「性同一性障害」「パニック障害・うつ」
「妊娠・中絶」「自己破産」を体験した
ひとりの男?の生き様。
はじめに
どうもみなさんこんにちは。
このストーリーに出逢ってくれて本当にありがとう。
この本は現在37歳で、
生まれた時は女の子だったけど
今は戸籍が男になった小さいオッサンが書いた
しょうもないけどデンジャラスで
エキサイティングな自叙伝である。
昭和52年8月12日に大川家の「長女」として生まれたオレは
今となっては「長男」である。
ここまでたどり着くにはホントに言い表せないくらいに
色々なことあった。
自分で言うのもあれだけど、物凄く波乱万丈な
人生を歩んできたんだよね。オレ。
もしかしたら波瀾万丈じゃ収まりきれないかもしれない。
「性同一性障害」
「パニック障害・うつ病」
「妊娠・中絶」
「自己破産」
37歳にしてこの全てを経験する人なんてオレくらいしか居ないよね(笑)
しかも世間的には偏見的な目で見られがちな事ばっかりだしさ。
今は裁判所に申し出をして
性別を女性から男性に変更して、一般女性と結婚することも出来た。
オレ自身は最高に幸せな毎日を過ごしてる。
そこで考えたのが「この人生ムダにしたくない」ってこと。
自分が世の中の為に何か出来る事はないかな?と考えた時
オレが生きて来た、とんでもない人生を多くの人に話すことで、
誰かの役に立てるかもしれないと思ったんだ。
その思いから
「差別や偏見のない世の中にしたい」
「誰もが自分らしく生きていけるフリーダムな世界を作りたい」
「自殺者をゼロにしたい」
という夢ができた。
実現を目指し活動を始めた37歳。
今までのオレの人生を振り返るのにももってこいな時期だし、
一人でも多くの人に伝えたいんだ。
「こんなに多重苦人間だった奴でも今は幸せに生きてまっせ」って
ことを多くの人に伝えたい思いで、この本を書いてみようと思った。
「こいつ、どこまでもツイてない奴だな」と思ってもよし
「こんな人も世の中に居るんだ」と思ってもよし。
「こいつが生きてるなら自分だって大丈夫だ」って思うのもよし。
だって感じ方なんて人それぞれ違って当たり前なんだからさ。
このような生き地獄を味わってきたオレが、希望を失わず、前を向いて歩いている。
その力はどこからきてるんだろう?
それは最愛の妻と仲間の存在がオレを強くさせたんだ。
今、苦しみ悩んでいる人へ伝えたいこと。
「人生って意外と捨てたもんじゃないよ。」
「人生、どうにかなるさ♪」
実際オレだって人生終わりだって思ったことなんて腐るほどあったけど、
何だかんだで今では自分らしく充実した人生を歩んでいるしね。
37歳にしてやっとですけど・・・(笑)
今回は
「パニック障害・うつ病」と
「性同一性障害」とを2大テーマに
「妊娠・中絶」と
「自己破産」についても触れている。
正直、
「妊娠・中絶」と
「自己破産」の事は
本当に信用した人にしか話してないので不安でいっぱいだけど、
これも含めて全部オレの人生だから思い切って書いた。
誹謗中傷も受けてたつぜ。
って本音はできればされたくないけどね(笑)
ではごゆっくり。肩のチカラを抜いて
気楽に読んでちょうだい。
きっと、アナタの人生のヒントになる様な事が
書いてあると思うよ。
参考年表
昭和52年8月12日 大阪府岸和田市にて大川家の長女として生まれる。
昭和59年4月 小学校入学。赤いランドセルに違和感を強く持つ。
平成2年4月 中学校入学。セーラー服を着る事に抵抗し、本気で中学に行かないと言い張る。
平成5年4月 何故か女子高に入学。女の園でウハウハな生活を送る。
平成8年4月 体育の短期大学へ入学。体育教師を目指すも単位不足で断念。
平成10年4月 社会人デビュー。
平成13年〜 パニック障害を突然発症し、転落人生へ。うつ病併発、妊娠・中絶・ギャンブル依存に
苦しむ日々。
平成14年〜 現代の駆け込み寺「サンガ天城」へ入所。
平成20年 自己破産。
平成22年〜 一気に復活ロードを突き進む。
平成24年〜 性別変更に向けて治療開始
平成25年5月 性別が女性から男性に変更される。
平成25年8月 一般女性と結婚。
平成26年〜 差別や偏見などを無くし、誰もが自分らしく生きて行けるフリーダムな世界を作ろうをスローガンに、フリーダムな世界の請負人として活動を開始する。
現在に至る。
① オレという人格を完全にぶっ壊した病
「死にそう。迎えに来て。頼む。」
それだけ言うのも精一杯だった。
今でもその時の事は鮮明に覚えている。
決して忘れることの出来ない最悪な瞬間だった。
基本的に超ポジティブ人間で嫌な事があっても寝たら忘れる様な
能天気で単細胞だけが取り柄だった人間が、
ある日突然パニック障害を発症することによって、
みるみる深い深い闇の世界に引きずり込まれていった。
パニック障害を発病してからは
楽しかった全ての事が全く楽しく無くなっていった。
死ぬ事だけを考えながら生きる毎日。
パニック障害だけならまだしも、これまたやっかいな事にうつ病まで併発しやがった。
今思えば
大川忍という人格が180度変わったと言っても大袈裟じゃない位の衝撃的な出来事だったな。
① パニック障害の発病
一番最初の発作はホントに突然だった。
今でもあの瞬間は鮮明に覚えてる。
一生忘れらる事なんか出来ない恐怖の瞬間だった。
その日は、仕事の会議中からなんとなくふらつく感じがあったけど、
最近忙しいから疲れてるんだと思って
あんまり気にしてなかった。
長い長い会議がやっと終わり会社からの帰り道で
運転中に初めての発作が起きた。
帰宅しようと普通にいつもの道で車を運転していたら、
いきなり意識を失いそうな感覚に陥り、
体中冷や汗でぐっしょり、
心臓はバクバク破裂しそう、
手足の感覚が麻痺して行く。
上手く伝えるのは難しいけど、生まれて初めて
「これオレ今死ぬかも」って本気で思った出来事だった。
意識が遠のいていく中、何とか路肩に車を止めて母親に電話した。
「ヤバい。死にそう。迎えに来て。頼む。」
それだけ言うのも精一杯だった。
呼吸がうまく出来ない。
とりあえずシートを倒して横になってみたものの、
症状は治まるどころかどんどん酷くなって行く一方で。
まさにパニック状態。
それからどれ位の時間が経ったんだろう?
母親が迎えに来て病院に着くまでの記憶はほとんど無い。
近くの市民病院の救急外来を受診した。
「とにかく死にそうなんだ」
「助けてくれ」
医者にしがみついたのを覚えている。
色々な検査をしてもらった。
血液検査、
心電図、
CT
レントゲン
検査が終わり、待合室で待つ。
名前を呼ばれ、診察室に入る。
「どんな大変な病気なんだ?」
そんな事を考えながら、診察室に入った。
だけど医者から出た言葉は・・・
「多分疲労でしょう」だった。
「は?ただの疲労な訳がないじゃん。大丈夫かこの医者?」
不信感と怒りの気持ちでいっぱいのまま
医者に言われた点滴を打ってもらい自宅帰った。
自宅に着く頃には、さっきまでの症状は消えてふらつき感だけが残っていた。
実はこれが長い長い悪夢の始まりになるんだとは、
この時には予想すら出来なかった。
それからも頻繁にあの日と同じ様な発作が起こる様になっていった。
時間、場所に関係なく発作は起こりやがる。
特に深夜の時が多かった。
発作を起こす度、当時付き合っていた彼女に病院へ連れて行ってもらった。
彼女には凄い迷惑を掛けていた。
病院に行って医者に診てもらわないと
不安で居ても立っても居られなくて・・・
でも病院行っても言われるセリフは毎回同じ。
「どこも異常ないよ。」だった。
発作が起こる事に怯え発作を起こす。(予期不安)
マジで凄い苦しい。
だんだん医者への不信感と怒りが爆発しそうになっていった。
「絶対こいつ何か隠してる。異常ない訳がないじゃん。」
そう思って違う医者に何件も行ってみたけど答えは同じだった。
「異常なし」。
いわゆるドクターショッピングってやつを繰り返してたんだね。
どうしても自分がどこも悪くないなんて
信じられなかった。苦しい原因を見つけたかった。
「何で?何でどこにも異常がないんだ?」
「それなのに何でこんなに苦しいんだ?」
そう考えては発作を繰りかえす。
負のスパイラル。
まさに生き地獄だったね。
そんな毎日を繰り返していくうちに
だんだん外出するのも怖くなり部屋に閉じこもる様になっていった。(広場恐怖)
ある日いつもの様に発作が起こって行った病院の先生にこんな事を言われた。
「一度、診療内科に行ってみたらどう?」
「え?心療内科?何それ?」
詳しく聞いてみると、精神的なものが、身体の症状に出てしまって
いる可能性があるらしいから、そっちの方がイイとの事。
「は?オレが心の病気になんてかかってる訳ないし。
だってオレだよ?」
しばらくは意地を張って心療内科に行く事はしなかったけど、
母親に相談したら
「行って来た方がいい」
と言われたのでとりあえず行ってみることにした。
心療内科受診初日。
受付を済ませると問診票を記入して、心理テストみたいな問題に答えた。
100問くらいあった気がする。
受付に提出して待合室で診察の順番を待つ。
こういう病院って、何か暗い感じかな?って思ってたけど
なんかきれいだし、癒し系のBGMが流れてて以外だったね。
名前が呼ばれ診察室へ入る。
先生に今までの経過と今の状況を聞かれて話すと
「パニック障害ですね」
って軽く言われた。
「パニック障害って何?ってかオレがそんな病気にかかるはずないし。ありえん。マジありえん。」
ぶっちゃけ当時は精神的な病気に偏見を持っていたオレは受け入れられるはずもなく、
納得いかないまま、薬をもらって帰る。
どうやら薬は発作を起こりにくくさせたり、精神的に落ちつかせてくれる薬らしい。
自分がパニック障害だって事は受け入れなかったが、
発作がおさまるなら薬は飲んでみようと思い服用をはじめた。
薬を飲み始めてから1か月位は副作用で酷い眠気に襲われてた。
一日中寝てる日も多くなったけど、確かに発作の回数は減った気がする。
それでも完全になくなった訳じゃないから、発作が出る度にどんどん落ち込んで行った。
「何でオレがこんな風になんなきゃいかんの?」
そして落ち込み具合はどんどん酷くなって行って、訳もなく涙が出てきたり、
どうしようもない寂しさに襲われたりして、心が安らぐ暇が無かった。
今まで感じた事なんてなかった感情だったね
「死んだら楽になれるかも」
なんて事を考えるようになったりしてた。
