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体型をバカにされ中学3年間いじめられてた私がモデルになるまで

Image by Olia Gozha

こんにちは宮野百可です!福岡から上京して、現在は東京でモデルをしています。

中学校の頃は、体型でいじめられて毎日この世から消えたいと思っていました。でも、そんな私がモデル業と出会えて、目標を持ち努力することを学び、今では人を笑顔にできるモデルになりたいと思っています。

ここでは、これまでのことを綴れたらと思っています。
当時の私のように、毎日に希望が持てずにいる人が、すこしでも前を向きになってもらえたら嬉しいです。

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世の中から消え去りたかった中学3年間


私は中学3年間、ずっといじめられてた。登校中は冷やかされ、下駄箱に行くと上靴はない。教室に行って扉を開けると笑われ帰れと言われ、席替えで隣になればわめいて嫌がられた。授業中には消しゴムのカスを投げられて、発言すると「調子のんなよ!」と言われる。紙くずの沢山入れられた私のロッカー、せっかくお母さんが作ってくれたのに食べ物が喉を通らなくて残す毎日の弁当、笑うだけで男子に気持ちがられる昼休み、私が動くだけで1日何度も舌打ちされて、しねと言われながら廊下を歩いた。あげるとがキリがない。


体型をバカにされ、「ガリ子ちゃん」「もやし」「ごぼう」と言われていた。


きっかけは、小学校からの親友の子だった。中学に入った途端、その子が私の体型についての陰口を言い始め、それを機にその周りの子たち、他のクラス、男子にまで広がって気づいたら学校中沢山の人たちに嫌われていた。自分は何もしてない。

泣いて歩いた帰り道、その子の親に「大丈夫?嫌なことでもあった?なんでも言っておいで」って言われたときはみんな死んじゃえって思った。あんたの子にあたしは人生を狂わされてる。なにヘラヘラ生きてるんだと思った。怒りで震える体、溢れる涙を見せながら笑顔でその場を去った。

一人ぼっちだった。そんな毎日が続くなか、私は自分が何のために生きてるのかわからなくてこの世の中から消えることばかり考えていた。

でも、そんな生活の中、唯一嫌なことを忘れさせてくれるのがテレビだった。
面白い芸人さん、キラキラ輝くアイドルやモデルさん。テレビを見ている時だけ、心の底から笑うことができた。私とは全くの無縁な人たち。いつもかじりつくようにテレビを見ては、「自分もこんなに愛されてキラキラ輝く人たちに生まれたかった」と思った。


ふと、いじめられ慣れしている自分に気がつく


学校ではいじめられ、家では引きこもってテレビを見続ける中学校生活も月日が経ち高校受験の時期になった。


夜、お風呂上がりにドライヤーで髪を乾かしているときに、

「あー学校行きたくないなあー」

その時ふと、

「ん、、ちょっと待って。なんで毎日毎日こんな風に、あんなどうしようもない人たちの事を気にしてるんだろう」

学校でのいじめやからかいが日常と化し、からかわれることに慣れてしまってる自分がいることに気づいた。

たぶん今まではいじめられていることにしか意識が向かなかったけど、

受験や塾だったりと学校のこと以外に意識を持つことによって、少し客観的に自分を見るこ とができたんだと思う。


父がくれた新聞の切り抜き「美少女コンテスト」の文字


中学3年間を終えて高校に入学してまもないある土日。

いつも通りだらだらとテレビを見ている私。すると、横で新聞を読んでいた父が、


「これ受けてみたらどうだ?」と一言。手には新聞の切り抜き。


見ると、「美少女コンテスト」の文字があった。


「なんで!?頭おかしいんじゃないの」


「たまにはこう言うのも受けてみたら、世界が広がるかもよ」


その時の私は、父の行動全てにイライラしておりとりあえず「うん、わかったよ」と軽くあしらってその切り抜きを適当にポイっと放り投げたが、父が場を離れたあと気になって切り抜きを眺めていたら、母親がやってきて「いいじゃん、やってみれば」と促されて、しぶしぶ履歴書を送ってみることにした。


「無理に決まってるから!!何言ってんの!」という感じでムキになっていたけど、

テレビの世界はそれでも憧れの世界だったし、興味が無いわけではなかった。それに、心の中では何か自分を変えるきっかけを掴みたいとは思ってたんだと思う。とりあえず、受けてみることにした。


受かっちゃった...

