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14/7/8

普通の主婦の普通じゃなかった半生 6 (実話自伝)登校拒否〜身障者〜鬱病からダイバーへ

Image by Olia Gozha

5からの続き。



16歳の私。

少々すさんでいた頃です。





父との対面。




話しは少し戻ります。

中1だったか中2になっていたか、はっきり覚えていませんが、赤ちゃんの時に両親が別れてから一回も会ったことも話したこともなかった父と初めて会いました。

母は父に慰謝料も養育費もいっさい貰わずに親権だけとって離婚したのですが、連絡はたまに取り合っていたのでしょうか?たまたま連絡を取ったのでしょうか?それすらわかりませんが、ある日突然、母が「パパの弟に会いに横浜に行こう。」と言い出したのです。

母は私に父は交通事故で亡くなったと嘘を言っていました。

だけど、私を育ててくれた祖母は私に一切嘘をつかない人で、幼稚園の頃から「あっちゃんのパパは浮気してママと離婚して東京に住んでいるんやよ。」と教えてもらっていたので、私は母にずっと騙されたフリをしていたのです。

子供って意外とバカじゃなくて、本当のことはよく理解はできなくてもわかるものです。

浮気とか離婚とかわからなくても、祖母が本当のことを言ってることと、なんだか事情があって父が居ないんだってことと、それは秘密にしておかなくてはいけないことなんだって理解してました。

なので、「パパの弟に会いに行く」=「パパに会いに行く」んだな、ということはすぐにわかりました。

母と二人で旅をするのはその時がはじめてだったのですが、私も父がどんな人なのか?とても興味がありました。

会ってみたいと思いました。

それで「パパの弟に会いに」母と横浜に行きました。

父とは横浜グランドホテルで会いました。

正直なその時の感想を書きます。

あー、この人が私のパパなんだ。

へぇ。太ってるな。大橋巨泉みたいなスーツ着てる。

何、話していいのかわかんないな。

知らないおじさんだ。

そっか、パパの弟ってことになってるんだった。

なんで今までほっといて急に会ってみようと思ったのかな?

それだけ、です。

そんなもんです。

だって、何一つ想い出が無いんだから。

テレビのご対面番組で生き別れた親と抱き合って号泣してる親子を見たことがあったけど、実際は私の場合は何の感情もありませんでした。

憎しみも愛情も嬉しさも悲しさも感動も複雑な感情も何もなかったです。

私が変わっているのかな?

心の中で、この人が私のパパなんだ、そっか。

そう思っただけで、特別笑いも泣きもしなかったです。

でも、会わせてくれてよかったとは思いました。

だって、小学校の頃、学校でお父さんの絵を描きましょうと言われても描けなかったし、お父さんのことを作文にしましょうと言われても書けなかったから。

父について何も知らなかった私が自分で父と実際に会って、ああこんな感じの人なんだ、そうわかっただけでも大きな進歩?でした。

父も笑いも泣きもしませんでした。

父がその時どう感じたか?は不明です。




短かった高校生活と母の自己破産。




中学3年生、はじめてまともに登校し充実した学校生活をはじめておくっていた私でしたが、高校受験を迎えた時、それまで不登校で学校に行ってなかった私の成績は当然良くはありませんでした。

中の中の中、そんなところです。

それでも中だっただけ自分を褒めてあげたい感じですが。

担任の先生の私への評価は激悪でした。

そうでしょうね。

ずっと不登校でその頃は少なかった母子家庭でしかも不純異性交遊です。

その頃付き合っていた初彼との交際は前に書いたように純真なものでしたが、先生の目にはそうは写っていなくて不良の私が出来の良い彼を悪い道に誘っている不純異性交遊、そんなふうに見えていたみたいです。

実際、私だけ職員室に呼び出されて、「あの子(彼)はあなたとは違う良い家の勉強もできる子なんだから、邪魔をしてはいけません。別れなさい!」そう言って怒られました。

私の不登校は引きこもりとは思われていなくて、ズルして学校を休みまくって遊び回っている不良の子。

そう思われていたのです。

高校受験を迎えた時、当然、担任の先生が私に親身になってくれる訳はなかったです。

中の中の中の滑り止めの私立の普通科を受験することを勧められました。

母は私の受験に何の興味も無く、どんな学校があるのかさえ調べようともしなかったです。

ただ、高校だけは行かせなきゃとは思ってくれていたようでした。

私が行きたかったのは偏差値の高い高校の美術科でした。

引きこもっていた時によく絵を描いていた私は美術の成績だけは良かったのです。

美術の先生にも気に入られていました。

美術の先生は合格できる、頑張れ!と言って後押ししてくれましたが、結果は惨敗でした。

私は中の中の中の滑り止めの私立の普通科に進学しました。



その頃、母はクラブの歌手を止めて小さなブティックを経営していました。

私が中2か中3かそれくらいからはじめた仕事でした。

夜の仕事を辞めたかったのでしょう。

母が張り切っていたのは私から見てもわかりました。

だけど、相変わらず世間知らずだった浮き世離れした母がいきなり経営などできる訳がありませんでした。

私が高校に進学したのと同時くらいにそのブティックはあっけなくつぶれました。

どれくらいの借金ができたのかわからないけど借金だけが残りました。

そして母は自己破産をしました。

会話の無かった親子の母からの一歩的な会話は「お金が無い、お金が無い。」それだけになりました。

「あっちゃんの高校の学費が高い。」母は覚えていなかったので悪意はなかったと思いますが、そう言われた時、私は高校をやめて自立する決意をしました。

もともと親子らしい親子ではなかった母と私です。

行きたかった訳じゃなかった高校です。

私は家を出て、自分で働いて生きていこうと思ったのです。

高校に通ったのは秋まででした。

高1の冬、私は高校を自主退学して美容師になる決意をしました。

特別、美容師になりたかった訳ではありません。

ただその頃、自分で自分を養っていけて働きながら学校に行ける職業が美容師だったからです。

その時の私はとにかく母と離れて暮らしたかった。

私は高校を中退して美容院の寮に入り仕事を始め美容学校に通い始めました。

16歳でした。



7へと続く。













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