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父子家庭パパ13年目、上の子の20歳の誕生日。僕にこんなLINEが届きました。

Image by Olia Gozha

たった一人、男手一つで子供2人を育てるという僕の挑戦は、あれから13年の月日が流れた。
子供たち2人を引き取った時は、上の子はまだ8つだったから、この一区切りには感慨深いものがある。 それは、生きた心地のしない地獄のような父子家庭生活の日々を、3人で肩寄せ合い、励まし合い、時にはケンカをしながら乗り越えた長い長い苦難の末の到達点だからなのだろう。
父子家庭生活を経て、僕が得たものは一体何だったのだろうか。 今では子供たちもすっかり手がかからなくなり、自分の時間も持てるようになった。 ふとこれからの自分に残された人生の時間を考えてみるのだが、子育てを終えた後の自分の人生をうまく思い描くことが出来ない。 それは、自分の人生と引き換えにしてでも乗り越えなければならなかった、たった一人で挑んだ父子家庭パパとしての代償なのかもしれない。
これについては、もっとゆっくり時間をかけて考えねばなるまい。

8歳と4歳の息子たちを連れ、たった一人の父子家庭生活は13年の月日が過ぎ、僕の髪にもちらほら白いものが目立ち始めてしまった。 30歳の時に子供たちを引き取り、今では43歳。 はたして、人生において子供を育てるという事だけに費やしたこの長い時間は、僕や子供たちにとって意味のある時間だったのだろうか。 すっかり時間を持て余すようになったおかげで、毎日そんなことばかり考えてしまうのだ。
それだけ、子供を育てるという責任は重い。
13年間の父子家庭生活の末に、長男が20歳になりました。


半ズボンに野球帽、腰には大好きなカードゲームをぎっしり詰め込んだお気に入りのウエストポーチを括りつけるというのが外遊びの基本スタイルだった子供たちも、今ではスーツを着込なし、身長は遥か上を越されてしまった。


20分の13を父親と弟との3人暮らしで過ごした長男にとっては、きっと満足のいく幼少期ではなかっただろう。 今になって考えても、あの生活は酷かった。 20分の13の彼の大事な人生を、今でもこれで良かったのだろうかと悔やんでいる。

僕も幼少期、友人たちと比べ、それほど恵まれた環境では無かったと記憶している。 ふと、そんなことまで思い出した。
年老いた両親の元生まれ育ち、特に食うに困った記憶はない。 ただ一つ、他のご家庭と違う点は、小学2年生の時に定年を迎えた父が、それから死ぬまでの20数年間、重度のアルコール依存症だった、という事だ。 毎日酒をあおっては暴れまわる父を、忌み嫌っていた。 定年を迎え、酒に溺れる前の父はとても優しかったから、当時小学2年生の僕にはまさに天変地異であり、突如異国の地に放り出されたような喪失感が、記憶のあちこちにべっとりと塗りたくられている。

大人を信じることが出来ず、誰に対しても心を開けぬ蝋人形のような子供だった。

自分の心を開放しすべてをさらけ出したら最後、ありとあらゆる理不尽な感情があふれ出し、殺人犯にでもなってしまうのではないかという、途方もない試練に立ち向かわねばならなくなりそうで、幼心にがっちりと蓋をし、それから数十年の間、心のカギを開けたことはない。
今になって思うが、きっと僕は親から見れば面白くも可笑しくもない子供だったはずだ。 母親の葬儀の時近親者の全てに「お前はお母さんには可愛がってもらえなかったからな」といわれた。
今になって思う。 親になるのは大変だ。 子供を育てるというのは、不安で孤独だ。 きっと僕の両親も、悩み悔み、抱えきれない何かと葛藤していたに違いない。 でも、幼いころはそんなこと考えられなかったから、大人の事情の板挟みの中で、心に固くカギをかけた。
そして、心にカギをかけ、他人に心を開かない子供だった僕は、自分の周りの者がすべて敵に見える、異常に用心深い人間になった。
だから僕は、他人に本当の意味で心を開いたことがない。
自分が20歳の時は、親に対する感謝の気持も自分自身の人生に対する期待感も、何もなかったのを覚えている。
温かい家庭にあこがれ、誰かと家族という物になりたくて、僕はある日結婚したけど、僕の奥さんになった女性は、子供たちを置いて出ていった。 理由はいろいろなのだろうけど、もうそんなことは考えなくていい。 考えたところで、もう一度人生をやり直せるはずはないのだから。