2週間経ったある日。テレビでよく聞いたことのある大手芸能事務所から私宛に封筒が届いていた。まさかと思って開けるとそこには、

「書類審査合格」の文字。

頭が真っ白になった。こんなさえなくて地味で人前に出ることを避けて嫌われて自分に自信のかけらもなかった自分が、受かるなんて思ってもなかった。


会場は東京の青山。

当時、いじめがひどかった中学時代、同級生に会うかもしれないのが嫌で、歩いて5分のイオンにも行けず、ずーっと引きこもっていた。

そんな私が初めての東京。母親がついきてくれたとはいえ、なかなかの冒険だ。

でも東京という、私のことを誰も知らない土地に行くのはあまり抵抗がなかった。地元を歩いてると私の敵しかいないという感覚だったから、遠く離れた場所にはその感覚が無くてよかった。地元にいる私しか知らない私が違う土地でどう変われるのかという期待の方が大きかった。

逆に、ホテルに向かう時も緊張してこの格好と髪型で歩いておかしくないかとか、そこに向かう途中もこの子もオーディション受ける人なんだろう...かわいいなとか、そっちの不安がとてもあった。

そして、いよいよオーディション会場に到着。

同い年なのにこんなにもかわいくてスタイルが良い子たちが世の中にはいるのかと思った。



30人の審査員。ある審査員からまさかの一言


いよいよ自分の名前が呼ばれて、部屋に入る。目の前には、審査員が30人ずらっと並ぶ。その真正面に立った。


キリッとした目つきで見られている。


「調子乗ってんじゃねえーよ」


中学時代の記憶がフラッシュバックした。クラスで発表、手を少しあげようもんなら、同級生がからかってきた。手を上げなくても先生が当てて来る時は、先生あてないでと願っていたほどだった。


「15番、宮野百可です...。」

「出身地は福岡県で、と、特技はピアノと水泳です。」


がんばろうと思ったけど、人見知りを爆発させてしまった。

表情も硬かったし、声も小さかったと思う。


オーディション後、結果は会場ですぐに伝えられた。


二次審査は不合格だった。


「やっぱりダメか・・・。」

そう思っていると、1人の審査員の方がオーディション後に声をかけてくれた。


「残念だったわね。でも、あなたのスタイルは抜群だわ」

「え?」

「今まで何かやってこなかったの?」

「???」

ちょっと何を言われているかわからない。


「だから、何かやってこなかったの? その体型をいかして。」


私は中学3年間、「もやし」とか「ごぼう」とか「ガリガリくん」とか体型について、散々いじめられていたのに、まさか自分の体型が褒められるとは思いもしなかった。

その方が声をかけてくれたおかげで、「もしかしたらこの世界で挑戦できるかもしれない」という小さいでも確かな想いが、心に芽生えた。


そこから徹底的にこの世界にのめり込みたいと思うようになって、ほかの オーディションも受けまくってモデルさ んのブログを全て隈なくチェックしてメモったりして美容ブックみたいなのも作った。そして、今私のことをいじめてるやつらを絶対に見返す。ってことだけを考えた。

