おじいさんとの対話 4
薬の対症療法の限界と手術の進歩は医学の退歩
根本原理は「夜昼転換」
現代医学は対症療法
himaari:現代医学は対症療法と言われていますね。症状を治せば病気は治るということでしょうね。
おじいさん:これ程間違った話しはないであろう。すなわち熱が出たから氷で冷す、痛いからと神経を麻痺させて苦痛を免れるというやり方は、ホンの上面に現われた症状、いわば病気の結果を対象とするのであるから真に治す方法ではないじゃろう。
himaari:でも「治る筈はない」というのも少し極論に思えますが。みんなが病気をすれば病院に行きお医者さんからお薬を処方して貰いますよ。そして病気が治っているのですよ。治らない人も居るでしょうけど。
おじいさん:本当に治るのなら世の中はもう医学の進歩で病気は漸減しているはずじゃ。しかしドンドン重度な病気が増え、難病も増えている。しかも風邪ごときで大騒ぎしているのはなぜか。君は考えたことがあるのかね?
himaari:と言うことは医学の進歩では無かったということですか。たしかに何十年も驚異的に進歩した医学と言うのなら、軽い病気ばかりになっているはずですね。
その原因が対象療法だからと言うのですか?
おじいさん:あらゆる病気が症状として現われるには、その原因がどこかに潜んでいるはずじゃ。ゆえに顕れた症状は結果であって、原因は違っているとしたら解決しないじゃろう。
himaari:医学では、その原因を分かっているから治療するのではないでしょうか?
原因も分からないとしたら、どうして治療することが出来るのでしょうか?
対症療法とは病気の原因の治療ではない
おじいさん:はじめにそのことの意味を君が言ったことじゃろうが?
「現代医学は対症療法」とね。
対症療法とは病気の原因の治療ではない、病気症状の治療というわけじゃ。
himaari:そういえば、医学では原因療法とはあまり言いませんね。症状を抑えるとは言いますが。治っても「寛解」とか言うそうですし。
しかし、症状を抑えるといっても結局は苦痛症状が楽になれば治ったと思いますね。
おじいさん:そうじゃよ。それで根本的に治ったものなら、それでも良いんだがね。だが、それが一時的である場合もある。
個々で言えば、真に病気が治るという事は、原因が除去されて元の健康体に戻り余病や再発が無いということじゃ。全体に大きく見ると、「医学で病気が治る」となれば、世の中から重難病が次第に減って行き軽い病気ばかりになってくる。その結果、病院やお医者さんが暇になって来る。インフルエンザごときで毎年大騒ぎするなんてこともなくなるじゃろうよ。
himaari:そうですね、あたりまえの事でしょうが、何十年か過ぎて行くに連れて、世の中から病気が減って行きますね。病気が全然無くなるとは思いませんが、大きな病気は減って軽い病気ばかりになって行くのが自然ですね。
病院は暇になるから医師不足どころか余ってくるはずだし・・
おじいさん:それが本当の「医学の進歩」の結果というものじゃ。世の中に病気の人が年々少なくなるとすれば、お医者さんも当然ひまになる。
そうなると全国の病院も仕事が無くなるから廃業する所が続出するだろうね。実際そうなっているのかね?
himaari:残念ながら逆になっていますよ。そう言えば、僕が小さい頃には「医学の進歩によって癌などの難病は21世紀には解決するであろう」とか、新聞に書いてありましたね。
その時はきっとそうなるものと思っていましたが、もう21世紀に入ったのに全然そうなっていませんね。いえ、むしろ逆になっているくらいですよ。かえって重い病気が増えたりして、癌の撲滅どころか死因のトップになってしまいました。
日本人は医療に対して心底安心できないのですよ。その証拠にテレビの健康番組や健康雑誌が人気ですからね。わざわざサプリメントや健康食品などを買っている人も多いです。
おじいさん:それは「医学が結果を出していない」という証拠じゃろう。もし病気になっても心配のない世の中になっていれば、それほど意識してまで健康に気を使うことも無くなるはずじゃ。
それなのに「医学が進歩した」と言いながらも、実際には次第に重度の病気が増え続け、ごく軽度の風邪程度でも心配するようになってしまったということは変だと思わないのかね。
himaari:単純に考えるとそうですね。しかし、世の中のひと、みんなが言っていますよ。
「じつにありがたいものだ、医学が進歩したお陰で・・」とね。
医学の進歩」ではなく、「医学の退歩」
おじいさん:実際は「医学の進歩」ではなく、「医学の退歩」であったと言っても反論できないじゃろうが?