そこからもまたさらにどん底に落ちて行った。
どうにもならない気持ちを抑える為にカミソリで自分の腕を切り刻む様になった。
リストカットってやつ。
不思議と流れる血を、みると安心できた。生きてるんだなって実感できた。
回数はだんだん増えていって腕に切る場所がなくなったら、
足とかお腹とか体中を切る様になっていた。
母親が初めて見た時は泣いて止められた気がする。
それでも止められなかった。
切る深さもどんどん深くなり何度か病院に行って縫う事もあった。
そんな事を繰り返していくうちに、
切るだけじゃ安心感が感じられなくなって行った。
安心感を求めて次にやったのが、薬の大量服用。
オーバードーズってやつ。
これは現実逃避にはぴったりだった。
薬を大量に飲んだら全てを忘れて死んだように眠れた。
寝れなくてもなんとなくハイテンションになれた。
これもまた最初は何日か分で済んでいたけど、
最後には1か月分を一気に飲んで救急車で病院に運ばれ、胃洗浄をした時もある。
オレ自身は全くその時の記憶はない。
そんな事を繰り返してるうちに
廃人みたいになっていった。
部屋に引きこもり、1日中布団の中で過ごしていた。
そんな感じだったから仲良かった友人達も全員離れていってしまった。
友達と言える人は一人も居なくなった。
② うつ病の併発
いささか家族もこのままの状態ではヤバいと思ったらしく、
精神科を受診する事を勧めてきた。
その頃は思考能力もかなり低下していたから、言われるがまま精神科を受診した。
先生に聞かれた事にうつろに答えた。
もう何も考えたくなかったから。
先生の診断は
「うつ病を併発しています。」だった。
人生の最期通告をされた気分だったな。
それからも引きこもりの日々が続いていた。
前と少し変わったのはうつ病に関する本を買いあさり
片っ端から読みまくった。
読めば読む程、うつ病になる訳がないと
落ち込みが一段と増していた。
そうして家族も疲れ果てて行った頃に
知り合いのおばさんから連絡があった。
中学の後輩のお母さんだ。
「テレビを見ていたら、凄くいい施設を見つけたの。忍ちゃんも絶対に良くなるから行ってみない?」
という内容。
どうやら母親がオレの事で相談をしていたらしい。
中学の頃からホントによくしてくれたおばさんだった。
「おばさん元気な忍ちゃん知ってるもん。だから元気になって欲しいの。」
廃人になっていた心にもその気持ちは届いた。
病気を治して昔みたいに戻りたい。
数日後、おばさんは手紙をくれた。
その中には施設の名前と住所と施設までの交通費が入れてあった。
ありがとう。
おばさんホントにありがとう。
涙が止まらなかった。
後で聞いた話だが母親もオレの事でかなり追い詰められていて
どうする事も出来ずにいたらしい。
実は母親も以前パニック障害にかかり苦しい思いをしていた。
だから辛いのが痛い程分かるし、
明るいだけが取り柄だった奴がこんな状態になってしまって
誰よりショックを受けてしまっていた。
ごめん。
自分ばっかり苦しいんだって思ってた。
そうして紹介してくれた施設に行く事を決意した。
③ 施設での生活
紹介してくれた施設は一人の尼さん(庵主さん)が
心の病気やDVや借金など、
何かに苦しんでいる人を保護して社会に戻れる様に、
普通に生活できる様に集団生活をしながら心を休める場所。
庵主さんも過去に、次男を出産して数日後に夫を交通事故で亡くし
自殺も考えたという。
人生のどん底から這い上がってきた方。
この人ならオレの気持ちを分かってくれるかも?
少しだけ希望が持てた。
こうして施設での生活がスタートした
この施設には本当に色んな事を抱えて苦しんでいる人達がたくさんいた。
やっぱり辛い思いをしてるのはオレだけじゃなかったんだ。
オレなんかの悩みなんて小さいもんだった。
施設では朝早くからお経を唱える。
最初は起きられず参加しなかったけど、だんだんと
お経を大きな声で唱える事によって心の中が空っぽになり少し元気が出た気になった。
ちなみに無宗教だから、お経なんて葬式位でしか聞いた事なかった。
庵主さんがお経の意味を少しずつ教えてくれた。
釈迦ってすごいと思ったな。
お経が終わったらみんなで施設内の掃除と朝ごはん作り。
ご飯ができたらみんなで食べる。
昼間は自由時間。
働きに出る人もいれば、ゆっくり休養している人もいた。
また夕方になるとみんなで夕飯を作り一緒に食べる。
強要される事は何もなかった。
庵主さんは困った事があると何でも話を聞いてくれた。
もう一人じゃない。
そう思ったらみるみる元気になって行った。
発作もほとんど起きなくなった。
働く意欲も湧いてきてバイトに行ったりもした。
でもうつ病はそんな簡単に治るもんじゃなく、
元気になっては落ち込み、元気になっては落ち込みの繰り返し。
落ち込んでは腕を切り、薬の大量服用をしてみんなに迷惑と心配をかけた。
バイトに行ってくるとウソをつきパチンコに行った事もあった。
時には全く呑めない酒を浴びる様に呑んで暴れたりもした。
施設から飛び出して行った事もあったっけ。
そんな時でも庵主さんは時には涙を流しながら叱ってくれた。諭してくれた。
まだまだ不安定な状態だからバイトも長続きしなかった。
でも庵主さんは
「次を探せばいいじゃない。あなたならすぐに見つかるわよ。」
決して責めなかった。
庵主さんは常にオレの味方で居てくれた。
そんな事を繰り返しているうちにいつの間にか落ち込む回数も時間も減っていった。
間違いなく病状は軽くなっていた。
施設には庵主さんや仲間が居た。
孤独なんかじゃない。
それだけで勇気が出た。
オレより何倍も苦しい思いしてる人だって一生懸命良くなろうと頑張ってる。
お互い相談し合ったり、お互い励ましあったりした。
オレも頑張らなきゃな。そう思えた。
そんな日々を施設で過ごし、
約1年後には自宅に帰れる位までに回復した。
ここに来なかったら、今でもまだ苦しんでいたかもしれない。
もしかしたら自殺してこの世に居なかったかもしれない。
今でも庵主さんには時々連絡を取り、
都合が合えば逢いに行っている。
今となってはあの頃の事も笑い話になった。
庵主さん本当にオレを救ってくれてありがとう。
これから一生掛けて恩返ししていきたい。
オレが出来るオレなりの方法でね。
パニック障害を発症してからもう7年近く経ったと思う。
今でも時々発作が起こったり、眠れなかったりする時だってあるけど、
普通に生活が出来てる。
「病気を受け入れて気長に付き合っていこう」と思ってから急に心が楽になった気がする。
発作が怖くなくなった。
発作が起こったって直ぐに治まるって分かったから。
体中に切り刻んだ傷跡も今までもがき苦しんでオレが生きてきた証だと誇らしく思う。
ここまで回復出来たのも本当に沢山の人の支えがあったからなんだ。
今後はどんな形であれ絶対に恩返しをしたい。
今のオレがあるのはみんなのお蔭だから。
ありがとう。
もし今、心の病気で悩んでいる人がいるなら言いたい。
「心配いらないよ。絶対に良くなるからさ」
②破産者になる
オレは数年前に自己破産した。
理由は色々あったけど、要するに借金が返済出来ない状態になったから。
一番の原因はパニック障害からうつ病を併発してまともに働く事が出来なくなった事かな。
そもそも借金を抱えるきかっけとなったのはパニック障害になり、
車のローンや携帯代などが少しだけ足りなかったのが始まりだった。
でも後にそれはとんでもない金額まで膨れあがり、とても完済なんて出来ない金額になってた。
あっと言う間にね。
返済が出来ずに返済の為の借金をする。
まさにこれも負のスパイラル。
本当に借金って怖い。
完全に金銭感覚が麻痺してた。
鬱病になってからは自分自身の現実が受け入れられず現実逃避する為に
ギャンブルにのめり込んで行った。
スロットを打ってる時は何も考え無くて良かった。
全てを忘れさせてくれた。
それも借金を急速に増やす原因となっていた。
いわゆるギャンブル依存症状態。
やっちゃダメだって頭では分かっていてもやめられない。
自分をコントロールが出来ない。
これが依存症ってやつなんだね。
気づいたら自分ではどうにもならず、知人に自己破産を勧められ
手続きをする事に。
非常に恥ずかしい話だ。
まずは弁護士事務所へ。
現状の借金の詳細と、自己破産手続きに至った経緯を書く。
物凄い自責の念にかられた。
なにやってんだろう・・・。
次回までに用意しておく物を伝えられその日は終了。
なんか凄く疲れた。
用意する物は結構沢山あった。
所得証明書、通帳の記帳履歴、戸籍謄本、パニック障害や鬱病の診断書など。
とか。正直多すぎて覚えていない。とにかく言われた書類を集めた。
2回目に行った時に書類を渡し、今後の流れを説明される。
裁判所に出廷しなきゃいけない事を知りびびりまくった。
でもこれを終わらせれば借金地獄から解放されるんだ。
びびってる場合じゃない。
弁護士さんは会社の顧問弁護士でもあったので
全てを委ねる事にした。
いよいよ裁判所へ出廷の日が来た。
弁護士さんと入口で待ち合わせをして裁判所の中へ。
自己破産の裁判は複数名で行われた。
同じ日に裁判を受けた人は20人位居た。
今の世の中、自己破産する人って多いんだなとびっくりしたと同時に
自分だけじゃないんだという安心感を持った。
裁判は一人2分位で終わった。
名前の確認と裁判所に提出した書類と現状に
相違が無いかの確認。
そして裁判から
「自己破産を認める」
みたいな判決?を言い渡されて終了。
これで借金が無くなった。
これからは真っ当に生きて行こうと誓った。
自己破産した事で借金を返済して貰えない人が居るのは事実だから。
消費者ローン会社はともかく、知人にも借金をしていたので、
後に少しずつではあるが返済をしている。
これがオレに出来る償いだと思ったから。
これが自己破産をした記録です。
もう二度と同じ繰り返しだけはしないと思う。
したくない。
そして迷惑を掛けた人達にちゃんと償いをしたい。
これが責任だと思うから。
③大切な命を奪ったから
心は男なのに、妊娠して人工中絶した経験があるんだ。
① 長女の責任
オレは3人兄弟の一番上として生まれた。
3歳下の妹と11歳下の弟の3人兄弟である。
25歳を過ぎた頃から両親に
「早く結婚して孫の顔を見せてよ」
と言われる様になった。
そもそも恋愛対象が女の子なオレは男とは恋愛なんてできるはずがない。
でも、変に責任感が強かったから自分の気持ちは心の奥にしまい込み、