絶対に見返す。自分はどうやったら変われるのか


そこからは必死になった。

「自分が自信を持つためには、どうしたらいいか?」と考え、紙に書き出した、落ちた理由も書き出した。

「猫背だったから落ちた、ハキハキしてないまばたきが多かった」


これまで自分ができていなかった

・人前に出た事がない

・人前で話した事がない

・人前で関わったことがない

・根暗だった。とにかく元気、猫背だったから姿勢をよくしよう

・笑った事がなくて、笑う筋肉が固まってた


鏡の前で、笑ってみたりもした。

当時の私は、本当に笑う回数がすくなくても笑う筋肉が固まっており、顔が引きつってうまく笑えなかった。


とにかく必死だった。

オーディションでしか自分をさらけ出せるためには受かるためには何でもする

モノマネとか、変顔とか好きな事をさらけ出してやってやろう。

怖いものがなかった。


「だから、何かやってこなかったの? その体型をいかして。」

最悪だと思ってた自分の毎日に、唯一差し込んだ光だったから。
これを逃したら絶対に後悔する。進んだ方が絶対にいい。

後悔するなら、やって後悔した方が絶対にいい。

ある日、テレビを見ていたら、ちょうど福岡である「ファコ」というファッションショー(福岡アジアコレクションという九州では1番大きなファッションショー) が開催されるCMをみた。プロのモデルをこの眼で見たい。すぐチケットを取り見に行ってみた。

T字の形をしたステージをスポットライトが眩しく照らす。溢れる人、高まる熱気。

そして、BGMが鳴り響き、颯爽とランウェイを歩いてきたのが、エビちゃんだった。人生で初めて見たプロのモデル。人を見てこんなに衝撃が走って涙が出たのは初めてだった。自分はモデルになりたい、モデルになると思った瞬間だった。


それからショーを見て何が自分に足りないのかどうすればキラキラ輝けるのか、どうすれば受かるのかものすごく研究した。たくさんオーディションを受けて、自分に欠けていた点をチェックして、それらを完璧にしてまた別のオーディションに挑む。


オーディションに受かっていた訳じゃないけど、気づいたら高校では周りに憧れられるような存在になっていた。

中学生の頃は私の体型を見て笑われていたけど、高校に進むと逆に羨ましく思われることが多くなった。周りに芸能界を目指している子もいなかったし、体型は変わってないけど、自分の行動と自分(の体型)に対する意識が変わったんだと思う。

変わるだけで周囲はこうも変化するんだと思った。


ついに、人生で初めての賞をもらった



高校1年のオーティションから3年後。専門学校1年生の頃、ついに、ジュノンガールコンテストベスト19という賞をもらった。人生で初めての賞だった。



今まで自分が頑張ってきたことは、無駄ではなかった。


また賞をとったことをどこからか聞きつけたのか、かつて自分をいじめていた人が態度を変えて、自分に近づいてくるようになった。

インスタで連絡がきて、「今度一緒にご飯に行こうよ」と言われたり、「私の友達がモデルやってるんだよ〜」と私のことを他人に紹介したり。



ジュノンガールコンテストベスト19をいただいたあとも、

私がランウェイを歩くエビちゃんに感銘を受けた「ファコ」に毎年見に行った。

モデルになる事を決めたこのショーで、私もいつか歩きたい。

ネットでたまたまファコに出るチャンスという記事を見つけ、すぐに応募した。

2次に受かり3ヶ月間レッスンを受けられる権限をもらった。3ヶ月のレッスンを終え、合格した者だけがファコを歩けるというもの。レッスン費は一ヶ月50,000円。親は払ってくれる訳ではなかったので学校に通いながらもアルバイトをして自分で全て払っていた。

あれだけ大変な思いをして稼いだお金を全てレッスン費に当てたのに、合格しないなんてことは考えられなかった。死んでもファコに出てやるという気持ちで毎日必死にウォーキングをがんばった。

そして3ヶ月後、オーディションの日。
福岡で唯1人だけ、ファコで歩ける権利をもらった。

しぬほど嬉しかった。


本番当日、ファコを歩いてる瞬間は緊張などなく、ただひたすら気持ちが良くて快感で、こんな幸せな空間がこの世にあるんだと思った。







ランウェイでエビちゃんの横をすれ違ったときに、私はこの人に憧れて高校から磨いてきたんだと思って涙が出そうになった。

眼の前で見るエビちゃんは人間とは思えないくらいかわいくてオーラがすごい。私はまだまだ。私は一つ課題はクリアしたけどここで終わりじゃない、ここからがスタートだ。そう感じた。



