由が分かればよいじゃろう。免疫がつくという意味だが、黴菌にもいろいろ種類があるということは、食べ物にもいろいろ種類があるということじゃ。
細菌にしても食べる相手という「相性」のようなものがあるからね。
himaari:おや、バイ菌にも好き嫌いがあるというのか。
おじいさん:細菌に対応する毒素との関係で説明すると、その種の毒素には決まっている菌が居るという訳じゃ。あらゆる毒物がそのように対応する自然界の菌が分解してくれるというのは黴の世界でも知られているじゃろうが?
himaari:重金属であろうが、プラスチックであろうがどんな物でも分解する黴、菌が居るそうですね。
おじいさん:毒素にも古い新しいがあるから、人間の遺伝的毒素は古いものだから一度対応して食い尽くしてしまえば、もうその古い毒素は無くなるからじゃ。たとえば遺伝毒素のような場合には一種固有の毒素であるから、これに対応した黴菌が食べる。それが再びこの種の菌が繁殖する必要が無くなるわけじゃ。
himaari:古い毒素ですか?それを食い尽くしたらもう食べるための細菌が繁殖できないのですね。その事を免疫が出来たというのですね。
おじいさん:この古い毒素の類のものに関してだけ、もう体内に入ってくる事が無いわけだからからね。それで「免疫ができた」というわけじゃな。
「もうその種の毒素が無くなってしまったので、再びその細菌の出番は必要無くなる」ということじゃ。
himaari: そうですか、「免疫力がついて病菌に耐えられほど丈夫になった」というよりも、「その種の毒素が体内から無くなり綺麗になったので、丈夫になった」という結果ですね。食べる餌が無くなったという事なのか。
エサが無くなれば居られなくなる
おじいさん: そういうことじゃ。その種の古い毒素が無くなるからそれだけ丈夫になるのは当然じゃ。それを人為的に止めようとするのが予防接種じゃ。しかもそれ自体が毒になるから二重の間違いを犯している。
himaari:現代医学では国を挙げて推奨しているのが予防接種ですね。それが、まさか二重の過ちをだとは。
おじいさん:それは本当の予防では無いからじゃ。当然、古い毒素と新たに入れた毒素はいつか浄化しなければならない。あるうち毒素によってどこかに障害を及ぼすからね。
このように世間が恐れている感染症とは、じつは人体の清掃作用をお手伝いする細菌やビールスの役目となるわけじゃ。
これによって、「体内には、病原性微生物のエサとなるゴミを入れない、減らす、無くする。」ことが感染症対策としては、唯一最高の予防法となるであろう。
himaari:細菌やウイルスを防ぐと言うよりも、体内の毒素を減らす事が本当の予防効果になるわけか。もしも、感染症にかかったとしても体の掃除を手伝って貰っているのですね。
なぜ幼児期に罹る感染症が決まっているのか
おじいさん:しかも、古い毒素ほど一度掃除を済ませてしまえば後は憂いなしだから、「済ますものは早く済ませる」という意味で、幼児期の感染性は早いうちの方が楽で安心だという事になるじゃろう。
himaari:なるほど「どうせ返さなければならないのだから、早く返した方が楽だ」ということか。それで幼児期に麻疹とか風疹とかで古い毒素を精算していたのか。道理で誰でもかかる病気だったのですね。
遺伝的毒素を浄化して大人になる前に丈夫にする。それが生涯免疫となる感染症だったのか。古い毒素が遺伝性だとすればその親たちの肩代わりにもなるのか?