男性と付き合う決断をした。
たまたま、ボーイッシュ好きな男が現れ、付き合いをスタートした。
優しくてスゲーいい奴だったけど、恋愛感情なんてもてるはずもない。
だってオレ男だもん。
②妊娠
一緒に居る時間は友達と過ごしてる感覚で楽しかった。
でもSEXとなると柄にもなくビクビクしてた。
そりゃ一つ屋根の下、男と身体が女である
2人が一緒のベットで寝てたら求められるよね。
夜の営み的な事。
健康な男子なら当たり前だと思う。
頭では分かっていても心が男だから、
嫌で嫌で頭狂いそうになった。
それでも両親の為に耐えるしかない。
そんな状態だから気持ちいいはずもなく、
ただただ受け身に徹底し、早く終われと思ってた。
終わった後は毎回マジ泣きそうだったよ。
だってオレ男だもん。
男となんてエッチしたい訳がない。
そんな生活にも限界が来て
同棲?いや同居していたアパートを出て実家に帰った。
やっとエッチから解放され落ち着いた生活が出来ると思っていた矢先に
大事件が起こった。
妊娠しちゃってた・・・
信じられなかったけど変えようのない事実。
母親に妊娠していると打ち明け、
オレとオレの両親、男と男の両親の6人で話し合いが行われた。
男と男の両親は一斉に土下座し
「中絶して下さい。お金はこちらで払います。お願いします」
って行って来やがった。
この光景を目の当たりにして怒り以外
何の感情も浮かんで来なかったから
話し合いの場から席を外した。
オレのお腹の中には小さい命がある。
これが母性ってやつなのか?
心が男とかこのときはホントどうでもよくて、一人の親としてお腹の命を守りたいって心から思った。
一人で産んで育てて行けるくらいのチカラがあったら産んであげたかった。
でも無理だった・・・
ごめん。
マジごめん。
こんな情けない奴でホントごめん。
謝っても謝りきれない。
③中絶手術
少しだけ気分が落ち着いた頃、近くの産婦人科に行った。
エコーに映し出されてのはまだ数ミリしかないけど確かに一つの命が宿っていた。
中絶したい旨を伝え、数日後に手術の予約をして帰宅した。
帰宅してからずっと病院でもらったエコーの画像を見つめていた。
この命を絶ってしまっていいのか?
いや絶ちたくない。
でもどうにも出来ない・・・
多分この時は自分が男であるとかどうとかの感情なんてどうでもよくて、
確実に親としての感情のみになっていた気がする。
数日後、中絶手術の日がやってきてしまった。
病室に案内され点滴を開始される。
ベットにずっと横になるなんて事はできるはずもなく、
看護師さんの目を盗んでは屋外へタバコを吸いに抜け出した。
あの時何を考えてたんだろう?
今はもう思い出す事すら出来ない。
数時間後、手術室に入った。
全身麻酔をされ次に目が覚めたのは病室のベットの上。
男と男の両親の姿があった。
「帰れ」そう言って3人を追い出した。
奴らはどんな気持ちだったんだろう?
ホッとしたのか?悲しかったのか?嬉しかったのか?
部屋に一人になったら情けないけど涙が止まらなかった。
「オレは殺人者だ」
その言葉だけが頭の中をグルグルとエンドレスに回っていた。
一つの大切な命を大人の勝手でオレの勝手で奪ってしまった。
悔やんでも悔やんでも悔やみきれない。
その日からしばらく部屋に引きこもってた。
何をしたらいいのか分かんないし何もしたくない、何も考えたくない。
どれ位の時間が経ったんだろう?
どれ位泣いたんだろう?
何回オレも死んでやろうと思ったんだろう?
でもそれでも生きていた。
後にこの中絶の経験は「男」として生きて行こうという決意を
固めさせてくれる出来事となった。
死なせてしまった子供の分までオレらしく生きて行こうと決めた。
本当にゴメンね。
そして心からありがとう。
君の事は一生忘れないよ。
君の分まで生きていくからな。
④オレは男だ!でも身体は女なんだよ・・・
「性同一性障害」・・・
体の性別と心の性別が一致しない病気?障害?の事。
今では「性別違和 」って呼び方が変わった。
オレの場合、体は女として生まれてきたが心は男ってやつ。
FTMって言うんだ。
みんなによく聞かれるのが
「いつ頃から?」って質問。
いつからも何も生まれた時からなんですけどね。
ってゆうか自分でも正直分からん。
まあ強く意識し始めたのは小学校入学の時くらいだったかな?
①小学校〜大学時代
当然、戸籍上女の子であったオレは赤いランドセルを使わなきゃいけなかった訳で・・・
そりゃダダこねまくったさ。
「絶対ヤダ。黒いランドセルじゃなきゃヤダ」ってね。
まああの時代いくらダダをこねてもどうにかなるわけもなく、
嫌々赤いランドセルで6年間過ごしたよ。
登下校の時には私服だったのが救いだったよね。
友達は男の子も女の子も居たが、遊ぶのは男友達との方が断然楽しかった。
6年間はあっという間に過ぎ、中学入学。
小学校入学の時よりダダをこねたのが
「セーラー服」の事。
スカートなんてはいた事ない人間がセーラー服って。
死んでも履きたくなかったが、やっぱりどうにか出来るはずもなく
セーラー服を着るはめになる。
さらに追い打ちを掛けるように思春期に突入。
おっぱいは大きくなるは生理が来るはで頭の中はパニック状態。
何で?何で男なのに?受け止める事は出来なかったから
あの時代は諦めるという方法しか選択肢が無かった気がする。
そこで思いついたのは、「男」だっていう気持ちは心の奥にしまい込み
「ボーイッシュな女の子」として過ごす事。
中学入学と同時にソフトボールを始めた。
動機は不純で「一番男っぽいスポーツ」だと思ってたから。(笑)
そんなこんなでソフトに熱中する毎日を送る。
2年生になると、当たり前だけど後輩が入部して来た。
経験ある人多いと思うけど、後輩にとって先輩ってカッコよく見える憧れの存在。
特に女子の部活ではボーイッシュな先輩の受けが良く、何人かの後輩に
「憧れてます」と言われ勝手に自分の頭の中で
「好きです」と変換して調子にノリまくってた。
そんな妄想全開なヤツなんで
「これは行ける」と判断して
人生初の告白を決行した。
あの頃の中学生ってのは今と違ってませて無かったから
告白された子も恋愛とは何か、付き合うって何か分からないままにOKの返事をくれた。
14歳にして人生初めての彼女が出来た。
付き合うっていっても電話で話したり、手紙交換したりのカワイイ感じだったどね。
それでもやっぱりめっちゃ楽しかった。
部活と恋愛とで充実した毎日を送ってたらあっという間に3年生も後半に差し掛かり
受験シーズンが訪れた。
これまた動機は不純だったけどソフトに熱中してたオレはチームメイトの誘いもあり、
県内でも有数のソフト強豪校を受験。
なんとなんと「女子高」です。(笑)
普通オレみたいな人間は女扱いされるのが最高に嫌だから
女子高に進学なんてもっての他って人が多いかもしれないけど、
どうしても強豪校でソフトをやって全国大会に出場したいって気持ちが勝ったんだよね。
その裏では
「女子高=女の園」に3年間も居れるなんてサイコーじゃんって
エロオヤジみたいな事を考えてたのもあったんだけどね(笑)
無事に合格し晴れて女子高に入学。
右を見ても左を見ても女の子だらけ。
トイレも女子用のみ。
なんか不思議な感じ。
入学早々(実際は春休みから)部活がスタート。
さすがに強豪校。
そりゃきつい。
体力も技術も中学とは比べものにはならない。
早朝から部活して授業中爆睡して放課後部活して家帰って即寝の日々。
それでも恋愛をする元気だけはあったんだよね。
入学から数か月経った頃に同じクラスの子に告白。
ねばりにねばって付き合う事に。
(ちなみに中学の時に付き合っていた子とは進学を機に別れました)
女子高のソフト部という存在は、共学で例えるなら野球部やサッカー部みたいな感じ。
そう、スター扱いでちやほやされます。
ただでさえ調子に乗るのが特技みたいなオレは有頂天。
バカですね(笑)
次から次へと違う子と付き合い女の子を泣かせる事もしばしば・・・。
好奇心旺盛というか、ただの遊び人というか、どうしようもない感だったな。
そんなんだから心が男のオレは充実しまくりの毎日を過ごしてたよ。
もちろんソフトもちゃんと頑張ってたよ。
無事に全国大会に出場できました。
充実していた高校生活も終盤戦。
またまたやって来ました受験シーズンが。
いつの頃からか将来は体育の先生になりたいと思うようになり、
体育大学を受験する事に。
ありがたい事に下手くそだったけどソフト頑張っていた事を
認めてもらえスポーツ推薦の話があり無事に合格。
受験が終わってからは当時付き合ってた彼女と
離ればなれになっちゃうまでの大切な時間を
なるべく多く取る様にした。
卒業後初めて好きな人と離れる辛さを知った。
少しだけ大人になった気がした。
4月になり大学入学。
人生初の一人暮らし。
不安と希望の半々だったな。
アパートは大学専用のアパートだったからすぐに友達が出来た。
学校も体育大学だから実技が多くて楽しかった。
登下校はほとんどジャージ。
セーラー服から解放されて浮かれ気分。
サークルには所属せず、
近所のスポーツクラブでインストラクターのバイト三昧。
やっぱり誰かに運動を教えるのって楽しいって思った。
大学時代の彼女は同じアパートの同級生。
もちろんほとんど同棲状態。
まるで新婚生活を送っているようで新鮮だったな。
その頃から将来は男として女の子と結婚して普通の家庭を築きたいって思うようになった。
まだ性同一性障害って言葉も知らなければ
日本で戸籍変更が出来るなんて事ももちろん知らなかった時代なんで
夢のまた夢の話だと思ってたけどね。
大学生活も終盤。
体育の先生になりたくて入学した学校だったけど、
バイトに打ち込み過ぎて単位が1つだけ足りなくて先生の夢は断念。
インストラクターのバイトで知った誰かにスポーツを教える楽しさを忘れられず、
スイミングスクールのインストラクターとしての就職が決った。
学生生活もこれで終わり。
何かと充実した学生時代だった。
②カミングアウト
4月になり、地元のスイミングスクールに入社。
生まれてこれまで自分の心は男であると誰にも言った事はなく
ボーイッシュな女の子として生活してきたけど、
就職を機に友人や職場の人たちに初めて打ち明けた。
オレ自身まだ性同一性障害を知らなかったから
上手く説明出来なかったけど
「オレは男として女の子が好き」って言ってた。
自分でもよく分かんないんだからみんなの頭ん中は混乱するよね。
男として?
