あ
血の繋がりが大事かどうかなんて。
私が生まれてすぐ両親は離婚し、父を知らないまま6歳になった私は母から捨てられ、初めて会う実の父に引き取られるも半年で児童養護施設に入った。
施設の暮らしは父との暮らしを思えば、とても楽しかったし、清潔でいつも傍に誰かが居て寂しいと思う事などなかった。
小学3年から中学3年になるまでの施設での暮らしはたくさんの事があった。
脱走もしたし、反抗もした。とてもいい子とは言えないような子供だったかもしれない。
でも私は当時、施設にいる事を恥じた事もないし、とても楽しんでいたと思う。
そんな日々の中で、唐突に中学卒業後から父の元へ帰る話が飛び出した。
話はどんどん進み、卒業式の日に父が迎えに来る事が決定した。
ほんの少しドキドキしていた。
外の世界、それは6年間施設で暮らしている中で通学路しか知らない私にとってはある意味冒険の始まりのようで胸がドキドキしていた。
けれど思い描いていたものと現実は全然違った。
父と思えない人との暮らしは気持ち悪さを何度も感じた。
何をするにも自分でやらなければいけない。
普通の事がうまく出来ないことが悔しくて。
家にいると息が詰まりそうで。
だけど学校以外で外に出ることもあまり許してくれなくて。
入学から1か月、父との生活がスタートして2ヶ月。
私は「なんとなく」と言う気持ちで家から飛び出した。
逃げられるとは思っていなかった。
結局施設で脱走した時のように、捕まり叱られ連れ戻される。と思っていた。
しかし、違った。
2日経っても、3日経っても私は自由だった。
2ヶ月後、警察に補導され迎えにきたのは8年ぶりの母だった。
母は再婚して娘がいた。
娘と再婚相手を見た時にここは自分の居場所ではないと感じ次の日すぐに母の元からも逃げ出した。
しかしその直後に人生を変えるような恩人と出会い憎しみでも諦めでもない。ただどうでもいい。という気持ちが少しずつ変化していった。
少しずつ連絡を取るようになっていった。
妹の事も可愛いと素直に思っていた。
22歳の時、恩人の元を離れなければいけなくなり、私は自然と母たちの住む家の近くに部屋を借りる事にした。
恩人と離れる事が寂しかった。
けれどお姉ちゃんと親しんでなついてくれている妹の近くにいれば、寂しさも紛れるような気がしていた。母も再婚相手も近くに住む事を喜んでいた。
そして、引っ越してきて一人きりだけれど、一人きりではない。
そんな生活が始まった。
1か月に2回程度、会いにいく妹や母がいる。遠方には父と慕う恩人もいる。
自分の問題としては仕事やお金など苦悩していた。しかし心は穏やかだった。
母たち親子には頼ることはなかった。
会いに行って、ご飯を食べて帰るだけ。ただそれだけ。
でも回を重ねるごとにわだかまりはなくなっていたし、仲も良かった。
恩人が亡くなったあと、寂しさから母たち親子の元へ遊びに行く頻度が増えた。
甘える事もあり、赤ちゃん返りしたかのように母にベッタリで離れない事もあった。
そして、打ち解けてきた母と私の間には遠慮がなくなった。
お金を貸した事もあるし、妹の学校行事にも行けるだけ行った。
誕生日にはプレゼントを渡し、「私達にもしもの事があったら・・・」と言う母と再婚相手に応えるように妹の事は一番に考えてきた。
昔を振り返り、母がボソリと「苦労かけたね」と言ってくれた時には全てを水に流せる気がした。
そして現在、今の家に住み5年が経ち、私は少し広めの部屋に引っ越しを決めた。
妹が数年後に高校を卒業し、行き場がなくても一瞬の間でも転がり込んでもいいように選んだ部屋だった。
何より妹が卒業後はお姉ちゃんと住みたいと言ってくれていた事も引っ越す決め手になった。
母に話すと嬉しそうに喜んでいた。ありがとうと。
そして内覧を始めて3ヶ月、やっと見つけた部屋に申し込みをしようとしたら
「保証人にはちょっと・・・なれない」
母たち夫婦に言われた。
正直ショックだったけれど、仕方ないのかなと納得してる自分もいた。
すぐに別の方法を探した。
そしてなんとか私一人で借りれるようになって申し込みをすると不動産から電話
「あの、審査の結果許可降りるんですけど1つ問題があってお母様、緊急連絡先になりたくないと・・・」
まさか保証会社も緊急連絡先を断られると思っていなかったようで、「亡くなったりした時や連絡が取れない時に電話するようなもので、金銭は関係ありませんよ?」とわざわざ説明までしてくれたようだけど母の答えは同じだった。
もう自分が泣いてるのかすら分からない状態だった。
会社だという事も忘れて、ただ茫然と立ち尽くしていた。
上司から「どうした!?」と声を掛けられてなんだかとても苦しくて子供のように声を出して泣いた。
今までの5年間はなんだったんだろう
私はお金をいつでも引き出せるATMみたいなもの?
妹は娘で私は何?
保証人も簡単に友人がなるものじゃない事くらい分かっている。
それでも「あんたなら」「あなたなら」「お前なら」と言ってくれる人達が少なからず居てくれてほんの少し気持ちが軽くなった。
母は私の母である事を20年前に放棄した。
分かっていたはずなのにそれでもどこか母でいて欲しいと思う気持ちがあったから。
これまで感じてきた違和感を見てみぬフリしていた。
お母さん。もう二度と「おかあさん」と呼ぶ事はないでしょう
7歳の時、あなたに捨てられそのワケも分からないまま生きてきた。
理由など何でもよかった。また会えて、母と呼べて嬉しかった。
あなたに生死の連絡もいらないと言われ、それでも妹のためにとこれから先言われると思うと私には耐えられそうにありません。
今度は私があなたを捨てようと思う。