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檻の中、そんな環境に在りて。壁を壊す高校生活。(2)

Image by Olia Gozha

よくあるお気楽なお話で、

「今日は転校生を紹介します」

なんていって始まる物語がある。

ああいうのをさらりと、まして「ごく普通」「普通科高校」でやられるお話を、私は複雑な思いで受け止めるようになってしまった。ある些細な身体的コンプレックスやなんやかやで、国民的アニメすら嫌っていた私が、ますますアニメや漫画から離れてしまい、結果として友達付き合いに於いてしみじみ不自由を感じたのは言うまでも無い。

あの「学園と冠した監獄」。

自由を求め、厚い壁に、血が滲むのも構わず、拳を振るい、爪を立て続け足掻いたあの日常に、私はそういったものを見る度に、瞬く間に帰る。

私は自身の人生に後悔はしないつもりであるし、挽回は利く、と、今でも信じている。信じているが、だからこそ、あの場所のことは生涯好きになれないし、そこで振るわれたことを許すこともまたないだろう。

恐らく、殆どの人が知る由もないであろう「高校生が転校するということ」について、今語ろうと思う。


果たして転校生というものは、必ずしも遠いところからなどの引っ越しのみで来るものだろうか。遠いところからの転校生だとして、それは簡単な事だろうか。

私はそうは思わない。実際のところ、そうではない。

そういった理由のある高校生は、そこへ合格、所謂「内定」を得た状態になるまでは、元の在籍校に「籍を置く事が可能」である。

言い換えれば「合格出来なかったら駄目」ということだ。

大抵、優良な高校だったらば、あるいは、なんとか取り繕うかもしれないけれども…私立校だったりしたら「治外法権」のところが多いので、経験上、交渉次第になるんじゃないか、と思ってやまない。公立だったら、そのような場合の制度に従い、ということで些か緩和されるかもしれないが、もし試験が必要な場合は、1人2人、という厳しい競争率の中を勝ち抜かなくてはならないのだ。(東京、神奈川では)。

そして、逆に言えば首都圏内では、あぶれた際の救済処置みたいな認定とりつつ高校生活っぽいの出来るとこもあったりするけれども(やたらお金取るとこもあるので注意ね!)あんまり通信教育頼みで「高校生活」という喜びを味わえなかったりもする地域もある…(友人が遠いところから、そういった理由で新幹線で通ってたけれども、それは問題だと思う。みんながみんなそう出来るもんではないし、そういう子が来ても変ってわけじゃないけど、通えない=貧しいって子も場所によっているから、大抵がみんないろいろとんがってる子あって楽しいねで認め合ってく風潮なんだけど、捻くれていじめる奴も、それが恋愛がらみでピーチクもあるかんな…まあそれでも味方の方が多いと思ってよろしい)

(べつにお金持ちさんでも大いに刺激をくれて、後にみんなの成長を促すタイプの子もいる。育ちがいいというか、お金をかけるとこをよくよく教わってるタイプの子で、尊敬できる、大いに世界観を広げてくれたと同時に、その「かけるべき場所」や「ものの善し悪し、価値及び、故に買うべきもの、買うべきではないもの」などを、とくと教えてくれた。というか音大生になる子というのは、お金に相当の余裕がある場合が多かったが、彼女は両親の教養も高く、それを受け継いだ思慮深く、心優しい女の子だった。彼女は重い病を子どもの頃患っていたそうで、それで病院を転々とするか何かで高校で出会うことになった。今はすっかり治癒しているし、出会えて本当によかった、無二の親友だ。また、転校初日、友達になってくれた背の高いピアノ弾きもまた、音大に行った大切な誇れる友人の一人だ。彼は音楽高校からの転校生で、私と同じく、過酷な抵抗のもと、ここへやってきた。自身のいた音楽高校の「音楽の巧拙」の概念に疑問があって、それが膨らんでどうしようもなかったのだという。私が代弁しても、上手く伝わらないと思うので言及は避けるが、彼の言い分は、確かに、私なりに言わせて貰えれば、巧拙をそうやって一絡げにしてしまう音楽教師には問題があると思う。ジャンル、というものがある。例えば、私は合唱でやっているが、声楽で最も適切だとされる発声法が合唱のそれにいつでも適切な筈があるまい。適切な奏法というものを、あまりに無視する人が多いのも、また事実だ。そこにいち早く感づくひだを持つ彼は、立派だと、今でも思う。転校生、というのは、ほぼ彼くらいしか居なかったので、今でもよき理解者だし、彼の結婚式に出席できたのはいい思い出だ。素敵な式だった。小さな、けれども彼の好きなバイクの、好きな道路沿いにあるチャペルでこじんまりとした式を挙げ、小さなチャペル故か、みんな立ちあがって、ぎゅうぎゅう詰めになってお祝いした。そのあとは感じのいい、温かだけれども彼らしい、お酒も料理もおいしい、これまた小さなバーで二次会が行われた。我々彼と同じ高校だった奴らは、ほとんど顔を合わせたこともなかったのに「同じ人間だ」と、瞬く間に理解していて、それも