事実として見ると結果が逆になっているではないかね。いままでの医学は根本的治療法ではなく、「症状のみを停止するための対症療法」だったということが事実として現れただけじゃ。
himaari:長い目で見ると原因治療でなかったという事がよくみえてくるんですね。「医学は進歩している」と思い込んでいるだけだったのでしょうか。
おじいさん:事実として見ればそうなるじゃろう。この理によって本当に病気を治すには、症状などは末梢的なものであって、どうしてもその根本原因を探り当て、それを除去しなければならない事は余りにも当然であろう。
himaari:症状は結果であって、原因を探るですか?病気の根本とは何でしょうね。
おじいさん:表面的に見ればひとつの症状でも原因が異なる場合があるのじゃ。例えば、頭痛にしても脳貧血の為と発熱の為と両方ある。前者は頸の周囲に固結があり、それが血管を圧迫して貧血する。後者はその固結の溶解の為に発熱する。それが頭脳へ影響して痛むのである。
himaari:なるほど、現れた症状は同じ「頭痛」でも、その原因が違うということがあるんですね。症状を止める為に頭痛薬を飲んでも解決しないという事でしょうか。
盲腸の原因
おじいさん:いくら対症療法を施しても原因が解決されない限り、いつか再発するじゃろうし、別の病気に転化する。薬というものが病気の原因を除去してくれるのなら、そこで解決するはずじゃ。だが、治せないから慢性になってしまうものが多いから、薬を飲み続けなければならないのじゃ。
例えば、盲腸炎の原因は右側背面腎臓部に必ず固結がある。それが長い間に少しづつ溶解し、いったん盲腸部に滞溜し固結していたものが急に発熱によって液体となり、下痢によって排泄されようとするその痛みである。
himaari:へえー、盲腸とは、何か果物の種が入ってしまうからと思っていました。このあいだ、知り合いのおばさんはぶどうの種を飲むと盲腸になると言っていましたが、僕はスイカや瓜の種かなんて思っていたものです。
おじいさん:わしに言わせると医学の進歩などとは戯言に思えるくらい幼稚に思えるじゃがね。表面の現象だけで裏の原因をまったく無視しているのだから、何十年経っても一向に解決できないわけじゃ。
himaari:でも医学でハッキリとした原因が分からないのも不思議ですね。どうして原因を探れないのでしょうね。盲腸にしても、おじいさんの話とは全然違うようですよ。薬で散らすとか手術で切り取るとか。昔は「盲腸なんて元々不要なものだから切って取ってしまえ」とか聞きました。
おじいさん:医学では盲腸の役割を知らないからね。「何かの役割があるだろうが、今は不明だ」というのに、「要らないものだから切り取ってしまえ」とは愚かな事じゃ。「分からないから要らない」というのは幼児のような考えだろうが。
そんな事をするから、将来いろんな不具合が出てくるわけじゃ。そのとき限りの苦痛除去がいかに体全体に悪影響を与えるか、人間を人形のごとく見ているから局所だけの解決すれば、すべてが解決すると思いこんでいるのじゃろう。
himaari:そうなると医学の基本が初めから根本じゃなくて枝葉を研究してきたのでしょうか。実際の医療はほとんど対症療法になっていますものね。
おじいさん:医療現場の治療法は、学者の研究が土台になっているからだろうが、その学者自身がまったく自然の摂理を知らない、理解していないのだからね。現れた現象だけを研究するのが根本となっているのじゃ。
himaari:病気の根本原因を知らないと、治療も的外れだという事ですね。そうなると盲腸も必要あるから備わっているわけですね。それを不必要なものとして切り取るわけか。
本当のことが分からないから手術で切り取ってしまうとは幼稚で野蛮な方法なんですね。
おじいさん:いずれ手術の話でも解説するが、人間の体に不必要なものが備わっていると思うのは、人間がまだ未熟ゆえ、その機能を理解できないだけの事じゃ。
君も幼稚園、小学校のころはまだまだ未熟な考え方で幼稚だったろう。それが現代医学の現実だと言ってもそうは思わないところに大きな問題があるのじゃね。
himaari:そりゃそうですね、現代医学と言えば最新科学の粋を集めた、世界最高の頭脳と技術の集大成だと思っていましたから。まさか幼稚園や小学校程度のレベルだとは、誰も思いませんよ。
おじいさん:確かに診断機器や手術道具の飛躍的進歩は否定できない。体内の仕組みも詳細に研究されて診断技術の進歩も事実だ。だが、それらはあくまで診断技術や機器の進歩に過ぎない。病気の根本が解っていないから、本当の治癒に繋がっていないのじゃよ。
himaari:薬では治癒に繋がらないのですか。でも「薬で治療」と言うのも変ですね。ちょっと調べてみたら医学用語では「寛解」と言って「とりあえず症状が治まった事」を言うらしいのですね。本当に治ったのか、また再発するのかは不明でも寛解というのは、やはり対症療法だからでしょうね。
おじいさん:病気の根本原理が理解できないと、医学がいくら進歩してもそれは退歩となってしまうのじゃよ。土台が狂っている建築は高くなるほど傾きが大きくなってくるのと似ているがね。
「治癒」でなく「寛解」
himaari:治療していると思っていたのですが、それが違っているとは、そう簡単には納得できませんよね。でもやっぱり、医療では「寛解」と言うから「治癒では無い」のですね。
では、痛みについてですが、痛みを止めることはどうなんでしょうか。痛みが無くなれば治ったという事じゃないのですか。なかなか痛みは我慢出来ないものですよ。激痛だったらもう耐えられないですしね。
おじいさん:病気とは苦痛症状が伴うからじゃが。その苦痛から逃れようとして試行錯誤して薬というものが出来たんじゃ。大昔からそれもやむを得ない手段だったのじゃ。とりあえず症状は収まるし、楽になれば治ったと思うわけじゃ。だが、それで済んでしまえば終わりだが、使った薬がまた次の別の苦痛を産むとしたらどうなるかね。一時的症状停止だけではいつまで経っても人間は病気の苦痛から逃れられないだろう。
himaari:薬では必ずしもそこで解決しないというわけですか。薬が次の病気を生むとは誰も考えたことが無かったのですね。
おじいさん:一時的とはいえ、長期間保てればそれでよかったのじゃ。しかし病気の苦痛の真の理由が分かればその苦痛もある程度なら我慢できるはずじゃ。
たとえば、手指に出来るひょう疽は、左右何れかの頸部リンパ腺に固結した猛毒が指の先から排泄されようとして、いったん指頭に溜まり、皮膚を破って出ようとし腫れるための激痛である。
himaari:そんな猛毒が体の中にあるのですか?突然激痛が走るとか言いますよね。あれって元々体の中にあったのですか?