だって女の子じゃん。
ごもっともな意見だよね。
それでも応援するって言ってくれたみんなにホントに感謝してる。
世の中には気持ち悪いとかって言って偏見の目で見る人も少なくないと思う。
偏見が怖くてずっと本当の自分を隠して生活してる人、
勇気を出してカミンアウトして、偏見の目で見られスゲー辛い思いしてる人、
中には耐えられずに自らの命を絶ってしまう人だっていると思う。
そう思ったらスゲー幸せなんだと思う。
マジで。
周りの理解無かったら今のオレは居ないのかも知れない。
カミングアウトしてからは自分に素直に生きて行けた。
何回か転職したけど、面接の時点で
「男として生きています。なので男として働かせて下さい。」って
躊躇なく言えた。
中にはそれが理由で不採用になった会社があったのかもしれないけど、
自分らしく働けないのならば採用されてもしょうがないからね。
初めてネクタイを締めて出社した時はめちゃくちゃ嬉しかったのを今でも鮮明に覚えてる。
もう隠さなくていいんだ。
幸いな事に社会人になってからは
男の服装をしていたらほとんど女だって事はばれなかった。
もともと顔も男顔だったし、短髪だし、声も低かったからね。
でもねこんなオレでも両親だけには面とむかって自分の事は話せなかった。
打ち明けた時の反応が怖かったから。
結局、両親に打ち明けたのは34の時。
手術を決めた時だった。
母親は
「気づいてたよ。だってどう見たって女の子じゃないじゃん。
今さら女の子らしくされたら逆に気持ち悪いし。
あんたの人生なんだから自分の思うように生きたらいいんじゃないの」
って言ってくれた。
父親は意味が分かっていないらしく黙ってた。
でも反対もしなかった。
本当は一番最初に伝えるべき存在だと思う。
ごめん。
そして受け入れてくれてありがとう。
これで晴れて自分を偽ることなく生きて行く事となった。
今まで抱え込んでた大きな荷物がひとつ減って気分は最高だった。
改めて伝えたい。
両親、兄弟、仕事で関わった方々、友人達本当にありがとう。
みんなのお蔭で自分らしく生きていけてる。
感謝してもしきれない位。
みなさんの周りにもしもオレみたいに性同一性障害を抱えている人が居たら
どうか偏見を持たないで欲しい。
多分、必死の覚悟であなたにカミングアウトしたと思うから。
理解するのは難しいかもしれないけど否定しないであげて欲しい。
何より悩んで来たのは本人だから。
どうか頼む。
③治療の事
性同一性障害であるオレは当然だが心の性に体を近づけたいと思っていた訳で。
それでも知識も無いし、何より治療費用が用意出来るはずもなく治療しないままで居た。
おっぱいの膨らみを目立たない様にする
「なべシャツ」という
胸を押し潰すバンドをつけて生活していた。
当然、押し潰すんだから苦しいし夏は暑い。
でも金のないオレにはこれ位の事しか出来なかったんだよね。
それでもいつか治療出来る日を夢見ながら、
ネットで片っ端から性同一性障害について調べた。
そんな中で戸籍が変更出来る事を知り、ますます治療への気持ちが強くなった。
戸籍を変えれば本当に男になれる。
結婚だってできるんだ。
そんな時に転機が来た。
それが今の妻との出会いである。
妻に出会わなければ治療をする事なんて出来てなかった。
何故なら治療への気持ちを自分の事の様に考えてくれ、
治療費を立て替えてくれると言った。
本当の男になったオレと結婚したいと言ってくれた。
情けない話だが事実だから隠さない。
どこまで他人頼りなんだって思われて当然だと思うから。
でもどうしても治療したかった。
男になりたかった。
高校の時の先輩が戸籍変更まで済ませていたので、嫁と2人で相談をしに行った。
先輩に治療の事を詳しく聞いた。
先輩は親身になって自分の体験を語ってくれた。
先輩は国内で男性ホルモン治療とおっぱいを取り、
タイで子宮と卵巣の摘出手術を受け戸籍変更をしていた。
タイは性別適合手術の技術が進んでるし費用も国内より格安。
国内で性別摘手術を実施している病院は数える程しかない。
一通りの話を聞き帰宅。
妻と二人で今後の治療について話し合った。
そして長年の夢だった治療を開始したのは
34歳と10ヶ月の2012年6月だった。
ここからはオレの治療履歴を書いて行こうと思う。
本来であれば、日本精神神経学会
「性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン」に沿って、
まずは性同一性障害に精通した精神科にてカウンセリングを行い、
2名の医師の診断書(意見書)を受けてからの身体的治療に進むのが望ましい。
なぜなら一度身体的治療を始めたら、もう二度と元の体に戻ることが不可能だからだ。
これを承知の上で、自己責任でホルモン治療を先に開始した。
もし今後、治療を考えている人が居るんだったら、
あまり参考にならないのかもしれない。
基本的にはガイドラインに沿っていなければ、
国内での性別適合手術は不可能に近いから。
だから途中からガイドラインに沿う事にした。
もしガイドラインに沿わなくても性別適合手術が出来る病院があるならば、
そこでの治療は勧めない。
命を預けるのは危ないと思うから。
実際、おっぱいを取る手術で麻酔から目が覚めず亡くなった人もいる。
格安とか条件が緩かったりするにはやっぱり理由があると思う。
① ホルモン治療
まずはホルモン治療から始めた。
先輩が通っている病院(泌尿器科)を紹介してもらい受診。
先輩も同行してくれた。
経験者が側に居てくれるから心強い限りだ。
先生に事情を説明してホルモン治療を開始したいとお願いした。
先生は先輩のホルモン治療を行っているので、性同一性障害に理解があり
面倒臭い話もなく、治療を快諾してくれた。
早速その日に男性ホルモンの注射を打ってもらった。
今後は2週間に1度の間隔で注射を打つことに。
1本目の注射を打った時の事は一生忘れないだろう。
今までの自分じゃなくて男に一歩近づけたと思っただけで
大声で叫びたい位に嬉しかった。
思わずスキップしちゃいそうだったわ(笑)
そういえば家に帰って嫁にも自慢気に注射を打ったおしりを見せびらかしたっけ。
嫁さんは
「大きな決断をしてくれてありがとう。一緒に頑張ろうね。」って
泣けてくるセリフを言ってくれたけど、迷いなんて全く無かったし、
むしろオレの方こそ理解してくれてありがとうだよって感じ。
さてさて体の変化についてですが、なんと1本目打ってから生理がピタッと来なくなった。
それまで「赤い射精」と言い切り、憂鬱だった生理が来ないなんて。
しかも1本目で。
ラッキー過ぎる。
それだけでも心が楽になった。
そりゃオレみたいな人間は生理なんて絶対に受け入れたくない現象だからね。
人によって止まるまでの期間はバラバラだし、止まっても再開しちゃう事もあるらしい。
これまたラッキーな事に再開はしなかった。
これが最初の変化。
その後、注射の本数を重ねる度に色々と変化が出てきた。
声がかすれて出しにくくなり声変わりが始まったり
(ちなみに元々低いのであんまり変化は大きくなかった)、
すね毛とかわき毛とか体中の毛っていう毛が濃くなってきた。
髭も少しだけど生えてきた。
髭が生え始めた時には会社の同僚とかに自慢しまくってた。
だって嬉しいじゃん。
髭って男の証みたいな感じじゃん?