子供って親の後片付けまでしてくれているのか。
おじいさん:ただし、清掃の主人公とは「そのひと自身が持つ【自然良能力】」だと言うことを忘れてはならない。バイ菌やウイルスなどの微生物は病気の主人公では無いという事じゃ。それはあくまで従属的な存在であり、結果の様なものじゃ。
himaari:浄化お掃除の手助け役ですね。
おじいさん:病気、すなわち浄化作用の本当の主人公とは「自然良能力」という自分の持つ生命力じゃ。そしてその原料は自分の体内の毒素じゃ。
himaari:病原も病気を起こすのも治すのも自分自身だということか。
おじいさん:病気とは体内の浄化作用を行う働きじゃ。その浄化を苦しいからと不自然な方法で拒否したりすると大人になってから利子までつけて返済が待っているのじゃ。
himaari:別の形で出てくるか、もしくはもっと症状が重くなって出る訳か。予防接種とかいうけど最終的には怪しいものですね。
おじいさん:ところが、人間様の方はそれを知らないゆえに黴菌等を極単に恐れて、感染する事を嫌い予防に躍起になっているというわけじゃ。
それが医学の基本となっているから大問題なのじゃ。
himaari:予防接種ですね。天然痘から結核のBCGなど、それにインフルエンザ予防接種、百日咳、ポリオ・・・・
でも、その予防方法自体が考え違いだったという訳ですね。でも、伝染病が必要とは言っても実際は重度の症状は嫌ですね。
予防接種の功罪
おじいさん:浄化作用の原理を知るなら、その様は異物を体内に入れて予防するということ自体が反自然だと気づくじゃろう。病気とは体内毒素の清掃作用であり、その浄化を微生物が出助けしてくれるのが伝染病や感染症と呼ばれる形だと理解できればじゃが。
しかし、君の言うように、多くの伝染病は、それ自体が苦痛でもあり死に至る者も無いわけじゃない。それゆえ人類は伝染病を恐れて忌み嫌うのも当然じゃ。
himaari:もう少し、軽くて済めば安心してその細菌やウイルスに任せるんですがねえ。もうひどく重い症状だったら、不安になりますよ。中には死んでしまう人が居るし。
おじいさん:最初に気づいていたのならそれほど重度なものにならなかったのじゃろうが、逆にとってしまった。余計な物を入れたりして、極力出さないように永年月かけて人体を汚してきた人類の結果じゃよ。
自然の方は時々人類の溜まった毒素を一挙に掃除しようとするのじゃろう。それが世界的大流行の形をもって浄化を起こす。それは人類全体にとってのガス抜きの様なものかも知れないね。種全体が汚れていては先が無くなるからね。
himaari:感染症の原理が分かったから即無くなるわけじゃないのですね。たとえ必要な浄化作用と分かっていても嫌なものですね。
おじいさん:長い間にそのような体にしてしまったからじゃ。いくら避けようとしても自然が相手だからね、いつまでも防ぐ出来ない。先延ばしするほどツケが増えるというわけじゃ。
himaari: そうですか・・・・やっぱりいつかは返さないといけないのでしょうね。予防接種でどうにか間に合わせたいという気持ちも分かりますが。その予防接種は本当の予防では無いとすると。
おじいさん: 予防接種とは病気にかかれなくする体質の劣弱化を狙ったものじゃ。
himaari:「病気にかかれないほど劣弱化」というのは変ですね。「病気にかからないほど丈夫になる」というならよいのですが。
おじいさん:「体をきれいにする為の浄化能力が劣化した」という事じゃ。確かに病気にかかるのは不調和になっている状態、つまり本当の健康体では無い状態じゃ。それを本来の健康体に戻すための力が浄化力だから、その力が無い、すなわち病気にかかる力が無いという意味じゃ。
himaari:なんだか、ややっこしくて・・。
要するに「本当に健康だから病気をする必要が無い」のと、「不健康体質なのにそれを健康体に戻す力が無い」の違いという事でしょうか。
真の免疫