就職後の苦悩「自分はどこに向かっているんだろう」


でもその頃ちょうど専門2年。就活の時期だった。




(航空関係の専門学校時代)




専門学校に通ってるからには就職しなければならない。


「このままモデルを続けたい...でも...」

先生に相談したらやはり就職は避けては通れない道だったから、

「モデルは諦めなければならない」

と自分の中で何度も言い聞かせて、頭を切り替えて就活をするしかなかった。
面接を受けるたびに、本当にこれでいいのかと何度も頭をよぎった。

悩んだ挙句、私は就活をすることを選んだ。

ANAに受かってグランドスタッフとして入社した。

でも、気がつけば毎日泣いていた。


スタートした初めての一人暮らし、毎日会社のタスクに追われる日々が辛かったのもある。頼る人がいないし、全部自分1人でしないといけない不安はあった。


でも何より、「やっぱりどうしてもモデルがしたい」と言う気持ちがあった。

私を変えてくれたのもモデルの経験。そのモデルの道から離れることが不安だった。自分の大切なものを置き去りにするような気持ちだった。

「自分はどこに向かっているんだろう」と思う毎日。このまま続けてるとチーフになって、、と言う風に自分の人生の未来の道が見えてしまった。もちろんANAのグランドスタッフも素晴らしい仕事。でも、私がしたいことはこれじゃないという思いが日々強くなっていき、気づいたら毎日泣いていた。



「私は、やっぱりモデルになりたい」


「私は、やっぱりモデルになりたい」と強く思ったちょうどその時、ファコ出場後にスカウトしてもらった事務所から1本の電話があった。新しいモデルタレント事務所「マイストーリー」を設立する話で、私には第一期生で活躍してもらいたいと聞かされた。


このタイミング、私は確信した。これは絶対に偶然じゃない。

自分はモデルで生きていくんだ。


ANAの先輩たちに自分の思いをきちんと告げた。皆さん応援してくださった。
そうしてANAを退社した。


人生の未来の道は見えなくなったけど、心は晴れやかだった。

あとは自分で、道を切り開くしかない。


応援してくれる家族、友達、仕事の先輩、みんなに恩返しができる立派なモデルになるまで、私は歩き続ける。そう決意した。


落ちれば辞めます
目指すは、東京ガールズコレクション




(  福岡の事務所所属時の広告 )




新事務所「マイストーリー」がスタートした初日、



私「北九州の東京ガールズコレクション(TGC)に出たいです!」


正直120パーセント無理だと思ったし、口だけでも大きいこと言っておこうくらいの感覚だった。


マネージャー「よし、じゃあそこに向かって突っ走ろう」


と、マネージャーが本気で共にその夢に向かってくれ、もう引き返せなくなった。


そうして始まったモデルとしての毎日。正直所属してて楽しいばかりじゃなくて悩むこともたくさんあって逃げだしたいと思うこともあった。


でも、その度に、

マネージャーが「TGC出るんだろ?」と焚き付けてくれた。
無理だしって思いながらも、「そうですね」って言いながら前を向いてきた。


TGCは、やっぱり憧れ、1番の夢のステージ。

くじけそうにも沢山なったけど「いつかはあの舞台に立てるモデルにならないと」って思いながら進んできた。


そして、1年半が経過した時、マネージャーから1本の電話があった。


マネージャー「ももか、ライン見た?お前これは絶対受けなきゃだろ!」


そこには、「東京ガールズコレクションin北九州。市民モデルオーディション」と書かれている。北九州市民の中からTGCのステージに立つ人を選抜するためのオーディションだった。