そんな変化の中で一番びっくりして思わず悲鳴を上げて嫁さんを呼んだ変化は、
小さいチンチンが生えてきた事。
下ネタで申し訳ないがこれも大切な体の変化なので。
書いちゃう。
実際には生えて来たのではなくて、元々持っていた物が大きく成長したんだけどね。
その正体はクリトリス。
オレが今まで見て来た普通の女の子のそれとは比べものにならない位の
ビックサイズ。
自分の物は見たこと無いから元々の大きさがどの位なのか分からないけど、
成長してる事に間違いはない。
なんか股間に違和感があって、勇気を振り絞り鏡で見たらそんな事に。
そりゃびっくりするわ。
嫁さんもビックリ。
大きさこそ超ミニサイズだけど形はチンチンそのもの。
人間の体って不思議だね。
何をどうしたらこうなる訳?
超ミニサイズだけどまたまた男に近付けた。
だからこいつが可愛くてしょうがない。
名前まで付けたりして日々の成長を見守ってる(笑)。
成長すると時を同じにして性欲が半端なく出て来た。
明けても暮れても頭はエロだらけ。
間違いなく思春期真っ只中の男はこんな感じなんだろうと思う。
何か月かしたら落ち着いたから良かった良かった。
あのままだったら危なかったかもね。
これがホルモン治療を開始してから今までの変化。
ホルモン注射とは死ぬまでの付き合いなので、これからの変化が楽しみ。
ただハゲるって事もあるらしいからな・・・。
ハゲたら潔くスキンヘッドにするぜ。
でも出来ることならハゲないでもらいたい。
② 乳房切断手術
ホルモン治療を開始すると同時に胸を取る手術をどこでするか、
嫁さんと一緒にネットで一生懸命調べた。
治療は全て国内ですると決めていたオレ達は、国内でも有数の
性同一性障害治療を総合的に実施している病院に決めた。
やっぱり手術をするとなると、それなりの病院を選択すべきだと思う。
格安で手術をしてくれる医者もあるみたいだけど、
実際問題、乳房切断手術で命を落としている方もいるから。
病院選びって本当に重要だと思う。
早速、電話で問い合わせをし、予約を入れた。
予約日は約1か月後。
初診察当日。
東京にあるクリニックに向かう。
どんな事聞かれるんだろう?手術はしてくれるかな?
不安と希望の半分半分な気持ちだった。
待合室で待っていると名前を呼ばれた。
まずは看護師さんに現状の確認と、どこまでの治療を希望するのかを確認された。
もちろんオレは性別変更を希望しているのでその旨を伝えた。
看護師さんとの面談が終了し、いよいよ先生の診察。
診察室に緊張しながら入る。
そこに居たのは茶髪で若そうなオシャレな感じの先生だった。
それだけで少し安心。
椅子に座り先生と話を始める。
先生の口調は凄くフレンドリーでリラックスして話ができた。
「どっからどう見ても男にしか見えないし早くおっぱい取って楽になっちゃおうよ。」
一見そんな軽い感じでいいのかって思う人もいるかもしれないけど、
オレにとっては嬉しい言葉だった。
一気に緊張はなくなり早速手術の日程を決める事に。
最短でお願いした結果、約1か月後に名古屋院にて手術をしてもらう事に。
それから上半身裸になり、胸の大きさや垂れ具合などの確認。
元々太っていて大きかったのもあるけど長年押し潰していたのでかなり垂れていたらしい。
小さかったり垂れが少なかったら
乳輪の一部を切開してそこから乳腺や脂肪を取り除く手術が可能で
傷口もほとんど残らないらしいんだけど、
オレの場合は両胸の下をザックリ両脇の下まで切開して
乳腺と脂肪を取り出し、弛んだ皮膚を切除して縫い合わせる。
乳首は一度切り取って縫合後、丁度いい場所に移植するという手術になるみたい。
乳首を移植って何?
よく意味は分からなかったけど、この先生に任せておけば大丈夫だと思ったので
それほど深くは考えなかった。
手術の為の血液検査をして、手術までの注意事項や当日のスケジュールを説明されて終了。
それから手術までの間、先生に任せておけば大丈夫だと言ったものの
やっぱり手術するのは怖いって思いも当然あってブルーになる日もあった。
特に1週間前位からはびびりまくってたら、嫁さんに
「被害者意識強すぎ」
とかって厳しい一言をお見舞いされ、別れ話にまで発展したりして。
そんなこんなでいよいよ手術当日を迎えた
嫁さんと新幹線に乗り込みいざ名古屋へ。
前日の夜から絶食の為、少々ふらつき気味で病院に到着。
早速部屋に案内され、手術の支度を始める。
まずは手術着に着替え、先生の最終審診察。
先生が手に油性マジックを持っていたのを不思議に思ったら、おっぱいに落書きを開始。
実際は落書きじゃなくて手術の切開部分のマーキングと乳首の移植場所の確認だったんだけどね。
なかなか出来ない経験だから写真撮っちゃたりした。
今でも大事に携帯に保存されてる(笑)
診察が終了して部屋へ戻り点滴を開始。
30分後位に手術室へ入る。
手術室に入ったら手術台に寝かされ麻酔の為に背中にめちゃくちゃ長い針を刺される。
これが痛かった。
それから導尿カテーテルを入れる。
これはもっと痛かった。
痛すぎて思わず叫んだわ。
あれはヤバかった。
挿入系はこれで終了。
後は指に脈拍計やら酸素濃度測る機械やらを装着して準備完了。
麻酔を少しずつ入れられながらおっぱいを黄色い消毒液で消毒。
最初は冷たい感覚があったけど、すぐに麻酔が効き始め間隔は無くなっていった。
次に目が覚めた時には部屋のベットの上。
手術時間は1時間30分位だったみたい。
目が覚めたら激痛に襲われるかと思ってたけど全く痛みなし。
良かった。
胸にはなんだか固いバンドみたいなものがきつく巻かれてた。
両脇の下から管が1本ずつ出ていて管に繋がった容器には血液の薄い感じの液体が溜まってた。
苦痛だったのは尿カテーテルの違和感だけだった気がする。
手術が無事に終了したから良しとする。
嫁さんが滞在先のホテルから面会に来てくれた。
「頑張ったね」の一言が
やけに嬉しかった。
実際は寝て起きたら終わってたから何も頑張ってないんだけどね。
早く平らな胸板を見たかったけどお預けくらいました。
取り出した乳腺と脂肪を見せてもらったけど、鶏肉と激似でした(笑)
重さ的には左右合わせて1.2kgだったらしい。
サヨナラ。オレのおっぱいちゃん。
今まで苦しめてくれてありがとね。
術後直後から喉が渇くのと空腹で
「水飲ませて」だの
「腹減って死にそう」だのと、幼稚園児みたいにダダをこねてた。
結局水にありつけたのは夜になってからだけどね。
「今まで生きて来たなかで一番幸せです。」
どこかのオリンピックメダリストが言った言葉がピッタリ合う至福の時だった。
少し経ったらゼリーも少しだけ食べさせてくれた。
美味しかったな。
そんな事がありつつ、1時間に一回位検温と体液の量の測定をしてもらいながら翌日になった。
寝れないかと思いきや爆睡しっちゃたし。
朝一で先生の検診。
初めて平らになった胸板とご対面。
あの瞬間の感動ったらなかったよ。
だっておっぱいが無いんだよ。
きれいに平らになっちゃってんだよ。
傷口にはガーゼが貼ってあったから見れなかったけど、
これでやっと苦しい思いをして押し潰さなくてもいい。
目立たない様にひどい猫背で歩かなくても胸張って生きていけるんだ。
やったね。
両脇の管と尿道カテーテルを外してもらって自由に。
退院OKをもらう。
早速ベットから起き上がりトイレへ。
胸に巻かれた固いバンドは少し苦しかったけど慣れたもの。
嫁さんも来たので帰り支度を開始。
次回は1週間後に予約を入れて帰宅の途についた。
3日後には仕事に復帰しなきゃいけなかったので、
とにかく安静にしてた。
お風呂もシャワーもダメだから
嫁さんにボディーシートで体中を拭いてもらった。
真夏だったから風呂がNGなのは嫌だったね。
術後2日目にバンドを外した。
嬉しすぎて記念撮影してブログに載せっちゃったり。
経過もすこぶる順調。
そして仕事に復帰。
痛みはないけど、とにかく物が持てない。
会議に向かう時にノートパソコンを両手で重そうに持っているのを見て
同僚は笑ってたわ。
オレ的には笑いごとじゃないんだけど、なんせいじられキャラなんでね。
そんな感じで1週間を過ごし術後初の病院へ。
先生に診てもらったら胸の中に体液が結構溜まっていたらしい。
ぶっとい注射器で体液を抜きとる。
まだ感覚は戻ってなかったから痛みはなかったけど血を抜かれたせいか、
貧血を起こしてベットに倒れこんだ。
すぐに治ったけどね。
体液が溜まりやすい体質みたいで、またバンドを巻いての生活に逆戻り。
しかも週2ペースで仕事終わりに名古屋の病院へ通院した。
正直あれはきつかった。
5回目位でやっと次回は1か月後でイイって言ってもらえた。
長かったな。
でもまめに病院で処置してもらったお蔭できれいに仕上がりました。
乳首を移植したら腐ってとれちゃう人も結構居るらしいけど、
オレの乳首は頑張った。
乳輪が無いのが何とも言えず奇妙だけど、今後刺青して乳輪を作るらしい。
乳輪が刺青って(笑)奇抜。
これが乳房切断手術の記録。
今でも完全に感覚が戻っている訳でなく、所々の感覚が戻ってきてる状態。
乳首の感覚は戻る事は無いらしいのが切ないけどね・・・。