結婚して長男が生まれたのは23歳の時。 早く結婚して家庭を持ちたいという憧れは、家族という温かいぬくもりを知らずに育ってしまったことへの反動だったに違いない。 僕なら、温かい絵にかいたような、そう、まさにテレビCMのような家庭を築けると、なぜだか勝手に信じていた。 そして夫婦揃って子供たちを愛情たっぷりに育て、子供たちも親の言うことをよく聞きすくすくと成長するものだと、信じていた。
10年間の結婚生活の末、家族は崩壊し、僕は子供たちを引き取って父子家庭パパとなった。 その当時の内容に関してはSTORYS殿堂入りの「父子家庭パパが~」を読んでいただくことにして、ここでは割愛させていただく。

他者に心を開けぬ僕が唯一心を開けたような気がするのは、子供たちだった。 それは、父子家庭生活に突入し、子供たちの面倒を一人でみなければならなくなったころから、いつ死ぬかもしれぬ貧困のどん底にあえぎ、明日が来るかどうかも不安な日々の繰り返しの末に、開き直ったのだと思う。 いや、開き直らねばならぬほどに追い込まれていた、というのが正解だ。
子供たちを信じ、自分自身を信じなければ、たった一人男手一つで子供たちを成長させるのは無理だった。 僕は皮肉なことに、父子家庭パパになり、たった一人で子供たちと否応なく対峙しなければならなくなってとうとう、がっちり蓋をした心に「信じる」というカギを差し込まざるを得なくなったのだ。 信じることは生きること、信じた先に必ず明日がある、日々そう呪文のように念じていた。
確かに僕は、子供たちと向き合い、信じるという行為で自分の中の何かが劇的に変わったような気がしている。 うまく表現できないけど、より人間らしくなったような感じなのだろうか。


でも、葛藤はあった。 人を信じるという事が、これほどまでに苦痛なものなのかと、親の気も知れず好き勝手に生きる子供たちに、日々悩まされ続けていた。
やがて子供たちは成長し、21世紀だというのに、日本国憲法で保証された文化的な生活とやらすらも危うい極貧にあえぐ生活環境に我慢の限界をきたし、ことあるごとに反発し反抗し続けたのだから、信じると裏切られるのドミノ倒しのような日常に、僕の精神にも異変をきたし、気力の崩壊の末に、無気力へとたどり着いた。 たった一人で子供を育てるという僕の挑戦は、過酷を極めていた。 子供たちを信じては裏切られの繰り返しではあるが、たった一人の子育ては、やはりどんな状況でも子供たちを信じることでしか成立しない物なのだ。 信じるというその1点が揺らいだ時に、僕達は途端に明日を見失ってしまう。 日々好き勝手に遊びまわる子供たちに嫌気がさすのだが、歯を食いしばって子供たちを信じ続けた。
何の確証もない。 信じることの果てに何を生むのか、そんなことを考えていたら永遠に僕たちに明日はやってこない。 とにかくひたすらにやみくもに、素晴らしい明日がやってくることを、そしていつかこの苦労が報われる日が来ることを、ひたすらに信じ続けた。
下の子は学校もろくろく行かずに家出を繰り返し、上の子はバイク事故で生死の境をさまようまでに滅茶苦茶になり、もう最後の最後には、今生きているという極々単純なことにすがらねばならぬ程、子供たちの成長の過程で報いを感じられたことは、ない。
たった一人で挑んだ父子家庭パパという生き方の成れの果ては、収拾のつかない現実と、どうにでもなれという開き直りだった。
こんなはずじゃなかった・・・ これがたった一人で子育てに没頭した、13年の結末だったように思う。
全てが子供たちのためだと歯を食いしばり生きては来たけど・・・ これに何の意味があったのか、これで良かったのか、本当は今でもよくわからない。 後悔しているのかと聞かれれば、恐らく後悔しているのだろう。 もし、父子家庭と言う枠組みの中で生きていかなくても良かったのだとしたら、そうしてあげるべきだったのではないかと、日々悔やんでいる。 それだけ父子家庭として生きた時間は過酷で、多くの物を失ってしまったような気がするのだ。