おじいさん:毒があるのに出せないで居る状態、それは「本当の健康状態ではない」のじゃ。ゆえに予防接種で作用するのは「毒素が無くなった状態」ではなく、「毒素がある状態を維持する」という働きじゃ。
「毒素があるのに排毒出来ない不健康者」にするというのが予防接種の本質じゃ。
himaari:予防とは言っても「浄化する」のでは無くて、「浄化しない」というわけか。「毒素を出せないでいるから偽健康体である」というのですね。
おじいさん:「体内毒素を微生物の協力によって掃除される」という感染症の形で行われる浄化作用なのじゃからね。だが、医学の予防接種ではその浄化作用を起こさせないようにする。つまり生命力を弱める働きじゃ。
himaari:生命力が弱るから浄化能力も減衰するという事か。それでも良いから感染症は絶対罹りたくないという人も居るわけでしょうね。
おじいさん:原理を知っていてやるのならそれは自由なんじゃ。ただ何も知らないでいるからお気の毒だと思って話しているのじゃ。後は医学の論を信じようとわしの論を信じようと、好きにするがよいのじゃ。
himaari:そう言われると、また迷いますね。予防接種で予防しない事が良いのか、弱体化しても予防した方がよいのか・・。
おじいさん:君はいくら話しても駄目なようだから先に行くが、予防効果は偽の予防だということがひとつ。さらにもうひとつが、予防接種そのものがまた毒素となり得る。
毒素を出さないよう抑圧、固める「浄化停止方法」と「新たな毒素を加える」こと。
himaari:そうか、ワクチン自体が一種の異物毒素となるわけか。
それで予防接種を打つと急にいろいろな障害が起こるわけですね。害が直ぐに現れるのはごく少数だそうですけど。それなら誰にでも判るのですが、長期に亘って影響が出てくるとすれば、時間が過ぎると予防接種が原因なのかは不明になりますよ。
おじいさん:確かめられるのはそれぞれ打った人の体質によって異なるのはあるじゃろう。だが、わしの理屈から言えば「予防接種とは「病気の予約」をする事」じゃろう。
将来の病気の予約か?予防接種
himaari:「予防接種」とは「将来の病気の予約」ですか!?
けれど、もしも先に害作用が起こる可能性があるとしても、今だけでも病気から解放されるならそれでも良いのではないでしょうか?
おじいさん:知っていて納得しているならば自由だと言ったじゃろうが。ただ、これは自分だけの体だけでは終わらないじゃろう。その体質は次の世代への遺産となるじゃろう。自分の悪液体質とは毒素の保有者だから、当然、子や孫にまで遺伝するじゃろう。
himaari:そういえば産まれながらにして弱体体質の子供もいますし、同じ親から生まれた兄弟姉妹でも丈夫なのとひ弱な子供が居ますからね。やっぱり親からの遺伝体質なんでしょうかね。しかも目に見えない遺産だとしたら。
おじいさん:借金をサラ金で借りて返すようなものじゃ。自分の代で返せなかったら子孫が返さなければならない。それが体質としての借金じゃな。その繰り返しを子々孫々に続けていけばどうなると思うかね。その子孫が何時までも返すのが嫌だと言って拒否していたとしたら、ついには全部取り上げられてしまうじゃろう。
それが個人の家系だけで無く、その系統の親戚縁者まで拡がって行くじゃろう。どこもかしこもそのような借金をしている部落なら部落そのものが滅びてしまうじゃろう。
himaari:なるほどね、世代が続くと相当な数に及ぼす影響かな。人類を一族としてみるとこれは一時期の問題では収まらないですね。いつまでも抑えきれないものか。
おじいさん:自然はそれを解消する為の浄化作用、それが各種の伝染病というものを用意して、全滅を防いでくれているようなものじゃろうな。汚れた体を受け継いだ者にはお気の毒の様じゃが、それは全体の為になっているから、自分で選んで生まれてくるのじゃろう。
伝染病を嫌う気持ちは分かるが、勘違いの予防法をいくらやっても、やるほど利子は増え続けるから、そのうち強い浄化作用が待っているわけじゃ。
