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飽くなき好奇心 情熱を燃やし続ける77歳オーロビルでの生活 岡本健

Image by Olia Gozha

■岡本健の略歴

1935 東京に生まれる

1950 山梨で建築を志す
  県立甲府工業及び墨田工業建築科に学ぶ

1954 中村純平の流れをくむ副島建築設計事務所で働く  

1957 早稲田大学理工学部建築科に学ぶ

  アントニー・レイモンド設計事務所に学ぶ

1961 小椋建築設計事務所で働く 

アントニー・レイモンド設計事務所に学ぶ
  柴岡伊佐雄設計事務所に学ぶ

1966 O&A建築設計事務所開設
  鹿島建設設計部嘱託とする 

1967 岡田新一と出会う 

1969 インド・ヨーロッパ・アメリカに建築と経営の研鑽のために遊学

1975 病を患い脱都会を考え阿見町に移る

  ミサワホームにおいて一般住宅の質的向上に力を注ぐ

1992 インド・秀子英語習得学校開校

2006 一切の業務から引退する

2011 インドとの交流に本格的に取組む

■岡本健の主な仕事

1950 全国高等学校建築設計競技大会に公民館の設計案で一等に入選

1954 KKコーセー化粧品会長邸(石神井)

  KKコーセー化粧品社長邸(神楽坂)

  KKコーセー化粧品本社ビル・工場・家族寮

1961 カーナー邸(白金)

  恵那市保久の湖ユースホステル

  恵那峡国民宿舎

  恵那市立小学校

  立川米軍キャンプ格納庫・厚生施設 その他

  まみあな教会(田園調布)

  五味川純平邸(田園調布)

1966 共同通信社本社社屋(赤坂)

  イタリア大使館(三田)

  明治神宮第2球場

1967 岡田新一邸(白金)

  長崎県大村児童センター

  出光興産港北クラブハウス

1970 最高裁判所庁舎(三宅坂)

  群馬県民会館(前橋)

  日立製作所大甕クラブ(日立)

  岡山少年自然の家

  岡山福祉センター

  児島市立総合病院

  筑波大学第一学群及び学系

1975 この間ミサワホームで個人邸を多数設計監理

  音楽スタジオのある家

  蔵の改造

1985 特別養護老人ホーム清風園

インド交流の出会い

私がインド人と日本人の心の交流を通して、「人間は互いに助け合い救済し合い豊かな(金銭的ではなく)人生(生活)をつくり上げたい」と考えるもとになったのは、今から50数年前、一人のインド人男性が日本に渡来してきたことから始まります。

第2次世界大戦のさなか、彼の家族はミャンマー(英領ビルマ)にいました。日本軍と東南アジアのインド人集結部隊が、インド解放を目指して進駐してきました。イギリス軍と日印混成軍との交戦の混乱の中で、彼(インド人少年)は父を失い家族ちりじりにされてしまいました。

後方支援を米軍に断ち切られた日本軍は、一人のインド人少年(当時15歳)を捕らえてジャングルに敗退しました。弾薬食料を断たれた日本軍兵士が、日々餓死していくのを目前にして、その少年は深夜、里に下り食料をかき集め日本軍に運び始めました。

ちりじりになった家族とも再会し、家族がかき集めた食料を数人の日本兵に運ばせ、部隊に戻るという数ヶ月の生活の中で、日本兵の規律正しさや同胞愛に感動し、日本語を覚えました。

日本軍の送還とあいまってインド人もビルマ人の迫害から逃れて帰国しなければなりませんでした。家族を集めてビルマからインドへ陸路、徒歩で2000キロの道のりを、途中母親及び3人の家族を山中に葬りながら2ヶ月の逃避行を続けインドにたどり着きました。

日本軍の送還とあいまってインド人もビルマ人の迫害から逃れて帰国しなければなりませんでした。家族を集めてビルマからインドへ陸路、徒歩で2000キロの道のりを、途中母親及び3人の家族を山中に葬りながら2ヶ月の逃避行を続けインドにたどり着きました。