私がその、冗談みたいに「学園」という名を至極真面目に振りかざす「監獄」からの脱出を計画したのは、入学直後のことだ。

理由としてはその時点で三つあった。

ひとつは、「特別進学コース」に入れられ、一切の部活動を禁じられたこと。

私はこの「学園」を、滑り止めとして選んだ。高校を選ぶ基準は「落ち着いて勉強ができる」が第一だったが、それ即ち「そういう場所にしか、一番やりたいことである『合唱部』がない」ということでもあった。真面目でなきゃ、そんなものはやらないのである。悪いことにそこは地区最難関だったが、聞いて驚け、

『お嬢様学園で反発するような生徒でも、中高通して黒髪の成績優秀な生徒だった』のである。ここに記しておきたい。

と、大見得切っても落ちた。まあ、担任からも入学前の説明でも「合唱部で活動はできる」と説明があったのだ。

少なくとも私は「特別進学コースは我が校の名誉の為に名門大学に入る事。その為一切部活動は禁止」なんてこと、一切聞いちゃあいなかったのだ。

ここは合唱部が強豪と聞いて決めたのだ。滑り止めにと、だからこそ受けたのだ。だったら別の高校に決めていた。空いた口が塞がらない。


…ふたつめ。

高校生活には、私はかなりの憧れを持っていた。中学では公立ながら私服校だったので、近くの高校の、紺色の制服や鞄の差し色の鮮やかなキーホルダーやマフラーに憧れたものだった。もちろん、行動範囲が広がることによる寄り道なんかにも。

そこまでの着崩しなんて望んじゃいない。せいぜいが、地元の公立進学校の高校生がやる、膝上くらいのスカート丈に思い思いのカーデを着て、髪だって染めなくたって、別に伸ばしておろすだとか、せめて今までのポニーテールくらいはやらせてくれたらそれでいいくらいのものだった。


一瞬でそれは打ち砕かれた。横浜近郊、むしろ鎌倉よりの高校だ。制服は酷いものだった。くるぶしまである長い丈のセーラー服は、まるで大昔の不良の様。これを「大変品性がいい」と言われるものだから、たまったものじゃあなかった。湘南のヤンキーの格好を、事前の説明一切合切なしに、だ。強制され、それがしかも、品がいいだって?私は泣き暮らした。おまけに上はスカーフでもなくリボンでもなく、かろうじてセーラー襟の他はビジネスマンのシャツの様にポケットとネクタイ、タイピンがついているのであった。一体、何をさせたいのかわからない。繰り返すがこれが「大変品性がよろしい服装」なのである。電車の中では、馬鹿にされるか、或いは先生か、そこの卒業生の初老の女性が「首を傾けながらスカートを怪訝そうに覗き込み、丈を確かめる」ことも珍しくはなかった。これは痴漢よりも誰にも分かってもらえないぶん、相当の恥辱であったし、泣き出そうものなら「やましいことがあるのだ」と即座に職員室への呼び出し、90度のお辞儀そしてその姿勢で15秒静止(これが最も品が良いとされる)からの土下座と、反省文である。