「これだ!!!」


私はすぐ応募した。自分を追い込みたかったから、

「これに受からなかったら私はモデルを辞めます」と言った。その覚悟でいた。
それくらい人生をかけてオーディションに臨んだ。

まずは一次審査。

応募総数251人から、50人が二次審査に進める。

書類を送って無事受かることができた。


次は二次審査だ。審査会場に到着すると想像してたよりも遥かに多くのテレビカメラや記者の方達がいた。大きなプロジェクトなんだなと、胸が高鳴る。


二次審査は、ウォーキング、自己PRだった。

ウォーキングには自信があった。いつも通り、ありのまま自分を表現した。自己PRでは、どうしてここの舞台に立ちたいのか、包み隠さず今までの思いを全て伝えた。これで落ちても悔いはないってくらい出し切った。


6年前、あの日の自分は自分を出せなかったけど、今なら出せる。

もう猫背じゃない。もう口ごもったりしない。

自信を持って自分を伝えられる。


二次審査では、50人から最終審査に進むことのできる10人が選ばれる。


ここで選ばれなかったら...。不安を抱きつつ、祈った。

そして、やっと8番目に私の名前が呼ばれた。その瞬間一気に力が抜けた。


選ばれた10人前はカメラの前に並び最終面接の抱負を話し、

その後1時間、何社ものTV、新聞の記者たちのインタビューに答えた。



「あとは、最終だけだ。」



最終審査は、小倉にある大きな商業モール内での公開形式だった。
お母さんとお父さんが会場まで応援にかけつけてくれた。


だけど、私は(面接を受ける自分ではなく)TGCのステージに立ってる自分を見て欲しかったので、


「ここで大丈夫、絶対受かってくるから」


と伝えて、会場の外で別れた。

見に行きたかったみたいだけど、


「ももかを信じるから頑張って!!」


って送り出してくれた。

そして、最終審査がいよいよ始まる。

審査員には、モデルのラブリさんも。沢山のカメラが並ぶ。


「ここはオーディション会場ではなく、TGCのステージだ!楽しもう!!」


ついに私の番が来て、思い切りオーディションを楽しんだ。

私は全てを出し切った。だから、落ちても悔いはないし、落ちたとしたらそれが自分の実力だと思い、結果を待った。


10人の中から4人が選ばれる。

発表は、ラブリさん。


マイクを手にしたラブリさんが、そのきれいな手で結果の書かれた小さな白い紙を広げて、口を開いた。


ーーー


小学校時代の親友がきっかけで始まったあの日々。毎日「もやし」「ごぼう」とからかわれ、いじめられ、消え去りたいと思っていた中学時代。そんな私に新聞の切り抜きを渡してくれたお父さん、背中を押してくれたお母さん。不合格だったのに、声をかけてくれたあの審査員の方のことば。


人生で初めて自分が認められたような気がした。

唯一のチャンスだと思った。真っ暗な中に差し込んだ、たった一筋の細い光。

だから、ずっとやってきた。抜け出すために、あそこから。自分を変えたくて、

あいつらを見返したくて、もうお母さんやお父さんには心配かけたくなくて。おばあちゃんには元気になってもらいたくて。


応援してくれたANAの方、バイト先の方、二人三脚でやってくれたマネージャー。

みんなに感謝を表したくて。


自分以外の誰かに左右されるのではなく、自分の毎日を、自分の人生を、自分の意志で描きたかった。胸を張ってちゃんと生きて行きたくて、ずっとずっと、がんばってきた。


生きる希望のなかった私に、希望を与えてくれたモデルという業。


ここで全てが決まる。

私のモデルの人生、今までの努力。


すべてが決まる瞬間だった。


運命の瞬間


「エントリーナンバー8番。宮野百可さん!」


私の名前が呼ばれた。シャッターの音が鳴り止まない。光に包まれ、目の前が真っ白になって何が起きたか分からなくて、一気に涙が溢れてきた。夢みたいだけど夢じゃない。これは夢じゃない。


