「努力しないことへの言い訳はとても簡単だ。頑張れない理由なんていくらでもある。でも、本当に諦めたくないものを手に入れたいなら、その方法はひとつだけだと僕は思う。」

負けたくなかった。悪魔に魂を差し出してもいいと思った。どうせ僕など死んだら地獄行きだ、構うことなんてとくにない。
ウソだ。そんなにかっこいいもんじゃない。追いつめられた僕の脳裏には、これまで自分が大切にできなかったすべてのことが走馬灯みたいに浮かんでは消えた。
こんなピンチはやっぱりなにかの呪いなんじゃないかって、そのひとつひとつに「許してください」と必死に謝りながら、ピット・イン。
あたえられた時間は60秒。見上げた空はただ青かった。

順当に予選を通過し、暫定3位で迎えた最終投擲(とうてき)。ところが、他大学の選手に直前で逆転され、4位に転落。
この時点ですでに、僕の記録は自己ベストを大きく更新していた。それをさらに、しかも目の前で大幅に塗り替えられてしまっては、正直もう余力はなかった。
僕にとってはこれが引退試合だ。12年間の競技人生で、はじめて表彰台に手が届くチャンスだった。心のどこかで、メダルはもう確実だろうとも思っていた。
陸上の神様はたぶん女神で、おそらく彼女は僕のことが嫌いなのだろう。ちょっとした慢心に気がついて、とんでもない試練を課してきたものだ。

大舞台で一転、天国から地獄へ。僕の一番苦手なシチュエーションだった。ビッグマウスのくせに、プレッシャーに弱い。それで落とした試合もたくさんあった。
祈るようにこちらを見つめる後輩たちと目が合う。さんざん周囲に期待させておいて、結局僕は口ばっかりじゃないか。そんなことを考えたら、ちょっと笑えた。
あはは、くだらない。変われたのか、変われていないのか、試してみようじゃないの。負けたら僕は嫌われもののままでいい。
ポジションをとり、軽く右手をスウィング。左足に体重を載せてファーストターン。右足を着くか着かないかで素早くセカンドターン。右手を振り切り、叫ぶ。

僕は投擲というただ重いものを遠くまで飛ばすだけのスポーツをしている。槍は800g、円盤なら2.0kg、砲丸とハンマーだと7.26kg。ひどく地味だし、華がない。
それでもこの日、僕が投げた円盤はかつてないほど綺麗な軌道を描いて、会場が声援で大きく沸くのを確かに聞いた。
医学生の夏の風物詩
東日本医科学生体育大会というスポーツの祭典がある。略称は東医体で、一般にはなじみがなくても、医療関係者なら聞いたことがない人はまずいない。
1957年の開催以来、今年で第56回を数える由緒ある大会であり、約14,000名の医学生が集まる。開催は7月下旬から8月上旬、医学生の夏の風物詩だ。
国民体育大会(いわゆる国体)と西日本医科学生体育大会(西医体)に次いで、国内の体育大会としては3番目の規模となる。
国体以下を医学生のみが参加できる体育大会が占めていることからも、医学部では運動部が盛んなことがわかる。決して、勉強ばかりしているわけではない。

ただ、ほとんどの医学生は、医学生オンリーの部活に所属する。たとえば「●●大学(全学)サッカー部」と「●●大学医学部サッカー部」は別の団体だ。
これは、医学部が6年制で、他の学部とは幹部になったり引退したりする学年にずれがあり、また実習や試験のカリキュラムや長期休暇のタイミングが異なるため。
そして、医学部の運動部にとって、もっとも重要かつ規模の大きいものが東医体ということになる。東医体とはつまり医学生にとってオリンピックのようなものだ。
ところが、数年前まで、僕の大学には医学部の陸上部がなかった。

