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あの日の話

Image by Olia Gozha

まえがき

2011年3月11日

あの日と伏せたのは、あの日以外に何といえば良いのかわからないからです。

「3.11」

と言われると、それは日付であって、なんだか違うものな気がするし

「震災」

と言われると、なんだかことが大きいような気がして。


これは私の話です。


わたしを想像してください

まずは自己紹介をしますね。名前は「ふくだなおみ」です。今更な感じもありますが、実名をぽろっと書いてしまうのも問題があるのかと思いまして、若干ふざけているように見えますが、ひらがなで失礼します。

現在20歳です。つまり当時17歳。高校2年生終わりの時期でした。

名前を見て大体の方はお気づきかと思いますが、性別は女です。星座は乙女座です。

好きなものは、甘いもの。毎日のようにショッピングセンター「リプル」に繰り出し、クレープを食べていました。「私の髪は糖分でできている」と豪語するほどの甘党でした。しかし、女子高生らしくダイエットにも励んでおり、よく効くダイエット方法はないものかと日々研究していました。ちなみに、私は大の運動嫌いです。歩くことも嫌いです。走るなんて以ての外です。自転車に乗っているだけで笑われるほど運動というものが似合わないようです。

家族は祖父母、両親、犬(チワワ)4匹、猫(黒猫)1匹、金魚1匹といった感じです。兄と姉が1人ずついますがそれぞれ結婚し、別々に暮らしているので省かせていただきます。ちなみにとても仲のいい兄妹です。我が家は自営業を営んでいました。父は自営業の傍ら、消防団にも所属していました。母はパートさんとして某鶏肉加工会社で働いていました。小学4年生までこの5人で一つ屋根の下で暮らしていましたが、訳あって数年離れて暮らしていました。再びこの5人で暮らすようになったのはわたしが高校2年生になった頃からです。まぁ…いろいろありました。

わたしが通っていた高校のクラスは5クラス。普通科4クラスの海洋システム科1クラスです。わたしは普通科でした。小学校のころからなぜか理系クラスに憧れ、将来のことは一切考えずに理系クラスを選択しました。制服はブレザーで割と可愛いのですが、田舎らしいといいますか、スカートは膝下丈、ソックスは白の校章入りでした。その高校を選んだ理由も、①家から近い ②制服が割と可愛い ③友だちがいる といった適当な理由です。ただのんびりと、恋をしたり、ガールズトークに明け暮れたり、親と喧嘩したり…平々凡々な日々を送っていました。

そんなわたしの出身地は、陸前高田市です。岩手なの?宮城なの?と聞かれますが県境でギリギリ岩手県です。しかし伊達藩でした。どうして岩手県に入ったのかは私も不思議です。陸前高田市は小さいながらもいくつかの町があり、わたしは高田町長砂地区に住んでいました。海から大体1〜2km程の地区です。海岸には何万本もの松の木が生えており、防風林としても、気味の悪い林としても、景勝地としても陸前高田市民にとっては小さい頃から親しみのある場所だったのではないでしょうか。特に高田小学校の卒業生ならば、毎年開かれていたマラソン大会のおかげで松林の中のランニングコースには苦い思い出が残っていることでしょう。約2km続く砂浜で遊んだことがない人が高田にいるとは思えません。(個人的な意見です) 水中にゴミが浮かんでいることはまずなく、代わりに海藻だらけで、泳ぐ前に海藻を掻き分けるという試練がありました。わたしはあの海藻が体につくのが嫌で嫌で嫌で…。でも綺麗な海です。その海浜浴場には毎年何万人もの人が遊びに来ます。 これらは一括りに「高田松原」または「松原」と呼ばれていましたので、これ以後話すことがあればそう呼ばせていただきます。ちなみ「松原」のイントネーションは、「まつ ば(↑) ら」です。「まつ(↑)ばら」ではありません。でも「高田松原」は「たかたま つ(↑) ばら」です。

ここまで読んでいただいてわかるように、当時わたしはただの高校2年生で、3年生が卒業してちょっといきがって、スカートの丈を少し短くしちゃうような身長158cm、体重4●kg(さすがに言いません)、髪は黒髪ロングの女子高生でした。部活は吹奏楽部でしたが、フルートは愛していたものの3年生の引退と同時に辞め、生徒会会計長をしていました。ちなみに彼氏はいませんでした。

当時のわたしを想像していただけたでしょうか。


ここから話しをはじめます

あの日の少し前に、少し大きめの地震がありました。微弱ではありますが、早送りすれば分かるほどの津波も発生しました。

先に話したように父は消防団員だったため、その日も水門を確認しに松原へ向かいました。幸い被害はなく、父も数時間後に家に戻って来ました。

わたしはその日、なんとなくもうすぐ大きな地震が来るような、そんな不安を感じていました。それは特に珍しいことではなく、大きい地震があれば、もっと大きな地震が来るのではないかという単純な不安でした。わたしはあの日の前日、夜中に大きな地震が来た場合に備えてベッドに横になりながら、避難方法を考えていました。

