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発達障害でパーソナリティ障害で性同一性障害で偏差値45の喪女が偏差値60の大学に合格してチャイルドカウンセラーになった話

Image by Olia Gozha

生い立ち

私は母乳で育っていない。

母が私が生まれてすぐ病気になったからだ。

私はずっと寝かされていたので、頭蓋骨が変形している。

だから、丸刈りにするととても変だ。

そして、母から抱きしめられたという感覚を知らない。

母は私を抱き締めない。

決して体のスキンシップをしない人だった。


初めて嘘をつかれた日

私の母は、パーソナリティ障害といって、非常に精神が未熟だ。

確かに「パーソナリティ障害は治すものではない」と言うが、かといって全員が「治る」ものではない事を私は知っている。

母は宗教に傾倒していて、幼少期からその布教活動に熱心で、私を置いていった。

まだ言葉も喋れないほど幼い時も。

「すぐ帰って来るからね」と言われ、待ち続け、何時間も帰って来ない日が何年も続いた。

私はこの経験から、「嘘をつくこと」を体で学習した。


祖母の死

私が初めて「死」を感じたのは、幼稚園の時だった。

祖母が胃ガンで死んだ。

葬儀は自宅で行った(二世帯住宅だったから)。

祖母の死体は、なぜか棺に入れられずにしばらく床(に敷かれた布)の上に置かれていた。

両親は葬儀の準備で忙しく、私のことなど構っていられなかった。

私はずっと祖母を見ていた。

「死んだら動かなくなる」ということを知った。

「死んだら、鼻や耳にティッシュをつめる」ということも知った。

「古畑任三郎に出てくる死体よりずっと、『死んで』る」と思った。

悲しかったが、怖いと感じることはなかった。

「死んだら動かなくなるのだ」と言うことだけが、はっきり記憶に残った。

私の作品では、「死」がかなり大きなウエイトを占めることが多い。

特に、「死んだらいなくなる」のではなく、「死んだら動かなくなる」というニュアンスが多い。

そして、その動かない「死体」をめぐって、物語が進行するスタンスが多い。


父のハラスメント

私の父は発達障害で、他人への気配りができない。

だから、誰にでもハラスメントをする。

「人を怒らせる天才」と言ったところだ。

幼い頃からそんな状況下で育てられるのは大変苦しい。

いつしか私も、人の悪い点ばかりを見つける生き方をするようになっていた。

そして、どんな時も父に、そして世間にいじめられることを想定して行動する癖がついていった。

「人は揚げ足を取るもの」という定義が出来上がってしまっているのである。

だから私には、他人に優しい言葉を掛けるという発想がない。

そんなことを、誰もしてくれなかったから。


種村有菜

種村有菜作品をよく読んでいた。

イラスト集まで欲しがるほど好きだった。

今、改めて思えば種村有菜が先か私の性格形成が先か分からないが、種村作品と自分は似ていると感じる。

それとも、偶然、似ている所があったのかもしれない。


嘘ばかりの毎日

国立大学の附属小学校に入学した。

もちろんだが、私が行きたいと言ったわけじゃない。

あとから問いただしても、父は「母さんが行かせたがってた」と言うし、母は「お父さんが行かせたがってた」と言うから責任は闇の中のままだ。

私はおかげで嘘つきの子供に育っていた。

どんな些細なことでも嘘をつく母親に育てられたのだ。

あの頃は嘘をつくことは、人間の生きる知恵くらいにしか思っていなかった。

嘘が当然だと思っていた。

母がパーソナリティ障害であること、父が発達障害であること、一人っ子の箱入りなこと、溺愛(支配)されていること、全てが「恥ずかしい」ことだった。

家の大きさや家族構成、自分や家族の性格や考えいること、住んている場所、全て嘘をついた。

このときから私は少しずつ、創作の練習をしていたと言うことになる。

嘘を指摘されないように、強固な嘘をさもあるように言わなければならなかった。

もしかしたら、嘘は全てバレていたかも知れない。