本当に、今まで頑張ってきてよかった。本当によかった。涙が止まらない。


1番の夢のステージに立てる。


信じられない。



やったよ。私は、やったよ。


その後、北九州市長とラブリさんと一緒に新聞やTV用の写真を撮って、そこからまた1時間各TV局の取材を受け、数週間に渡るNHKの密着取材が始まった。


お母さんに合格報告。みんなが喜んでくれた


そこからやっと両親に結果を伝えることができて、


電話をかけると、お母さんが出て、

「受かったよ!!!!」


って言ったら

「うそーーーー!良かったね!!!!ステージ楽しみ!連絡ないから受かったんかな?それとも落ちて泣いてるのかなって心配だった!」


すごく喜んでくれた。

いい報告ができて本当に良かったと、心の底から思った。


そうして、あっという間にリハーサルの日を迎えて、一緒にペアで歩く男の子と顔合わせをして、あっという間に本番の日。

NHKの密着取材でずっとカメラが回っているからホッとしてる暇はなかった。
控え室や廊下ですれ違うモデルさんはみんなテレビで見たことがある人で、プロのモデルさんを間近で見て、その立ち振る舞い人気な理由など分かりとても勉強になった。

いよいよ本番。


ステージはこれまで見たことのないほど大きくて、観客席にいる溢れるほどの方たちは、みんなきっと誰も私のことを知らないのに、私に向かって手を振りキャーキャーと歓声を上げてくれた。


ずっといじめられっ子だった私が、こんな日を迎えるなんて思わなかった。






( 写真右 )


そして、北九州の会場にはおばちゃんが見に来てくれていた。


おばあちゃんには、いつも落ち込んでいる姿ばかり見せてしまっていたので、そんなおばあちゃんにキラキラしてる自分を見せられて、本当によかった。





上京


今、私は福岡を離れて東京にいる。


東京ガールズコレクションへの出場をきっかけに「東京へ行きたい」という想いが強くなった。これまでずっと二人三脚でサポートしてくれていた事務所「マイストーリー」にもお伝えし、2018年の4月に事務所を離れて、都内にすぐに家を見つけ5月には上京した。



人脈は0に等しいから、自分の写真や実績を載せたブックを持って、東京の事務所を自分の足で回っている。まだ事務所には所属できていないけど、いただいた人との繋がりでお仕事をさせてもらっている。


東京は時間の流れが速いし、人との出会いが多い街だ。

知らないこと、新しいことばかり。でも、不安はなくてワクワクしかない。
学生時代にやってしまうような事を私はやりそびれたから、逆に今の自分にはやりたい事が沢山あるし、あの時より下に行く事はないと断言できるから。


福岡にいるお父さん、お母さんも、

「(お父さんたちは会社員だけど)そういう生き方もあるんだなって、ももかに教えてもらってるよ」と応援してくれている。


かつては見返すため、でも今は人を笑顔にするために


私が今モデルでいられるのは、いじめられてたからだと思う。
だから、今ではいじめられてた過去もよかったと思ってる。

学校にいかないと、お母さんに「何があってもいけ!」とよく怒られた。

当時は嫌だったけど、あの日のお母さんには感謝してる。

学校で味わった悔しさが、私の原動力になったから。


私はものすごい力を持ってるはず。過去から現在を見てきて、何一つ無駄なことはなかったし、180度自分の力で切り開いてきた。だから現在から未来も必ず道は開ける。自分の道は間違ってない。あるべくしての今。一つ一つ積み重ねて行けば大きなものになる。



人生は一回だけ。笑うも泣くも悩むも一回だけ。

自分は自分、自分の人生だ。人のことなんか気にしなくていい。

私には私にしか伝えられない私がいる。


人生どん底のときにテレビに出ている人に憧れ影響を受けて人生が変わったように、

そして、ファッションショーで衝撃を受けてここまで来たように、

これからは、私も人の心を動かしその人生を変えられるような表現者になりたい。


私の笑顔の力で周りの人の笑顔を咲かせたい。

どんなときでもみんなの太陽のような存在でいたい。


笑顔にさせてもらったから、私は変われた。

だから、私も人を笑顔にしてあげたい。


毎日あんなに悩んで、泣いて帰ってたあの頃の自分に

「もう大丈夫だよ」って、伝えてあげたい。


だから、私は今日もまた新たな目標に向かって挑戦ができる幸せを噛み締めながら生きています






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