手術してまた一歩男の体に近付き自信を持てたそんな手術だった。
③ カウンセリング
乳房切断手術も終わり、性別適合手術に向けて、
遅ればせながらガイドラインに沿ってカウンセリングを開始した。
性別適合手術を実施する条件として、
2名の精神科の意見書(診断書)が必要である。
通常であれば半年〜1年程度かかるそうで。
オレの場合は1人の先生につき1回の計2回で終了しちゃった。
多分かなり稀なケースなんだと思う。
1回で済んだ理由には、
まず周り(家族・友達・パートナー・会社)に全てカミングアウトをしていて、
すでに日常生活が男として確立されていた事、
長年、男として生きて行くと言う強い意志が揺るがなかった事、
外見が男にしか見えない事、
手術費用が用意出来ている事とか、
みんなが精神科の先生のカウンセリングの元で進めて行く事を
全て済ませていたからと思う。
精神科の先生から聞かれた事は、
1.家族歴
2.病歴
3.生活歴(物心ついたとき・小学校〜友人関係・いじめなど)
4.職歴(仕事で辛かったこと・主に人間関係)
5.性歴(初恋・どちらの性を好きになるか・等)
6.性別の不快感(いつからか・どのように)
7.望みの性に近づくためにしたこと、
8.今後はどの様に生きて行きたいか
くらいだったかな。
1人目の先生が詳細なカルテみたいな物を作成してくれ、
2人目の先生とは、そのカルテみたいなものに書かれた内容に
間違いがないかの確認をした。
そんな感じであっけなくカウンセリングは完了して、
2名の精神科の先生の意見書(診断書)をもらえた。
こういう場面ではつくづくツイてる奴だ。
④ 婦人科での検査
性別適合手術にはもう一つ必要な事がある。
それが婦人科で
染色体の検査、
性器が女性器であるかの確認、
ホルモン値検査。
要するに医学的に体が女性で間違いないかの検査をする。
オレらみたいな人間にとっては非常に嫌な検査だ。
そりゃ
「あなたは間違いなく女ですよ。」と
レッテルを貼られるんだからね。
それでも手術の為には乗り越えなければいけない。
重い足取りで婦人科へ。
見た目が明らかにオッサンな奴が婦人科に入れば痛い程の視線を浴びるのは当然で・・・。
結局、待合室に居座る勇気は無く、受付の人に伝えて外で待つ事にした。
まるで変質者(笑)を見るかの様な眼差し。
変質者じゃありませんから。
残念。
順番が来て看護師さんが呼びに来てくれた。
超うつむきながら診察室に入る。
まずは問診。
現在の治療状況、今までの性経験等を簡単に話して内診へ。
痛かったわ。
マジでめっちゃ痛かった。
先生優しくしてってマジ思ったわ。
足ピーンってなったわ。
そんな内診も5分位で終わり血液を採って終了。
次回は1か月後に検査結果と意見書をもらいに来る。
次回は絶対一人なんかで来るのだけはやめようと思った。
もうこんな痛い視線を浴びるのはこりごりだ。
1か月後は嫁さんを引き連れて病院へ行った。
これなら付き添いの旦那さん風で問題なし。
検査結果は性器も女性で染色体も女性で問題なかった。
ん?
問題無かったでイイのか?
まあイイか。
先生の意見書をもらい終了。
これでもう、おっぱいも無いし、子宮と卵巣取っちゃうから
一生婦人科のお世話になる事は無くなった。
めでたしめでたし。
あばよ婦人科。
⑤ 性別適合手術
全ての準備が整い、
性別変更判定会議
(患者が身体的治療を受けるべきかどうかを検討するために、各分野の専門医と
法律関係者からなる会議)にかけられた。
結果は自宅に送られてきた。
嫁さんと冗談で
「残念ですが女として生きて行って下さいって書いてあったらどうする?」
なんて言ってたけど、オレの心の中は正直不安だらけだった。
この会議で認められなければ性別適合手術が受けられない。
イコール戸籍を男に出来ない。
マジこの判定一つでこの先の人生が地獄になってしまうかもしれないからね。
母親から
「病院から何か書類届いてるよ」と
電話があった。
この頃には実家ではなく嫁さんと一緒に東京に住んでいたから。
本当は自分の目で確認したいけど結果が気になる。
母親に内容を読んでもらう事にした。
「性別変更判定会議におきまして身体的治療の適応が承認されました。」
やった。
ついに性別適合手術する事を認められた。
母親にお礼を言い電話を切った。
本当に嬉しかった。
戸籍が男になるまであと少し。
嫁さんも喜んでくれた。
手術は2013年3月21日に決定した。
手術をする名古屋へは手術前日入り
新幹線に乗り込みいざ名古屋へ。
前日は病院近くのビジネスホテルに、仕事を休んでまで付き添ってくれる嫁さんとチェックイン。
手術前日にやっておくように指示されたのは、
爪切り、
21時以降の絶飲食、
下の毛を全部剃る、
浣腸をする事。
浣腸と剃髪は嫁さんにお願いした。
2人とも経験がないので思ったよりかなり苦戦したな・・・。
浣腸にいたっては、挿入がうまく行かず激痛が。
トイレに行ったら物凄い勢いで出血してた・・・。
それでもなんとか完了。
翌日に備えて睡眠薬を飲み寝た。
いよいよ手術当日がきた。
朝7時にもう一回浣腸をして9時にタクシーで病院へ向かった。
病院についてすぐに手術着に着がえて点滴を開始した。
9時45分に手術室へ入る。
麻酔科医の先生に全身麻酔をされてからの記憶は全くない。
記憶が戻ったのは夕方位だった気がする。
手術時間は3時間ちょっとだったらしい。
手術はそんな感じで無事に終わったけど、麻酔から覚めたその後はマジできつかった。
まずは頭が朦朧として面会に来てくれた嫁さんともまともに話せない。
それに加えて下腹部がめちゃくちゃ痛む。
一晩で3回痛み止めの点滴を追加してもらった。
吐き気も辛かったね。
吐き気止めの点滴も2回追加してもらった。
その日の夜は浅い眠りにしかつけなかった。
上手く身動きが取れず腰とか首も朝になるころには物凄く痛かった。
夜になって看護師さんが水を少しだけ飲ませてくれた。
前回のおっぱいの手術と同じくこの瞬間は非常に幸せだ。
丸1日我慢した水を飲んだ時の幸せ感は格別。
オレは全く酒が呑めないからよく分からないけど、
真夏に風呂上りでビール呑むのと同じ位だと思うよ。
全身麻酔だったせいか、眠気っていうかフラフラ感も次の日の朝まで続いてたな。
おっぱい取った時の麻酔は硬膜外麻酔だったので、
すぐに麻酔は切れて意識もすぐにはっきりしてたからね。
やっぱり全身麻酔の威力は凄い。
目が覚めて良かったとつくづく思った。
手術2日目の朝、ゼリータイプの飲物をくれた。
そりゃ一気に飲み干しましたがな。
その後すぐに、お粥と味噌汁が出て来たんだけど全く食べれんかった。
臭いだけで吐き気を催したから。無理して食べんでもいいと言ってくれたので全部残した。
看護師さんごめん。
食事が終わったら先生の回診。
「問題ないよ」と言われて安心。
背中に刺さったままの麻酔の針と尿道カテーテルを外せてもらえた。
退院に向けて点滴を吊るしてある台に捕まり歩行練習。
自分でトイレに行く練習。
もっと痛みが凄かったり、フラフラするのかと思ってたけど
割とあっさりクリアーできた。
という事で点滴も外れて病院からは退院する事に。
近所のビジネスホテルでの生活がスタートした。
ホテルの部屋まで看護師さんが付いてきて来てくれたので安心。
嫁さんが仕事を終わらせて夜来てくれたから良かったけど、
ビジネスホテルでの生活ではなんやかんやハプニングの連続だった。
まずは食べる事を生き甲斐としていた位のメタボリックなオレが全く食べられない。
食べ物の臭いを嗅いだだけで吐き気がする。
主食はゼリー。
これだけは食べれたってより飲めれた。
次に発熱。
微熱だったけど頭痛が酷かったから念のため病院に行って治療をしてもらった。
どうやらホルモンバランスの崩れが原因だった
(規則的に注射していた男性ホルモンを手術の為に1か月間打っていなかったから
男性ホルモン値が下がりきっていた)ので、
男性ホルモンの注射を打ってもらい、抗生物質を変更してもらったら良くなった。
次に下腹部痛。
これは自分で座薬を何本もぶち込んだ。
お蔭様で座薬の挿入がかなり上手になりました(笑)
一番苦しかったのが人生初の便秘だった。
出そうなのに出ない。
お腹がどんどんパンパンになって行く。
病院でもらった軽い下剤を飲んでも出ず、
早朝から営業している薬局に浣腸を買いに行き、やっと出た。
そもそも水分かゼリー状のものしか口にしていないので液体気味だったけど
出た事で一気に楽になった。
浣腸ってなかなかやりますな。
ホテルで苦しんで感じた事はとにかくここの病院の先生も看護師さんもとても患者思いである。
24時間電話で看護師さんが相談に乗ってくれて、
その後に先生から現状の様子を聞く為に直接電話が来る。
看護師さんならあるかもだけど先生までこまめに連絡をくれる。
ここの病院を選んでホント大正解。
本当ならば10日間名古屋に滞在しなくちゃいけないんだけど、
回復も順調だったし、何よりホテル住まいが耐えられなくなり、先生にめちゃくちゃお願いして、
特別に術後3日目に帰宅させてもらった。
(安静の約束でね。あとは本院が自宅の近くにあるから。)
