まずは、私の自己紹介をしないと、なぜ目玉のおやじに諭されたかわからないと思うので、そこから書きます。
ちょっと長くなりますが、読んでくれるとうれしいです。
スピーチ大会より前の話。
私は、北海道で生まれて、神奈川県育ち。ごくごく普通の家庭で育ちました。
バスケットが好きで、小学校から高校までずっとバスケ部にいて、わりと明るくて元気な子供だったと思います。
けれど、やや頑固な一面を持ち、どちらかというとまじめだったとも思います。
ところが大学受験を控えた高校3年の時、私はうつ病になって学校に行けなくなってしまいました。
朝、起きても体が重苦しくてベッドから起き上がれず、昼過ぎまで寝て過ごし、夕方ちょっとテレビを見たり植物に水をやったりして、学校にはほとんどいけない状態でした。夜になると、不安になって泣きながら眠りにつく生活。最後の文化祭や体育祭も休み、受験生なのに勉強どころか机に向かうことすら困難でした。
17歳って、人生で一番多感で素敵な時期だと思うんです。でも私の17歳は、はっきり言って真っ暗闇でした。
当然ですが、大学には落ちました。勉強してないのですから、当たり前です。
浪人生活をしながら、薬を飲んでゆっくり病気を治すことに専念しました。
その甲斐あってか、1年後、私は自分の第一志望校であった北海道大学農学部に晴れて合格することができました。どん底からの復活です。
通院も終わり、私はこれでもううつ病とはおさらばできるものだと信じ切っていました。だから、病気になったことは黙って、普通の女子大生として振る舞っていたのです。
大学では、サークル活動に励みました。もともと語学が好きで、英語のサークルに入り、そこで英語スピーチと出合いました。1年目には施設の子供たちについてスピーチし、2年目には臓器移植についてスピーチしました。特に2年目は、全国大会にも出ることができ、本当に多くの素敵な方々と出合うことができました。
2年目のとき、私の心を動かすスピーチに出会いました。高校生の方が私と同じうつ病についてスピーチされて、大きな全国大会で大学生・社会人相手に優勝を勝ち取っていました。
そのスピーチを聞いて、私はこれまで自分の病気を黙り続けてきたことを考え直し、むしろ私が病気であっても私が劣っているわけではないんだと考えるようになりました。
私は勇気を出して3年目の秋に、自分がうつ病患者だったことを話し、病気や障害を抱えていても才能を発揮できる社会をつくることの大切さを訴えるスピーチを書きました。
そのスピーチで、私は札幌市の大会で優勝。私のこの考え方は、決して間違っていないことを強く感じることができました。
病気や障害をもっていても、才能や可能性を持っている人はたくさんいる。
その才能を生かせる社会をつくることが、多くの人々にとって素敵な社会になるはずだ。
私は今でもそう信じています。
スピーチ大会より後の話。
大学4年生になって、体調を崩してしまい、また病院にお世話になることになった私。
そのまま大学院に入って、以前から修士を出たら食品関連の企業に勤めたいと思っていたので、就職活動をしました。
周りのみんなもやっているし、なんとなく就活しないと不安だったのもあります。
でも、一番の不安は、
うつ病の新卒を本当に採用してくれるのか?
という点でした。まあ、仮に同じような就活生が二人いたとして、片方が健康でもう片方が病気だったら、そりゃ健康な方を採用するに決まってます。
病気をオープンにして就活することは、絶対に不利です。
だからといって、黙って内定して入社しても、いずれはわかってしまう気がしました。それに、なんだか失礼なような気もしてしまったんです。
すごく迷いましたが、最終面接まで黙っておくことに決めました。
まあ、結果から先に話せば、惨敗に終わりました。
やはり、病気をオープンにすれば、採ってはもらえないということが、よくわかりました。
もう私はどうしてよいかわからなくなり、何でもいいから職にありつきたいと、ふとハローワークにお世話になってみようと考えました。
ハロワの方「どのようなご相談でしょうか?」
私「実は私、かくかくしかじか、うつ病でして、そのことをオープンにしながら働けるような企業さんを探したいんです。どうしたらよいでしょうか(´・ω・`)」
ハロワの方「・・・なるほど。大変でしたね。ひとまずご希望は食品関係の技術職ということで、まずはハローワークに来ている求人の中から興味のあるところを探して、それから考えてみましょう。」
私「ありがとうございます!」
こうしてハローワークの人と最初に選んだ求人が、食品の研究at 鳥取!!
鳥取とか、行ったことないし(笑)
まあでもこれも何かのご縁だろう。とにかく行って見てこられるならそれが一番。百聞は一見に如かずということで、飛行機を調べたら、
なんと新千歳ー米子の直行便が通っているではありませんか!!
しかも、3万あれば一泊して帰ってこられることが判明しました。これはもう行くしかない!
鳥取にて。
前置きが長くなりましたが、いよいよここからが目玉おやじに諭されたお話です。
・・・ということで、やってきました。鳥取県は米子市。
夜到着だったので、景色は何も見えず。真っ暗。いまにも妖怪が出そう。
米子空港ではこれでもかというくらいにゲゲゲの鬼太郎がお出迎えです。
右も左もわからん、げげげのげー(´・ω・`)
と、思いつつ、なんとかホテルに到着。
その日はそのまま就寝。
翌日、まずは荷物をコインロッカーに預けて、とりあえず境港に行ってみることにしました。
実際、もし働くことになったら、勤務地が境港になるからです。
鬼太郎電車を待つこと1時間、そして乗ること40分・・・
境港駅に到着!!
・・・海、山、そして妖怪(笑)・・・
それらが私の目に映った境港の全てでした。
それ以外は、何も、ない。
焦っている就活生も、スーツを着たビジネスマンも、ない。
私は、境港にやってきてようやく気づきました。
海、山、妖怪。
これだけでも人間は十分生きていけるんだということ。
東京と札幌しか往復してなかったから、気づけなかったけど、
東京も札幌もものすごいスピードで経済が動いていて、そんな場所は都市だけであること。
境港のようなゆったり時間が流れる街が、日本にはあるということ。
このことに気付いただけで、私の胸はいっぱいになりました。
境港駅から少しあるいたところに
河童の泉
なる泉があり、ここに後ろを向いて3枚コインを投げるとのんきに暮らせるようになるんだそうです。
もちろん、投げてきました。
本当はもっと境港を散策したかったけれど、次の電車で米子に戻らねばならず、
最後にお土産屋さんにちょっと出向いた私。
そこで見つけた目玉のおやじの木札が、私の心をぐいっとつかみました。
それは、
のん気に暮しなさい
ただ、それだけ書かれた、木の札でした。
そう、私今まで、就職することにものすごく焦っていたんです。
境港に来て、そうか、のん気に生きてもいいんだ。と、素直に考えられるようになったんです。
こうして私は目玉おやじの木札を1枚だけ買って、今はそれをお守りとして机にぶら下げています。
のん気に暮らすために。
帰りの飛行機の中で、のん気に暮らすためにはどうしたらよいか、ひたすら考えました。
とりあえず、就活はもうやめよう。これは自分を苦しめるだけだ。
就職しなかったら、どうやって生きていこうか・・・。
何も絶望になることはないです。のん気に考えています。
自分のこれまで学んできた専門知識、そしてサークルで鍛えた語学力を使って、
何かできないだろうか。
そんなことを考えています。
今は、翻訳の勉強をしてみようかなという気になって、少し調べ始めました。
もし、このストーリーを読んで、私にのん気に生きる知恵を与えてくださる方がいらっしゃったら、
ぜひお教え願います。
読んでくださり、ありがとうございました。