「キャリーケースに荷物を入れて、ペットたちをバッグやゲージに入れて母と一緒に持ち、祖父母を急かし、いつも避難訓練で避難していた八坂神社に逃げる…でも、それではきっと大きな津波が来れば高さが足りなくなってしまうだろうから、あの道を通って、畑まで逃げればきっと大丈夫だ…!でも隣のおじいちゃんが家の下敷きになっていたらどうしよう…瓦礫に飛び乗って助けよう!サバイバルだな!」

ってな感じでした。

あの日の朝、わたしは「行ってくるね」とペットたちの頭を撫で、いつもの通り、歩いて10分走って7分の学校に母の車に乗って登校しました。教室につき、いつメン(いつも一緒にいるメンバー)に、昨夜考えたシュミレーションを話しました。笑い話として話しましたが、結局その話しは「近々、大きい地震が来そうだね」ということで終わりました。朝のSHRが始まって少しした頃だったと思います、友だちの携帯電話のアラームが鳴りました。我が高校では授業中携帯が鳴った場合、携帯を没収され、放課後ペナルティとして校内清掃または松原清掃を命じられます。彼女は見事携帯を没収され、放課後、校内清掃に参加しなければいけなくなりました。その日は年度末ということもあり、午前授業で、わたしと彼女は放課後ショッピングセンター「リプル」に行く予定でしたが、彼女の居残りによりわたしも学校に数時間残ることになりました。

彼女が戻って来たのは約1時間半後、そのあと数学の若い男の先生と職員室でキャピキャピと円周率について語っていました。先生と話しを終え、学校を出たのが2時半過ぎです。学校の玄関から出て少し歩き、彼女の自転車をとりにいき、さて、行きますかと歩き始めたとき、わたしの携帯の緊急地震速報が鳴りました。

「宮城県沖で震度…」

そんな感じの内容が出ていました。私たちはとりあえず歩みを止め、地震に備えました。そのすぐ後です。「ゴオオオオオ」という不気味な地鳴りと共に、肩を揺すられたのかと思う程激しい地震が私たちを襲いました。すぐ終わるのかと思えばなかなか止まりません。目の前の家の瓦がガラガラと流れるように落ちて来ました。電信柱はしなり、折れるのではないかと思う程でした。少しして、だんだん揺れが収まって来ました。まだ揺れているのか、わたしに感覚が残っていただけなのかはわかりませんが、随分長い揺れでした。揺れが収まった頃、わたしの頭は家にいるペットたちのことでいっぱいでした。「家に帰らなきゃ家に帰らなきゃ」とうわ言のように言い続けているにも関わらず、わたしの体は情けなく、震えていました。どこから湧いて来るのかわからない恐怖に、立っているので精一杯でした。友だちには「危ないから落ち着いてからにしよう」となだめられ、それでも家に帰らなければいけない気がしていました。少しすると、校内や体育館から生徒たちが出て来て、第一グラウンドに集まりだしました。わたしは友だちに手を引かれ、集まって来た生徒たちと合流しました。地震が来たときの癖のようなもので、わたしはワンセグをつけ、ニュースを見ようとしました。画面に映っていたのは宮古市だったと記憶しています。道路で車が渋滞していました。橋の上だったのではないかと思います。少しすると画面中央あたりの車が左に動き始めました。わたしにはどういうことか全く理解できませんでした。見ているうちにその車はどんどん画面の左側に動いて、ついには周りの車も動きはじめました。そのときやっと車が波にさらわれているのだと気づきました。どうしてハンドルをきって進まないのだろうと疑問に思っていましたが、第一グラウンドから学校の裏山にある第二グラウンドに移動するということで、わたしはワンセグをとじ、docomoの災害掲示板を通して、祖母と父に「学校の裏の山にいます」とメッセージを送りました。みんなと一緒に第二グラウンドに行き、再び点呼をとったあと、わたしは友だちと海側のフェンスから下を見下ろしました。しかし、津波のようなものは見えず、なぜ陸前高田より北部にある宮古に津波が来ているのに、こちらには来ていないのだろうと不思議に思いました。海には白波が見えるものの、こちらに向かって来る様子はなく、もしかしたら高田には来ないのかもしれないと思い、少し目線を手前の市街地の方に移すと、そこには現実とは思えない光景が広がっていました。第二防波堤を少し越えたあたりに黒い海が渦を巻いていたのです。「海が来る」と感じました。意味がわからないかもしれませんが、わたしが見たものは波でも水飛沫でもありませんでした。それは黒く渦を巻きながら町をのみこんでいく「海」でした。問題はその場所です。第二堤防には水門が設置されており、その水門は津波の可能性があると判断された場合、消防署での操作により、閉じられます。しかし、地震により操作がスムーズに行われない場合や、まだ海側に人がいる可能性があるため消防団が水門へ向かう必要があります。父は消防団員として第二堤防付近にいるということです。わたしが見つけたときには、津波は既に第二堤防を越えていました。そのときわたしの頭に人生で初めて”お父さんが死んだかもしれない”という言葉が過ぎりました。「あの黒い渦のなかで、今、お父さんが苦しんでいるかもしれない。」わたしはそのときから涙が止まらず、必死にただ「もうとまって」と願いました。「とまって、とまって」と何度願っても海は町をのみこみ続けました。誰かが「第二波が来るぞー!上に上がれー!」と叫び、皆が山に登りました。わたしはまた友だちに手を引かれ、山を登りました。そこから見た光景はもう二度と見たくはありません。見渡す限り、町が黒い海と化し、所々で渦を巻いていました。これではわたしの家も無事ではないでしょう。祖父母も波にのまれてしまったかもしれない…と思いました。残された母は職場が海から離れていたため、こちらに戻って来ていなければ助かっているはずです。しかし、母は誰よりもペットたちを愛していました。わたしがペットに嫉妬したことがある程です。そんな母が、家に戻ろうとしないはずがないのです。しかし、わたしの目の前に広がる光景は”地獄”でした。その光景を目の前にして、「母も死んだかもしれない」と思わざるを得ませんでした。