himaari:それで近年になって重い伝染病が増えたり、薬に強い耐性菌が増えてきたのですね。それに対して人間の方はもっともっと予防しようとして、予防接種が盛んに勧められる。でも、将来の病気を呼ぼうという予防接種なんでしょうね。
おじいさん:効かない予防接種の害まで加わって、感染症の恐怖と両方の不安を抱えているというのが君たち現代人じゃろう。
himaari:はい、もう現代というよりもずっと昔から黴菌恐怖症にかかっているようです。
世界中もそうでしょうけど、特に日本では学者さんをはじめとして国民まで、ウイルスや細菌に対して非常に警戒や不安を持つようになりましたね。
いまや「抗菌グッズ」というものが大流行ですよ。なんでもかんでも病原になるバイ菌だから殺してしまうとね。いかにして細菌には触れないという努力を一生懸命しています。
無菌生活は不可能だと知ること
おじいさん:「細菌に触れないで一生生活出来るのは不可能だ」という事実が分からないのかね。そんな当たり前の事が分からないのが不思議なくらいじゃ。
人間が生活するうえで細菌と接触しない環境などあり得ないじゃろう。人間生活をしていて感染を防ぐことなど不可能な事はちょっと考えてみれば誰でも分かるじゃろう。それなのに、細菌から隔離出来るとか撲滅出来るとかを信じるというのは学者の言やそれを報道するジャーナリストなどの影響じゃろう。
himaari:はい、僕たちは学者さんなどの権威ある筋からの情報を鵜呑みにしますからね。それを流す報道にも全幅の信頼を置きますから。
国や学者さんたちをはじめとして、あらゆるところで「細菌やウイルスは怖いもの」としてかなり宣伝教育されますからね。
おじいさん:いくら細菌類を嫌ったとしても、実際に人が人と接触をしないでは生きられないのじゃ。まして電車やバスへ乗る事は危険であるとか言えばどこにも出られなくなる。
となりの乗客は何かの伝染性病気に罹っているかも知れない。窓を閉め切れは満員の際など少なくとも数人以上の伝染性患者もいるであろうから、空気伝染の危険は免れ得ない。
また人と談話する事も危険である。先方は伝染性疾患を保有しているかも知れない。と言って一々数メートル以上離れるという事は実際上不可能である。その他劇場、映画館、レストラン、ホテル、各種学校、会社等多数人の居る所は危険千万である。 -- という訳になろう。
himaari:うーむ、まったく細菌類と縁を切るのは不可能ですよね。
たとえ直接でなくても間接的になると、お金からとか、トイレとかドアのノブなど・・もう数え切れないほどの接点がありますし。学者の中には空気感染などと言うものも居ますから、もう空気防ぐわけには行きませんよ。
学者の言うように「細菌やウイルス感染源説」を鵜呑みに信じていたとしたら、社会生活など絶対出来ないですよ。こんなの本気で考えていたら恐怖感でいっぱいになりますよね。
おじいさん:どこにでも存在している細菌から逃れられるはずが無いわけじゃ。生活の中で菌と関わりの無い人間など存在しないというわけじゃが、病原細菌説を唱える学者の話を聞くといつもビクビク生きた心地がしなくなる。
himaari:新聞、テレビなどで報道されますからね。学者さんのコメント入れていかにバイ菌が危険であるとか、感染力が強力だとか、強毒性だとか。
おじいさん:怖い恐ろしいバイ菌とは言うが、実際にはバイ菌などどこにでも居るわけじゃな。生活環境を調べると無数に発見される事でわかるじゃろう。
himaari:そのうえ、最近では黴菌よりもずっと小さなウイルスが病気の原因にされるの多くなりましたよ。バイ菌の場合はマスクや手洗いなどで気を使っていましたが、ウイルスに対してはナンセンスなんでしょうけど。
それでも当局は医学上の解決法が無いから、「手を洗え。ナマ物をさけよ、うがいをせよ、マスクをしなさい・・・」等と言うけど、実際には効果がほとんど無いのではと思いますね。