おじいさん:その猛毒の元は何かというと、過去に入れた薬毒だと知ったらどうするね?
himaari:え、過去に入れた薬? そのような猛毒を入れた覚えなど無いと思いますよ、普通。細菌などが原因だと思っていましたけど、薬が原因だとすると、結局は自分の内にあった毒素が原因という事ですか? でも、それがどの薬でいつ入れたものかも分かりませんよね。
おじいさん:そうじゃろう、昔入れた毒などとは考え付かない。まさか薬が毒の元になるとは考えもしない、自然に無くなってしまうと思っているからじゃ。そうしていろんな毒素の排泄には楽に出るのと、そうでないものがある。
たとえば胃痙攣の痛みは、背中にある毒結(どっけつ)が溶けて胃へ集り、腸へ下降しようとするその痛みである。これは古くなった薬毒が毒素となって排泄される過程じゃ。
himaari:胃の激痛というのは、人の話で聞いたことがありますね。その元が胃の裏側にあったとは知りませんでした。薬は古くなると毒性が強くなってしまうのでしょうか?
それにしてもいつ飲んだか分からない忘れたような薬が残っているとは信じられませんよ。
おじいさん:君が信じられないのは承知だが、わしは原理を話しているだけじゃ。その様に現われた症状には、奥に本当の原因と場所があるのじゃよ。しかも薬毒が古くなって猛毒化した毒素があるときに激痛が発生する。
したがって大抵の場合は、いま症状として現われている箇所だけを病んでいると思うのだろうが、実はその原因となるものが奥にあるのじゃ。
医学ではそれを知らないので、とりあえず見えている箇所だけを対象にして、そこだけを治そうとしているのじゃ。だからこそ対症療法と言うのじゃろうがね。
himaari:そうか、根本を治すのではなく、現われて見える所だけを修理しようとしているのか。そうなるとあまり知恵のないやり方ですね。奥に原因が潜んでいるのに結果だけを修繕しようとするという事なのかな。
おじいさん:真の原因は目に見えないものだからね。毒素など言っても目に見えないし、取り出せもしないからね。そこで人間は「見えないから無い」とするのは智慧がないからだ。人間のもっている知識をいくら集めてみても、それが見える部分だけのものだから、限られた知識に過ぎない。なにしろ見えない原因を見える結果ではなかなか探り得ないからね。
それが医学の正体だとしたら、いくら「医学が進歩してみても真の病気の解決ができない」という理由が分かったかな。
himaari:なるほどね、医学は確かに長年積み重ねてきた実験や研究で、その知識は膨大なものになっていますよね。もう「ひとりの医師が医学の知識を全部把握できない」ほどですよね。だから学者さん達がいろんな分野に分れて研究したり、医療現場でも専門が細分化してしまったんですね。
おじいさん:そうじゃろう。古来、人類が作りあげた医学というものは、英知の総決算でもあるじゃろう。確かにそれなりの成果を集めただろうし、一時的とはいえどもかなりの実績はあったじゃろう。だが、肝心要である病の根本原理を知ることが出来なかった。それが一大欠陥となっているのじゃ。つまり土台が間違っているから、それが大きく高くなるほど歪みも大きくなってしまう。それが「医学の進歩で病気が増える」理由じゃ。
himaari:絢爛豪華な大病院に行くと素晴らしい経歴の医師達を揃えて、近代的な施設や医療器具、診断機器などを見ているとそうは思えませんね。しかも、世界中の医学者が日々刻々と研究成果を発表していると言うし、その医学の研究成果は膨大なものになっているのでしょうね。
だからトップクラスの医学研究者は自分の専門以外は分からないと言いますし。あまりにも膨大な知識に個人ではもう全体を把握する事は不可能になったんでしょうね。
おじいさんの話によると、それは表面に現われたものだけを分析して研究したものだから、いくら集めてみても個別の知識の寄せ集めでしかないのですね。
おじいさん:そうじゃな。断片の知識を集めれば集めるほど全体が見えてこないという矛盾に突き当たるのじゃが、今の医学はその頂点に近づいたということじゃろう。
群盲が巨像を触ってそれぞれ各自が触った所だけで「像とはこういうものだ」と報告するのと似ているね。そしてその報告を集めてまとめたもの現代医学の経典じゃろう。
個々の研究は真実でも全体としてみると全然的外れになるという事じゃ。
himaari:なるほど、医学大全が経典か。 個は正しくても全体は間違ってしまうとは。
そうか、個では全体像が見えないわけですね。あまりにも各専門分野に細かく分れて、その分野でもさらに微細に深く研究を重ねているわけか。だから専門分野に分かれた一流の学者にはかえって全体象が見えなくなるから「私の専門外は分からない」と一流の学者さんが言う。
個の真実が全体の虚像
おじいさん:個別の真実は集めても全体の真実とはならない事はよくある事じゃ。それぞれの分野で研究者がいくら微細に調べて研究しつくしても、「群盲、象をなでる」ごとしで、全体を知ることは出来ない。
himaari:それで各分野の研究結果を集めた医学知識を実際に治療する医療に応用してみると不具合が出てくるわけか。知識は膨大なんだけど実際には当てはまらない。だから治せない、治らない・・か。
「治せると思っている」のと「実際には治らない」という、そのギャップはすごく大きくなっていると思いますね。
一流の医学研究者がひとつの分野ではすごく深い知識があるのに、他の分野のことはまったく知らないという意味は、人間の全体像がまったく見えていないという事ですよね。
おじいさん:細かい研究が一概に悪いというわけではないがね。
しかし、それを全体に当てはめてしまうというのが勘違じゃ。それが個々の真実が全体の真実とはならないという意味じゃ。
人間という生物は全体でひとつという総合体だからじゃ。
それなのに、個々に細分化した研究結果を全体に当てはめてしまおうとする。それでは人間の体という総合的働きとは違ってくる。
例えば、眼の治療にしても、眼科は眼だけを対象にするじゃろう。鼻は耳鼻科というようにたったひとつの頭に関してさえもそれぞれ細分化して見ているわけじゃ。実際は頭も心臓や胃腸などの臓器と密接不利な関係にあるのだからね。