「わたし1人だけ、生き残ってしまった」

そう思うと今までに経験したことのない感情がわたしを襲いました。

きっと、あれがわたしの”絶望”だったのだと思います。


その後、わたしは自分の置かれている状況に気づきはじめました。

「わたしは生き残ったものの、今から波に飲み込まれるわけではなさそうだ。」

「もしかしたらみんな生きているかもしれない」

「確かなのは、わたしが今生きていることだけだ」

わたしは自分に暗示をかけようとしました。

「みんな大丈夫、みんな大丈夫、みんな大丈夫、みんな大丈夫…」

そうつぶやき、自分に言い聞かせました。

わたしはエヴァンゲリオンは難しくて見ませんが、その主人公のようだったと後で恥ずかしくなりました。中二病なのではないかと不安になった程です。

でもそのおかげで、涙も止まり、笑顔を作れるようになりました。わたしのモットーは「つらいときこそ笑顔」でした。笑えばなんとかなるんじゃないか、そんな楽天家な一面もありました。生きるためには泣いていても仕方ないと、友だちを引っ張り、何か出来ることはないかとまた元の第二グラウンドに降りました。さすがにそこまで波は来ておらず、高校付近に住む方々が避難して来ていました。そこで、学校側は野球部の屋内練習場にブルーシートをしき、仮設避難所としました。野球部はその大きな声で中へ入るように言いながら、小走りで地域の方々が来る方へ走って行きました。ご存知かと思いますが、陸前高田市は高齢化が著しい地域です。避難してきた方々は、去って行く野球部の言葉が聞き取れず思い思いの場所で休みはじめました。わたしにできるのはこれくらいだろうと、一人一人声をかけ、中へ誘導しながら知っている人はいないか、家族がいないか探しました。しかし、家族の姿は見当たりませんでした。するとそこへ近所に住む、父と同じ分団に所属しているKさんが来ました。消防団の半纏を来て銀色のヘルメットをかぶって歩いてきた彼に「うちのお父さん見ませんでしたか!?」とつめよりました。しかし彼から返ってきた答えはなんとも言い難いものでした。

「父ちゃんとは一緒に逃げてたけど、途中で別れてしまったんだ」

やっと生きなければと立ち直りはじめていた心は簡単に折れてしまいました。もう、父の死しか考えられませんでした。

しばらくして、こちらの茂みの間から、わたしが前日シュミレーションをしたときに最後の到着場所として考えていたうちの畑が見えることに気づきました。よく見るとそこには消防車が1台とまっています。「あれはきっとお父さんだ!」と思いましたが、必ずしも中にいる人が父だとは限りません。家族の死は頭から消えることはありませんでした。