インド人留学と母との出会い

帰国後、彼はインド国鉄で働きながら10年、日本に思いを馳せながら弟妹を支えて、25歳にして首都ニューデリーに単身出向き、夜間の大学に通いながら日本語を学びました。当時、インド文部省の国費留学生試験はファーストクラスのカーストしか受験できませんでしたが、国鉄職員であった彼は国鉄カーストの書き換えを得て、35歳にしてその難関を突破しました。

インドから海を渡って横浜にたどり着くや、長旅の疲労で骨と皮のようになった彼は救急病院に搬送されてしまいました。3ヵ月後、命を取り留めた彼は、東南アジア留学生用の寮を与えられましたが、寮での食事も思うように取れずに苦慮していました。

そのような彼を私の家に連れてきたのは母でした。すでに兄も私も家を出て働いていました。私が、狭く汚い我が家に帰ると、母、妹、そして私たち兄弟の部屋だった3畳間に浅黒い人が寝ていました。

その後、彼は慶応大学に進学しましたが、インド国鉄の紹介状を持って日本が開発中の新幹線研究のために日本の国鉄にたびたび足を運んでいました。



インドへの旅

帰国後、インド国鉄の研究所所長になった彼は、5年後に私の妹である秀子を、翌年(1968年)私を、インドに呼び寄せました。当時、一般国民は500ドル(1ドル=360円)しか国外へ持ち出すことができませんでしたから、客船の船底で1ヶ月かけてインドに渡りました。当時、私はすでに建築設計事務所に所属し、仕事をこなしておりました。


インドを北から南へ3ヶ月。一日一ドルの旅に自信を得た私は、スエズ運河動乱のさなか、アフリカ喜望峰周りで船旅1ヶ月、マルセーユに着きました。パリのJETRO駐在員の友人の所までたどり着き、出国前に日本在住の奥様に振り込んでおいた10万円の控えを見せて、友人から10万円分のフラン(米ドルにして277ドル)を貰って、EU13ヶ国をはじめポルトガル、スウェーデン、オーストリアと3ヶ月をかけて歩きました。

同じく、ロサンゼルスJETROの友人を目指してイギリス、アメリカに渡り、アメリカ滞在3ヶ月後にハワイ経由で日本に帰国しました。帰国したのは日本を出発してから1年が過ぎていました。これも、兄のようなインド人が励まし続けてくれた成果でした。


南インドでの学校設立


一年有余の貴重な旅を終えて、帰国翌日から、建築家であった私は新しい日本の最高裁判所の設計主任技術者として5年間携わりました。その間に並行して、茨城国体の際に両陛下を迎える宿として大甕クラブ改修設計、新規に開学した筑波大学の設計にも携わりました。

また、開港を控えた成田空港、始まったばかりの研究学園都市つくばを見据えて予科練の地・阿見町に土地を求めて脱都会を果たしました。

高齢になった母を、つくばの事務所に引き取って介護一年、母89歳の最後を看取りました。「香典をすべてインドの彼に送ってほしい」という母が遺した遺言にしたがって送金したのがボランティアの始まりでした。

インドの彼は、出身地である南インドの片田舎に土地を購入し、学校に行けない子ども達のための学校を設立しました。妹の名前を冠した、インド・秀子英語習得学校(Hideko English Medium School)を1992年に開校しました。

それ以降、この学校の維持経費が私と妹に委託され、わずかな寄付と二人の年金を投入してきました。インドの彼も老い衰えてきた機会に、私は意を決して70歳で一切の業務から手を引き、第二の人生をインドに踏み出すことにしました。

いま、私は多くの研究学園都市に来ているインド人研究者と親交を深めてきました。ここ数年は、半年をインドで生活し、半年は日本に帰るという生活で、インド人との交流をしており、インドへの援助に生きています。



この先は現在進行形です。
ひょっとした縁から、私が岡本さんと出会ったのは一年ほど前になります。




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