こんにちは、
個人でWEBメディアをつくりながら世界を旅している、阪口といいます。
24歳のときにWEBサイトを作る技術を学び、2012年には生計が立つように。PC一台あれば生計が立てられるようになったため、海外を旅しながら生活をはじめるようになりました。
東南アジアの国を巡っていたのですが、出国後しばらくしてから、それまで上がっていた報酬が、一度0円になったことがあります。2012年の12月頃。タイのノンカーイという、メコン川に面した、ラオス国境の田舎町に住んでいたときのことです。
これからどうしようかと悩んでいたとき、僕はその町でひとりの老人と出会い、人生の方向性を考えるきっかけをいただきました。今日はそのときの話をシェアさせていただきます。
ゲストハウスで暮らしながら、サイトを作る日々
そのとき僕は、1泊1000円のゲストハウスの部屋に長期で暮らしていて、部屋や近くのカフェで仕事をしながら、旅資金を稼ぐ生活をしていました。
ノンカーイという町は国境沿いの田舎町で、特にめぼしい観光地はありません。観光客も少なく、のんびりとしていて、
僕が当時
そしてとうとう、1円も報酬があがらない日が訪れました。
久しぶりに見た、0円の数字
久しぶりにみた、売上管理画面の「0円」という数字。
長期契約していたゲストハウスの窓の向こうの青空を見上げながら「どうしようかなー、、、」と頭を抱えていました。
僕はそれまで、ガラケーの携帯サイトを作り、その広告収益で生計を立てていました。
主に、携帯ゲームや着うた、占いなど、携帯で遊べるコンテンツを紹介する広告サイトを作っていました。月数百円〜数千円くらいを稼いでくれる数ページ規模の携帯サイトを、大量に持つような戦略です。
出国をしたときには、だいたい月30万円くらいの収益を出すことができていたのですが、この戦略が、みるみるうちに通用しなくなっていきました。
このままじゃジリ貧、、、
収益が激減した理由は色々あります。
ひとつは、スマートフォンの普及率が想像していた以上に早く、僕が当時メインターゲットとしていた若いユーザーの多くが、ガラケーからスマホに流れていったこと。
アクセス数は見る間に減り、とくに稼ぎ柱であったゲームや着うた系のサイトが、どんどん時代に乗り遅れていきました。
専門的な話でいうと、Googleのサイト評価基準がどんどん精度の高いものになり、コンテンツの質の低い小さなサイトが、検索市場で戦いにくくなっていたことも理由のひとつです。
サイトを作って一時的に収益が発生しても、翌月、翌々月には稼げなくなってしまうような状態になってしまいました。
どんなに仕事をしても、焼け石に、水。
このままこの戦略でサイトを作っていても、市場が目減りするのは目に見えている。しかもそのスピードは、僕が思っている以上に早い、、、。
せっかく自由な働き方が叶ったのに、外には常夏の青空が広がっているのに、机に向き合ってうんうん唸るを作る日々が続いていました。
俺「根本的に自分のやり方を変えなくてはならない、、、」
夕焼けに染まるメコン川の遊歩道をひとり歩きながら、これからどうあるべきかをじっと考えていました。
夢の生活が叶ったはずなのに、、、
PC一台でできる仕事をすれば、きっと、自由なライフスタイルが叶う。
当時25歳の僕は、そんな風に安直に信じて疑っていませんでした。
実際に海外には出国し、こうして南国で暮らす自由は手に入れた、でも、毎日何かに追われている感覚から逃げることはできませんでした。
ある日、青い瞳をしたアロハシャツの老人と出会う
ある日、川沿いの遊歩道の木陰でノートを広げて考え事をしていると、「何をしているんだい?」と英語で話しかけてきました。
顔をあげると、アロハシャツを来た白人の老人が、青い瞳で僕を見下ろしています。
「こんなにのんびりしたところなのに、君はなんだか忙しそうにしているね。何をしているんだい?」
俺「ちょっと仕事がうまくいっていなくて、、、」
アロハの老人「仕事? こんな国境の田舎町で、君みたいな青年が?」
俺「はい、どこでもできる仕事をしてまして、、、」
アロハの老人「どんな仕事を?」
僕はちょっと迷ってから、インターネット関連の仕事をしていること、WEBサイトを作りながら、記事を書いたりデザインを作ったりしながら旅をしていることを伝えました。
アロハの老人「それを、こんな田舎町でしてるのかい。ふうむ。君は日本人だね。」
俺「ええ、そうです。」
「君の仕事は、日本ではできないのかい?」
俺「もちろんできます。でも、もともと海外に出たくて。それで海外でもできる仕事は何かなって、この仕事を選んだんです。」
「なるほどね、、、。」
老人は興味深そうに頷きながら、「気分転換にご飯でも食べに行かないか?」と誘ってくれました。
その言葉を聞いたとき、
最初に浮かんだ感情は、
「俺にそんな暇ないんだよ!」という、理不尽な憤りでした。
考えなくちゃいけないものは山程ある。
頭の中がぐちゃぐちゃして、とてもじゃないけど誰かと話してなんていられない。
こうしている間にも報酬は目減りしていっているというのに、、、。そんな状態のときに、どうしてこの人はランチに誘ってくるんだ?