夕方18時半頃でしょうか、薄暗くなってきた頃薪拾いも終わり、わたしは友だちと一緒に家が見えないものかと家の方向をなんとか見ようとしていました。

そのとき、わたしの耳に1番聞きたいと思っていた声が飛び込んできました。

「なおー!なお!ふくだなおみはいるかー!?ふくだなおみー!!」

それは父と母の声でした。

声のする方を見ると、母は木の棒を杖にし、裾が濡れたジーンズを捲り、靴は泥だらけ、父は消防団の半纏を着て、銀色のヘルメットをして、柄にもなくわたしの名前を大きな声で叫んでいました。向こうにいた友だちが案内してくれたようで、2人はこちらへ向かってきます。わたしはそのとき、人生で最大の安心感を味わいました。2人に抱きつこうと走って行くと、母は受け止めてくれたものの、父は変なところに気を使ったのか、よけ、わたしは我にかえりました。

母からは祖父母が無事であること、家はもうないこと、ペットたちは助けられなかったことを聞かされました。案の定母はペットたちを助けるために、家に向かっていました。しかし、職場の人を家へ送ろうと、いつもと違う道を通り、海の方で巻き上がる土埃をみて津波だと確信し、山へ逃げ、九死に一生を得たとのことでした。父も水門を確認しに行っていましたが、確認してすぐ避難し、交通誘導に当たっていたところ、波が防波堤を越えて来るのが見えたため高台にあるうちの畑へ避難したとのことでした。

祖父母には数日後に再開しましたが、まず初めに言われたのは「なんでもっと早く会いに来ないんだ」ということでした。祖母なりにとてもとても心配していたのだと思います。祖父は焚き火にあたりながら、大無事だったかと笑顔を見せてくれました。しかしその顔には疲れが滲み出ていました。祖母の話によると、祖父は逃げないと言い、家に残ろうとしたそうです。しかし祖母は無理やり祖父を引っ張り出し、通りがかりの人の車に祖父を乗せてもらい、祖父を避難させ、自分は荒れた家の中から土地の権利書を見つけだし、避難しようとしたところ、余震に襲われ、腰が抜け、座り込んでいるところを父が見つけ、「なにやってんだ!早く逃げろ!」と言われたことで我にかえり、車に毛布を積んで逃げてきたとのことでした。そのとき、ペットたちがいた離れは2階の屋根が崩落し、2階にに上がれる状態ではなく、ペットたちがなく声はしていたものの助けられなかったと後から聞きました。







少しタイミングがずれていますが

申し訳ありません。体験だけを話すつもりが余計なことまで話してしまいました。特に興味のない話まで読んでしまって、読む気が失せたという方もいらっしゃるかもしれません。

ごめんなさい。

やっと章を変えて話します。

わたしはあの日をいい日だとは思うことはできません。(いまのところ)

しかし、3月11日が誕生日の方や結婚記念日の方にとってはいい気持ちではないと思います。

だから、というわけではありませんが、あの日の経験によって、あの日から過ごしてきた日々で得たものがあるという話もさせていただきたいと思います。

わたしはあの日がなければ今のわたしにはなれませんでした。確実に。ただ毎日を何となく過ごし、入れる大学に入って、就ける職に就いて、流れにのってたどり着くところまで流れていってしまう、そんな人生を歩んでいたのだと思います。(それもいいのかもしれません) きっとハングリー精神、アントレプレナーシップ、なんて言葉は無縁だったことでしょう。なんなら家に引き込もっていたかもしれません。

だからといって、わたしの人生が成功ストーリー、シンデレラストーリーというわけではありません。(シンデレラにはなりたいです) 人生、成功かどうか幸せだったかどうかなんて終わって見ないとわからないものだと思います。失ってから気付くものは、それこそ失ってみないとわからないほど多くあります。

胡散臭い話はこれくらいにして、

あの日の出来事はわたしに大きな傷を残しています。あの日大切な人を失ったことで空いた穴は何を入れても埋まりません。わたしの人生の障害になっているのかもしれません。でもそれが本当に障害かどうかわかるのは今ではないのだと思います。わたしはできるならば、それをわたしだけの、わたし自身のデザインだったり、軌跡だったり、人生だと感じながら生きたいと思っています。

わたしは同じ経験をもう二度としたくありません。同じ経験を誰にもしてほしくありません。

これはこの3年ずっと変わらない想いです。今道を歩いているあの人が、車を運転しているあの人が、精一杯生きているあなたが、同じ経験をするということは、わたしにとって、あのつらい経験が何の意味もなかったことと同じなのです。あの日の後、悩むことも多いわたしでしたが、「何かしなければ」という気持ちも空回りし続けていました。わたしはBEYONDTomorrowという団体に出会い、自分に何ができるのか、自分は何がしたいのか、誰にどうやってどんな影響を及ぼしたいのか、わたしはどう生きるのか考え続けています。BEYONDについては上手く説明できないので、Googleで調べてください。



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