それからしばらくが過ぎ、バイク事故で生死の境をさまよった息子は、19歳の時に自分の意思で家を出て一人暮らしをはじめた。 命を失いかけた経験で、彼なりに何か思う物があったのかもしれない。
僕が子供たちの成長を保証するという立場もだいぶ肩の荷が下り、自分自身の時間も持てるようになり、今ではすっかり人間らしい暮らしをさせてもらっている。
ひっちゃかめっちゃかやっていた2人の子供たちも、思春期を超え一回りたくましくなり、僕の手を煩わせることもだいぶ少なくなった。
先日友人と2人で鎌倉まで日帰り旅行に出かけた。 僕は茨城に住んでいるので、鎌倉はちょっとした遠出だった。 日帰り旅行とはいえ、こんなふうに自分の時間を持てるのは十年ぶりくらいだったので、うれしくなって鎌倉駅の写真に「いま鎌倉に遊びに来ています」と添えて下の子にLINEをしてみたら、すぐに「パパが自分の時間を使ってどこかに遊びに行くなんて、僕の記憶にはありません。今まで大変だったんだから今日は楽しんできてよね」と返信が入った。
生意気言いやがってとLINEを読みながうそぶいたけど、なんだか温かい気持ちにさせてもらった。 これが成長という物なのだろうか。
家を出た上の子は、初めは引っ越し先で大騒ぎをして追い出されそうになっていたけど、すっかり落ち着いて、一人暮らしもい板についたようだ。
今では顔を合わす機会も少なくなってしまった。
バイク事故で生死をさ迷い、家を出て自立をしながら迎えた20歳の誕生日。 一人の大人として、誕生日だからと言ってあえて連絡もしなかったし、プレゼントも用意しなかった。 僕にとっては感慨深い特別な日だったけど、父親としてベタベタするのは止めようと思った。 このそっけない態度が、大人になっていく彼への、20歳の誕生日プレゼントのつもりだった。
そんな僕の気持が分かっていたのかどうかは知らないけど、彼は20歳の誕生日にこんなLINEをくれました。

子供たちの成長を見守りながら過ごした日々の中での苦労が、孤独が、悔しさや憤りが、喜びや希望が、そして、信じ続けた13年間が、優しい雨で洗い流されるように、そこにはこんなことが書かれていました。




「今まで育ててくれて本当にありがとうございました。20歳を迎えることができました」



果たして13年間の父子家庭生活は、僕達に何を与えたのでしょうか。 良かったのか悪かったのかは、きっと永遠に分からないのかもしれない。

ただ一つ言えることは、諦めずに子供たちを育ててよかった、という事。
信じるという事はつまり愛するという事で、その人のことを本当に愛していなければ、きっと人を信じるということは、不可能なのだろう。 そしてその愛は、必ずいつか、人を成長させてくれるのだと、今でも僕は信じています。



相変わらず、優・良・可で言ったら可の下のような子供たちで、決してこの先もドラマチックでワンダフルな結末なんて無いのだろう。
でも、そんなことはどうだっていい。


彼から送られてきたLINEを読んで、僕はほんの少しだけ報われた気がして、満足したんだ。






最後までお読みいただきありがとうございました。 僕達家族3人の10年間に及ぶ父子家庭生活の記録「父子家庭パパが所持金2万円からたった一人で子供2人を育てた10年間だったけど、これで良かったのか今でも分からずに文字にした全記録を、世に問いたい」 も、あわせてお読みいただけたら幸いです。


平成30年2月吉日。 明日のタケシ著

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