そんな、八つ当たりにも似た感情が湧き上がってきました。
俺「せっかくのお誘いですが、仕事があって忙しいので、、、。」
「ランチくらい行けるだろう。そんな暇もないのかい?」
俺「はい、24時間、仕事が詰まっていまして。」
「24時間?本当に?」
「、、、ええ。」
老人は「Crazy」とつぶやくと、僕に興味をなくしたように立ち上がり、「君は人生の使い方を間違っているよ」と言いました。
俺「人生の、使い方?」
アロハの老人「そうさ。君がどんな仕事をしているかわからないけど、そんな人生は、人生とは呼べないよ。君は、こんなところで、24時間仕事をするために生まれてきたのかい?」
その言葉は、頭にひびが入るような衝撃を与えました。
そんな人生は、人生とは呼べない。
反論しようにも、うまく言葉が出てきません。
僕がまごついているのを見て老人は、「いつもこのあたりにいるから、気が向いたら声をかけてくれよ」というと、アロハシャツの小さな背中を向けて、そのまま向うに立ち去ってしまいました。
僕の人生は、何のために使われるべきなのだろうか
アロハの老人「君はこんなところで、24時間仕事をするために生まれてきたのかい?」
その問いかけに、僕は答えることができませんでした。
パソコン一台で仕事をして旅をする。それだけで十分すごいじゃないか。そんな風に信じて、現状を直視することを避けていたように思います。
でも、僕が本当に叶えたかった状態は、
たとえばあんなふうに異国の街で誰かと出会い、
ランチを食べ、
言葉をかわし、
外国語を話し、
自分の知らない世界を見聞きするために、この働き方を選んだのではなかっただろうか。
そんな風に思うと、誘いをかけてくれた彼に、どうしたあんな感情を抱いてしまったのかという後悔の念にさいなまれました。
もしかしたら何か、僕の人生観をくつがえすようなヒントがその中にあったかもしれないのに。僕はその機会を捨ててしまった。
それから僕は、自分の仕事のあり方を根本的に変えることを決めました。
自分の仕事のあり方を再構築しよう
2011年に起業をしてから、作ってきた携帯サイトの全てを、僕は捨てることにしました。
ガラケーの小さなサイトを数多く作るのではなく、PCやスマホ対応の大きなコンテンツサイトを、時間をかけてつくること。
作るサイトの数が少なくなれば、複数のことを一度に考える必要がなくなります。
また小さなサイトに比べて、大きなサイトのほうが一度安定すると、長く収益を運んできてくれることも知っていました。
そのため僕は、もう寿命が長くないガラケーサイトの更新や、作成業務を止めることにしました。報酬があがる、あがらないも考えない。
そして自由になった時間で、これまで数百サイトをかき集めて達成していた収益を数サイトだけで達成できるような、そのメンテナンスだけで生計や旅が続けられるような、そんな「資産」となるようなサイトの着手にとりかかりました。
それまでとは真逆のことをやるので、その間、報酬は当然ながら激減します。
ただ、1食100円で済んでしまうタイの物価にも支えられたこともあり、レストラン食事をする回数を減らしたり、ゲストハウスのランクを下げて生活費を捻出。
サイトを作るスキルはもともとあったため、3ヶ月後には、それまで数百もの携帯サイトであげていた報酬を、2-3サイトで上げることができるようになりました。
自分の人生は何に使うために用意されているのだろうか
自分の人生を、どう使うか。
それは、単にお金を稼ぐだけではなく、その中身や内訳こそ、考えなくてはならないのだと思います。
仕事をして稼ぎがあっても、それに忙殺されてしまえば、自分の人生を、思う通りに使うことはできません。
どんな仕事で稼ぐかということだけではなく、その働き方は「どうあるべきか」も考えなくてはならないのだ、それを、この一件で学びました。
あれから3年半。仕事の内
僕はWEBサイトを作成しながら、国内外を旅する生活を続けています。
2014年には結婚をして、妻とふたりでその生活をするようになりました。
環境が変われば、
「自分がどうあるか」という、自分のあり方への試行錯誤は、今後も変わらないのだと思います。
その後、再びあの老人に巡りあうことはなく、僕はその町を離れてしまいました。
もしいつか、彼にランチに誘われることがあったら
「もちろん!」
と笑顔で答えられるような、そんな自分で常にいたいと思っています。
あなたは今、自分の人生をどのように使っていますか?