himaari:実際にそうなっていますね。町の医院にしても胃腸科とか眼科とか区分化していますし、大病院でもたくさんの科がありますし、それは大体は症状別に別けてあるようですね。またそれが当たり前のように思っていましたけど。
人形医学
おじいさん:それほど区分化しているという事は、医学研究が細分化しているから医療でもそうなってしまうんじゃろう。それでは人間医学では無く、人形医学じゃ。人形なら個々の部品だけ替えたりすればよいからね。
先ほどの眼病にしても症状が目に出ているだけの事で眼科が目だけを対象にして診る。
しかし全体として見ると、それは頭脳に滞っている毒素が眼から出ようとして、いったん眼に集まる。それから涙や膿などになって排泄される。その時の症状を見て医学は眼病と診断するのだが、お節介なことにその毒素排泄作用として現われた症状を・・・
himaari:やっぱり止めるんでしょうね、医学は対症療法だから当たり前だけど。
膿が出るときは腫れ物になって出るのですね。それを悪くなって行く一方だと考えるのが医学なんですね。そこで薬という毒で抑止する。すると一時的でも抑え込んでしまえば治ったように見えるわけか。「寛解」という事でしょうが。
おじいさん:君もそこまではよく理解できて来たようだね。
「対症療法とは排毒作用を停止すること」が本筋なのじゃ。だが、人によってはその停止療法をはね返してしまい、自分自身の本当の治癒力で治ることも大いにあるのじゃ。人間の治癒の力は偉大なものがあるからじゃ。
himaari:すると薬を使っても治るように見えるわけですね。病気になれば大抵の人は薬を飲むし、それで収まるのがほとんどですからね。薬の毒で抑止されて一時的に収まったのか、それとも薬毒を排して治ったのかは分かりませんが、表面的は「病気が治った」と見ます。そして「薬を飲んだ」ので「病気が治った」と一緒にしてしまうわけでしょうね。
もともと薬で治るわけじゃないのに、そう見えるわけですよね。
おじいさん:薬は毒なんだから、毒で健康になれるはずは無いというのが自然じゃが、普通はそうは見ないだろうがね。薬を使ったから治ったと思い込んでしまうじゃろう。
それによってまた「薬信仰」を益々強くするというものじゃ。だが、それとは違う意味では、昔から薬が効かなかったという訳じゃ無い。確かに薬は効いてきたんじゃな。
himaari:え?薬はやっぱり効いていたんですか? 治していないのにですか?
おじいさん:そうじゃ、症状停止療法としてじゃ。そういう意味で薬は立派に効いていたという事になる。その期間があまりにmの長かったゆえに「薬信仰」が人類に根付いてしまったんじゃがね。
himaari:それじゃ、長い期間薬が効いているならそれでも良いじゃないですか。
たとえ一時停止方法であっても、相当長い期間、効いているとすれば良いじゃありませんか。人間の一生もそのうち終わってしまうでしょうから、害作用も出てこないうちに死んで逝けるし。
おじいさん:今までの長い期間はそれでも良かった。というか、必要悪としての薬の必要性はあったのじゃろう。しかし、これからはそうは行かなくなったという事じゃ。
たとえ毒である薬でも効けば一応症状停止は持続する。本当の健康体では無い状態だがね。人によっては自分の代には再び溶けることが無い事もある。だとすれば有り難いことだろう。
himaari:はい、それでも構わないと思いますよ。なんとか長持ちさせてくれればですね。すべての薬が毒であったとしても、その毒が抑え込んでいてくれれば良いわけですから。
そうなれば、やはり薬は有り難いものですよ。
おじいさん:そういう事になろう。だから毒という悪であっても長期間効いてくれれば必要悪として認めることになる。
だが、もっと長い目で見ると毒による抑止効果が自分の一生で終わっても、その体質を子孫が受け継いで、代わりに浄化しなければならなくなるとしたらどうなる。
どこかで精算しなければ人類共通の体質として劣弱化して行くじゃろう。それに以前の様には行かなくなってきたという事が重要じゃ。
himaari:自分の世代だけでは済まないわけですね。たとえ一生抑えつけていたとしても
子孫に体質を遺産の様に残すわけか・・負の遺産として。
その抑えつける期間が短くなってきたという事も加えると、やはり薬は不必要悪になるのでしょうか。
薬の効果とは毒の効果
おじいさん:同じ子どもでも丈夫なのと病気がちなのとあるじゃろう。親の体質を受けているはずじゃ。薬の効果というのはあくまで「毒で毒を抑える」「毒で毒を固める」というのが本質じゃ。その効果が長く効いていればそれなりに効果があったのじゃが、そうは行かなくなって来た。薬(毒)の抑止効果が短縮し来たのじゃね。その事は近年になって薬の効能が短くなってきた事で分かるじゃろう。古い薬がどんどん消えて行くのはどういう事かな。
himaari:それは効き目が悪くなったか、それよりももっと良い薬が発明されたのでしょうね。
おじいさん:卵が先か鶏が先かの問答のようだが。
実はある薬がずっとそのまま効力があるのなら、わざわざ新しい薬を発明する必要は無い。
最初から効果が無かったからかか? それはあり得ない。効果が薄れてきたから新たに代わる薬が必要になるのだよ。
himaari:なるほど、新しい薬が出来たからでなく、その前に古い薬が効かなくなってきたのが最初ですか。それも近年になってそのサイクルが短くなってきたのは不思議ですね。どんどん古い薬と新しい薬の入れ替えが進んでいるし。
おじいさん:それを説明するのにはいつも苦労するのじゃが、君にどう話したらよいかの方が難しいのう。
himaari:僕が分かるかどうかよりも話して貰いたいですね。どうして昔はよく効いていたものが近年になって駄目になってきたのかをです。
おじいさん:今までは良かったというか、必要悪としての薬だったのじゃ。
だが、これからも必要悪として残るかというとそうは行かなくなるという事をわしは発見した。薬はこれからの時代には不必要悪、つまり人類は不要なものとなって来る。
薬の効果と「夜昼転換論」
himaari:薬は必要悪だったのですね。悪だけど必要だったという。
一時的な浄化停止として薬は必要として認めるんですね、でもこれからはそうは行かなくなるというのがどうも分かりませんね。
人類が長い歴史の間に使って来て、しかもそれなりに効果があった薬です。それがどうしてこれからは効果が無くなるというのでしょうか?