それでも、私はバレてないと思い、「別人」を演じていた。


漫画家になる

それでも本心を伝えたいという欲求は持っていた。

伝えたいけど、いじめられるかもしれない。

それに、犯罪行為もしたかった。

他人を傷つけたかった。

私は度胸がないから、クラスのみんなのように意思をハッキリ示したり、他人を傷つけたりできない子供だった。

時に私怨のために、時に正義のために、他人を傷つけられたらどんなにいいだろうと、心の中でひそかに思っていた。

そんな時、ONEPIECEをテレビで観て、その自由さに憧れた。

僕もあんな風にのびのびと仕事がしたい

口で言えなくても、紙の上でなら真実が言えるかも

嘘と虚構の中に、本音を織り交ぜて伝えたい。

そして誰かに認められたい。

それから、僕のように学校に慣れない子供の時間潰しを作りたいとも考えた。

実際はこの時はまだ、ゲームクリエーターと迷っていた。

だが、本当は漫画家になりたかった


それにしても、嘘まみれの生活は疲れる。

一言たりとも気が抜けない。

恥をかくのが怖い私は、勉強のゆるい私立中学に進学した。絵を描く時間を確保するためだ。

あの時、私はてっきり公立中学に進むつもりだったのに、附属中に進学しない意思を伝えた途端、母が受験準備をし始めた。

よく考えれば無理にでも「公立でいい」と画を通せばよかったのかもしれない。

でも、「せっかくお金かけて(設備の)いい学校に入れてくれるんだから」と、貧乏性みたいなものを発動させてしまった。

思えば母は、なにかを勘違いしていたかもしれない。

私が、附属中学に進まない理由を、でっち上げたからだ。

「漫画家になるために、絵を描く時間が多いゆるい学校に行きたい」と素直に言えればいいのだが、そんな事を言ったら、

「は? 漫画家なんて食べていける訳ないでしょ! せっかく受かったんだから通い続けなさい! 絶対認めません! キーーッ!!!」

などとヒステリーを起こして、また茶碗や包丁が飛んで来るとも限らなかったので、「いじめが辛いからやめる」と泣きながら、しおらしく言った。

「いじめ」という言葉は便利だ。これさえ言えば、みんな同情してくれる。細かい内容なんか、「無理に言わなくていいんだよ」とかいって聞かないでおいてくれるから、ディテールを考える手間もはぶける。単語だけ、チョイチョイ嗚咽交じりに出しとけばいいのだ。

私は着々とサイコパスへの道を歩んでいた。そのおかげで不必要な誤解が生じ、「この子は公立に行ったらまたいじめられるかもしれない」と母に思わせたのかもしれない。実際、私はいじめる側だったが。


カルチャーショック

私は国立の附属小学校から、私立の中学校へ進学した。ろくに受験勉強もしていないので、とにかく学力の低い所にした。

偏差値は67から45へ。

小学校の雰囲気しか知らない私は、やはり驚いた。

「えっここ動物園?

無意味な暴力、キャッチボールになっていない会話、奇声、下品な笑い声。

「これが現実か」と思ったのだ。

今まで自分はたしかに「いい学校に通っている」と言われ続けてきた。

しかしここまで、同じ年齢で違うとは。

今頃彼らは元寇や政治について侃々諤々と議論しているのに違いないのに、私は動物園で生殖行動の話ばかりすることに…

正直、「失敗した」と思った。

もしかしたら公立中学の方が、いい友達ができたかも知れない。

私は自分がバカといじめられていたことも棚に上げて、全力で彼らをバカにした。

そして、「発信者」「先生(漫画家)」になるために、全力で勉強した。

勉強は不得意だったのに、無理矢理漫画に落とし込んで勉強した。今考えればどこまても歪んでいた。

絵なんか描いてる場合じゃない、と思った(もちろん、描いたが)。

そして、嘘つき病は、ますます悪化した。

自分の得にならないものは切り捨てた。

漫画家として食べていくために必要なこと以外は、無視したし、自分に有利なものは、カマトトぶりながらとことん利用した。友達の創作はファンを装い見せてもらい、平気で盗作した(だってキミは趣味で書いてるんだから著作権なんか持ってても使わないよな?)