やっぱり自宅が1番。
リラックスできる。
がしかし、自宅に戻ってからが大変だった。
腹痛や熱がずっと続き、結局東京の本院に通う事に・・・。
お腹の中に何かの液体が溜まっていて炎症を起こしていたらしく、
検査と点滴の毎日。
それでも改善されず、2回目の手術。
これでダメなら開腹手術の可能性もあるとか・・・。
全部で5針縫い合わせてあるんだけど、そのうちの2針を外し、
そこから溜まった液体を出そうという作戦らしい。
簡単な手術だったので麻酔なしでやったんだけど、
今まで生きてきた中で一番って言っていい程の激痛。
叫ぶのを抑えるのに必死だった。
多分産まれて初めて痛さで足がガクガクしたわ・・・。
そんな状態だったから自宅に戻ってからもしばらくの間は
1日2回位は先生から電話とかメールがきて状態の確認とアドバイスをくれた。
体調が落ち着くまでに3週間位かかった。
出血は1か月位続いた。
でも先生の適切な治療やアドバイスで乗り越えられた。
先生ホントにありがとう。
正直、精神的にも肉体的にもボロボロで嫁さんに弱音を吐きまくってた気がする。
まあこんな感じで性別適合手術は完了した。
これで手術はもうなし。
だって痛いの嫌じゃん。
肩の荷が一気に降ろせた感じ。
幸せだな〜。
後は法的手続きを済ませるだけ。
⑥ 改名と戸籍変更の手続き
とにかく早く戸籍を男に変更したかったオレは術後の治療と同時に、
改名と戸籍変更の為の書類集めを開始していた。
理由はどうしても入籍したい日があって間に合わせたかったから。
裁判所に提出する書類は結構多い。
精神科医2名分の診断書(意見書)、
性別適合手術の証明書、
裁判所への申し立て書、
戸籍謄本等、
住民票。
まずは以前診断をしてくれた精神科の先生に再度、診断書(意見書)をもらいに名古屋へ。
先生にも事情を説明して協力をお願いした。
快く対応してくれた。
先生にマジ感謝。
そして数日後にもう一人の精神科の先生にもサインをしてもらう為に再度名古屋へ。
問題なくサインをもらえた。
これで名古屋の病院に来るのも最後。
受付のお姉さんや看護師さんが
「ホントに今日で最後なんだね。めちゃくちゃ寂しいよ。でも本当におめでとう」って
言ってくれた。
マジでお世話になったから泣きそうだったけど、男になるんだから我慢我慢。
名古屋のみなさん今までありがとうございました。
申し立て書は裁判所のホームページからダウンロードして記入。
戸籍類が相当面倒だった。
現在の本籍地分だけ取り寄せればいいと思ってたけど、本籍を移した分だけ必要だった。
オレの場合2回本籍を変更しているから、
3つの市役所から合計4通の戸籍を取り寄せる事になった・・・。
戸籍にも縦書きとか横書きとかあったなんて初めて知ったわ。
普通に生活してたら一生知らんかったかもしれんから勉強できた。
書類が全て揃ったのは手術から約1か月。
早速、裁判所へ申し立てに行った。
改名と性別取扱変更の担当は家庭裁判所の家事事件係だそうで。
別に事件じゃないのにね(笑)
窓口の人に
「名前の変更と性別の変更をしたいんですけど。」と言うと、
持参した書類を確認してくれた。
これで申し立ての手続きは終了。
後日、呼び出しがあって事情聴取みたいなものをするらしい。
気合い入れて行ったのに何かあっけなく終わってしまったからちょっと寂しい感じ・・・。
まあ無事申し立ても完了してあとは審判を待つだけ。
数日後、
裁判官の方から連絡があり出廷の日時を言われた。
いよいよだ。
指定日時に家庭裁判所へ出廷した。
受付を済ませ待合室で待つ。
名前を呼ばれ個室へと向かう。
裁判官との個人面談だ。
と言っても重々しい感じはなく、提出した書類の確認や今後の流れの説明だけで終了。
そして最後に手渡されたのは審判が記入された用紙。
多少ビビりながら読んでみたら書いてあったよ。
「申し立て人の性別の取扱いを女から男に変更する。」
きたああああああああ。
この瞬間、オレは戸籍上「男」になった。
やった。
やったよ。
本当の性別を取り戻したんだ。
叫びたい気持ちを必死に抑える。
改名の方は追加で書類の提出を求められたので、また2週間後に出廷する事になったけどね。
1回目の出廷から1週間ちょっと経った日に区役所から郵便が届いた。
中身を開けてビックリ。そこにはなんと性別の欄が「男」となった国民保険証が送付されて来たのだ。
あまりの突然の出来事に一瞬固まったが、
だんだん喜びが込み上げて来て、保険証を持って家の中を走りまわった(笑)
嫁さんに
「見てみて。性別が男だってさ!!!」と
保険証を見せつけまくったりして。
結果テンション高すぎて体調悪くなった・・・。
初めて手にした性別が男の公的証明。
一生忘れないだろうな。
それから数日後に2回目の出廷。
今日は改名の審判が下る日。
前回と同様、裁判官と個人面談を行う。
今回は5分もかからなかった。
面談が終わり、再度待合室で待っていると名前を呼ばれ、審判を書いた用紙をもらった。
結果。
改名も認められた。
その足で区役所に行き、手続き。
この前もらったばかりの保険証は1度も使わないまま、新しい名前が記載された保険証が発行された。これで戸籍の変更と改名の手続きは終了。
免許やら生命保険やらの変更手続きも完了。
晴れて、嫁さんと入籍出来る環境が整いました。
治療を開始してから13か月。
やっと。やっと終わったんだ。
諦めなくて良かった。本当に幸せ。
こんなオレが今では超HAPPYな生活を
送って行ける様になった
簡単な10秘訣
さてさて。ここまで読んでみてどうだったかな?
笑っちゃった?
呆れちゃった?
こいつスゲーって思った?
まあそんなことはどうでもいいんだけどね(笑)
ここからは、僕がここまで来るのに色んなことがあり過ぎたのに
今、こうやってめちゃくちゃ幸せに過ごして行けるようになったんだけど、
それにはちょっとした秘訣があったんだよね。
それを少し話して行こうと思う。
① 生きる事を諦めるな
ここまで読んで頂いたら分かると思うけど、
「死にたい」って僕は今まで何回思って来たんだろう?。
正直数えくれないくらいにそんなことばっかり考えてた時期があった。
でもね、心の奥の隅っこの方では「生きたい」って思ってたんだよね。
死にたいって思って色んなことしたけど、どこかで
「生きたい」って気持ちがあったから
死ねる勇気がなかったんだよね。
だって死んじゃったら全部終わっちゃうじゃん。
苦しいことや悲しいことからは解放されるかもしれないけど
それと同時に、楽しいことや嬉しいことも全て無くなっちゃうんだよね。
そう考えたら死ねなかった。
死ぬのが怖かった。
生きて行くより死ぬことの方が怖かった。
弱虫だと言われたらそうなのかもしれないね。
まだまだ沢山やりたい事もあったからさ。
人生諦められなかったんだ。
でもこれって大正解だったんだよね。
止まない雨はないし、明けない夜もない。
だから、何とか踏ん張って来着てれば、いつか光が見えてくるんだ。
時間は掛かるかもしれないけど絶対にその日は来るよ。
こんなオレなんかにもそんな幸せな日が来たんだからね。
だから伝えたい。
「どんなに苦しくて辛くても人生諦めないで」ってね。
② 辛い時や苦しい時は、我慢しないで誰かに話せ
これは僕も最初は出来なかった。
誰かに話すのが怖かった。恥ずかしかった。変なプライドがあったんだよね。
だから自分ひとりでずっと抱え込んでた。
でもね。
1人で考えたって、そんな時は悪い方にしか考えられないんだよね。
悪い方にしか考えられないから、悪い方にしか進まない。
まさに負のスパイラル、蟻地獄状態になっちゃう。
だから変な意地とかプライドとか全部捨てて、誰かに頼ろうよ。
辛いよ。苦しいよ。寂しいよ。って素直に伝えよう。
吐き出そう。
家族や恋人や友達でも、病院の先生やカウンセラーの先生でも誰でもいい。
オレだっていいよ。
とにかく一旦全部吐き出して、スッキリしよう。
相談した人と一緒に考えて行こう。一人じゃないよ。
オレは施設で生活してその大切さにやっと気づかされたんだ。
誰かに自分の抱え込んでる事を素直に話すだけで心が少し軽くなれた。
少しだけ前を向いてみようかなって思えるようになったんだ。
だから、どんどん吐き出そう。
泣いたっていいじゃん。
カッコ悪くなんてないからね。
③ 自分を許せ、褒めろ、認めろ、愛せよ
オレもなかなか出来なくて時間が掛かったのがこれ。
「自分を許すこと」
「自分を褒めること」
「自分を認めてあげること」
「自分を愛してあげること」
でもね、自分が自分の1番の味方でいてあげなきゃなんだよ。
「もうここまで頑張ったんだからいいよ」
「辛いのによく頑張ってるね」
「エライよ」ってね。
これが出来たら、前に進むスピードって一気に速くなるからさ。
中々自分で自分を褒めたり認めたりってのは難しいけど、
ホント大切だから。
④ 過去は過去だから笑い飛ばせ
悩んだり、苦しんだりしている真っ最中にこんな事って思えないのは当然だけどね
実際にオレは、今では全てが笑い話になってるからね。
だから、すでに起こってしまった事にこだわる必要はないよ。
だってどうしたって過去は変えられないでしょ?