おじいさん:その根本が「夜昼転換」論じゃが、その前に、薬が効かなくなってきた事と関係してくるのが手術の発達だという事を先に話しておこうか。実は手術の発達は薬の効果が薄くなってきた事とも関連してくるからね。
himaari:その「夜昼転換論」聞きたいですね。そのまえに手術論か。でも、薬が効かなくなると手術が発達するって変ですね。手術の進歩は医学の進歩と言われていますよ。
おじいさん:手術は外傷にはそれなりの必要性があるだろうが、内部的疾患に手術が盛んに行われる事は医学の退歩と言ってもよいじゃろう。なぜかというと、薬が効くと言うことは、薬で病気は解決するということじゃ。
himaari:薬で治ればそれで終わりというわけですね。べつに手術までしなくてもよい訳か。
おじいさん:わざわざ人間の肉体を切り刻んで、生命に危険を及ぼすかも知れない手術までして治療しなければならないという事の意味じゃよ。
himaari:そう言えばそうですね。手術の前にいざという時の為に承諾書などに署名させられるという事は危険な面があるわけか。
そんな危ない事をしなくても薬で治れば手術など必要ない訳ですね。
手術の進歩は医学の退歩
おじいさん:そもそも、手術は戦争などで外傷の応急処置で発達したものじゃ。それを内部的疾患に使うという事は最善の方法では無い、次善の方策に過ぎない。
人体に不必要なものはひとつも無いことは盲腸の話で分かっただろうが、それを切り取ってしまうという事は薬では治せないから行う次善の策でしかない。
himaari:では、最良の方法とは何ですか? 薬でも駄目、手術も最善では無いとすると。
おじいさん:もちろん、人体をいささかも傷つける事無く、元の健康状態に戻してやる事じゃよ。
himaari:それが今までは薬だと思われていたのですね。しかし、これも症状を抑えるという毒の作用でしか無かったとすれば・・・
おじいさん:そう、薬は必要悪としてだが、今まではそれなりの効果があったからね。しかし効果が無くなってきた事で手術の発達が即されたというわけじゃ。
もともと薬で病気が治れば手術などは必要ないからね。それが近年手術が発達するという陰には、「薬が効かなくなってきた」という事が潜んでいるからじゃ。
himaari:でも、みんなが手術の進歩を盛んに賞賛していますね。「手術の進歩で医学は益々進歩した」とですね。
おじいさん:そう思い込んでいるのはどうしようも無いが、実際は手術の発達は医学の退歩なんじゃよ。戦争に負けているのに勝った勝ったと騒いでいるのと似ているじゃろう。
次善の策を進歩と思い込んでいるだけじゃ。
himaari:では、手術は必要ないって事ですか?
薬で治せないから手術する
おじいさん:手術が外傷以外に必要性があるというのは「医学が治せない」事を表明しているようなものじゃ。治ると言う意味を知らない事になる。人間の肉体に不必要なものは無いのじゃ。ゆえに人体にいささかも傷をつけないで健康体に戻してやる事じゃ。
これが治癒の本道じゃよ。
himaari:それを薬で治せれば手術は要らなくなるというわけですね。しかし、薬では治らないから手術をする・・・堂々巡りですね。
おじいさん:いや、もっと奥に進めば、その薬も要らなくなるんじゃが。わしは時期という見えない作用を「夜昼転換」として、その変化と薬の効果との関連を指して、「薬は必要悪」だと言ったわけじゃ。
もともと、一切の薬は毒だから、人体に害を与えないで健康に戻すという本道では無い。
himaari:また「夜昼転換論」ですか。それがなんだか知らないけど、薬はその「時期」に合っていたというのですか。
おじいさん:そうじゃな、薬がたとえ毒(悪)であっても効いてくれれば手術の必要など無い。手術が盛んに行われることそのものが医学の退歩というのは分かるであろう。
himaari:これは世間には受け入れられない話でしょうね。しかも薬は必要悪だったが、これからは不必要悪となり、要らなくなると。
おじいさん:必要悪であったのは時期的に合っていたという意味じゃ。
一言で言えば、毒の「固める作用」が効いていたという事だが、時期的に有効性があった。人体の方で言えば、病気とは浄化作用で体内の清掃作用の事だが、こちらも一言で言えば、毒が「溶ける作用」じゃね。
病気と薬の関係は「溶ける」と「固める」
himaari:病気と薬の関係はと「溶ける」と「固める」ですか。すごく単純な言い方ですね。薬が固める、人体の方は溶けるですか。
これを何百何千あるか知らないが、万病に当てはめられるんでしょうかねえ?