当然だが、「恋愛」ができなかった。

上から下まで嘘なのだ、他人に好かれる隙もなかった。そして私は彼らのことをDQNだと思っていたので、ほとんど相手にしなかった。本当は、無垢で無知で(金銭的環境に)恵まれている彼らを妬んでいただけだが。だが漫画のネタのために、彼らの純粋で無垢な心を弄んだことはあった(嘘で人間関係をかきみだすのが好きだった)。

他人にも自分にも、嘘まみれだった。

それでも数人の、「仲間」と呼べる(と当時は一方的に思っていただけで、向こうは僕に無理して付き合っていただけだったのだが)人間はいた。

大人になったら、彼らとシェアハウスをしながら、CLAMPみたいな作家になるのが夢だった。

私は、発達障害だから、きっと一人では漫画家として働けない(独り善がりな作品になる)だろう、という予想は、ぼんやりついていた。

だが結局、他人のことを考えるのは面倒だった。

お互いにwin-winの関係になれる仲間を見つけるのは、難しかった。


柔道部に入る

中学校は柔道部に入った。

漫画家になるためには体力が必要だと思ったからだ。

あとは、柔道というといかにも男性的だから、「自分は男だ」というステータス(レッテル)の意味もあった。

しかし受け身をしそこねて鎖骨を骨折してしまい、母が激怒。

辞めたくなかったが、画塾に通わせてもらうことと引き換えに、私は辞めることにした。

今考えれば、やはりここでももう少し反抗すれば良かったと思っている。

折角楽しくなってきたところだったのに。

だがこればかりは、何とも分からない。もっとひどい骨折をしたかもしれないし。

結局体力は、あまり身に付かなかった。

一般女性に比べればあるかも知れないが、週刊漫画家レベルには足りないだろう。

ランニングくらいは続けるべきだったのだが、失敗した。


父が死んだ日

高校生のある日、直感で、「あ、父さんが死んだ」と思った。

もちろん泣いた。

実際に死んだ訳ではない。ある日プツンと、父親に対して持っていた尊敬や、追いかける気持ちのようなものが消えたのだ。

あれがいわゆる「自立」だったのかな? と思う。

あれ以来私の中で父はずっと死んでいる。


大学へ

進路選択を迫られた時、「漫画家になりたい」という夢をどうするか悩んだ。

これまた両親が「大学には絶対行きなさい」と言っていたし、ここでも私は貧乏性を出して「漫画に使えるネタが大学にあるかもしれない(実際は、少年漫画というものは14歳程度の知識で書くのが基本なので、使おうにも使えないものばかりだった!)」と思ったので進学することにした。

もし両親が私の自由にさせてくれていたら、私は専門学校に進んでいたと思う。漫画の、ではなく、マスコミ関係、だと思う。ネタ集めに事欠かないと思ったからだ。そうして専門学校に行っておけば、漫画家としてデビューするまで仕事をすればいいのだ。安定した生活である。一応、そんなビジョンを持ってはいた。大学を卒業できないかもしれない、とは思っていなかった。