おじいさん:学者の言うように「予防とは病原としてのウイルスや細菌からの隔離」だと
言うのだが、それ絶対信奉するとすれば、先ず社会と全く絶縁しなければならなくなるじゃろう。
即ち山奥の一軒家か、海上遥か沖合で船住居をするより他に理想的方法はないであろう。人や動物との完全隔絶が究極の予防法となるからじゃ。だが、吾々が割合恐怖感にとらわれらはれないで生活し得るという事は心の奥では医学の説を丸呑みにしないからじゃ。
himaari:そうですね、学者さんたちや当局の言うことをまったく鵜呑みにしていたら、人間生活などできませんね。それにしても、まだまだ当局や学者さんの言うことを鵜呑みにしてしまう人が結構多いですよ。学者さんとか医者とかと言うとまるで鵜呑み丸飲みになってしまうのですからね。
おじいさん:昔から人間はそのような権威筋に弱いものじゃよ。特に医学などは筆頭にあがるじゃろう。
himaari:この年に中国から起こったSARS(サーズ)など典型的なものでしたね。(※この記事を書いていた年代)
皆が皆マスクをしていましたが、けっきょく感染した者は隔離されることでしか防衛策が無かったようですよ。後で知ったのですが実際には有効な治療薬など無かったそうですから。当たり前と言えばあたりまえですけど、対症療法の薬でしかないわけでして。
おじいさん:隔離といっても完全隔離など不可能に近いのは分かるじゃろう。どこにでも居ると考えた方が実際に合っている。無菌状態など自然界には不可能じゃ。
細菌にしてもウイルスにしても大小に違いがあるが、根本は同じじゃ。存在理由とその目的としては「きれいな物を育て、汚い物を掃除する」だけじゃ。よく言われる「発酵と腐敗」どちらも菌の助けを借りているが形が違うじゃろうが。
himaari:すると普段は発酵の方の力で分解して、異常時には腐敗の形で分解するのかな。
浄化作用として。
おじいさん:その浄化作用を「防衛する」という自体がナンセンスなんじゃ。
真の予防とは「体の中に汚物毒素を作らない、入れない」に尽きるじゃろうがね。
himaari: でも反対のやり方でも「予防」とか「防衛」という言葉につい乗せられちゃうんですよ。文字や言葉に欲する希望が乗っちゃうのかな? 毒を使うのに「消毒」とかね。
おじいさん:ウイルスに関しては、わしの時代はビールスと呼んでいたものじゃ。まだ細菌が主役の時代だったからね。抗生物質などが出始めたばかりだったし、その効果に世界中が賞賛の声を上げていた時代じゃ。もちろん、わしは抗生物質など駄目になると警告していたがね。
himaari:はい、いまやウイルスは感染症主役になりつつありますよ。
ガンにまでウイルスが発見されとして、ガンを予防するワクチンまで作られる時代になりましたね。でも「細菌には抗生物質」という時代も終わりそうです。どんどん薬剤耐性菌が出現してしまいましから。
ウイルスも同じ目的では細菌と同質
おじいさん:細菌とウイルスが体内浄化作用に手助けしてくれるという意味で根本は同じなんだが、ちょっと働きが違うだけじゃね。細菌は大きいから直接的に毒素分解の為に浄化作用をするが、ウイルスの方は小さいから間接的な毒素の掃除する手助けじゃろう。
わしは昔、無機質界からウイルスの自然発生、そこから連続して細菌にまで進むという説明をしておいたのだがね。最終的には人体内の浄化を行うという意味では小さいも大きいも浄化として働き本質は同じ事じゃ。
himaari:はい、でもその「自然発生」説は医学では否定されていますね。何も無いところから発生するわけがない、というわけです。「無から有が発生」などあり得ないとね。
おじいさん:それについてはまた別の機会に話そう。それには「無」というものの正体も知らないとね。見えないだけに説明が難しい。
himaari:「無の正体」も知りたいものですね。ところで細菌には抗生物質が対抗してきたのですが、ウイルスに対してはほとんど対抗する薬が無いようでして、予防するというしか手が無いようで、ワクチン接種が盛んに薦められていますね。