おわかりかとは思うが、それを作ったのは僕だ。たった4人ではじまった部活は、現在30人ほどの大所帯となり、今年の東医体では総合6位に入賞した。
いまでこそ僕は、後輩たちに強い先輩だと認識されているだろう。大舞台では必ず結果を残してきたし、それを根拠に部内では厳しい態度をとってきた。
練習に消極的な後輩にははっきりと冷たいし、試合で結果を残せず悔しがる後輩に優しい言葉をかけることはない。自分のことながらサイテーだ。
理由はひとつ。他ならぬ僕自身が、練習に消極的で、試合で結果を残せず、頑張れない理由を見つけては、努力をサボる言い訳をしていたから。
生まれてはじめて胸ぐらをつかまれた
今から何年か前のことだ。僕は全学の陸上部に所属しながら、医学部陸上部(医陸)の独立を計画していた。
当時の僕は投げる競技ではなく、走る競技をしていた。タイムはぜんぜん遅くて、実績はなし。勉強が忙しいことを理由に、ほとんど練習もしていなかった。
それでも、個人種目であり、チームスポーツに比べて拘束の少ない陸上は、忙しい医学部生の潜在的なニーズに合致したようで、医陸にも3人の新入生が集まった。
自分の呼びかけに応えてくれた後輩たちのことを、僕なりに大事にしていたつもりだった。でも、その夏の東医体の夜、僕は新入生のひとり、田中に呼び出された。
「急にお呼びだてして申し訳ないんですけど…」
「うんうん、どうした?」
「オマエさあ、いい加減にしろよ!」
「(えっ!? えっ!?)」
間抜けなことに、僕にはなにが起きているのかわからなかった。なんの相談かとノコノコ夜中に路地裏へ出向いたら、いきなり田中に胸ぐらをつかまれたのだ。
東医体は各地の大学が持ち回りで開催するので、見ず知らずの土地である。いくつかの大学で合同の打ち上げをしたあとだったから、お互いに酒が入っていた。
かつて全中(全国中学校体育大会)で優勝したことがあるという田中は、ふだんはおとなしく、腰も低かった。
そんな田中の突然の変化に、僕はただ怯えていただけだった。恥ずかしいことに、人数こそ少ないものの医陸は順調であると、僕は信じて疑っていなかったのだ。
「なにが医陸の独立だよ。テメエ今日のタイムいくつだったよ。そんなんで恥ずかしくねーのかよ!?」
「こないだの練習も、あれ何だよ。キツいからって途中で止めて、遊んでんなら陸上辞めろよ!」
「オマエが気づいてないだけで、他の2人もオマエのことバカにしてっからな。尊敬できねー、って。」
「タイム遅いし練習もしないくせに偉そうにしやがって。そんなんで先輩ヅラしてんなよ!」
突き飛ばされて地面に尻餅をついた僕を見下ろしてまくしたてると、田中は立ち去った。すべてそのとおりだったから、なにも言い返せなかった。
浪人でブランクの長い田中は、はじめての東医体でひどいタイムを出していた。そんな田中に、僕はたしか「医学生だからしょうがない」と言葉をかけた。
それなりの事情があったのだといまは思える。でも、同時に、のどの奥が苦くもなる。その夜はたしか、彼女に電話をかけてひたすら泣いた。悔しかった。
後日僕が陸上を辞めるより早く、田中が退部を宣言した。残り2人がそれにつづき、医陸は僕ひとり、事実上廃部になった。僕は全学でくすぶる日々に戻った。
僕は未来を守りたかった
転機は3年前。インターハイ入賞者の小林が、僕の大学の医学部に入学すると聞いたときだった。ところが、小林は大学では陸上をしないつもりだと言う。
そもそも医陸の独立には理由があった。医学部に陸上部がない僕の大学では、経験者でも全学への入部をためらい、陸上そのものを辞めてしまうことが多かった。
陸上を続けたい人間が陸上を続けられないのはおかしい。医学部でも陸上を続けられるような仕組みを作りたい。それが当初僕のモチベーションだったはずだ。
インターハイ入賞者が陸上を辞めてしまうとしたら、それは陸上競技界全体の損失だ。なんとかできるとしたら、いまそれは僕しかいない。

僕がしたのはとにかく理念を語ること。そして、それを実現するために行動すること。
「医学部でも陸上を続けられる仕組み」作りと、それが将来の後輩たち、そして未来の陸上競技界に与える計り知れない影響を連日連夜語りつづけ、小林はオチた。
そんな熱烈な勧誘作戦が功を奏したのか、その年の入部者は4人。結果的に全員が実力者だったが、ここで予想外のことが起きた。
強い部員が増えて走る競技の選手枠が埋まってしまったのだ。情けないけれど、僕はこうして投げる選手に転向した。それが正解だったことは、あとでわかる。