けど、お分かりのように実家はもうウンザリだった。

何かにつけ夢の邪魔をするし、ヒステリーは起こすし、誰も私の「気持ち」に寄り添ってはくれなかった。

絵だけは、自慰のように何百枚も描いていた。

だから、「第一志望に合格したら、漫画家になろう」と思った。「落ちたら、普通に卒業して就職して、同人活動をしよう」と思った。

偏差値は58だった。

結果は合格だった。

ちなみに第二志望の偏差値は60で、そちらも受かった。

もっと高い大学は受験していないから分からないが、もっと上を目指しても良かったと思った。

少し、不完全燃焼だった。

だが、行きたい大学だったから、別に良かったのかもしれない。

私がもたもたしている間に、親が住む場所を契約した

「また、親が勝手にやって」と思った。だけど、

親に縛られるのもこれで最後だ」と思い、我慢した。

もう二度と、実家に戻るつもりはなかった


幸せと転落

大学に進学して、私は狂ったように漫画を描いた。

愚直に毎日漫画を描き、漫画の勉強をした。

父に強制されてい数学と物理の教科書は捨て、受験でやらなかった世界史や古文や日本史の勉強に励んだ。

どうしてもプロになるつもりだった。

具体的な努力内容は企業秘密だ。

ファンタジーや現代ものに使えそうな授業だけを選り好んで受けた。卒業する努力をする気は微塵もなかった

そんな事より、卒業するまでにデビューしないと、またあの家に戻されてしまう。

それは嫌だった。

老人も、筋肉も、無機物も、外国人の顔もみるみる上達した。

楽しかったが、食事を怠っていたので体調を崩した。

自律神経失調症・副腎疲労症候群・子宮筋腫・月経困難症・パニック障害・統合失調症になった。


「発達障害」と言われた日

とにかく子宮と生理が邪魔だった。

生理痛は苦しいし、ADHDだから、生理中は生理に気を取られてほかの事がままならない状況が続いた。

高橋留美子のような人もいるが、私は子宮があったら漫画家なんて無理だと思っていた。

自分の世話も思うようにできないのに、子供なんか育てられるわけがないから、子宮なんか要らないと思っていた。

それに、長い長い嘘と創作まみれの生活で、自分の性別も分からなくなっていた。

かといってまるまる異性になる必要も、戸籍を変えたいという思いも、結婚も考えていなかったが。

だが勝手に、「男になれば、友達ができるんじゃないかな?」と思っていた。

更年期と、漫画家として油の乗った時期は重なっている。子供も生まないのにそんな辛い思いをするくらいなら、いっそ卵巣も取って、男性ホルモンを投与して、デビュー前に体調を整えよう等とも考えていた。

そのために、小学生の頃から貯金を始め、高校三年の時点で70万円を貯めていた。今考えれば愚かだが、学校で乞食(時にカツアゲ)などしていた。それでも、1日300円程度で、70万円貯まるものかと、感動したものだ。

自分が嘘つきなことはまだ自覚していなかった。

だから精神科を受診した。

一抹の不安もあった。

「『性同一性障害じゃない』って言われたらどうしよう?」と。

不安は的中した。

病名は、「発達障害」だった。

(※その時初めて「発達障害」という言葉を知った。それまで、発達障害とは知的障害のことだとばかり思っていた。)

だから、自分が発達「障害」だとは微塵も思っていなかった。

「功利主義的(ここでは「金にがめつい」的な意味です)」だとは思っていたが、全て「性格」の問題だと思っていた。

結局、性同一性障害の診断書は下りなかった。

親には一言も、何も言わなかった。全て一人で解決するつもりだから。何も邪魔されたくないから。

そんなことしてまで漫画家になる必要ないだろ」と言われるのが関の山だから。

そんな言葉は、絶対に聞きたくなかった。

僕がどれだけ漫画のために心血を注いできたかも知らないで、軽はずみにそんな事を言われるのが一番許せなかった。

誰も分かってくれるとは思えなかった。

誰も僕の夢について来れるとも思わなかった。

病気のせいでプロデビューも遠ざかっていた。自律神経失調症のせいで、ペンすらまともに持てなかった。

しかも自分の長年書きたかった作品がレーティングに引っかかり、少年誌で表現できないことを今更ながらに知った。

子供に届けなきゃ、意味がない。

自分の書きたいものを曲げたら、意味がない?