おじいさん:そう難しく考える必要は無い、自然は単純にして実にシンプルというのが基本じゃ。人体は常に浄化作用という機能が働いている事は何度も説明したじゃろう。
その浄化作用は体内の汚物、毒素を排泄する為に備わっている事も理解したじゃろう?
そして、薬とは毒だから、その毒によって浄化作用を弱める事が出来るという事も。
それをわしは「固める」と総称したんじゃ。
himaari:なるほどね。人体の方では常に溶ける力へ向かい、薬の方ではいつも固める方の力へか。
「夜昼転換」
おじいさん:人体内でこの綱引きが行われるわけだが、長い期間、薬という毒の方が有利に働いていたんじゃ。「夜昼転換」の原理で。これも単純に見えない事象を夜と昼という単純に言い表した言葉じゃ。
himaari:と言うことは今までは「夜」の期間で、「毒で固める方が有利」だったと言うのですか?
薬は元々毒だから「悪」なんだけど、有利であったから「必要だった」というのですね。
おじいさん:そうじゃよ。その「有利」が逆転して「不利」になって来たというのが「夜昼転換論」でありわしの根本になる話じゃ。
結果として今まで効いていた薬が効かなくなり、効かないから新しい薬が作られ、また効かなくなり、さらに新しい薬の登場となる。
himaari:新薬開発の裏にそんな原理原因があったなんてね。でもそれは全然科学的で無い話ですが、確かに薬がどんどん新旧交代しているのは事実ですね。
おじいさん:その新しい薬も限界があるから、近年はもう新薬の可能性が狭まっているじゃろうが。なぜなら薬の進歩と言えば効果じゃからね。その効果は何かというと、毒の作用じゃろうが。毒の進歩とは毒性を強くする事になるから、自ずと限界がある。
なにしろそれは人体に入れるものじゃからね。
himaari:そうか、それで薬の進歩の限界があるのか。毒を強めると言うことは「効くけど生命が危ない」という事か・・・・すると「病気は治ったけど患者は死んだ」になりますね。
おじいさん:その新しい薬も効果がなくなると、手術という野蛮な方法が進歩発達するわけじゃ。なんどの言うように薬が効けば手術など無用だからね。ゆえに手術の進歩は医学の退歩というわけじゃ。
himaari:これだけ繰り返し聞かされるとなるほどと思えてきますね。根本は薬というものが「固める作用」だから、時期のサイクルの様な見えない影響で「固める作用が効かなくなってきた」というのですか?
おじいさん:実際にそれが事実として現れるからね。わしの理屈はたとえ無視したとしても現実として分かるじゃろうが? 近年になって盛んに新旧交代が起こっているじゃろう。新薬のほとんどが短期間で消えて行くじゃろう。
それは「毒の固める作用」が大自然のリズムに合わなくなってきた。つまり自然は「溶ける作用」に力を増してきたという事じゃ。
himaari:そうか、抗がん剤などはもの凄く毒性が強いと言われますから、「固める」には「強い毒」という訳か。それが効かなくなって来たのは自然のリズムに合わなくなってきたのですね。
良く効く薬は強い毒
おじいさん:「良く効く」は同時に「毒が強い」のだから限界がある。君の言うように「薬は症状に良く効いたが患者は無くなった」というようになる。それが薬というものの宿命であり最終的結論となるじゃろう。
himaari:薬の宿命は最終的には人間を滅ぼすという事か!
おじいさん:その限界レベルに近づいたのが近代であり、君たちは今そこに居るというわけじゃな。わしの時代にはまだその程度は低かったが、既に始まっていたのじゃ。わしは「夜昼転換論」を用いてそれを実際に証明しようとしていたのじゃが、時、至らず途中下車している状態じゃ。
himaari:ところが今頃になって「時、至った」という訳ですか?
その時期と言っていたことですか、「始まっていた」というのは「夜昼転換」で言うといつ頃の事でしょうか?