翌年、さらに10人の新入生が入部した。ところが、急激に人数が増えたことで、残念ながら部内の派閥争いがはじまった。
創部以来ワンマン運営だった僕と、当時新主将の中島。確執は中島が僕への悪口みたいなメールを後輩全員に送り、それを間違って僕にも転送したことで露見した。
僕はこの事件をきっかけに、部活から距離を置くことにした。めんどくさかったのもあるが、みんなでわいわいしたいだけの部員が増えたと感じたからでもある。
新体制によりどんどんゆるやかな雰囲気になる部活に居場所を失うのと同時に、皮肉にも僕は投擲が自分に向いていることを感じはじめていた。
努力が正当に報われる場所
勉強が忙しいからとか、どこかを痛めているからとか、医学生が陸上をするとき、言い訳にできる頑張らない理由はたくさんある。
でも、陸上競技、とくに投擲は、地道な努力が必ず実を結ぶ種目だ。わかりやすく言えば、重いもの投げるのにパワーがあれば遠くまで飛ぶに決まっている。
そしてそのパワーは、定期的なウエイト・トレーニングの積み重ねで必ず身に付く。つまり、頑張ればぜったいに強くなれる。ならば、頑張らない理由はない。
努力を地道に継続することは、ある意味で人間には一番難しいことだ。それでも、これほど努力が正当に報われる場所を僕は他に知らない。

現状手の届かない結果が欲しいなら、自分を向上させる以外に真っ当な手段はない。向上は現在の自分をあえて壊してより良く作り直すことでしか得られない。
当然それには痛みを伴うし、現状維持のほうが耳には優しいだろう。また、本気で努力して結果が出なかったときのことを考えるのは、誰だって怖い。
みんなでわいわいすることを目標にすれば、傷つく人間はいない。楽しければそれでいい、というのもひとつの部活の形だ。だけど、それでは永遠に結果が出ない。
少なくとも結果を出したいけど努力はしないという理屈はありえない。努力が報われる保証はなくても、努力しなければ努力が報われることは絶対にないから。

僕はより正確に言えば、試合で結果を残せず悔しがるくせに練習には消極的な後輩には、はっきりと冷たいし、優しい言葉をかけることはない。
昔の自分を見ているようでキツいのと、胸ぐらをつかんで罵倒されるまでもなく、自ずと気がついてほしいことがある、という理由で。
陸上競技ははっきり勝敗のつくスポーツだ。楽しいだけでは勝てないし、人間だから負ければ悔しい。楽しければそれでいいという陸上は、本質的に矛盾している。
新体制となった部活がゆるやかな雰囲気で停滞していくのを横目に、僕は地道な努力をつづけ、実業団の選手と同じ試合に出場できるまでになった。
そして僕は東日本で3位になった
さらに翌年、つまり今年、医陸には15人の新入生が入部した。新主将はインターハイの小林。そして、代替わりにより部活の雰囲気にある変化が生まれはじめた。
小林の指導によって、練習に熱心な部員が大部分を占めるようになったのだ。中島たちははっきりと小数派になり、いまは数人で飲み会ばかり開いている。
でも、僕は中島たちに感謝しようと思う。あの時期に部活を離れたことで、僕は努力の意義を知り、あちこちの大会で入賞することができるようになったから。
医陸がおままごとではなく、本当の意味で「医学部でも陸上を続けられる仕組み」として機能しはじめて、僕は部活の運営に本格的に復帰した。

そして、僕の最後の東医体。数年前なら想像もつかないことだが、僕は円盤と砲丸投の選手だった。
競技場を歩けばたくさんの知り合いが声をかけてくれるような、頑張らない言い訳を並べていた時代も内心ではずっと憧れていた、強い選手になっていた。
円盤を持つ右手を振り切った瞬間、すべての音が聞こえなくなった。理想的な指先の感覚に、全身に喜びが溢れた。軌道を目で追いながら、僕は吠えた。
僕の投げた円盤は、大きく逆転された記録をさらに逆転し返して、夏の芝生に落下した。次の瞬間、スイッチが入ったように、会場の声援が耳に飛びこんできた。

人生ではじめての表彰台は、ずっと目標としていた東医体。ほほが緩みまくった壇上での僕の浮かれっぷりは、いまでも後輩たちの語りぐさになっている。
余談だが、キャプテンの小林はこの大会で、インターハイの自己記録を更新した。医学部に入って3年、それでも当時より速くなるなんて、と本人も驚いている。
何度でも言おう。努力しないことへの言い訳はとても簡単だ。頑張れない理由なんていくらでもある。
それでも本当に諦めたくないものを手に入れたいなら、その方法はひとつだけ。それは、どんな状況でも地道な努力をつづけること。

少しずつでも自分を向上させていけば、いつかは望む結果に手が届くのだ。
あなたのその努力も、諦めずにもう少しだけつづけてみれば、やがて大きな実を結ぶかもしれない。
2013年はお世話になりました。
2014年もよろしくお願いします。
医学生兼ライター 朽木誠一郎(@amanojerk)