長年の夢も破れた。

精華大や京都芸大で、自分と同い年で遥かに色遣いの上手い人を何人も見た。

デッサンは努力かもしれない。

けど、色遣いはきっと、一生かかっても上手くならないのではないかという気持ちになった。

僕が「上手いな」と思った絵が、他人には「『下手』に見える」ことも知った。

絵画実習で先生の言う自分の問題点が、理解できなかった

美術館でどんな絵を見ても、心が動かなかった。

もしかして僕には、絵を描くのに必要な『審美眼』のようなものが無いんじゃないか?

と思えてきた。

手が、動かなくなった。

自分には才能が、普通の人よりもないんじゃないか?

そう思ったら、絵が描けなくなった。

全てが上手くいかない。

絶望に打ちひしがれて何もできずにいる間に、気付くと親が退学の手続きを終わらせていた

あんなに自立したかったのに、結局また親の手に引き戻されてしまった。

働き口もなく、私は実家に戻った。

性同一性障害で、パーソナリティ障害で、発達障害で、さながら三重苦だった。

自信ゲージは、ゼロだった。


埋没するのは嫌だ!

堰を切ったように「怠惰」が溢れ、何も手につかなくなった。

自分の信じてきたもの全てが否定されていた。

今まで全力で頑張ってきた「目標」は、全て自分のつくり上げた虚構の世界にしか存在しないような気がした。いや、そうだと気付いた。

まるでサンタクロースがいないと知った時のように、絶望した。

僕の全力は全て、空回りで、滑稽な一人相撲だったんだ。

自分の価値観を信じられなくなった。何を信じたらいいか分からなくなった。

そして、20年分の「休憩」を取り返すかのように、だらけた。

抑えても抑え切れない厭世感が、他人に八つ当たりさせた。

方向性のベクトルをぶらぶらさせながら、ニート生活が7年ほど続いた。

高校時代や小学校時代の同窓生からは、完全に「いかれた人」と思われた。

ほぼ全員に着信拒否された。

今まで「仲間」だと思っていた人達は皆社会人となり、創作を卒業した。私は「なんでそんな拘り続けられるの?」みたいな白い目で見られ続けることになった。

こだわるから夢が叶うんじゃない。

発達障害だから夢が叶うんだ

夢が叶うのがいいことなんじゃない。

夢しか叶えられないんだ

と分かった。

シェアハウスの夢は破れた。

副腎疲労症候群は随分落ち着いた。

ふるえていた手も少しずつ回復し、ペンも持てるようになった。

今まで、旧作や名作や辞典ばかり無理して読んできたけど、もっと自分の「好き嫌い」で本を読むようにした。

「好き」なものを買うのは、生まれて初めてだった。

初めて、自分に嘘をつくのをやめた。

「もしかして、僕は、嘘つきだった?」

と、初めて自分の感情に気付いた。

「普通」を追い求めるのも「特殊」を追い求めるのもやめた。

「自分」を追い求めなきゃだめなんだと思った。

今までずっと「受け入れられたい」と思ってきた。

けど、僕は僕以外のものにはなれないし、

そのせいで誰かを傷つけたりすることがあっても、仕方ないんだと思うようになった。


僕は医者じゃない

「漫画家は心の医者」だと思っていた。

辛い時に慰めてくれるようなものだと思ってた。

子供達が憧れるものでなければならないと思ってた。

でも、それは「絶対」じゃないんだって思った。

偶然なんだ。

読者全員と目を合わせて書くことはできない。

誰か一人に絞らないとだめなんだ。

だから漫画家は心の医者じゃない。

心の伴侶だと思う。

そう思ったら、またペンが走るようになった。

だから、医者になろう、と思った。


チャイルドカウンセラーを目指して

教師になりたいと思ったこともあった。

カウンセリングに不満を持ったこともあった。

進路指導の先生の前で、自分の望みが言えずに立ち尽くしたこともあった。

今更、教師や医師にはなれない。