今でもこちらに来るのを見るのだが、やはり「品がある」を連呼してもあるのは「下品」なのではないか、と感じてしまう。

これに肌色のオバサンタイツ(薄かったら懲罰)か、三つ折りソックス着用。


おまけに本革(しかし、淀みきって最早この汚泥には蓮も咲かぬといった具合のどぶ沼色で、持ち手が異様に短く、掌がやっと入るくらい。ワインレッドというよりもくすんだ長いこと掃除をされていない暗い赤の絨毯色で縁取りしてある)の鞄が指定で、鞄だけでも相当な重量があった。置き勉不可なもので皆パンパンに教科書を詰め、手は豆だらけ、それが潰れて酷い有様だ。しかしこれが学園側の「品性の良い掌」…かと思いきや。「抜き打ち品性検査」なるものでこういった掌のものは懲罰だ。

八方塞がり。理不尽そのもの。蓮も咲かぬ汚泥とはこのことだ。只の沼色、穢れた紅。どうして花が咲くものか。

因みに私も数回食らった。数回というのは仕組みに気付いて阿呆らしくなり、予兆があれば抜け出す様になったからだ。少し内巻き気味になってしまう生まれつきの癖毛や、光の当たり具合によって茶色に見える目や髪など身体的特徴を「品性がない、恥ずかしい」と言われ、笑われ、蹴られ殴られ水をかけられた。家へはひっきりなしに電話がかかり、それを担当した教師は「今学期お前、評定1!」など言う。

皆さんも見てもらいたい、と言うのは傲慢だろうが、日の光が当たって透けても、全く茶や焦げ茶にならない人、というのはいるだろうか。目の色が黒い黒いと言われても、ほんのわずかでも茶の入り交じった人はいないだろうか。そうでないひとは、幸いだ。品性がとびきりいいそうだ。私は品性が下劣なのだ。と、認めると思ったか?否。否。千編否。

「地毛が茶色です」でも許されない学校も、だったら面接や受験票の時点で落とせ、と思って止まないのだが、これは流石に、いったいなんなのだろう。ファシズムか何かか。そういえば、そういう部分は「女の習うものではない」と言って飛ばすなあ。間に合わないのが常だとはいっても、特進でこれだ。聞いて呆れる。自力で習うにせよ、学校で習うにせよ、結局は覚えておかないと対応できない。ある意味、中学教育から高校教育まで来て、後は専門、という人も多かった。望んで特進なんぞに来ている訳ではないからだ。なら、中学でサラエボ等々習い、もうちょっと掘り下げてやったほうが、いいのではないだろうか?後からそういう教養を得たかった、という声も聞く。アホアホだ。

これだけでも随分だが、最も閉口せざるを得なかったのが「指定の靴事件」だ。


私は靴のサイズが26.5程で、靴選びには今だ難儀している。海外ものを発見して、漸く楽になった有様なのだから、「戦中からの変わらぬ品性」を良しとする(ただし外部には「戦中」部分は公表しないが…)あの学園にそんなサイズの靴があろうはずも無い。

無理矢理私は24.5サイズの靴をすわ買わされるところだったが、そこは流石に母が回避。入学後、やはりというべきか、懲罰を受けることになった。そこは「規定のものにサイズが無い」と主張。クラスメイトも担任に相談し通った、という話を聞き、私も担任に相談、念書を貰った上で新しいローファーを買った。が。それで登校した次の日。教師に駅で校則違反とおもっくそぶん殴られて拘束されたのだ。頭が真っ白になり、次に疑問符で埋め尽くされ、そして恐怖が身体中を支配した。どうやって逃げたか覚えていない。記憶にあるのは、高校の最寄りから離れた駅の片隅で蹲って泣いていたこと、担任の「あらぁ、そんな許可だした覚えないわよぉ」という甘ったるい声。念書を提出しても、呆れたというか、全身の力が抜けて目の前が真っ暗になったというか、「こんなに理屈の効かない事が、果たしてあっていいのだろうか…」権力に対してこれほどまでの理不尽さを覚えたのは初めてだった。ましてや、優等生として、先生によしよしとされながら生きてきて、こうなるとは夢にも思わなかった。きちんとした手順でもらった書類は、まるで効力がなかったのである。

父は、組合の仲間が学園内にいて頑張っている。担任の甘ったるい老婆も仲間で「考えてくれているんだ」と言ったきり背を向けて、自分の書斎でいつものように横になって人権の本を読み始めた。

父親すらも裏切り者だ。正義はもはや失われた。





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