おじいさん:細菌に対しては一時的にせよ、抗生物質という対抗手段があったのだが、それより微少なウイルスが主流になってきたのもおもしろいものじゃ。この小さな生き物には薬物がまったく効かないというのも、自然界の働きがいかに巧妙か分かるものじゃ。
もう人間には手が出すことが出来ないのだという意思表示みたいじゃな。
himaari:そのウイルスについては未だ謎が多いようです。なにしろ突然現れたり消えたりするような感じですから。簡単には殺すことができないので症状を抑える対策しかないようですよ。体の外ではただの無機物のようになっているのに、細胞に入ると生き物のように振る舞うそうですから、変幻自在の働きですね。
人間はお釈迦様の手のひらで遊ぶ
おじいさん:それが自然界の妙というものじゃろう。人間が闘えば闘うほどその対応も進化するようだね。所詮、人間がいくら賢くなっても自然界の中では孫悟空がお釈迦様の手のひらの中で遊んでいるようなものじゃろう。
himaari:ウイルスで手こずっていたのに、それどころか細菌の世界でも大変な事が起きていますね。抗生物質から新たに菌が湧くかのように抗生物質薬剤耐性菌が猛威をふるい始めてしまいました。特に薬剤を頻繁に使う病院の方が危ないという「院内感染発生」で医療現場では深刻な問題となっているようですよ。
おじいさん:それは、わしがずっと昔から警告していたのだが、自然の働きからすると当然な結果なのじゃよ。自然界は浄化する、人間界は浄化を停める、その綱引きが何時までも続くかな。人間は自然界から護られている存在だからね。護られるという事は必要がなくなれば消え去る運命も含まれるのじゃ。
himaari:そうか、汚いものをかたづけて環境を整えるのが護りだとすれば、その汚い状態になれば片付けられるか・・・。
人間が存在できるのは微生物の護り
おじいさん:人間の体の内から汚れを取り除かない限り、感染症微生物は永遠に無くならないだろう。そもそも病原菌とか病原性ウイルスの存在理由はそこにあるからじゃ。
himaari:細菌やウイルスの存在理由か。彼らを無くす事は不可能だが、病原として働くのを防ぐことは可能ということか。菌やウイルスには立派な存在理由があったのですね。
おじいさん:自然界にとっても人間にとっても必要不可欠な存在なのだからね。
地上から黴菌やウイルスと病気としての関係と縁を断ち切るには、この種の微生物のお世話にならないで済む体になるしかない。絶対の予防方法じゃ。
himaari:実に単純な答えですね。しかし、今日明日に直ぐ出来るものでもない様ですから、これから長い道のりになりますかね。体内に原因がある限りは「自然に現れ、自然に感染する」訳ですね。
おじいさん:そうじゃな、人間が長いあいだ汚して来た体をただ一度に掃除しきれるものじゃない、もしもそれをやるとしたら体力が持たない位じゃろうよ。
それよりも、もうこれ以上入れない様に気をつけて、入っているものは出す。それを自然界が手助けしてくれるときは素直に従う。これが一番の伝染病対策じゃろう。
himaari:罹ったときは素直に受けるという事か。一番よいのが軽いインフルエンザ程度が一番でしょうかね。結局、病原菌、ウイルスなどを撲滅するのではなく、私たちの体内をきれいにするしか根本解決はないのですね。
おじいさん:そういうことになるじゃろうな。またそれしか無いじゃろう?あとは、君がどう思うかで決まる。どちらも選択の自由じゃ。
himaari:悩みながらも考えてみます。実際に罹るのは嫌だけど、原理から言うと有り難いものですからね。
今回もありがとうございました。だいぶ古い時空からお呼びいたしまして。
では次回はまた違った視点から感染症についてお話してください。
ということで、今回も悩みつつも少しは理解が深まったかな?
おや、声が・・・
「・・・・これだけ聞いているのに、まだ、君は悩むのかね・・・」