でも、昔からの夢である、「子供を癒したい」という思いは変わらなかった。

漫画家は子供を傷つけてしまうこともある仕事だと分かった。

それは、読者と作家が離れているからだ。

もっと、数人の子供に絞って、働きたいと思った。

まずはゲーム会社に就職活動をしたが、悉く落ちた。

ストーリーに好感が持てなくても、ゲーム自体が嫌い子供はいないだろうと思ったから。

それに、実際、ゲーム会社で働ける自信もなかった。

きっとまた人間関係でいじめられて、辞めてしまうだろうと思った。

だから子供と一対一になれる、チャイルドカウンセラーになろうと思った。

大人と関わらなくていいのが魅力だった。

だが、そんなに重大な仕事が自分にできるのか不安だった。

私自身が、人と目を見て喋れないのに、カウンセリングなどできるのだろうか?

頭の回転も遅いし、他人の気持ちを思いやるのも苦手だし、そもそも昔私は頭の悪い子供たちのことをDQNなどと言って馬鹿にしていたではないか? いくら隠しても、そんな思いを子供たちが感じてしまったら、余計傷つけるのではないか?

だけど、もうほかに、できる仕事がなかった。

今まで培った漫画やゲームの知識や発想力をフルに使ったチャイルドカウンセラーになりたいと思った。


トキワ荘で

とは言えお金も底を尽きていたので、まずは漫画家として働こうと思った。

現代にもトキワ荘があることは、学生時代に新聞で見て知っていた。

ずっと、作家同士のシェアハウスに憧れていたし、インターネットで仲間を募るのには、まだ抵抗があった。

私自身、インターネットで嘘の経歴を並べ立ててヤンチャしていたことがあるので、どうしても信用できなかった。



子宮摘出

やはり仲間はできなかった、かな?

今まで、「一人一人は能力が足りなくても、力を合わせればいいものが作れる」と信じていた。

今の日本はクオリティ至上主義だ。テストは、100点に近いほうが褒められるに決まってる。

だけど、そんな考え方は独り善がりだと気が付いた。

「みんなバラバラで、デコボコだけど、それが個性なんだ」ということを教えていかなきゃいけないんだと思った。

いやいやクオリティだろ

そして僕は上に立てばいい

そしてデビューが決まった。


デビューしてから





ずっと一人で生きてきた

そして僕は今、「漫画家」として生きている。

色々悩んだけど、風当たりも強いけど、でも僕は「ずっと一人で生きてきた」から大丈夫。

悪い意味じゃないよ。

両親も友達も、誰も僕に寄り添ったりしてこなかった。

僕も、誰にも寄り添わなかった。

僕の人生は全部、僕のために使ってきた。

それだけが僕の強みだから。

よく、「君は一人じゃない」みたいな事言って励ます人がいるけど、僕ならこう言いたい。

一人でもいいんだよ」って。

無理にほかに合わせることないんだよって。

もちろんいじめられるよね。

いじめられてもいいんだよ」って言いたい。

もちろん、いじめられないように生きなくてもいいっていう意味です。

これから

夢なんて言い出せばきりがない。

辛い子供たちが少しでも癒えるように生きたい。

そのためにできる事は、漫画を描くだけじゃないでしょ?

漫画を一作描いたって、救えるのは1人くらいだ。

もっともっとたくさんの子供を癒すにはどうしたらいいんだろう。

漫画じゃだめなのかもしれない。

チャイルドカウンセラーになることかもしれない。

アニメを作ることかもしれない。

保育園を作ることかもしれない。

児童館を作ることかもしれない。

福祉制度を作ることかもしれない。

学校を作ることかもしれない。

テーマパークを作ることかもしれない。

夢は言い出したらきりがない。

僕の夢は、辛い子供を癒すこと。

そのためにできる事を、していくつもりだ。



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