おじいさん:もちろん大根の輪切りの様にハッキリと人間の目には見えないが、ある時点で大変化が起こり始めたのをわしは知ったのじゃ。
もちろん医療にもだが、地球上の全事象にも当てはまる事じゃ。これは説明し難い事じゃが、これを理解しないとなかなか薬と病気の関係や医療の根本の事が分からないのじゃ。
himaari:地球上の大転換ですか、その「夜昼転換論」ってのは。それが薬を主とする医療にも大きく影響するというのですか。
おじいさん:いまこの地上は大変化しているという事が今までの医療が通用しなくなるという転換論がわしの基本となるものじゃからね。
繰り返すが、薬の固める(症状停止)作用が夜の期間は有利だったが、昼の期間になると不利になるということだ。ゆえに「必要悪」の「必要」が消えて「悪」のみとなる。
現実的に言えば「主作用(効能)が消えて副作用(害)だけが残る」
もともと薬の効果は毒の効果なんだから、その正体が現れるというに過ぎないがね。
himaari:夜と昼のリズムが薬の作用に影響するとは、おもしろい原理というか奇妙なお話ですね。
おじいさん:この説はわしの医学論、つまり薬毒と浄化作用の関係の根本になるものじゃからね。現代医学が薬を中心とする対症療法とすれば、昼のリズムに合わなくなってきたから衰退するという根本の理由じゃ。
himaari:これはちょっとトンデモ論的なお話になりそうですね。この話題はこの僕ももう少し詳しく知りたいのですが、詳細は後ほどということで。
まったく見えない世界の話になりましたの、いまのところ理解しがたいものですし。
おじいさん:現実は実際はどうなっているかを知り、それと比較しながらわしの話を思い出すがよかろう。
himaari:はい、今のところ半信半疑の気持ちですが、とりあえずはこの辺で。
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二部 手術は野蛮
※・・という事でおじいさんのお話はトンデモ論から超トンデモ論にまで進んでしまい、僕も頭もパンクしそうになりましたので、ここでちょっと休憩します。
himaari:また、再開しますが「手術」について追加分をよろしくお願いいたします。
おじいさん:そこで、内科的な疾患で手術をするということはどういう意味かということだが。
それは毒素によって冒された箇所を切除してしまえば、それが治癒だと思うからであろう。
なるほど、それだけの毒素ならいいが、多くの場合、後続部隊があって、一時は無くなったしても次々と溜結してくる。一旦は手術で治っても又悪くなり再手術、再三手術をしなければならない事がよくあるにみて明らかであろう。
himaari:その点は癌などでよく聞く話ですね。
一度、手術で癌の部分を切り取ってしまったから、もう癌が無くなったと思いきや、また時が経ってから他に転移するとかして、また手術をして元気になったと思ったら、また再発で手術というように段々と悪化して行くのですね。
おじいさん:これが対症療法の行く末じゃ。たしかに手術で再発しない人もいるだろうが、そんな人はごく少量の毒素があった場合で、手術などしなくても自然治癒するくらいのものだ。ただ手術したから治ったと思い込んでしまうのじゃろう。
himaari:同じ様な事を山田医博というお医者さんが本に書いていますよ。
「手術して治るくらいのものは手術しない方がもっとよく治るんだ」とです。
本当に手術した方が良くなるのか、それとも手術しない方が良くなるのかは、自分のからだはひとつですから較べようがないので証明できないですけどね。
おじいさん:その医師は見抜いたんじゃろう。それではちょっと例をあげてみようか。
例えば前に話した盲腸炎で虫様突起を除去するから、なるほど盲腸炎にはならないが、後続毒素は腹膜や腎臓の方へ溜結する事になり、第二、第三の病原を作るのである。
また腎臓病で、左か右かの一方の腎臓を摘出してもそれだけで治り切る事は滅多にないだろう。たいていは残った方にまた起こるというような事になる。
himaari:なるほど切り取ってしまえば、無いのですから二度と罹らないのはあたりまえですね。しかし頭痛だからと言って頭を切り取るわけには行きませんけどね。
おじいさん:医学は頭蓋骨を割ってまで手術してしまうだろう。君も極端なことを言っていると危ないよ。
頭痛がするから頭を切り取りはしないだろうが、命に別状が無ければどこまでも切り取っているじゃろう。
次に最も多い胃癌の手術にしても、完全に除去される事は少ないようで、ほとんどはいくらか残り、それが拡がって再発しやすいとされているじゃろう。
このような訳で幸い手術で成功しても元通りの健康体に復する事はほとんどないであろう。
盲腸手術後腹力がなくなったり、腎臓摘出後ヒョロヒョロになったり、胃癌の手術後満足に食事がとれず、やわらかい物を何回にも分けるなどの苦痛もあることになる。
himaari:手術によって完全に元に戻れない事はよく分かります。本来は必要な臓器などを切り去るんですものね。どんなに進歩した技術で手術をしたとしても、結局は必要な部分を切ったりするわけですからね。
おじいさん:誰でも考えてみれば分かることじゃ。このように手術によって、いわば内部的不具者になるのであって、真の医術の方法とはいえない。
いつもわしの言う通り、「手術とはメスを揮って人体を切り刻むものだから野蛮極まるやり方である」のだからね。
himaari:そう言えば野蛮なのですかね。近代的医療の象徴のような手術がですか・・
あまりにも単純というか、「脳を取り去ってしまえば頭痛は無くなる」的でして。
まあ、僕はわざわざ血を流し肉体を切り刻むのは見たくもないですし、やっても欲しいとは思いませんけどね。でも多くの人はそれより方法が無いと思ってやって貰うんでしょうね。
おじいさん:医学ではそれしか無いと思うからだろうが、第一に薬で治らない事、そして人間の神秘的偉大なる自然治癒能力を信じられないからだろうね。
それと死への恐怖と重なってしまうのだから、「溺れる者は藁をもつかむ」という心境になる。
himaari:一刻も「早く治りたい願望」と「放っておいたら悪くなる一方」だという思いが重なってしまうのでしょうね。だから、手術でなんとかなるという希望が強く働く。しかし、その裏には「薬で治らない」結果が手術の要因ともなっている。
おじいさん:それは人間として当然の望みだから致し方ないのじゃが。治りたい、治したいとは誰でも持って当然じゃ。
ただ、本当の治癒とは何かを知らないでそれをやる。何度も話して聞かせたように、真の治癒とは「溜結せる毒素だけを排除する」こと以外にない。
これが唯一元の健康体に戻せる治癒であり、これこそが「本当に治る」のであって、それ以外は次善の策だというわけじゃ。
この根本原理をしっかり認識して、自分の好きな治療法なり健康法を選ぶことだね。
himaari:そうですか・・・手術は次善の策で本当のものでは無いわけですね。
しかもその前の段階である薬さえも本当の治療では無いとすると、どうしたら本当の治療が見つかるのでしょうか?