未来は今からだって変えられる。
でも、過去に縛られてたら、前には進めない。
だから過去は過去。笑い飛ばそうよ。
今を生きよう。未来を描こう。
そしたら、
何年か後には笑い話か想い出話に絶対なってるからさ。
⑤ 偏見や差別を恐れるな
世間の目は気になる。それはみんなそうだと思うよ。
でも、それを怖がってたら、何も前に進まない。進めない。
偏見や差別しか出来ない奴なんて相手にしなくていい。
逆に可哀想な奴だなって思ってればいい。
そんな奴らに構ってる暇はないよ。
自分をさらけ出そう。
怖いのは十分分かるよ。
でも、本当の自分を一生押さえて生きて行くなんてもったいないよ。
受け入れられないなら、そんな奴とは付き合わなければいい。
でも家族だけはそうも行かないよね。
だったら距離を置いたらいい。
認めてくれるその日までね。
オレだって家族に言えたのは30過ぎてからだし。
焦らないでいいんだよ。
自分らしく輝いて生きてれば、家族ならきっと受け入れてくれるから。
それでも受け入れてくれないなら離れてもいいと思う。
だって、家族の人生じゃなくて自分自身の人生だからね。
誰かの思う様に生きなくていいんだよ。
自分の人生の主役は自分しかいないよ。
⑥ 本気で言えば伝わる
オレは、性同一性障害だってことを隠すことはしなかった。
性同一性障害って言葉を知らない時は「女の子が好きだ」と伝えてたな。
性同一性障害って言葉を知ってからは胸を張って言ってた。
「オレは身体は女だけど男として生きて行くと決めてます」ってね。
そうしたら以外なことに受け入れてくれる人が多かったんだ。
今まで、勤めてきた会社には全てを打ち明けた上で、
男として働かせてもらってた。
さすがにスイミングスクールは水着の関係で無理だったけどね(笑)
何を言いたいかって?
それは
「当事者自身が自分に自信がなければ、伝わることも伝わらない」ってこと。
当事者自身が自信なさげにうつむいて暗い顔してたら
「なんだあいつ?」
「何か気持ち悪いな」ってなっちゃうと思うんだ。
逆に、正面向いて、自信満々で
「僕はこういう人間なんです」って言い張ったら
「そうなんだ」って
案外あっさり受け入れてもらえる事って多いんだよ。
嘘でしょ?って思うかもしれないけどマジだから。
そりゃ陰で何か言われてたかもしれないけど、そんなの関係ないじゃん。
少なからず僕はカミングアウトしたからって不都合なことはあんまりなかったね。
トイレとか更衣室はちょっと我慢したけど、そりゃ仕方ないやって割り切ってた。
ってな感じで、自分に自信を持って自分のことを伝えよう。
そしたら分かってくれる人は必ず居るからさ。
⑦ とにかく情報を集めろ。そして経験者に聞け
これも、実際にオレがやってきたこと。
「性同一性障害」って言葉を知ってから、オレはとにかく、
それに関する情報を集めまくった。
本やネットで。
「そもそも性同一性障害って何なのか?」
「原因は何か?」
「どこで治療ができるのか?」
「どんな治療があるのか?」
「治療にはどのくらいの時間とお金がかかるのか?」
「治療したらどんなリスクがあるのか?」
「治療したら何ができるのか?」
などなど。
数えだしたらきりがないくらい沢山調べたね。
そして、情報を集めるのに一番重要だなって思ったことが
「経験者」に聞くこと。
本文にも書いたけど、幸いにも僕の先輩が経験者だったので
色んなことを聞いた。何回も何回も会って話しをした。
経験者からはネットに書いていない真実の部分もいっぱい知る事ができた。
何より心強かった。実際に治療して生き生きしている先輩を見てると
未来に希望を持てたんだ。
だから、治療を始める前には絶対に経験者の生の声を聞いて欲しい。
身近に居なかったら、NPO法人や当事者の集まりに参加してみてもいい。
オレみたいに個人で経験談を話している人に相談してもいい。
とにかく、経験者の話しって凄い重要だから。
経験者にしか分からないことってあるからさ。
⑧ 納得行くまで治療は始めるな
これは近年問題にもなっていることだけど
焦って治療するのは絶対に止めたほうがいい。
カウンセリング以降の治療は、1度始めたら後戻りは出来ない。
ホルモン注射を1本でも打ったらもう元の身体には戻れない。
実際オレは1本目の注射で生理が来なくなった。
たった1本だからと甘く見ちゃいけない。
世の中には見切り発進で治療を始めてしまい、
治療後の生活になじむ事が出来ずに自ら命を絶つ人が沢山いる。
結局はちゃんと治療後の性別で生きていける環境を作ってから治療に望まなきゃ
治療する事でもっと悲惨な事になるんだよね。
だからオレは34歳まで悩んで、考えて、実践して
もう大丈夫だと思ったから治療を始めたんだ。
治療には命も関わって来る。あせっちゃダメだよ。
納得行くまで考えるべし。
迷っている間は治療に踏み込んじゃいけない。
⑨ 行動する前から色々考えるな。行動してから考えろ
⑧とは全く逆なんだけど(治療は命に関わるので)
何か行動したいんだけど、
「大丈夫かな?」とか
「失敗したらどうしよう?」とか
「間違ってないかな?」とか
大多数の人間はこう思うだろうね。
実際、僕もそうだったからね。
でも、実際に行動してみると、心配してた事が起こる確率なんて
ほんのわずかなんだよね。
余計な事を考えずに、とりあえず勇気を出して行動してみたら
結構うまく行ったりするんだよ。
そりゃ人間だから、たまには失敗だってあるさ。
オレも散々失敗してきたからよ〜く分かるよ。
失敗する度に落ち込んで、自分を責めて、他人を責めてた。
失敗した言い訳を探して納得しようともしてた。
これじゃダメなんだよね。
失敗するのは当たり前。上手く行ったらラッキーって思うと
凄く気持ちが楽になる。
どんなに有名な人だって、エライ人だって失敗なんて
数えきれないくらいしてる。
だとすれば、一般人の僕が失敗するのなんて
ホント当たり前のことなんだ。
失敗するが当たり前だと思って
とにかく行動してみようと考えるようになってから
思いついたら即行動するようになったら
不思議なことに、なんか物事がドンドン前に進んで行く。
しかも、物凄いスピードでね。
例えば、この自叙伝もそう。
とにかく書いてみようって勢いで何も考えずに
書いてみた。
結果、今アナタに読んでもらえている。
そういうこと。
いたってシンプルなんだよね。
伝えたい事がある
↓
そうだ、本にして沢山の人に読んでもらいたいな
↓
よし。書いてみよう
↓
せっかく書いたんだからみんなに知ってもらいたい
↓
そうだ。じゃあブログとかSNSで自叙伝書いたことを知ってもらおう
↓
どうやって読んでもらおうか?じゃあまずは無料のサイトで公表してみよう
↓
あれ?スゲー多くの人が読んでくれてる。
↓
じゃあもっと多くの人に読んでもらうにはどうしたらいいんだろう?
↓
思い切って売り出してみようかな?
こんな感じなんだよね。
簡単でしょ?
後のことなんて行動しながら考えればいいんだよ。
そう思ったら、怖くないでしょ?
行動しない選択なんてなくなるでしょ?
そう。それが正解なんだよね。
だから今。
何かやってみたい事があるんだったら、迷わず行動しちゃおうぜ。
⑩ 「ありがとう」を大切にしろ
これは、色々な本に書かれているけど、本当に大切だと思う。
何かある度に「ありがとう」って言ってみる。
「ありがとう」を言われて嫌な思いをする人って居ないよね?
嫌だと思う人は相当なひねくれ者だと思う(笑)
だとしたら「ありがとう」って言われたいよね?
だってオレ言われたいもん。
これってホント不思議なんだけど
「ありがとう」って連鎖するんだよね。
常に「ありがとう」って自分から言ってたら、ホントに「ありがとう」が自分の所に降ってくる。
しかも次々にね。
逆に「ムカつく」とか言いまくってたら「ムカつく」ことが次々降ってくる。
「辛い」って言いまくってたら、ドンドン「辛い」ことが起きてくる。
だとしたら「ムカつく」とか「辛い」って言わなければ
そんなことは起こらないんだ。起こったとしてもほんの少しだけ。
「ありがとう」言えてる?
言えてないなら今すぐ言ってみよう。
「ありがとう」
最後に
今は戸籍の性別も男になって毎日充実した生活を送ってる。
今までの経験を生かして色々な活動をさせてもらってる。
プライベートでは36歳の誕生日である2013年8月12日に入籍した。
そして嫁さんの誕生日である9月4日、みんなに見守られながら結婚式を挙げた。
今のオレは最高に幸せだ。
最期まで読んでくれてホントにありがとう。
以上がオレの生きてきた人生そのものである。
どうだったかな?波瀾万丈だったでしょ(笑)
一見普通の小さいオッサンだけど実は凄く濃い?人生を送って来たんだよね。
どう考えても平凡とはかけ離れた人生をせっかく送って来たんだから
それを生かしたいと思っているんだ。
だから
偏見や差別のない、
誰もが自分らしく生きて行ける世界を作りたいって夢を持ったんだ。
今の時代、世の中にはオレより壮絶な人生を今でも送っていて
助けを求めてる人が沢山居ると思う。
経験した奴にしか分からない事って本当に多いと思うんだ。
自殺する人だって後を絶たないこんな世の中で
一人ぼっちで途方に暮れてる人だっていっぱい居ると思う。
オレは今まで本当に沢山の人に迷惑を掛けたし、
本当に沢山の人に助けられ支えられて生きて来た。
だから今度はオレが誰かを助けたり支えたりする番なんだ。
こんなオレにでも誰かを少しだけでも元気にする事ができたら嬉しい。
そしてもう一つは「性同一性障害」をもっともっと世の中の人達に知ってもらいたい。
カミングアウト出来ず自分にウソをついて生きている人はいっぱいいる。
その人達が少しでも早く自分らしく生きて行ける日が来る様に
色々と活動して行きたいと思う。
こんな何の変哲もない小さいオッサンだけどやるだけやってみよう。
「誰もが自分らしく生きて行ける世界を作ろう」を目標に全力で活動するぜ。
それと同時に「自分らしく生きて行く事に行き辛さを感じている方」に対しての
カウンセラーやコーチとしても活動をしていくことにしたんだ。
一人でも多くの人に「自分らしく生きて欲しい」
心の底からそう思ってるよ。
最後の最後に
「人生捨てたもんじゃないぜ。マジで」
「自分らしく自分なりに生きて行こうぜ」
大川忍公式ページ http://freedom-na-sekai.com/