毒素排泄作用の原則に則った治療法とすればどうやって自分で選ぶんですかね。
おじいさん:そうだね。そこが肝心なところかも知れないし、また君たちが一番欲している情報だろうね。とにかく何でもよいから治れば良いという思考が強いからね。
しかし、その前に、どんな治療法を選ぶにしても、それは決して主役では無いという事をよく頭に入れておいた方が良いじゃろう。
himaari:え、最高の治療法を探してもですか? おじいさんのやっていた治療法でもですか? それさえも治癒の主役では無いというのですか?
最も進歩した医学とは
おじいさん:最も進歩した医学とは何か? まずそれを考えてみよう。
それは自分自身の自然良能力を柱としたものであり、その柱となる自然良能力を応援するのが種々の治療法じゃ。よって治療法とは主役に対する脇役、手助けになる方法じゃ。
ゆえに決して身体に害を与えず、主役を盛り立てる脇役である方法じゃろう。
himaari:理想的な考え方ですが、そのようなものがあるのでしょうか。
効果が無ければ何の役にも立たないのではないですか?
治癒の主役を忘れるな
おじいさん:君は、効果と言うとすごく大切に思うだろうが、その効果を出す主役は君自身の身体の生命力だという事を忘れているんじゃないかな。
一番の主役を忘れると、どれもこれも対症療法的な治療法に陥ってしまうからね。
わしも自然治療を目指した方法を開発して普及させたが、結局は主役を忘れてしまうと、脇役を捜し求めて遍歴をする。ひとつの方法が無くなればまた対症療法的治療を頼るようになる事をじゃ。
himaari:なるほど、治療法が対症療法でなくても主役と忘れてしまうと、結局は脇役に依存してしまう精神的にみると対症療法になっているという意味ですね。
おじいさん:そうじゃな、わしの開発した療法も確かに自然療法であり根本療法と名乗っていたが、それを主役にしてしまうと本来の自分自身が主役だと言うことを忘れてしまう。そうなると根本原理から外れてしまう事になる。
himaari:あくまで主役は自分だという事ですね。どんな素晴らしい医術であろうが、施術者だろうがそれは脇役に過ぎないという事ですか。
おじいさん:そうじゃよ。主役を無視すればどの様な素晴らしい方法であっても、それは対症療法的な関係になってしまう。リヤカーを引くのは自分自身であった、それを手助けしてくれるのは脇役じゃ。脇役にリヤカーを引かせると対症療法になってしまう。
himaari:難しいですね。おじいさんの時代にはこれだけやっておれば良いとされたのに、今の時代には頼り切るなと言うわけですか。治癒の主人公は自分だと。だから脇役の治療法を主役にしてはいけないという。
おじいさん:療法などはあくまで手段的なものに過ぎないからじゃ。
ただ、自然に任せる切るのにはかなり厳しい面もあるからね。ただ放っておくだけじゃなく、それに大いに手助けをするというのは必要じゃろう。
その点、薬とは正反対になるがね。薬は固める手助け、自然療法は溶ける手助け。
主人がリヤカーを引いているのに引き戻そうとするのが薬(毒)、本当の手助けは同じ方向に押してやる事じゃ。
himaari:つまり、薬は抑圧して固めるから身体は汚れる。
自然療法は身体の仕組みに合わせるから、身体の汚れを綺麗にする手助けだと。
そういうことですね?
おじいさん:うん、よく分かってきたようじゃな。
これだけ、何度も繰り返し話してきたんじゃ、分からない方がおかしいのだがね。
himaari:どうも問答があまりにもスムーズになりすぎて気持ち悪いので、この辺で終わりにしますね。
でも、まだまだ信じられない事も多いので、おじいさんの言いなりには未だなりませんよ。
おじいさん:そうじゃ、それで良い。自分で考え、自分で体験して確かめるんじゃな。わしは理論理屈を話しておいただけじゃ。応用は自分持ちじゃよ。
himaari:おじいさんは独自の治療法をされていたと聞きますが、そのことについてはどうなんでしょうか? おじいさんの特別な手助け方法をお聞きしたかったのですが。
おじいさん:そうだね、わしの方法もそのひとつかも知れないが、それだけに囚われて欲しくないからね。あの時代には奇跡的効果が連続したと言われるほどだったが、ただ、このやり方にも功罪があったようだ。
himaari:え、そんなに効果があったんですか? でも、功罪があるっていうのですか?
おじいさん:主人公を自分以外の他に委ねてしまうという落とし穴じゃろうね。それは後々になって分かったのじゃが。
himaari:主人公を他にですか? 治癒の主人公は自分だと言うのにですか。
おじいさん:それは君が完全に自分が主人公だと腹に落ちるまでは必要ないじゃろう。これは自慢じゃ無いが数多い自然療法のなかでも優れていると思うのだが、使う場合の意識が大事になるからね。 そのうちに少しづつ話してやろうかね。
himaari:そうですか。その意味はまだよく分かりませんけど、またの機会によろしくお願いします
と言うことで段々と会話が進み過ぎてしまい、himaariとおじいさんが同化現象を起こしているかの様な会話になりましたので、この辺で終了としました。
なにしろ、相手は半世紀以上も前に存在ですので、よく聞こえない部分は僕の解釈で書いたところもありますので。
あ、何か声が・・・・
「・・・君はわしの言うことをそのまま書いておらんのじゃないか・・・君の都合良く書いたら・・・イカンゾ・・・」
微かな声ですので、無視いたしまして・・